うわあ、これはビターだあ。スウィート・ビターと言ってもいいんだが、スウィートというには、中学のころの勘違い所作(やっぱり、もうそれは勘弁だなあ)を生々しく思い出し、ぼくは戸惑った。09年ブラジル/フランス映画、監督のエズミール・フィーリョはまだ20代のブラジル人で、短編映画に実績を持つ人のよう。

 舞台は、ブラジル南部のドイツ人移民が集まったデウトニアという村、日本からブラジルに大志を持って渡った人がいるように、ドイツから渡った人がいても不思議はないだろう。映画で描かれるその村祭は、完全にドイツのりのそれだ。原作、そして監督との共同脚本は、実際にテウトニア生まれて育ったイズマエル・カネッペレという79年生まれの青年。そんな彼が書いた原作が持つ“思春期の光と陰”のありようにフィーリョ監督が共感し、実際にその村に数ヶ月住んで構想を練り、また住民も映画に出ているという。

 主人公は、そ子に住むドイツの血を引く少年だ。そして、話の大きな鍵になるのが、ボブ・ディランとインターネット。彼は<タンブリン・マン>というハンドル・ネーム(←“名前のない少年”)で、チャットしたりもする。「ミスター・タンブリン・マン」は65年作『ブレイキング・イット・オール・バック・ホーム』収録のディラン曲(ここでも、エンドロールなどで、それは用いられる)で、ザ・バーズのカヴァーでも知られる有名曲。そう、彼にとって、ボブ・ディランは平穏で退屈な田舎の日常と外の世界を繋ぐ最たる引き金であり、インターネットはそれを受け取ることを可能にする簡便な手段なのだ。さらに、未知のものの暗喩的な存在として、主人公にとってはディランなるものを感じさせる心中しそこねた近所のお兄さん(役者もしている、原作者のカネッペレが演じる)や、その彼とつき合っていたものの自分だけ死んでしまった女性も重要なコマとして出てくる。その女性は写真や映像を撮っていて、自分が映った作品をサイト上に残していて、少年はそれを見つけて、よくPC で彼女(“脚のない少女“)のことを見ていた。

 ちなみに、その女性の名はジングル・ジャングル。それもディランの「ミスター・タンブリン・マン」のなかの一節に出てくるものであり、映画冒頭で少し流されるインターネット映像には、ディランの65年英国ツアーを扱った名高いドキュメンタリー映画「ドント・ルック・バック」(D.A.ペネベイカー監督、1967年)のこれまた有名なオープニング(「サブタニアン・ホームシック・ブルース」に合わせて、ディランが歌詞断片カードを次々にミュージック・ヴィデオ風に投げ捨てていく、というもの。その後方には、ビート詩人のアレン・ギンズバーグも映っていましたね)をもじったようなものが使われる。

 ようは、家族や住んでいる場所に親しみや帰属意識を歳柄持てない、そして外の未知の世界や文化や事象に少し恐怖感をいだきつつ憧れ、一方では死や異性に対する目覚めもアり……そういう迷いまくりで妄想ありまくりの思春期の襞を、ディランやインターネットという項目を効果的に用いて描こうとした青春映画なのだ。

 映像感覚は、時に詩的で散文的。お洒落という言い方も、少しはできるか。一般的に想起するブラジル的な風景は一切映し出されず、ときに効果的に使われる音楽(http://soundcloud.com/nelojohann なかなか良い)の歌詞もポルトガル語ではなく英語によるもの。その音響的な部分も少し持つ今様フォーキーな音楽は27歳になるネロ・ヨハンという卓録系クリエイターが担当しているそう。とかなんとか、ステレオタイプなブラジルっぽさを直接的に通らない本作は、新しい感性を持つブラジル映画という評もあるようだ。が、なんにせよ、そこから鮮やかに立ち上がるのは、思春期特有の、眩しくも息苦しい形而上……。カエターノ・ヴェローゾ(2005年5月23日)は本映画を評価しているようだが、それには納得か。音楽的にはいまやザ・ビートルズと並ぶような偉業を成し遂げている彼だが、スタンス的には永遠の思春期にあると言えるだろうから。

 2011年1月下旬より、シアターイメージフォーラムほかで公開。