LAのほんのりソウル味をにじませたシンガー・ソングライター表現で、所謂AOR愛好者から高い評価を受ける人物。すごい、久しぶりの来日? まあ、別に悪い印象はないものの、ぼくのお目当てはキーボード奏者のキャット・グレイ(2000年2月14日)でしたが。彼は沼澤尚(2010年1月12日,他)がLA居住時にカール・ペラッゾとともに組んでいたファンク・ポップ・ユニットである13キャッツの引率者だった好タレント(カールとキャットの大々的な業界スタートは、シーラ・Eのバンド。ペイズリー・パーク発の彼女のアルバムには化粧している彼らの姿を認めることができる)。そんなに印象的な使われ方はされていなかったが、ときに少し13キャッツを聞いている気分になったときも。偉大なり、手癖。彼は90年代に全米2位曲も持つジェーンチャイルドと結婚したはずだが、いまだ続いているのだろうか。ちなみに、他の同行者はイエロージェケッツ(2009年3月23日)のメンバーでもあるベースのジミー・ハスリップ(2010年7月9日、他)と名ロック・セッション・ドラマーのゲイリー・マラバー。ドヒニーの73年デビュー作でも叩いていたマラバーはそのころヴァン・モリソン・バンドもやっていて、『ムーンダンス』や『ティペロ・ハニー』に名前が見られる。

 黒いTシャツにシーンズといった感じで、ステージ上の4人は実にチープな格好をしている。少し、なんだかな。ドヒニーはかつて、LESVIS a BOISという日本の服飾ブランドの宣伝キャラクターをしていたことがあった。それから、みんな頭髪がフサフサしているのには印象が残る。外国人はハゲが少なくないので、50代超えの人が揃ったバンドでそれは珍しい。生ギターと電気ギターを曲によって交換しながら歌うドヒニーの歌は不安定なときも。もともと優男風情のほんわかヴォーカルで売ってきた人だけに違和感は大きくはないが、近年はそんなに歌っていないのかもしれない。でも、この実力者が揃うバンドを組むのだから人望と力あるんだなー。アンコールはチャカ・カーンが81年にヒットさせた「ファッチャ・ゴナ・ドゥ・フォー・ミー」、これドヒニーとへイミッシュ・スチュアート(2006年3月8日)の共作曲ですね。客は、男の比率が高かった(終演後、サインをもらう列がずらり)。六本木・ビルボードライブ東京、セカンド・ショウ。
 彼らを扱った映画(2010年6月30日)も大好評、どんどん話題を呼んでいるスタッフ・ベンダ・ビリリがただ今ツアー中。東京公演まで待てなくなり(?)、いわき公演に行っちゃう。いわき芸術交流館アリオス・中劇場。この日の公演は17時からで、約1時間40分の公演時間。上野への特急の最終が20時20分(22時36分着。いわき駅と会場は徒歩15分)、なんと公演後に東京に戻る知人がいた。そうか、十分に日帰りできるんだな。

 判っていたつもりだったが、びっくりした。音楽に在する言葉を超えたものに接して、頭が真っ白になり、気持ちが沸騰した。それは、4曲目にやったもっともファンキーな(スラッピング調のベース演奏から始まる!)、後半はよりジェイムズ・ブラウン調になったりする「ジュ・テーム」のとき。ぼくは後ろのほうで最初から立って見ていたのだが、このファンキー曲の途中で、横のほうにいた車椅子の方が拍手しながら立ち上がったのを目撃してしまった。それに触れたとたん、ぼくは胸が一杯になって、グっと来てしまったんだよな。いやー、まいった。

 前に車椅子に乗った5人が位置し、後ろに健常者の3人。楽器はギター(ときに2本)、ベース、ドラム(本当に手作りといった感じ。曲中展開の変化は、ここから合図される場合が多い)、そして世界で一人だけ演奏する(?)サントゲ(一弦のハンド・メイドの楽器)。サウンド面での要を担うベース奏者以外は皆ヴォーカルを取り、曲によってはリードは代わり、ときに所謂ラップもかまされる。……んだが、おお。その肉声の絡みはより重厚かつ多彩になっているし、しっかりたリズム隊に支えられたサウンドがとにかく逞しくもぶっとい。「トンカラ」をはじめ曲は共通する物が多いが、09年までの姿を収めた映画(そして、クラムド発のアルバム)での姿が頭にあると、これは間違いなく驚く。うーぬ、数を重ねた欧州ツアーでどんどんサウンドは強化され、PAの用い方も巧みになり(コンソールを扱う白人くんは2度目の来日で、前回はコノノNo.1;2006年8月26日&27日、で来たそう)、今っぽい輝きや立ちをました表現を送り出すようになっているのは間違いない。アンプリファイドされたサントゲ音もよりパワーアップ、ときにテルミン化している? ホームレスだった彼らはみんな家を買えるようになったそうだが、それがいい方に働いている、という見解がとれる。

 そして、見え方というか、振る舞いもよりアトラクティヴ。思い思いの格好はそれぞれにカッコいいし(車椅子もそれぞれにデコレーションされている。それは、日本の各地のサポーターが各々つくったものだという)、イナセというか、まったくもっていい感じ。で、ステージを走り回り、ときに客席側に降りるサントゲのロジェは当然の事、車椅子の方々も巧みにそれを操り、動きまくる。わあ。それぞれがちゃんと見栄の切り方を知っていて、決まるというか。いや、心からの感情の出し方/他者への振る舞い方を本能として持っていて、それがくっきり受け手に伝わると書いたほうがいいか。

 それから、オーディエンスに大きくアピールしたのは中央メンバーの一人(テオ)の訴求力たっぷりの、大きな手振り。それ、まじにパラパラのごとし。おれ、すんごくパラパラ踊りのことを馬鹿にしましてましたが、今回印象が変わったかも。あ、盆踊り的なフリとも言えるかな。彼をまねて、踊る人多数。それにしても、あれはコンゴの伝統的な何かと結びついてのものか。昨年夏にパリで彼らの事を見た人が言うには、そのときはあそこまで明解な動きは見せていなかったという事だが。やっぱり、彼らは状況の好転とともに、どんどん変わってきているのだと思う。

 会場の前方横のほうにはお立ち台的なスペースがあって、そこでは高校生たちが大盛り上がりで踊りまくっていたこともあり、その両端から高揚のヴァイブは会場に広がって行き、もちろん最後の方は総立ちの体。ぼくの近くにいたご老人も中盤からこりゃたまらんという感じで立ち踊りまくり、かけ声もあげる。いいぞいいぞ。マニアックな音楽ファンだけでなく、初めて接したような人をも見事アゲアゲにする、その純なパワーは本当にすごい。観客のする手拍手はけっこうズレていたりもするのだが、いつもだったらイラっと来そうなそれも、この日はイエイと心から思っちゃう。そんなのビリリの前では、些細な問題。とにもかくにも、聞き手の鎧をといでいく様、ステージと客席側の一体感のあり様には、正の感情いがい持てません。←いやあ、音楽の捉え方が少し変わりそう? 暴言をはくなら、そのサウンドはポリリズムな感覚ももちろん持つから、ズレていてもなんか合ってくるか。それに彼らの雑草のような表現はそれを無理なく飲み込んじゃう。なんか、ライヴの美しい光景を目の当たりにしまくっているという気持ちを、反すうしまくり……。

 音楽の神から祝福されまくった公演だったのだと、痛感。あら、大げさ? 長丁場の日本ツアー、残りは6公演。日比谷野外大音楽度でのアフリカ勢が複数出る<ワールド・ビート>はいったいどうなることやら。メンバーも発する合い言葉は、スタッフ・ベンダ・ビリリ、トレ・トレ・フォール。それ一緒に連呼すると、超ほこらしげな気持ちになる。

 翌日、ベンダ・ビリリは車椅子の子供たちが通う地元の擁護学校(立派な建物だったなあ)に慰問。のぞかせて、いただく。全校生徒が100人ほど集まった体育館で、完全ノー・PAにて、彼らは2曲演奏。「ポリオ」と「ママ・アフリカ」だったけかな。ドラムのモンタナは片手に小さな鳴り物を持つ。かなり音が小さいためか、アンプラグドでもベースの音やサントゲの音は意外に聞こえる。おお、これはこれで貴重なパフォーマンスではあるなあ。とともに、改めて、PAを介しての彼らの起爆力も思い知らされる。生徒たちとの質疑応答ももちろんあり、こういうときリーダーのパパ・リッキーの返事は正しくも含蓄深し。さすが。そして生徒が数グループに分かれての記念写真もし、メンバーは低学年の子供たちをそれぞれ抱いたりもする。その写真が皆の宝物になりますように。その前には、生徒たちが作ったいろんなプレゼントがビリリの面々に贈られたりもした。

 改めて、裸に近いビリリの音に触れられて興味深さを思えるとともに、ハンディを背負った子供たちの元気な姿や、コンゴ勢との交流の様に触れ、いろいろな思いが身体の中で渦巻く。うん、いろいろ考えよう!

 ビリリの控え室になっていたのは、音楽室。交流が終わった後も、面々は嬉々として、そこにある楽器をいじる。音楽発生の原点。ギター、キーボード、電気パーカッション・パッドなど、それらを扱う様を、うれしそうに覗く子も。数年後、この日に受けた衝撃を根におき音楽の才を大きくアピールする人が出て来たなら。。。

 いろんな感慨を受け取ったあと、すぐに雨のなか東京に。気が弾んでいたためかパーキングにはよらず、常磐自動車道/首都高がすいていたためもあり、2時間で家に着く。そして、↑

マヌ・チャオ

2010年10月4日 音楽
 マヌ・チャオというと、畳を思い出す……。彼が率いていたマノ・ネグラ(ぼくは、フランスのフィッシュボーンなるものとして、愛好していました)の初来日のとき(まだ、80年代だったっけ?)取材したんだけど、その際、彼らは市ヶ谷界隈の修学旅行の学生が泊まる旅館に投宿していたのだ。取材場所となったのもそこで、小さな和室で和机はさんで、インタヴューをやった記憶がほんわかアリ。

 立派になりなさって。当時の跳ねっ返り心意気系担い手としてはもっとも健在、いやより一層の力を得て輝いている人と言えるか。バスクやガリシアの血を引くとも言われ、今はバルセロナに拠点を置き、スペイン語などで歌うなど用いる言葉もリベラルな感覚ととにもに広がった彼だが、来日は2002年のフジ・ロック以来(7月26日〜)。その項で書いてあるように、雑誌原稿との重なりを避けるために、彼のパフォーマンスについてはそこで触れていないが、思った以上にレゲエ/ダブ色を通ったサウンドのもと地に足をつけた濃い歌心を彼はまっすぐにオーディエンスに送りまくっていたよなあ。で、今回はあのときのようなバンド仕様ではなく、選抜メンバーによる、全3人による簡素編成によるもの。

 生ギターを弾きながら歌うチャオに加え、最初のほうは生ギターを持つギタリスト(ちょいフラメンコ的な奏法を見せたりも)と、ドラマー。途中からは、ギタリストが電気ギターに持ち替えた(ロック的に、少し通俗的な演奏になったという感想も持つ)がなんにせよ、片肺編成でも、なんら問題ないぢゃん。もう、バスドラ音も強力な豪腕ドラマーがきっちり叩くせいかベーシスト不在も気にならないし(ときにドラム音にはダブ的効果が施されたりも)、サウンドも無理なく雄弁。でもって、そこに、きっちりと聞き手に届くチャオの歌が乗るのだから、もう見ている端から醍醐味たっぷりで、オレは替えがきかないチャオならではの表現を真っ向から受けているという感激に包まれちゃう。

 チャオは随所で、マイクで心臓部を叩いたり(それは、心臓の鼓動を模した音を出す)、同様に頭をごんごん叩いたりして、気持ちの高揚や観客への感謝やショウにこめた強い気持ちを表す。そりゃ、音楽自体のパワーともども、見る者は鼓舞されます。客は一緒に歌ったりもし、すげー。まるで、日本の会場じゃないみたいだった。すぐに売り切れになったという公演、恵比寿・リキッドルーム。

 アンコールに2回(だよな?)に答え、会場は明るくなる。だが、熱心なファンは歌い続け……、そしたら5分後ぐらいに、オマエらの意気に応えなくてどうするといった感じで、3人は出てきてまた演奏。ああ、J・ガイルズ・バンド(大昔、アメリカのストーンズ、という言われ方もあり)のピーター・ウルフの真心熱血漢ぶりを思い出しちゃった。→彼らの70年代後期の新宿厚生年金会館のライヴのさい、ウルフは公演が終わった後、一人でのべ10回ぐらい出てきて(トレードマークが蛙飛びで、それもしました)、声援に応えた。最後は緞帳なども全て片され、素の舞台となっていたんだよなー。また、90年代に一度あったウルフの渋谷クアトロでの単独公演も熱かった!

 真実の男、マヌ・チャオ、ここにあり。

ベン・E・キング

2010年10月5日 音楽
 この晩は通受け極まりない個性派白人アクト公演もあったが、1938年生まれの大御所R&B歌手を見に行く。70歳越え、うぬ、そろそろちゃんと見ておいたほうがいいか、と。かたや、40歳前だし。六本木・ビルボードライブ東京。ファースト・ショウ。キングさん、最後に来たのはいつなんだろう?

 バンドは、二人の女性コーラス、ギター、ピアノ/キーボード、ベース、ドラム、サックス、トランペットという布陣。コーラスはアフリカ系のビッグ・ママ体型の比較的若いお嬢さんたち。演奏陣はアフリカ系の人はおらず、分厚い譜面を前にニコニコ弾いていた鍵盤奏者は日本人、もしくは東洋系の人(事前に名が出ていて人とは別のよう)。冒頭、2曲は延々バンドによる演奏。それには、ちょい嫌なキブンになった。高齢でそんなに歌えなくなっているからこそ、バックの演奏で水増ししているんではないか、と……。

 が、本人が出てくるや否や、それは杞憂であることを一発で感じる。何か、出てきた風情、客を見る余裕にしてショウマンシップに満ちた眼差しだけで、即、「おお本物、彼は間違いない」てなことを皮膚感覚で感じさせられちゃったもん。綺麗にスーツを来た彼は坊主頭になっていた(ハゲという感じはない)が、太ることもなく、元気そうだ。ショウはブルース系スタンダード「レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール」からはじまったが、実際ちゃんと歌える。それ、レイ・チャールズも歌っていたが、続くは彼の「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」。ここらあたり、伴奏は結構ジャジーだが、彼は90年代後期にジャズ・レーベルのハーフ・ノートからビッグ・バンド調伴奏がついたリーダー作を出していたから、無理はない。「ハレルヤ〜」はそこで歌ってもいましたね。

 彼は名コーラス・グループのザ・ドリフターズのリード・シンガーを勤め、60年以降はソロとして活動するようになっているが、「ラスト・ダンスは私に」とか「ディス・マジック・モーメント」とか「渚のボードウォーク」とか、同グループのヒット曲(彼が出て以降のものか)も披露。一方で、R&Bの広義の財産を愛でると言った感じで、あまり彼と繋がりを持たない有名曲を歌ったりも。実は、ぼくが一番高揚したのが、ウィルソン・ピケットで何より知られる「イン・ザ・ミッドナイトアワー」(これも、彼が出て以降のザ・ドリフターズは取り上げているが)。その弾む感覚を持つ歌は60年中期のネオンきらめくNYブロードウェイの華ある風景をすうっと見させるような誘いがあって、ぼくは震えた。本当、見に来て良かったァ……。途中からは少し喉に疲れが見られるようになった気もしたが、ちょっとした見栄の切り方や客あしらいの上手さはずっと維持されていて、感服。やっぱし、偉大なR&B/ブラック・ミュージックの得難いマナーを存分に感じてにんまり。もちろん、自身のヒット曲「スタンド・バイ・ミー」も歌う。で、(その曲を見目麗しくカヴァーした)ジョン・レノンの誕生日がもうすぐなんだなと不意に思い出した。

 まず、渋谷・デュオで、スウェードとは一線を画した大人路線をアコースティックな行き方で追求しているブレット・アンダーソンを見る。去年出た新作もそういうノリの作品で、前回のショウ(2008年12月9日)と同様に簡素なお膳立てによるものかと思っていたら、なんとギター、ベース、キーボード(女性)、ドラムというバンドを従えてのもの。ソロになってからの簡素な曲が新たにバンド音で開かれる。で、彼は中央に立ち、身をくねらしながら、グラマラスに歌う。近くスウェードの再結成ツアーをするはずの彼だが、なるほど堂にいっていますね。バンド音は良好、特にドラマーはとってもぼく好みの叩き手、アンダーソンは気取っていても確かな音楽観をきっちり持つよなとおおいに認識。次のアルバム用の曲も披露されていたようだが、すると次作はちゃんとバンド・サウンドを採用してのものになるのだろうか。なんか場末のレストランのウェイターのよう(黒色のシャツとスラックス)な、彼の格好はよう判らんかった。

 途中、バンドがひっこみ、前回の来日ショウを思いださせる、アンダーソンの電気ギターの弾き語りパートへ。その途中で、渋谷・クラブクアトロに移動、スペイン/バスク地方出身のダンス・ロック4人組のデロリアンを途中から見る。

 ベース/歌のお兄さんを中心に、二人のギター奏者(一人は鍵盤を扱うときも)、ドラマー。彼らはレイヴ以後の開放系ダンス調曲をヴォーカル付きで広げて行く。歌はみんな英語で歌われているはずだし、スペイン色はゼロ。おっちょこちょいなぼくはスペイン色をどこかに求めたくもなるが、スペインぽくないのは別に悪いことではない。だって、ぼくだって日本のロック・バンドやファンクの担い手に特別に日本的な何かを求めないはずだし。モノによっては日本人らしさをインターナショナル流儀にとけ込まさせていて感服する場合もあるが、それはあくまでうれしいオプションであるしなあ。ぼくが非英米の担い手に求めるのと同様、やはり英米の聞き手は日本のポップ・ミュージックの作り手に彼らの中にはない変な要素/日本人的な異物感を求めているんだろなー……とか、彼らのことを見ながら、いろんな事を考える。

 そして、南青山・ブルーノート東京で、アメル・ラリュー(2000年6月13日、2004年5月10日、2006年10月13日)をフィーチャーしたグルーヴ・セオリー(アルバムは約15年前に出した1枚だけ)を見る。うわ、さっきよりもっといろんな事を思った、ショウではあったな。

 サポート陣が1曲演奏したあと、プロデューサー役(PCとかいじっていたのかもしれないが、実演上は何をしていたのかは判らん)のブライス・ウィルソンとシンガーのラリューが出てくる。バンドは良質、キーボード(バッキング・ヴォーカル)、ベース、ドラムという布陣で、ドラマーだけが白人、キーボード奏者は可愛らしい女性。痩身のラリューはツナギを飾り気なく着ていたが、綺麗な人は何を着ても似合い、魅力的に見えるんだな。と思ったのもつかの間、ラリューが歌いだすと、なんか……。あれれ、こんなに素人ぽく歌う人だっけか。緊張している感じもなくはなかったが、過去の彼女のソロ公演は最初から違和感なく、思うまま私の流麗な喉をアピールしまくったはずなのに。声量も以前から見れば小さく、これはどうした事か。凝った節回しはラリューだと思わせるものだが、なんか違和感をおおいに覚える。

 が、中盤あたりから声が出るようになり、そうするとその奔放な歌い口も無理なく光ってきて、ラリューたるエクセレントさが聞き手にごんごんと向かってくる。と同時に、バンドの音も大きくなったのは間違いない。PAの操作はどのぐらい聞き味に影響しているのか。???? 途中からはオーイエー♥な、現代R&Bショウ。過去に受けた姿とこんなにも隔たりがある実演も珍しかったし、ショウの始まりと終わりでこんなにも魅力が異なるものに触れたのも初めての事のような。まだ初日なら判るけど、ぼくが見たのは4日目のセカンド・ショウ。他の日はどうだったんだろ。ライヴ・パフォーマンスの不可解さをこんなに感じた晩もそうはない。それとも、じわじわ盛り上げようとした、ブライス・ウィルソンの方策? まさか。

 まずは、横浜モーションブルーで、コペンハーゲン在住日本人ピアニスト、平林牧子の来日ライヴを見る。本欄初登場、ゆえにどういう人かしっかり書き留めたいのだが、仕事に遊びに忙しくてちゃんと書く時間も根性もない。ゆえに、毎日新聞に5月上旬に載った記事を転載しておく。




 米国に住む坂本龍一や上原ひろみをはじめ、クラシック以外でも、海外を拠点とする音楽家は現在すくなくない。そして、デンマークのコペンハーゲンにも一人、平林牧子は同地で活躍しているジャズ・ピアニストだ。
 それにしても、なぜコペンハーゲン。同地は古くから米国黒人ジャズマンが移り住んだ土地としても知られるわけだが。「それは、引っ越してから知りました。オトコについていったんですよ、アハハハ」と、返事は明るく屈託がない。「引っ越しの多い人生だったので、その後20年も住むとは思わなかったですが。でも、コペンハーゲンはコスモポリタンないい街ですよ」
 1965年、東京生まれ。ながら、父親の赴任により小学5年生から高校2年生までは香港に住んで英国式の教育を受け、日本の大学を1年でやめて、米国ボストンにあるバークリー音楽大学に進んだ。「テープを送ったら、奨学金が取れてしまいまして。そして、そこでデンマークからギターを学びにきていた主人と出会いました」。
 感じるまま、思うままの、風通しの良い人生。4歳からピアノを習い始めたものの、「スポーツのほうを熱心にやっていた」。そして、「ピアノをやっている人は多いので」、小学生から香港時代にかけてはピアノではなくバイオリンを習っている。東京に戻った高校3年生のときには「シンセサイザーに夢中になり、作曲にも向かう」ようにもなった。また、バークリーでは「ピアノが自分に一番近い楽器に思え、ジャズに対する興味もどんどん増した」。
 現在、11歳と8歳の二児の母親でもある。「音楽と子育てを両立させていましたが、二人目が生まれたときにはさすがに無理で一時休業ですね。その後、子育てが一段落したときに、こんなジャズがあってもいいじゃないという提案のつもりで録ったのがデビュー作です」
 1作目の「マキコ」と続く「ハイド・アンド・シーク」、ともに清新にして闊達なピアノ・トリオ作になっているが、それらを送り出しているのはドイツのエンヤ・レコード。40年もの歴史を持つ同社は欧州を代表するジャズ・レーベルで、古くは日野皓正や山下洋輔らを欧州で紹介した会社としても知られる。「録音したものを送ったら、幸運にも契約してもらえました」。が、それも国際規格の現代ジャズとしての内実があればこそ。
「いろんな所に住み、自分のアイデンティティが不明になって、それを探す過程ででてきた音楽と言えるかもしれない」。様々な場を知り多様な経験を持つからこその、自分探しを経ての、自立した音楽……。だからこそ、中林のピアノ表現は凛とした日本人女性の姿を世界に伝える好サンプルとして輝いている。(音楽評論家・佐藤英輔)






 ちなみに、彼女の長男はデンマークきってのサッカー・クラブのジュニア・チームに在籍していて、闘争心のなさを指摘されつつも、長身のアタッカーとして将来を嘱望されているとか。それを聞いて、日本に帰化させちゃえとか、無責任なサッカー・ファンである私はそう不用意に思った、なーんて。

 記事中にあるエンヤ発の2枚のトリオ作で絡んでいるデンマーク人のクラウス・ボウマンとドラマーのマリリン・マズール(2004年2月25日)と仲良く一緒に来日してのもの。ボウマンとマズールは夫婦(マズールの方が年長だが、旦那の方が老けて見える)。米国生まれで、6歳のときにデンマークに家族とともに引っ越したマズールは80年代後期にマイルズ・デイヴィスやギル・エヴァンスのバンドに”自由の”パーカッション奏者として関わった事で知られる奏者で、ECMにもリーダー作を残していますね。

 ボウマンはエレクトリック・アップライト・ベースを使用。マズールはいろいろ小物をドラム・セット回りに置いて、どこか打楽器的な演奏を披露する。彼女は1曲目から肉声を披露するなど、かなりフィーチャーされる。CDを聞くと迸るリアルなジャズ感覚がまず印象に残る平林だが、実演ではジャズを核におきつつも、より広い世界(それはメロディアスなものであったり、エスニックなものであったり)を求めようとしている姿勢をまず受けたか。アコースティック・ピアノで勝負している彼女だが、実はジョー・ザヴィヌル/ウェザー・リポートなんかも大好きなんだよね。

 ファースト・ショウを見た後、横浜に出て東海道線に乗って東京駅下車。丸の内・コットンクラブへ。そちらは、NYに住むブラジル人と韓国人ギタリストの共演パフォーマンス。お互いのリーダー作に参加し合う二人だが、彼らの寛いだ交歓に触れれば、普段から仲良しなのはよくわかる。どっちかの家のリヴィング・ルームでのギターを持ったやりとりをここでも再現している、なんて説明の仕方をしたくなるか。ミルトン・ナシメントのバンドを皮切りにそうそうたるキャリアを持つオルタは実に飄々、スーダラとも少し言える風情でギターを弾き、歌う。ソロでやった曲はくっきりとクラシック・ギターの心得が外に表れる。ボブ・ジェイムズとの活動なんかでも知られるリーはニコニコしながら、基本はオルタ流儀に合わせて行く。ときにソロはパット・メセニー的、そういえばメセニーもオルタに最敬礼していた一人だった。韓国曲「アリラン」をボサノヴァ調にして歌ったりも。それ、二人の2000年連名作『From Belo to Seoul』に入っていますね。それから、日本人歌手のnobie(2010年5月9日、他)が途中で出てきて、歌う。日本語で、「東京、名古屋、京都、大阪、博多/福岡 新幹線〜」と、オルタと一緒に歌った曲は楽しい。

朝霧ジャム

2010年10月10日 音楽
 知り合いに誘われ、1日(2日目)だけちょい行ってきた。みんなでキャンプしながらゆったり楽しもうというフェスの主旨を無視したタワケ者ですみません。この初回(2001年10月13日)に行って以来の、朝霧行き。土曜日は豪雨でものすごーくライヴを見るのも、テントで寝るのも大変だったらしいが、早く着いてしまい会場内をいろいろ回ったら、皆のんびり和気あいあいという感じで、濡れた衣服を乾かす風景はあっても、荒んだ情緒が皆無であったのには感心。やっぱいいフェスなんですね。客層はキャンプ必須ということもあり体力を必要とするためか、フジ・ロックより年齢層は間違いなく若い。それにしても、すごいテントの数。結構、皆いいモノ持っているな。コールマンとかのメイカーはこの手のフェスにスポンサーとして付かなきゃウソだ、と思う。

 出発時の東京は雨天だったものの、会場入りした頃はやんでいた。ただし、曇天にて富士山は見えず、とても残念。1回目に行ったさいに、マサチューセッツのバーク・フェスと似ているとぼくは書いているが、出演者のジェシー・ハリスはボナルーを小さくしたみたいでいい感じ、と言っていた。今年2度目の来日となる彼は今回、ちゃんとバンドでの登場。ドラムはデュオでやった春のとき(2010年4月4日)にも打楽器担当で同行していたビル・ドブロウで、ベースを弾くギレーミ・モンテイロは在NYのブラジリアンたちで組んでいるフォーホー・イン・ザ・ダークのギタリスト。リッチなハリスは新作『スルー・ザ・ナイト』で、彼らをバハマに連れて行って、レコーディングしましたね。モンテイロはリオ出身で、NYに住んで10年とか。今回、初来日。聞けば、途中の東名道のサービス・エリアの売店でアイルトン・セナの額縁を売っていて、感動したとか。車もレースも大好き、だそう。そういえば、今日はF-1の日本グランプリの決勝の日だよなあ(土曜の豪雨で予選が中止、この日に予選と本戦が行われた)。そのフォホー・イン・ザ・ダークの打楽器奏者のマウロ・レフォスコは今やロック界では有名人。レディオヘッドのトム・ヨークやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーらと組んだアトムズ・フォー・ピースのメンバーであるから。フリーと意気投合したレフォスコはレッド・ホット・チリ・パッパーズの新作レコーディングに加わっているそう。

 今回、ハリスはときにがしっと来るリズム隊を得て、全編エレクトリック・ギターを持ちながら歌う。一言で言えば、“ロックなハリス”。でもって、その行間から彼一流のジューシーさがこぼれでる。演目は近2作からのものが多く、バンジョーが大活躍していた09年『ウォッチング・ザ・スカイ』収録曲も新たな形で開かれる。電気ギターを弾き、押し出しが強くなった事で伝わりやすくなったのは、ギタリストとして力量。さりげなくも技あり、さすがギタリストとしての需用もある人だと納得させられました。

 また、2曲ではハリスが可愛がる女性シンガー・ソングライターのハンナ・コーエン(すらりとした綺麗な人)が参加。これ以後、彼らは日本ツアーに入るが、その際は中盤に、彼女をフィーチャーする箇所をもうけるとのこと。帰国したら2ヶ月後に彼女はレコーディング入りするそうで、それはハリスのプロデュースなのと聞いたら、その次はそうなるかもしれないけど、今回はキーボード奏者(名前失念)がするとか。ハリスは少しすると、ノラ・ジョーンズの南米ツアーの前座をしますね。

 午前中はピアノ・トリオでも野外フェスを謳歌できることを示すJ.A.M.(2010年6月11日。ピアニストの丈青は新生デートコースペンタゴンロイヤルガーデンに参加もしている)や、ザ・マーズ・ヴォルタのオマー・ロドリゲスとも付き合いを持つサクラメントのポスト・ハード・コア・バンドのテラ・メロスを見たりも。後者は3人組とのことだったが、4人でパフォーマンスをしていた。午後は嗄れ声で自分流に声を載せるSIONをまず聞く。彼、昔はNYのアンダーグラウンド系の敏腕奏者を涼しい顔して雇っていたよな。元東京スカパラダイスオーケストラの冷牟田竜之がウエノコウジら豪華奏者たちと組んだスカ・パンク・バンドのDAD MOM GODには会場が一段と沸いた。皆ちゃんと黒傾向の衣服に固め、フレキシブルなホーン音も映える。

 会場では何人もの知り合いのミュージシャンと会う。ぼく結婚したんです、と告げてくる人も。おめでとう。隠すつもりもないけど、大々的には発表していない、とか。トッド・ラングレン(2008年4月7日、他)はなぜかロバート・ジョンソン曲をやる出し物バンドでの出演だが、靴が泥だらけにならないよう足元に袋を巻き付けて、彼はお茶目に徘徊。同行ギタリストのジェシーさん、けっこう外見がラングレンに似ていたナ。東京に戻らなければならず、彼の実演は見ていないが、どんなライヴをやったのか。ある人から、実は彼は熱心なECMのファンというのを少し前に聞いたよなー。

 ものすごーく、晴天。これ以上望むべくもなく、と、躊躇なく言うことができる天気。もう、フェス楽しんじゃおう度数は100 パーセント増し。ありがたやー。会場となった日比谷公園野外大音楽堂、人が入っていたなー。のっけから、うれしいヴァイブ、横溢しまくり。今回(2年強ぶり)の同イヴェントはアフリカ勢が3組の出演なり。

  最初の出演者は、ジャスティン・アダムス&ジュルデー・カマラ。アダムスはロバート・プラント(レッド・ツッペリンのシンガーにして、音楽的には愛すべき変わり者)と仲良しで彼の表現に関与するとともに、北アフリカ発の所謂“砂漠のブルース”に強く、ティナリウェン(2005年9月2日)のプロデューサーを勤めるなど、ロック的価値観のもとワールド・ミュージック的表現興隆に寄与している人物。いかにもロック出身の英国人というか、いまだ朽ちぬロック的美意識(だからこそ、脱ロックの広角型姿勢を取るとも言えるのではないか)を持つ人なんじゃないかとアーティスト写真を見て感じていたのだが、ショウでの妙な気取りゼロの振る舞いには少々おどろく。でっかい仕草で手を打ったり、どんくさいという感想も導くかもしれない大仰なアクションをとってみたり。でも、その底にしっかりと真心が透けて見えた。とはいえ、そんな彼はあくまで触媒/仲介者、その表現の核にいるのは、アフリカ大陸のもっとも西に位置するガンビア生まれのシンガー/弦楽器奏者であるジュルデー・カマラだ。

 前者は電気ギターや変な民俗楽器、後者はリッティという一弦楽器やアフリカン・バンジョーを手にする。そのベースレスの重なりに、たぶん英国人だろうデイヴ・スミスというドラマーが重なる。ようは、美と突き抜けが交錯するマカラの弾き語り的なパフォーマンスにロック文脈にあるギター・リフやビート感覚を足して、押し出し/取っ付き易さを強化した表現を彼らは広げる。円満な顔つき(なんか、ぼくはアフリカ調相撲取り顔とも言いたくなるか)でいかにもな民俗衣装に身をまとったカマラは悠々。西側に大々的に知られるきっかけはビル・ラズウェル(2007年8月3日,他)のレーベルから出たラズウェルとフォディ・ムサ・スソ(2005年8月20日)主導の『Aincient Heart;Mandlinka & Fulani Music of the Gumbia』(Axiom,91年)だったわけで、そういう他要素と重なるのは慣れているし、抵抗もないんだろう。最後から2番目の曲はもろにジョン・リー・フッカーのマナーにあるダーティなギター・リフを下敷きにし、最後の曲はボー・ディッドリー(2004年4月12日)のジャングル・ビートを重ねてゴー! 二人は、この後ロバート・プラントと一緒に欧州ツアーをすることになっている。

 2番目は西アフリカの海に面していない国であるブルキナファソ(かつて日本のサッカー代表チームの監督をやったフィリップ・トルシエが、日本に来る前にやはり代表チームの監督を務めていた国として、記憶にある人もいるだろう。他のアフリカ諸国と比べ、真面目で思慮深い人が多いそうで、“アフリカの日本”という言われ方もあるそう)のおじさんヴィクター・デメ(歌、ギター)が、ギター、打楽器、コラ、電気ベースという編成の4人組バンドでパフォーマンス。グリオの家系に生まれながら音楽嫌いで仕立て職をしていた父親に音楽をやることを禁じられた彼は、それでも音楽をしようとしてきた苦労人。コンゴら他国の音楽を歌ったこともあり、父親にミシン使いを仕込まれて裁縫は得意(自分の服だけでなく、メンバーの服も縫ってあげるそう)とも言う彼が広く西側に出て数年しかたっていないが、そのインターナショナル感覚に満ちた鮮やかな広がりを持つ表現にはちと驚く。それは往年のワールド・ミュージック大御所が持つ感触にも似ていると書きたくなるもので、親しみ易くも堂々としていたな。蛇足だが、彼は二人の子供を設けた奥さんがなくなり、今は籍は入れていないもののパートナーと暮らし、養子も何人か育てている。悩みは、有名人になってしまったので、昔のように飲んだくれられなかくなったこと、とか(笑い)。

 そして、最後のアクトは、アフリカの中央部の面積の大きな国コンゴからやってきたスタッフ・ベンダ・ビリリ。すぐに、多くの人が立ち上がる。先に見たいわき公演(2010年10月3日)との明白な違いは以下のもの。1)ロジェは客性側に降りなかった。それはこの会場の厳禁事項になっているからのよう。それは別にしても、いわきのロジェは相当にのりのりでステージを動き、客席に何度も降りたナ。2)テオのパラパラ調の振りがちょい小さく、地味になっているように感じたこと。それ、前よりデカい会場で見ている距離感があるかもしれない。3)それから、<スタッフ・ベンダ・ビリリ,トレ・トレ・フォール>のかけ声をあまりしなかったこと。いわき公演はなんだかんだ、5回ぐらいやっていたと思うけどなあ。4)それから一番大きな違いは、膝だかを痛めて車椅子にてパフォーマンスしていたカポセが元気にいつものように杖をつきつつ立ってショウを行っていたこと。やっぱ、彼は立ってパフォーマンスをしてこそ、格好いいし、見る者をひきつける。5)あ、それから何気に、ステージ後方に出される、曲の内容紹介がヴァージョン・アップしていた。字幕はほんと、好評のよう。

 あとは、いわき公演の醍醐味/質を引き継ぐものだが、2500人もの人が最初から高揚しまくってステージに熱い気持ちを送りまくり、彼らもそれを受けて、ぶっとばしたところはあったのではないか。曲目なんかはずっと変化はないようだが、やっぱりノリで尺や歌のやりとりやグルーヴの感覚は微妙に変わっていただろう。クローザーの「トンカラ」のときには、先に出た二組やスタッフが出てきて、後ろにずらりと並び、踊る。場内はよりわき上がる。野外の快感、ありまくり。うーん。お酒が弾む。気持ちいい。楽しい。グっとくる。これ以上、何を求めるというのだ。最高だア!

 知人らと流れるが、何か外のままがいいなと、公園内で飲むことを提案。一時は20人近くいたんではないか。宴はいいなー。

 植民地主義の流れで、フランスはカリブ海に海外県を持っている。そんなことを知ったのは成人をとっくに過ぎてからであり、それは音楽を通してだった。90年前後にワールド・ミュージックの隆盛とともにカリブ海のフランス語圏、マルチニークやグアドループの音楽がビギンやズークという音楽様式とともに紹介され、フランスは遠い地に海外県を持つことをぼくは認知したのだ。マルチニークのマラヴォアやカリ、グアトループのカッサヴなんかはかつて大々的に日本で紹介されたっけ。

 なんてことをステージに接しながら、懐かしく思いだしたりして。グアトループにはグオッカという太鼓が中心となるリズムがあるらしく、それを取り上げたジャズをやっているのが、グアトループ生まれで、バークリー音楽大学を経てNYに居住しているサックス奏者のジャック・シュワルツ=バルト(2003年9月21日)。彼の両親であるアンドレとシモーヌ・シュワルツ=バルト、ともに文学の方では高名らしいですね。なんでもシモーヌの故郷がグアトループで70年以降に夫妻は居住し、ジャックは生まれたらしい。

 そのジャックはロイ・ハーグローヴ(2009年6月24日、他)とも親しく、彼のソウル・フュージョン路線=R.H.ファクター(2003年9月21日)の成就を助けたりしたことも。ハーグローヴ作やトリッキー(2001年7月27日)作やソウライヴ(2010年5月21日)作などにも参加し、ネオ・ソウル路線にあるリーダー作を複数持つステファニー・マッケイは彼の奥さんというのはともかく(ジャックは今ベッセルトフトと親しいakiko;2010年1月24日他の03年作をプロデュースしたこともありますね)、彼のここのところのリーダー作群はグアドループ出身のミュージシャンを入れた出自応用路線をとっているのだ。

 と、ここまでは前置き。そんな彼のトロピカルなんだか都会的なんだかよくわからない(というか、クールにそれらが干渉し合う)表現を愛でて、昨年にジャックをプロデューサーに立ててのリーダー作『Jam Ka』を作ってしまったのが、ギタリストの小沼ようすけ(2004年11月30日)。そして彼、今度はなんとシュワルツ=バルト・バンドを呼んでしまって、同路線のお披露目ライヴをやってしまった。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。この日のみのブルーノート公演と小沼の故郷(秋田)での公演のためだけに、バンドを呼んでしまったそうで、贅沢な。

 小沼とシュワルツ=バルトに加え、打楽器二人、キーボード、ベースという、6人で実演。パーカッション奏者たちはもちろんグアトループ生まれで、パリ在住とか。ベースはカサンドラ・ウィルソン(2010年6月13日,他)やスティーヴ・コールマンら辣腕リーダーの作品で弾いている実力者のレジー・ワシントン(2003年9月21日)。NYを拠点としていた彼だが、今はベルギーに住んでいるらしい。グオッカのリズムを言葉で説明するのは難しいが、二人の奏者はけっこう同じ叩きかたで重なるように叩いていた(ヴォーカルだったら、ユニゾンと説明したくなる)のは印象に残る。そこらへん、丁々発止して、隙間を埋め合っていくような感覚も持つキューバン・ラテン等の打楽器の重なり方とは違うナと僕は感じた。そして、そうした間(ま)を持つ打楽器音ベースのサウンドが内に抱えるのは呪術性というか、永遠性というか。←本が苦手なぼくの言だからあてにはならないが、ガルシア・マルケスが持つ感触を思い出した?

 そこには一聴のどかな感じもあるのだが、一方では濁った今様な空気感もどこかに持ち……。ゆったり誘うのだけど、どこかでは引っかかりを携え……。微妙な濃淡というか、不可解な幻想感覚のようなものも、ステージからは送り出されていたか。

 小沼はブルース・マンのようにピックを用いず指で弾き、楽譜には絶対表れない、深みやほつれを持つ音色やフレイジングを飄々と送り出す。“ザ・ギタリスト”という風格も、間違いなく出る。ほんと興味深くも、いろんな左手の近い方をしていたような。イケ面ミュージシャンとしても知れれる小沼だが、その左手を見るだけでイっちゃう人もいる? だと、愉快だなあ。というのはともかく、彼の演奏に触れながら、ピック弾きする大半のギタリストはなんと無味乾燥なんだろうと思ってしまった(←少し、誇張)。曲によっては彼、シュワルツ=バルトとともにアウトするソロをとったりも。そういえば、昨年までパリに住んでいたかなり硬派なジャズ好きの人がフリー系奏者の名とともに、シュワルツ=バルトの名を好きな人としてあげていたな。カリブ系海外県の音楽は本国でも楽勝で入手できるらしい。

 その後、渋谷・クラブクアトロに行ったら、ジェシー・ハリス公演を少しだけ見れた。アンコールでは、「ドント・ノウ・ホワイ」をやった。

!!!

2010年10月15日 音楽
 メンバーの顔ぶれが変わっての公演にして、なかなかに質と密度のあったショウ。渋谷・O-イースト。新ドラマーは腕が立つ。時にはツイン・ドラムになるときもあるし、黒人女性ヴォーカリストも広がりを添える。オヤジの聞き手としては、トーキング・ヘッズと相似する部分を感じないわけにはいかないが、でも創意と心意気とがきっちり交錯していて、相当に好印象。アンコール終了後、彼らは一度場内が明るくなった後にも登場。フロント・マンのニックさんはシャツを脱ぎ、ぜんぜん引き締まっていない上半身を出す。おお、でもすがすがしい。11月9日夕刊に掲載される日本経済新聞の公演評との重なりを避けるため、今はこのぐらいにしておく。

 アギーレは65年生まれの、アルゼンチンのフォークロア伝統を受けつつ、しなやかに我が道を行くミュージシャン。ジャズからブラジル音楽までいろんな表現を見た上で、ピアノやギターを用いつつ、歌曲とインスト曲を自在に行き来するような音楽を聞かせてきている人で、今回が初来日公演となる。

 まずは2曲続けて、ピアノによるインスト。その後は歌いもし、ならすなら弾き語り6.5割、歌無しピアノ・ソロ演奏(ちょい鼻歌的に声を軽く出す場合も)3.5割。また、生ギターを弾きながら歌う場合もある(これは、全体の2割ぐらいかな)。割合は大体の目安ですが。

 ヴォーカル曲の味はさすが。別に歌そのものを取ると決してうまいわけではないんだが。さりげない、でも確かな楽器と歌の相乗のもと、えも言われぬ悠久的な流れの感覚や心地よさや含みが広がって行き、聞き手を包む様はなかなかに絶品。いろんな気持ちを抱くことができるし、アルゼンチンって、やっぱ凄いかもと思えちゃう。一方、インストのほうはやはりいろんな要素を孕んでいるのだが、少なくても生演奏に関してはニュー・エイジ・ミュージックになっちゃうところがあって(←まあ、ロマンティストなんだろう)、ぼくの耳にはどこか痒いと感じてしまった。というか、歌が入った時の、聞き味が良すぎるっ。そっちのほうには、彼だけの広がり、誘い、色んな濃淡や明暗などがあって、オーガニックでもあるし、わあいいもん聞いていると思えちゃう。かつ、他に替えはないと思える。

 アンコールでは日本人バンドネオン奏者の北村聡とシンガーの松田美緒(2010年4月19日、他)が出てきて一緒にやる。また、もう一度出てきて、短めにピアノ・ソロも。会場は、表参道・スパイラルホール。あれれ、25周年記念公演と謳われたこの日の公演だけかもしれないが、ステージ高がなく(グランド・ピアノを置いたためかもしれない)、前の方に座らない限り(後ろの高くなっている部分もOKかも)、ステージが良く見えない。ぼくの座った席からは頑張っても、アギーレの演奏している様は当然のこと、眉から上しか見ることができなかった。とても、悲しい。終わった後、知人と流れた先でも、それについての恨みは話に出ざるを得なかった。

 客には来日中のグラストン・ガリッツァ(2010年7月22日、他)の姿も。そういえば、前日にアルゼンチン出身で20年強パリに住んでいるアコーディオン奏者のラウル・バルボーサ(12月に、仏人アコーディオン奏者のダニエル・コランと一緒に来日公演をします)を取材したんだけど、アギーレとは全然世代が違うのにとっても仲良しらしい。

 1ヶ月近く滞在した彼ら(10月3日、10月11日。その間、評判は広がりまくり。それ,前代未聞というべきものでは)の、日本での最終公演。この日はかなり前から見れたので、じっくりと観察しようとしたのだが。三鷹市公会堂。

 一番年長のリッキーは、さすがちょい疲れ気味に見えた。この日、彼は白いスーツで、シャツと帽子も比較的ベージュっぽいものを身につけている。なんでも、みんな来日時の荷物は最小限らしいが、リッキーだけはいろいろ衣服を持ってきたらしい。なにせよ、やっぱし、皆いい感じで格好をまとめている。ベースのカバリエとロジェはこの日長いスカーフを上手くかぶっていた。そういえば、コンゴの先達であるパパ・ウエンバが来日した際(80年代後期だったっけ?)、お洒落好きなメンバーたちは、食事はすべてコンビニ飯などで済ませ、節約したお金でデザイナーズ・ブランドの服を嬉々として買っていた、なんて話を聞いたことがあるが。

 今回、少し冷静気味にライヴに接してまず感じたのは、肉声の噛み合いの素晴らしさ。本当に良く出来ている。いい感じのコール&レスポンスに加え、ラップが切り込んだりとか、最良の構成がなされていると思わせられることしきり。そして、皆それぞれに顔や動きだけでなく、声にキャラがしっかりあり、それを上手く用い(リード・ヴォーカルも曲によって変わる)、噛み合わせている。いい加減というか、烏合の衆なようでいて、曲ごとにヴァリエーションを持つ肉声群の絡みはマジ絶の妙。そのうえで、各々が気分に任せるところもあり、スポンテニアスな要素も決して失わないわないし、何より生き生きしている。これは凄い、と改めて思うとともに、この5人だからこそ、とも、しかと思わせられるか。誰かがいなくなったら……とか、余計なことを心配したくなるほどに。ともあれ、彼らはコンゴの伝統を受け身体にたっぷり蓄積させていて、それをきっちり今の自分たちのヴォーカル/ビート表現として、見事に花開かせている。彼らはまず何より、音楽的な才に恵まれている、それは間違いなく言える。

 そして、彼らはとにもかくにも、胸を張って、大きく手を広げて、一生懸命。ぼくはジュナナやカボセ側のほうにいたのだが、彼らの心からの熱演の様に胸が張り裂けそうになった。ほんと、去年から山ほどツアーをやっているはずなのに、何ら疲弊も見せず、これこそが勝負の日とばかりに振る舞うのには頭が下がる。そこには、見る者を和ませる無邪気さや颯爽さもありココロをつかむ。ああ、人間がやっているという感覚の強さに、接する者はヤラれる。

 彼らのショウの演目は全公演、同じもの(全13曲)であったという。だが、この日は2曲のアンコールを終えた後、もう一度出てきて、おそらく世界初お披露目となる新曲をやった。実はリハーサルのときには何度かその曲をやっていたそうだが、まだ完璧ではないという判断で、本編ではやっていなかったらしい。うーぬ、ぼくが先に書いた歌声の重なりの周到さといい、見せ方の確かさといい、楽曲に対する責任の取り方といい、やはりビリリは天然だけのグループではなく、きっちりと才能も見識も計算も努力を持つ、プロフェッショナルな集団であると指摘できる。ゆえに、ぼくが見たビリリの3回のライヴはどれも外れがなく、質の高さを持っていたのも当然のこと。とともに、キンシャサの地べたで形作られたその表現はとんでもない強さを持つということでもあるだろう。そして、それが成就するまでには、映画「ベンダ・ビリリ!〜もう一つのキンシャサの奇跡」にもあるようにいろんな紆余曲折があったわけで、本当に頭がクラクラしちゃう。

 ともあれ、彼らの態度は正しく、美しすぎる。いやあ、マジいろんなものを出していったナ。ショウのアタマには彼らを扱った映画の予告編も流されたけど、それももう一度みなきゃ。きっと、また新たな発見や感慨とともに、人間と音楽の関係についていろいろ考えさせるはず。この6月30日の項では精一杯あの映画のことを書き留めたつもりだけど、きっとまた新しい見解や気持ちが頭のなかで渦巻くんだろう。年内にはスタジオ入りも予定されているというが、この傑物グループのセカンド作はどうなるのか。まだまだ、これからだ。

 いまや映画俳優というより大監督になってしまったクリント・イーストウッドの息子で、父親の監督作品の音楽にも関与している(「硫黄島からの手紙」のテーマ曲なのかな、それもこの晩やった)、パリ在住(多分、今もそうだと思う)ジャズ・ベーストのリーダー・グループ公演。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。

 出てきてすぐに思ったのは、なんとなく太ったかな。イケ面度数も何か落ちていたような。そんな彼はアップライトと5弦のエレクトリック・ベース(フレット付きとなしのを両方弾く)の両刀、なかには最初アップライトで途中からエレクトリックに持ち替える曲もあった。何かその様にふれて、家には沢山ベースを置いているんだろうなと推測。そんな彼に加えて、トランペット、テナー・サックス、ピアノ/電気ピアノ、ドラムが脇を固める。新作に入っていた二人の管奏者をはじめ、主に英国で活動する人たちのよう。編成自体はオーソドックスなカルテットと言うこともできるが、そこはイーストウッドのベース演奏や曲作りの味もあり、ジャズとフュージョンを行き来するような感じが出てくる。ヴォーカリスト(ぼくが見た前回;2006年11月3日は、ジェイミー・カラムの兄ちゃんだった)が今回は同行しないのでポップ度は下がり、ジャズ度は少し上がっていたか。フロントの管奏者もしっかりしていたし。

 5人はみんな白いシャツと黒傾向のデニムという格好に統一。そんなに、おしゃれという感じではない。面白かったのは、本編/アンコールともにイーストウッドが先頭で出てきてステージに登ること。主役は最後に、というパターンの方が多いと思う。それは、偉そうにしない彼らしいか。それとも、何気に張り切り屋さん?

 なんでこんなメンバーなんだあ。わああ。と、一部で話題になっていたのが、ピアノレスのカルテットの、この出し物。丸の内・コットンクラブ、ファースト・ショウ。

 主役はここのところリーダー活動に燃えている(ように、思える)ドラマーのジェフ・テイン・ワッツ(2007年12月18日、他)。テナー・サックスのブランフォード・マルサリス(2010年3月8日,他)とトランペットのテレンス・ブランチャード(2007年12月18日)、そのフロントが今ジャズ界きってのスター奏者なわけで、一体どうなっておるんじゃ〜いと、心あるものを驚かせているわけ。実際、すごいな。ま、それはワッツの新作『WATTS』(Dark Key)の参加者でもあるわけで、そこらへんはミュージシャンズ・ミューシャンたるワッツの面目躍如か。同作でベースを弾いていたのはクリスチャン・マクブライド(2009年8月30日,他)だったが、来日ギグはロバート(ボブ)・ハーストが参加。ハーストもワッツと同じような筋道を通ってきた人なので、何ら問題はない。ただ、先輩管奏者が万難を排して(?)参加していのに、一番若いくせに非参加のマクブライドは心象が悪くなる? 彼はちょうどテキサス州でクリス・ボッティ(2000年10月16日)とギグしているんだよな。それに(一番、最後の文章を参照のこと)……。

 ワッツのリーダー活動は作曲の才もおおいにアピールしようとするもので、この晩演奏された曲も彼のものだったのかな。というのはともかく、ワッツのドラム音がデカいせいか、出音はジャズとしては大きめ。しかも、相当な技量と山ほどの経験と真っ当なジャズ観を持つ4人が思うまま音を出し合うのだから、聞き手が受け取る情報量はかなり多いのは間違いない。管の二人はニューオーリンズという属性を持っているので、ところどころニューオーリンズを想起させる絡みを見せたりもする。そこらあたりは、ワッツの指示ではないはず。また、おどけたクォーテイションもいろいろありで、そうした部分や、ワッツのくだけた物腰もあり、聞き手は音楽の重さほど緊張感は覚えなかったのではないか。なお、一曲綺麗なバラードで、ブランチャードはソツなく全面的にピアノを弾いた。

 ワッツは現在ワッツ・カルテットやワッツ・トリオという名義でも活動していて、特に豪華メンバーのときはザ・ワッツ・プロジェクトという名前で活動するよう。来年春にはニコラス・ペイトン(2010年9月30日、他)、ダヴィッド・サンチェス(2010年1月27日、他)、クリスチャン・マクブライドという顔ぶれで、やはりザ・ワッツ・プロジェクトと名乗り米国を回る予定のよう。お、日本の方が豪華ぢゃん。

 ブラジリアン・オリエンテッドな音楽性を持つスケール感豊かな女性歌手と、マリア・ヒタのバンドで活躍するブラジル人鍵盤奏者のデュオ公演。chie umezawa(かつては、chieというアーティスト名でアルバムを出していた)は才人ヘナート・モス(数日後にパトリシア・ロバートと来日し〜昨年録られたライヴ盤『イン・マントラ』も好評〜、ツアーをする。28日の彼女の公演にもゲスト入りするよう)のプロデュースによる『Flor de Mim』を出したばかりで、同作をフォロウするツアーの一環。チアゴ・コスタはもちろん、そのブラジルのミナス録音作に参加している。

 この晩21時から米日の音楽セレブが一緒になったバンド(26日に見る予定)の取材があり、最後のほうしか二人の協調を見ることができなかったので、書くのは憚れるが……。でも、ちょっと聞いただけでも、感興を受けた。umezawaは歌声の輪郭が綺麗で、得難い誘いを持つと、一聴して了解。一方、普通の電気キーボードを弾くコスタの演奏も歯切れとまろみを併せ持っていていい感じ。そして、そんな両者のさりげない重なりは魅力的な粒立ちを持つものとして、聞き手に向かう。場内には、綺麗な小さな音塊がいっぱい浮遊。へえーと、感心。青山・プラッサオンゼ。まさにフル・ハウスで、幸せな空間になっていた。

 ところで、ぼくの音楽享受歴にきっちりと刻まれている、米英のアーティストがなくなった。ので、書き留めておこうか。

 一人はアヴァンギャルド・ジャズ系リード奏者のマリオン・ブラウン。1931年9月8日−2010年10月18日。実は、彼の息子のヂンジ・ブラウンは広角型ヒップホップ系クリエイターで、数枚のリーダー作を出している。2000年代前半にヂンジにメール・インタヴューする機会があって、その際にお父さんの事を尋ねたら、病で演奏できる状態にないとの答えで、病気なのは知っていたが。70 年代にはスピリチュアル・フュージョン的な表現を出したりもして、そこらあたりはクラブ・ミュージック愛好者からの再評価があったはずだし、大学の先生をいろいろしていたことでも知られるはず。ニューヨークに住んでいた彼だったが、晩年はフロリダの療養所にいたそう。

 それからもう一人は、ポップ・ミュージック史上もっとも革新的なガールズ・バンドであったザ・スリッツのアリ・アップ(アリアン・ダニエル・フォースター)。1962年1月17日−2010年10月20日。元々、彼女の家系はドイツの新聞財閥で、お母さんのノラはロッカーといろいろ浮き名を流し、UKロック業界で良く知られた人物。ジョン・ライドン(セックス・ピストルズ、PIL)と結婚したので彼はアリにとっては継父、癌による彼女の死の最初の発表はライドンのホームページでなされた。彼女が10代で見せた、”感性”の鮮やかな飛翔の様を、ぼくは忘れない。


 南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。立錐の余地なし、と、書きたくなる入り。そのリーダー(2002年10月3日、2010年3月25日)は毎度集客力を持つうえに、そんな人のスペシャル・プロジェクトと言えるだろう設定、しかもそのビッグ・バンドの構成員にはクリス・ハンターやデイヴ・バージェロンをはじめ有名奏者や敏腕奏者がずらりと揃っているのだから、そりゃあ混むよなあ。

 ステージ上には17人。管奏者は、トランペット4人、トロンボーン4人、サックス5人。リズム隊のアンソニー・ジャクソンとクリフ・アーモンドは矢野顕子(2009年12月13日、他)が起用していた人たち(2004年7月20日)でもあり、さらに打楽器奏者が一人。奏者は皆NY在住だろうが、その打楽器奏者のアキーノさんは幼なじみとMCで紹介されていたので、ドミニカ人だろうか。彼とはデュオでやったりとか、何気にフィーチャーされていたな。実のところ、ぼくはカミロがビッグ・バンド表現もやる人であるのを知らなかったが、今回の顔ぶれとリズム隊や主要ソリストが少し重なりもする94年本国ドミニカ録音ビッグ・バンド作のCD+DVD商品が来日に合わせてソニーからリリースされたりもしたので、そうとう昔からビッグ・バンド表現にも目が向いていたのは間違いない。その作品で全ての作編曲クレジットは全てカミロになっていたが、この晩の演目はどうだったのだろう。

 ハレの場での、娯楽の表現。そんなビッグ・バンド表現の特性をしかと踏まえた上で絢爛重厚なパフォーマンスは繰り広げるわけだが、満員の観客から相当に熱い反応を受けて、カミロもバンド構成員も本当にうれしそう。やはり、ビッグ・バンド・ジャズには、普通のコンボによるジャズ演奏とは別の機微がある。アンサンブル部のとき、カミロはピアノを離れて、指揮をやったりもした。ラテン的な曲は半分ぐらいはあったかしら。終盤の曲では管奏者たちがお客さんにクラーヴェの手拍子を促したりもし、会場はより華やいだ雰囲気でいっぱいになった。

 そして、演奏が終わったとたん飛び出して、タクシーに飛び乗り、渋谷・アックスに。米国ポップ音楽界大フィクサー、スティーヴ・ジョーダン(2005年11月13日、2006年11月20日)らのザ・ヴァーブス(2006年12月22日)。前座があったので、結構見れるかなと思っていたのだが、半分ぐらい終わっていたな。スティーヴ・ジョーダン(ドラム)、ミーガン・ボス(ヴォーカル、ギター)、奥田民生(ギター、ヴォーカル)、ピノ・パラディーノ(2008年11月17日)という面々が並ぶ。

 そのステージ上は家のリヴィング・ルームを模したように、電気スタンドやソファー等が置かれている。今回4人を取材したときに、本当に仲のいいバンドと言う感じがあって、なるほどなァと思ったが、このステージ美術設定はそうしたノリ、日常の横にある音楽という感じを増幅させている。その第2作は『トリップ』というが、ステージ背景にはスティーヴ達が世界各国(日本も含む)で撮った映像が映し出される。

 今回から、奥田民生はメンバーになったそう。マルチ・プレイヤーでもある彼は一公演で一曲、一人でどんどん音を重ねていき曲を完成させるプロセスを全て公に披露する<ひとりカンタビレ>というツアーをやった(『OTRL』というアルバムに結実)が、そんな酔狂な事をやる彼には拍手(ちょい、見たかった)。で、その後にNYに飛んでザ・ヴァーブスのレコーディングをやり(ついでにザ・ヴァーブスのリズム隊が入ったジョン・メイヤー・トリオのシカゴ公演を見たりもしたよう)、戻ってきて石川さゆり(2009年6月10日)とのコラボ曲を録り、今は全国6公演のザ・ヴァーブス公演にのぞんでいる。あ、ユニコーンでフェスにも出ているか。自ら今年は忙しいと言っていたが、ほんと“働く男”だ。

 後半にさしかかるところで、ミーガンは一時引っ込み、ギター演奏に専念していた奥田はトリオで自分の曲を3曲やる。それ、ジョン・メイヤー・トリオから主役のジョン・メイヤーを抜いて新たに奥田を中央に据えた、と説明できる? スティーヴはバック・コーラスもうれしそうに取る。ユニコーン時代の「ターボ意味無し」は久しぶりにやるそうで、それはジョーダンのリクエストだそう。

 白い歯を見せっぱなしで叩く、ジョーダンのドラム・キットのシンプルさにはびっくり。そんなに口径の大きくないキック・ドラム、スネア、ハイハット(かなり高い位置に置かれ、それはマイクで音を拾い易そう)、シンバル1枚、タム二つといった感じだもの。だが、その演奏/音色はマジ絶品。気持ちよくも、浸れるう〜。しかも、ときに手足のコンビネーションの巧みな独特さから、ツイン・ドラムに聞こえる時もあるのだから、これは凄い。大げさなドラム・キットを使っている人がおおいに不毛に思えたのは確か。やっぱり、彼はスーパー・ドラマーだ。
 
 今回の公演はカヴァー曲もいろいろやり、娯楽性や親しみ易さをより求めんとする意図が出ていたのは間違いない。ザ・ヴァーブス曲以外でやったのは、エリック・クラプトン(「イージー・ナウ」)、ロキシー・ミュージック(「ラヴ・イズ・ザ・ドラッグ」)、グラム・パーソンズ(「ヒッコリー・ウィンド」)、バッド・フィンガー(「ベイビー・ブルー」)、ニーナ・シモン(アニマルズで知られる、「悲しき願い」)、カール・パーキンス(「グラッド・オール・オーヴァー」)。

 なお、グラム・パーソンズ曲は、亡くなったソロモン・バーク(2010年5月29日、他)のヴァージョンでお送りすると言ったっけ? バークはこの10月10日、公演のためにLAからアムステルダムに向かう飛行機にのったが、その機内で天に召された(自然死、と発表されたよう)。ジョーダンはバークの08年作『ライク・ア・ファイアー』をプロデュースしていますね。そこで、曲を提供しギターも弾いていたのがジェシー・ハリス(2010年10月10日、他)で、ザ・ヴァーブスの新作にはジャクソン・ブラウン(2003年5月2日)やブルース・スプリングスティーン夫妻とともに、彼の名前も感謝の項にクレジットされている。

 とても良質なバンド・サウンドに支えられた、大人の意欲と洒脱と歓びがあふれた、素敵なヴァイブあふれるポップ・ロック・ショウ。もちろん、前回時の味を大きく上回る。
 今年のフジ・ロック(2010年7月31日)のリターン・マッチ。あんときは印象が拡散して、カントリー・ブルースマンのスキップ・ジェイムズの曲名をバンド名に引用した、このUK4人組にあまりいい印象を持てなかった。フェスだとそういうことは起こりえる。

 渋谷・クラブクアトロ。奇をてらわない感じで、どっしりパフォーマンスは進められる。バンド音はとてもしっかりし、そして歌声がでけえ。ちゃんと、根っ子/実質を持つバンドという印象もわいてくるか。で、ちゃんと判ったことは、他のブルースを引き金にするバンドとは一線を画し、彼らはその安易な咀嚼をすること無し(芸のない、ブルーノート活用ギター・ソロもあまりない)にして、ダークだったりほころびていたりするブルース感覚を彼らなりに処理し整合感の高い同時代ロックとして提出しているということ。曲は微妙にマイナー調のものが多く、歌詞まではチェックしていないが曲名はを暗めの心情を表したようなものが多い。今様ロックへの技と視点あるブルースの飛躍のさせ方の妙を確認、やはり存在意義はあるな。
 
 ブルースと言えば、昼間には、多分にブルースとも言えるかもしれない映画を渋谷・ショーゲート試写室で見た。「その街のこども」という阪神淡路大震災を題材とする作品(監督:井上剛、脚本:渡辺あや)。子供の頃に震災経験を持つ男女が久しぶりに震災があった前日に神戸に戻り、一晩神戸の街を歩きながら、震災で受けた傷をとい直し、それを先に繋げんとしていく様を、ドキュメンタリー・タッチで綴った内容を持つ。ちょうど15年目となる今年1月17日にNHKテレビで放映され好評だったものを、拡大編集し、劇場公開作品にしたそう(神戸では公開中。東京は来年1月中旬に公開)。音楽は大友良英(2009年5月31日、他)、器用にプロの仕事をしていて、映像やストーリーにきっかけや奥行きを作っている。あの震災で得たぼくの一番の思いは、モノを集めてもしょうがない。大きな災害が来たら、それらは一気に無になっちゃう。なら、形のないものを自分のアタマとココロに溜めたほうがいいじゃないか。これ、昔にここで、書いたことがあったかな。まあ、かといって、それまで集めた音楽関連のブツを処分した訳ではなく、その後も無為に増え続けているわけだが。あー、俺は整理整頓が本当に弱い。

 話は前後するが、ライヴ享受後に流れた店ではずっとレゲエが流れていた。が、最後に帰るころには、バルセロナのスカ・パンク・バンドになった。うぬ、明日はどうしようか……? 観客享受模様にふれるのも一興だし、レス・ザン・ジェイクに行っちゃおうか。

 ここ3日ほど、かなり寒い。なんでも、11月下旬の気候とか。重くないコートを着てもおかしくないはずだが、それをしたくないのは、まだ秋であってほしい=冬の到来を認めたくない、という心持ちゆえか。ブルル。おまけに、今日はけっこうな雨。出かけようとする気持ちがやはり萎える。しょうがねえ、飲めなくてもいいやと、クルマででかける。恵比寿駅真横にあんなに大きなコイン・パーキングができたとは。本来は、どんなビルを立てる計画がここにあったのか。オープニングのサーヴィス価格のようだが、30分300円は場所を考えたら安い。

 恵比寿・リキッドルーム。うわ、外気温と場内温度が鬼みたいに違う。中に入ったら、一気にかけていた眼鏡が曇った。皆でイエ〜イ的なライヴの盛り上がりで名高い、フロリダのスカ・パンク・バンド(パンクというには、危なげがなさ過ぎとは、思うが)の出演。リード・ヴォーカル/ギター、ベース、ドラム、トロンボーン、テナー・サックス。皆汗だく、客も汗だく。んな、感じの場内。終始、モッシュは起こっていて、ぼくは若人頑張ってるなーと後方から見る。

 曲間にはけっこうMCを挟む。それ、おうおうにしてたわいなく、下品。で、客に働きかけ、いじりまくり。客をステージにあげて、ビール早飲み大会をやったりも。少しオーディエンスとデレデレしすぎとも感じるが、それは飲めないため傍観者キブンが増幅されていたせいかもしれない。なんにせよ、メンバー・チェンジはしているものの、結成20年近くたっても、いまだこんだけ軽いパーティ・バンドのりを続けているのは、なかば驚異的。この送り手と受け手の仕切りの低さはすごいと書くこともできるだろう。イナセにスカ調ビート曲をやる場合は、フィッシュボーン(2010年7月31日、他)とも愛好者は重なるんだろうなと思わせられたりも。そしたら、頑張れ〜という気持ちが強くなった。

シャニース

2010年10月29日 音楽
 87年に14才でモータウンからデビューした、フィアデルフィア出身の歌えるR&B歌手。丸の内・コットンクラブ、ファースト・ショウ。

 昔、インタヴューしたことがあるはずだが、その詳細はぜんぜん覚えていない。でも、ヒット曲「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」はなんか頭のなかにどっか〜んと残り続けている。ほんと、それぐらい、幸せなキブンに溢れた名曲だな。彼女、90年代末にはベイビーフェイスのラフェイス・レーベルからアルバムを出したこともあった。

 キーボード、ベース(鍵盤ベースも一部で)、ミュージカル・ディレクターも兼ねるドラマー(昔のメアリー・Jのライヴ盤で叩いている人)、そして二人の女性コーラスという陣容。みな、アフリカ系。そして、どの曲でもプリセットのトラックを下敷きにするが、違和感はなし。ただし、出音はかなり大きい。が、そんなの問題ないという感じで、シャニースは歌う。うぬ、やっぱり喉自慢の人。MCで曲作りは大好きと言っていたが、後でアルバムを見たら、なるほど全て共作ながら、彼女は昔から曲クレジットに名前を出す人だったのだな。ナラダ・マイケル・ウォルデン制作の「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」も例外ではない。が、そうは言いつつ、結構他の人の当たり曲を満面の笑みで歌ったりも。トニ・ブラクトンやミニー・リパートンやマイケル・ジャクソンや。リパートンの「ラヴィング・ユー」は今のところ新作となるらしい06年作でも取り上げているらしいが、あの高音部も何ら問題なく太く歌う。すげえ。そういやあ、昔は高音の歌い具合でマライア・キャリーかシャニースか、なんて言われたこともありましたっけ? マイケル・ジャクソン曲は3曲を披露し、プチ・トリービュート志向。いい歌唱(と微笑ましい、ジャクソンのほのかな真似)で、マイケル曲の良さが余す事なく、伝えられる。拍手。「ワナ・ビー・スターティン・サムシン」では、マイケル風の声の伸ばし方をもっと伸長させカっとび、チャカ・カーンの領域(やっぱり好きなんだろうな)に。あらら、するとそのままルーファスの「ワンス・ユー・ゲット・スターテッド」に続きそうな錯覚を覚えるじゃないか。

 アンコールで、「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」を披露。本当に聞く者を幸せにさせる美曲。で、彼女は一通り歌った後(フロアも回った)、ステージを降りたが、あららいけないという感じで戻ってきて(バンドはそのまま演奏している)、メンバー紹介をする。そのさい、プリセット音は消えて生サウンドだけとなり、4ビート調に。演奏者たちは短めにソロを回す。そのオペレイションはとても自然でした。それから、シャニースがとにかくいい人である事が伝わってきて、それも見る者をいい気持ちにさせたのではないか。このまま、ずっと歌い続けてほしいな、とも、見た後にしっかり思いました。

 台風上陸が一時は伝えられた日だが、普通に曇天。この10月最後の日は、熱心な音楽愛好者が鎌倉に集まった日、ではなかったかな。二つのお寺で、海外ミュージシャンの公演がなされたから。ぼくは、北鎌倉の建長寺(日本最初の禅寺、だそう。700年強の積み重ねを持つらしい)で開かれたフィンランド人2名とスウェーデン人による3人組トラッド・グループの公演の方に行く。暴風雨予想があったため外出予定を控えた人が多かったのか、行きも帰りも道はすいていて、ゆっくり運転してともに1時間少しの道のり。お寺の駐車場もすいていた。駐車場代600円、拝観料300円、なり。けんちん汁はここから広まった、とか。

 開演時間(16時半〜。一般拝観はその時刻までだったよう)より、だいぶ早くつき、いろいろ探索。ツっ込みを入れつつ(バチあたりなぼく。信心深くなさは、相当に自信がある)、ときにほんの少し感心しつつ。でも、普段とは異なる雰囲気はあるわけで、それはとってもうれしい。境内からのハイキング・コースもあり、その終点からは展望もいいようで、それはかなり歩きそう。隣の学校はここが経営しているのかな。

 公演が行われたのは、法堂(はっとう)という、普段は説法に使われるらしい、比較的正方形の立派な建物。パンフによると、1814年に再建され(新しい建物に感じたが)、関東では最大の木造建築ブツだそう。高さもそうとう持つ堂内の後方上部には、立派な千手観音菩薩が控える。その中央にミュージシャンたちが位置し、彼らを扇方にオーディエンスが囲む。客は説法のときも用いられるだろう、たくさん並べられた3人掛かけの長椅子に座り、実演を享受。なんか贅沢、なんか非日常、なんかスペシャル……そんな気持ちはやはりそこはかとなく湧いてくる。とともに、よくこんな所のライヴが実現したなという思いも、ごんごん湧いてくる。それは公演が進むにつれ、妙味ある音楽と場の重なり具合で、よけいに強まった。ソウダ、誰ガ音楽公演ハ音楽会場デヤラナキャイケナイナンテ言ッタンダ。そんな思いも、頭の中には渦巻く。

 フィドル2本とハーモニウムが重なる。とくにフィンランドのお二人は同国トラッド音楽界の至宝的な存在なのだそうだが、そんなことはぼくにはよく判らない。ましてや、ぼくはメンバー3人の名前さえちゃんと覚えていない門外漢リスナーであるが、やはり(だからこそ?)、じいーんとなりつつ、いろいろ啓発も受けた。2本の絡むフィドルは弾みつつも優美。そこに、ハーモニウムの音が重なるのだが、それが魔法のよう。なんとも、肌触りの良い揺れや淡い輝きやぬくもりが倍加し、3人の協調音が堂内に流れ出す様といったなら。もう一つのステージが表れるような感覚も得て、なんか此処は何処という感覚も得てしまう。ばしっと曲を終える演奏はしっかりと骨組/構成を持つものだろうが、途中は臨機応変に流れている感じもあって、それもおいしい誘いに転化する。完全生音での実演、だが、それも送り手のある種の息づかいを伝え、聞き手の耳の生理的聴覚を伸長させたはずだ。

 ところで、ハーモニウム。足踏みのオルガンのことで、ザ・ビートルズのファンだったら、その今は廃れた楽器名称に親近感を抱くかもしれない。彼らはピアノなんかとともにハーモニウムをレコーディングで用い、その名は彼らを語る際に出てきていたもの。わざわざ、その傷だらけの重そうな鍵盤楽器をフィンランドから運んだそうなのだが、確かにその柔和でアナログな音は感触が不思議なほど良い。それは奏法の妙味もあるのだろが、聞き手を入り込ませる温かい隙間と、すうっと聞く者を諭すような揺らぎを持つ。なるほど、そういう部分に着目して、ポールやジョン(やジョージ・マーティン)はハーモニウムを使ったのではないか、なーんて。なんか、ここで、ザ・ビートルズ表現の襞に思いをめぐらすとは思わなかった。  

 基本はトラッド曲をやっていたようだが、時にはオリジナルも。中盤でやった曲はどっちかは認知しなかったが、かなり今様な音楽的妙味を持つ曲で、ぼくはパット・メセニーが多大な興味を持ちそうだなと思わずにはいられず。あと、時にぼくにはロマ的と感じさせるメロディ感覚を持つ曲もあったな。一人のフィドル奏者は最後のほうの2曲で小さめの横に抱えて弾く弦楽器も手にする。また、アンコールのとっても祝福されたと書きたくなるしなやかに弾む好メロディ曲では3人がヴォーカルも取り、それもうれしい風情を堂内にもたらす。んー、そうしたいろんな美点は、やはり澄んだ空気と厳しい自然と夏場の開放感などが重なった北の国の生活と風習と機微が、気が遠くなるほど反映されたものだろう。そして、その因子は同地の非トラッド路線のロックやジャズ側の担い手のどこかにも流れるものであるのだろうな。

 帰りしな、知り合いもさそい、側の精進料理店(普段は食いたくないけど、こういう時はネ……)で食事をしていこうと思ったら、もう閉まっている。同じ屋号の少し離れたもう一つの方に行ったら、夜は予約客のみとか。うえん。もういいや、どうせ飲めないし。東京に戻る。行きは横浜横須賀道路の日野インターで降り、帰りは鶴岡八幡宮の横を通り朝比奈インターから入って帰る。それは、カー・ナヴィの指示、なり。近年のそれには観光地周辺はいろいろ回らせる機能がついている。って、それは大嘘。そんな戯れ言はともかく、ある意味シンプルな表現でありながら、ノルディック・トゥリーの表現はいろんな所を回らせ、いろんな事をオリエンテーションするような、やんわり聞き手に働きかける力を持っている。結果、それらは浮遊した感覚や、もう一つの場の感覚を聞く者に与えるのではないだろうか。秀逸な音楽ナヴィゲイター……。ぼくはこの晩、少し物知りで、ちょっと豊かに、ほんのり優しくなったような気がした。