ノルディック・トゥリー
2010年10月31日 音楽 台風上陸が一時は伝えられた日だが、普通に曇天。この10月最後の日は、熱心な音楽愛好者が鎌倉に集まった日、ではなかったかな。二つのお寺で、海外ミュージシャンの公演がなされたから。ぼくは、北鎌倉の建長寺(日本最初の禅寺、だそう。700年強の積み重ねを持つらしい)で開かれたフィンランド人2名とスウェーデン人による3人組トラッド・グループの公演の方に行く。暴風雨予想があったため外出予定を控えた人が多かったのか、行きも帰りも道はすいていて、ゆっくり運転してともに1時間少しの道のり。お寺の駐車場もすいていた。駐車場代600円、拝観料300円、なり。けんちん汁はここから広まった、とか。
開演時間(16時半〜。一般拝観はその時刻までだったよう)より、だいぶ早くつき、いろいろ探索。ツっ込みを入れつつ(バチあたりなぼく。信心深くなさは、相当に自信がある)、ときにほんの少し感心しつつ。でも、普段とは異なる雰囲気はあるわけで、それはとってもうれしい。境内からのハイキング・コースもあり、その終点からは展望もいいようで、それはかなり歩きそう。隣の学校はここが経営しているのかな。
公演が行われたのは、法堂(はっとう)という、普段は説法に使われるらしい、比較的正方形の立派な建物。パンフによると、1814年に再建され(新しい建物に感じたが)、関東では最大の木造建築ブツだそう。高さもそうとう持つ堂内の後方上部には、立派な千手観音菩薩が控える。その中央にミュージシャンたちが位置し、彼らを扇方にオーディエンスが囲む。客は説法のときも用いられるだろう、たくさん並べられた3人掛かけの長椅子に座り、実演を享受。なんか贅沢、なんか非日常、なんかスペシャル……そんな気持ちはやはりそこはかとなく湧いてくる。とともに、よくこんな所のライヴが実現したなという思いも、ごんごん湧いてくる。それは公演が進むにつれ、妙味ある音楽と場の重なり具合で、よけいに強まった。ソウダ、誰ガ音楽公演ハ音楽会場デヤラナキャイケナイナンテ言ッタンダ。そんな思いも、頭の中には渦巻く。
フィドル2本とハーモニウムが重なる。とくにフィンランドのお二人は同国トラッド音楽界の至宝的な存在なのだそうだが、そんなことはぼくにはよく判らない。ましてや、ぼくはメンバー3人の名前さえちゃんと覚えていない門外漢リスナーであるが、やはり(だからこそ?)、じいーんとなりつつ、いろいろ啓発も受けた。2本の絡むフィドルは弾みつつも優美。そこに、ハーモニウムの音が重なるのだが、それが魔法のよう。なんとも、肌触りの良い揺れや淡い輝きやぬくもりが倍加し、3人の協調音が堂内に流れ出す様といったなら。もう一つのステージが表れるような感覚も得て、なんか此処は何処という感覚も得てしまう。ばしっと曲を終える演奏はしっかりと骨組/構成を持つものだろうが、途中は臨機応変に流れている感じもあって、それもおいしい誘いに転化する。完全生音での実演、だが、それも送り手のある種の息づかいを伝え、聞き手の耳の生理的聴覚を伸長させたはずだ。
ところで、ハーモニウム。足踏みのオルガンのことで、ザ・ビートルズのファンだったら、その今は廃れた楽器名称に親近感を抱くかもしれない。彼らはピアノなんかとともにハーモニウムをレコーディングで用い、その名は彼らを語る際に出てきていたもの。わざわざ、その傷だらけの重そうな鍵盤楽器をフィンランドから運んだそうなのだが、確かにその柔和でアナログな音は感触が不思議なほど良い。それは奏法の妙味もあるのだろが、聞き手を入り込ませる温かい隙間と、すうっと聞く者を諭すような揺らぎを持つ。なるほど、そういう部分に着目して、ポールやジョン(やジョージ・マーティン)はハーモニウムを使ったのではないか、なーんて。なんか、ここで、ザ・ビートルズ表現の襞に思いをめぐらすとは思わなかった。
基本はトラッド曲をやっていたようだが、時にはオリジナルも。中盤でやった曲はどっちかは認知しなかったが、かなり今様な音楽的妙味を持つ曲で、ぼくはパット・メセニーが多大な興味を持ちそうだなと思わずにはいられず。あと、時にぼくにはロマ的と感じさせるメロディ感覚を持つ曲もあったな。一人のフィドル奏者は最後のほうの2曲で小さめの横に抱えて弾く弦楽器も手にする。また、アンコールのとっても祝福されたと書きたくなるしなやかに弾む好メロディ曲では3人がヴォーカルも取り、それもうれしい風情を堂内にもたらす。んー、そうしたいろんな美点は、やはり澄んだ空気と厳しい自然と夏場の開放感などが重なった北の国の生活と風習と機微が、気が遠くなるほど反映されたものだろう。そして、その因子は同地の非トラッド路線のロックやジャズ側の担い手のどこかにも流れるものであるのだろうな。
帰りしな、知り合いもさそい、側の精進料理店(普段は食いたくないけど、こういう時はネ……)で食事をしていこうと思ったら、もう閉まっている。同じ屋号の少し離れたもう一つの方に行ったら、夜は予約客のみとか。うえん。もういいや、どうせ飲めないし。東京に戻る。行きは横浜横須賀道路の日野インターで降り、帰りは鶴岡八幡宮の横を通り朝比奈インターから入って帰る。それは、カー・ナヴィの指示、なり。近年のそれには観光地周辺はいろいろ回らせる機能がついている。って、それは大嘘。そんな戯れ言はともかく、ある意味シンプルな表現でありながら、ノルディック・トゥリーの表現はいろんな所を回らせ、いろんな事をオリエンテーションするような、やんわり聞き手に働きかける力を持っている。結果、それらは浮遊した感覚や、もう一つの場の感覚を聞く者に与えるのではないだろうか。秀逸な音楽ナヴィゲイター……。ぼくはこの晩、少し物知りで、ちょっと豊かに、ほんのり優しくなったような気がした。
開演時間(16時半〜。一般拝観はその時刻までだったよう)より、だいぶ早くつき、いろいろ探索。ツっ込みを入れつつ(バチあたりなぼく。信心深くなさは、相当に自信がある)、ときにほんの少し感心しつつ。でも、普段とは異なる雰囲気はあるわけで、それはとってもうれしい。境内からのハイキング・コースもあり、その終点からは展望もいいようで、それはかなり歩きそう。隣の学校はここが経営しているのかな。
公演が行われたのは、法堂(はっとう)という、普段は説法に使われるらしい、比較的正方形の立派な建物。パンフによると、1814年に再建され(新しい建物に感じたが)、関東では最大の木造建築ブツだそう。高さもそうとう持つ堂内の後方上部には、立派な千手観音菩薩が控える。その中央にミュージシャンたちが位置し、彼らを扇方にオーディエンスが囲む。客は説法のときも用いられるだろう、たくさん並べられた3人掛かけの長椅子に座り、実演を享受。なんか贅沢、なんか非日常、なんかスペシャル……そんな気持ちはやはりそこはかとなく湧いてくる。とともに、よくこんな所のライヴが実現したなという思いも、ごんごん湧いてくる。それは公演が進むにつれ、妙味ある音楽と場の重なり具合で、よけいに強まった。ソウダ、誰ガ音楽公演ハ音楽会場デヤラナキャイケナイナンテ言ッタンダ。そんな思いも、頭の中には渦巻く。
フィドル2本とハーモニウムが重なる。とくにフィンランドのお二人は同国トラッド音楽界の至宝的な存在なのだそうだが、そんなことはぼくにはよく判らない。ましてや、ぼくはメンバー3人の名前さえちゃんと覚えていない門外漢リスナーであるが、やはり(だからこそ?)、じいーんとなりつつ、いろいろ啓発も受けた。2本の絡むフィドルは弾みつつも優美。そこに、ハーモニウムの音が重なるのだが、それが魔法のよう。なんとも、肌触りの良い揺れや淡い輝きやぬくもりが倍加し、3人の協調音が堂内に流れ出す様といったなら。もう一つのステージが表れるような感覚も得て、なんか此処は何処という感覚も得てしまう。ばしっと曲を終える演奏はしっかりと骨組/構成を持つものだろうが、途中は臨機応変に流れている感じもあって、それもおいしい誘いに転化する。完全生音での実演、だが、それも送り手のある種の息づかいを伝え、聞き手の耳の生理的聴覚を伸長させたはずだ。
ところで、ハーモニウム。足踏みのオルガンのことで、ザ・ビートルズのファンだったら、その今は廃れた楽器名称に親近感を抱くかもしれない。彼らはピアノなんかとともにハーモニウムをレコーディングで用い、その名は彼らを語る際に出てきていたもの。わざわざ、その傷だらけの重そうな鍵盤楽器をフィンランドから運んだそうなのだが、確かにその柔和でアナログな音は感触が不思議なほど良い。それは奏法の妙味もあるのだろが、聞き手を入り込ませる温かい隙間と、すうっと聞く者を諭すような揺らぎを持つ。なるほど、そういう部分に着目して、ポールやジョン(やジョージ・マーティン)はハーモニウムを使ったのではないか、なーんて。なんか、ここで、ザ・ビートルズ表現の襞に思いをめぐらすとは思わなかった。
基本はトラッド曲をやっていたようだが、時にはオリジナルも。中盤でやった曲はどっちかは認知しなかったが、かなり今様な音楽的妙味を持つ曲で、ぼくはパット・メセニーが多大な興味を持ちそうだなと思わずにはいられず。あと、時にぼくにはロマ的と感じさせるメロディ感覚を持つ曲もあったな。一人のフィドル奏者は最後のほうの2曲で小さめの横に抱えて弾く弦楽器も手にする。また、アンコールのとっても祝福されたと書きたくなるしなやかに弾む好メロディ曲では3人がヴォーカルも取り、それもうれしい風情を堂内にもたらす。んー、そうしたいろんな美点は、やはり澄んだ空気と厳しい自然と夏場の開放感などが重なった北の国の生活と風習と機微が、気が遠くなるほど反映されたものだろう。そして、その因子は同地の非トラッド路線のロックやジャズ側の担い手のどこかにも流れるものであるのだろうな。
帰りしな、知り合いもさそい、側の精進料理店(普段は食いたくないけど、こういう時はネ……)で食事をしていこうと思ったら、もう閉まっている。同じ屋号の少し離れたもう一つの方に行ったら、夜は予約客のみとか。うえん。もういいや、どうせ飲めないし。東京に戻る。行きは横浜横須賀道路の日野インターで降り、帰りは鶴岡八幡宮の横を通り朝比奈インターから入って帰る。それは、カー・ナヴィの指示、なり。近年のそれには観光地周辺はいろいろ回らせる機能がついている。って、それは大嘘。そんな戯れ言はともかく、ある意味シンプルな表現でありながら、ノルディック・トゥリーの表現はいろんな所を回らせ、いろんな事をオリエンテーションするような、やんわり聞き手に働きかける力を持っている。結果、それらは浮遊した感覚や、もう一つの場の感覚を聞く者に与えるのではないだろうか。秀逸な音楽ナヴィゲイター……。ぼくはこの晩、少し物知りで、ちょっと豊かに、ほんのり優しくなったような気がした。