映画少年じゃなかったので、彼の名前をちゃんと認知したのはだいぶ後になってからだが、マジ人並外れた作曲家であるのは間違いない。ブルガリやアルマーニやグッチやプラダといったファッション・ブランドやフェラーリやマセラッティやアルファロメオといった自動車メイカーのような誉を、音楽という分野においては一番与えてくれるイタリアの才人ではないだろうか。ちゃんとクラシック教育を受けた末に、メロディ性や詩情を持つ芳醇な音楽を作った御仁。おそらく、ぼくは彼が作った映画音楽の10分の1も知らないかもしれないが、深く頭を垂れるしかない。ローマ生まれで、ローマに死す。転倒による大腿骨の骨折が導く合併症で、91歳でお亡くなりになったという。

<今日の、追記>
 R.I.P.の原稿には、<今日の、〜>をつけないのねと知人から言われたので、今回からいつの回でも復活させることにする。まあ、考えるところがあって、そして、ライヴに行くようになったらちゃんと復活させようと思っていたのだが。モリコーネは熱い社会党支持者として知られるが、昨日の選挙の結果は分かっていてもあーあ。毎度のことながら、悲しくなる。って、こんなおり極右なのは置いておいても、私利私欲のみに走るだけで人として腹をくくることができない日本や東京の長は酷すぎる。
 ところで、モリコーネは2019年に日本の旭日小綬章を受賞をしているが、旭日双光賞(旭日小綬章より一つ下になるよう)を今年受賞したのは、南アフリカのジャズ・ピアニストのアブドゥーラ・イブラヒム(2011年8月7日)。実はそれもあり、イブラヒムには毎日新聞用にメール・インタヴューをした。新聞記事は答えの一部しか使えていないので、ここに全文を出しておく。(現在、イブラヒムが所属する英国ギアボックスの日本窓口を務めるロミさん、間に入ってくれてありがとう)

——旭日双光賞の受賞、おめでとうございます。長年のあなたのアフリカの大地に根ざした音楽活動が評価を受けたことを嬉しく思います。
「このような名誉ある賞を南アフリカの人間である私が授けられたこと、この場を借りて天皇陛下へ感謝の気持ちをお伝えしたいです。
 もう長い間日本のみなさん、そして日本の文化は私の音楽や表現を受け入れてくれました。そのおかげで日本と南アフリカの友好関係の強化に貢献することができました」
——ところで、あなたは親日家であり、日本の古武道の八神流躰術を熱心に学んでいることも知られます。そもそもいつ頃、どんな形で八神流躰術に出会ったのでしょうか?
「日本文化には無限でタイムレスな本質的知識が埋め込まれています。部外者である私はその輝かしい文化を最小限に観察して、畏敬の念と誠実さをもって取り入れているだけです。私がまだケープ・タウンの若い学生の頃、読書をきっかけに日本と南アフリカの文化に存在する共通点というものを学び、興味をそそられました。そこから当時私と若い研究者仲間たちとを結ぶ唯一の共通項であった空手に情熱を注ぐようになり、どんどんと謎めく日本にのめりこんでいきました。その後私の研究はケープ・タウンの奴隷制度や、南アフリカに渡った最初の日本人であるアンソニー(・ファン・ヤパン)についてへと拡大しました。2018年の在ケープタウン領事館開設100周年記念行事の際に私は、アンソニーの眠る墓を日本領事館員に伝えたことを記憶しています。
 1960年代というのは、我々多くの人間にとって弾圧的な南アフリカから亡命する時期だったんです。私はヨーロッパやアメリカへ渡りました。コンサートで滞在していたコペンハーゲンで武道家のトネガワ先生と出会い、私を弟子にすることを認めてくださいました。先生との関係はもう50年を超え、先生の教えである武術八神流躰術を今でも私は日々行なっています」
——あなたは日本の染物などにも詳しく、とても日本の文化を愛してくださっています。そうしたことは、あなたの生き方や音楽に影響しているのでしょうか?
「私が日本文化に最も共鳴する点はマナーを重んじていること。人間や自然に感謝と敬意を表すところです。伝統芸能の一つである能が、日本人の創造力を象徴する典型的な例です。その根底にある原理は、ジャズの芸術形式にも当てはまります。とりわけ能管の高周波のサウンドは、心音のように暗示する調性の中心音や律動的な鼓動に左右されずに、即時に物語を紐解くことに貢献します。それは二度と同じものを再現することができない即興音楽ジャズでも同じことです。抱くだけ無駄な願望、武道の持つ基本原理ですね。
 コスモロジー、原始地球、動物、そして銀河系やテクノロジーに対するヴィジョンは、日本とアフリカが共有しています」
——現在もケープ・タウン郊外の広大な土地に自然と共存する形で生活しているのですか。いま、Covid-19が世界的に感染していますが、ケープタウンの街の様子はどんな感じでしょうか?
「私の居住地は南アフリカとドイツ・アルプスにあります。普段はそこから世界中へコンサートに出向くのですが、今は公演が全て延期になってしまったので、山々や自然に囲まれたドイツの自宅でロックダウンを過ごしています。近々レコード会社Gearbox Recordsとともにオンラインでピアノのマスタークラス・シリーズを実施する予定です」
——あなたが取り組んでいる“Green Kalahari Project”のことを簡単に教えてください。
「アブドゥーラ・イブラヒム財団を通して、ジャズ・ミュージックというジャンルにおける私の貢献を保存したいと考えました。それを目的に、私は南アフリカのカラハリ砂漠に800ヘクタールの農場を手に入れ、施設を建設することにしました。美学、自然保護に対する総体的なアプローチを学ぶことが重要だと感じたからです。日本の象徴的な概念である「里山」と同じことです。様々な分野で共感して貢献してくれる方々を求めて、現在このプロジェクトの実現に向けて寄付金を募っています。世の中の若い世代の子達が、将来平和と期待に満ちた世界で生活できることを目指して。日本の若者や名人らが衛星中継、または実際に参加できる交流プログラムも思い描いています」
——アルバム『The Balance』は管楽器奏者たちも擁しての、滋味に満ちた仕上がりです。どんなアルバムにしたかったのでしょう? ロンドン録音ですよね。
「新しいものもあれば、再現したものもある、多数の作品から成る小宇宙です。今なおも探究し続けている、人生や人間関係において必要なバランスを確立することについての経験や物語の楽曲たちです。偉大なるマエストロ、デューク・エリントンの言葉を借りるのであれば、”音楽において最も重要なのは耳を傾けること”」。
——『The Balance』(Gearbox,2019年)はあなたの顔のアップをジャケット・カヴァーに用いています。そうした理由は?
「私がレーベルに提案したんです。このアルバムのジャケットにふさわしいのは、年老いた者の写真ではないかと」
——1960年代前半にヨーロッパに渡りデューク・エリントンと出会ったことをはじめ、あなたは1990年代に南アに戻るまで、様々な経験を重ねてきました、「Mannenberg」のように、南アの人々の拠り所となるような曲も書いています。そうしたキャリの中で、あなたの音楽観は変わってきていることもあれば、まったく変わっていないこともあると思います。それぞれを教えてください。今も好奇心旺盛に、様々なことをしているあなたには感服せざるをえません。そのモチヴェイションとなっているものはなんでしょう?
「音楽創作、芸術的試み、そして武道は全て同じ原理を持ち合わせています。生涯にわたる自己発見への探究、見返りを求めないで誰かとものを分け合うと言った精神です。何かを悟るたびにそれがモチベーションとなり、新たな扉を開ける鍵となります。私の今後の予定は、M7(ケープ・タウンのミュージシャンのために創設した音楽学校)やグリーン・カラハリ・プロジェクトを推進すること、そして新しい音楽を発表することで、悟りを得ることです」

▶︎過去の、アブドゥーラ・イブラヒム
https://43142.diarynote.jp/201108101635051749/

Don’t Know Why? / Pat Metheny 『One Quiet Night』 (Nonesuch,2003年)
Overjoyed / Danilo Perez『 ...Till Then』(Verve,2003年)
Just the Way You Are / Till Brönner ‎『Blue Eyed Soul』 (Verve,2002年)
Yozora no Muko / The Andy Azrin Trio 『Plays J-Pop Hits Vol.2』(M&I,2000)
People Make the World Go Round / Nicholas Payton『Payton’s Place』(Verve,1998年)
Calling You / Quasimode 『My Favorite Songs』 (Blue Note,2014年)
We Will Rock You / Keiko Lee 『The Golden Rule』 (Sony,2019年)
Strasbourg/St. Denis / Roy Hergrove『Earfood』 (EmArcy,2008年)
Teen Town / Yosuke Inoue 『New Stories』 (M&I,2019年)
Human Nature / Miles Davis 『Your Under Arrest』(Columbia,1985年)

<今日は、七夕>
 JALの国際線機内放送の選曲、ありがたいことに通常時のように選曲してくださいとにことで、<3〜4月>と<5〜6月>とコンパイルしてきたわけだが〜いや、今<11〜12月>選曲作業を終えつつあるといった感じで基本4ヶ月は先に作業は進められているので、ちょうど今月分からダークな状況のもとでの選曲となる〜、やはりどこかちゅうぶらりんな感じはなくはなかった。とくに国際線は結構飛んでいなかったはずで、選曲したチャンネルをどのぐらいの人が聞くのだろうかと。。。。ちゃんと、作業していますどね。7月からの回は少し聞く機会を持つ人が増えるかな。とはいえ、予断を許さないのが悲しい。
 とうぜん、家には七夕の笹飾りなどしておらず〜子供のころはやってたっけ?〜短冊を書く機会もないが、今それを書くとしたら、マジメになんとか早くウィルス禍が収まりますように、と書くかな。今、各地の七夕祭りは学校が休みになったほうが盛り上がるからか、8月に行われるものも多いと聞く。今年の生徒/学生の夏休みはどんな日程が取られるのだろう。自分本位だが、じじいで良かった。ぼくが多感なガキだったらそうとう世をはかないめっぽう塞ぎ込むだろうし、イキがった小僧ならもう爆発寸前という感じになっちゃうはず。

 クリーヴランド・イートンが4ヶ月にわたる入院のあと、アラバマ州バーミンガムで亡くなった。彼は生まれたアラバマ州フェアフィールドに居住していたはずなので、最後は入院のため近くの大都市であるバーミンガムに移っていたのだろうか。音楽一家に育ち、いろんな楽器に親しむとともに、楽器を家に持ち帰ることを許され、高校時代からダブル・ベースを弾くようになった。テネシー州の大学で音楽を学んだ後、彼はシカゴで活発に活動を始める。そのため、彼をシカゴ生まれとするあちらの記載も認められる。
 東京オリンピックのころからバンキー・グリーンやソニー・コックスらキャデットのレコーディングに関わった。そして、「ジ・イン・クラウド」を大ヒットさせた(その威光を借り、リズム・セクションのエディ・ヤングとアイザック・ホルトは新たにピアニストを雇いヤング・ホルト・アンリミテッドとして新規活動する)、1965年からはラムゼイ・ルイス(2008年7月2日、2009年8月29日、2010年9月28日、2011年8月22日、2013年2月21日)のトリオに加入。その相棒ドラマーはE.W.&F. (2006年1月19日、2012年5月17 日)を後に組むモウリス・ホワイトだった。そのトリオで1968年には日本公演も行い、東京でのライヴ盤はキャディットからリリースされている。ホワイトが抜けて以降も彼はルイスのトリオにとどまり続けるとともに、テリー・キャリア(2002年5月21日、2004年4月19日、2005年2月17日、2007年3月8日、2009年9月15日)ら周辺のレコーディングに参加した。
 とともに、弾んだ質感を持つベース演奏(ブーストもしていた)をしつつリーダーとしてもアルバムを発表する。P-ヴァインから日本盤も出ているブラック・ジャズ発の『Plenty Good Eaton』(1975年)は自らも歌い、ジャズとソウルが見事に溶け合った、当時の都会的なアフリカ系アメリカ人の生活感を描いた傑作として有名だ。彼の1970年代にはあと2枚リーダー作を出しているはずだが、その総花型グルーヴィ表現はいまだ有効だ。
 そんなイートンは1980年ごろからカウント・ベイシーのオーケストラ(2010年12月28日、2011年9月3日、2014年12月22日)に加入し15年は在籍したはず。でも、キャラも立った彼(ルックスも風情あり)は親分亡き後(ベイシーは1984年に逝去)の著名ジャズ・ビッグ・バンドにしっかりとひっかかりをもたらしたのではないか。
 1990年代中盤を回ると、彼はアラバマ州に戻り、悠々の音楽活動を続けていたようだ。
▶︎過去の、ラムゼイ・ルイス
http://43142.diarynote.jp/200807031119590000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090829
http://43142.diarynote.jp/201009290720426339/
http://43142.diarynote.jp/201109100857091783/
http://43142.diarynote.jp/201302281043262653/
▶過去の、E.W.&.F.
http://43142.diarynote.jp/200601271855390000/
http://43142.diarynote.jp/201205301252113538/
▶︎過去の、テリー・キャリア
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-5.htm
https://43142.diarynote.jp/200404190049350000/
http://43142.diarynote.jp/200502232039250000/
http://43142.diarynote.jp/200703101608130000/
http://43142.diarynote.jp/200909181206531984/
▶過去の、ベイシー・オーケストラ
http://43142.diarynote.jp/201101061048518045/
http://43142.diarynote.jp/201109121452527893/
https://43142.diarynote.jp/201412281018298837/

 また、ウェスト・コーストの重鎮ドラマーであるジョー・ポーカロ(2015年11月14日)の訃報もとどいた。息子は、ドラムのジェフ、ベースのマイク、鍵盤のスティーヴ、3人の息子たちはTOTO(2011年9月27日)を結成。すでにジェフとマイクは鬼籍に入っている。最後は家族に看取られ、自宅でお亡くなりになったという。
 当時先端の音楽であったジャズに邁進。業界入りし、スタジオ・ミュージシャン的な活動を始めて、映画音楽にも関わった。そして、メインストリームの移行とともに、ポップ側のセッションもしている。晩年はジャズ・ヴァイブラフォン奏者のエミール・リチャーズと一緒にコンボ活動をしており、その単位で来日(2015年11月14日)もした。

▶︎過去の、ジョー・ポーカロ
https://43142.diarynote.jp/201511181201122137/
▶過去の、TOTO
http://43142.diarynote.jp/201109300923303323/

<今日の、小さな世界>
 ズームのミーティングは可能ですか? との、メールあり。やっぱ、そういうの疎い人間と思われているんだろうな。コロナ禍のおりテレワークが推進されるなかでズームが脚光を浴び始めたおりは、確かにオレには関係ねえと思っていた。だが、ある大学のゼミ授業にゲストで出たり、打ち合わせしたり、インタヴューしたりで、なにかと使うようになっている。でもって、取材がズームを介してのものだと、わざわざ外に出向かずできちゃって楽だ(し、時間のロスが少ない)なと思う自分がいる。うひゃあ。
 とうぜん、ズームを使う場合はPCが置いてある仕事部屋でする(一度、居間にPCを持って出てやったら、いまいち塩梅が良くなかった)。その場合、机の背後は立派なラックを壁一面に設置してのCD群の壁。ズームの相手はまず、それにすごいですねと反応する。机の逆側はオーディオ機器とともにアナログ・レコード群の壁。反対だったらもっと格好いいのにと思うぼくは、小さな音楽的感性のなかで生きている? 普通だったら、綺麗な壁とともに、横には草木があり、またイケてるドロウイングとか飾ってあったほうが格好いいと思う? 

 南青山・ブルーノート青山、ファースト・ショウ。同所は少し前からぼちぼち(とびとびに)ライヴをやりはじている。で、すでにここにライヴを見に行った知人から、対面座りをやめ、片側だけに観客を座らせるようになっていると聞いていたが、なるほどそのとおり。すると、定員入場者数はほぼ半分となりますね。飲み物と食べ物のメニューは平常時よりは簡素版のものになっていた。ここは出演アーティストごとに特別ドリンクを組んでいたが、ビル・フリゼールやロイ・エアーズら過去の3アーティストのそれがメニューに載せられている。とくに評判が良かったり、考案者自信のブツであるのだろうか。テーブルにもすべてではないが、アルコール消毒ボトルが置かれている。それは、ありがたいかも。

 なお、会場には3つのカメラ/カメラマンが設置/いて、が、セカンドは有料配信もされているよう。

 この日と明日の出し物は、エレクトリック・ギターの小沼ようすけ(2004年11月30日、2010年10月12日、2011年3月28日、2011年3月31日、2011年7月25日、2013年7月1日、2014年2月5日、2017年4月29日)、ギターと詠唱のカイ・ペティート、パーカッションの岩原大輔、ドラマーの沼澤尚(1999年8月11日、2000年2月14日、2000年7月29日、2001年2月18日、2001年6月29日、2001年12月9日、2001年12月22日、2002年7月21日、2002年11月15日、2003年2月11日、2003年3月13日、2003年6月22日、2004年1月16日、2004年1月30日、2004年2月21日、2005年2月15日、2005年4月11日、2005年7月30日、2005年9月14日、2005年10月30日、2006年4月17日、2006年5月30日、2006年8月11日、2006年8月24日、2006年12月28日、2007年1月26日,2007年6月3日、2008年1月30日、2008年1月31日、2010年1月12日、2011年10月8日、2012年10月10日、2013年1月6、2013年1月7日、2014年9月2日、2015年10月3日、2016年9月27日、2016年11月18日、2017年7月14日、2017年9月22日、2019年5月21日)の4人。小沼はベティートと岩原のトリオでここ3年ほど活動をしており、また昨年は沼澤とツアーする機会も持ったりもして、その2つを重ねるとおもしろくなると思いこの陣容にしたと、小沼が説明する。

 また、フレンチ・カリビアンのビート/風情を介した『Jam Ka Deux2』、その後の表現を求めているとも彼は言ったか。それはよく分からなかったが、くつろいだ風情のインストメンタルが、伸び縮む感覚を持ちつつ披露される。小沼と同様にピックを使わず演奏するカイ・ペティートは低い弦の2弦でベース音を出し、ジャンベの日本人エキスパートであると説明された岩原はジャンベを主体の演奏。沼澤はふだんよりもゆる〜い叩き口なり。

▶過去の、小沼ようすけ
http://43142.diarynote.jp/200412111738540000/
http://43142.diarynote.jp/201010191156412288/
http://43142.diarynote.jp/201104041100266528/
http://43142.diarynote.jp/201104041101072561/
http://43142.diarynote.jp/?day=20110725
http://43142.diarynote.jp/?day=20130701
http://43142.diarynote.jp/201402071150071550/
https://43142.diarynote.jp/201704300807298823/
▶︎過去の、沼澤尚
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm wマルコス・スザーノ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-2.htm ナッシン・バット・ザ・ファンク
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm シアターブルック 7.29フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm スガシカオ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-6.htm ナッシン・バット・ザ・ファンク
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm wマルコス・スザーノ 12/9
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm シアターブルック+マルコス・スザーノ12/22
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm W.パウリーニョ・モスカ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm サンパウロ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-2.htm ナッシン・バット・ザ・ファンク
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm  バーナード・ファウラー、ブロンディ・チャップリン、リサ・フィッシャー、ダリル・ジョーンズ、奥田民生、小原礼
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm シアターブルック
http://43142.diarynote.jp/200401160000000000/ w.勝井、怒怒、佐藤
http://43142.diarynote.jp/200402051858240000/ サンパウロ
http://43142.diarynote.jp/200402211239510000/ アズ・ウィー・スピーク
http://43142.diarynote.jp/?day=20050215 wマルコス・スザーノ
http://43142.diarynote.jp/200504151004040000/ w勝井
http://43142.diarynote.jp/?day=20050730 ザ・ブルース・パワー
http://43142.diarynote.jp/200509161722260000/ 大貫妙子
http://43142.diarynote.jp/200511130013450000/ wマルコス・スザーノ
http://43142.diarynote.jp/?day=20060417 ビッグ・ホーンズ・ビー
http://43142.diarynote.jp/200606071931300000/ w.勝井
http://43142.diarynote.jp/?day=20060811 wマルコス・スザーノ
http://43142.diarynote.jp/200608271342350000/ wマルコス・スザーノ
http://43142.diarynote.jp/200612291257400000/ wマルコス・スザーノ
http://43142.diarynote.jp/?day=20070126 OKI DUB AINU BAND
http://43142.diarynote.jp/200706061351450000/ ナスノ、不破、他
http://43142.diarynote.jp/200802051634040000/ w.勝井
http://43142.diarynote.jp/200802051630130000/ TOYONO
http://43142.diarynote.jp/201001131101085950/ blues.the-butcher-590213
http://43142.diarynote.jp/201110091300039780/ ナッシン・バット・ザ・ファンク
http://43142.diarynote.jp/201210111837516874/ OKI DUB AINU BAND
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/ ナッシン・バット・ザ・ファンク
http://43142.diarynote.jp/201301151819527787/ w.マルコス・スザーノ
http://43142.diarynote.jp/?day=20140902 blues.the-butcher-590213
http://43142.diarynote.jp/201510051403147675/ シアターブルック
http://43142.diarynote.jp/?day=20160927 大貫妙子
http://43142.diarynote.jp/?day=20161118 OKI AINU DUB BAND
http://43142.diarynote.jp/201707151654245284/ After School Hangout
https://43142.diarynote.jp/201709240955007593/ ナッシン・バット・ザ・ファンク
https://43142.diarynote.jp/201905220902467859/ シアターブルック

<今日の、感無量>
 3月16日以来の、ライヴ行きとなる。うわあ。実は、引きこもり期、ライヴに行きてえと、それに渇望するということはなかった。気持ちを切り替え、なるだけストレスを排する方向のもと、できることを粛々とこなすという方向にシフトし、日々を過ごしてきた。とはいえ、行ったら行ったでライヴはいいなあ、外でお酒を飲むのは楽しいなあ。という、ぼくのなかでの真理はいささかも揺るぎはしない。 
 ところで、運動不足でもあるし行き帰りともに会場と自宅の間を歩こう(検索したら、3,5k)と思ったが、雨天でフツーに電車で会場に向かう。だが、帰りは歩いた。渋谷で一時飲み屋休憩を挟んで。本日、過去最高の陽性者数が東京で出たというニュースが報じられ、雨天でもあったし、空いているかと思い入店したら、そうでもなかった。ブルーノートの体温計測器は36,1cで、飲み屋のほうは 36,5c.だった。

 清らかな歌声の持ち主である、ロンドン生まれの(うっすらサイケっぽいところもある)フォーク系シンガー/ソングライターであるジュディ・ダイブルの訃報が届く。闘病中であったようだ。まだ10代だった1967年にフェアポート・コンヴェンションに加入したが、2作目を作る前にグループを去り、彼女の後に入ったのが故サンディ・ディニーだった。

 当時、彼女はイアン・マクドナルドと付き合っており、ジャイルズ・ジャイルズ&フリップにも浅からず関係しており、ゆえに彼女はキング・クリムゾンの結成にも関与したという記載もなされる。2000年代に入りエストニア大使館で彼女はロバート・フリップと会い、それが縁で彼女の『The Whorl』(Talking Elephant、2006年)と『Talking With Strangers』(Genepool 、2009年)にはフリップの名前がギターとサウンドスケイプでクレジットされている。

  1970 年には、ジャッキー・マコーリーとのデュオ・ユニットであるトレイダー・ホームで『Morning Way』(Pye)をリリース。だが、1973年に貴族でもあったパーカッショニストのサイモン・デ・ラ・ベドイアー(彼はテン・イアーズ・アフターの1969年作『Stonedhenge』で叩いている)と結婚し、伯爵夫人〜とはいえ、裕福ではなかったよう〜となった彼女は音楽業界から離れてしまう。だが、1980年代初頭のフェアポート・コンヴェンションのライヴに彼女は数度参加した。

 そんな彼女は2000年代に入ると、旦那も亡くなり2人の子供も大きくなったためもあり、本格的に復帰。2004年以降、トーキング・エレファントやアシッド・ジャズなどからな何枚ものリーダー・アルバム群をリリースしている。また、2016年には自伝「An Accidental Musician: The Autobiography Of Judy Dyble」(Soundcheck Books)も出版された。

▶過去の、リチャード・トンプソン(フェアポート・コンヴェンション)
http://43142.diarynote.jp/201204160900538745/
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm
https://43142.diarynote.jp/201502271422421282/

<今日は、無気力>
 雨が降ると思っていたので、外出の予定を入れず。そしたら、少し晴れ間が見えるときもあり。あれれ。まあ、そういうときもあるサ。って、そういう場合も多い?

 エディ・ゲイルは知る人ぞ知る、広角型米国黒人音楽をクリエイトしたジャズ・トランペッター。ブルックリン生まれの彼の大々的な業界スタートはサン・ラーのアーケストラ(2000年8月14日、2002年9月7日、2003年7月25日、2014年7月4日)。1960年代上半期のことで、彼は結構ずっと緩く関わり続けたのかな。ゲイルはその関わりに多大な影響を受けており、それはブルーノートからリリースされたその名も『 Ghetto Music』(1968年)『Black Rhythm Happening 』(1969年)も如実に表れた。サン・ラーは宇宙を見上げたのに対し、ゲイルは足元〜ストリートに立脚して、様々な黒人音楽の音楽財産を謳歌する肉声も用いた親しみやすい作品を送出。前者では親指ピアノやスティール・パンも演奏し、後者にはエルヴィン・ジョーンズが入っていた。ゲイルはセシル・テイラーの『Unit Structures』 (1966年)やラリー・ヤングの『Of Love and Peace 』(1969年) など過度期ブルーノート重要作にも録音参加しており、ブルーノート・レコードは彼の死に際して、ネットで記事を組んでいる。

 1970年代に入ると彼は西海岸サンノゼに住むようになり、音楽的社会活動や音楽教育に鋭意あたるとともに、数作のリーダー作もリリース。また、2000代に入るとジャザノヴァ(2009年8月25日)やザ・シネマティック・オーケストラ(2002年7月27日)という欧州のジャズ流れの集団からレコーディング客演を求められもした。6人の子供、12人の孫、11人のひ孫に恵まれるなど家庭環境は円満だったようだが、癌で闘病していた。

▶過去の、サン・ラー亡き後のサン・ラー・アーケストラ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm
http://43142.diarynote.jp/201407051336285619/
▶︎過去の、ジャザノヴァ
https://43142.diarynote.jp/200909091018074627/
▶︎過去の、ザ・シネマティック・オーケストラ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm
 
 一方、レジナルド・ヘインズは、1970年代初頭に世に出たザ・エスコーツの中心人物であった人。そのザ・エスコーツはニュージャージーの刑務所で組まれたドゥーワップのコーラス・グループ(そりゃ獄中は楽器は演奏できないだろうから)で、プロデューサーのジョージ・カーの目に止まり、彼の制作によるファースト作『All We Need Is Another Chance』(Alithia,1973年)でデビュー。刑務所で録音された同作のジャケット・カヴァーは檻の中にいる面々の写真が使われた。少し粗めとも思うが、ザ・ミラクルズあたりを根に置く情あるヴォーカル・グループ作ですね。なかには当時のブラック・ムーヴィを想起させるような闊達なサウンド採用も認められ、異色の彼らのデビューは高揚していた“ブラック・イズ・ビューティフル”的意識や、また件の映画にある白い掟に従わないちょいワル黒人像が投影された部分もあったのではないか? 翌年にも、ザ・エスコーツはアルバムを出している。

 窃盗で収監されていたヘインズが一番刑期が短く、初アルバム・リリースのころには娑婆に出て活動を始めたが、メンバーのなかには終身刑だった人もいて、非収監者も加わったという。グループは10年近くで消滅したが、ヘインズはザ・リジェンダリー・エスコーツを組み活動。1990年代初頭にもザ・エスコーツ名義のアルバムが出ているという話もあり、それはディスコっぽいところもあるそう。なんにせよ、彼らのトラックはパブリック・エネミー(2005年8月14日、2009年7月25日)、J・ディラ、ジル・スコットらに活用されている。

▶︎過去の、スモーキー・ロビンソン/ザ・ミラクスズ
https://43142.diarynote.jp/201909260735539261/
▶︎過去の、パブリック・エネミー
http://43142.diarynote.jp/?day=20050814
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725

<ここのところの、逡巡>
 マンションの5年ごとの掛け捨ての火災保険が保証期間が今月いっぱい。更新するのに、地震保険も入れるかどうかを迷う。今まではまあ大丈夫っしょとタカをくくってきたが、さすがにそろそろと思わなくもなく……。しかし、そっちも入ると料金が150パーセント増しになるんだよなあ。そろそろ大規模修繕があり、場合によっては積立金だけで終わらない可能性もあると考えていたほうがいいだろうし、とかなんとか考えると、よけいに判断を躊躇する。普段はわりとキブン一発で決定しちゃうほうなのだが、それはこの状況下で仕事が立て込んでおらず(夜遊びもせず)、時間があるということと関係もする? 

 アラマーイルマン・ヴァサラット(2009年10月2日、2013年4月7日)という変調ミクスチャー・プログ・ロック・グループを率いていたフィンランド人リード奏者のスタクラ(Jarno “Stakula” Sarkula)が、病気でポルトガルでお亡くなりになった。北の不思議の国たるフィンランドの奇妙な味を体現するキャラクターに富んだ人だった。彼はイヴェンターの愛に恵まれ、極東においては最上の活動をすることができた。最後は、明るく暖かい地を選んだのかな? 

▶︎過去の、アラマーイルマン・ヴァサラット
https://43142.diarynote.jp/200910111331493710/
https://43142.diarynote.jp/201304091016036527/

 また、著名ジャズ・ピアニストと同じ名前を持つ、米国著名アフリカ系偉人の訃報も届いた。マーティン・ルーサー・キング以後の公民権運動を主導したと言ってもいいだろう彼は、5月下旬のジョージ・フロイドの死を発端とするブラック・ライヴズ・マター運動の世界的な広がりをどう感じていたろうか。

 差別のひどいディープ・サウスのアラバマ州の田舎町に小作人の10人兄弟の3番目として生まれ、15歳にときにキング牧師の存在を知り、彼に傾倒。そして、神学校や大学に通いながら、非暴力の公民権運動に身を投じるようになり、若いながらキング牧師流れの活動団体の重要メンバーとなっていく。当然、数々の妨害や迫害を受け、投獄されたこともあった。

 1981年にアトランタ市議会議員に当選し、政界に進出。1986年には民主党ジョージア州選出下院議員となり、以後17期連続で議員を務めてきた。民主党の大統領予備選にも2度ほど出たことがあったという。昨年暮れに、末期のすい臓がんであることを公表。ルイスの姿勢は、<ハードコア・リベラル>と評されもした。なお、キング牧師やルイス議員とも親しく、やはり公民権運動に身を投じていたC・T・ヴィヴィアン牧師も同じ日に95歳でお亡くなりになった。

<先日の、誤解>
 「良かったあ。(携帯)メールを出してもつながらないので、死んじゃったのかと思ったー」。これ、ちょい前のずっと会ってはいなかった知人からの電話に出た際の、先方の最初の言葉。オレ、そんなに死にそうかい? 昨年12月から、携帯をドコモからauに変えた。だって、とっても安くなるんだもん。ハードも含めて。それによってドコモの携帯メールは使えなくなり、上のような顛末になったわけ。おれ、あんまりドコモのメールは使っていなかったので、まいっかとキャリアを代えたことを公表していなかった。今、文書連絡をすることができるツールはいくつもあるわけだし。他に、ドコモの携帯メールが繋がらなくなって困惑している人はいないよな。

 西海岸のシンガー・ソングライターであり、マルチ・プレイヤーであり、アレンジやエンジニアリングもこなす才人〜西のトッド・ラングレン(2001年11月9日、2002年9月19日、2002年9月28日、2008年4月7日、2010年10月10日)と言う海外の知人がいたっけ〜の訃報が届いた。睡眠中に亡くなったとのこと。1960年代半ばにはガレージ・バンドのパレスガードにドラマーとして加わったりしていたが、まだ70歳であったのか。

 1967年にはローズ主体のグループ、ザ・メリー・ゴー・ラウンド(ラングレンに置き換えるならナッズと言える?)でA&Mからセルフ・タイトル作をリリース。そこに入った「タイム・ウィル・ショウ・ザ・ワイザー」はフェアポート・コンヴェンションが1968年作でディラン曲やジョニ・ミッチェル曲とともに取り上げた。その後、ローズは個人名のもとポッパーとして活動をはじめ、やはりA&Mから1970年にデビュー作を出している。だが、全部1人でまかなう彼の表現がアピールされたのは、1970年から73年にかけて3作品を出したABC/ダンヒル時代。弦音や管音が入った曲もあるが、クレジットを見ると1から10までローズ1人でやっている。

 だが、それ以後は表舞台から離れてしまい、彼は裏方家業に入る。それは3年で6枚リリースという契約をローズが守れず、ダンヒル側から訴えられ気分がだだ下がりになったからでもあった。だが、2016年にジェイソン・フォークナー(2009年11月16日)やロジャー・ジョセフ・マニングJr.ら旧ジェリーフィッシュ組がサウンド作りで助力した『Rainbow Ends』(Omnivore Recordings)で唐突に復活。そこには、エイミー・マン(2005年10月3日、2009年8月25日)、ジョン・ブライオン(2007年7月19日)、スザンナ・ホフス(2010年4月3日。彼女がいたバングルスも彼の曲を取り上げていた)、ネルス・クライン(2010年1月9日、2010年4月23日、2013年4月13日、2014年8月14日、2015年6月2日、2017年5月13日)のらの名前も見られた。

 実は、そんなにローズにはまったことはないが、彼の名前を見ると甘酸っぱい気持ちになる。なんかしょっちゅう海外取材に行っていたとき、取材相手のスタッフと意気投合し、ダンヒル盤をもらったんだよなー↑先のラングレンの例えはそいつによる。あのころ、弾けてたなー。

▶過去の、トッド・ラングレン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://43142.diarynote.jp/200804081929500000/
http://43142.diarynote.jp/201010111257003810/
▶︎過去の、ジェイソン・フォークナー
https://43142.diarynote.jp/200911171258036933/
▶︎過去の、エイミー・マン
https://43142.diarynote.jp/200510041102370000/
https://43142.diarynote.jp/200909091018074627/
▶︎過去の、ジョン・ブライオン
https://43142.diarynote.jp/200707232252110000/
▶︎過去の、スザンナ・ホフス
https://43142.diarynote.jp/201004080753113236/
▶過去の、ネルス・クライン
http://43142.diarynote.jp/?day=20100109 田村/藤井郷子ファースト・ミーティング
http://43142.diarynote.jp/201004250658039897/ ウィルコ
http://43142.diarynote.jp/201304150854159566/ ウィルコ
http://43142.diarynote.jp/201408161131356136/ チボ・マット
http://43142.diarynote.jp/201506070750376864/ ネルス・クライン・シンガーズ
https://43142.diarynote.jp/201705140938439184/ スコット・アメンドラ

<今日の、初めて>
 セミの鳴き声がちょい聞こえたときがあったよ。

 恵比寿でセイリン・シューズというアナログをかけるバーをやっていた、波岡淑朗さんがお亡くなりになった。年長の彼と知り合ったのは、まだ編集者をやっていたころの1980年代中期か。基本マニアックなロック愛好家という印象とともに、彼に原稿を頼んだことがあったよなー。いや、ソウルものも何気に詳しかったはず。昔、南青山のレコ屋“パイドパイパーハウス”に務めており、同僚後輩だった五十嵐正と一緒に引き抜かれて、ダイエー資本で別の外盤屋(渋谷公園通りにあった)を立ち上げたこともあった。それ、まだレコードに大きな商品力があったことを示す話ですね。
 
 “セイリン・シューズ”とは、リトル・フィート(2000年12月8日、2012年5月22日、2019年8月31日)初期のフォーキー・サイケな人気曲の名前。年長でいかつい風貌を持っていたが、なんか人懐こいとろころもあったためか、いつの間にか波ちゃんと呼ぶようになった。前職流れで、日本人ミュージシャンとの付き合いもいろいろ持ってもいた。旧ブログのどこかで書いているはずだが、彼のお店に行ったら、鈴木慶一(2004年12月12日、2011年8月7日、2013年8月11日)と山下達郎がいたこともあった。ここのところはガンで闘病中、最後に会ったのは去年の秋(だったよな?)、渋谷のバーで。彼が山下達郎のライヴを見た後に、店に入ってきた。そのころ入院中だったが、外出許可を取って見に出たと言っていたっけ。それなりに、元気そうではあったんだが。お疲れ様でした。

▶︎近年の、波ちゃんの店やに波ちゃんに触れたもの
https://43142.diarynote.jp/201710201214346567/
https://43142.diarynote.jp/201710240957109863/
▶︎過去の、リトル・フィートとか
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-12.htm
http://43142.diarynote.jp/201205301327209613/
https://43142.diarynote.jp/201909011034527807/
▶︎過去の、鈴木慶一
http://43142.diarynote.jp/200412212058580000/
http://43142.diarynote.jp/201108101635051749/
http://43142.diarynote.jp/201308130851402454/

 洒脱ジャズ・ヴォーカル女性部門1位に輝きそうな、アーニー・ロスが90歳間近で、肺気腫/心疾患のためニューヨークでお亡くなりになった。ロンドン生まれで、4歳から米国に居住。ガキんちょの頃から才能を発揮し、13歳のときに映画でジュディ・ガーランドの妹役をしたりもし、彼女は女優としていろいろ映画にも出ている。

 アルバムは1950年代初頭から出し、また1957年から62年にかけては、デイヴ・ランバートとジョン・へンドリックスとのユニットで一世を風靡。そんな彼女は、器楽ソロのラインに歌詞をのせて歌うヴォーカーリーズの名人でもあった。彼女がリード奏者のワーデル・ブレイの演奏ラインに歌詞をのっけた「トゥイステッド」はジョニ・ミッチェルが『コート・アンド・スパーク』(アサイラム、1974年)で取り上げた。ロスの訃報に際し、ミッチェルのサイトは「ランバート・ヘンドリックス&ロスは私にとってのビートルズだった」という彼女のインタヴュー発言を紹介している。その奔放な歌い口と同様に男や薬にも自由だった人とも伝えられ、ロンドンにクラブを持ったりしたことがあった。

<今日の、戻らぬ距離>
 名古屋のブルーノート(東京とは別の経営による)や日比谷のビルボードカフェ&ダイニングの閉店が発表されている。両店ともぼくは行く機会がなかったが、残念だ。ライヴがある日常ははまだまだ遠い。日産スタジアムでの、横浜ダービーに行きたかったな。でも、この現況では横浜は遠い。でも……。

 上野・東京文化会館で、ジャズ・ピアニストの小曽根真(2011年3月28日、2011年8月6日、2012年8月24日、2012年9月8日、2013年8月1日、2013年10月26日、2014年9月7日、2015年9月5日、2016年9月3日、2017年9月12日、2018年3月29日)と新日本フィルハーモニー交響楽団(2012年10月2日、2012年11月30日、2015年9月26日、2016年5月7日)の共演コンサートを見る。指揮は、1994年生まれの太田弦。本来指揮は米国人のアラン・ギルバートが務め、オケは彼やこの会場と近い東京都交響楽団(2013年10月26日)でなされる予定であったみたい。

 最初は、モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K488。3楽章で、30分。純正クラシックな演奏だろう。もちろん、ぼくは初めて聞く曲だ。すぐに、楽器音の重なりが優美と思う。管楽器奏者は少なめ、小曽根もクラシックのピアニストをまっとうする。

 休憩を挟んで披露されたのは、2003年秋の山形県国民文化祭のために井上ひさしに頼まれ小曽根が作ったピアノ協奏曲「もがみ」。それが彼にとって初めて書いたオーケストラの譜面だそう。今回は米国人編曲家のガース・サンダーランドによりスコアの改定がなされ、その初演とか。曲名のもがみは最上川のこと。最初の彼の出だしのピアノ演奏はとっても川のゆらゆらしている様を表すような演奏で頷く。こちらは、夏、冬、春をそれぞれ表す3楽章でなり、40分。

 モーツァルト曲と異なり、オーケストラの陣容が大きくなる。コントラバス奏者や菅楽器奏者の数がおおいに増え、打楽器奏者も4人後方に位置する。袖にはハモンド・オルガン(とレスリー・スピーカー)も置かれ、それは本来組み込まれる合唱団の代役音を小曽根じゃない人が弾く。そんな設定に現れているように、いろいろ強弱に満ちたドラマティックな演目と言えようか。アブストラクトというか、うねうなくねっているような部分も少なくなく、楽譜から目を話したら、どこだっけっとなっちゃのではないかとも、ぼくは思った。ブックレットには井上から「最上川舟唄」を素材として使ってほしいとの依頼があり、それに応じたとある。だが、この晩の演奏に触れる限り、そういう和の部分はぼくは感じなかった。

 それから、1部のアンコールでやった、クラリネット演奏をフィーチャーした小曲がとってもメロディアス&柔和な情緒を持つ曲でかなり良かった。そこでは、少しジャジーな指さばきを小曽根はした。

▶︎過去の、小曽根真
http://43142.diarynote.jp/?day=20110328
http://43142.diarynote.jp/?day=20110806
http://43142.diarynote.jp/?day=20120824
http://43142.diarynote.jp/?day=20120908
http://43142.diarynote.jp/?day=20130801
http://43142.diarynote.jp/201310280755386500/
http://43142.diarynote.jp/201409100930206205/
http://43142.diarynote.jp/201509211331298145/
http://43142.diarynote.jp/?day=20160903
http://43142.diarynote.jp/201709130923483891/
https://43142.diarynote.jp/201803301412566401/
▶過去の、新日本フィルハーモニー交響楽団
http://43142.diarynote.jp/201210060944303925/
http://43142.diarynote.jp/201212111331075592/
http://43142.diarynote.jp/201509291629428595/
https://43142.diarynote.jp/201605180734584558/
▶︎過去の、東京都交響楽団
https://43142.diarynote.jp/201310280755386500/

<今日の、ダウンタウン>
 世間における4連休のなかの、3日目。行きは、いつものように銀座線を使わず余計に10分かかるJRで向かう。地上換気がされるし、車内が空いてそうだから。そして、上野駅公園口を出るとすぐに会場があり、これは便利。地下鉄だと駅で降りて地下通路を延々歩き、地上に出てからも坂道を登るので、10分は楽にリカヴァリーできると思った。品川駅と高輪ゲートウェイ駅先までの間、向かって左側にエンプティな土地がごわーんと続いていて、あららら。このすごい資産価値がありそうとも思わせるが、何を作るのか?
 会場は満場だったが、きっちり1席づつ開けて座るようになっている。また、舞台前の4列(だったかな?)も空けられている。オーケストラ員の方々は黒い服を着ているが、マスク着用。ただし、管楽器奏者は楽器を口で吹かなきゃいけないので、当然マスクなし。小曽根と指揮者はマスクをしない。握手の代わりに、小曽根は指揮者やコンサート・マスターと肘を重ね合っていた。彼の演目終了後のMCによれば、「もがみ」は今年の3月に山形でやる予定だったところ、1回リハーサルをやったあとストップがかかったそう。そして、今回も先週から陽性者の数が増えているため、いつ中止の連絡が入るか気が気ではなかったとのこと。こうして今日、披露できるのが本当にうれしそうだった。
 彼は不思議な上着を着ており、休憩時に色違いのものに着替えていた。それ、前から見るといい生地で仕立てた普通のシャツのように見えるが、後ろは丈がどわーんと長く燕尾服のような見かけを持つというものだった。
 終演後、少し探索。アメ横(マスク40枚入りの箱を1000円で売っていた)の著名居酒屋の大統領のへんの飲み屋群、すごい密になっていておののく。ぼくはあんまり客引きを受けない人なのだが、ほんの少し歩いただけで、ケバブ屋と服屋の外国人から声をかけられる。客商売なんだからマスクぐらいはして、話しかけてよ。なんか、ケイオス……。
 知人ととっても密じゃない焼肉屋(こういう時分、外食するとしたら、火が通るものを出す店を選びがち)でゆったり食事し、帰りは銀座線の少し先の駅から乗車。歩いて帰ろうと思った……わけはなく、酔い覚ましをかねた運動ですね。けっこう、今日は歩いたんじゃないか。松坂屋の前を初めて通り、パルコがあること知った。パルコ上野店ではなく、パルコ屋と名乗っているよう。

 英国人ギタリスト/シンガーの、ピーター・グリーンの死が公表された。20歳になるとき入ったジョン・メイオール・ブルース・ブレイカーズが、大舞台の端緒。その前任者は、エリック・クラプトン(2006年11月20日)。1年在籍し、ホワイト・ブルース・バンドとしてスタートしたフリートウッド・マックを結成。1970年まで在籍し、同年にはリーダー作も出した。その後は、ドラッグとメンタルの問題で活動は見え隠れするが、1980年代前半に連発したアルバム群はブルース愛好を下敷きにする、ちょい渋黄昏おやじの技ありロック作で聞くに値する。

 ブルース・ビヨンドのいろんな曲のフォームを作り出せた人物。ゆえに、秀でたソング・ライターであり、サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」(1969年)をはじめ、彼の楽曲を取り上げている人はいろいろ。スライド・バーを使ったり、ジャジーな弾き口を見せるときも初期にあったなど、懐も深かった。ブルースにやられ、有意義な音楽的彷徨を示した才人であったと思う。

▶︎過去の、エリック・クラプトン
http://43142.diarynote.jp/200611221236140000/

<今日の、ELP>
 もうすっかりクルマに対する欲求がなくなってきてきているので、どうでもいいことなんですが。。。近年の乗用車の様を見て、おおいに違和感を感じることがひとつ。それは、フロント・グリルのデカさ、イカつさ。それ、“ドヤ顔”と呼ばれたりもするそうだが、相手を威嚇するような、ケンカ腰になっているような、そうした一連の自動車の“顔”を見るにつけてイヤでしょうがない。もう、ぼくの美意識においては零点。いや、マイナス。とはいえ、そうした傾向のものを望む人がしっかりいて実際売れるから、メイカーも発売するのだろうけど。近年、あおり運転がとっても問題になっているが、ドヤ顏グルマの流行もそれと関係あるのではないのか。
 今日、マンションの前のあまり車が通らないが狭くはない通りの歩道ラインの上を歩いていたら、不必要と思わざるを得ないクラクションを鳴らされ、その不条理さに呆然とするとともに怒りが沸いた。鳴らしたバカが運転していたのは、過剰ではないがやはりデカめのグリルを持つ、アウディのA6じゃった。で、そんな経緯から、こんなことを書くにいたった。これが下品極まりないトヨタのアルファードだったりしたなら、もっと血圧上がったはず。
 そして、こんなことも思う。いっそのこと、ハンス・リューディ・ギーガー流儀のデザインをパクったような超グロテスクなグリル・デザインを持つ乗用車が出てこないだろうか、と。嘲笑し、小馬鹿にしてやるぞ。ギーガーの作品に最初に触れたのは、リアル・タイムで買ったエマーソン・レイク&パーマーの『ブレイン・サラドゥ・サージェリー』(マンティコア、1973年)のジャケット・カヴァーだったが、プログ・ロックを不毛と思うようになった大学の頃、ユニオンで売っちゃった。で、かわりに、ブラック・セイントかメルス発のアルバムを買ったんじゃないかなー。それとも、スワンピーなロック・アルバムだったかな?

 B・ジェファーソンはザ・スピナーズの「マイティ・ラヴ」をはじめとするフィリー・ソウルの名曲を1970年代に作った都会的かつ洗練されたソングライター。当初はミュージシャンだったが、紆余曲折ありトム・ベルに認められ、作曲家稼業に入り、見事に同ソウルの興隆に寄与した。ありし日の華やかな米国の襞を書き留めた御仁……。後のサンプリング需要もあった。享年77歳、死因はがんであったという。

 また、プライマル・スクリーム(2000年2月11日、2002年11月16日、2005年7月31日、2009年1月28日、2011年8月12日、2013年11月6日)、ア・サーテイン・レイシオ、ニュー・オーダー、エレクトロニク、イアン・ブラウン(2005年8月13日)など、マンチェスター発のロックに、ソウルフルな歌で助力したUKブラックの女性シンガーであるデニス・ジョンソンが56歳でお亡くなりになった。とくに、1990から94年にかけて関与したプライマル・スクリームは、彼女をフィーチャーしたシングル「ドント・ファイト・イット、フィール・イット」がヒットしたこともあり、その歌声は数多くの人に届いていたのではないだろうか。シングルは2枚出しており、この9月には初アルバムをリリースする予定であったという。

▶過去の、プライマル・スクリーム
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-2.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20050731
http://43142.diarynote.jp/200901290803429732/ これ以降、ガャドガン加入
http://43142.diarynote.jp/201108131129381378/
http://43142.diarynote.jp/201311071343585896/
▶︎過去の、イアン・ブラウン
https://43142.diarynote.jp/200508152007550000/

<今日の、トホっ>
 3月下旬以降、ライヴ予定がなくなった→要は、このブログをあまり書かなくなるなと思った際、ミュージシャンの死についてはちゃんと書き留めようと決めた。その死因が新型コロナ・ウィルスによるものであるなら、この時期の悲しい状況をちゃんと残すことができるとも考えたから。それゆえ、ライヴにばんばん行っていた時期と違い、少し距離を感じるミュージシャンであっても基本その死に触れるようにしてきた。
 だが、弘田三枝子さんについては、書きようがない。まじ、ちゃんと聞いたことが一度もないんだもの。ぼくがポップ・ミュージックを聞くことにハマったのはちょうど中学校に入ったとき。そのとき、ラジオを買ってもらい、姉が買ってもらったものの放置状態だったLL用のオープン・リールのテープ・レコーダーでラジオから流れる英語の曲(ときには、チャートに登るフランス語やイタリア語の曲もあった)を全部録音するようになったのだ。当時のNHKのFM放送は15時からの番組だったか、毎日新譜のアルバムを代々すべてかけていた。それは、ほんとありがたかった。
 楽器を扱うのは好きだったけど、小学校のころは特段音楽に興味がなかった。TVの音楽番組も見た記憶があまりない。なんか、自分の周りの、窮屈と感じるニホンニホンした環境もろもろに嫌悪感を覚えて、歌謡曲は大げさに言えばその象徴のように感じてしまっていたんだろうな。だから、グループ・サウンズもぼくは聞いたことがない。上の兄弟が聞いていて、その流れで音楽好きになったという話はよくあるが、年子の姉は勉強しかなく、その後も洋楽の“よ”にも触れずにまっとうなインターナショナルな大人になった。
 話は戻るが、それが中学校に入り、唐突に洋楽ロックにハマりこれっきゃないと確信してしまったのは、今振り返ると多少驚きではある。音楽自体が格好いいとシビれちゃったのは当然として、地方に住む一少年に非日本な、海外のイケてるもやもやをロックがたっぷり与えてくれたからこそ耽溺したんだろうな。ぼくは、親とか、自分のいるところとかがいやでしょうがなかった。洋楽こそが、ちっぽけな日本の地方に住む自分と広い外の世界を繋ぐぶっといチャンネルだったのだ。
 子供のころから親に東京に連れて行ってもらったりはしていたが、高校生になると1人で東京にたまに行き、外盤屋を回ったり、少しだがコンサートに行ったりもするようなる。すると、余裕ができもするのか少しは日本の同時代の音楽にも興味を持つようになるが、それは洋楽の耳で聞くことができるブツだけだった。最初に買った日本人のレコードは、サディスティック・ミカ・バンドのファースト(初回に封入されていたシングルもまだある)。シングルはファニー・カンパニーの「スウィート・ホーム・オーサカ」。さらには、矢野顕子のデビュー作『ジャパニーズ・ガール』は大好きだった。生ギターを持つ音楽は嫌いで、男だったらエレキ・ギターを手にバンドでがつんと行かんかいと思っていたぼくは、日本のフォークもその一切を切り捨てていた。ゆえに、ミカ・バンドのファースト作の曲の半分はフォークぽくていまいちと感じた(その中で一番好きだったのは、ファンキーな「怪傑シルバーチャイルド」)。
 自分が知らないところに素敵な音楽があったら悔しいと、本当に貪欲に音楽を追い求めてきたが、日本の担い手の幅はなかなか広がらなかった。昔のハイカラな、本来だったら聞きどころがありそうなものにもそんなに触れてないよなあ。まだ、民謡や演歌の方が垣根は低い。そこには、僕が少年期に抱えたドメスティック日本に対する嫌悪がいまだぼくのなかにくすぶっているのかもしれないが、やっぱ基本的に歌謡曲はいまだにダメ。歌謡曲バーなんか15分といれない。楽しめない。その件については、オレってほんとにイケズなヤツと思うしかない。なんか、同時代のものとして存在したドメスティックなものに対する拒否感は自分でも驚くべきものがあるよなあ。
 そんなぼくが変わる日は、もうこないのかなあ。もとい、このブログに訃報に関する原稿が並び続ける状況もずっと続くんだろうなーー。

 享年、47。フォラデルフィアンたちで組まれたザ・ルーツ(2002年12月29日、 2003年12月2日、2004年9月19日、2007年1月15日、2013年12月19日)のオリジナル・メンバーだったマリク・Bがお亡くなりになった。フロントを担ったブラックソウトとともにペンシルヴァニア州の古い公立大学であるミラーズヴィル大学に通い、ザ・ルーツの初期の4作品に参加。どっちかというとブラックソウトのほうが目立っていたためもあってか、ごんごん彼らが人気を獲得するなか脱退。だが、後のザ・ルーツ作にも複数ゲスト入りもしているので、険悪な関係ではなかったろう。脱退は1999年とされるので、ぼくはその雄姿を見たことはないはず。
 
 その後のリーダー作は、『Street Assault』(F.D.M.E、2005)とニュージャージーのトラック・メイカー/プロデューサーであるミスター・グリーンとの連名での『Unpredictable』(Enemy Soil、2015)。そして、マリク・Bが最後に参加したアルバムは(たぶん)、先駆的ラップ・グループとも言えるザ・ラスト・ポエッツの『Transcending Toxic Times』(Ropeadope、1999年)。落ち着き気味の「ヤング・ラヴ」という曲で、彼は噛みしめるようなそれを披露している。同作は、かつてザ・ルーツとの共演作も出したこともあるフィラデルフィアの怪傑ベーシストであるジャマラディーン・タクーマが共同プロデュースしていた。

▶過去の、ザ・ルーツ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-12.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-12.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20040919
http://43142.diarynote.jp/200701201415300000/
http://43142.diarynote.jp/201312200917503345/
▶︎過去の、ジャマラディーン・タクーマ
http://43142.diarynote.jp/201408051026553769/

<今日の、雲行き>
 温暖化も影響しているのか、自然災害は多発。東京は大雨は皆無だったものの、曇りや雨天の日は続いていて、梅雨も明けていない。野菜の値段があがっても、なんかずっとそういう感じがぼくのなかにあるのであまり驚かないな。そんなわけなので、ここのところは、エアコンをかけないどころか、窓をしめて就寝している。昨日は雨マークが出ていたが、雨は降らず(たぶん。終日、家にいたもので)。一瞬、ヴェルディ東京のホームゲームを見に行こうかと思った。昔は嫌いなチームだったけど(今は気にもしないのでよく分からない)けど、近場でこれしかやっていないし(行くとしたら、サッカー専用スタジアムではないダメ会場ではあるものの意外に近い味の素スタジアムがいいし)、今見ておかないと、また試合自体が無観客になったりリーグが中断するおそれもあるとか思わなくもなく……。でも、夕方に身体が重くなり、これは自重せよとのサインと思い、やめにした。あれれ今、<東京都、全域の飲食店で営業時間短縮要請へ 感染急増>と題した日経の速報メールが届いた。3日からのよう。