英国人プロデューサー/ソングライター/アーティストのルパート・ハインが癌でお亡くなりになった。72歳、少し早すぎる死であるかな。
 ケヴィン・エアーズ、キャメル、カフェ・ジャック、ザ・フィックス、ザ・ウォーター・ボーイズ(2015年4月6日 )、ハワード・ジョーンズ(2012年2月6日)、ラッシュ、スザンヌ・ヴェガ(2008年1月24日、2012年1月23日、2014年4月7日、2018年8月10日)など、まずはプロデューサーとしての仕事が思い出されるか。ティナ・ターナーがもう一度スターの座に返り咲いた大ヒット作『プライヴェイト・ダンサー』(キャピトル、1984年)の部分プロデュースもするなど、ダンス/ビート方面に対する冴えも持った。また、彼は奏者としてはキーボードの人だが、彼はなぜかロバート・パーマーと仲がよく、鍵盤で参加したパーマーの『プライド』(アイランド、1983年)は当時一番イケてるシンセサイザー音が入ったアルバムなんてことも言われましたね。
 初ソロ作『Pick Up A Bone』(Purple,1971年)は元祖ネオアコ表現と言えそうな仕上がり? 当初から、彼は弦楽器/菅楽器音を効果的に用いていた。1980年代に入ると機材/鍵盤使いの妙も通した作風を取るが、甘酸っぱくも優男なメロディ感覚/風情は通底しようか。そんな彼は当然キカイにも強く、晩年も音楽ソフトの開発などにも関わっていたよう。彼のホームページには、環境保護論者という肩書きも載せられている。なるほど、彼が大々的に仕切った『One World One Voice』(Virgin,1990年)はいろんなスター・ミュージシャンが山ほど集ったワールド傾向にもある作品だったが、それは環境問題への興味を喚起しようとするプロジェクト作だった。
 なんかこれを書いていて、英国ロックの襞をいろいろと築いた偉大な人であるなと、どんどん感じてきてしまった。

▶︎過去の、ハワード・ジョーンズ
https://43142.diarynote.jp/201202091203275169/
▶︎過去の、ウォーターボーイズ
https://43142.diarynote.jp/201504071657008525/
▶過去の、スザンヌ・ヴェガ
http://43142.diarynote.jp/200801280000120000/
http://43142.diarynote.jp/201201271243541443/
http://43142.diarynote.jp/201404081332394740/
https://43142.diarynote.jp/201808120915451094/
 オークランドの4姉妹コーラス・グループの一員であり、1人だけ独立しモータウンからソロ・アーティストとして立ち、成功を収めた三女のボニー・ポインターが心停止で亡くなった。まだ、60代であったのか。
 初期のブルー・サム時代はレトロな佇まいも前に出した、技巧に富むな総花的ジャズ・コーラス・グループという感じもあったか。だが、もうファンキー&タイトなデビュー・シングル「イエス・ウィ・キャン・キャン」(1973年デビュー作のオープナーでもあった)にすでに現れていたようになんでもありで、彼女たちはどんどんソウル色を強めていき、その流れでキャラが立っていたボニーは独立した……。確か初来日は同じブルー・サム所属ということで、ザ・クルセイダーズ(2005年3月8日)とのダブル・ビルだったような気もするが。1980年代だったか90年代を回ってからだったか、ザ・ポインター・シスターズにインタヴューしているはずだが、もちろん3人組になってのことなので、ボニーとは会っていない。
 ポインターズというと、すぐに思い出さずにはいられないのが、ベイ・エリアのプロデューサーであるデイヴィッド・ルビンソン(1942年生まれ)。彼は初期4作品を手がけているが、彼は彼女たちに本当に細かいディレクションを出し、成功に導いたと言われる。そんなルビンソンは同地のまさに顔役といった感じで、モビー・グレイプ、タージ・マハール(2000年10月12日、2007年4月6日)、コールド・ブラッド(2007年4月15日)、サンタナ(2013年3月12日)、タワー・オブ・パワー(1999年11月4日、2002年8月11日、2004年1月19日、2008年5月18日、2008年5月19日、2010年5月11日、2011年3月10日、2012年9月9日、2014年5月6日、2016年7月10日、2018年9月4日)、ハービー・ハンコック(2000年3月14日、2001年12月27日、2003年8月23日、2005年8月21日、2012年3月3日、2014年9月7日、2015年9月6日、2016年9月3日、2018年9月1日。彼もザ・ヘッドハンターズのころはシスコ在住だった)、エルヴィン・ビショップ(2017年7月31日)ら、当時ベイ・エリアに住むアーティストをいろいろ手がけ(1970年前後はビル・グレアムと近い位置にいた)、セールスも得た。ヒット・プロデューサーゆえ一時はCBSコロンビアと太い関係を持ち、その出資を得て1976年にはサンフランシスコ1のスタジオと謳われたザ・オウトマット・スタジオを持った。彼はナラダ・マイケル・ウォルデンやウェイン・ショーターらのマネイジメントもしたりもしたが、音楽の仕事からは完全引退し、2009年以降はフランスに住んでいる。

▶過去の、ザ・クルセイダーズ
http://43142.diarynote.jp/200503120546520000/
▶︎過去の、コールド・ブラッド
https://43142.diarynote.jp/200704251221190000/
▶︎過去の、タージ・マハール
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-10.htm
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶︎過去の、サンタナ
https://43142.diarynote.jp/201303211531189619/
▶過去の、タワー・オブ・パワー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/framepagelive.htm
http://43142.diarynote.jp/200401190000000000/
http://43142.diarynote.jp/200805201629180000/
http://43142.diarynote.jp/200805201631280000/
http://43142.diarynote.jp/201005121331016518/
http://43142.diarynote.jp/201103171348262145/
http://43142.diarynote.jp/?day=20120909
http://43142.diarynote.jp/201405071616599721/
http://43142.diarynote.jp/201607111518214717/
https://43142.diarynote.jp/201809071706397376/
▶過去の、ハービー・ハンコック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-3.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-8.htm
http://43142.diarynote.jp/200508230545510000/
http://43142.diarynote.jp/201203062005542291/
http://43142.diarynote.jp/201409100930206205/
http://43142.diarynote.jp/201509220833541918/
http://43142.diarynote.jp/?day=20160903/
https://43142.diarynote.jp/201809051532324111/
▶︎過去の、エルヴィン・ビショップ
https://43142.diarynote.jp/201708081443281390/
▶︎過去の、デイヴィッド・ルビンソンが出てくる映画
https://43142.diarynote.jp/201611121006546827/

 朝10時からの試写に行き、2018年ロシア/フランス映画を見る。六本木・キノフィルムズ試写室。予約制が取られ、2席おきに座れるようになっていた。時間が早いせいもあり、ガラガラではありましたが。

 1980年代初頭、ソ連のレニングラード(現サンクトペテルグルグロベルク)で切実にロックをしていた実在の面々を材料に置くもので、監督はロシア人芸術家のキリル・セレブレンニコフ。彼は政府から割り当てられた予算を横領した罪で自宅軟禁を強いられてしまい、そうしたなかこの映画を作ったという。

 政府の監視下のもとロック楽曲発表(歌詞は検閲あり)や公演が行われていた時代の青春群像を描いた映画。基本当時の感じを出すためにモノクロームで撮られているが、ロック=反抗という感じで政府と戦うソ連ロッカーの姿を描くものではなく、西側のロックに憧れ、大きく呼吸しようとしていた青年たちを、ちょい甘酸っぱく描く。先にちらり書いたようにその際、当時を代表するロック・ミュージシャンだったズーバークのマイク・ナウメンコと奥さんのナタージャ、そして彼らに懐き、後にキノーというバンドを組んでもっとビッグな存在となるヴィオクトル・ツォイが主役となる。ナウメンコは1991年に、ツォイは1990年に亡くなっている。後者が交通事故で亡くなったときは、大騒ぎだったようだ。

 T・レックスやルー・ルード、イギー・ポップ、トーキング・ヘッズらの音楽も使われるが、その際はグラフィックも加えられたりもし、超質の高いPVみたいな映像になり、キリル・セレブレンニコフの腕はかなり確か。ほんの一部のカラー映像の使用も同様だ。

 マイク・ナウメンコは西側のロック曲をまんまロシア語にして歌う、悪い言葉で言えばパクリ大王だったようだが、だがなるほど劇中で使われるズーパークの音楽は格好いい。ひと頃の、プライマル・スクリーム(2000年2月11日、2002年11月16日、2005年7月31日、2009年1月28日、2011年8月12日、2013年11月6日)みたいと書きたくなるか。一方、ライヴでも12弦のアコースティック・ギターを持つヴィオクトル・ツォイの曲はフォークぽく、ぼくは好きではないがそれはぼくの偏狭さゆえであり、多くに人は気にならならいだろう。

 しかし、ソ連のロック史に今もしっかり名を残すというヴィクトル・ツォイが高麗人とロシア人のミックスであり、その役をドイツ生まれで、NYやロンドンで演劇を学び、2009年以降はソウルに住むというユ・テオが演じている。テオはロシアとの接点はないと思われるが、門外漢が接する分には普通にロシア語で演技していて驚く。出演者たちは総じて魅力的だ。

 ところで、西側ロックの耽溺を示す素材として部屋の壁ににいろんなロック・アルバムのカヴァーが飾られるなか、アフリカン・アメリカンのジャケット・カヴァーの表/裏が1作だけ飾られている。それ、アイク&ティナ・ターナーの『Outta Season 』(Blue Thumb、1969年)。そんなロシア発の音楽映画は7月24日、ヒューマンシネマトラスト渋谷他で公開。後援として、ロシアの公的機関の名前が入っている。

▶︎過去の、サンクトペテルブルクのグループ
https://43142.diarynote.jp/?day=20180628
▶過去の、プライマル・スクリーム
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-2.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20050731
http://43142.diarynote.jp/200901290803429732/ これ以降、ガャドガン加入
http://43142.diarynote.jp/201108131129381378/
http://43142.diarynote.jp/201311071343585896/

<今日の、社会復帰?>
 3月中旬以降、初めて電車に乗る。渋谷に出たことはあったが、歩いて往復しているからな。今日は、天気の良かった日。9時半ごろはまだ電車が混んでいるので、渋谷まで歩こうと思っていたのだが、日差しの強さに負けてバスに乗ってしまう。座れた。久しぶりの試写会のあとは知人のお店に行きご飯を食べ、その後は久しぶりに髪の毛を切る。なかなかのロン毛になっちゃっていました。いいぢゃんという人もいて、まあこれもアリかと思っていたが、さすが夏は暑いしナ。それに、サザン・ロッカーの気分になって、あんまし格好や体型に気を使わなくなりそうなのが、怖かった。3時間強にわたるカット&脱色&カラー後、馴染みの店をはしごする。やっぱり、楽しいィ。
 しかし、新型コロナ・ウィルス禍のおり、ほぼ毎晩日暮れ後は出かけていた自分が、引きこもり体質であるのを悟った。家では飲まない(飲みたくならない)ので、お酒もほぼ飲んでいないのだが、ストレスはそんなに感じていないものなー。家でちんたらしているのも楽でいいなとマジ思っちゃった。取材も、東京、奄美大島、ニューオーリンズ、マンチェスター、アルペンなどいろんなところに住む人とやっているが、電話かメールですんでしまっているしなー。

 個と眼を持つ、個性派英国ジャズ・ピアニスト(2013年3月15日)が昨日、亡くなった。享年、72。奥さんの女優もしたジュリー・ドリスコール(若い頃の写真は綺麗)は同い年で、まだ存命のはず。
▶︎過去の、キース・ティペット
https://43142.diarynote.jp/201303211554207854/

 渋谷・映画美学校試写室で、2019年日本/イラン映画を見る。多くの場面がイランで撮られている映画で、その部分は監督(筒井武文)と撮影者(柳島克己)以外のスタッフはイラン人が務めている。その筒井(1957年生まれ)と三船プロダクション出身で北野映画にも関与しているという柳島(1950年生まれ)は東京藝大の映像研究科で教えているようで、脚本を担当したイラン人のナグメ・サミニは何度も来日し藝大で脚本ワークショップを執っている人であるという。イランの映画界は世界的にも評価が高いが、逆に筒井はイランに何度も行っていて、その流れでぜひイランで映画を撮りたいと思い、それが本作に着地したという。まあ、藝大映像セクションのコネクションを利したものであり、エンドロールには文化庁のクレジットも出てくるので、国からお金が引き出された作品なのだろう。

 93分の尺だが、それよりも長く感じた。テヘランに住む母子家庭(娘は大学生)と日本人男性(永瀬正敏)や娘のボーイフレンド(なかなかに女々しい。イラン人男性って、今こういうタイプが少なくないの?)との暗めの重なりがゆったりと綴られるものになっている。

 イランで公開されることを、最初から念頭に置く作品のよう。それゆえではないかもしれないが、監督はとにかくイラン人が見てこれはないっしょという部分はなくそうとイラン人スタッフと密なやり取りをしたというし、日本が舞台となる部分には、イランで一番著名な女優である小林綾子(cf.「おしん」)がイラン側の求めによりキャスティングされている。一方、母親役を演じるマーナズ・アフシャルはイランの国民的な女優だそう。

 ぼくの感性においては他愛ないと言えば他愛ないけど、イランと日本を結ぶ数奇な人間関係の襞を含みを持たせる作法のもと、大人っぽく綴っていく現代劇になっている。9月中旬より公開。

 過剰には入らない、引き気味の音楽もイラン人のハメッド・サベットよる。可もなし、不可もなし。チェロの音色を生かしたものから、ジャパネスクなものまで。後者はオープニング部分と、日本の場面で使われる。そういえば、普段見ない日本のTVドラマを絶賛引きこもり中に、ネット映像プログラムから拾って見たんだけど、音楽がもんぎり型極まりないものがつけられているものがあり、驚きつつ鼻つまみまくり。あれじゃ、よくできた作品でもすんごくC級のものに、真面目に作っていてもギャグに成り下がってしまう。ちなみに、ぼくがTVドラマの劇バンとして評価するのは、たとえば米国ドラマの「メンタリスト」のそれ。シンプル(多くはデスクトップで作っているのでは?)かつ抽象的なんだけど、ストーリーの展開も促すものにもなっており、とても趣味がいいとしか言いようがない。

 ところで、イスラム教のヒジャーブはある意味、強力だナ。ぼく、人の顔を覚えることに難のある人間なので、ヒジャーブを巻いた母親と娘の区別がつきにくく、体型で判断していた。結構、人間って髪型で人を覚える部分もあるのではないか。

▶︎過去の、イランの映画
https://43142.diarynote.jp/201904191325355858/
https://43142.diarynote.jp/201910140916407770/

<今日の、もろもろ>
 上映前に、監督が挨拶。とっても腰の低い、実直そうなおじさんという感じの方。そのまま、試写を座席に座ってご覧になっていたがすごいなナ。だって、もう手直しもできないわけだし、撮影の苦労が蘇るだけで、ぼくだったらそういうことはしたくないのではないか。ミュージシャンも同様の理由で、特に新作については完成後は聞かないという人がよくいる。
 2月以降、少し気遣う生活をしてはいる。電車やエレヴェイターは極力避けるなど、何気に空気感染も疑う対処の仕方もしてきた。それはないと報じられていたように、おそらく新型コロナ・ウイルスのエアロゾル感染はないのだと思う。でなきゃ、電車通勤者が山ほどかからなきゃウソだ。マスクはそういう際の予防にはならないとも聞くし。それでも、外に出るときは、辛いけどマスクつけなきゃとも思う。ぼく不要に咳やくしゃみしちゃうから。今日も、試写中になぜか咳がでた。やっぱり、万が一無症状ながらキャリアである可能性も考えると、人と相対しているとき、パブリックな場にいる際は要マスクと思う。この人だったらうつしうつされてもしょうがないと思える人が相手なら別ですけどね。
 そういえば、ズーム飲み懇親会(ズームを入れたとたん、海外からスパムが来た。偶然だと思うが)で、マスクをしていない人と歩道ですれ違うのはいやという人の発言から、自分は予防に気をつかっていますよいう意思表示のためにマスクは気候が熱くなってもしたほうがいいだろうという結論になったことがあった。

 渋谷・映画美学校で、2017年ベルギー/フランス/レバノン映画(原題「Insyriated」)を試写を見る。今日日こんなことが起こるのかと思わせもするシリア内戦を介する人間劇で、言葉はアラビア語。監督と脚本は、ベルギー人のフィリップ・ヴァン・レウ(1954年生まれ)が担当する。

 主となる登場人物は、共同隠遁生活を送る一家+(母、義理父、娘2人、息子ひとり、お手伝いさん、娘のボーイフレンド、同じアパートに住んでいて一緒に住むようになった母と赤ちゃん)。ほとんどの人が戦禍から逃げているなかとどまることを選んだ彼女たちはアパートのなかでひっそり生活していて、その朝から翌朝までの出来事を描いている。カメラはギリのところで暮らす女性たちを、アップ多用かつ動的なカメラ・ワークで追う。とはいえ、部屋の中は暗めだし、部屋が何室もあるとはいえアパートの一戸のなかでのもろもろを追うので、どこかまったりとした質感も持つか。戦闘シーンや市街の様子などは一切映らないが、彼女たちが置かれた境遇がおいつめられたものであり、悲惨なことが起こったりもし、緊張度は低くない。

 主役のお母さんを演じるヒアム・アッパスは、映画「カザの美容室」(2018年2月27日)に出ていた。室内での女性模様を追いつつ、戦争の悲惨さや不毛さを浮き上がらせるということで、この映画と「カザの美容室」(2018年2月27日)は重なるか。また、老人役のディヤマン・アブー・アッブードは「判決、ふたつの希望」(2018年6月6日)では弁護士を演じていた。

 音楽は、1960年生まれの現代音楽畑ベルギー人で、モンス王音楽立院大学で教鞭も取る作曲家/ピアニストのジャン-リュック・ファシャン。サブ・ローザからリーダー作を出していたりもする彼は、なるほどそれふうの音楽を控えめにつけている。8月22日より、ロードショウ公開が始まる。

▶︎過去の、2本のシリア内戦を扱うドキュメンタリー映画。映画「ラッカは静かに虐殺されている」、映画「ラジオ・コバニ」
https://43142.diarynote.jp/201802141255168037/
▶︎過去の、、映画「カザの美容室」
https://43142.diarynote.jp/201803011223342076/
▶︎過去の、「判決、ふたつの希望」
https://43142.diarynote.jp/201806081019169133/

<今日の、所感>
 戦禍を避けるため家に軟禁状態にある人たちを描いた、この映画を見ながら、これが3月だったら、辛すぎて見ていられなくなるかもと思った。ヘタレなもので。そういえば、1月下旬だか2月初旬だったか、家に入る光TVチャンネルに米国TVドラマ「ザ・ラストシップ」(シーズン5まである)が入っているのを見つけ、一瞬見かけたんだが、<新型細菌に世界中が侵されバースト、ワクチンを持った唯一の米国軍艦が世界を救う>(とっても、雑な要約)という内容が新型コロナ・ウィルス禍のなかではヘヴィすぎて、ぼくは途中で見るのをやめたんだよな。ぼくは薬禍という単語をときに用いるために禍という漢字を使っていたけど、“禍”は普段なかなか使われないながら急に使われるようになった漢字になるのではないだろうか。

 ブルックリンに生まれ、マンハッタンに死す。ミュージシャンではないが、ニューヨークを拠点に様々なアルバム・ジャケットやポスターのデザインをした、ハンガリー・ルーツのユダヤ系グラフィック・デザイナーであるミルトン・グレイザーが91歳の誕生日にお亡くなりになった。死因は脳卒中と腎不全だと報道されている。

 1950年代からデザイナーとして活動した彼が音楽方面で広く知られるようになったのは、ボブ・ディランの『グレイテスト・ヒッツ』(コロムビア、1967年)のアルバム・カヴァーとは別デザインのイラストを用いた広告ポスターを担当したこと。それ以後、ザ・バンド、タウンズ・ヴァン・ザント、チェイス、トッド・ラングレン、ポール・サイモン、アルバート・キング、メイナード・ファーガソン、ジョン・ハッセル、ロバート・クレイ、フィリップ・グラス、プロフェッサー・ロングヘア、ライトニング・ホプキンス他、本当に様々なアルバムのアート・ワークを彼は担当。写真を巧みに構成したもの、カラフルなイラストを用いたアトラクティヴなもの、近未来的なデザイン処理をしたものなど作法も広いが、それらは秀でたグレイザー印を持っていたはずだ。

 そんな彼のもっとも知られる作品は、1977年発表の赤いハートのマークを使った“I ♡NY”のロゴだろう。ニューヨークを愛する彼(1969年には、ニューヨーク・マガジンも創刊した。そのロゴもよく知られますね)は無料でこれを市に送ったと言われる。ロゴタイプ作りの才にも恵まれた彼は、グレイサー・スデンシルというアルファベット書体(切り抜き文字のスタイリッシュな型紙を思わせる)を1970年に発表するとともに、ブルックリン・ブリュワリー(ちょいスターバックスのそれはノリが近い)やSEEDロゴ他のロゴをいろいろと世に出している。2008年には「Milton Glaser: To Inform and Delight 」というドキュメンタリー映像も作られ、翌年にはバラク・オバマからザ・ナショナル・メダル・オブ・アーツをグラフィック・デザイナーとして初めて受けていた。

 わあ。そんなに詳しいわけではないが、いろんなことをやることの素敵、場を自在に移動できる誉れをぞんぶんに感じさせてくれたフランス人アヴァン系ジャズ・トランペッターがお亡くなりになった。死因はぼくが見たかぎりにおいて不明だ。

 自在の羽と発想を抱える彼の存在をぼくが知ったのは、フリー・ジャズ歴に燦然と輝くフランスのBYGレーベル(1967年にサラヴァやバークレー・レーベルに関与していた人たちによって興された)からのリーダー作を知ったとき。1972年ごろまでと活動期間は長くはなかったが、同社は米国のレコード会社にはじかれがちだったシカゴやニューヨークの狼藉者たちを本当に確かな目で拾い上げ、米国ジャズのニュー・ウェイヴをしっかり送り出した。ドン・チェリー、AEOC、アーチー・シェップ、ポール・ブレイ、アンドリュー・シリル、アンソニー・ブラクストン、ソニー・シャーロック、サン・ラー、スティーヴ・レイシー、他。また、同社はゴング/デイヴィッド・アレンやフリーダムらロック側に出張る自由な担い手も送り出し、特にシングル盤はロック系のものも目立つ。アルバムのカタログは50作強、欠番なしでジャケットに目立つ感じで二桁の番号が出されており、ある意味“竹を割った”感覚をぼくには与えるレーベルであったかな。

 マルティニーク出身の両親(父親は共産党員でもあった)のもとパリで生まれたクルシルは1960年前後は独立機運にあったアフリカ数カ国に滞在し、フランスに戻ってからはトランペットと文学と数学を学んだという。そして、キング牧師暗殺を期に1965年から10年間はニューヨークに住み、フリー・ジャズをはじめとする米国のカウンター・カルチャーを真っ向から受け、その時期にパリ録音のBYG作を2作出している。その後、彼はパリでフランスで言語系の学者をするとともに、1990年に入るとアンティルズやガイアナの大学で教え、2000年代は米国の大学で教鞭をとっている。その再米国時代にはジョン・ゾーンのツァディックからトランペット音多重による単独アルバムをリリース。また、その後もやサニーサイド他からポスト・フリー回路にあるアンビエント/ニュー・エイジ調を持つアルバムを彼は出した。

 シンガー/ピアニストのフレディ・コール(2010年4月20日)がジョージア州アトランタの自宅でお亡くなりになった。死因は、心臓血管系疾患の合併症。とはいえ、肺がんでなくなった偉大な兄ナット・キング・コールより倍近く生きたことになる。高校時代は将来を嘱望されるアメリカン・フットボールの選手だったが、夢破れ、兄の勧めもありジュリアード音楽院やニュー・イングランド音楽院に学び、まだ学生だった1952年にドットからシングル・デビューした。遺作はワーキング・バンドと録音した『My Mood is You』(High Note,2018年)で、グラミー賞のベスト・ジャズ・ヴォーカル・アルバムにノミネイションされた。

▶︎過去の、フレディ・コール
https://43142.diarynote.jp/201004221700527153/

 また、名アレンジャー/コンポーザーのジョニー・マンデルの訃報も届いた。享年94、自殺と報じているメディアもある。その年齢が示すように、ニューヨーク生まれの彼はまさにジャズ・エイジ。ジャズがポップ・ミュージックのメインストリームにある時代に素直にジャズ界入りした。

 恵まれた環境に育ち、ジュリーアドやマンハッタン音楽院でトロンボーンやトランペットを学び、当初はビッグ・バンドの管楽器奏者としてスタート。その後、アレンジャーとしての才をあらわし、アーティ・ショウ、チャーリー・パーカー、ウディ・ハーマン、チェット・ベイカー、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、クインシー・ジョーンズ、ダイアナ・クラール他、指揮込みでアレンジを提供。また、曲作りもし、彼の曲はいろんな人に取り上げられている。スタンダードの「シャドウ・オブ・ユア・スマイル」は彼が担当した映画「いそしぎ」のために書かれた曲ですね。そんな彼の映画音楽の代表作は、ローバート・アルトマンの1970年映画「M★A★S★H」か。また、1970年代を回ると、リッキー・リー・ジョーンズ、マイケル・ジャクソン、スティーリー・ダン、バリー・マニロウらポップ・アーティストの仕事も請け負った。

 彼のアレンジにそれほど着目してはかなかったが、彼の名前を聞くとなぜか甘酸っぱい気持ちにぼくはなる。彼は2018年に、レコーディングにおける歌唱や演奏ではない部分の功績を称えられる賞である“グラミー賞とラスティーズ・アワード”を受賞した。


 アラバマ州マッスル・ショールズのフェイム・レコーディング・スタジオとアラバマ州シェフィールドのマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ。南部ソウル伴奏の奇跡を支えた白人ギタリストであるピート・カーが、アラバマ州フローレンスでお亡くなりになった。死因は明らかにされていないが、まだ70歳だった。

 フロリダ州デイトナ・ビーチ生まれ。13歳でギターを手にし、15歳のときに地元に来たデュエインとグレッグの兄弟バンドであるオールマン・ジョイズと意気投合。1968年に兄弟たちと一緒にアワ・グラスを結成、メジャーのリバティと契約し、面々はロサンセルスに居住した。だが、うまく行かず、グレッグ・オールマン以外は南部に戻り、カーはそのままマッスル・ショールズでスタジオ・ミュージシャンとして活動。R&Bから同所を訪れるロック勢まで、オールマイティな技量を発揮した。

裏方の人ではあるが、1976年と1978年にアトランティック傘下レーベルから2枚のリーダー作を発表。インスト主体のそれ、泣きのギター・インスト、ソウル/シティ調、プログ・ロックなどが交錯したものだった。

▶︎過去の、マッスル・ショールズ+を扱った映画
https://43142.diarynote.jp/201406270933515875/ 2013年米国映画「黄金のメロディ マッスル・ショールズ」
https://43142.diarynote.jp/201707141126579276/ 2014年米国映画「約束の地、メンフィス〜テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」