R.I.P.ジャック・クルシル(1938〜2020年6月26日)
2020年6月28日 音楽 わあ。そんなに詳しいわけではないが、いろんなことをやることの素敵、場を自在に移動できる誉れをぞんぶんに感じさせてくれたフランス人アヴァン系ジャズ・トランペッターがお亡くなりになった。死因はぼくが見たかぎりにおいて不明だ。
自在の羽と発想を抱える彼の存在をぼくが知ったのは、フリー・ジャズ歴に燦然と輝くフランスのBYGレーベル(1967年にサラヴァやバークレー・レーベルに関与していた人たちによって興された)からのリーダー作を知ったとき。1972年ごろまでと活動期間は長くはなかったが、同社は米国のレコード会社にはじかれがちだったシカゴやニューヨークの狼藉者たちを本当に確かな目で拾い上げ、米国ジャズのニュー・ウェイヴをしっかり送り出した。ドン・チェリー、AEOC、アーチー・シェップ、ポール・ブレイ、アンドリュー・シリル、アンソニー・ブラクストン、ソニー・シャーロック、サン・ラー、スティーヴ・レイシー、他。また、同社はゴング/デイヴィッド・アレンやフリーダムらロック側に出張る自由な担い手も送り出し、特にシングル盤はロック系のものも目立つ。アルバムのカタログは50作強、欠番なしでジャケットに目立つ感じで二桁の番号が出されており、ある意味“竹を割った”感覚をぼくには与えるレーベルであったかな。
マルティニーク出身の両親(父親は共産党員でもあった)のもとパリで生まれたクルシルは1960年前後は独立機運にあったアフリカ数カ国に滞在し、フランスに戻ってからはトランペットと文学と数学を学んだという。そして、キング牧師暗殺を期に1965年から10年間はニューヨークに住み、フリー・ジャズをはじめとする米国のカウンター・カルチャーを真っ向から受け、その時期にパリ録音のBYG作を2作出している。その後、彼はパリでフランスで言語系の学者をするとともに、1990年に入るとアンティルズやガイアナの大学で教え、2000年代は米国の大学で教鞭をとっている。その再米国時代にはジョン・ゾーンのツァディックからトランペット音多重による単独アルバムをリリース。また、その後もやサニーサイド他からポスト・フリー回路にあるアンビエント/ニュー・エイジ調を持つアルバムを彼は出した。
自在の羽と発想を抱える彼の存在をぼくが知ったのは、フリー・ジャズ歴に燦然と輝くフランスのBYGレーベル(1967年にサラヴァやバークレー・レーベルに関与していた人たちによって興された)からのリーダー作を知ったとき。1972年ごろまでと活動期間は長くはなかったが、同社は米国のレコード会社にはじかれがちだったシカゴやニューヨークの狼藉者たちを本当に確かな目で拾い上げ、米国ジャズのニュー・ウェイヴをしっかり送り出した。ドン・チェリー、AEOC、アーチー・シェップ、ポール・ブレイ、アンドリュー・シリル、アンソニー・ブラクストン、ソニー・シャーロック、サン・ラー、スティーヴ・レイシー、他。また、同社はゴング/デイヴィッド・アレンやフリーダムらロック側に出張る自由な担い手も送り出し、特にシングル盤はロック系のものも目立つ。アルバムのカタログは50作強、欠番なしでジャケットに目立つ感じで二桁の番号が出されており、ある意味“竹を割った”感覚をぼくには与えるレーベルであったかな。
マルティニーク出身の両親(父親は共産党員でもあった)のもとパリで生まれたクルシルは1960年前後は独立機運にあったアフリカ数カ国に滞在し、フランスに戻ってからはトランペットと文学と数学を学んだという。そして、キング牧師暗殺を期に1965年から10年間はニューヨークに住み、フリー・ジャズをはじめとする米国のカウンター・カルチャーを真っ向から受け、その時期にパリ録音のBYG作を2作出している。その後、彼はパリでフランスで言語系の学者をするとともに、1990年に入るとアンティルズやガイアナの大学で教え、2000年代は米国の大学で教鞭をとっている。その再米国時代にはジョン・ゾーンのツァディックからトランペット音多重による単独アルバムをリリース。また、その後もやサニーサイド他からポスト・フリー回路にあるアンビエント/ニュー・エイジ調を持つアルバムを彼は出した。