ブレット・アンダーソン。デロリアン。グルーヴ・セオリー
2010年10月6日 音楽 まず、渋谷・デュオで、スウェードとは一線を画した大人路線をアコースティックな行き方で追求しているブレット・アンダーソンを見る。去年出た新作もそういうノリの作品で、前回のショウ(2008年12月9日)と同様に簡素なお膳立てによるものかと思っていたら、なんとギター、ベース、キーボード(女性)、ドラムというバンドを従えてのもの。ソロになってからの簡素な曲が新たにバンド音で開かれる。で、彼は中央に立ち、身をくねらしながら、グラマラスに歌う。近くスウェードの再結成ツアーをするはずの彼だが、なるほど堂にいっていますね。バンド音は良好、特にドラマーはとってもぼく好みの叩き手、アンダーソンは気取っていても確かな音楽観をきっちり持つよなとおおいに認識。次のアルバム用の曲も披露されていたようだが、すると次作はちゃんとバンド・サウンドを採用してのものになるのだろうか。なんか場末のレストランのウェイターのよう(黒色のシャツとスラックス)な、彼の格好はよう判らんかった。
途中、バンドがひっこみ、前回の来日ショウを思いださせる、アンダーソンの電気ギターの弾き語りパートへ。その途中で、渋谷・クラブクアトロに移動、スペイン/バスク地方出身のダンス・ロック4人組のデロリアンを途中から見る。
ベース/歌のお兄さんを中心に、二人のギター奏者(一人は鍵盤を扱うときも)、ドラマー。彼らはレイヴ以後の開放系ダンス調曲をヴォーカル付きで広げて行く。歌はみんな英語で歌われているはずだし、スペイン色はゼロ。おっちょこちょいなぼくはスペイン色をどこかに求めたくもなるが、スペインぽくないのは別に悪いことではない。だって、ぼくだって日本のロック・バンドやファンクの担い手に特別に日本的な何かを求めないはずだし。モノによっては日本人らしさをインターナショナル流儀にとけ込まさせていて感服する場合もあるが、それはあくまでうれしいオプションであるしなあ。ぼくが非英米の担い手に求めるのと同様、やはり英米の聞き手は日本のポップ・ミュージックの作り手に彼らの中にはない変な要素/日本人的な異物感を求めているんだろなー……とか、彼らのことを見ながら、いろんな事を考える。
そして、南青山・ブルーノート東京で、アメル・ラリュー(2000年6月13日、2004年5月10日、2006年10月13日)をフィーチャーしたグルーヴ・セオリー(アルバムは約15年前に出した1枚だけ)を見る。うわ、さっきよりもっといろんな事を思った、ショウではあったな。
サポート陣が1曲演奏したあと、プロデューサー役(PCとかいじっていたのかもしれないが、実演上は何をしていたのかは判らん)のブライス・ウィルソンとシンガーのラリューが出てくる。バンドは良質、キーボード(バッキング・ヴォーカル)、ベース、ドラムという布陣で、ドラマーだけが白人、キーボード奏者は可愛らしい女性。痩身のラリューはツナギを飾り気なく着ていたが、綺麗な人は何を着ても似合い、魅力的に見えるんだな。と思ったのもつかの間、ラリューが歌いだすと、なんか……。あれれ、こんなに素人ぽく歌う人だっけか。緊張している感じもなくはなかったが、過去の彼女のソロ公演は最初から違和感なく、思うまま私の流麗な喉をアピールしまくったはずなのに。声量も以前から見れば小さく、これはどうした事か。凝った節回しはラリューだと思わせるものだが、なんか違和感をおおいに覚える。
が、中盤あたりから声が出るようになり、そうするとその奔放な歌い口も無理なく光ってきて、ラリューたるエクセレントさが聞き手にごんごんと向かってくる。と同時に、バンドの音も大きくなったのは間違いない。PAの操作はどのぐらい聞き味に影響しているのか。???? 途中からはオーイエー♥な、現代R&Bショウ。過去に受けた姿とこんなにも隔たりがある実演も珍しかったし、ショウの始まりと終わりでこんなにも魅力が異なるものに触れたのも初めての事のような。まだ初日なら判るけど、ぼくが見たのは4日目のセカンド・ショウ。他の日はどうだったんだろ。ライヴ・パフォーマンスの不可解さをこんなに感じた晩もそうはない。それとも、じわじわ盛り上げようとした、ブライス・ウィルソンの方策? まさか。
途中、バンドがひっこみ、前回の来日ショウを思いださせる、アンダーソンの電気ギターの弾き語りパートへ。その途中で、渋谷・クラブクアトロに移動、スペイン/バスク地方出身のダンス・ロック4人組のデロリアンを途中から見る。
ベース/歌のお兄さんを中心に、二人のギター奏者(一人は鍵盤を扱うときも)、ドラマー。彼らはレイヴ以後の開放系ダンス調曲をヴォーカル付きで広げて行く。歌はみんな英語で歌われているはずだし、スペイン色はゼロ。おっちょこちょいなぼくはスペイン色をどこかに求めたくもなるが、スペインぽくないのは別に悪いことではない。だって、ぼくだって日本のロック・バンドやファンクの担い手に特別に日本的な何かを求めないはずだし。モノによっては日本人らしさをインターナショナル流儀にとけ込まさせていて感服する場合もあるが、それはあくまでうれしいオプションであるしなあ。ぼくが非英米の担い手に求めるのと同様、やはり英米の聞き手は日本のポップ・ミュージックの作り手に彼らの中にはない変な要素/日本人的な異物感を求めているんだろなー……とか、彼らのことを見ながら、いろんな事を考える。
そして、南青山・ブルーノート東京で、アメル・ラリュー(2000年6月13日、2004年5月10日、2006年10月13日)をフィーチャーしたグルーヴ・セオリー(アルバムは約15年前に出した1枚だけ)を見る。うわ、さっきよりもっといろんな事を思った、ショウではあったな。
サポート陣が1曲演奏したあと、プロデューサー役(PCとかいじっていたのかもしれないが、実演上は何をしていたのかは判らん)のブライス・ウィルソンとシンガーのラリューが出てくる。バンドは良質、キーボード(バッキング・ヴォーカル)、ベース、ドラムという布陣で、ドラマーだけが白人、キーボード奏者は可愛らしい女性。痩身のラリューはツナギを飾り気なく着ていたが、綺麗な人は何を着ても似合い、魅力的に見えるんだな。と思ったのもつかの間、ラリューが歌いだすと、なんか……。あれれ、こんなに素人ぽく歌う人だっけか。緊張している感じもなくはなかったが、過去の彼女のソロ公演は最初から違和感なく、思うまま私の流麗な喉をアピールしまくったはずなのに。声量も以前から見れば小さく、これはどうした事か。凝った節回しはラリューだと思わせるものだが、なんか違和感をおおいに覚える。
が、中盤あたりから声が出るようになり、そうするとその奔放な歌い口も無理なく光ってきて、ラリューたるエクセレントさが聞き手にごんごんと向かってくる。と同時に、バンドの音も大きくなったのは間違いない。PAの操作はどのぐらい聞き味に影響しているのか。???? 途中からはオーイエー♥な、現代R&Bショウ。過去に受けた姿とこんなにも隔たりがある実演も珍しかったし、ショウの始まりと終わりでこんなにも魅力が異なるものに触れたのも初めての事のような。まだ初日なら判るけど、ぼくが見たのは4日目のセカンド・ショウ。他の日はどうだったんだろ。ライヴ・パフォーマンスの不可解さをこんなに感じた晩もそうはない。それとも、じわじわ盛り上げようとした、ブライス・ウィルソンの方策? まさか。