昼下がりから試写に二つ行き、日が暮れるとライヴ2本をハシゴ。体力と根気がないのでけっこう困ぱいするかと思ったら、そんなことまるでなく。夜も元気だった。ま、誰に強制されるわけでもない、娯楽享受だものなー。
まず、渋谷・ユーロライヴで、2016年米国映画「ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ」を見る。ドキュメンタリーだが、これはその内容情報を知ったら、多くの人が興味を持つのではないか。
素材となるのは、ユダヤ系で1964年ブロンクス生まれのアンソニー・ウィーナー。民主党上院議員秘書(1985年〜)〜NY市会議員(1991年〜)〜民主党下院議員(1999年〜)と順調にのし上がった彼が、2011 年にセックス・スキャンダルで議員辞職を余儀なくされたあたりから、このドキュメンタリーは始まる。下院議員時代に彼はエネルギッシュな颯爽行動派として評価を高め、下院当選の翌年にはヒラリー・クリントンの側近秘書として知られるフーマ・アベディン(カラードぽいが、セレブ臭あり。クリントンは、彼女を第2の娘とも言っていたよう)と結婚するなど順風満帆だった。
猥褻な文書や写真を携帯電話で送ることを指す“セクスティング”という言葉があるのは初めて知ったが、ウィーナーの場合は淫らな写真を女性に送る趣味を持っていた。最初にバレた際、自分は無関係でハッキングされた可能性があると嘘をついたのが致命傷だったよう。辞職後に、フーマとの間に子供が生まれもした。その後、9年間続いたマイケル・ブルーバーグの後任を決める2013 年ニューヨーク市長選に、ウィーナーは政界返り咲きを求めて立候補する。彼は知名度のある妻や子供を前に出した戦略も取って選挙戦を戦い、当初の世論調査では支持率1位の候補となった。映画は、ウィーナーが中南米系とかのマイノリティ米国人やゲイにも両手を広げる選挙戦をしていたことも伝える。
監督をしているのは、かつてウィーナーを含む政治コンサルトの経験も持つジョシュ・クリーグマンと映像畑をずっと歩んできたエリース・スタインバーグ。多くの材料は、その市長選挙選に密着して撮った映像だ。おそらくクリーグマンはもう一度政界に返り咲くサクセス・ストーリーを求めて撮影を申し出て、ウィーナーの方もまた表舞台に戻ることができると踏んで撮影をOKしたのではなかったか。だから、本当に近い位置で収めた映像が映画にはある。
だが、選挙活動中に、下院議員辞職後も彼がセクスティングをやっていたことが暴かれ、支持を失い、彼は落選してしまう。その顛末をTV報道映像なども交えて綴るのだが、とても見ていて辛い。後味が悪く、笑えない。その理由の大きな一つは、ウィーナーが人の上に立つには不適切かもしれない結構頭の悪い、直情的な人間であることが露見するから。よくぞ、ウィーナーはこれを映画化することを認めたな。そして、所詮政治家は皆んなそうであり、決定的な悪事が表に出ない限りはそいつらが調子よく振る舞って当選していると、思わせられる。あーあ、政治家って、選挙って…。そう、悲しい気持ちにならないはずがないじゃないか。また、ウィーナーの懲りない嗜好を通して、人間の性(さが)ってなんなのかという虚無感にもとらわれる。
落選した時点で映画は終わるが、その後もウィーナーのトホホな性癖は複数回暴かれたよう。そして、今回の大統領選でヒラリー・クリントンが公務で私用メール・サーヴァーを使っていたことが大問題となったが、それはもともとウィーナーのメールが精査される段階で、発覚したようだ。トランプ次期大統領の数々のオレさま所作はセクスティングを超えるものではなかったのか。
暗い気持ちのもと移動し、東銀座・松竹試写室でイタリア人巨匠監督のルキノ・ヴィスコンティ(1906~1976年)の晩年にあたる1974年の人気映画「家族の肖像」を見る。ファッション・メイカーのフェンディがお金を出してデジタル復刻した結果、2月からの公開となるようだ。
これは、もう一度見てみたかった。別に映画ファンでも、もちろんヴィスコンティ監督好きでもないのに、「家族の肖像」だけは大昔に見たことがあった。当時、お洒落な意識高い系の友達に誘われたわけですね。見たら、つまらなかった。でも、ええ格好して気に入られたくて、その時は持ち上げた感想を言ったと思う。
しかし、舞台となるアパートの重厚な部屋の様に欧州文化、貴族というシステムの流れを感じたりもし、未知のものと出会う喜びは得た。また、当時のぼくはこの映画に描かれる主人公の老人と彼の周りにいる人たちとの軋轢に、キューブリックの映画「時計仕掛けのオレンジ」(ロック的な感覚を持つとの見解〜ブリティッシュ・ロックを理解する手助けとなる〜から、この映画は見ておりました)との親和性を感じてしまったりもした。ようは常識と不道徳とかいった旧と新の対立が欧州空間のもと描かれるということで……。
今回見ても、最後の方はよくわからなくなってしまったし、示唆はいろいろと受けたが、心からは楽しめなかった。また、ローマのアパートメントの中だけで完結する映画(ヴィスコンティが病で下半身不随となり車椅子の生活を余儀なくされた結果の設定であったが、それはそれで、技ありだろう)であるのに、台詞がすべて英語で通される違和感は、言葉に敏感になっているだろう今の方が増した。一部カンツォーネもかかるし、エンド・ロールのクレジットもイタリア語なのに。主人公のバート・ランカスターは米国人だが、他の非英語圏生まれの役者たち、よく英語をこなしている。ヴィスコンティの他の映画も英語劇なの? 当然、他はちゃんと見たことがない。無責任なことを書いていて、すみません。
その後は、南青山・ブルーノート東京へ行き、昨日に続きチャールス・ロイド(2005年5月11日、2008年4月6日、2013年1月6日、2017年1月12日)御一行を見る。前日の感慨を受け、そして絶対に違うことをやるはずだという確信のため、当初の予定を変更した。出演者の皆さん、服装が違っていますね。昨日はヤンキーのノリだったハーランド(2005年5月11日、2007年10月3日、2008年4月6日、2013年1月6日、2017年1月12日)は、カジュアルながらジャケットを着ていた。
そしたら、演奏も違っていた。まず、曲が全部違う。このショウはブルースを二つもやる。やはり、新鮮。とともに、サウンドの傾向も違っていた。ギザギザしていた、どこか異物感をはらんでいたのは昨日の方。この日はもっと純ジャズっぽい、スペースを作り飛び込み会う感じがよりあった。ボサっぽいビートで始まる曲もあったか。どこか、ふくよかでもあった。それゆえ、昨日のセカンド・ショウを見た際には欲しいと思った新作『アイ・ロング・トゥ・シー・ユー』のりのスティール・ギターの音が、不要であるとも感じた。もっと極端な書き方をするなら、この2日目のファースト・ショウはロイド、ピアノのジェイソン・モラン(2007年1月16日、2007年1月17日、2008年4月6日、2013年1月6日、2015年1月20日、2015年1月21日)、ロジャース、ハーランドという旧カルテットのモランの代わりにビル・フリゼールがきっちり入った姿を持つ、とも説明できるんじゃないか。ゆえに、昨日のようにフルゼールにガボール・サボの影を見る局面もなかった。
しかし、なんにせよ、なにから何まで面白い。フリゼール(2000年7月21日、2006年5月14日、2009年5月8日、2011年1月30日、2017年1月12日)は好調、とともに彼にはファンが付いていて、彼を見に来た人もいるはず。フリゼールのソロのショウとか、企画しても良かったのではないか。もしくは、このリズム・セクションと(つまり、ロイド抜きのトリオで)やっても超おもしろかったはずだ。レコーディングするのも、大ありだと思う。
そのフリゼールのソロのとき(たっぷり、与えられます)のロジャース(2005年5月11日、2008年9月22日、2009年4月21日、2011年11月15日、2013年1月6日、2014年5月15日、2016年2月18日、2017年1月12日)の演奏は素敵すぎ。アクションも、今日の方が大きくなかったか。もう、フリゼールの変化に沿いニュアンスに富む指さばきを見せ、ときに的確に変化をうながすフレイズも出し、といった具合で。もうドキドキ、彼はぼくにとってトップ級のエレクトリック・ベース奏者となった。
もしかして、ぼくは楽に聞けた、この日の方がやっている曲調が好みであったためもあり、昨日のショウより良いと思えたかもしれぬ。絶対、最初に聞いたとき方が新鮮で好印象を持ちがちなのに、これはどうしたことか。でも、それこそがリアル・ジャズのすごさであり、ロイドの力なのだと思う。あー、明日も見たいが用事がある。あ、このセットは80分強だったかな。
▶︎過去の、チャールス・ロイド
http://43142.diarynote.jp/200505141717440000/
http://43142.diarynote.jp/200804081928430000/
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
http://43142.diarynote.jp/201701131141476377/
▶過去の、ビル・フリゼール
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm
http://43142.diarynote.jp/200605160543260000/
http://43142.diarynote.jp/200905101005501321/
http://43142.diarynote.jp/201102091715522875/
http://43142.diarynote.jp/201701131141476377/
▶過去の、ルーベン・ロジャース
http://43142.diarynote.jp/200505141717440000/
http://43142.diarynote.jp/200809240100515549/
http://43142.diarynote.jp/200904221307055009/
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
http://43142.diarynote.jp/201405171309186867/
http://43142.diarynote.jp/201602191120219620/
http://43142.diarynote.jp/201701131141476377/
▶過去の、エリック・ハーランド
http://43142.diarynote.jp/200505141717440000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20071003
http://43142.diarynote.jp/200804081928430000/
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
http://43142.diarynote.jp/201701131141476377/
▶過去の、ジェイソン・モラン
http://43142.diarynote.jp/200701201417260000/
http://43142.diarynote.jp/200701201418210000/
http://43142.diarynote.jp/200804081928430000/
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
http://43142.diarynote.jp/201501210901575140/
http://43142.diarynote.jp/201501220923108418/
その後は、品川・ステラボールに行く。サンブランシスコの穏やかエレクトロニカの担い手であるTychoの公演。これまでティコと日本語では表記されてきたが、タイコーとステージで言っていたか。
会場入りしたときは、ちょうど前座が終わっていてインターミッション中。缶を提供しているだけなのに、販売カウンターの前にはすごい列。毎度、使えない。プリンス・ホテルの付属施設のくせに、あんな客に迷惑をかけていて恥ずかしくないのか。ともあれ、ぼくの中では大箱に分類されている会場はほぼ満員。近年、フェスとかで何度か来ているはずだが、人気あるな。
スコット・ハンセンのソロ・プロジェクト。ながら、今回の実演では、キーボードやギターを弾く当人に加え、さらにギター/ベース、ギター/ベース/キーボード、ドラムという3人がサポートで加わる。ドラマーのロリー・オコナーが四つ打ち、プログラム的なビートをしゃきりと軽やかに叩く。いい感じ。実は、前座の出演者は彼のユニットだったようで、どんなことをやったのか。ま、チャールス・ロイド欲には勝てるはずもないんだが。
彼のしっかりした、タイトでもあるドラミングを下敷きに、そこに鍵盤音や弦楽器の音がある種の抑制美のもと重なるのだが、なんかPC同期音を使っていないような気がした。鍵盤の音数が多いかと思える時もなくはなかったが、ドラマーはヘッドフォンをしていないし、別に奏者間にインタープレイが存在するわけではないのだが(それはロイドを見た後だと、よけいに感じる)、そこにはバンドとしてのクリーンさ〜姿勢の正しさがあるような気がし、これはバンド音っぽいと思えちゃう。彼らのサクっとした終わり方も何気に印象的。下敷きガイド音がないとしたら、合図を出し会うわけでもなく、少し不思議。きっちり、小節数が決まっていて、それを皆んな把握していたりして。
そんな生演奏的なパフォーマンスは全インストで、いろいろな感想を導く。ギターがよりリアルに聞こえるためにときにシューゲイザーやポスト・ロックと言ってもいいような。というか、もともとある種のロック的な感覚を持っており、それが好評価に繋がっているとも指摘できるか。曲はどれも短め。延々と1曲を続け、それでトランスぽいのりを出すということもアリに思えるが、ハンセンたちは楽曲を大切にしていることを示すかのように、そういうことはしない。ある意味潔いし、ハッタリや虚勢をかましておらず、それもいいな。そういえば、彼らの曲名は初期を除き、どれも簡素にワン・ワードの単語なんだよな。
背後のバカでかいスクリーンには、自然を撮ったものやグラフィクス映像が終始流されていた。それ、邪魔に感じる時もぼくはあったが、それは小数派なのかな。映像も、ハンセンが作っているよう。2階席から見る彼はとても育ちが良さそうに見えた。
<今日の、雲行き>
午後3時ごろ、試写場から試写場に移動の最中、濃い灰色の空(でも、雨は降りそうでない)に半分なっていて、うわあ。スコットランドの空みたいと一瞬思った? というのは嘘だが、これは北国の空の感じだと思わせるには十分なもの。明日、明後日は有数の冷え込みとなる予報が出ているのに納得した。まだまだ、寒さはこれからかあ。。。
まず、渋谷・ユーロライヴで、2016年米国映画「ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ」を見る。ドキュメンタリーだが、これはその内容情報を知ったら、多くの人が興味を持つのではないか。
素材となるのは、ユダヤ系で1964年ブロンクス生まれのアンソニー・ウィーナー。民主党上院議員秘書(1985年〜)〜NY市会議員(1991年〜)〜民主党下院議員(1999年〜)と順調にのし上がった彼が、2011 年にセックス・スキャンダルで議員辞職を余儀なくされたあたりから、このドキュメンタリーは始まる。下院議員時代に彼はエネルギッシュな颯爽行動派として評価を高め、下院当選の翌年にはヒラリー・クリントンの側近秘書として知られるフーマ・アベディン(カラードぽいが、セレブ臭あり。クリントンは、彼女を第2の娘とも言っていたよう)と結婚するなど順風満帆だった。
猥褻な文書や写真を携帯電話で送ることを指す“セクスティング”という言葉があるのは初めて知ったが、ウィーナーの場合は淫らな写真を女性に送る趣味を持っていた。最初にバレた際、自分は無関係でハッキングされた可能性があると嘘をついたのが致命傷だったよう。辞職後に、フーマとの間に子供が生まれもした。その後、9年間続いたマイケル・ブルーバーグの後任を決める2013 年ニューヨーク市長選に、ウィーナーは政界返り咲きを求めて立候補する。彼は知名度のある妻や子供を前に出した戦略も取って選挙戦を戦い、当初の世論調査では支持率1位の候補となった。映画は、ウィーナーが中南米系とかのマイノリティ米国人やゲイにも両手を広げる選挙戦をしていたことも伝える。
監督をしているのは、かつてウィーナーを含む政治コンサルトの経験も持つジョシュ・クリーグマンと映像畑をずっと歩んできたエリース・スタインバーグ。多くの材料は、その市長選挙選に密着して撮った映像だ。おそらくクリーグマンはもう一度政界に返り咲くサクセス・ストーリーを求めて撮影を申し出て、ウィーナーの方もまた表舞台に戻ることができると踏んで撮影をOKしたのではなかったか。だから、本当に近い位置で収めた映像が映画にはある。
だが、選挙活動中に、下院議員辞職後も彼がセクスティングをやっていたことが暴かれ、支持を失い、彼は落選してしまう。その顛末をTV報道映像なども交えて綴るのだが、とても見ていて辛い。後味が悪く、笑えない。その理由の大きな一つは、ウィーナーが人の上に立つには不適切かもしれない結構頭の悪い、直情的な人間であることが露見するから。よくぞ、ウィーナーはこれを映画化することを認めたな。そして、所詮政治家は皆んなそうであり、決定的な悪事が表に出ない限りはそいつらが調子よく振る舞って当選していると、思わせられる。あーあ、政治家って、選挙って…。そう、悲しい気持ちにならないはずがないじゃないか。また、ウィーナーの懲りない嗜好を通して、人間の性(さが)ってなんなのかという虚無感にもとらわれる。
落選した時点で映画は終わるが、その後もウィーナーのトホホな性癖は複数回暴かれたよう。そして、今回の大統領選でヒラリー・クリントンが公務で私用メール・サーヴァーを使っていたことが大問題となったが、それはもともとウィーナーのメールが精査される段階で、発覚したようだ。トランプ次期大統領の数々のオレさま所作はセクスティングを超えるものではなかったのか。
暗い気持ちのもと移動し、東銀座・松竹試写室でイタリア人巨匠監督のルキノ・ヴィスコンティ(1906~1976年)の晩年にあたる1974年の人気映画「家族の肖像」を見る。ファッション・メイカーのフェンディがお金を出してデジタル復刻した結果、2月からの公開となるようだ。
これは、もう一度見てみたかった。別に映画ファンでも、もちろんヴィスコンティ監督好きでもないのに、「家族の肖像」だけは大昔に見たことがあった。当時、お洒落な意識高い系の友達に誘われたわけですね。見たら、つまらなかった。でも、ええ格好して気に入られたくて、その時は持ち上げた感想を言ったと思う。
しかし、舞台となるアパートの重厚な部屋の様に欧州文化、貴族というシステムの流れを感じたりもし、未知のものと出会う喜びは得た。また、当時のぼくはこの映画に描かれる主人公の老人と彼の周りにいる人たちとの軋轢に、キューブリックの映画「時計仕掛けのオレンジ」(ロック的な感覚を持つとの見解〜ブリティッシュ・ロックを理解する手助けとなる〜から、この映画は見ておりました)との親和性を感じてしまったりもした。ようは常識と不道徳とかいった旧と新の対立が欧州空間のもと描かれるということで……。
今回見ても、最後の方はよくわからなくなってしまったし、示唆はいろいろと受けたが、心からは楽しめなかった。また、ローマのアパートメントの中だけで完結する映画(ヴィスコンティが病で下半身不随となり車椅子の生活を余儀なくされた結果の設定であったが、それはそれで、技ありだろう)であるのに、台詞がすべて英語で通される違和感は、言葉に敏感になっているだろう今の方が増した。一部カンツォーネもかかるし、エンド・ロールのクレジットもイタリア語なのに。主人公のバート・ランカスターは米国人だが、他の非英語圏生まれの役者たち、よく英語をこなしている。ヴィスコンティの他の映画も英語劇なの? 当然、他はちゃんと見たことがない。無責任なことを書いていて、すみません。
その後は、南青山・ブルーノート東京へ行き、昨日に続きチャールス・ロイド(2005年5月11日、2008年4月6日、2013年1月6日、2017年1月12日)御一行を見る。前日の感慨を受け、そして絶対に違うことをやるはずだという確信のため、当初の予定を変更した。出演者の皆さん、服装が違っていますね。昨日はヤンキーのノリだったハーランド(2005年5月11日、2007年10月3日、2008年4月6日、2013年1月6日、2017年1月12日)は、カジュアルながらジャケットを着ていた。
そしたら、演奏も違っていた。まず、曲が全部違う。このショウはブルースを二つもやる。やはり、新鮮。とともに、サウンドの傾向も違っていた。ギザギザしていた、どこか異物感をはらんでいたのは昨日の方。この日はもっと純ジャズっぽい、スペースを作り飛び込み会う感じがよりあった。ボサっぽいビートで始まる曲もあったか。どこか、ふくよかでもあった。それゆえ、昨日のセカンド・ショウを見た際には欲しいと思った新作『アイ・ロング・トゥ・シー・ユー』のりのスティール・ギターの音が、不要であるとも感じた。もっと極端な書き方をするなら、この2日目のファースト・ショウはロイド、ピアノのジェイソン・モラン(2007年1月16日、2007年1月17日、2008年4月6日、2013年1月6日、2015年1月20日、2015年1月21日)、ロジャース、ハーランドという旧カルテットのモランの代わりにビル・フリゼールがきっちり入った姿を持つ、とも説明できるんじゃないか。ゆえに、昨日のようにフルゼールにガボール・サボの影を見る局面もなかった。
しかし、なんにせよ、なにから何まで面白い。フリゼール(2000年7月21日、2006年5月14日、2009年5月8日、2011年1月30日、2017年1月12日)は好調、とともに彼にはファンが付いていて、彼を見に来た人もいるはず。フリゼールのソロのショウとか、企画しても良かったのではないか。もしくは、このリズム・セクションと(つまり、ロイド抜きのトリオで)やっても超おもしろかったはずだ。レコーディングするのも、大ありだと思う。
そのフリゼールのソロのとき(たっぷり、与えられます)のロジャース(2005年5月11日、2008年9月22日、2009年4月21日、2011年11月15日、2013年1月6日、2014年5月15日、2016年2月18日、2017年1月12日)の演奏は素敵すぎ。アクションも、今日の方が大きくなかったか。もう、フリゼールの変化に沿いニュアンスに富む指さばきを見せ、ときに的確に変化をうながすフレイズも出し、といった具合で。もうドキドキ、彼はぼくにとってトップ級のエレクトリック・ベース奏者となった。
もしかして、ぼくは楽に聞けた、この日の方がやっている曲調が好みであったためもあり、昨日のショウより良いと思えたかもしれぬ。絶対、最初に聞いたとき方が新鮮で好印象を持ちがちなのに、これはどうしたことか。でも、それこそがリアル・ジャズのすごさであり、ロイドの力なのだと思う。あー、明日も見たいが用事がある。あ、このセットは80分強だったかな。
▶︎過去の、チャールス・ロイド
http://43142.diarynote.jp/200505141717440000/
http://43142.diarynote.jp/200804081928430000/
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
http://43142.diarynote.jp/201701131141476377/
▶過去の、ビル・フリゼール
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm
http://43142.diarynote.jp/200605160543260000/
http://43142.diarynote.jp/200905101005501321/
http://43142.diarynote.jp/201102091715522875/
http://43142.diarynote.jp/201701131141476377/
▶過去の、ルーベン・ロジャース
http://43142.diarynote.jp/200505141717440000/
http://43142.diarynote.jp/200809240100515549/
http://43142.diarynote.jp/200904221307055009/
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
http://43142.diarynote.jp/201405171309186867/
http://43142.diarynote.jp/201602191120219620/
http://43142.diarynote.jp/201701131141476377/
▶過去の、エリック・ハーランド
http://43142.diarynote.jp/200505141717440000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20071003
http://43142.diarynote.jp/200804081928430000/
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
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▶過去の、ジェイソン・モラン
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http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
http://43142.diarynote.jp/201501210901575140/
http://43142.diarynote.jp/201501220923108418/
その後は、品川・ステラボールに行く。サンブランシスコの穏やかエレクトロニカの担い手であるTychoの公演。これまでティコと日本語では表記されてきたが、タイコーとステージで言っていたか。
会場入りしたときは、ちょうど前座が終わっていてインターミッション中。缶を提供しているだけなのに、販売カウンターの前にはすごい列。毎度、使えない。プリンス・ホテルの付属施設のくせに、あんな客に迷惑をかけていて恥ずかしくないのか。ともあれ、ぼくの中では大箱に分類されている会場はほぼ満員。近年、フェスとかで何度か来ているはずだが、人気あるな。
スコット・ハンセンのソロ・プロジェクト。ながら、今回の実演では、キーボードやギターを弾く当人に加え、さらにギター/ベース、ギター/ベース/キーボード、ドラムという3人がサポートで加わる。ドラマーのロリー・オコナーが四つ打ち、プログラム的なビートをしゃきりと軽やかに叩く。いい感じ。実は、前座の出演者は彼のユニットだったようで、どんなことをやったのか。ま、チャールス・ロイド欲には勝てるはずもないんだが。
彼のしっかりした、タイトでもあるドラミングを下敷きに、そこに鍵盤音や弦楽器の音がある種の抑制美のもと重なるのだが、なんかPC同期音を使っていないような気がした。鍵盤の音数が多いかと思える時もなくはなかったが、ドラマーはヘッドフォンをしていないし、別に奏者間にインタープレイが存在するわけではないのだが(それはロイドを見た後だと、よけいに感じる)、そこにはバンドとしてのクリーンさ〜姿勢の正しさがあるような気がし、これはバンド音っぽいと思えちゃう。彼らのサクっとした終わり方も何気に印象的。下敷きガイド音がないとしたら、合図を出し会うわけでもなく、少し不思議。きっちり、小節数が決まっていて、それを皆んな把握していたりして。
そんな生演奏的なパフォーマンスは全インストで、いろいろな感想を導く。ギターがよりリアルに聞こえるためにときにシューゲイザーやポスト・ロックと言ってもいいような。というか、もともとある種のロック的な感覚を持っており、それが好評価に繋がっているとも指摘できるか。曲はどれも短め。延々と1曲を続け、それでトランスぽいのりを出すということもアリに思えるが、ハンセンたちは楽曲を大切にしていることを示すかのように、そういうことはしない。ある意味潔いし、ハッタリや虚勢をかましておらず、それもいいな。そういえば、彼らの曲名は初期を除き、どれも簡素にワン・ワードの単語なんだよな。
背後のバカでかいスクリーンには、自然を撮ったものやグラフィクス映像が終始流されていた。それ、邪魔に感じる時もぼくはあったが、それは小数派なのかな。映像も、ハンセンが作っているよう。2階席から見る彼はとても育ちが良さそうに見えた。
<今日の、雲行き>
午後3時ごろ、試写場から試写場に移動の最中、濃い灰色の空(でも、雨は降りそうでない)に半分なっていて、うわあ。スコットランドの空みたいと一瞬思った? というのは嘘だが、これは北国の空の感じだと思わせるには十分なもの。明日、明後日は有数の冷え込みとなる予報が出ているのに納得した。まだまだ、寒さはこれからかあ。。。