サナンダ・マイトルーヤ、元の名はテレンス・トレント・ダービー。21世紀に入るころから名前を抹香くさいものに変え、簡素なお膳立てのアルバムを自主制作的に出していたのは知っていたが、立った個を持つゆえにロック的な手触りも濃かったはみ出しアフリカ系米国人シンガー・ソングライターの公演をまさかここに来て見ることができようとは。

 彼のことは英国でデビューするかしないかの1987年初春にロンドンで見て(メイン・アクトはザ・コミュナーズ。当時、彼らは人気者だったので、会場はロイヤル・アルバート・ホールだった)、どこか異形の佇まいに度肝を抜かれ、その後、日本でも人気を獲得し1990年代前半の初来日ツアーの東京公演は確か日本武道館だったと記憶する。2度目の日本ツアーも日本武道館でショウが持たれたはずだが、そのときは渋谷・クラブクアトロでも公演が開かれ、ぼくはそちらでその勇士を見た。

 そんな彼には2度インタヴューしたことがあって、その印象がまったく別であったのも印象深い。一度は『シンフォニー・オア・ダム』(1993年)リリースのときで、それはロンドンで。場所はソニーUKが用意した、お洒落なプチ・ホテルのスイートだった。彼は本当にもの静か(声も猫なで声で、ぼくはマイケル・ジャクソンを想起した。その様は、彼の回りだけ時間が止まっているようだった)で、新作をプロモーションする場であるのに、ジャンル分けをする音楽業界に失望し、引退したい、東洋に住みたいなんて話もしていた。そして、これまでと異なる音楽をやりたい意向ももらし、たとえば坂本龍一のような、という発言をしたとも記憶している。先に触れた初来日公演は確かその後で、そのホットな観客の反応に接し、それは彼を力づけると、ぼくはコブシを握ったんじゃなかったか。

 そして、2度目の取材はマイトルーヤと改名した2001年で、その名で出したアルバム『ワイルドカード』をライセンスしたエイベックスが彼をプロモ来日させた際。そのときは、かなり吹っ切れた感じもあって、態度も快活。けっこう、ノリがあって盛り上がったことを覚えている。

 とかなんとか、けっこうぼくにとってはひっかかりを持つアーティストであると言える。最初に取材したころには米国に戻っていて、2度目の取材のときは米国になじめずまたドイツ(NY生まれの彼は、軍で赴任したドイツで除隊し、そのまま欧州で活動をはじめ、デビューの機会を得た)に住んでいたと記憶する。その後、彼はイタリアに引っ越したとも伝えられ、ネットを中心にいろんな音を出していた。

 南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。ザ・ナッジ・ナッジと名付けられたバンドは、とっぽい白人のベーシストとドラマー。つまり、ショウは完全トリオで行われた。MCでサイドの2人は共にミラノ在住と紹介されていたので、マイトルーヤもミラノに住んでいるのだろう。蛇足だが、彼の息子の名はフランチェスコ・ミンガス・マイトルーヤという。闘志的側面とサバけた趣味人の両面を持っていたジャズ巨人であるチャールズ・ミンガスから、その名を取っているのだろうか。

 ギターを弾きながら歌う彼とリズム隊の音が重なる(ドラマーはコーラスをつけた)、本当にシンプルな設定によるパフォーマンス。良く言えば、剥き出し感のある、ハダカの歌、ともなるか。曲は新作『Return to Zooathalon』からのものが主。マイトルーヤは現在、自らの表現を“ポスト・ミレニアム・ロック”と称しているよう。本人のなかでは過去とは切れた所にある改名後の新しい表現という意識があるのかもしれないが、ボビー・ブランドがJBと出会ったようなしゃくり上げ歌唱は過去の彼の流れにあるものだし、曲は少し説明ぽくなったという変化はあるかもしれないが、それも新しい佇まいを持つものではない。

 51歳になっちゃったと言っていたが、外見にそれほど劣化はない。身体はまだスリムだし、ブレイズ頭も禿げていないし。なんか、人懐こいチャーミングさが出て来ている部分はいいナと思える。彼は数曲でピアノを弾きながら歌ったが、ぼくの好みではこちらの方が澄んだ手触りと芯の強さが出るような感じがして、ずっといいと思った。というか、彼の半端にディストーションがかかったギター演奏がイマイチだったとも言えるのだが。当初、リズム隊は平均的な腕の人たちと感じて接していたが、マイトルーヤの単純な弾き語りに幅を加えているあたり、けっこう実力者かもと思えて来たりも。2人とも、ファンキーなノリのものをやるほうが光る。

 久しぶりに接した彼の実演、想像を超えるものではなかった。だって、才能ある人だからね。でも、アーティストの業とかいろいろ考えさせられ、またマイトルーヤたる掛け替えのない何かが溢れる部分もあって、胸が一杯になってしまったのは確か。忙しいので、明日早起きして原稿にかかれるようにと素直に帰ろうと思っていたのだが、どうしても気持ちをチルさせたくて、途中下車しバーに寄ってしまう。


<今日の、もろもろ>
 ステージに出てきた彼はマスクをしていた。おお、外国人でマスクをする人はめずらしい。そして、ステージに上がると、マスクをとる。そして、上出のごとし。ブルーノート東京は出演者に合わせて、出し物ごとに特製のカクテルを用意するのが常だが、1日限りの公演にもかかわらず、この日は2種類の特製カクテルをメニューに記載。なんと、マイトルーヤ自身が用意したレシピによるものだという。彼、そういう趣味、あるの? 偏屈なぼくはオトコがカクテルを頼むのはなんだかあと感じる人間であまり頼んだことないが(ドライな、ドライ・マティーニは例外。あと、メキシコ料理のときのフローズン・タイキリ、そしてカイピリーニャは別か。カイピリーニャは砂糖少な目と言って、ブラジル音楽関連のお店ではよくオーダーしている)、知人が頼んだものを一口いただく。それ、ジンジャエールやシナモン・スティックを用いたものだった。
 パフォーマンスは歌詞を見ながらなされた。普段はあまり、ライヴをしていないのかな。ステージ裏や両端のヴィジョンにも、多くの曲で歌詞が映し出される。それ、日本人に向けてのサーヴィスか、それとも歌詞を大切にしたいことからくる所作なのか。ただし、彼の実演での歌と画面に映される歌詞がズレて、そんなに見ていたわけではないがイラっと来た。
 演奏時間は90分をゆうに超えたはず。とにもかくにも、本人はとってもうれしそう。最後の曲はファンキーなリズム隊の演奏するリフにマイトルーヤが声を詠唱ぽく奔放にのせるものだったが、たまらずという感じで、テレンス・トレント・ダービー時代を彷彿とさせるようなコール&レスポンスを観客としたりもした。本編のショウの終わりのときとアンコールの行き来の際は、握手やハグを望まれるまま応える彼はほとんどピーボ・ブライソン(2012年1月30日、他)状態。この来日が、彼にいっそうの力を与えんことを。