mori shige+ポウタ・キウーサ+……
2010年5月12日 音楽 ハンス・コッハ、ミハイル・ティーク、ペード・コンク(3人ともに、クラリネット主体奏者。ポルタ・キウーザと名乗りスイスからやってきて日本各所でライヴ中)、ネナート・シウンフリーニ(リード)、クリスティアーノ・デ・ファブリティイス(打楽器)、ヒグチケイコ(ヴォイス)、mori-shige(チェロ)、トッド・ニコルソン(ベース)……スイス人3人、イタリア人2人、日本人2人、在日外国人1人(何人か分からないので、こういう書き方になりました)という内訳のセッション、たぶん。名前の読みもあまり自信がない。なんにせよ、いろんな属性と経験を持つ多様な即興演奏家8人が東京の街角で気ままに交錯……したということですね。渋谷・Bar Isshee、例によって、投げ銭制なり。
進行役はmori-shige、彼がこの晩を仕切っていると取っていいんだろう。とっても穏健な人格者という顔つきの人で、本ブログ原稿はみな敬称略で書かさせてもらっているが、なんかさん付けで書きたくなる感じの人でありました。で、彼の指名(ちゃんと、それは事前に決められていたよう)により3人ぐらいの組み合わせで、次々に音を重ね合う。音楽演奏向けではない狭い店だからもちろん生音であり、ほんの鼻の先でパフォーマンンスはなされる。息づかいが感じられる、なんて形容があるが、まさに送り手の何から何までが直に見る者の前にあるわけで、ああなんと贅沢な。ぼくは昔ECMからリーダー作をだしたことがあるハンス・コッハしかちゃんと知らず、まずは彼の演奏を聞きたくて飲み会を早々に抜けて行ったのだが、皆ちゃんと質を持つ人たちであったよなあ。で、彼らは自在に重なり、気持ちの交換を悠々おこないまくる。
打楽器奏者(とっても、ぼくの波長/感覚と合う人で嬉しくなる)が入ったときは少しジャズ臭が強くなったりもしたか。でも、みんな、その楽器の定型の用い方からも離れようともするものでもあり、物事の正解は一つじゃない、という考えをいろんな方向からやんわりアピールする。その、<物事の正解は一つじゃない>という行き方は、ただの自慰的演奏になったり、逆に固まった行き方を定めちゃう場合もなくはないが、この日のコミュニケーション好きの、諧謔の感覚を持つ自立した音楽家たちの振る舞いには、そういう危惧は余計なお世話。2部制にて行われ、最後は全員によるパフォーマンス。ところで、先に触れたようにノーPAでのギグ。ゆえに、音バランスについて疑問を抱く方もいるだろうが、少なくてもこの手の人たちなら大丈夫。修羅場/劣悪な条件に慣れていて、全体の音を見極めつつ、自分の音をバランス良く出す本能のようなものをちゃんと持っている。とともに、やはり生音はいいもんデス。
それにしても、いい歳をこいた、イケてる音楽観と積み重ねや修練を持つ敏感な音楽家たちがこんな少ない客(20人はいなかったと思う)を前に、その境遇を嘆くこともなく、まっすぐにその流儀を開く。生理的にとても高潔であり、なんか心が洗われる。やっぱ大衆的なポップ・ミュージックも好きだが、ときどきこういう世界にも触れて、音楽家のありかた、もう一つの音楽の現場を知らなきゃイカンと切に思う。そして、即興音楽/フリー・ミュージックなんかに興味を持てなくても、音楽にちゃんと向き合いたいと思う人なら、それに触れることはすごく有意義なことと思う。また、音楽の送る方の側にいる人なら、それはかなりマストなこととなるのではないか。井の中の蛙、であってはならズ。そんなことも、この晩にぼくは思った。
進行役はmori-shige、彼がこの晩を仕切っていると取っていいんだろう。とっても穏健な人格者という顔つきの人で、本ブログ原稿はみな敬称略で書かさせてもらっているが、なんかさん付けで書きたくなる感じの人でありました。で、彼の指名(ちゃんと、それは事前に決められていたよう)により3人ぐらいの組み合わせで、次々に音を重ね合う。音楽演奏向けではない狭い店だからもちろん生音であり、ほんの鼻の先でパフォーマンンスはなされる。息づかいが感じられる、なんて形容があるが、まさに送り手の何から何までが直に見る者の前にあるわけで、ああなんと贅沢な。ぼくは昔ECMからリーダー作をだしたことがあるハンス・コッハしかちゃんと知らず、まずは彼の演奏を聞きたくて飲み会を早々に抜けて行ったのだが、皆ちゃんと質を持つ人たちであったよなあ。で、彼らは自在に重なり、気持ちの交換を悠々おこないまくる。
打楽器奏者(とっても、ぼくの波長/感覚と合う人で嬉しくなる)が入ったときは少しジャズ臭が強くなったりもしたか。でも、みんな、その楽器の定型の用い方からも離れようともするものでもあり、物事の正解は一つじゃない、という考えをいろんな方向からやんわりアピールする。その、<物事の正解は一つじゃない>という行き方は、ただの自慰的演奏になったり、逆に固まった行き方を定めちゃう場合もなくはないが、この日のコミュニケーション好きの、諧謔の感覚を持つ自立した音楽家たちの振る舞いには、そういう危惧は余計なお世話。2部制にて行われ、最後は全員によるパフォーマンス。ところで、先に触れたようにノーPAでのギグ。ゆえに、音バランスについて疑問を抱く方もいるだろうが、少なくてもこの手の人たちなら大丈夫。修羅場/劣悪な条件に慣れていて、全体の音を見極めつつ、自分の音をバランス良く出す本能のようなものをちゃんと持っている。とともに、やはり生音はいいもんデス。
それにしても、いい歳をこいた、イケてる音楽観と積み重ねや修練を持つ敏感な音楽家たちがこんな少ない客(20人はいなかったと思う)を前に、その境遇を嘆くこともなく、まっすぐにその流儀を開く。生理的にとても高潔であり、なんか心が洗われる。やっぱ大衆的なポップ・ミュージックも好きだが、ときどきこういう世界にも触れて、音楽家のありかた、もう一つの音楽の現場を知らなきゃイカンと切に思う。そして、即興音楽/フリー・ミュージックなんかに興味を持てなくても、音楽にちゃんと向き合いたいと思う人なら、それに触れることはすごく有意義なことと思う。また、音楽の送る方の側にいる人なら、それはかなりマストなこととなるのではないか。井の中の蛙、であってはならズ。そんなことも、この晩にぼくは思った。