バンド(かつては、ロウアー911というバンド名が付けられていた。今は名前はないよう)が変わり、当人(2000年5月24日、2002年3月23日、2005年9月20日、2012年2月15日)に加えて、トロンボーン、オルガン、ギター、ベース、ドラムという布陣にてパフォーマンス。リズム・セクションの2人はアフリカ系だ。当人を含めキーボード奏者が2人になったということもあり、ザ・ブラック・キーズのダン・オーバック制作のどろどろ怪しくもサイケな2012年新作『ロックト・ダウン』(ノンサッチ)の内容が反映されるのかと、期待。そしたら、新作からの曲はやったかもしれぬが、基本はあまりそういう所感は持たせず。ロウアー911 のときとグルーヴの感覚は違うが、大きく印象が変わるものではない。

 女性トロンボーン奏者のサラ・モロウが曲の出だしでリズムの指示を出したりし、音楽ディレクター的だと思ったら、御大のMCでもそう紹介された。彼女のことは2002年の斑尾のジャズ・フェスティヴァルに自己カルテットで出演した際の演奏に触れているが、レイ・チャールズ・バンド出身という触れ込みではあったものの、わりとフツーの白いジャズを聞かせたという印象がある。で、今回いまいち切れが悪い彼女のトロンボーン演奏を聞いて(吹かないときも多い)、いい人そうだけど、彼女がこのバンドに加入する意義を見いだせず。ドクターとの間に、情交の関係があるや否や。

 本人はグランド・ピアノやクラヴィネット系音色を設定したノード・エレクトロを曲によって使い分けつつ、ほいほい歌って行く。鍵盤が2人だと、「ライト・プレイス・ロング・タイム」とか「ライフ」(これ、ドクター・ジョン作曲でなく、プロデュースをしたアラン・トゥーサン〜2012年10月15日、他〜の曲だよな)とか、『イン・ザ・ライト・プレイス』(アトコ、1973年)収録曲は映えるナ。彼らはセットでけっこう曲目を変えるようだが、あとやはり同作収録の「シュー・フライ・マーチズ・オン」をやってくれれば最高だった。蛇足だが、ロバート・パーマーの「イン・ウォークス・ラヴ・アゲイン」(1978年作『プライド』収録)は「シュー・フライ・マーチズ・オン」のノリの見事な咀嚼モダン化曲ですね。純ブルースも1曲やり、ドクター・ジョンはギターを持って歌い、ギター・ソロも聞かせる。そのとき、思いのほか、客席がわいたな。最後は「聖者が街にやってくる」と「ダウン・バイ・ザ・リヴァーサイド」のニューオーリンズ有名曲2連発。

 彼はほんの少しやせたかも。出で立ち(鮮やかな薄紫色のスーツを着用)、小道具はこれまで通り。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。

<今日の、気まぐれ>
 トラムが走っている、ゆったり時間が流れている風情を持つ都市に住めたらいいかも、とふと思った。だったら、欧州? もー、大都会が好きなくせに。。。路面電車にはどこか甘美な思いを持つかな。
 おお、音でかい、今年1番かもしれぬ。渋谷・duo MUSIC EXCHANGE。ギターとベースはマーシャル・アンプを用い、あんましエフェクターに頼らない。そして、ドラマーはとにもかくにも力づく、まるでザ・フー(2008年11月17日)のキース・ムーンをアイドルとしているかのよう。あんな叩き方をしていて、よくもまあ腱鞘炎にならないものだ。

 マンチェスターで結成された、パワー・ロック・トリオ。出しているアルバムは1枚で、それを聞くとガレージ入っているとほんの少し思わせるところもあるが、現物はもっとハード・ロックっぽい。ギターを弾きながら歌うシンガーの声はグリッターが入っている感じで、これでもう少しキャッチーな曲をやるとスレイド(1970年代前半に英国で爆発的人気を得た、暑苦しさも持つバンド)みたいになるか、なんても思う。リズム隊が下がって彼が弾き語りを披露する曲もあった。また、1コード・ブルース調ではじまり、サザン・ロック的ブギーになるような曲もあった。それ、例外的な曲調ですが。

 俺たちにはコレしかないという、心意気や生真面目さのようなものがこのバンドにはあって、それはいいな。その健気さは、英国のバンドというよりも、なんか北欧のバンドみたい。飲み用事があって、最後まで見れなくて、ごめんね。


<今日の、光>
 な〜んて、大げさだが。仕事のトンネルから抜け出しかかり、安堵を覚えている。まあ月末月頭は通常締め切りが重なるものだが、ここ10日ほどはかなりの集中具合で、少し青息吐息。プレッシャーも感じ、本来なら書きたい原稿依頼も少し断った。夜飲んでいても、いまいちガンガン行けなかったYOH。9月はインタヴューの数も多かったんだよなー。昼間それで外出すると、夜机に向かわないと決めているぼくは、原稿を書く時間が削られてしまう。でも、明日、CD解説を1本書けば、土日はちゃんと仕事から離れられる。そのブツはロバート・ランドルフ&ザ・ファミリー・バンド(2012年3月5日、他)のブルーノート移籍作。ネタはいろいろあるので(ライヴもいろいろ見ているし、デビュー作や、ランドルフがジョン・メデスキらと組んだザ・ワードのライナーノーツはぼくが書いた)、文字数超過に留意する必要はあるが、スラスラ仕上がるはず。あー、もうホっとしている自分がいる。
 カーボ・ヴェルデ出身の両親を持つリスボン生まれのポルトガル人歌手で、才気ある混血闊達ヴォーカル表現を聞かせる。丸の内・コットンクラブ、ファースト・ショウ。

 ずっと彼女のアルバムの舵取り役をしているベーシストのテオ・パスカルが同行してのもので、さらに英国人ピアニストとモザンビークやギリシャなんかの血も入っているというドラマーがつく。当人は生ギター、ピアノ、電気ピアノを弾いたり、鳴り物を持って歌う。ギター(ボディが小さかったな)を弾きながら歌う曲が一番多かったか。ベーシストはエレクトリックを持つときは、ジャコ・パストリアスが好きなのかにゃという弾き方をする場合あり。彼は一部コーラスも担当。ドラマーはカホーンを叩くときも、それ3曲はあったか。

 その佇まいを見て、昔のジューサ(2005年11月4日、2011年10月3日、2012年6月27日、2013年7月16日)をほんの少し思い出したりも、ぼくはした。そこそこ身長もありそうな短髪の彼女、もう5枚ぐらいはリーダー作を出しているようだが、アーティスト写真よりも多分に若く見え(1981年生まれのよう)、頭が小さい。MCはソツのない英語にてこなす。そういえば、彼女はテオ・パスカルとのデュオによるロンドンでの実況盤を出しているが、英国進出もしているのか。生ギターを弾きながら歌うその簡素なライヴ盤は渋〜い風情あり、人前に出て然るべき個を持つ存在であると思わされる。

 一方、このようなバンドでやると、露になるのはジャズ好きであるということ。純ジャズのそれからは少し離れるものの(それは、“正”であると思う)、彼女は多くの曲でスキャットを思うまま入れる。で、過去のアルバムでも披露している、ジャズ有名曲カヴァーも2つ。ピアノを弾きながら歌ったリチャード・ロジャース/オスカー・ハマースチン二世の「マイ・フェイヴァリット・シングス」と、電気ピアノを歌いながらのホレス・シルヴァーの「ソング・フォー・マイ・ファーザー」。自分で歌詞を付けた後者をやる際は、セロニアス・モンク他のジャズ巨人への謝辞もあった。

 皆も歌ってね、皆をアフリカに連れて行くわ、てなことを言ってやった曲は南アフリカを想起させる曲調。他方では、かなり構成/仕掛けに凝った曲を披露したり、サンバ調の曲をやったり、もちろんカーボ・ヴェルデを透けさせるようなものあり。その先に海原や新大陸が広がっている“対海洋”性しなやかさがやはりあった、と書けると思う。

<今日の、一杯>
 あちらのお客様からです。会場でギネスを飲んでいたら、赤ワインのグラスがテーブルの上におかれる。やはり会場に来られていた、年長のTさんから。ありがとうございます。ぼくも、おごるときにはスマートに行きたいものです。

 1976年旧ユーゴスラヴィア(現セルビア)のベオグラード生まれ(パスポートは、1990年代後期に活動していたオランダのものを持っているよう)、新世紀に入ってからはテネシー州メンフィスを拠点に置いているブルース・ウーマンがなんと来日した。丸の内・コットンクラブ、ファースト・ショウ。

 まず、3人の黒人の中〜老年奏者が出て来て、1曲前奏。オルガン/ピアノ音色のキーボード、ベース(5弦)、ドラム。うち、2人は旅客機のビジネス・クラスのシートでもきついだろと思ってしまうような巨漢。でも、それだけで、なんか本場の黒っぽさはなんか醸し出される? 皆、メンフィスに住むミュージシャンで、特にドラマーのトニー・コールマンは長年B.B.キング(2007年2月3日)と活動をしたり、いろんなアフリカ系ミュージシャンのアルバムにも参加している名士のよう。リズム・セクションの2人は彼女の2013年新作『An You Stand The Heat』(ArtisteXclusive)にも入っていて、コールマンはコプロデュースも担当している。

 ポポヴィッチは2曲目から加わったが、すらり痩身の白人で、ボディ・コンシャスな(ビッチな、とも形容できる)、赤のノースリーブのミニのワンピースを身につけている。それ、彼女のトレードマークのようだが、きっちり身体張ってるナ。で、バックの3人との見かけの対比の妙を狙っているのかとも思うが、真っすぐなショウに触れているうちに、本場のミュージシャンと彼女が重なるのはそうした打算ではなく、極度のブルース愛好から来る純な欲求なのだと思えて来た。

 当人、ギターを悠々弾きながら歌う。なるほど、歌にせよギター技量にせよ、スーザン・テデスキより上かもしれぬ(って、彼女の生をちゃんと見ていないので何とも言えない)。MCでは、ステォーヴィ・レイ・ヴォーンが一番のアイドルという発言もした。披露する曲はストレートなブルースは少なく、ブルージィな情緒を持つアーシーなロック曲と言いたくなるものが中心で(それは、長年活動を続けていて、ブルースから広がったという説明ができるはず)、多くはオリジナルであるだろう。それらは、よく書かれていると思う。ときにはファンキーな曲もやり、バックの3人はコーラスも取る。それから、スライド・バーを用いる演奏もいくつか。へえ。憧憬と、長年の鍛錬での技量追求が違和感なく結びつく。ここまでの道のり、大変だったろうなー。そんな彼女は、少なくても、2児の母だ。

 それにしても、音が暴力的にでかい。数日前の項にも同様のことを書いているが、それが可愛いと思えるほど? 途中から、ギターの出音がより大きくなったような気もし、うひ〜。3日公演初日のファースト・ショウだったが、このまま行くのか? 別な意味の、興味がもわもわ広がったりして。。。。

<今日の、視線>
 ライヴ会場に向かう混んでいない地下鉄内でドア側に向かい立ってメールの返信をし、電話をしまうと、背後からの視線をなんとなく感じる。振り返ると、真面目そうな女子高生が少し驚いたような感じで立っていた。ガラケーを使っていたからでしょうか? ふぬ、おっさんがガラケーを悪びれず使っている姿を見るのはイタいと、言う人がいたナ。まあ、かつてはドコモがi-フォンを扱ったら換えるぞと思っていたが、今はガラケー死守と思っている。だって、外でネットをひく趣味もないし、必要性感じないも〜ん。簡素がベスト。マイノリティ、万歳。ゆえに、外出時はPCに入ったメールを見ることはできません。←それが、書きたかった。

 レトロ・ソウル方向にある手作り表現を標榜する米国人男性デュオを、フィンランドのまったりソウル・バンドでけっこうなキャリアを持つザ・ソウル・インヴェスティゲイターズがサポートする公演。マイロン& Eの2013年デビュー作『Broadway』もザ・ソウル・インヴェスティゲイターズが伴奏を付けている。

 ザ・ソウル・インヴェスティゲイターズは2000年代半ばには、ジミ・テナーと結婚してフィンランドに住むようになった元リパーカッションズのニコル・ウィルズをサポートしたアルバムが日本発売されたこともあった(追記、わーその両者の7年ぶりの新作もこの5月にP-ヴァインから出ていた)。それで、今回の彼らの編成はドラム、ベース、ギター、オルガン、トランペット(一部フリューゲルホーン)、トロンボーン(一部フルート)。管の2人の一生懸命なフリはほほえましかったな。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。

 マイロン・グラスパーとエリック”E・ダ・ボス”クック、フロントに立つ痩身のお二人は蝶ネクタイとネクタイ、ジャケットやカーディガンをとっぽく身につける。ノリとしては、フランスのレトロ・ソウルの才人であるベン・ロンクル・ソウル(2012年3月17日)とつながるものであり(両者のアルバム・ジャケットのノリも離れてはいない)、ヒップホップ系ヤンキー臭を感じさせない。とはいえ、彼らは西海岸の技ありヒップホップ・チームのブラッカリシャスとかつては活動を共にしていたし、アルバム発売元もストーン・スロウということで、ヒップホップとの接点はいろいろ持っているはずではあるのだが。

 いや、逆に今回のパフォーマンスを見て、彼らがソウルがメインストリームだった時代以降の土壌にあることを、ぼくは感じてしまった。というのも、その歌唱はどこかぎこちない。ピリっとしない。それはバック・バンドを務める、ザ・ソウル・インヴェスティゲイターズも同様。だが、仲良く、その両チームが重なる様を見ながら、ぼくはある種の<ソウルも遠くなりにけり>的な感覚を覚えてしまったのだ。ヒップホップを通っているマイロン& Eは、そして本場から離れた北欧のザ・ソウル・インヴェスティゲイターズの面々は、王道のソウルを遠くにあるものと感じ、それを遠くから見るような感覚で見た末に、どこか正統とは距離感を抱えた自分たちのソウル表現として押し出す。そうした共通点があるからこそ、出自のまったく異なる両者は無理なく重なっている……。ぼくは、そう感じずにはいられなかった。

 その後は、下北沢に。GARDENで“下北JAZZ FLOWER”というイヴェントをやっている。その第一回となるもののようで、出演者は日本DJ 界有力者たちが中心となった生音中心ユニットのトレメンと在仏レバノン人トランペッターであるイブラヒム・マーロフ(2012年9月8日)。ぼくが会場入りしたときは、2番目登場者のマーロフ・バンドの演奏が始まって少しのとき。エレクトリック・ピアノ、電気ギター、電気フレットレス・ベース、ドラムに加え、管奏者が3人で、それらは皆トランペット奏者。つまり、マーロフを加えると、トレンペッターが4人もいる! なんと酔狂な。

 1970年代頭にチェイスというトランペット奏者が4人いるブラス・ロック・バンドが人気を集めた(コロムビア発の1971年デビュー作は、同年米国で一番売れたアルバムと言われる)ことがあったが、まさにそれを思わせる。というのは全くの嘘だが、なんかほんわかした哀愁がじんわりにじみ出る様は、現代版レバノンのザ・ティファナ・ブラスと言いたくなる感じもあった。ザ・ティファナ・ブラスは、A&M創設者でもあるトランペッターのハーブ・アルパートが組んでいたマリアッチ応用のバンドですね。

 前回公演よりも、妄想の感覚たっぷりのエクレクティックな音楽性が整理され、より濃い印象を与えるようになった。マーロフもよりソロを取るようになり、ワザ者であることを分りやすくアピール。やっぱり、愛らしい妙さが秀でた技量を介してこれでもかと届けられ、こういう今のジャズ的表現があってもいいと思わされる。彼らは“イリュージョンズ・ツアー”と名付けた楽旅の最中で、韓国から来て、この後は中国3カ所を経て、欧州を回るようだ。


<今朝の、?>
 ライヴを見た後、まわりまわって、早朝帰宅。アイス食べたくなったので(ここんところ、また気温が高めだな)、コンビニの前でタクシーを降りる。おいおい、オマエ、なにサンドウィッチも買ってんだよオ? とぼとぼ家に向かい歩いて行くと、仲良く運動着っぽい格好で散歩している老夫婦とすれちがう。早起きだな? 毎朝、やってるのかな? この時期は一番適した季節だろうな? (すれちがう)……ん? ふと振り返ると、旦那さんのほう、手にバールのようなものを持っている。まだ、暗かったし、酔っぱらっていたので、断言はできないものの。あれェ〜?

スウェード

2013年10月11日 音楽
 わー、これはお金のとれるな……。1990年代に多大な人気を博した英国ロック・バンドの公演。再結成後、彼らは一昨年、昨年とフェスに来日出演してもいる。会場はあと半年で閉まる、渋谷・AX。同所2日目、ダフ屋も出るなど盛況。

 よく動き、これでもかと客にアピールせんとするフロント・マン/シンガーのブレット・アンダーソン(2008年12月9日、2010年10月6日)、ギター、ギター/キーボード、ベース、ドラム(この手のブループのなかではわりとシャキっとした叩き口をもち、好印象)という編成。全員、黒のシャツとパンツという出で立ち。ショウが始まるときにラニマフノフ曲が流され、それとともに面々が出てくる。ラノマニノフの曲って、ミューズ(2013年1月11日)をはじめ、お涙頂戴系湿り気を抱えんとする英国ロック勢に人気だな。

 耽美さと喧噪を併せ持つロック曲が次々と送り出される。が、まずはきっちり身体が細いアンダーソンの様に目が向き、頷いちゃう。もう誠心誠意、お客様は神様デス的なノリとともに客に働きかけ、彼はスキンシップを計ろうとする。そこらあたり、やりたいことをやったソロ活動を経て、再結成に対する彼の心持ちがきっちり決着されているのではないか。古い流儀のマイク扱い(マイクのコードを持って、ぐるぐるぶん回す)も見せるし、いろんな見栄をきったり、何度もステージ下にも降りたり。すぐに、汗だくになるが、気力や動きは下がらず、90分ほど(全、20曲)のショウを彼はこなす。喉もヘロることもなかった。といった感じで、彼は大衆ロック・スターであることをまっとう。もう、その奥に見え隠れするぶっといプロ意識にぼくは頭を足れた。

 バンドもきっちり、過不足なく演奏し、アンダーソンを盛り上げる。そして、その総体は、スウェードは完全無欠なUK歌謡曲バンドだという事実をいやがおうにも伝える。とうぜん、客も盛り上がり、アンダーソンに向けて両手を終始掲げる。アンダーソンを頂点とし、肌色の太い線が三方から押し寄せるといった、その図はなかなかに美しい。と、これは2階席から見ていたからこそ出る感想ですが。彼らはこの後、1ヶ月強で全欧25箇所を回るツアーを行う。アンダーソンはそれもきっちりこなすんだろうなあ。

<今日の、おこたえ>
 現在この頁の左上に載せられている、ザ・ローリング・ストーンズの舌マークがついた船の写真はなあに? と、2人から聞かれた。“Tideway Rolling Stone”という名前の、オランダ船籍の運搬船。かつて、スペインのアルヘシラスからモロッコに渡るときに、アルヘシラス港内で、フェリーから撮った写真ナリ。そのうち、写真変更して、この記載はまったく???なものになるのだろうけど。ところで、アンダーソンの様を見て想起したのは、自己陶酔型のシャンソン・スターの様(ちゃんと見たことないので、イメージなんだけどネ)とともに、プロ一徹のミック・ジャガーのマナー。アンダーソンもまた、日々スポーツ・クラーブに通い、自己研鑽していると推測する。

 <スペイン音楽フェスティバル~祭典の日>という表題も付けられた、立脚する地域や音楽傾向の異なる3組のスペイン人担い手が登場する出し物。錦糸町・すみだトリフォニーホール。その3つの出演者たちにはそれぞれ打楽器奏者がいたが、用いる楽器も、抑揚もアクセントも全く違っており、それを見ても、三者はまったく異なることをやっていたのは明らか。当たり前だが、スペインって広いナ。

 一番目はバスク地方出身の打楽器2人組、オレカTX。彼らはチャラパルタという、1メートル強四方に7枚の木の平板(見た目は、ただの木片)を並べた同地の伝統楽器を木の太いバチで連弾する。その音は反復音的と言えるものであり、打楽器と音階楽器の役割を簡素に兼ね備えるものだが、そこに音楽的骨格を強化する生ギターを中心とするマルチ系奏者が伴奏者としてつき、さらには背後に映し出される映像とシンクロするプリセット音も寄り添う。その映像はインド、北極、北アフリカ、モンゴルなどに出向いて作られた彼らの2作目『ノマダクTX』(ワールド・ヴィレッジ)の制作過程をドキュメントした映画「遊牧のチャパラルタ〜バスク幻の伝統打楽器奏者オレカTXの旅〜」をソースとするもの。その映画での2人の好奇心旺盛な態度に触れてしまうと、実演は多少窮屈な感じも得てしまうが、自らの根っこに立脚しているからこそのしなやかな態度やナイス・ガイぶりはよく伝わってきた。

 続いて出て来たのは、アンダルシア地方の気鋭のフラメンコ・ピアニストのP・リカルド・ミーニョ。フラメンコ・ギタリストとダンサーを両親に持ち、本人はアメリカの大学でクラシックも学んだという経歴を持つようだが、なるほどそうした積み重ねが素直に出るような、多少高尚目のパフォーマンスを披露する。何気に色男ふうな気分をふりまくのも、らしいナ。彼の演奏には、カホン奏者と男女のダンサー(女性のほうは日本人。遠目にはそう見えなかったが)がついた。

 そして、休憩を挟み、メイン・アクトたる、スペインのケルト文化圏であるガリシア地方のガイタ(バグ・パイプ)奏者のカルロス・ヌニェス(1999年12月19日、2001年10月9日、2003年12月12日、2003年12月20日)が登場する。ホイッスル(縦笛)も吹く彼に加え、10弦ギター奏者、ボーランからバカでかい太鼓までいろんなものを扱う打楽器奏者、女性フィドル奏者(彼女のみ、アイルランド人)という布陣でパフォーマンス。で、演奏が始まると、楽器音やそれら音の重なり方が生理的に柔和であるのに、大きく頷く。それは、前の2組の出し物との対比から強く感じさせるものでもあったのだが、そこにヌニェスたちの多大なワザや経験をぼくは感じてしまった。

 一部には日本人バグ・パイプ集団も加わったが、それだけでなく、本編の一部とアンコールで、先に出た2組の出演者全員がヌニェス組に加わったのには驚かされた。先に書いたように、この3組は明らかに文化や流儀が違うのにもかかわらず。また、スペインは地方独歩の意識が強い反動で全国的ユニティの気持ちが薄い(ゆえに、スペインのサッカーの水準は高いのにナショナル・チームになると成績がいまいち、なんてことはかつてよく言われた)はずなのに、スペイン各地の担い手がうれしそうに歩み寄り、重なっていたのには目が点。違和感もなくて、へえ。ヌニェスもこんなこと実現できちゃうのは日本でしかない、みたいな感激MCをしていた。そして、彼がびっくりするぐらい、ステージ上で興奮しているのが分り、それにも驚く。あんなホットな彼には初めて触れるような気がしたけど、その後知人と流れた先でもその様は話題にのぼった。

<今日の、昼間>
 都内、真夏日でーす。記録更新らしい。なんか、昼間すれ違った人々の寛ぎ度が高いような。気のせいかな。

 長くニューオーリンズに住んでいる英国人シンガー/ピアニスト(2007年4月6日、2008年10月15日、2009年9月5日、2013年5月20日)の来日公演は、今年2度目となるもの。表参道・CAY。今回はバンドによるものでなく、洒脱さがより前に出るソロでのピアノ弾き語り公演。それもまた、よし。表参道・CAY。

 ニューオーリンズR&Bにやられ、そして現場に身を投じてその財産や流儀をじっくり会得したワタシを飄々と、でもしっかりと地に足つけて送り出す。自作曲は少なく、R&B系カヴァーを中心にノンストップ気味にピアノや歌を披露していく様には、本当にいいキブンになれた。どこか、ニューオーリンズの先にカリブ海が広がっていることを示唆する場面があったのにもニッコリできた。闊達、いい味出しっ放し。9月下旬からツアー中で、13公演中の12回目。だが、疲れている感じもゼロで、本人もツアーを楽しんでいるんだろうな。

<今日は、ゴモテサンドウ>
 先々週、業界年長者たちとなぜか飲んだら、その2人はいまだ逆さ言葉が得意。ご飯→シーメ。やる→リーヤ。とか、いうやつですね。それをちゃんと文章にして会話している様はなかなかに見事で、半分外国語に接している気分? まあ、多分に滑稽ではあるけれど。ぼくが音楽業界に入ったときはまだ逆さ言葉会話をフツーに使う人は散見されたが、今はホントいなくなった。すくなくとも、ぼくが見聞きするかぎりは。なんかカッコ悪く業界に染まるようで、ぼくは“逆さ言葉”会話に興味を持つ事はなかったし、会ったとたんに「おつかれさまです」とか、夕方なのに「おはようございます」とか、業界ふうに声をかけられるのが、本当にイヤだった。とはいえ、一時親しい友人と、ある種の言葉遊びをしていたことがある。地名を一文字読み替えたり、変える、というもの。例えば、渋谷はシブヤではなく、シブタニ。永田町は、ナガタマチ。青山はガオヤマで、小田急線はオバキュウセン。他愛ねー、バカバカしー。で、今日はゴモテサンドウに行ってきました。
追記)これまで、ジョン・クリアリーと書いていたが、彼を招聘し続けているバッファロー・レコードは、クレアリーと表記。書きのほうも平気な(普通に日本語でメールのやりとりをしている)日本語も堪能な米国人が運営しているだけに、それに従おう。

 この夏、日本のボサノヴァ表現の頂点に長年いるという所感を持たせる、小野リサには感心させられたことがあった。いろいろな人が出演したクインシー・ジョーンズ特別公演(2013年8月1日)でのこと。少し場違いな感じで出て来たと思ったら、微笑みの感覚とともに確かなパフォーマンスを見せ(演目は「ワン・ノート・サンバ」だったか)、かつジョーンズにもポライトな英語で謝辞を呈する姿もなにげに光っていて、キャリア豊かな人はどんなシチュエイションでも個を出すことができるのだなと、ぼくは頷いてしまったのだ。

 が、今回のまずの目当ては、ヴェテランのジャジーなブラジル人歌手であるレニー・アンドラーヂ。小野は毎年ゲストを招く公演をやっていて、2年前のそれ(2011年7月10日)はギタリストのオスカー・カストロ・ネヴィスだったが、彼は長年住むLAでこの9月27日に73歳で亡くなってしまっており、その悲報は今年70歳になった彼女を一回ぐらいは見ておきたいという欲求を高めたか。そういえば、彼女も2011年に単独で来日公演を行っているか? 今回の来日はやはり2年前にコパカーナのクラブ出演時の彼女を見て声をかけたと、MCで小野が言っていた。

 フェビアン・レザ・パネ(2011年7月10日)、古谷栄悦(ウッド・ベース)黒田清高(ドラム)という日本で活動するジャズ/ブラジル系奏者がサポートしてのショウ。最初4曲ほど小野が「イパネマの娘」や「三月の雨」ら有名ボサノヴァ曲を披露し、その後小野と入れ替わりでアンドラーヂが何曲か歌い、また小野が加わり……。アンコールはアンドラージ単独とアンドラーヂ+小野で1曲づつ。80分ほど。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。

 小柄なアンドラーヂは一見、大阪が入った日系人のよう。というのはともかく、一声でなるほどと頷く。マイクを口から離す歌い上げ系であり、滅茶ジャズ好きであるとうのがすぐに分る。ハスキー気味な声は大きく、多くの曲でスキャットを長めにこなす。アンコールではディジー・ガレスピーの有名ジャズ曲「チュニジアの夜」を素材にスキャットを延々やる。彼女、一人でパフォーマンスするときはボサノヴァ調曲はなし。アンドラーヂというとボサノヴァ歌手というレッテル付けもあるが、それはブラジル人がジャズっぽいものをやろうとしたらボサノヴァが一番手っ取り早く、外の人からも認められやすかったという理由から、彼女はボサノヴァを歌ったのではないのか。ジャズ流れのものを歌えりゃ何だっていいのよ的なキブンを、ぼくは彼女のガハハな物腰に感じてしまった。MCを英語でこなしていた彼女(小野リサとの会話でも、ポルトガル語で話をふられても英語で返したりしていた。近年もブルーノートNYとかでショウを持っているよう)はインターナショナルなエンターテインメント感覚も心得ていたと思う。

<今日の、認知>
 昨日の夜から朝にかけて、10年に一度の規模なんて形容もされた大きな台風がやってくる。無理が嫌いなぼくは夜の予定をキャンセルしたが、確かに夜半の雨や風はなかなか凄かった。今朝、起きたときには雨はやんでいて、薄曇り。そして、夜は肌寒い風が吹き、木枯らしという単語を一瞬思い出す。“夏+”の格好ではなく、秋〜冬仕様の準備をしなくちゃ。もう、10月中旬だものな。会場では、小野リサのファン・クラブ案内の紙片がテーブル上においてあり、その年会費は松竹梅の3段階。なるほど、その特典内容を見ると、熱心なファンだったら8000円の一番高いコースを申し込みたくなるか。松と竹は、<リサさんセレクトのお歳暮を年末に発送(何が届くかはお楽しみに!)>(原文ママ)と、あった。

 まず見たのは、現代フラメンコ・ギターの雄にしてスター奏者の、ビセンテ・アミーゴ(2000年5月28日)。1967年生まれのようで、意外に若いのだな。渋谷文化村・オーチャードホール。

 緩い弧を描くように椅子がステージに置かれ、中央の椅子にこけおどし的に光があてられ、ますはビセンテ・アミーゴがそこに座り、ソロ演奏をする。2曲目で数人が入り、3曲目からフルのバンドで演奏。その編成は、サイド・ギター、カンテ(歌)、カホン/ドラム、カホン、電気ベース(6弦フレットレス)、ヴァイオリン、フルート。ただし、全員が音を出す局面はあまりなく、歌のパートも少なく、カホン担当者以外は楽器を弾かないという局面もなかなか多い。そのとき、音を出さない人はパルマ(手拍子)をとっていたりもする。ビセンテ・アミーゴは黒のシャツと黒のパンツ、その他の男性陣は白のシャツと黒のパンツという格好なり。

 だが、生理的に無駄の多い、皆がせえので頑張らない、その設定がとってもいいな、豊かだな、風情あるなと、思えた。ここぞというとき、楽器音や歌が入り、あとはギターや抑揚の波に身をまかせている構成員の気ままな感じは悪くない。押し一辺倒ではない、好ましい、起伏や流れがある。そのかわり、終始ギターを弾いているビセンテ・アミーゴはさすがバンマス、働き者じゃと思わすわけだが、彼とて、いくらテンションをこめても、どんなに早退きを連発(それには、笑った)しても、しゃかりきになっている感じがあまりないのは名手たるゆえんか。演目の多くは近2作からの曲をやった(最新作『ティエラ』はマーク・ノップラー/ダイアー・ストレイツの側近キーボード奏者のガイ・フレッチャー制作によるロンドン録音作)ようだが、どれもオリジナルだろう楽曲をきっちりギター1本で掌握している様はなんかとても風雅であった。

 そんなにフラメンコには接していないので、よく分らない部分もあるのだが、ビセンテ・アミーゴがとっても腕が立つギタリストであるのは疑いがないことだろう。だが、ぼくがまず心にとめたのは、彼が秀でたサウンド統括者〜バンド・リーダーであるということ。高尚なジプシー・キングスなるものからアンダルシア地方のパット・メセニ−・グループみたいなの、どこかケルトっぽいノリを持つ曲まで、披露されるものの曲想やアレンジは多彩、創造性豊か。だが、どんな方向に進もうとも、きっちりとパルマに代表されるフラメンコ特有の揺れやアクセントがあるのには、大きく頷く。彼の自在の、柔和だけどプログレッシヴなフラメンコ表現は芯がびっちり通されつつ、感心させる広がりがいろいろとあった。大げさに言えば、そこには<ローカルであることを謳歌することを通しての、意義ある現在進行形>がいろいろと息づいていた。そして、その行き方をコントロールしているのは、繰り返すがアミーゴ本人ゆえ、ギター演奏も一番おいしいところでなっているわけで……。1時間40分強ほどの、めくるめくパフォーマンス。

 そして、南青山・ブルーノート東京で、ブラジルのソウル派先達のチン・マイアの甥でもある、ブラジルの酔狂趣味人のライヴに触れる。彼はおぼっちゃま君のようであり、もう自由にお金をかけてレコード収集と美酒美食三昧に明け暮れているという、40代のシンガー/キーボーディスト。そのレコード・コレクションは日本のジャズや日本のシティ・ポップ(と、MCで彼はそう言う)にも及び、バカみたいに詳しいらしい。

 ちょうど10年前にインコグニートのブルーイとの双頭名義にて、やはりブルーノート東京に出演(2003年3月30日)しているが、今回はそれ以来2度目の、本人も待望していた来日となる。で、ステージに出て来たモッタさんを見て、うひゃあ。より、幅や奥行きがでっかくなっている。ま、ほのぼのキャラには合っていて、痛々しさのようなものはないわけだが。

 このサマーシーズンは欧州ツアーもしていたようだが、その多国籍なバンドにはへ〜え。ギタリストはブラジル人で、ピアノ/キーボード奏者とベース奏者がドイツ人、そしてドラマーがポルトガル人とか。どういう筋道で、彼らが集まったのか。で、新作『AOR』をフォロウする設定で、ショウは進む。モッタ自身は基本、電気ピアノを弾きながら歌う。鍵盤演奏はもう一人の奏者にまかせ、立ってマイクを持って歌ったものも1曲。その新作はアルバム・タイトルにあるように所謂AOR(スティーリー・ダン流儀もおおいに含む)路線を正々堂々趣味性まるだしで求めたもの、彼はそれをポル語ヴァージョンと英語ヴァージョンのアルバムを2種リリースしているが、この晩は英語詞で歌っていた。

 往年の好AOR系表現をまっすぐな憧憬とともにやんわり開く……。それは、おそらく米国人がやったら、質は高いものの、かつての表現の焼き直しを何ぬけしゃあしゃあやっているのと、言われかねない指針。だが、確かに気持ち良く、ココロ踊りもするわけで、そうした感想はブラジル人に対する贔屓か否か。もう猛烈な洋楽音楽愛とともに、趣味を貫き続けるまっすぐな態度が導く、うれしい何かが横たわる、とは間違いなく言えるはずだが。

 そして、10分近くにわたって、モッタはソロ・パフォーマンスを披露したりもする。いろんな有名曲を頭のなか反すうしながら、最初は鍵盤を弾きながらスキャットしまくり、その後はベース音を模しての鍵盤を弾かないヴォイス・パフォーマンスをする。2003年来日時の記載を見たら、同様のことやっていたんだな。そこでは、コントローラーを用いてというような書き方をしているが、それは間違いか。どうやら、彼は機材を用いることなしで声質をコントロールし、いろんな声を出していた(と、思う)。

 そして、ショウが始まって50分過ぎたあたりに、『AOR』にも部分参加していた、ゲストのデイヴィッド・T・ウォーカー(2007年12月18日、2010年12月11日、2011年6月21日)がやっと出てくる。そして、彼が一音を出すやいなや、うわわわわ。艶やかにして、とてつもなく名人芸。それ、それまで弾いていたブラジル人ギタリスト演奏との対比でより鮮やか。うひょー。で、まずやったのは山下達郎曲。モッタは日本語で歌う。

 その後も、デイヴィッド・Tの我が道を行くギター奏法/個性が延々とアピールされたが、彼の過去のパフォーマンスと比しても、とっても明快にTの唯一無二の魅力がアピールされていると、ぼくは思った。その演奏にモッタらも皆感服しまくっているのは明らかで、モッタはその場で彼に請い、「ホワッツ・ゴーイン・オン」や「ラヴィング・ユー」の断片も一緒に演奏したりもした。とかなんとか、90分のショウ。そして、終演後には気安く来場者とやりとりしていた。

<今日の、ええん>
 最初の、オーチャード・ホールにて。ショウが始まってすぐに、隣に座っていた知人が咳をしだす。とっても、本人もうしわけなさそう。ああ、可哀想と思っていると、咳がぼくにうつっちまった。ゲホゲホ、ゴホゴホ。なんで〜? 音は繊細ではあるが、クラシック公演ではなく、多少の雑音は許されてもいいはずなのに、なんか肩身がとても狭い。やっぱ、クラシック用途のかしこまったホールって、こういうところは嫌いだア。
 楽しかったア。月並みな言い方になるが、山あり、谷あり。次はどんな行き方をするの、見せ方をするの? そう、受け手に思わせ、なんのストレスもなく引きつけた。あと、その底辺には、やはりイギリスっぽいと思わせる何らかの感覚があって、それもマルだった。

 歌とピアニカと進行役や狂言回し役のギャズ・メイオールを中心に、管楽器が5本(2テナー、アルト、トランペット、トロンボーン)、ヴァイオリン、ギター、ベース、ドラム、パーカッション、女性ヴォーカルという編成。そのシンガーは当初予定の人物から変更されたようだが、メイオールとの絡みも性格良さそうに笑顔でこなし、何の問題もない。ザ・トロージャンズの初来日は1988年で、メイオールのMCによれば、そのときのメンバーが今も4人残っているそうな。ホーン・プレイヤーのうち、トレンペッターのエディ“タンタン”ソーントンとトロンボーン奏者のヴィン・ゴードンはジャマイカの重鎮奏者たち。で、ゴードンさんのヤクザな雰囲気はもう最高、タンタンはいろんな所作が人情に満ちていて、それも花マル。タンタンは11月のクール・ワイズ・マン(2009年5月30日)のライヴ数カ所に加わるようだ。

 スカ曲やロック・ステディ曲はとうぜんのこと、スカのビートのもと日本の曲をやったり、ケルト調曲をやったり(その際は、テナーの一人は笛を吹く)、タンタンが歌ったり(そのブルース・コード曲での歌唱、本当にいい感じだった)、管楽器奏者やヴァイオリン奏者が曲ごとにフィーチャーされたり。ヴァイオリン奏者のそれ、イケてた。日本曲「荒城の月」のときはメイオールとともに、今年入籍したという奥さんもステージに出て来て一緒に歌う。だいぶ前のフジ・ロックのスカ・クバーノ(2005年7月29日)のときにも入っていた在英日本人サックス奏者(この晩はアルト・サックスに専念)のメグミ・メサクのMCによれば、奥様は一ヶ月この曲を練習したという。福島県相馬市出身で英国で被災地への慈善活動もしているような彼女も、いくつか見せ場を与えられ活躍。彼女の自己グループ表現にも触れてみたいな。

 荒い部分もあったりとか不備がないわけではないが、それを超えるサーヴィス精神と、心意気と、みんなで楽しみを分け合っちゃえてなパーティ感覚が一杯で、こりゃ言うことないという気分を引き出す。これぞ、大衆音楽なんて感想も湧き出て、ぼくは喝采を送っていた。

 実はかつてフジ・ロックのオフで見かけたときのギャズ・メイオールには、洒落者の伊達男という印象を強く、ぼくは持った。だが、関西の旧世代の芸人が着そうなキンキラのスーツを身に着けたこの晩の彼はとっても泥臭いマナーのもと、受け手に両手を差し伸べていた。それ、ちょっと意外であったのだが、年相応(50代半ばか)に彼のエンターテインメント感覚が変化してきているところがあるのではないか。少し体つきが太くなったなという所感も得たが、彼の音楽提供者としての姿勢もよりぶっとくなっているのだと思う。

<今日の、追記>
 キュートなミックス女性である同行シンガーのホリー・クックは、なんとザ・セックス・ピストルズのドラマーであったポール・クックの娘なのだとか。父は一時ザ・スリッツで叩いたことがあったが、彼女は再結成ザ・スリッツにも参画しているらしい。愛らしいレゲエ作も出している二世ミュージシャンのクック嬢に接していたら、ブリティッシュ・ブルースの父なんても言われる、ギャズ・メイオールの父親であるジョン・メイオールのこともふと思いだす。まだ、亡くなったという話は聞かないので存命なのだろうな。まさに、英国ロック史上にその名前が燦然と輝く偉人。その父親のことは昔から認知していたが、ぼくはあまり聞いたことはない。彼のことを聞いている世代は、ぼくよりも少し年長の世代だろう。とともに、ブルースは黒人がやってこそ吉という思いも持っていたので、後追い的に聞いてみようかということもなかった。が、例外的に1枚だけ彼のアルバムを持っていて、それはエルトン・ジョンなんかもかつて属したこともある英国DJMレコードから1979年にリリースされた『Bottom Line』。米国での3つのセッションを基にした同作は、コーネル・デュプリー(2010年8月31日、他)、リオン・ペンダーヴィス(2009年7月14日)、スティーヴ・ジョーダン(2010年10月26日、他)、シェリル・リン(2012年8月15日)ら実力者を擁したもので、ブルースというよりはどすこいファンキー志向を持つ。息子と同様に歌は軽いが、なんか楽に聞けて大昔たまに聞いていたことがあった。もう四半世紀はそれを聞いていないが、そのオープナーはセカンド・ライン調ではなかったか。蛇足だが、非ニューオーリンズ属性の人でセカンド・ラインもどきをやっているので一時ニンマリ聞いていたのは、フリー・ジャズ系ピアノ故人のドン・プーレンの異色作『Tomorrow’s Promises』(Atlantic,1977年)の1曲目「ビッグ・アリス」。そして、DJするとしたら、そこからぼくは坂本龍一の「エチュード」(1984年『音楽図鑑』収録)に持っていきたくなる? でも、あの曲後半説明っぽくなるから適さないか。あ、そういえば、大昔ギャズ・メイオールが作ったミックス・テープを友人からもらって、車の中でほいほいかけていたことがありました。
 最初に丸の内・コットンクラブで、蘭ジャジー・ファンクの雄であるニュー・クール・コレクティヴ(2009年9月6日、2013年9月7日)のリーダーであるアルト・サックス奏者のベンジャミン・ハーマン(2011年9月2日)の純ジャズ公演を見る。硬軟両刀(?)で活動してきている彼の新作『カフェ・ソロ』(55レコード)は『ウェイ・アウト・ウェスト』(コンテンポラリー、1957年)等のソニー・ロリンズ(2005年11月13日)のピノレス黄金表現への思慕もあり、ピアニストなしの1ホーンのトリオで録音にあたっており、今回の実演はそれを下敷きにするものだ。管奏者たるもの、一生に一度ぐらいは裸の最小編成でアルバムを作ってみたい……自我を持つ担い手なら、そう思っていても不思議はない。ま、ハーマンにとっては、夢が叶ったという感じを抱えているだろう。

 ハーマン同様にスーツの似合うリズム隊のお二人もオランダ人で、その3人は流暢に演奏を進める。まったり、スロウ目な曲が多い。そして、悠々と歌うハーマンのアルトって少しくぐもった音色を持つのだなと、簡素な設定で聞きながら気付く。というのはともかく、アルト・サックスの軽い音色だと、ピアノレス表現においては少し質量的な物足りなさを、ぼくは覚えたりもする。ハーマン自身はそれゆえの軽妙な味を求めていると判断できるが、そんなぼくの所感は、ロリンズのピアノレス・トリオ音を判断基準に置いてしまっているからなのだろうとも、ショウに接しながら思った。実は、もっと音の軽いソプラノ・サックスのソロが往々にしてぼくは苦手。音が重かったり、太かったりするほうがグっと来る……、なんてぼくの好みはコドモなのだろう。

 ショウの3分の2になったところで、ピアニストの片倉真由子(ブランフォード・マルサリスのブルーノート東京公演に、トラで入ったこともあり)が加わり、グっと奥行きがまし、音もモダンに華やぐ。それまでスタンダードを素材としていたハーマンだが、1曲片倉のオリジナルも取り上げる。ハーマン、いい人だな。公演前にリハしただけだろうけど、オーソドックスなジャズ流儀の美点をうれしく受け取れた。

 その後は南青山・ブルーノート東京で、自在ジャズ・ギタリストのジョン・スコフィールド(1999年5月11日、2001年1月11日、2002年1月24日、2004年3月11日、2006年3月1日、2007年5月10日、2008年10月8日、2012年10月10日)が2000年代あたまから組んでいる、ウーバージャム・バンドによる公演を見る。ファンク・インスト傾向にある同バンドは、アヴィ・ボートニックという機材音担当者/サイド・ギタリストを彼が発見したことで、組むようになった単位と説明できるか。アルバムだと、2002作『ウーバージャム』、2003作『アップ・オール・ナイト』(ジョン・スコフィールド・バンド名義だが、これも入れていいだろう)、そして2013作『ウーバージャム・ドゥ』(すべて、ヴァーヴ)の3作品をこれまで出しており、来日公演だと、2001年、2002年、2004年のそれはウーバージャム編成によるものだ。

 今回の編成は、スコとボートニックに加え、初期から関与もしているアンディ・ヘス(2012年11月12日)と1ヶ月半前のマーカス・ミラー公演での鮮烈な叩き口でぼくを仰天させたルイス・ケイトー(2010年11月11日、2011年11月22日、2013年9月3日)。もちろん彼らは、新作『ウーバージャム・ドゥ』録音に関与している。

 びっくりしたのは、プリセットの音を用いる曲が多かったこと。ありゃ、過去はそんなことなかったと思うがどうだったか。で、バンド・サウンドはそれに寄り添う感じで入っていくわけだが、うーむ。2、3曲やったアフロ・ビート傾向曲(それ、かつて頻繁にやっていた、ニューオーリンズ・セカンド・ライン調曲に代わるものと指摘できるか)での拍子木的アクセント音をそれでまかなおうとするのは分らなくもないが、基本プリセット/PC音と生バンド音を併用する場合はそれじゃ駄目。なんか、無味乾燥。共存するという感覚ではなく、その両方が喧嘩、対峙し合う方向で行かなきゃ。そう書きたくなるのは、生バンド音だけでやった曲のほうが味がいいと思えたからだ。そのため、ケイトーのドラミングの爆裂方向の顔も出てこず。

 スコフィールドの演奏は相変わらず、いろんな好奇心とウィットに富む。今回感じたのは、エフェクターをより使い、いろんな音を出していたことか。前はもっと、ピッキングやミュートの仕方などで多彩な音を出していたよーな。なんにせよ、彼の演奏にはやはりグイグイ引き込まれる。素人くさいという言い方もかつてはできたろうボートニックもよりギターを弾くようになり、一部はスコと単音主体音での掛け合いも見せる場合もあったが、まずサウンド構築で寄与しているだろう彼は、ぼくにはいらない奏者だと再認識した。一方、プレシジョン型の4弦ベースを弾くアンディ・ヘスは今回接して、いい奏者だと思えた。

 基本オリジナルを演奏したはずだが(カーティス・メイフィールド曲複数を下敷きにする「カーティス・ニュー(Knew)」という曲もあった)、ジミー・クリフ「アイ・キャン・シー・クリアリー・ナウ」やレイ・チャールズが1966年歌い後にジョー・コッカーやハンブル・パイもカヴァーしているブルース調曲「アイ・ドント・ニード・ノー・ドクター」(作者は、後にモータウンのスタッフ・ライターもこなす、アシュフォード&シンプソン〜2009年11月20日〜)も披露し、生バンド音だけでやったそれらのとき、スコフィールドは共にとてもロックっぽいソロ(それは、エリック・クラプトン〜2006年11月20日〜のファンが喜びそうな、という書き方もしたくなる)をエモーショナルに弾き倒してびっくり。おお。この先いつになるが分らないが、半分モーロクした彼が、こってこてのロッキッシュなギター・ソロを満載したアルバムを出すのをぼくは夢想した。

 「アイ・ドント・ニード・ノー・ドクター」は、2005年ヴァーヴ発のレイ・チャールズ曲集でスコは取り上げていて、それとほぼ同じアレンジ。アルバムではジョン・メイヤー(2007年4月5日)が歌っていたはずだが、ここではケイトーがドラムをしゃきっと叩きながら歌う。先のマーカス・ミラー公演でもジョージ・デューク(追悼)曲を歌っていた彼だが、いい声している。この後、ステージを降りようとした時、もっとやっていいかなとお店の人にスコフィールドはたずね、さらに2曲。1時間50分、彼らはパフォーマンスした。

<一昨日の、悲報。ロナルド・シャノン・ジャクソン、1940〜2013年>
 昨週末19日早朝(現地時間)に、永遠の怪傑ドラマーたるロナルド・シャノン・ジャクソンがテキサス州フォートワースで、白血病のため亡くなった。73歳。日曜午後から日本でもその情報をソーシャル・ネットワーキング・システムにあげる人がいたようだが、土日はネットから離れていたので、ぼくは週があけてから、その悲報を知った。2、3年前にビル・ラズウェル(2004年9月5日、2006年11月26日、2005年8月20日、2006年11月26日、2007年8月3日、2011年3月7日、他)に取材したさい、彼が重用していたシャノン・ジャクソンの消息を尋ねたら(シャノン・ジャクソンも彼にプロデュースをよく委ねるなど、ラズウェルのことを信頼していたはず。そのラズウェル制作の1984年セルロイド盤『Pulse』はドラム・ソロ作品だ)、今は生まれ故郷のフォートワースに戻ってしまって……、という返事だった。彼の父親は同地唯一のレコード販売店の黒人オーナー(ジュークボックス貸し出し業もしていた)で、母親はメソジスト教会でオルガンを弾いていた。
 セシル・テイラーのトリオに入るなど1960年代後半にNYのフリー・ジャズ界に身を投じ、1970年代半ばはオーネット・コールマン(2006年3月27日)のエレクトリック・バンドに参画。そして、1970年代後半からはオーネット仕込みのハーモロディック・ファンク流儀を芯に置く自己バンドのザ・デコーディング・ソサエティを結成し、やりたい放題のかぎりを、その立った感覚を持つドラミングとともに尽くした怪物的御仁。彼のキャリア、そしてオーネットやキング・カーティスらも生まれたフォートワースについては、無料の電子音楽雑誌「エリス」(http://eris.jp)第4号にて、オーネット・コールマンの『ダンシン・イン・ユア・ヘッド』のことを書いた10000字越え原稿で触れているので、読んでいただけたら有り難い。
 彼がいろんな逸材を集めて鋭意組んでいたザ・デコーディング・ソサエティはシャノン・ジャクソンの卓越したリーダーシップや作曲能力を伝えるバンドでもあった。ジェイムズ・カーター(2013年2月26日)は2011年オルガン・トリオ作『At The Crossroads』(Emarcy/Universal)でシャノン・ジャクソンの「エイジド・ペイン(Aged Pain)」という曲をやっていたりする。それ、元々はカーターも参加していた1995年作『What Spirit Say』(DIW)に収録されていた。リヴィング・カラーを組むヴァーノン・リード(2000年8月13日、2008年12月16日)やアイ・アンド・アイやロリンズ・バンドやアート・リンゼイ(1999年12月18日、2002年9月9日,2004年11月21日、2011年6月8日、他)・グループに参加するメルヴィン・ギブス(1999年12月18日、2002年9月9日)ら、彼のもとから巣立った逸材もいろいろ。フィリー畑のジェフ・リー・ジョンソン(2004年10月28日、2012年9月9日。その訃報に触れているのは、2013年1月30日)とかポール・サイモン『ザ・リズム・オブ・ザ・セインツ』に参加して西欧シーンに知られるようになったマーティン・アタンガナ(なぜか、ジャン・リュック・ポンティが気に入りいろいろ声をかけている)とか、ギタリストには特にうるさかったかな。やはり、1980年代のぼくの音楽観を形作る重要ピースを担う一人でした。
 蛇足だが、シャノン・ジャクソンにはこんな一面も。以下、友人から聞いたお話。彼女がある日本の化粧系著名ロック・バンドの公演打ち上げに顔を出したら(それ、1990年ころだったかな)、来日中だったのだろう、なんと危ない容貌の彼がその場にいたのだという。で、シャノン・ジャクソンは彼女と一緒にそこに行った豊満な女性を口説き出したのだとか。結局、思いは叶わなかったそうだが、ぼくのなかでは一面ではサバけた好人物という印象を与える人でもありました。素敵な暴れん坊音楽、いろいろありがとうございました。
 ドクター・ジョン(10月1日)、ジョン・クレアリー(10月14日)と、続いてきた、2013年10月“ニューオーリンズ・ピアノ弾き”3連発シリーズ、そのトリ。なんちって。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。

 ニューオーリンズの音楽界史上最良のメロディ・メイカー/プロデューサーであるピアニスト/シンガー(2006年5月31日、2006年6月1日、2007年10月21日、2009年5月29日、2011年1月10日、2012年10月15日)の今回のショウはソロのにて。この夏にリリースされた新作『Songbook』(Rounder/ Universal)も少し前の録音ソースではあったものの同様の内容であり、やはりうれしい味を持っていたので、これは期待高まりますね。

 実は過去のバンド付き公演でも、気ままなピアノ弾き語りはおいらの魅力の一つと言うかのように、トゥーサンは10分ほどの独奏パートを披露していたわけだが、思いつきで楽曲やちょっとしたフレイズ/曲想を差し込んで行く場合もあるのだが、今回は全編そうなので、もっとゆったり、せわしなく彼のなかにある引き出しを悠々と開いていく。そして、過去と比すと今回はクラシック的フレーズはほとんど出さなかったな。

 そのヴァリエーションについて分っていても、やはり誘われるし、接していて笑みがこぼれてしまう。簡素な設定公演に接して再確認したのは、声がより出ているようになっていること。それ、2006年のときと比べると、かなりの差があるのではないか。ハリケーン・カトリーナの後、仕事が増えたことを明言していた(ちゃんとしたレコード契約も取れた)トゥーサンだが、本当に活躍する機会が増えて、うれしい今があるのだなと思わずにはいられず。

 他人に書いた曲やリーダー作群で歌っているめぼしい曲はだいたいやったか。今回もまた「フリーダム・フォー・ザ・ステリオン」や「レディ・マーマレード」はやらず、残念! かつての来日公演では披露してくれたこともあったんだけどね。「フリーダム・フォー・ザ・ステリオン」はトゥーサン最たる名曲だとぼくは思っている。虐げられている同胞の自由を希求する、切ないゴスペル派生メロディアス曲という言い方もできそうで、曲調はメロウだが、何かとヘヴィでもある澄んだ曲でありますね。一方、ラベルに提供して大ヒットした「レディ・マーマレード」は扇情一義の曲だが、生だと余興で聞きたくなっちゃうんだよなー。

 一般的にトゥーサンというと1975年リーダー作のタイトル・トラックでもある「サザン・ナイト」が一番人気を集める曲なのかもしれないが、彼もそれはご存知で、ニューオーリンズの揺らぎの感覚を音化したような出だしのフレーズを自らのテーマ曲のようにパフォーマンスの頭や最後で弾いたりする。←それ、毎度のこと。また、もちろん終盤ではちゃんと歌いもするが、そのときの歌はノー・エフェクトにて披露される。オリジナルではヴォーカルはニューオーリンズの夜の幻想を映す出すかのように、ヴォーカルにはほんわかしたエフェクトがかけられていた。それ、成功している、かなり初期のロボ声曲?

 なお、クレアレンス・レジナルド・トゥーサンという太っちょの打楽器奏者が今回同行。息子さんのようだが、そこそこ若く見え、孫と言われても信じそう。2曲目から出て来て、一緒に控え目に演奏しだしたら、ありゃ素人。完全ソロでやってよぉと思っていたら、数曲でそでに下がり、ホっ。キンキラなステージ衣装が似合うおじいちゃんは、親バカでもありました。

 その後は、わたくし一押しの日本人シンガー・ソングライターであるANEIKY A GO GO!/山浦智生(1999年4月23日、1999年6月23日、1999年9月30日、2003年9月9日、2009年3月29日、2009年5月16日、2011年1月15日、2013年3月2日)を、渋谷・Li-Poで見る。ちゃんとしたメロディと強い歌がグルーヴィに拮抗し合うピアノ弾き語りの公演。そして、そこにアルト・サックスの加藤雄一郎(2013年3月2日)が趣味良く間の手を入れる感じで、全曲でよりそう。

 ファースト・ショウの終盤から見ることができた。やはりグっと来たし、応援者であり続けたいとも思った。新作『黄金の翼』(スパイ)からの曲もけっこうやったはず。今回は声がよく出ていることもあり、喉が強いなあと感服。また、曲については、サビのメロディがいいとも再確認。もちろんAメロも素晴らしいのだが、ブリッジ部になるとずっこけちゃう人が少なくないなか、彼はおおこう来てこうくるのと、想像を遥かに超える発展美メロ/コード使いを続けるのが常なのだ。わざわざ書く必要もないが、大駄目流れ例ですぐに思い出されるのが、ザ・ドゥービー・ブラザーズの「チャイナ・グローヴ」。出だしがあんなに颯爽としたリフで突き進むのに、途中から苦し紛れ的にマイナー・キーの女々しいパートにぬけしゃあしゃあと移行しちゃう厚顔無恥さにはほんと何と言っていいのか。気色悪い。あれがいいという人(1973年全米15位まで登った曲ですが)は、ぼくとは一切相容れないロック感覚の持ち主なんだろうなと思わずにはいられない。

 と、本当に蛇足を書いてしまったが、彼の前にはほとんどの巨匠も木っ端みじんということなのだ。あと、要望としては、もう少しソウルぽい情緒を持つ曲を聞きたいということと、リズム設定の多彩さをより求めて欲しいか。ロック的な情報/彩の濃さは今申し分なしなのであるから。それにしても、素の楽曲と歌と最低限の楽器音で、音楽のマジックを体現できる尊さたるや!


<今日の、都営バス>
 ビルボードライブ東京の行き帰り、その前後が渋谷なので、六本木との往復でバスを利用する。ともに、道がすいていてびっくり。復路のとき、何度か時間調整のため、バスは停留所でしばし停車していた。行きのバス、お母さんと子供二人が乗って来て僕の後ろに座ったのだが、乗り込む際にコンバンワと運転手に挨拶していた姉と弟は「あまちゃん」のテーマ曲(2013年7月13日)をタラタラと子供っぽく歌い始めた。場が和んだ? 何しとんじゃいと負の視線を浴びせる人もいなかったな。なるほど、世の中に浸透し、愛でられている曲であるのが、地上波放送が映らなく一度もそのTV放映を見たことがないぼくでも、よく分った。バスの運転手は運転中にしきりに、<六本木6丁目>というバス停が<EXシアター六本木前>に変更になりますという予告アナウンスをする。それは、六本木ヒルズの六本木通り斜め向かいに、テレビ朝日が運営する新しいライヴ・ヴェニューが11月末から開店するのに沿っての変更のようだ。その<六本木6丁目>停留所の前に通るとEXシアター六本木の外観はすでに完成していて、白色LED光体が外観の壁全面でこれでもかと煌煌と輝いていて、とっても眩しい。おお、バブル期再来かと、思ってしまう人もいる? その下品さはいかにも六本木的と頷いた。

 わー、こんな人なのかあ。スライ・ダンバー(2011年11月4日)やデニス・チェンバース(2013年3月12日)みたいにヘルメットをかぶって(それ、ここのところの彼のトレード・マークのよう)登場したチェスナットは、もう肉体感あるゴツゴツしたパフォーマンスをずんずん繰り広げて行く。冒頭の数曲は曲調がマーヴィン・ゲイを想起させる、と書いてもいいだろう。そのまま、(往年のマーヴィン・ゲイがそうであったように)服を脱ぎ出しても、ぼくはそれほど違和感を覚えなかったと思う。

 1968年アトランタ生まれ(今はマイアミ拠点かも?)の、鬼っ子的な感じも与えてきた自作派のアフリカ系シンガー/クリエイター。2002年アルバム・デビューで、2012年にやっと2枚目をリリース。ザ・ルーツ(2002年12月29日、 2003年12月2日、2004年9月19日、2007年1月15日)やザ・ブラック・アイド・ピーズ(2001年2月7日、2004年2月11日)やジャイルズ・ピーターソン(1999年5月21日、2002年11月7日、2004年1月16日、2008年9月18日、2012年9月13日)と親交をもったり、ミシェル・ンデゲオチェロ(2002年6月18日、2003年11月18日、2003年11月22日、2008年5月7日、2009年5月15日)の2012年ニーナ・シモン・トリビュート作で1曲フィーチャード歌手として起用されたりと、枠に収まらない視野の広い担い手からの支持を得てきた人物だが、日本では大きな話題になったこともなく。よく2日間の来日公演が決まったものだと思わずにはいられない。感謝! 

 自分の寝室で作ったことを受けての表題付けを持つ第一作『The Headphone Masterpiece』には日本の国旗が英国やドイツ他の旗と一緒に掲げられていて(一番大きい)、さぞや来日公演は彼にとって念願だったのではないか。って、すでに公演したことがあったりして。。。往々にして、そういうことあるからな。ま、なんにせよ、誠心誠意、客に対していたのは間違いない。髭面の彼、愛嬌もあったな。

 ギターを持つ場合もあるが、ライヴにおいては歌に専念する方向にあるようだ。バンドはギター、ベース、ドラム、キーボードで皆アフリカ系。彼らは、なんのギミックもない、真っすぐなバンド音を出す。キーボード奏者はメンバーが来れなくなって、急遽日本在住のキースさんという外国人が弾いていたようだ。そんなサポート音もあり、アルバムだと卓録系の人らしい、なあなあもわもわなワケの分らなさがあるのだが、実演は竹を割ったような、妙なクロスオーヴァー感を持つヴォーカル表現として明快に送り出される。

 で、やっぱり変というか、一般的な型にはなかなか入れがたい人物であると痛感させられる。R&Bとかロックとかブルースとかいろんな要素にまたがり、どこからも距離を置いた所で、自分が見ている世界を開いているというしかなく、ジャンル分けしやすい音楽を是とするアメリカ音楽界でよくも生き残ってきたものだとぼくは思った。そのしぶとい(?)、しなやかな生命感がぼくにはうれしかった。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。

<今日の、案内>
 11月11日(月)、<エイスケ・バー>を開いちゃいまーす。一夜かぎり。場所は、ブラジル音楽ファンには良く知られるBar Blen Blen Blen(渋谷区道玄坂1-17-12 野々ビル2F.。電話;(03)3461-6533。20時から深夜まで。http://blenblenblen.jp/access.html)。店主の豪くんがブラジル買い出しツアーのため、ぼくが仕切っちゃいます。ハハハ。飲み物は熟練スタッフのけんち君(cf.コロリダス〜2013年2月3日〜)が支えてくれますが、かなり不備な感じにはなりそう。この晩は、ブラジル音楽はほぼかからないと思います。ええっ? ただ、声のデカい、金髪のおやじがいるだけ。それでも、良ろしければ、来てくださーい。

 小曽根真(2013年8月1日、他)&パキート・デリベラのデュオを軸に、東京都交響楽団も絡むという出し物。上野・東京文化会館/大ホール、満員。1部の1曲目は、三者でモーツァルトの「クラリネット協奏曲イ長調べK.622」を演奏、途中で小曽根とデリベラはジャズ的な掛け合いを二カ所挿入する。また、2曲目は小曽根とオーケストラの組み合わせでラフマニノフの「パガニーニの主題による協奏曲op.43」を披露。オケの指揮者はジョシュア・タンというシンガポール人。そして、2部は小曽根とデリベラ(こちらは、一部アルト・サックスも吹く)のデュオ演奏。ショパン(だっけ)やディジー・ガレスピーやそれぞれのオリジンルが素材で、少し予定調和気味に二人は丁々発止する。正装とカジュアルといった感じで、1部と2部で二人は服装をかえる。そういえば、1部は客席側の照明が明るいままなされ、2部では暗くなった。普通、クラシック系公演って、客席側の照明もけっこう明るいの?

 ほとんどクラシックには触れていないので、1部の演奏については、ぶっちゃけよく分らない。ただ、オーケストラの楽器音の重なりや響きは本当におもしろいし、接していると、クラシックのオーケストラ曲って本当に編曲芸術なのだナと思わずにはいられない。編成がデカければデカいほど興味深いと思える自分のコドモな好みをぼくは再認識したりもしたが、ラフマニノフ曲のときは弦楽器が増員されるとともに金管奏者陣が加わり、さらに打楽器奏者が5人も入ったのがうれしかった。グルーヴ感に富むオーケストラ表現を誰か教えて欲しい。きっと、そういうのだってあるでしょ?

 元イラケレのパキート・デリベラ(スペイン語圏の人なので、デリヴェラではなく、デリベラと記す。亡命し、長年にわたり米国在住)には今回初めて触れるような気がするが、こんな人なのか。もうかしこまったキブンの1部から、厳粛な雰囲気をぶち壊す、お茶目な所作を連発。たとえば、出て来たとたん、クラリネットを望遠鏡のように目につけてみたり。とても、場がなごむ。ははは、いいなあ。ぼくもああいうサバけた老人になれればいいなと、少し思いました。

 そして、一息入れて、青山・原宿教会に。ほう、ここの内部の造型はなかなかに凄いな。サンパウロ在住ブラジル人歌手、ヴェロニカ・フェリアーニのショウを見る。<BOSSA AOYAMA 2013>という催しの一環にある、無料公演。サポートは、電気ギター、電気ベース、テナー・サックス/フルートを担当する3人。とくに、ギター奏者のホドリーゴ・カンポスは個人アーティストとしてもとても要注目の存在らしい。

 披露したのは、デビュー作では他人曲を歌っていた彼女がすべて自作曲で固めた新作からの曲のよう。そのショウに触れてすぐに分るのは、声がよく出るということ。歌い口が重なる嫌いもなくはないが、いやあこんなに喉が立派な人とは思わなかった。自ら生ギターを弾きながら歌うものも2曲あって(うち、1曲はフラメンコを少し想起させる右手使いをしていた)、そうすると別な広がりを持つようになる。ゆえに、ぼくはもっと本人がギターを持ってほしかったが、ギター音の重なりなど、サウンドの全体像に対しての細かな留意がそうさせるのか。実際、現代的な襞を持つ、暗めなブラジリアン・ポップという路線で全体の色調をまとめており(つまり、ブラジル的な誘いは持つものの、ボサノヴァ曲はゼロ)、それは線の太いアーティスト像に結びつく。とともに、きりっとパフォームしている端からいい人ノリが出てくるのも、彼女の美点だろう。MCは英語でしていた。なんか、ここのところ触れるブラジル人はみんなそうだな。この後、そんな彼女たちは東京以外でも、山形や福岡など4カ所で公演を行う。バンドとのやりとりももっと密になりそうで、今後どんどん変化していく感じも大アリと、ぼくは読んだ。
 
<今日の、飲み物>
 東京文化会館で赤ワイン一杯。最初のライヴを見た後、上野の立ち飲みで、ビールとホッピー。ヴェロニカさん見たあと、青山で中華料理屋に入り、紹興酒。そして、もう一軒バーに流れ、同行者につられてコーヒー焼酎、ごくごく。あら、珍しくバーボンは飲んでないな。
 現在、69歳前後の米国人のショウをはしごする。カリフォルニアとメンフィスとまったく違った場所や環境に育ち、異なる音楽をやっているお二人だが、生まれは1944年の9月と11月と2ヶ月も違わない。70代を目前に〜という構えのようなものは両者とも微塵もあらず。とくにフランクスは昔っから、爺むさいことをやっていた人だしな。

 いわゆるAORと呼ばれるタイプの音楽の代表的なシンガー・ソングライターとして1970年代から活動してきているフランクスについては、近年になって昔からボサノヴァ愛好の様を見せているのを認知して、興味を持つようになった。もともと歌は下手な人(フランクス、ベン・シドラン、ランディ・ニューマンが含蓄ロックの“三大歌ヘタ公”。でも、だから好き、と言っていた友人が昔いたな)であったので、その猫なで声歌唱に触れて、思っていたほど音痴ではないとぼくは思った。なんか、ポール・サイモンをもっと甘ったれた感じにしたような歌い方をする人だなとも感じました。

 すうっと流れる洗練都会派ジャジー・ポップを淡々と、無理なく送り出す。確かに、ある種の確固としたフンイキと芸風あるナ。そして、こうしたエクレクティックにして一歩退いたような温い表現が1970年代にロックの一表現として認知を受け、きっちり居場所があったことに少し驚きも覚える。やはり、昔からロックの領域は広かった! 
 
 曲によっては、フランクス曲をもっとジャジーにやった『The Art Of Michael Franks』(Dead Horse、2010年)を出しているアフリカ系歌手のヴェロニカ・ナンが加わり、デュエット風になる場合もある。バンドは、スペシャル・ゲストと紹介された往年の米国フュージョン界を代表する電気フレットレス・ベース奏者であるマーク・イーガンをはじめ(彼以外は、ワーキング・バンド員であるよう)、リード奏者もドラム奏者もスキルが高く感心。ただし、ピアノ/キーボードのチャールズ・ブレジングが時おり見せる独りよがりなフレイズには怒りを覚える。何枚もジャズのリーダー作を出し、ビル・エヴァンス(2003年 9月16日)からジョヴァノッティ(2002年6月1日)まで様々な人から起用され、フランクスからも大きな信頼を受けているように見える彼だが、その品とセンスに欠けた演奏はぼくにはナッシング。

 フランクスはけっこうコンスタントに来日公演をしているそうだが、この日も熱心な聞き手が来ていたのだろう、最後には多くの人がスタンディング・オヴェイション。こんなゆったりした流れを持つ実演で、そうなるのは珍しい。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。

 続いて、往年のスタックス・ソウルを支えた名オルガン奏者であるブッカー・T・ジョーンズ(2008年11月24日、2009年7月25日、2010年2月8日、2011年9月12日)の公演を南青山・ブルーノート東京で見る。

 彼は2013年にスタックスに戻った新作『サウンド・ジ・アラーム』(ユニバーサル)をリリース、ジミー・ジャム&テリー・ルイスやザ・アヴィラ・ブラザーズらアーバン系制作者らと組み、メイヤー・ソーホーン(2012年3月3日)やエステル(2012年7月25日)やゲイリー・クラーク・ジュニア(2013年3月18日)らもフィーチャーするヴォーカル付き新作(かなり出来はいい。R&Bという範疇でなら、年間ベスト15候補になり得るとぼくは感じている)をモノにしていたが、基本はそんな新作のことは忘れて、気ままに思いついたこと、やれることをやりますワ、という行き方を示す。そして、それは、「ソウル・リンボー」や「タイム・イズ・タイト」や「グリーン・オニオンズ」らブッカー・T&ザ・MGズ((2008 年11月24日)曲の魔力や彼のワン・パターンながら音が響くだけで接するものに何かを与えるオルガン演奏の存在感とか、彼のキャリア/魅力をやんわり映すものに他ならない。

 今回初めてすべてアフリカ系奏者だけで同行者を固めていて、過去最高のバンドと言えそう。ギターとドラムは過去2度(2010、2011年)の来日公演に一緒に来ている奏者で、今回新参のでっかいイヤリングをしたベース奏者はなんとダン・リード・ネットワークにいた人らしい。同バンドはソウル臭も持つロック・バンドで、ポリグラム系からアルバムを出していた。

 また、途中には、『サウンド・ジ・アラーム』にもフィーチャード・シンガーとして参加していた、コリ・ウィザースが出てきて、初々しく歌う。なんと、彼女は名ソング・ライター/シンガーのビル・ウィザースの娘さん。すらりとしていて、かなり可愛らしい彼女は、いっていても20代半ばか。「Hoot」という2006年コメディ映画でビル・ウィザーズの「ラヴリー・デイ」をマルーン5(2011年5月16日)がカヴァーしていて、彼女はそこに父親と参加したこともあった。この晩歌ったのは、『サウンド・ジ・アラーム』で歌っていた曲(「ウォッチ・ユー・スリーピング」)と父親曲(「エイント・ノー・サンシャイン」)とコリーヌ・ベイリー・レイ(2011年3月8日)曲(「プット・ユア・レコーズ・オン」)とジェシー・ハリス(2013年5月26日、他)/ノラ・ジョーンズ(2012年11月8日、他)曲(「ドント・ノー・ホワイ」)。

 今回、往々にしてアピールされたのは、ブッカー・Tってギターが弾くのが好きで、歌うことも好き(実際、ちゃんと歌う)なんだなということ。4、5曲は歌い、その際の多くはギターを弾きながら歌った。彼はストラトキャスターをピックを使わずに弾き、ときに素朴にソロを取ったりもする。締めは、ギターで作っただろうフォーキー曲の「ジャマイカ・ソング」。翌日、彼には取材をすることになっているが、いろいろ聞きたいことが頭の中で回った。

<今日の、映像>
 27日にお亡くなりになったルー・リードに対する、皆さんのコメントの数と気持ちのこもりようがすごい。それで、その存在感のデカさを再認識したりして。ぼくにとっては、妙な含みを抱えつつ、NYでしかありえない音楽を作り続けた唯一無二の人……。享年71歳は早いと思うが、肝移植手術していたのか(近年、同じ手術を受けたことで知られるのは、グレッグ・オールマン)。お酒、好きだったのかな? 妻のローリー・アンダーソン(66歳、男装のジャケを持つ2010年ノンサッチ発の『Homeland』はNY幽玄音響派といった仕上がり)の心中は? しかし今後、ロック黄金期の人たちがどんどん高齢になっていくわけで、、、、。
 ま、リードが残したものにはこんな笑顔曲もあります。
http://www.youtube.com/watch?v=RBd4SuDNsGQ
 映画「ソウル・マン」の音楽用にオリジナルを歌ったサム&デイヴの1/2のサム・ムーア(2011年7月27日、他)とデュエットしたもので、そのサウンドトラック盤(A&M、1986年)には当時すでに人間やめて行方知れずだったスライ・ストーン(2010年1月20日、他)を引っ張り出した曲も2つ収録されていた。こんど、バーの1日マスターやる(2013年10月24日の項、参照)とき、それらもかけようかな。そういえばルー・リードは、ポール“生粋のニューヨーカー”サイモン脚本/主役の1980年ワーナー・ブラザーズ映画「One Trick Pony」で、流行にアーティストの音楽性を当てはめる駄目プロデューサーとして役者出演していたこともあった。そこには、スティーヴ・ガッド(2013年9月3日、他)やリチャード・ティーらサイモンの伴奏者たちも演技。また、サム&デイヴ曲も使われていた。
 名は体をあらわす。やー、ライヴを見ていてバンド名に、近年ではトップ級にこっくりできた担い手かも。だって、本当に“ワイルドなとこは何もない”んだもの。で、それがとっても良かった。MCをほとんどしないのも、良かった。渋谷・クラブクアトロ。

 NYブルックリンのつっぱり(いや、理想を追い求める、と言ったほうがいいか)インディ・レーベル“キャプチャード・トラックス”から2作品出している、ジャック・テイタムのソロ・プロジェクト。今年2度目の来日となるよう。歌とギターを担当する本人を、ギター、キーボード、ベース、ドラム奏者がサポートする。そのテイタム君はほんと絵に描いたような、育ち良さそうなアイビー・リーガー型の見てくれ。それも、とってもらしいナ。

 起伏の少ない日常を淡々と描いて行く(実際の歌詞はどうか知らないが)ような、今様ギター・ポップを自然体で披露。別に曲調とかそんなに好みとも思わなかったが、何気に感心して見ちゃう。それは、いい塩梅で開かれた場に適したバンド・サウンドを作っていて、それに乗る優男ヴォーカルもちゃんと聞こえたから。これは、ミュージシャンシップが高いと頷く。各プレイヤーの演奏音もそれぞれにちゃんと聞こえ、クアトロって音響がいい会場なのだナ、なんてことも思った。いい奏者がやっていると、そう感じちゃうこともあるんだよね。クール。そして、そうした正の所感は、テイタムがちゃんとやりたいことを見据え、自分の音楽を育んでいるという風情を多大に押し出す。そんな様に触れて、否定的な感情を抱くはずがないではないか。

<今日の、パトロール>
 クラブクアトロに行くために、渋谷センター街を歩いたらびっくり。もう、常規を逸してこみこみ。仮装の人だらけ。まじ、前に進めないよー。その多くは10代だろう。先週ぐらいから渋谷の夜を歩くと仮装人種を見かけてはいたが、今日は本当にハンパない。2009年10月31日の項にもそれについての記載がなされているが、ハロウィンもクリスマスやバレンタインデイと同様の風物詩になったと、これは思い込みたくなる。まあ、若者にとっては仮装して騒ぐ口実がほしい(それ、サッカーの日本代表の試合後の渋谷でのお祭りお騒ぎの回路と同じだろう)だけだろうが、楽しいだろうなー。ライヴ会場で知人に、オレが小僧だったら張り切って変な格好して、女子グループと写メ撮り合ってナンパしまくりだな、と言って笑われる。あーあ、もうそんな根性ありません。
 その後、流れたクアトロ近くのバーで、放映されていた日本シリーズを見ちゃう。先日も行った店でちらり見たが、この晩は8回ぐらいからじっくり。星野嫌いだが、楽天を応援。1970年代中期に金田正一が仙台本拠地だったロッテの監督をしていた時期に日本一になったことはあるが、その際の中日との対戦はホームの宮城球場が不備だと難癖付けられて、ロッテ主催ゲームはすべて東京の後楽園球場でやらされたと、店主から教えられる。サッカーのホーム&アウェイの概念になれちゃっているぼくにとって、そんな滅茶苦茶がまかり通っていたなんて、驚き、あきれる。ますます、野球好きじゃなくて良かったと思えた。なんて書いているが、久しぶりに見る野球はかなり面白かった。
 その後も、渋谷パトロール。夜半まで、奥のほうでも仮装の人たちは絶えない。本当にものすごい数があつまっているのだろう。アベのような首相が続くと、こういうことと表裏一体の集団行動が罰せられる国に日本はなっちゃうかもと、若い彼らにしょぼい念を送る酔っぱらいのぼく……。あーこれまたぼくも、ワイルド・ナッシング。