彼がお茶の級の人気を集め、米国でも一番セールスを獲得したフュージョン期〜1970年代後期から1990年代あたまにかけて〜の好曲を、現行の日本人主体ワーキング・バンドとともに、今のノリで提供しましょうという公演。で、それをまっとう。やはり、いい曲いろいろモノにしているな。丸の内・コットンクラブ、2ショウ制入れ替えなしで持たれた。

 5曲において、渡辺貞夫のアルバムにヴォーカル参加したことがある、ヴァニース・トーマスが加わる。彼女はスタックスを代表するの売れっ子の一人であるルーファス・トーマスの娘、つまり10代半ばでスタックスからデビューした人気歌手のカーラ・トーマスや1960年代後期〜1970年代前半のスタックス・サウンドを支えた鍵盤奏者であるマーヴェル・トーマスは歳の離れた姉や兄ということになる。いまだメンフィスに住む(たぶん)カーラと異なり彼女はニューヨーク州在住のようで、エリック・クラプトン(2006年11月20日)やガーランド・ジェフリーズ(遠くないうちに来日の可能性、あり?)やドクター・ジョン(2012年2月15日、他)ら有名ロック・ミュージシャンのアルバムにもいろいろと参加。作曲能力も持ち、複数リーダー作も出している。知性と、性格の良さから来るだろう気安さを併せ持つ人で、特別上手いとは感じなかったが、その生に触れられてはやりニンマリ。それにしても、彼女が歌った渡辺貞夫の有名曲「マイ・ディア・ライフ」とスクイーズの人気曲「テンプテッド」は似た感じを持つ曲だ。ゴスペル的滋味感覚をどこか内に持つ広がりあるメロディアス曲ということで、この2つの美曲は重なる。


<今日の、設定>
 公演はプリフィクスの食事つき、という仕立て。実は、渡辺貞夫は見所あるミュージシャンを呼んで、食事や飲み物をちゃんとサーヴする設定を持つクラブ公演を、1980年代中期から毎年のようにやっている。ブルーノート東京とか、できる前ですね。<ブラバス・クラブ>とか<キリン・ザ・クラブ>とか、いろいろ名称は変わっているが、彼は個人の力で長年、その手の帯となるクラブ公演を鋭意企画してきた。アフリカ・バンバータからカエターノ・ヴェローゾ(2005年5月23日)まで、渡辺貞夫が自ら持ったクラブ出演のために呼んでしまったアーティストは本当に山ほどいる。
 ちゃんとお客が食事も摂るライヴの場を持ちたいという彼の思いは、最初の渡米時代の見聞が根っこあるのかもしれない。演奏を楽しむだけでなく食事やお酒を楽しむ、あちらのジャズ・ライヴ享受の様に触れ、彼は米国の豊かさや大人の音楽の楽しみ方におおいに共感し、いずれは日本もそうなってほしいと強く願ったのではないか……。言質を取ったわけではないが、ぼくはそんなふうに推測している。

 以下の発言は、今年春にインタヴューしたさい、バークリー音楽院在学時の終盤のもろもろを語った部分。1965年のことである。
「ゲイリー・マクファーランドという素晴らしいヴァイブ奏者/アレンジャー(スカイ・レーベルの創設者でもある。1933〜1971年)の『ソフト・サンバ』(ヴァーヴ)というアルバムがヒットしたんですよ。それで、アメリカを10週間ほど回るツアーがあって、それにテナー・サックスとフルートで声をかけてもらった。もちろん当時もアルトを吹いていたんだけど、テナーで声をかけてもらって、楽器を借りてツアー加わりました。
 それと同時に、チコ・ハミルトン(西海岸ジャズ界を代表するドラマー/バンド・リーダー。進歩的審美眼を持つそのアルバム群は聞き直す必要ありか。なぜか、リトル・フィート〜2012年5月22日〜をバンド起用したリーダー作も持つ。1921生まれ)もテナー奏者がいなくなって、マクファーランドとハミルトンのギタリストが共にガボール・ザボ(ハンガリー出身の、ジプシー音楽やインド音楽要素も取り入れた、ニュー・ロック期気分にも合致した変調ジャズ・ギタリスト。彼はボビー・ウーマック〜2013年5月12日〜とも親交を持った。1936〜1982年)で、その流れでチコのほうからもバンド参加の声をかけてもらった。ですから、うまい具合にゲイリーの仕事がオフになったときに、チコの仕事が入ったみたいな感じでやりましたね。チコのほうではアルトも吹けるからと言って、アルトも吹いたりした。
 とにかく、ゲイリーのバンドに参加した時はブラジル音楽も知らないし、ぜんぜん興味もなかった。ハード・バップを追い求めていましたから。ゲイリーのところでボサノヴァやらされたときはダルな音楽だと、最初は思った。ただ、サンフランシスコのクラブにゲイリーのバンドで出演しているときに、向かいのクラブではセルジオ・メンデス(2012年5月1日、他)がブラジル65で出演していて、お互いに演奏を聞きに行ったりしたんですよ。そこでは、ワンダー・サーという可愛い女の子が歌っていたりして、親しくなった。それで、ブラジルの生の音を聞かせてもらって、そういうことにも興味を持った強いきっかけになっていますね。そして、ゲイリーの人柄……。僕はそれまで白人のミュージシャンの音楽なんて、興味もなかったし、聞かなかった。でも、ゲイリーの人柄と彼のミュージシャンシップにすっかり惚れ込んでしまって、それ以降、喰わず嫌いじゃなくなりました」
——セルジオ・メンデスとも交流があったわけですか。
「ありました。それで、日本に戻ってきてから、日本の奏者は暗いので、少し明るくなってもらおうかなと、ボサノヴァもやったわけです」