わわわ、これは。矢野顕子を見るのはアンソニー・ジャクソンとクリフ・アーモンドのリズム隊を従えた04年公演(7月20日)いらい。あのとき彼女はなぜ常識的でおとなしかったんだろうと、この晩のパフォーマンスに触れちゃうと感じずにはいられないな。もう、弾けていて、とってもグルーヴィで。指さばきが奔放で、それに乗る歌もぐい乗りしまくり。もちろん、それを引き出していたのはNYアンダーグラウンド・ジャズ界の変調ギタリストのマーク・リーボウ(2001年1月19日。トム・ウェイツやエルヴィス・コステロらも彼を大いに信頼)の演奏だったと書きたいところだが、本当の所はここ10年の間に彼女の事を1度しか見ていないのでなんともよく分からない。だけど、矢野は終始本当に嬉しそうだったし、見る者を射抜く奔放さや迸りを出しまくっていたのは確か。「宮沢和史さんとのは長続きしなかったけど、マークとのデュオはずっと続けていきたい」。なーんてことも、彼女は朗らかに言っていたな。

 その両者の共演は、矢野のこの秋に出る新作『Akiko』がT・ボーン・バーネット(米国ルーツ・ロック系のトップ制作者ですね)のプロデュースで、そこにリーボウも参加していたからのよう。演目もおそらくバンド録音だろうそこに入っている曲をいくつかやったと思われるが、ここではどの曲も矢野のピアノ弾き語りにリーボウが適度な距離感でつきあう、といった感じのものが出される。リーボウはそんなにアヴァンギャルドな音は出さず、いつもよりブルージーなソロを取っているとも思わされたか。が、なんにせよ、その演奏に触れていると、彼は子供のような自由な気持ちをとっても持っていると思わずにはいられなく、それこそが矢野も彼を気にいった部分ではないのか。

 矢野の弾き語りとリーボウのソロ演奏も一曲づつ。また、古いカントリー曲のカヴァーと言ってやった曲のとき、リーボウはバンジョーを弾いた。そして、本編の最後はかなりアグレッシヴな感覚〜アウトする感覚を持つ曲。で、歌詞から分かったのだが、その曲はなんとレッド・ツェッペリンの「胸一杯の愛を」ではないか! それ、滅茶飛躍させた形で披露された。

 といったような二人のデュオ・パフォーマンスに触れてぼくが感じずにはいられなかったのは、矢野はアメリカの様々な財産が生んだ襞(その最たるものが、リーボウの演奏ですね)に触発されることを楽しんでいるということと、矢野とリーボウはロックの原初的衝動を今の成熟した両者のノリで伸張させようとしていたのではないのか、ということ。

 とにかく、矢野顕子は圧倒的に凄いし、なんら朽ちる事なく輝きまくっている……そんな事を痛感させられた夜。というか、この晩の彼女はぼくが大昔に胸を焦がした、デビュー作にしてLAの天変地異的怪物バンドというしかないリトル・フィート(2000年12月8日)と協調した『Japanese Girl』まんまのイケてる彼女だったのだ! 南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。
 90年ごろのブラック・ロック旋風の真ん中にいたリヴィング・カラーのドラマーであるウィル・カルホーン(2001年7月27日、モス・デフのバンドでの来日)と、80年代中期にジャズ界に大きな旋風を巻き起こした特殊奏法ギタリスト(左右の指でフレットをおさえ、タッピングでピアノの奏法をギターに移したような事をやる)であるスタンリー・ジョーダンの双頭グループ……。というふれこみだが、ほぼジョーダンはサイドマンといっていい役割で、ウィル・カルホーン・クインテットと言える演奏内容だった。スタンリーの奏法を曲芸みたいで不毛だと感じていたぼくは、それはとてもOKな事であったのだけど。なんにせよ、ジョーダンのこの晩の演奏は例の奏法も見せなくはないものの、普通の弾き方もまじえ、そんなにこれ見よがしなものではなかったはず(ゆえに、旧来のファンなら不満を覚えたかも)。二人は仲良しで、カルホーンの05年新作にジョーダンは入っていたりする。

 他は、ピアノ(ラップトップも扱い、キーボードも少し弾く)、トランペット、電気ベース奏者という内訳。けっこうぐつぐつしたぼくの好みの演奏をしていたマーク・ケリーというベーシストは知らない人だったが、正統ジャズ・ピアノと電気処理の両方をこなすマーク・キャリーとロイ・ハーグローヴ(2007年9月10日.他)を少し太らせたようなトランペットのコレイ・ウィリスはリーダー作も出している実力者。キャリーはベティ・カーターやアビー・リンカーンら正統“逸”ジャズ・ヴォーカリストのバッキング・ピアニストとルイ・ヴェガ(2003年7月20日)やロン・トレントらクラブ音楽サポートの両方を涼しい顔してこなす人であり、シカゴ拠点なはずのウィリスはアート・アンサンブル・オブ・シカゴの06年作に亡くなったトランペット大将のレスター・ボウイの代役として加わっている人なのだから!

 そんな人たちがやる演奏はかなり変。基本は骨っぽい現代ジャズという感じながら、PC音が干渉したり、カルホーンがサンプラー音で遊んだり、アフリカ的な何かを覚えさせるパートが割り込んできたり……。けっこうなんでもアリのバラバラ感を持つものであり、理屈っぽさと子供ぽさが不可解に溶け合った演奏だったと書けるかな。でも、それもおいらの考える今のジャズを求めたいという気持ちが支えていたのは間違いない。それから、その様はどこかオマール“電波系”ソーサ(2008年3月16日、他)の表現を思い出させるところがあったかも。南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。

サマーソニック08

2008年8月10日
 高速道路が混んでおらず、別に飛ばしたわけではないのに、これまでで一番早く(40分ぐらいかな)幕張メッセに着く。到着は13時過ぎ。が、リストバンド交換デスクに近い、ぼくが基本つかう県営第一駐車場は満杯で、入り口がブロックされている。こんなこと、初めて。しょうがないから、少し高くなるけど隣の民営駐車場に入れる。こちらは半分以下しか埋まってなかった。

 まずはメッセ内会場を慣らしで、ソニック、ダンス、マウンテンの各ステージや食べ物売店やアトラクションのエリアなどをブラブラ。マウンテン・ステージは2画分ぶちぬいてて相当でかい。って、去年もそうだったっけか。後でタイムテーブルと照らし合わせてみると、ミュートマス、ジ・ティーン・ネイジャーズ、ポリシックス(下北沢で、リーダーくんとは某先輩を挟んで飲んだことあったな)などを見たはず。ミュートマスはザ・ポリスのフォロワー度濃厚ながらニューオーリンズのバンドということでそれなりに期待していたが、あれが本当にミュートマスだったのだろうか。後ろのほうでぼうっと短時間見ただけだと、ぜんぜん分からなかった。

 それにしても、なんでメッセ内会場はあんなに照明が暗めなんだろう。なんか気が滅入ってきて(多分に嘘)、陽光注ぐマリン・スタジアムの方のエリアに向かう。普段は連絡バスを使っていたが、この時はなぜか歩いていこうという気持ちになった。球場手前に川を挟んでシーサイド・ヴィレッジとサイレント・ディスコというスペースがあったので少しチェック。シーサイド・ヴィレッジはけっこう広いスペースで横のほうテントが張ってあったりもしていたが、それは誰が使っているのだろう? サマソニはキャンプは許容してないよな? そこでは、柔いアゲアゲ曲をやっている日本人アーティストがやっていて、かなり客が沸いていた。サイレント・ディスコのほうはアララ。音楽が出ていないなか、ヘッドフォン(入り口のところで、渡していたよう)をした人々が首を振ったり、身体をゆすったり。なかなかにシュールな光景で笑えるが、その一団の一員になるのはごめん被りたいぞと即思う。それに、夏の冷房の効いていないところでヘッドフォンなんかしたらすぐに汗を吹き出るはずで、他人の汗がついたものを耳や髪に触れさせるのも勘弁と思った。それ、入り口の所で得た所感だが、それはぼくの勘違いで、実際は全然違うシステムなのだろうか。

 そして、球場の横から入るサマーソニックの僕のお気に入り会場であるビーチ・ステージへ。あんなに海(今年は例年になく多くの船が沖に見えたナ)が汚いのに、やっぱりうきうきできる会場。横のハーフ・パイプがある所でマイケル・フランティ(2006年10月5日、他)がかかっていてより個人的に盛り上がる。そこで見たのはカナダの3人組のベドゥイン・サウンド・クラッシュ(2007年1月19日)だったのだが、これは良かったナ。レゲエとパンクっぽいロックの間を行き来するその音楽性と場のノリが滅茶苦茶合致していて。とともに、サウンドはより肉感的だったりし、ザ・ポリス趣味が影を潜め、でも歌心や存在感を増していたりして、前回の実演時のときよりかなり成長していた。佇まい良好、これは彼らの事を知らない人にも立ち止まらせる力を持っていたはず。拍手!

 再び、メッセ。この頃にはけっこう身体はダルくなってくる。ブンブンサテライツ(2002年11月16日。昨年秋にインタヴューをやって、ぼくの好感度は上がりました)、スーパー・ファリー・アニマルズ(2001年10月19日、2005年10月18日。1曲、ロキシー・ミュージック『アヴァロン』あたりに入ってそうな曲をやったな)、ニュー・ヤング・ポニー・クラブなどを覗く。ちゃんとした食事は例年のごとく、会場向かいのビル2階のレストラン街で落ち着いてとる。

 その後、また球場に行き、アリシア・キーズをじっくりと見る。ああ、やっと彼女が見れた。実はワタクシ、キーズ嬢にはかなりの思い入れを持っている。………それについては、この項の最後につけた、<車の中にあった、魔法のR&B……。>というタイトルでbmr誌に書いた彼女のライヴ盤をネタにしたコラム原稿を参照してくださいナ。

 そのパフォーマンスはコーラス隊や管奏者を含む10人はいたろうこなれたバンドを従えてのもの。最初、彼女は基本マイクを持って歌う(ステージ左右にキーボードが置いてあり、ときにそれを弾いたりも)。その場合、過去の先達表現を俯瞰し、それを統合しつつ、彼女なりの開かれたポップスとして送り出すという感じが強くでたか(アイザック・ヘイズやスライ・ストーンなどの断片を差し込んだりも)。中盤になると、ピアノを弾きながら歌い、旧来のイメージに近い実演となる。なんにせよ、声はよく聞こえるし、溌剌としているし、さすが。どこか温いと感じさせるところもなくはなかったようにも思えたが(それは、期待が大きかった事や、球場のスタンドから見ていたこともあったか。会場のヴィジョンが小さかったな)、新時代のソウル・ウーマンとしての矜持はちゃんと溢れていたはず。その様を見ていて、今年のフジ・ロックはスティーヴィー・ワンダー(2005年11月3日)の出演が決まりかけていたこと(結局、ギャラの面で折り合いがつかなかったよう)を思い出した。

 込み合うなか球場を出るのが嫌だったのと、やはりカフェ・タクーバを見ておきたかったので、キーズの終盤にビーチに向かう。昨年の公演のときに書いたよう(2007年11月3日)に、ぼくは彼らを応援したいのダ。で、これがまた質の高いパフォーマンスを展開しててびっくり。近くでダイレクト感たっぷりに見れたということを差し引いても、昨年の2倍はグっと来るライヴだったな。リズム音はグルーヴあるし、他の楽器音にせよ、歌(やコーラス)にせよ、こいつらは上手いと今回は実感できた。だから、彼ら特有の洒脱なポップネスやひねりは伝わりやすいし、ときに入る遊び心あふれるお茶目なメンバー一丸の振り付けも実に嵌まる。これなら、誰が見てもメキシコの大人気バンド(まじ、そうなんですう)であることや、メキシコは侮れぬ国であることを感じることができたのではないか。それにしても、少ないというしかない観客数(たぶん、彼らにとってここ15年で一番観客数の少ないライヴだったのでは)でも、誠心誠意ぶちかました彼らは素晴らしい。

 その後、球場横の駐車場に作られたアイランド・ステージに立ち寄る。フジ・ロックのレッド・マーキーみたいな、白色のテント・ステージ。入ってすぐに、白色でも昼間だと熱くてもう大変な会場ではないかと思う。やっていたのはオーストラリアの3人組、リヴィング・エンド。ぼくの中ではロカビリー色の強い(ベーシストはスタンダップを使用する)発散のバンドという印象があったが、もっとロック色を強めていたな。レッド・ツェッペリンのカヴァーも飛び出した。

 コールドプレイ(2006年7月18日)は込むだろうからパス、ほんとうはメッセにもう一度戻って、ザ・ジーザズ・アンド・メリー・チェインとかをチェックしたかったがけっこう疲労を感じたので、帰るのを選択。そして、都心に入ると豪雨。その後の、幕張はどうだったのだろう。家でソックスを脱ぐと、足に豆が出来ていた。トホホ、過剰には歩いてないのに。
 

<bmr誌2006年11月号より> 
 去年、一番聞いたアルバムは?
 普段から生ぬる〜く、鬼のように注意散漫に生きている私ではあるが、その問いにはすぐに答えられる。アリシア・キーズの『アンプラグド』だ。本当に良く聞いたし、もしかして世田谷区で一番あのアルバムの中身に感じ入った人間なのではなのか。そんなふうに思ったりもする。
 その理由は明快だ。ちょうどリリースを控えていた頃にそのテスト盤が車のなかに置かれていて、そんな折りに父親が死んだからだ。……では、まるで説明になってないな。もう少しちゃんと書くと、10月4日朝に父が亡くなったと母親から電話を受けて、すぐに車に飛び乗り実家に帰り、そのまま喪主をぼくは務めた。葬式後も、何度も実家と自宅を往復した。そして、その度に頻繁に車のなかで流されたのがアリシア・キーズの新作だったのだ。他にも、ロックやジャズのアルバムも車のなかにはあった。だが、ダークなぼくをもっとも優しく包んでくれ、癒しの感覚を与えてくれたのは彼女の表現だったのだ。
 ああ、R&Bってなんて人間的でテンダーで味わい深いのか。ぼくは身を持ってR&Bが持つ効用の凄さを実感した。R&Bの有り難みが身に染みた。大げさに書けば、ぼくはあのときR&Bの内実を初めて受け取ったのではないのか。そう感じるぐらい、そのときのアリシア・キーズの表現はぼくにとってありがたかった。そして、ぼくは音楽の持つ力というものもものすごーく実感した。いや、せざるを得なかった。でもって、音楽を紹介できる仕事をしていて良かったとも思わせられたかな。
 もしかすると、アレサ・フランクリン(キーズを聞いて、フランクリンぽいと思ったもんな)でもオーティス・レディングでも(だけど、彼のアップ曲だと、ぼくはヘヴィに感じたかな?)同じように大きく感じ入ったのかもしれないが、豊かな伝統をしっかりと受け止め、それをハタチ半ばの送り手なりの前を見たものとして瑞々しく出している様が傷心のぼくを勇気づけてくれたのだと思う。また、きっちりと個体の存在があからさまになるアンプラグドというしっとり様式もまた大きくプラスに働いたのは間違いない。
 かようにぼくの心の中に入り込んだアリシア・キーズの『アンプラグド』ではあったのだが、ぼくはまだ同ソースの映像商品は見ていない。それは、ぼくのなかで彼女の『アンプラグド』は音盤だけで完結しちゃっているからか。それとも、同作は去年の10月のクルマのなかにあった魔法の音楽(まさしく!)として、ぼくのなかに留めておきたいからかもしれない。
 ああ、10月1日は一周忌。この原稿は9月中に書いているのだが、ぼくは『アンプラグド』を実家やお墓を行き来するクルマのなかに入れようかどうか迷っている。
 なんか、蝉がうるさい。例年だと8月下旬ぐらいから蝉の鳴き声が気になる感じがあったが(記憶違いかな。もー、毎日が新鮮?)、今年は7月下旬から蝉の声が気になる。少し前は夜中もみんみん鳴いてたナ。

 南青山・ブルーノート東京で、ぼくにとっては特別銘柄となる女性シンガー(1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2004年9月7日)を見る。セカンド・ショウ。久しぶりの来日だが、カサンドラってこんなだったけかなと目新しく感じる所がいくつか。バンドがアブストラクトな音を出す中、例によって裸足で登場した彼女はまず三方に向かってそれぞれ深々とおじぎをする。そんな挨拶の仕方する人だったっけか? で、変なフリをつくって歌ったりとか、バンド・メンバーがソロをとっているときに横のほうで大きく身体をうごかしていたり、奏者を煽ったりとか。なんにせよ、ブルーノートの場が気に入り、くだけつつ、嬉しそうに歌っていたというのは間違いない。

 今回の実演はスタンダードをひねりある彼女流サウンドを介して歌った新作『ラヴァリー』に基本は沿ったもの。マーヴィン・スーウェル(1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日)をバンマスとするもので、他にベース、ピアノ、ドラム、パーカッションという内訳。で、過去のどのカサンドラ公演同行公演よりもスーウェルの歪んだ像を持つギターが前に出されて(スライド・バーを使ったときも)いたのは間違いない。彼が最初にカサンドラ来日公演に同行したのは確か99年のことで、そのとき“ブルースの狂気”をクールに出していた彼の演奏に感嘆し、ショウの後にその素性を確認しようと話しかけたら、(モダン・ブルースの最たる都市)シカゴの出身とのことで膝を叩いた事があった。また、彼はオープン・チューニングも用いることやシカゴから出てきてわりとすぐにバンドに雇ってくれたデイヴィッド・サンボーン(彼の業界スタートはポール・バターフィールド・ブルース・バンドだ)には感謝しているとかいった事を言ってたっけ。その後、カサンドラにインタヴューしたとき、スーウェルはブルースの神髄をきっちりと持っているから雇っているのと、彼女は言っていた。で、スーウェルと入れ替わるように、才人ブランドン・ロス(2004年9月7日、2005年6月8日、2005年6月9日、2006年9月2日)はカサンドラから冷遇されるようになってしまったわけだ。

 この日が5日間続いた全10回のショウの最終回、もしかしてさすがの彼女も喉が疲れているかもと危惧したのだが、そんな事は全然なし。過去と比べても、彼女はかなり派手な歌い方をしたのではという所感が残ったりもし、豊穣にして尖ったサウンド(たとえば、今回はクリス・クロス他からジャズのリーダー作をいろいろ出しているオリン・エヴァンスがピアニストとして同行していたが、カサンドラの求めもあったのだろう、本当に普通のジャズ演奏パターンからは離れる音数の少ない演奏を趣味良くしていた)をコントロールしながら、心智と技巧が折り合う肉声を自在に乗せて行く様には唯一無二だと思わせられたな。まじ、(いつも以上に)良かった。お酒がはずんだ。

 それから、ショウの途中にぐうぜん別の仕事で来日中のロニー・プラキシコ(1999年9月2日、2001年2月12日、2001年9月6日)が飛び入りして、今回のベーシストのケニー・デイヴィスに代わって2曲演奏。プラキシコは過去の多くの彼女の来日公演でミュージカル・ディレクターを務め、『ラヴァリー』でも弾いている超仲良しさん(カサンドラは彼のアルバムをプロデュースしたこともある)。とはいえ、今回のデイヴィスもプラキシコと同じような位置で活躍してきた人で、カサンドラ作にも初期から関わっていた。

ところで、昨日の項でアイザック・ヘイズの名を出したら、同日メンフィスの自宅で亡くなってしまった(まだ、65歳)というニュースが。スタックスのスタッフ・ライターとして「ソウル・マン」他いろんな名曲を書き、アーティストとしても70年前後に天下を穫った偉人であり異才……。近年米国では、人気お下劣TVアニメ「サウスパーク」のシェフ役の声優としてもおおいに知られ、事実メンフィスではレストランも経営していたという。昨年、ハリウッド・ボウルで彼の勇士(2007年7月18日)を見れて本当に良かった。新生スタックス用の新作を録音中と伝えられていたのだが……。
 おお、ものものしい名前。その内訳は、ザ・ミーターズ〜ザ・ネヴィル・ブラザーズ(2004年9月18日)のシリル・ネヴィル(パーカッション)、ザ・ミーターズのジョージ・ポーターJr.(ベース。2004年2月4日)、ヘンリー・バトラー(ピアノ。2004年9月17日、2006年7月14日)、そしてほとんど無名のキンドラー・カルト(ドラム)というもの。当初はザ・ダーティ・ダズン・ブラス・バンド(2007年5月15日、他)のレイモンド・ウェバーが来る予定だったが、来れなくなったみたいで、まだ若いカルト君が来ていた。で、彼以外はニューオーリンズ勢大集合のザ・ニューオーリンズ・ソシアル・クラブ名義の好盤『シング・ミー・バック・ホーム』(BMG、06年)に参加していますね。

 冒頭2曲はセカンド・ラインぽい、ジャムなインスト。若いドラマー、いいじゃん。さすが、熟達者たちが連れてくるだけある。まあ、彼らにとってみれば鼻歌キブンだろうが、一言で書けば、“NOLAは美味しい”。NOLAとは、ルイジアナ洲ニューオーリンズの略。同地ではよく使われる表記だ。ステージには常設のグランド・ピアノもあるが、バトラーはキーボード(音色はエレクトリック・ピアノ)を弾く。指が踊る。ギターレスなためもあってか、ポーターはかなり饒舌な指さばきを見せる場合も。

 3曲目以降は「レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール」(シャーリー&リーのヒット曲ではなく、ドクター・ジョンが『ガンボ』で歌っていたほう)とかヴォーカル曲も出てくるが、セッションぽい緩さは維持。ながら、ちゃんと芯があるのは熟達者ならでは。ドラマーを除く3人が歌い、部分的には歌を重ねたりもするのだが、みんな声がでかくていいな、訴求力があって嬉しいな。それはなんかミュージシャンとしての自力が違うとも思わせ、それもまた日本の担い手にはないものと痛感させるものであり、異国情緒を聞き手に感じさせるものではなかったか。ああ、シリル・ネヴィルはこの10月下旬に再びネヴィルズでやってくる。いやがうえにも、期待は高まる……ものの、もしかすると、ぼくは見れなくなる可能性もあるんだよなー。六本木・ビルボードライブ東京、セカンド・ショウ。本編が終わると、後ろの幕が開きショウの終了が告げられたが、アンコールに応じる。そして、曲を終えたあと、メンバーたちは長々と握手に応じた。
 1942年、リオ・デ・ジャネイロ生まれのアレンジャー/プロデューサー/キーボーディスト。60年代中期から本国でイージー・リスニングなジャズ・ボッサ作を出し、60年代後期からアメリカに拠点を移し、アストラッド・ジルベルトの仕事を皮切りにアレンジャーとしてのしていって、70年代に入るとCTIからデビューし一時は人気フュージョン鍵盤奏者として脚光を浴びる。80年代に入るころには本人の興味はどんどんソウル・ポップな方向に行き、リーダー作もそうなるとともに(そのころ、彼の表現を助けたのがバーンズ兄弟ですね;2006年4月11日参照)、クール&ザ・ギャングをはじめ、いろんな人たちも手がけている。というようなキャリアを持つ彼だが、それほどぼくは彼の事を注視したことはなかった。が、どんどんブラジル人の持つ嬉しい才や持ち味を認知するようになると、少し見え方は変わってきますよね。志向は異なるものの、ある意味、セルジオ・メンデス(2007年2月7日、他)と同じような群に入れられる人でもあるかな。マルコス・ヴァーリ(2007年4月28日、他)ともいろいろ付き合いをもっていて、どこか重なる部分があるのかもしれない。それから、ビョーク(2008年2月22日、他)が『ホモジェニック』で唐突に彼をアレンジャー/コンダクターで雇っていたのには少し驚いた。で、逆説的に彼を見直した。

 最近のプロダクツと同様、トリオ編成によるもの。エレピ、電気ベース、ドラム。リズム隊はイルマ・レーベルと関わっていたりするイタリア人だったようで、ちょい拍子抜け? 隙間がありつつそれなりに構成されたブラジリアン・フュージョン、とその内容を書くのが適切かな。ガーシュイン曲しろにブラジル有名曲にしろ、耳なじみの曲をどこか騙し絵的に飄々と送り出して行く感じがそこにはあったはずで、それはやはり主にアレンジで売ってきた人物らしいパフォーマンスであったか。ここにホーン隊がいればなと思う局面もありました。丸の内・コットンクラブ、セカンド・ショウ。
 オサリヴァンといえば、72年全米1位輝いた「アローン・アゲイン」である。なんか、女々しく、妙に存在感のある声もそれほど好きではなかった。が、すぐにメロディや曲の佇まいは反芻できちゃうわけで、ちゃんと旋律を作れ、強い持ち味を持つ、ピアノ弾き語り基調のシンガー・ソングライターであるのは間違いない。そのファミリー・ネームが示すように、彼はアイルランド生まれ(46年。今はジャージー諸島に住んでいるという)。が、当然、彼が活躍した70年代なんかはスコットランドもアイルランドも一緒くたにイギリスとして大概は括られていたはずだ。ぼくの場合、その差異に目を向けるようになったのはサッカーのナショナル・チームがちゃんと別になっていたことからだと思う。

 昔ラジオで耳にした曲がどう聞こえるのか、そのパフォーマンスはどこかにアイリッシュの翳を宿すのか、そんなことが気になって、六本木・ビルボードライブ東京(ファースト・ショウ)に足を向けた。けっこう、いい入り。パフォーマンスはギター、ベース、ドラム、キーボード(効果音主体)、サックスやフルート(とはいえ、半数以上はタンバリンやコーラスでの貢献)からなるバンドをともなってのもの。昔の面影をそれなりに保っている本人(けっこう、アイドルっぽさを引きずっているとも書ける?)はエレピ音色のキーボードを弾きながら歌う。アイリッシュぽさは皆無ながら、素直なバンド・サウンドのもと、無理なく自分を開いて行く。オサリヴァンは普通に鍵盤を扱うときもあるが、三分の一ぐらいの曲では、左手で出すベース(単)音を手のひらを縦にして小指と薬指で鍵盤をおさえる。それ、少し大げさに書けば、空手チョップのごとし。そんな弾き方する人、初めて見た。最後の曲はアップ目の「ゲット・ダウン」。これもとても耳覚えがある曲。彼は椅子の上に立ち上がり、客をあおった。

塩谷哲トリオ

2008年8月19日
 純ジャズからコンテンポラリー・フュージョンやクラシック系までいろんなことをやっている俊英ピアニスト(2006年2月16日、2006年6月15日)のジャズ・トリオ、南青山・ブルーノート東京でのセカンド・ショウ。少し前の新作に倣い、ベースは井上陽介(2007年4月9日、他)、ドラムは山木秀夫によるもの。やってて面白くてしょうがないと本人がMC で言っていたが、対話や丁々発止を柱に置く、正攻法なジャズ・ピアノ・トリオ表現を鋭意(と、違和感なく書けるものでした)展開。MCはジャズ流儀ではなく、Jポップ流儀のちんたら長いもの。

 ところで、途中でハプニングが。なんと、曲間で青年が突然立ち上がり、「みなさん、中断させてごめんなさい」とい謝りを入れた後、隣に座っていた女性に花を渡したうえで訥々とプロポーズする。女性(二人とも、20代半ばかな?)はびっくりしつつ、それを感激し受け入れる。みんな、温かく拍手。その際、彼らにすぐに照明が当てられたから、ブルーノート側はこれがあることを知っていたんじゃないかと思うが、塩谷はびっくりしつつ、まじ感激していた(微妙な様子から、男性は山木の知り合いなんじゃないかという人もいましたが)。で、塩谷は二人をステージにあげて、祝福する。ほう、こんなのは初めて。

 最後のほうで、塩谷は会場に来ている同業者を紹介する。ほんと、いろんな人が来ているのだな。アンコールではそのなかで塩谷と一緒のヴォーカル付きユニットを組んでいるTOKU(2006年2月16日、他)がフリューゲル・ホーンで加わった。
 先週土曜の午後だかに雨が降り、それ以降、暑さはやわらいでいる。特に、この日の日中はわりと涼しい。それは昼間の仕事中にコーヒーやほうじ茶など熱い飲み物を何杯も飲んだことでも明らか。ぼくは仕事中にとっても水分を摂る人なんだが、この一ヶ月はほとんど冷たいものばかり飲んでいたもの。なんか緊張がどこかきれた感じもあり、一気に怠惰モードにはいっちゃったとこある? とともに、予定を書き留めているスケージュール帳代わりのカレンダー綴りが見当たらなくなっちゃったア。ま、いっか。

 80年代、晩年のアントニオ・カルロス・ジョビンと一緒に活動もしたブラジル人女性シンガーを六本木・ビルボードライブ東京で見る(セカンド・ショウ)。あらら、前回見たときの印象(2005年7月24日)とけっこう違う。見た感じからそうで、より大きい感じ、より若い感じも、遠目からは受けた(格好はちゃんとドレスを来ていた)。後日に取材で会ったら、普通体のサバけた感じの人だった。旦那のジャキス・モレレンバウム(2005年5月23日、他)を伴った前回来日公演も曲によってはプリセット音を併用していたものの、今回のほうがその濃度は高かったこともそういう印象を強めることに繋がったのか。今回の実演のほうが飛躍する意思は強い、と、ぼくは感じた。

 ベースや生ギター(新作で部分プロデュースを務めているマルコス・クーニョ)、キーボード、ドラムがバッキング。みんな、PCを横においていたりして。そのパフォーマンスは、ボサノヴァ誕生以前の古い曲(リサーチをかける前は、彼女も多くは知らない曲だったそう。楽曲選びに一番時間をかけたようだ)をボサノヴァの洒脱や機智を通過させつつ清楚で今っぽい響きを持つレトロ・モダンな表現に持ち上げようとした新作『テレコテコ』(Mirante)の行き方をなぞるもの。暖簾に腕押し的な彼女の歌はあんまし上手くないものだが、今回はそこに内在する意欲や芯のようなものがより見えるようにもなって、それは好感を誘うものっだったかもしれない。中盤の20分強はその新作にゲスト参加していたヴェテラン・ピアニストのジョアン・ドナートが加わる。ちゃんと歌ったのは1曲だけだったが、そのヘタウマの歌は妙味溢れるものでもっと彼の歌を聞きたかったナ。アンコール最後にもドナートは出てきて、モレレンバウムとデュエット。で、たどたどしいながら、それが日本語の歌詞。ありゃあ。どうやら、大貫妙子(2005年9月14日)がドナートの曲に日本語の訳詞を載せた曲を発表していたものを用いたようだ。
 みんな、オリンピックが好きだね。

 オリンピックの事には触れてませんねと言ってきた人がいたので、すこし書いておきましょうか。イヴェント好きだし、子供のころは夢の祭典のように感じていたはずだが、成人になって以降は基本どーでもいいというスタンスかな。期間中、TVをつけるとたいてい何か競技を放映しているので、その際はすこしながめてマスという感じ。でも、今回はオリンピックのせいで高校野球が隅においやられた感じがあったのはうれしい。なんか昔から高校野球は嫌いというか、漠然と不信感のようなものをぼくは抱いている。ぼくが通っていたのは県大会で一勝できれば快挙という水準の高校で(ベンチ入りの人数そろえるのにも苦労していたんじゃないかな)、同じクラスに野球部の主将をやっている奴がいたんだけど、そいつが大会前に悲しそうに短髪にしていた。理由を聞くと、高野連がうるさいから、との事。そのころ、髪が長いのは美徳だとぼくは思っていたので、それで一気に高校野球の建前主義に嫌悪感を覚えるようになったような気がする。それに、いろいろある部活のなか、どうして野球だけがちやほやされなければならないのかという違和感を、ぼくは持ち続けている。

 話はズレたが、まあ人間て勝負事や強い者が好きだし(4年というスパンも絶妙ですね)、夢中になる人が多いのは分かる。ぼくもユーロやワールドカップにはけっこう燃えるしな。だけど、日本日本、メダルメダルと過剰にさわぐのはなんだかな、なのだ。そりゃ帰属意識はおおいにあるし、日本人が勝てばもちろん嬉しいけど(ソフトボールや陸上男子の400メートル・リレーなんかは見て高揚した)、長年のロック愛好(ジョン・レノン愛好と書いたほうがいいかな)がもたらしただろうリベラルでありたいという気持ちが過剰にナショナリスト方向に傾くのを格好悪いと判断させるのだと思う。えーかっこしいな物言いだが、本当にそう感じるんだからしょーがない。

 新聞は良く見るので、結果はけっこう知っている。人口数や経済力が原則ものを言うはずの国別のベダル獲得数、やっぱそんなにムキにならなくてもと思う。メダルの数比較に関して少し変だなと感じるのは、団体球技と個人競技の扱い。長〜い期間に大人数でもって事にあたりやっと優勝してもメダル一つと数えられるのに対して、例えば陸上や水泳は短期間で1人が複数の金メダルを取ることも可能。なんか、おかしくねえ? 野球で優勝したら金9つと数えよ、とは言わないけど。野球と言えば、今回日本がメダルとれなくて良かった。ぼくはどうにも星野仙一監督が駄目。メダル取ってどんなもんだいという彼の態度を(ニュースなどで)見せられずにすんだのは本当にうれしい。

 それにしても、TV中継の解説やインタヴューはおうおうにして酷い。もし、ぼくが熱心な五輪TVウォッチャーだったら、爆発しているだろうな。TVを制作する人たちの心智の欠如、底の浅さはスポーツ番組に特に集約されるような気がするが。中継を見るたびに、ぼくは同様のことを原稿で出していないよなと自戒しっぱなし。ハイ。まじに。

 最後に、オリンピックとつながる音楽ネタを。

 東西冷戦が続いていた80年、多くの西側諸国(日本も、アメリカに同調した)がソ連のアフガニスタン侵攻を理由にモスクワ五輪をボイコットした。なんか、はるか昔の話。今回のロシアのグルジア攻めのニュースを聞いて、ぼくが思い出したのがそのことだった。ロシア、いい根性してんじゃん。

 その80年の際、陸上三段跳びの米国オリンピック代表に選ばれていたのが当時の室内米国記録を持っていたヴィンセント・デジャン・パレットという大男。だが、五輪ボイコットでその人生は修正を余儀なくされ、彼は前から好きだった音楽の道に本格的に進むことに決め、84年には奨学金を得て通った大学のあるカンサス・シティからLAに出ることになる。そして、彼はスポーツ・インストラクターで生計を立てつつ(スティーヴィー・ワンダーやダニー・コーチマーらは顧客であった)、我が道を行く音楽作りを求めた。

 ヴィンクスと名乗ってパーカッションを弾きながら歌を歌う彼は地道にライヴをやったり(ビル・サマーズのサマーズ・ヒートにも入っていた)、デモ・テープを作ったり。そんなおり、<アフリカ色も強い、レンジの狭い、でも歌心のあるボビー・マクファーリン>という感じもある、そのパフォーマンスを偶然見て、一発で魅了されてしまったのがスティングだった。彼はすぐに動き、当時彼が持っていた自己レーベル“パンジア”から、自分(ライナー・ノーツも担当)やハービー・ハンコック、タージ・マハール、ソロ・デビュー前のシェリル・クロウらが参加したデビュー作『ルームズ・イン・マイ・ファーザーズ・ハウス』を91年にリリースさせる。その後、ヴィンクスは数枚のリーダー作を発表するとともに、現在も活動を続けている。なお、彼のデビュー前のデモ・テープ作りを手伝ったのが、その頃LAに住んでいた沼澤尚。それゆえ、ヴィンクスのデビュー作の感謝の項には沼澤の名前が載せられている。そういえば、大学生になってドラムを叩くようになる前、沼澤は熱心な野球小僧でした。

 ヴィンクスは、オリンピック中継を見ているだろうか。
 レイモンド・マクドナルド(アルト、ソプラノ・サックス)はスコットランドのフリー・インプロヴァイザー/作曲家で、これは彼の前回東京公演(2005年11月28日)同様に藤井郷子の助力のもと、ちょうど来日が重なった豪州のアリスター・スペンス・トリオの面々や在東京のインプロヴァイザーが集合した(あっと驚く、とも書けますネ)一回限りのスペシャル・バンド。顔ぶれは、松本健一(テナー)、田村夏樹(トランペット)、ギデオン・ジュークス(チューバ)、蜂谷真紀(ヴォイス)、八木美知依(琴)、ジム・オルーク (ギター)、アリスター・スペンス (ピアノ、コンピューター)、藤井郷子(ピアノ、シンセサイザー)、ロイド・スワントン(ベース)、トビー・ホール (ドラム)、吉田達也 (ドラム)。場所は、江古田・バディ。

 譜面を前にもう一つの世界で戯れん、とするような演奏。筋のいい音が繰り出されたせいもあるかもしれないが過剰な垂れ流しではなく、アウトラインを得ての節度ある音の重ね合いといった感じも受ける。音を出す人の数が少ないときじゃないと、オルーク(ちょいジャック・ブラック似? そのJBはチャーリー・ヘイデンの義理の息子となりますね)や八木ら弦楽器音はよく聞こえない。いっぽう、ブラス音と対峙するような声の出し方でいろいろ声を出していた蜂谷の声はよく聞こえて、けっこう存在感があったな。

 江古田(9年ぶりだァ)に向かうとき、家の近所の氷川神社はお祭り。いっつも8月下旬にあるんだよな。神輿も出ていたけど、なんか雨天のせいもあり、もり下がっているように感じた。ヤフー路線をひいたら新副都心線で行けというので、梅雨どきに開通なった同線で池袋に向かったらガラガラ。地下渋谷駅の3番線も4番線も池袋方面となってて戸惑う、とともにどれに乗ると一番早くつくのかよく分からず(急行があって、それがやっかい。東横線渋谷駅の表示のようなものを欲した)、非常にとまどう。お知らせ表示もあるのかもしれぬが、パっと行った使用者が認知できなければ、それはないと同じなのだ。
 前に涼しいと書いたが、けっこうそのノリが続く。夜、窓を開けて寝ると風邪をひきそう。とはいえ、今日は日中かなり湿度が高かった。とともに、一時はけっこうな通り雨。夜中は激しい雷雨(各地で大きな被害が出たようだ)。来年はもっと不安定な天候模様になっていたりして。ともあれ、なんだかんだでかなり秋の気分にもなってきているが、また暑さはぶり返すはず(だよな?)。今年、冬までにやる事の筆頭は仕事場と寝室のエアコンを省エネ・タイプの最新式のものに換える事。なんちゃってエコなエアコンレス生活、来年できる自信がまったくないので。でも、それで粗大廃棄ブツを二セットも出すのは胸が痛むな。

 昼下がり、東銀座のCINEMART試写室で映画『ウォー・ダンス』を見る。ショーン・ファイン&アンドレア・ニックス・ファインというアメリカ人夫婦のドキュメンタリー映像チーム(ピーター・ゲイブリエルのリアル・ワールド関連映像にも関与したことがあるみたい)が監督した07年のノンフィクション映画で、撮影は05年になされているようだ。

 舞台は、東アフリカのウガンダ共和国。かつてのアミンの独裁政治で知られる同国は現在も政情が不安定で、とくに北部は反政府組織の活動が活発で、その組織が相当な横暴をしているんだそう。彼らは駒(兵士)をそろえるには子供を誘拐してきて充当すればいいという指針を取り(資金はどこから出ているんだろ?)、それに抵抗する親たちを殺しちゃったり、一家バラバラにしちゃったり。結果、その被害者たちの難民キャンプが北部には沢山あり、映画はそのなかの一つのキャンプにあるパトンゴ小学校の音楽&ダンス隊を素材にする。なんでも、ウガンダは毎年、小学校の代表チームによる芸能コンペチションを大々的に開いていて、映画は地域予選を勝ち抜いたパトンゴ小学校がその全国大会に臨む姿を追っている。沢山いる生徒たちのなか、どういう基準で代表のチームが組まれたかという説明はない。なお、反政府軍のテリトリー外の南部は平穏のようで、それによる南北格差はとってもあるようだ。

 ファイン夫婦はチームのなかから3人の生徒を選び、彼(女)らのモノローグを柱に話はすすめられる。それはちょいキザな設定と感じさせるが、語られる内容はとても悲惨。なかには、「兵士の命令で、一般人を撲殺した。これ、お母さんにも言ってない」なんて、カミングアウトも。その話はスワヒリ語だったり、英語だったり。ウガンダはもともと英国領で英語が公用語だとはこれを見て初めて知った(恥)。学校の授業は英語で進められるようだし、子供たちはどうやらバイリンガルなよう。なんにせよ、八方ふさがりのなか、彼らには受け継がれてきた音楽と踊りがあり、精進しつつ全国大会に向かって行く子供たちの姿をカメラは収める。

 そして、全国大会が始まる。子供たちはらはライフルを構えた政府軍兵士の護衛のもと、二日かけて首都のカンバラに向かう。審査されるパフォーマンスは器楽演奏や踊りや、西洋から持ち込まれた賛美歌合唱とか、何部門もあって何日もなされる。気が長いな。で、そのコンペチションの場面になるとがぜん興味深くなり、身を乗り出しちゃう。いろんな小学校の子供たちがいろんな格好で、部族に伝わる歌/演奏や踊りを披露する。詳しい人なら、これはどういう系統のものでとかすぐに分かるのかもしれないが、ぼくはよく分からない。でも、すごく興味深く、面白い。皆、すげえナと素直に思える。たとえば、親指ピアノや木琴や笛らによるパトンゴ小学校の演奏にちょっとした電気楽器音や明快なベース音的要素を加えれば、すぐに欧州で引っ張りだこになるんじゃないかとも思った。

 締めは、かなり映画的な結果を得てのもの。アフリカ諸国(なんて、大雑把な書き方は無神経すぎるが)の過酷さや音楽面での凄さなど、いろいろな事項を了解できること請け合い。見るかいはあります。

 それにしても、試写室はぎんぎんに冷房が効いていたな。身体が冷えて、外に出ても当分寒く感じてしょうがなかった。その後、表参道のいつもの店で髪をカット。後藤くん、いつも適切な仕事ぶり、ありがとう。そして、ゆったり渋谷まで歩いていく。そしたら、……。
 NHKの音頭とりで毎年やっているジャズ主体フェス、この日の昼の部(午後1時〜)はブルーノート東京のブッキングによるもので、順にロベン・フォード(1999年8月28日、2004年4月21日、2004年10月22日)、サム・ムーア(2006年11月14日)、紆余曲折のすえ奇跡的復活なったスライ&ザ・ファミリー・ストーンが出演。有楽町・東京国際フォーラムのホールA。

 フォードの演奏は音が悪かった。トリオという音数の少ないものなのに、なんかベールを1枚へだてて接している気持ちにも。多くの曲がブルースのコード進行の曲、一番印象に残ったのはフォードはけっこう格好がいいなということ。大御所ムーアの実演は前回見たときみたいな失禁しそうなくらいの感動はなかったが、やはり触れてありがたやーの得難いソウル・ショウ。前回もそうだったが、アフリカン・アメリカンをほとんど雇わないのは彼の流儀と言えるのか。本人を含め、総勢15人だったか。うち、ギタリストの刻みは完璧に近いものでびっくり。“サヴァイヴァー”による、この前なくなった(ムーアの出世グループ、サム&デイヴの最大後見人である)アイザック・ヘイズに関するコメントはなし。

 そして、混合ロッキン・ファンクの天才、スライ・ストーン。伝説というか、もう神話の域? ああ、まさかスライを日本で見れる日が来ようとは。感無量。始まる前、ステージ前に機材セッティングを見る人が前に集まったりして、他の出し物とは皆の期待値が違うぞという感じはあり。歓声もすごかった。

 バンドは、音楽監督役っぽいギター(少しキーボードも。トニー・イエーツという人)、キーボード2、女性ヴォーカル、ギター、ベース、ドラム、管3つ、という布陣。うち、昔からの関与者は妹のロージー・ストーン(kyd,vo)、シンシア・ロビンソン(tp)、ジェリー・マルティーニ(サックス)。それに、ロージーの娘(つまり、スライの姪)のリサ・バンクス(vo)も入れていいかな。彼女は70年代後半のスライ作にはすでに参加していた。

 「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」などが前説的に演奏されたあと、スライが登場。おおおおお。小柄な人なんだな。キンキラな格好で、変な髪型。頭はぜんぜん禿げてない。サングラスをかけたその様は、イカレてて危ない、少しやせたハービー・ハンコックという感じ。彼は中央のキーボードが置かれたところに座る。が、そんなにキーボードは弾かなかったかな。でも、歌は想像していた以上に歌った(目は伏し目がちという感じで)という印象が残ったし、思っていた以上に声も出ていたんじゃないか。もともと上手い人ではないしネ。特徴的な声のしゃくりあげ方なんかにも触れることができ、ぼくはポっ。丸椅子にちょこんと座った彼は演奏部のとき、すわったままくるくると意味もなく椅子ごと回ったりも。だが、2度ほど立ち上がり前に出てきて歌ったり、客を煽る場面もあった。

 やった曲は本当に本当に有名曲ばかり。「スライ・ストーンは、もうあちこちで流れていたからね……こちらが聞きたかろうがなかろうが。スライ・ストーンは誰もが聞いてきた、みんなの人生のサウンドトラックのようなものだった」とは、在NYの特殊プロデューサーであるキップ・ハンラハン(2000年1月12日、2001年5月15日、2003年8月9日)の弁。昨年、インタヴューしたときのものだが、まさしく本当にそう。

 で、さすがスライと思えたのは、誰もが知っている彼の有名曲をやるものの、<昔の名前で出ています>というのを拒否るかのように、どれも耳なじんだまんまのアレンジでやらずに、リズムのテンポや構築を変えたり、和音を換えたりとか、いろいろと策を労して、ひと味もふた味も変えていたこと。それ、けっこう難しい方向にも行くものであり、ときにノリにくかったり、まとまり悪く聞こえたりもしたが、それこそはツっぱった音楽家の矜持の発露というものだろう。個別の音を聞くと、各奏者たちはみんな腕は達者だ。

 一時は完全に人間辞めてた、元真性ハード・ジャンキーが入国できるのか。出来たとしてもステージにどのぐらいたつのか。なんて言われた彼だが、35分ぐらいステージ上にいてそれなりの存在感を出し(バンド演奏は1時間を超えた)たし、ぼくはおおいに満足。彼の輝ける功績やいろんな事情を知る人なら、それは皆そうだったのではないか。

 その後、有楽町・シネカノン2で、映画「アクロス・ザ・ユニバース」を見る。ザ・ビートルズの楽曲をいっぱい用い噛み合わせて、ストーリーを作ったアメリカ映画(2007年。ジュリー・テイモア監督)。主人公の名前はジュード(「ヘイ・ジュード」)で、相手役はルーシー(「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ア・ダイアモンド」)という。リタやセイデイやプルーデンスも出てきた。あ、そう書くとなんか安っぽい? それにしても、曲名のオフィシャルな日本語表記は「アクロス・ザ・ユニヴァース」なのに、どうしてわざわざ「アクロス・ザ・ユニバース」とするのだろう? 違和感、大アリ。映画のほうの人たちは、そんなに<う濁点>が嫌いなのかな。

 時代はザ・ビートルズが誕生し、解散した60年代。もう少しはっきり書くなら、67〜68年のグリニッジヴィレッジが舞台。リヴァプールに住む労働者階級の青年がアメリカに行き、知己を得てNYに居住しての周辺事情、恋愛模様を綴った映画だ。ミュージカル映画という言い方もされているようだが、映画「トミー」もそうなら、まあそう言えるのかな。普通の台詞の部分の方が多いが、重要場面や転換期では主人公たちがザ・ビートルズ曲(30曲強が登場。一部は台詞にも引用されるか)を歌う。そういえば、曲から得た映像の飛躍の様は映画「トミー」におけるケン・ラッセル監督のやり方を思い出させるところはあるかも。

 歌詞からの映像の飛躍のさせ方で一番感心したのは、主人公の親友が軍隊に入るシーンで使われる「アイ・ウォント・ユー」。ザ・ビートルズはこの曲をどろどろした只のヘヴィなラヴ・ソングとして作ったはずだが、ここでは執拗に繰り返される“アイ・ウォント・ユー”という歌詞を、かつて米国が兵士募集のポスターに用いていた大キャッチ“(Uncle Sam )I Want You”にかけ、同曲の“She’s So Heavy”というリフレインのときには兵士たちにアメリカの象徴である自由の女神を背負わせるという方策を取る。ほう。そういえば、そのアンクル・サムが指を突き出して兵士を勧誘する“Uncle Sam Wants You”ポスターを茶化して、若者をファンクの世界に誘う“Uncle Jam Wants You”キャンペーンを張ったのが、79年に同名作をリリースしたジョージ・クリントン/ファンカデリックだった。ちなみにジョージ・クリントンは80年代初頭にスライ・ストーンに手を差し出したりしましたね(その後、クリントン帝国にも翳りが出て、90年前後に助け舟をだしたのがプリンス。そして、プリンスの最大の影響源がスライ……。ああ、これぞワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ! ファンクの輪、の法則なり)。

 話は飛んだが、ザ・ビートルズの曲を材料に進められる映画の描かんとする事はあの頃が”揺れる”サイケの時代であり、”青い”反抗の時代であったということだ。ロックはまぎれもなくカウンター・カルチャーなり。体験がないぼくでも、CG応用(と思ふ)で映し出される60年代後半のグリニッジヴィレッジの様子は本当に甘酸っぱく感じる。なるほど、ある意味、この映画は米国リベラル版「三丁目の夕日」なのかもしれない(って、見てないけど)。

 それから、これが肝心なのだが、劇中に出てくるザ・ビートルズの再演曲はどれもまっとう。いや、びっくりするぐらいに良く出来ている。エンドロールによれば、それらはT・ボーン・バーネットたちが関与し、インタースコープからサントラ盤が出ているようだ。また、映画にはU2のボーノ(2006年12月4日)やジョー・コッカーなども参加。ちゃらい部分も少しはあるが、よく練られ、お金と手間もちゃんとかけられているとぼくは大きく頷いた。

 結論。そんなに話題になっているという感じはない(この日見たのは、もうすぐ公開が終わると聞いたから。実際、日曜なのに入りは半分以下……)が、とっても良かった。映画終了後、拍手がおきてもいいのに。かなり秀逸な、ロック映画です。

 先に触れた主人公の友人が徴兵されたのは、彼がアイビー・リーグをドロップ・アウトしたため。当時のアメリカの徴兵は大学に行ってると免除になったんだよね。以下は、かつてアート・リンゼイ(1953年、米国生まれ。1999年12月9日、2002年9月9日、2004年11月21日)が言っていたことの乱暴な要約だ。

 子供のときに牧師をしている父親についてブラジルに渡ったものの、彼が高校を出たころはぎりぎりでまだ徴兵制度(くじ引きだったそう)が残っていて、それを回避するため(市民権はアメリカに残していたのだろう)に大学に行く事にし、なんか格好良さそうということで、彼はNYの大学を選んだのだとか。そして、そこで目の当たりにしたのが当時のパンク/ニューウェイヴのムーヴメント、ブラジル育ちの純真なリンゼイ青年はそれにみせられ、楽器は一切できなかったものの、その流れに身を投じることとなる。で、彼はノー・チューニングによるパーカッシヴなギター奏法(音楽界のマルセル・デュシャン、と言ったのは故・生田朗さんだったか)のもと、DNA、ザ・ラウンジ・リザーズ、アンビシャス・ラヴァーズと移りつつ聞き手を魅了し、自由な発想でデイヴィッド・バーンやカエターノ・ヴェローゾらを手がけるプロデューサーとしてもおおいにエスタブリッシュされてしまったわけだ。で、徴兵制がなかったら、音楽の道に進んでいなかったかも、とは本人も思うところなのでした。