COVID-19 ワクチン3回目摂取翌日、わりとふつー。体温36度代。ダルいけど、それは寝不足からくるか。昼寝したらそれもなくなり、腕の痛みも同様に消えている。とはいえ、副反応が出たときを想定し腑抜けな時間を過ごすのダと決めていたので、その金曜から土曜にかけて音楽ドキュメンタリー映画3本のオン・ライン試写を寝っ転がりながら、ゆるーりと見た。それぞれ4月下旬以降、順次新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかで公開される。以下、作品ごとに感想を記す。
+2019年オーストラリア映画『スージーQ』(原題:Suzi Q)
ロック・シンガー/ベーシストであるスージー・クアトロ(1950年生まれ)のドキュメンタリー映画だ。ぼくは彼女がブギーっぽいシャッフル・ビートの最初のヒット曲「キャン・ザ・キャン」(1973年)のリアル・タイム経験組で、当時のトレードマークであるレイザーのジャンプスーツ姿のこともよく覚えている。当初は少しアイドル調ながら、ストレートなビート・バンドという風情もあった。だが、エアチェックはしていたものの彼女のレコードを購買したことはなく……。そして、映画を見たらぼくの知らないことばかりで驚いた。
英国人大物プロデューサーでありミッキー・モスト(アニマルズ、他。息子はジョニー・ヘイツ・ジャズのメンバーだった)の手により、彼のRAKレコードから送り出され、ちょうどスレイドやスウィートといったバンドたちと重なるような感じで日本には届けられたので、ぼくは今まで彼女のことを英国人だとばかり思っていた。そしたら、彼女はデトロイトっ娘。モストに認められ20歳でロンドンに渡り、その後スターダムにのるというキャリアであったのか。
知らないと言えば、彼女は音楽一家の育ちで姉妹たちときっちり演奏もするガールズ・グループを組んで海外公演などもしており、英国デビュー前の経験も豊富であった。実際、曲はあまり書かないが、指弾きのベース演奏は実にこなれているよなあ。そして、姉妹のなか彼女だけがモストに一本釣りされたのだった。姉妹たちも証言者と出てくるが、おばあちゃんになった姉は上品でより綺麗だ。成功後も彼女はロンドンに住み続け、ミュージカル出演や女優もするようにもなり、そちらでも評価を受けているのも初めて知った。この映画がオーストラリア映画なのは、彼女が豪州で多大な人気を持ち続けているからのよう。
まず映画が語るのは、彼女が女性ロッカーの先駆者であるということ。ジョーン・ジェットやシェリー・カーリーらザ・ランナウェイズのメンバーたち、デボラ・ハリー(2006年9月7日)、ティナ・ウェイマス(2013年5月21日。横にはクルス・フランツも座る)、KTタンストール(2006年7月31日)ら、後続の女性アーティストたちの発言映像が出てくるとともに、男性では一緒に全米ツアーをやったアリス・クーパー、そしてフィッシュボーン(2000年7月28日、2007年4月5日、2007年4月6日、2009年11月25日、2010年7月31日、2011年8月8日、2013年6月3日)のベーシストであるノーウッド・フィッシャーも出てくる。おお、スージー・クアトロは至高のブラック・ロック・バンド結成者をも感化していたのか。当然、本人の複数ソースの近年の発言映像も随時入る。
彼女は2度結婚し、二人目の旦那さんとは円満なよう。最初の夫(バンドのギタリストのレン・タッキー)とは2児を得た。その第二子たる長男のリチャードはギタリストをしていて、直近の彼女のアルバム作りに貢献している。おお、彼女は大関酒造のTVコマーシャルに出たこともあったのか。
そしてこの映画から、スーコー・クアトロがとても真っ当な人間性、価値観の持ち主であることが浮かび上がり、それが気持ちいい。最初はなんかまとめ方が生理的に軽いかと思っていたが、彼女の正の部分がどんどん像を結び、そういう思いも散った。このドキュメンタリー映画を見て良かったともしっかり思い、今度1枚ぐらいは彼女のアナログを落としてもいいかなという思いも得たかな。
バンドのなかに一人女性がいるとしたら、それはベーシストが多い。そのことは間違いなく言える。それは、小さな(身長は低かったよう)彼女が1970年代に巻いた種がずっと連鎖している部分があるはずだ。
▶︎過去の、デボラ・ハリー/ブロンディ
https://43142.diarynote.jp/200609101412280000/
▶︎過去の、ティナ・ウェイマス/トム・トム・クラブ
https://43142.diarynote.jp/201305260927026044/
▶︎過去の、KTタンストール
https://43142.diarynote.jp/200608011102210000/
▶過去の、フィッシュボーン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-10.htm
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/ 豪バイロン・ベイ
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/ 豪ベイロン・ベイ
http://43142.diarynote.jp/200911281704335025/ アンジェロ単独
http://43142.diarynote.jp/?day=20100731 フジ・ロック
http://43142.diarynote.jp/201108101638376353/
http://43142.diarynote.jp/201306060729285922/
+2019年米国映画『リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス(原題:Linda Ronstadt: The Sound of My Voice)』
1970年から20年強ものあいだ米国ロック界のトップに君臨した、国民的歌手という呼称が間違いなく当てはまる女性シンガー(1946年生まれ)の軌跡と功績を伝える映画だ。豊富なマテリアルを、本人の回顧発言を柱にきっちりと組み合わせ、がっつり語っている。
ロンシュタットというとたぬき顔という印象をぼくは持つが、メキシコの血が入っているのか。スージー・クアトロと同じく、彼女も音楽好きの家庭に育ち、姉や兄と音楽を始めている。ハイティーンのとき、生まれたアリゾナ州トゥーソンの音楽仲間の誘いを受けてロサンゼルスへ向かう。そこから、喉を武器にする成功譚が始まる。彼女は曲を書かない人だが、オリジナルと彼女のヴァージョンが何曲かクロスさせて紹介され、それはとても分かりやすく彼女の美点を伝える。
深い関係にあったというJ.D.サウザー、プロデューサー/マネージャーの英国人ピーター・アッシャー(アップル・レコードのA&Rをしていたときに、同社からジェイムズ・テイラーをデビューさせた。そして、JTに惚れ込み、渡米。ロンシュタットにも関与するようになる)、ライ・クーダー(2009年11月5日)、ドン・ヘンリー(2011年3月5日)、ジャクソン・ブラウン(2003年5月2日)、ワディ・ワクテル(2018年6月16日、2020年2月11日)、デイヴィッド・ゲフィン、ボニー・レイット(2007年4月6日)、エミルー・ハリス(白髪のおばあちゃんになっても綺麗)、ドリー・パートン、カーラ・ボノフ、デュエット曲を歌いグラミー賞を一緒に受賞したアーロン・ネヴィル(2004 年9月18日、2012年5月14日)など、証言映像登場者たちが豪華。その顔ぶれと発言で、ロンシュタットが本当に同業者たちから愛されていたことが分かる。ボノフは男性優位の世界だったので女性はみんな仲が良かったというような話もするか。
開けっぴろげな物言いもあって、ボニ-・レイットはあの頃みんなキメてたという率直な発言もする。ロンシュタットも一時は同様で、ダイエットをかねて服用していたそうだ。いろいろと歌うシーンは当然出てくるが、やはり張りと潤いのある歌一本でシーンを渡っていた人物であるのが分かる。とともに、カントリー、ロック、オペラ、ジャズ・スタンダード、ルーツにあるメキシコ音楽など、好奇心旺盛に様々な表現に臨み、かつ成功を収めて評価を高めたタレントであることも鮮やかに出される。
彼女は1970年代半ばに、カリフォルニア州知事で民主党の大統領候補にもなったイケ面エリート政治家であるジェリー・ブラウンと大々的に交際するが、それはメルローズ・アヴェニューのレストランで両者が出会い、見初められたからだそう。その後、彼女はジム・キャリーやジョージ・ルーカスなどとも浮名を流すが、独身を貫いた。養子を二人取っている。
ぼくは彼女の『ハミン・トゥ・マイセルフ』(ヴァーヴ、2004年)の日本盤のタイナーノーツを書いたことがあったが、それがその歌手キャリアの最終作となったのか。彼女はパーキンソン病を患いちゃんと歌えなくなってしまい、後にきっちり引退していたとことを、これを見て知った。頭と最後には、現在の彼女の姿も出される。でも、悲壮感はゼロ。それは彼女がちゃんとやりたいことをやり、多大な人気を得たことが大きいか。とともに、彼女が純に歌うことを愛し、音楽の女神がそれに十全に答えたことが映画で示されるからであると思う。
よくできたこの作品を監督しているのは、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を2回受賞しているというロブ・エプスタインと彼のパートナーのジェフリー・フリードマン。本作は、グラミー賞最優秀音楽映画賞にも輝いた。
▶︎過去の、ライ・クーダー
http://43142.diarynote.jp/200911071134384805/
▶︎過去の、ドン・ヘンリー/イーグルズ
https://43142.diarynote.jp/201103091707591166/
▶過去の、ジャクソン・ブラウン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-5.htm 5.02
▶過去の、ボニー・レイット
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶︎過去の、ワディ・ワクテル
https://43142.diarynote.jp/201806170617395286/
https://43142.diarynote.jp/202002120812258847/
▶過去の、アーロン・ネヴィル
http://43142.diarynote.jp/200410121001170000/
http://43142.diarynote.jp/201205221056242128/
+2020年映画『ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック(原題:Laurel Canyon A Place In Time)』
オーストラリア出身でいくついものドキュメンタリー作品を作っているそうなアリソン・エルウッドが監督しており、最後にスティーヴン・スピルバーグの映画制作会社アムブリンのロゴや、ここに登場するアーティストの権利を数多く現在持つワーナーのロゴも出てくる。だが、ネットを引いてもこの作品の情報があまりヒットしないのは謎で、本国では劇場公開/DVD発売はなされていないのかな。ペイTVで二つに分けて放映されたほか、有料ストリーミンングで公開されたようだ。
オープニングでかかるのは、ザ・タートルズの1967年全米1位曲「ハッピー・トゥゲザー」。以後、よく集めたナという映像や写真、証言などが組み合わされる。様々な担い手の発言はあのころのイメージを尊重するためか、基本音声だけで出される(かな?)。当時のシーンに密接に関わっていた写真家二人の思い出話は現在の姿とともに紹介される。表題にあるローレル・キャニオンとはハリウッドからくねった山道を越えた先にある地域の名称で、映画は1960年代中ごろから約10年の間、そこに住んでいたミュージシャンやその音楽を紹介する。ミュージシャンたちが集まったのは賃料が高くなく、丘陵地に家が点在していたため音を出しやすいという利点もあったろう。多くの音楽家志望の若者がそこに住み、ドラッグとセックスと音楽に明け暮れたという。
紹介される担い手はザ・バーズ、バッファロー・スプリングフィールド、ザ・ドアーズ、ザ・ママズ&ザ・パパズ(解散後のメンバーのキャス・エリオットも)、ジョニ・ミッチェル、CSN&Y、ジャクソン・ブラウン、ザ・フライング・ブリトー・ブラザーズ、リンダ・ロンシュタット、イーグルズ、などなど。その周辺のミュージシャンたちをマネイジメントたりアサイラムというレーベルを起こした、エリオット・ロバーツやデイヴィッド・ゲフィンも俎上にあがる。
当時、モンタレー・ポップ・フェスティヴァル(1967年)、ウッドストック・フェスティヴァル(1969年)、オルタモント・フリー・コンサート(1969年)なども開かれ音楽とリンクする若者の意識高揚の時代であったことも示されるが、ローレル・キャニオンの住人たちは比較的ノンポリで快楽的であったと示唆されると感じたのは気のせいか。1969年に女優のシャロン・テイトらが殺害されたチャールズ・マンソン・ファミリーが起こした事件の舞台もローレル・キャニオンに近かったようだ。その屋敷を、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(2002年7月28日、2002年11月2日、2007年6月5日)は『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』(ワーナー・ブラザーズ、1991年)の録音場所に用いたんだっけ?
ありし日のロサンゼルスの風景が、いろいろと紡がれる。蜃気楼のごとく、と書いても語弊はないか。当時のハリウッドの街角の映像は甘酸っぱい。ウェスト・ハリウッドにあったトルヴァドールがそうしたキャニオンの住人たちの最たる出演場所で、先のロンシュタット映画と少し重なる部分もある。ロンシュタットが歌うとヒットするので、周辺の面々は彼女に曲を書きたがったという発言も出てきた。ともあれ、ここからスターが次々生まれ、面々はライヴ・クラブではなくアリーナでライヴをするようになり、収入を得て他の場所に散っていった。と、映画は伝える。ロンシュタットは1980年代にLAから離れ、サンフランシスコとトゥーソンに拠点を置いたようだ。あと、リトル・リチャードと一部の住人たちが交友を持っていたことが紹介されるのは興味深かかっった。
なお、音楽舞台としてのローレル・キャニオンを扱ったドキュメンタリーには、2018年米国国映画『Echo in the Canyon 』という作品もある。また、今はしまったコンコードのヴェンチャー・レーベル”ヒア・ミュージック”から、トルバドールに集う往年の自作自演派たちを題材におくドキュメンタリー『Troubadours : The Rise Of The Singer Songwriter』も2011年に出されたこともあった。
▶︎過去の、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
http://43142.diarynote.jp/200706061354020000/
▶︎過去の、チャールズ・マンソン事件を盛り込んだタランティーノの60年代のLAを描いた映画
https://43142.diarynote.jp/201910081218288479/
▶︎過去の、リトル・リチャードの訃報
https://43142.diarynote.jp/?day=20200510
<今日の、定点観測>
のんびり。ぼうっと、バルコニー越しに外を眺める。50メートル先の遊歩道を歩く人たちを見下ろしつつ、天候も確認する。結構その広がりある光景、好きなんだよな。あれれ、昔は遠くに首都高も確認でき、今日は渋滞が激しいなとか認めたりしていたのだが、今はそれが見えないことに気づいた。いつの間にかビルが立ったのだろうか。かように、環境はいつの間にか変わっていく。
+2019年オーストラリア映画『スージーQ』(原題:Suzi Q)
ロック・シンガー/ベーシストであるスージー・クアトロ(1950年生まれ)のドキュメンタリー映画だ。ぼくは彼女がブギーっぽいシャッフル・ビートの最初のヒット曲「キャン・ザ・キャン」(1973年)のリアル・タイム経験組で、当時のトレードマークであるレイザーのジャンプスーツ姿のこともよく覚えている。当初は少しアイドル調ながら、ストレートなビート・バンドという風情もあった。だが、エアチェックはしていたものの彼女のレコードを購買したことはなく……。そして、映画を見たらぼくの知らないことばかりで驚いた。
英国人大物プロデューサーでありミッキー・モスト(アニマルズ、他。息子はジョニー・ヘイツ・ジャズのメンバーだった)の手により、彼のRAKレコードから送り出され、ちょうどスレイドやスウィートといったバンドたちと重なるような感じで日本には届けられたので、ぼくは今まで彼女のことを英国人だとばかり思っていた。そしたら、彼女はデトロイトっ娘。モストに認められ20歳でロンドンに渡り、その後スターダムにのるというキャリアであったのか。
知らないと言えば、彼女は音楽一家の育ちで姉妹たちときっちり演奏もするガールズ・グループを組んで海外公演などもしており、英国デビュー前の経験も豊富であった。実際、曲はあまり書かないが、指弾きのベース演奏は実にこなれているよなあ。そして、姉妹のなか彼女だけがモストに一本釣りされたのだった。姉妹たちも証言者と出てくるが、おばあちゃんになった姉は上品でより綺麗だ。成功後も彼女はロンドンに住み続け、ミュージカル出演や女優もするようにもなり、そちらでも評価を受けているのも初めて知った。この映画がオーストラリア映画なのは、彼女が豪州で多大な人気を持ち続けているからのよう。
まず映画が語るのは、彼女が女性ロッカーの先駆者であるということ。ジョーン・ジェットやシェリー・カーリーらザ・ランナウェイズのメンバーたち、デボラ・ハリー(2006年9月7日)、ティナ・ウェイマス(2013年5月21日。横にはクルス・フランツも座る)、KTタンストール(2006年7月31日)ら、後続の女性アーティストたちの発言映像が出てくるとともに、男性では一緒に全米ツアーをやったアリス・クーパー、そしてフィッシュボーン(2000年7月28日、2007年4月5日、2007年4月6日、2009年11月25日、2010年7月31日、2011年8月8日、2013年6月3日)のベーシストであるノーウッド・フィッシャーも出てくる。おお、スージー・クアトロは至高のブラック・ロック・バンド結成者をも感化していたのか。当然、本人の複数ソースの近年の発言映像も随時入る。
彼女は2度結婚し、二人目の旦那さんとは円満なよう。最初の夫(バンドのギタリストのレン・タッキー)とは2児を得た。その第二子たる長男のリチャードはギタリストをしていて、直近の彼女のアルバム作りに貢献している。おお、彼女は大関酒造のTVコマーシャルに出たこともあったのか。
そしてこの映画から、スーコー・クアトロがとても真っ当な人間性、価値観の持ち主であることが浮かび上がり、それが気持ちいい。最初はなんかまとめ方が生理的に軽いかと思っていたが、彼女の正の部分がどんどん像を結び、そういう思いも散った。このドキュメンタリー映画を見て良かったともしっかり思い、今度1枚ぐらいは彼女のアナログを落としてもいいかなという思いも得たかな。
バンドのなかに一人女性がいるとしたら、それはベーシストが多い。そのことは間違いなく言える。それは、小さな(身長は低かったよう)彼女が1970年代に巻いた種がずっと連鎖している部分があるはずだ。
▶︎過去の、デボラ・ハリー/ブロンディ
https://43142.diarynote.jp/200609101412280000/
▶︎過去の、ティナ・ウェイマス/トム・トム・クラブ
https://43142.diarynote.jp/201305260927026044/
▶︎過去の、KTタンストール
https://43142.diarynote.jp/200608011102210000/
▶過去の、フィッシュボーン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-10.htm
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/ 豪バイロン・ベイ
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/ 豪ベイロン・ベイ
http://43142.diarynote.jp/200911281704335025/ アンジェロ単独
http://43142.diarynote.jp/?day=20100731 フジ・ロック
http://43142.diarynote.jp/201108101638376353/
http://43142.diarynote.jp/201306060729285922/
+2019年米国映画『リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス(原題:Linda Ronstadt: The Sound of My Voice)』
1970年から20年強ものあいだ米国ロック界のトップに君臨した、国民的歌手という呼称が間違いなく当てはまる女性シンガー(1946年生まれ)の軌跡と功績を伝える映画だ。豊富なマテリアルを、本人の回顧発言を柱にきっちりと組み合わせ、がっつり語っている。
ロンシュタットというとたぬき顔という印象をぼくは持つが、メキシコの血が入っているのか。スージー・クアトロと同じく、彼女も音楽好きの家庭に育ち、姉や兄と音楽を始めている。ハイティーンのとき、生まれたアリゾナ州トゥーソンの音楽仲間の誘いを受けてロサンゼルスへ向かう。そこから、喉を武器にする成功譚が始まる。彼女は曲を書かない人だが、オリジナルと彼女のヴァージョンが何曲かクロスさせて紹介され、それはとても分かりやすく彼女の美点を伝える。
深い関係にあったというJ.D.サウザー、プロデューサー/マネージャーの英国人ピーター・アッシャー(アップル・レコードのA&Rをしていたときに、同社からジェイムズ・テイラーをデビューさせた。そして、JTに惚れ込み、渡米。ロンシュタットにも関与するようになる)、ライ・クーダー(2009年11月5日)、ドン・ヘンリー(2011年3月5日)、ジャクソン・ブラウン(2003年5月2日)、ワディ・ワクテル(2018年6月16日、2020年2月11日)、デイヴィッド・ゲフィン、ボニー・レイット(2007年4月6日)、エミルー・ハリス(白髪のおばあちゃんになっても綺麗)、ドリー・パートン、カーラ・ボノフ、デュエット曲を歌いグラミー賞を一緒に受賞したアーロン・ネヴィル(2004 年9月18日、2012年5月14日)など、証言映像登場者たちが豪華。その顔ぶれと発言で、ロンシュタットが本当に同業者たちから愛されていたことが分かる。ボノフは男性優位の世界だったので女性はみんな仲が良かったというような話もするか。
開けっぴろげな物言いもあって、ボニ-・レイットはあの頃みんなキメてたという率直な発言もする。ロンシュタットも一時は同様で、ダイエットをかねて服用していたそうだ。いろいろと歌うシーンは当然出てくるが、やはり張りと潤いのある歌一本でシーンを渡っていた人物であるのが分かる。とともに、カントリー、ロック、オペラ、ジャズ・スタンダード、ルーツにあるメキシコ音楽など、好奇心旺盛に様々な表現に臨み、かつ成功を収めて評価を高めたタレントであることも鮮やかに出される。
彼女は1970年代半ばに、カリフォルニア州知事で民主党の大統領候補にもなったイケ面エリート政治家であるジェリー・ブラウンと大々的に交際するが、それはメルローズ・アヴェニューのレストランで両者が出会い、見初められたからだそう。その後、彼女はジム・キャリーやジョージ・ルーカスなどとも浮名を流すが、独身を貫いた。養子を二人取っている。
ぼくは彼女の『ハミン・トゥ・マイセルフ』(ヴァーヴ、2004年)の日本盤のタイナーノーツを書いたことがあったが、それがその歌手キャリアの最終作となったのか。彼女はパーキンソン病を患いちゃんと歌えなくなってしまい、後にきっちり引退していたとことを、これを見て知った。頭と最後には、現在の彼女の姿も出される。でも、悲壮感はゼロ。それは彼女がちゃんとやりたいことをやり、多大な人気を得たことが大きいか。とともに、彼女が純に歌うことを愛し、音楽の女神がそれに十全に答えたことが映画で示されるからであると思う。
よくできたこの作品を監督しているのは、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を2回受賞しているというロブ・エプスタインと彼のパートナーのジェフリー・フリードマン。本作は、グラミー賞最優秀音楽映画賞にも輝いた。
▶︎過去の、ライ・クーダー
http://43142.diarynote.jp/200911071134384805/
▶︎過去の、ドン・ヘンリー/イーグルズ
https://43142.diarynote.jp/201103091707591166/
▶過去の、ジャクソン・ブラウン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-5.htm 5.02
▶過去の、ボニー・レイット
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶︎過去の、ワディ・ワクテル
https://43142.diarynote.jp/201806170617395286/
https://43142.diarynote.jp/202002120812258847/
▶過去の、アーロン・ネヴィル
http://43142.diarynote.jp/200410121001170000/
http://43142.diarynote.jp/201205221056242128/
+2020年映画『ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック(原題:Laurel Canyon A Place In Time)』
オーストラリア出身でいくついものドキュメンタリー作品を作っているそうなアリソン・エルウッドが監督しており、最後にスティーヴン・スピルバーグの映画制作会社アムブリンのロゴや、ここに登場するアーティストの権利を数多く現在持つワーナーのロゴも出てくる。だが、ネットを引いてもこの作品の情報があまりヒットしないのは謎で、本国では劇場公開/DVD発売はなされていないのかな。ペイTVで二つに分けて放映されたほか、有料ストリーミンングで公開されたようだ。
オープニングでかかるのは、ザ・タートルズの1967年全米1位曲「ハッピー・トゥゲザー」。以後、よく集めたナという映像や写真、証言などが組み合わされる。様々な担い手の発言はあのころのイメージを尊重するためか、基本音声だけで出される(かな?)。当時のシーンに密接に関わっていた写真家二人の思い出話は現在の姿とともに紹介される。表題にあるローレル・キャニオンとはハリウッドからくねった山道を越えた先にある地域の名称で、映画は1960年代中ごろから約10年の間、そこに住んでいたミュージシャンやその音楽を紹介する。ミュージシャンたちが集まったのは賃料が高くなく、丘陵地に家が点在していたため音を出しやすいという利点もあったろう。多くの音楽家志望の若者がそこに住み、ドラッグとセックスと音楽に明け暮れたという。
紹介される担い手はザ・バーズ、バッファロー・スプリングフィールド、ザ・ドアーズ、ザ・ママズ&ザ・パパズ(解散後のメンバーのキャス・エリオットも)、ジョニ・ミッチェル、CSN&Y、ジャクソン・ブラウン、ザ・フライング・ブリトー・ブラザーズ、リンダ・ロンシュタット、イーグルズ、などなど。その周辺のミュージシャンたちをマネイジメントたりアサイラムというレーベルを起こした、エリオット・ロバーツやデイヴィッド・ゲフィンも俎上にあがる。
当時、モンタレー・ポップ・フェスティヴァル(1967年)、ウッドストック・フェスティヴァル(1969年)、オルタモント・フリー・コンサート(1969年)なども開かれ音楽とリンクする若者の意識高揚の時代であったことも示されるが、ローレル・キャニオンの住人たちは比較的ノンポリで快楽的であったと示唆されると感じたのは気のせいか。1969年に女優のシャロン・テイトらが殺害されたチャールズ・マンソン・ファミリーが起こした事件の舞台もローレル・キャニオンに近かったようだ。その屋敷を、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(2002年7月28日、2002年11月2日、2007年6月5日)は『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』(ワーナー・ブラザーズ、1991年)の録音場所に用いたんだっけ?
ありし日のロサンゼルスの風景が、いろいろと紡がれる。蜃気楼のごとく、と書いても語弊はないか。当時のハリウッドの街角の映像は甘酸っぱい。ウェスト・ハリウッドにあったトルヴァドールがそうしたキャニオンの住人たちの最たる出演場所で、先のロンシュタット映画と少し重なる部分もある。ロンシュタットが歌うとヒットするので、周辺の面々は彼女に曲を書きたがったという発言も出てきた。ともあれ、ここからスターが次々生まれ、面々はライヴ・クラブではなくアリーナでライヴをするようになり、収入を得て他の場所に散っていった。と、映画は伝える。ロンシュタットは1980年代にLAから離れ、サンフランシスコとトゥーソンに拠点を置いたようだ。あと、リトル・リチャードと一部の住人たちが交友を持っていたことが紹介されるのは興味深かかっった。
なお、音楽舞台としてのローレル・キャニオンを扱ったドキュメンタリーには、2018年米国国映画『Echo in the Canyon 』という作品もある。また、今はしまったコンコードのヴェンチャー・レーベル”ヒア・ミュージック”から、トルバドールに集う往年の自作自演派たちを題材におくドキュメンタリー『Troubadours : The Rise Of The Singer Songwriter』も2011年に出されたこともあった。
▶︎過去の、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
http://43142.diarynote.jp/200706061354020000/
▶︎過去の、チャールズ・マンソン事件を盛り込んだタランティーノの60年代のLAを描いた映画
https://43142.diarynote.jp/201910081218288479/
▶︎過去の、リトル・リチャードの訃報
https://43142.diarynote.jp/?day=20200510
<今日の、定点観測>
のんびり。ぼうっと、バルコニー越しに外を眺める。50メートル先の遊歩道を歩く人たちを見下ろしつつ、天候も確認する。結構その広がりある光景、好きなんだよな。あれれ、昔は遠くに首都高も確認でき、今日は渋滞が激しいなとか認めたりしていたのだが、今はそれが見えないことに気づいた。いつの間にかビルが立ったのだろうか。かように、環境はいつの間にか変わっていく。
映画『アメイジング・グレイス』。映画『リスペクト』
2022年2月17日 音楽 目黒シネマで、アリサ・フランクリン絡みの映画を2本見る。10時半から15時近くまで。このラインアップ上映、今週だけのよう。目黒シネマは駅近くの100席の映画館。いわゆる名画座で、旧作2本を続けて見れちゃう。そして、新作封切り館よりも安価に入場できる。この映画館に来るのも初めてとなるが、名画座に行くなんていつ以来だろう。浪人や大学生の頃は、渋谷・全線座、高田馬場・早稲田松竹、飯田橋・ギンレイホールなどの名画座にはたまに行ったりしたが。ともあれ、とっても便利な場所の地下にあるこの映画館はスクリーンの大きさには限度があるが、歴史はありそうなもののリニューアルもされているようで、普通に悪くない。上映前に録音された監督や出演者たちのデーターの朗読が流されるというのも、妙な風情というか映画愛のようなものを感じさせるな。最寄駅にあれば、通っちゃう?
まず見たのは、2018 年アメリカ映画の『アメイジング・グレイス(原題:Amazing Grace)』。1972年1月13日と14日、一度原点に戻りたいというフランクリンの強い要望のもとロサンゼルスの教会で録られた同名のライヴ・アルバム(実はフランクリンのアルバムで一番のセールスを持つというのは本当か?)と同じソースの映像版だ。アトランティックのジェリー“非道なところ大あり”ウェクスラーが映画も撮るならと、ゴー・サインを出したプロジェクト。だが、シドニー・ポラックが監督したものの、画像と音が同期できずにお蔵入り。その後、アラン・エリオット監督により90分弱の映画としてまとめられたが、フランクリンは撮影陣に対する良くない印象も持つなど頑としてOKを出さず、死後に公開されたという経緯を持つ。
DAY1とDAY2に半分づつ分けてライヴの模様を紹介するこの映画(2日目のほうが、カメラ・ワークが少しワイルドになる)をぼくは2019年秋に国際線の機内で見ているが、飲みまくり&小さな画面&字幕なし&プアな音での印象とはやっぱり異なる思いを得た。フランクリンとは付き合いの長いジェイムズ・クリーヴランド牧師(やっぱり、語りはうまいなあ)率いる南カリフォルニア・コミュニティ・クワイアーとアフリカン・アメリカンの拠り所である積み重ねを自然に開くような絡みに、コーネル・デュプリー(2002年6月25日、2010年8月31日)やバーナード・パーディ(2006年7月26日、2012年6月19日)らのバンド音がつく。やっぱり、ヒストリカルな実演を伝えてくれ、貴重ではある。ほぼパフォーマンスの模様を捉えた映像のみで、もう少しその裏側を教えるものがあったならとは思えた。やっぱし、あまりフランクリン側と撮影陣のリレイションが取られていなかったんだろうな。
会場となったザ・ニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会はそれなりに広く、客席配置は劇場のよう。特に1日目の客は黒人だけ、どういう人たちが来ていたのだろう。DAY2での客席にいるミック・ジャガーの喜び方に触れると、ストーンズ(2003年3月15日)は信頼できると思ってしまう。アフロ・ヘアーの人が散見されるのは、あの時代ならではだ。なお、クワイアーをファンキーかつ颯爽と指揮するアレキサンダー・ハミルトン(映画にも後姿を中心にけっこう映る)はこの1月28日に、77歳で亡くなってしまった。Rev.とDr.の呼称を得た彼は、コーラス関連でエタ・ジェイムズ、シカゴ(2010年2月19日)、グラディ・ナイト&ピップスら非ゴスペルの人たちの表現にも関与した。もし、この映画が予定通り公開されていたら、いい感じで映っている彼の人生は少し違っていたかもしれない。
続く2本目は、2021年米国映画『リスペクト(原題:Respect)』。昨年公開されたジェニファー・ハドソンがフランクリン役を演じるこの伝記映画をぼくは未見だった。それは、米ナショナル・グラフィック・チャンネルの実写伝記たる“Genius”シリーズとして2021年にアリサ・ブランリン編が全8話で公開され、きっちり作られたそちらを見てお腹いっぱいという心持ちを得たしまったからだった。そこ(こちらでフランクリンを演じるのは、英国人俳優/シンガーのシンシア・エリヴォだ)には誘惑に弱くローティーンで妊娠もしてしまう彼女と、俗物牧師たる父親、ダメ夫、姉妹、黒人が成功することを良しとしない白いアメリカ社会などとの軋轢が、多大な才能や数々の栄光と隣り合わせで描かれていて、さらに映画でそういう負の側面を見せられるのはちょっと……と、ヤワなぼくは思ってしまったからだった。とはいえ、今回は条件が重なり、これは見なさいと言われた気持ちになったナリ。
エラ・フィッツジェラルトらいろいろな音楽スターもいるリッチなホーム・パーティのシーンから始まるが、そこで流れるのはストライド・ピアノ調の調べ。お、音楽はクリス・バワーズ(2014年7月27日)か。先のナショナル・ジオグラフィック版のほうの挿入音楽はテレンス・ブランチャード(2002年7月3日、2005年8月21日、2009年3月26日、2013年8月18日)が関わっていた。役者は、この映画の方が当人と似ている人が多いと思う。なお、件のTV“Genius”シリーズは先にアインシュタインとピカソのものが作られており、フランクリンが3番目で、次はキング牧師のよう。
全体的に画面の光度が低いと感じた。その方が重厚感は確かに増すが、ぼくは少し戸惑った。10歳から1972年の『アメイジング・グレイス』公演、つまり20代までの彼女を2時間20分の尺で描く(最後には、晩年のオバマ大統領絡みの実際のパフォーマンス映像などもインサートされる)。だが、彼女の躍進期のダメ夫/マネイジャーであるテッド・ホワイトとの愛憎トラブルはけっこう入っているものの、他の描き方はオブラートに包んだ感じを得てしまう。それは全7時間強ものナショナル・ジオグラフィック版〜アトランティック期以降は駆け足紹介となる〜を見たから出てくる感想だが、TV版のほうには入っていたキング牧師との心温まるやりとり〜彼女は公民権運動に積極的だった〜は入れて欲しかったかもしれぬ。また、『アメイジング・グレイス』教会公演に距離を置いていた父親が突然偉そうに現れてフランクリンがヘコむことがTVでは示されるが、『リスペクト』では大団円にふさわしく(?)親子の心温まる邂逅として描かれた。映画『アメイジング・グレイス』にはその実際の教会での模様が収められているわけだが、フランクリンは戸惑いを覚えつつプロとして取り繕い父親との時間を共有しているようにぼくには見えた。
主役のジェニファー・ハドソンは当然フランクリンになり代わって、歌う。そんなに違和感ないし、彼女は老けていないナとも思った。予算は潤沢であったろう、ゆえにリッチな映像は楽しめるものの、この映画はソウルの女王の歩みや逸話を知らないと、けっこうちんぷんかんぷんな仕上がりではない? でも、日本人がなんとなく美空ひばりの人生がイメージできるように、米国ではこれでOKなのかもしれない。エンドロールを見て驚いたのは、映画のプロデューサーを務めている一人がハーヴィ・メイソン・ジュニアであること。大御所ドラマーのハーヴィー・メイソン(2002年8月11日、2010年7月9日、2011年6月21日、2014年5月28日、2016年4月5日、2017年9月1日、2019年10月17日)の1968年生まれの息子で、当初は作曲/アレンジ/制作/技術などR&B系の裏方をしていたが、2000年代中頃から映画の世界にも進出するようになり、現在はLAのエンターテインメント業界の顔役となっている。
▶︎過去の、映画「アメイジング・グレイス」
https://43142.diarynote.jp/201909260737052277/ 下部のほう
▶過去の、コーネル・デュプリー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-6.htm
http://43142.diarynote.jp/201009010955348098/
▶︎過去の、バーナード・パーディ
https://43142.diarynote.jp/200607281034380000/
https://43142.diarynote.jp/201206210944302024/
▶過去の、ザ・ローリング・ストーンズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm 3月13日(バック・バンド)。15日
https://43142.diarynote.jp/201904200941516964/ ストーンズ展
▶︎過去の、やはり教会に見にきていたチャーリー・ワッツ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-10.htm
https://43142.diarynote.jp/202108250753519456/ 訃報
▶︎過去の、シカゴ
https://43142.diarynote.jp/201002211122268480/
▶︎過去の、エタ・ジェイムズの映画
https://43142.diarynote.jp/200905271738046764/
▶︎過去のTV番組「ジーニアス:アレサ」
https://43142.diarynote.jp/202107020908476601/
https://43142.diarynote.jp/202107141235565077/
▶︎過去の、ジェニファー・ハドソンが出た映画
https://43142.diarynote.jp/200701211122480000/
▶︎過去の、クリス・バワーズ
https://43142.diarynote.jp/201408051020111821/
▶︎過去の、バワーズが音楽をつけた映画
https://43142.diarynote.jp/201901301508232449/ バワーズのインタヴュー付き
https://43142.diarynote.jp/202202121122218642/
▶︎テレンス・ブランチャード
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm 3日
http://43142.diarynote.jp/?day=20050821
http://43142.diarynote.jp/200903271727246000/
http://43142.diarynote.jp/201308191407221107/
https://43142.diarynote.jp/201903050842467108/ 映画音楽
▶過去の、ハーヴィー・メイソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-8.htm 8月11日、トム・スコット
http://43142.diarynote.jp/201007110625087085/
http://43142.diarynote.jp/?day=20110621
http://43142.diarynote.jp/?day=20140528
http://43142.diarynote.jp/201604060850393487/
https://43142.diarynote.jp/201709071307037021/
https://43142.diarynote.jp/201910180828345862/
<今日の、注射>
ワクチン接種券が届くと、積極的に受けに行くぼく。注射していてもかかる人はかかっているわけで、どれほど効力があるのかと疑問を持つ部分はあるし、インフルエンザのようにタイプごとに別なワクチンが必要な気もしないではない。だが、受けたほうが心の安堵を得ることができるし、万が一海外に行く場合は証明が必要になるので、ぼくは受ける。じっさい、今はもろもろ気を使っていても、かかる人はかかってしまうという状況。ようは、その人の免疫力と運次第……。なんか寝不足だったり、疲れてんなあとか、気乗りしあいなあと内なる自分が語りかける場合、ぼくはなるたけ外出しないようにしている。
ともあれ、朝8時半に、COVID-19の3度目となるワクチン注射をしてもらう。モデルナ→モデルナと受けて、今度はファイザーにした。それはメイカーをクロスオーヴァーさせた方がいいと聞くのと、2度目のワクチン注射したときの副反応がなあかなかで〜https://43142.diarynote.jp/202107220942576811/ の下のほう〜3度目は種類を変えたかった。ファイザー製は人気で予約を取るのが難しいはずなのに、区の予約サイトから自由が丘の個人クリニックのそれが取れてしまったのは??? 他のところは、見事に3月に入ってもずっと空きがないのに。帰りは奥沢駅から1本で目黒駅まで行けるのも、目黒で映画を見るのを後押しした。東急目黒線には初めて乗ったよー。まじに。武蔵小山(立派な地下駅だった)の飲み屋には行ったことがあるけど、行き帰りともにタクシーだったからなあ。初めてはなんでもいいものだ。
夕方、肩がいてーー。さて、明日はどうなるか。とりあえず、日曜まで公的(?)な要件はスケジュールに入れていない。
まず見たのは、2018 年アメリカ映画の『アメイジング・グレイス(原題:Amazing Grace)』。1972年1月13日と14日、一度原点に戻りたいというフランクリンの強い要望のもとロサンゼルスの教会で録られた同名のライヴ・アルバム(実はフランクリンのアルバムで一番のセールスを持つというのは本当か?)と同じソースの映像版だ。アトランティックのジェリー“非道なところ大あり”ウェクスラーが映画も撮るならと、ゴー・サインを出したプロジェクト。だが、シドニー・ポラックが監督したものの、画像と音が同期できずにお蔵入り。その後、アラン・エリオット監督により90分弱の映画としてまとめられたが、フランクリンは撮影陣に対する良くない印象も持つなど頑としてOKを出さず、死後に公開されたという経緯を持つ。
DAY1とDAY2に半分づつ分けてライヴの模様を紹介するこの映画(2日目のほうが、カメラ・ワークが少しワイルドになる)をぼくは2019年秋に国際線の機内で見ているが、飲みまくり&小さな画面&字幕なし&プアな音での印象とはやっぱり異なる思いを得た。フランクリンとは付き合いの長いジェイムズ・クリーヴランド牧師(やっぱり、語りはうまいなあ)率いる南カリフォルニア・コミュニティ・クワイアーとアフリカン・アメリカンの拠り所である積み重ねを自然に開くような絡みに、コーネル・デュプリー(2002年6月25日、2010年8月31日)やバーナード・パーディ(2006年7月26日、2012年6月19日)らのバンド音がつく。やっぱり、ヒストリカルな実演を伝えてくれ、貴重ではある。ほぼパフォーマンスの模様を捉えた映像のみで、もう少しその裏側を教えるものがあったならとは思えた。やっぱし、あまりフランクリン側と撮影陣のリレイションが取られていなかったんだろうな。
会場となったザ・ニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会はそれなりに広く、客席配置は劇場のよう。特に1日目の客は黒人だけ、どういう人たちが来ていたのだろう。DAY2での客席にいるミック・ジャガーの喜び方に触れると、ストーンズ(2003年3月15日)は信頼できると思ってしまう。アフロ・ヘアーの人が散見されるのは、あの時代ならではだ。なお、クワイアーをファンキーかつ颯爽と指揮するアレキサンダー・ハミルトン(映画にも後姿を中心にけっこう映る)はこの1月28日に、77歳で亡くなってしまった。Rev.とDr.の呼称を得た彼は、コーラス関連でエタ・ジェイムズ、シカゴ(2010年2月19日)、グラディ・ナイト&ピップスら非ゴスペルの人たちの表現にも関与した。もし、この映画が予定通り公開されていたら、いい感じで映っている彼の人生は少し違っていたかもしれない。
続く2本目は、2021年米国映画『リスペクト(原題:Respect)』。昨年公開されたジェニファー・ハドソンがフランクリン役を演じるこの伝記映画をぼくは未見だった。それは、米ナショナル・グラフィック・チャンネルの実写伝記たる“Genius”シリーズとして2021年にアリサ・ブランリン編が全8話で公開され、きっちり作られたそちらを見てお腹いっぱいという心持ちを得たしまったからだった。そこ(こちらでフランクリンを演じるのは、英国人俳優/シンガーのシンシア・エリヴォだ)には誘惑に弱くローティーンで妊娠もしてしまう彼女と、俗物牧師たる父親、ダメ夫、姉妹、黒人が成功することを良しとしない白いアメリカ社会などとの軋轢が、多大な才能や数々の栄光と隣り合わせで描かれていて、さらに映画でそういう負の側面を見せられるのはちょっと……と、ヤワなぼくは思ってしまったからだった。とはいえ、今回は条件が重なり、これは見なさいと言われた気持ちになったナリ。
エラ・フィッツジェラルトらいろいろな音楽スターもいるリッチなホーム・パーティのシーンから始まるが、そこで流れるのはストライド・ピアノ調の調べ。お、音楽はクリス・バワーズ(2014年7月27日)か。先のナショナル・ジオグラフィック版のほうの挿入音楽はテレンス・ブランチャード(2002年7月3日、2005年8月21日、2009年3月26日、2013年8月18日)が関わっていた。役者は、この映画の方が当人と似ている人が多いと思う。なお、件のTV“Genius”シリーズは先にアインシュタインとピカソのものが作られており、フランクリンが3番目で、次はキング牧師のよう。
全体的に画面の光度が低いと感じた。その方が重厚感は確かに増すが、ぼくは少し戸惑った。10歳から1972年の『アメイジング・グレイス』公演、つまり20代までの彼女を2時間20分の尺で描く(最後には、晩年のオバマ大統領絡みの実際のパフォーマンス映像などもインサートされる)。だが、彼女の躍進期のダメ夫/マネイジャーであるテッド・ホワイトとの愛憎トラブルはけっこう入っているものの、他の描き方はオブラートに包んだ感じを得てしまう。それは全7時間強ものナショナル・ジオグラフィック版〜アトランティック期以降は駆け足紹介となる〜を見たから出てくる感想だが、TV版のほうには入っていたキング牧師との心温まるやりとり〜彼女は公民権運動に積極的だった〜は入れて欲しかったかもしれぬ。また、『アメイジング・グレイス』教会公演に距離を置いていた父親が突然偉そうに現れてフランクリンがヘコむことがTVでは示されるが、『リスペクト』では大団円にふさわしく(?)親子の心温まる邂逅として描かれた。映画『アメイジング・グレイス』にはその実際の教会での模様が収められているわけだが、フランクリンは戸惑いを覚えつつプロとして取り繕い父親との時間を共有しているようにぼくには見えた。
主役のジェニファー・ハドソンは当然フランクリンになり代わって、歌う。そんなに違和感ないし、彼女は老けていないナとも思った。予算は潤沢であったろう、ゆえにリッチな映像は楽しめるものの、この映画はソウルの女王の歩みや逸話を知らないと、けっこうちんぷんかんぷんな仕上がりではない? でも、日本人がなんとなく美空ひばりの人生がイメージできるように、米国ではこれでOKなのかもしれない。エンドロールを見て驚いたのは、映画のプロデューサーを務めている一人がハーヴィ・メイソン・ジュニアであること。大御所ドラマーのハーヴィー・メイソン(2002年8月11日、2010年7月9日、2011年6月21日、2014年5月28日、2016年4月5日、2017年9月1日、2019年10月17日)の1968年生まれの息子で、当初は作曲/アレンジ/制作/技術などR&B系の裏方をしていたが、2000年代中頃から映画の世界にも進出するようになり、現在はLAのエンターテインメント業界の顔役となっている。
▶︎過去の、映画「アメイジング・グレイス」
https://43142.diarynote.jp/201909260737052277/ 下部のほう
▶過去の、コーネル・デュプリー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-6.htm
http://43142.diarynote.jp/201009010955348098/
▶︎過去の、バーナード・パーディ
https://43142.diarynote.jp/200607281034380000/
https://43142.diarynote.jp/201206210944302024/
▶過去の、ザ・ローリング・ストーンズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm 3月13日(バック・バンド)。15日
https://43142.diarynote.jp/201904200941516964/ ストーンズ展
▶︎過去の、やはり教会に見にきていたチャーリー・ワッツ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-10.htm
https://43142.diarynote.jp/202108250753519456/ 訃報
▶︎過去の、シカゴ
https://43142.diarynote.jp/201002211122268480/
▶︎過去の、エタ・ジェイムズの映画
https://43142.diarynote.jp/200905271738046764/
▶︎過去のTV番組「ジーニアス:アレサ」
https://43142.diarynote.jp/202107020908476601/
https://43142.diarynote.jp/202107141235565077/
▶︎過去の、ジェニファー・ハドソンが出た映画
https://43142.diarynote.jp/200701211122480000/
▶︎過去の、クリス・バワーズ
https://43142.diarynote.jp/201408051020111821/
▶︎過去の、バワーズが音楽をつけた映画
https://43142.diarynote.jp/201901301508232449/ バワーズのインタヴュー付き
https://43142.diarynote.jp/202202121122218642/
▶︎テレンス・ブランチャード
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm 3日
http://43142.diarynote.jp/?day=20050821
http://43142.diarynote.jp/200903271727246000/
http://43142.diarynote.jp/201308191407221107/
https://43142.diarynote.jp/201903050842467108/ 映画音楽
▶過去の、ハーヴィー・メイソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-8.htm 8月11日、トム・スコット
http://43142.diarynote.jp/201007110625087085/
http://43142.diarynote.jp/?day=20110621
http://43142.diarynote.jp/?day=20140528
http://43142.diarynote.jp/201604060850393487/
https://43142.diarynote.jp/201709071307037021/
https://43142.diarynote.jp/201910180828345862/
<今日の、注射>
ワクチン接種券が届くと、積極的に受けに行くぼく。注射していてもかかる人はかかっているわけで、どれほど効力があるのかと疑問を持つ部分はあるし、インフルエンザのようにタイプごとに別なワクチンが必要な気もしないではない。だが、受けたほうが心の安堵を得ることができるし、万が一海外に行く場合は証明が必要になるので、ぼくは受ける。じっさい、今はもろもろ気を使っていても、かかる人はかかってしまうという状況。ようは、その人の免疫力と運次第……。なんか寝不足だったり、疲れてんなあとか、気乗りしあいなあと内なる自分が語りかける場合、ぼくはなるたけ外出しないようにしている。
ともあれ、朝8時半に、COVID-19の3度目となるワクチン注射をしてもらう。モデルナ→モデルナと受けて、今度はファイザーにした。それはメイカーをクロスオーヴァーさせた方がいいと聞くのと、2度目のワクチン注射したときの副反応がなあかなかで〜https://43142.diarynote.jp/202107220942576811/ の下のほう〜3度目は種類を変えたかった。ファイザー製は人気で予約を取るのが難しいはずなのに、区の予約サイトから自由が丘の個人クリニックのそれが取れてしまったのは??? 他のところは、見事に3月に入ってもずっと空きがないのに。帰りは奥沢駅から1本で目黒駅まで行けるのも、目黒で映画を見るのを後押しした。東急目黒線には初めて乗ったよー。まじに。武蔵小山(立派な地下駅だった)の飲み屋には行ったことがあるけど、行き帰りともにタクシーだったからなあ。初めてはなんでもいいものだ。
夕方、肩がいてーー。さて、明日はどうなるか。とりあえず、日曜まで公的(?)な要件はスケジュールに入れていない。
新宿・シネマカリテで、2018年ノルウェー/スウェーデン映画『ロスバンド(原題:LOS BANDO)』を見る。ノルウェーの田舎の、ロス・バンド・イモルターレというロック・バンドが主人公となる映画だ。そのバンド名って、なぜかスペイン語? 監督を1977年生まれのノルウェー人で、英国で映画を学んでいるというリスチャン・ローが務める。
まず、あたまのほうから映像が爽やかだなあてな感じで、手触りのよさを覚える。撮影されたのは夏季か、だから緑が映える。赤色や黄色など家の壁の色なども、北欧ぽい(←わあ、大雑把な括り方だあ)と思わせる。これが、冬季に撮影されていたらまったく違う印象を受けるだろうが、それだけでこの作品は祝福を得る映画なのだとぼくは感じた。
ドラマーとギタリストの(たぶん)中学生二人、家出した9歳の女性チェリスト、そして無免許でヴァンの運転手役を引き受け、途中でバンドのシンガーに就く家業手伝いの17歳の青年がバンドの構成員となる。ロック・コンテストの予選に通った当初同級生二人組だった単位に、新たに二人が加わり、長い国の反対側北にあるトロムソンで毎年開かれるコンテストへと4人で車で向かう様が描かれる。
微笑ましくも、楽しい映画だった。終始クスクスと笑えるところ多く、コメディ映画とすることも可能だろう。この手の映画の常で少し流れや落ちが読めてしまう部分もなくはないが、らしいプロットを埋め込み、破綻なく回収する。そして、そこに親や異性との問題を絡める。と、書くと臭くなりそうだがそうはならない。拍手だな。ノルウェー版『スクール・オブ・ロック』みたいな印象も受けたか。ただし、そこにはジャック・ブラック演じるような大人の先導者はおらず、小僧達の意向で動いていく。
彼の地で盛んだろうラリーねたが出てくるのは、いかにもだな。また、この映画を見ると彼の国って、ロックに対する正のイメージを多大に持っているのではないかとも思わせられる。全然、筋や設定は異なるが2018年フィンランド/ノルウェー映画『ヘヴィ・トリップ』(2020年1月21日)のことをちょい思い出したりもした。話される言語はノルウェー語だが、歌われるのはどれも英語曲。今、フランスより北の欧州国はみんな英語を話すしな。ロス・バンド・イモルターレの音楽性は古いが、ストーリーや役柄設定がしっかりしているためもあってか、違和感はあまりない。ねじれた負の側面をまったく入れていないにも関わらず、ヒネたぼくは痒い心持ちを得なかった。というわけで、稀有な善良青春映画として、これは推せるなあ。若い役者たちもちゃんと演技をしている。
▶過去の、︎映画『ヘヴィ・トリップ』
https://43142.diarynote.jp/202001220838354652/
<今日の、追記>
ロス・バンド・イモルターレが編成に低音楽器としてチェロを入れているのは目新しいじゃないか、と言う人もいるかもしれない。だが、2000年のフジ・ロックに出演した米国のデッドウェイト(Deadweight)やフィンランドのアラマーイルマン・ヴァサラット(2009年10月2日、2013年4月7日)をはじめ、チェリストを入れるロック・バンドはなくはない。ところで、映画館にはスージー・クアトロとリンダ・ロンシュタットの追って公開されるドキュメンタリー映画のポスターが貼ってあった。そんなのも、あるのか。
▶︎過去の、デッドウェイト
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm 2000年7月30日
▶︎過去の、アラマーイルマン・ヴァサラット
https://43142.diarynote.jp/200910111331493710/
https://43142.diarynote.jp/201304091016036527/
https://43142.diarynote.jp/202007190731345287/ そのリーダーの訃報
まず、あたまのほうから映像が爽やかだなあてな感じで、手触りのよさを覚える。撮影されたのは夏季か、だから緑が映える。赤色や黄色など家の壁の色なども、北欧ぽい(←わあ、大雑把な括り方だあ)と思わせる。これが、冬季に撮影されていたらまったく違う印象を受けるだろうが、それだけでこの作品は祝福を得る映画なのだとぼくは感じた。
ドラマーとギタリストの(たぶん)中学生二人、家出した9歳の女性チェリスト、そして無免許でヴァンの運転手役を引き受け、途中でバンドのシンガーに就く家業手伝いの17歳の青年がバンドの構成員となる。ロック・コンテストの予選に通った当初同級生二人組だった単位に、新たに二人が加わり、長い国の反対側北にあるトロムソンで毎年開かれるコンテストへと4人で車で向かう様が描かれる。
微笑ましくも、楽しい映画だった。終始クスクスと笑えるところ多く、コメディ映画とすることも可能だろう。この手の映画の常で少し流れや落ちが読めてしまう部分もなくはないが、らしいプロットを埋め込み、破綻なく回収する。そして、そこに親や異性との問題を絡める。と、書くと臭くなりそうだがそうはならない。拍手だな。ノルウェー版『スクール・オブ・ロック』みたいな印象も受けたか。ただし、そこにはジャック・ブラック演じるような大人の先導者はおらず、小僧達の意向で動いていく。
彼の地で盛んだろうラリーねたが出てくるのは、いかにもだな。また、この映画を見ると彼の国って、ロックに対する正のイメージを多大に持っているのではないかとも思わせられる。全然、筋や設定は異なるが2018年フィンランド/ノルウェー映画『ヘヴィ・トリップ』(2020年1月21日)のことをちょい思い出したりもした。話される言語はノルウェー語だが、歌われるのはどれも英語曲。今、フランスより北の欧州国はみんな英語を話すしな。ロス・バンド・イモルターレの音楽性は古いが、ストーリーや役柄設定がしっかりしているためもあってか、違和感はあまりない。ねじれた負の側面をまったく入れていないにも関わらず、ヒネたぼくは痒い心持ちを得なかった。というわけで、稀有な善良青春映画として、これは推せるなあ。若い役者たちもちゃんと演技をしている。
▶過去の、︎映画『ヘヴィ・トリップ』
https://43142.diarynote.jp/202001220838354652/
<今日の、追記>
ロス・バンド・イモルターレが編成に低音楽器としてチェロを入れているのは目新しいじゃないか、と言う人もいるかもしれない。だが、2000年のフジ・ロックに出演した米国のデッドウェイト(Deadweight)やフィンランドのアラマーイルマン・ヴァサラット(2009年10月2日、2013年4月7日)をはじめ、チェリストを入れるロック・バンドはなくはない。ところで、映画館にはスージー・クアトロとリンダ・ロンシュタットの追って公開されるドキュメンタリー映画のポスターが貼ってあった。そんなのも、あるのか。
▶︎過去の、デッドウェイト
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm 2000年7月30日
▶︎過去の、アラマーイルマン・ヴァサラット
https://43142.diarynote.jp/200910111331493710/
https://43142.diarynote.jp/201304091016036527/
https://43142.diarynote.jp/202007190731345287/ そのリーダーの訃報
R.I.P.ハワード・グライムス(1941年8月22日〜2022年2月12日)
2022年2月13日 音楽 メンフィスに生まれ、メンフィスに死す。1970年代のメンフィス・サウンド=ハイ・サウンドのレコーディングぶつを印象的に飾った名&個性派ドラマーであるハワード・グライムスが腎不全でお亡くなりになった。
20代になる前にスタックスの前身であるサテライトの録音に関与したりもし(彼はスタックスでも叩いた)、スタックスの主任ドラマーであるアル・ジャクソン・ジュニア(1935〜1975年)は兄のような存在であったという。逆にジャクソン・ジュニアはハイのレコーディングにもそれなりに関わった。
話は前後するが、1960年代下半期にばりばりリーダー/トランペッターとして活動していたウィリー・ミッチェルのバンドに入ることになる。1960年代後期からミッチェルは1957年にメンフィスで創業されたハイ・レコードのタレント・スカウト/プロデューサーもするようになり、1970年には同レコードの副社長(後にオウナーとなった)および同社付きのロイヤル・スタジオの責任者として大車輪、グライムスはハイ/ロイヤルのハウス・ミュージシャンとなる。彼とともに、ベースのリロイ、キーボードのチャールズ、ギターのティーニーらのホッジス兄弟、トランペットのウェイン・ジャクソン、テナー・サックスのアンドリュー・ラヴ他が同サウンドの屋台骨を担った。
ミッチェル関与のアン・ピーブルス、アル・グリーン、ドン・ブライアント(2016年5月24日)、オーティス・クレイ、シル・ジョンスン、O.V.ライトら、秀でたシンガーたちをグライムスはサポート。そのパシャパシャした質感を持つドラムはジャストなタイミングを抱えていたこともありリズム・ボックス的な聞き味を持ち、それはハイのプロダクツの代名詞となるとともに、1970年代南部ソウルの機微を最大級に持つビートとして、キース・リチャーズ(2003年3月15日)ほか様々な人たちからオマージュ引用されている。マジ、彼の演奏が抱えた不思議なポケットはロマンを聞く者に与える。
ぼくが彼の演奏曲を一つあげるとしたら、何気にテクニカルという部分が出たアル・グリーンの「アイム・グラッド・ユール・ビー・マイン」(1972年作『アイム・スティル・イン・ラヴ・ウィズ・ユー』。アル・ジャクソンJr.の名前も参加者として入っている)をあげようか。あ、タイトル・トラックや「ラヴ・アンド・ハッピネス」のほうがハイ・サウンド節が楽しめるが。1970年後期以降は参加アルバムが減るが、それは彼はハイ・サウンドが下火になったことと関係あるか。ミッチェルはハイをリバティに売却したこともあった。また、達人グライムスはホームレスになったりもしたそう。
果たして、彼は日本に来たことはあったのだろうか。ビクター音産が名高い2枚組ライヴ盤を出した1978年のオーティス・クレイ(2006年7月23日)来日公演(O.V.ライトの代役だった)の際はハイ外の奏者たちが同行し、クレイ2度目の1983年の来日公演にはホッジズ兄弟らは来ていたものの、グライムスは来ていない(この際も、弱電メイカー〜本社は後に設立されるエイベックスの骨董通りの旧オフィスがあったビルの斜め向かいにあった〜が抱えていたユピテル・レコードがライヴ盤化した)。O.V.ライトは亡くなる前年に1979年に来日して万全ではない衰えたライヴをし、その公演をぼくは最前列で見ている。その際はハイ流れの奏者が同行していたはずだが、そこにグライムスがいたかは覚えていない。
グライムの最後の方のアルバム全面参加盤は、シンディ・ロウパー(2011年3月16日、2012年3月9日)のメンフォス録音作『メンフィス・ブルース』(ダウンタウン、2010年)だった。ロウパーはそれに負う来日公演を2011年と2012年にやっているが、一部ハイ・サウンド系奏者も同行していたものの、グライムズは入っていなかった。また、ホッジズ兄弟らでバンドが固められたカーラ・トーマス&ザ・メンフィス・オールスター・レヴュー(2018年7月30日)やウィリー・ハイタワー(2018年10月27日 )の来日公演にも、、、。
▶︎過去の、ドン・ブライアント
https://43142.diarynote.jp/201605250715068712/
▶︎過去の、ハイ〜ロイヤル・サウンド関連映画
https://43142.diarynote.jp/201707141126579276/
▶︎過去の、シル・ジョンソンの訃報
https://43142.diarynote.jp/202202071659315432/
▶︎過去の、オーティス・クレイ
https://43142.diarynote.jp/200607281032040000/
▶過去の、ザ・ローリング・ストーンズ/キース・リチャーズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm 3月13日(バック・バンド)。15日
https://43142.diarynote.jp/201904200941516964/ ストーンズ展
▶︎過去の、シンディ・ローパー
https://43142.diarynote.jp/201103171354125352/
https://43142.diarynote.jp/201203100844041105/
▶︎過去の、カーラ・トーマス&ザ・メンフィス・オールスター・レヴュー
https://43142.diarynote.jp/201807311020598905/
▶︎過去の、ウィリー・ハイタワー(スティーヴ・クロッパー付き)
https://43142.diarynote.jp/201810281058039311/
<今日、思い出したこと>
おとといの項で書き忘れていたことが一つ。映画『サ・ユナイテッド・ステイツvs ビリー・ホリデイ』では、やはりホリデイが大の犬好きであったことも描かれている。愛犬が亡くなった際はショウを身内の不幸としてキャンセルし、教会で葬式をするシーンが出てくる。そういえば、1ヶ月近く前にヨークシャーテリアの子犬を探していますという印刷物が新聞の折り込みとして入っていた。賞金は500万円、有力情報提供は100万円。昨年末に代々木公園で見失い、リードはつけていないと記されていた。
20代になる前にスタックスの前身であるサテライトの録音に関与したりもし(彼はスタックスでも叩いた)、スタックスの主任ドラマーであるアル・ジャクソン・ジュニア(1935〜1975年)は兄のような存在であったという。逆にジャクソン・ジュニアはハイのレコーディングにもそれなりに関わった。
話は前後するが、1960年代下半期にばりばりリーダー/トランペッターとして活動していたウィリー・ミッチェルのバンドに入ることになる。1960年代後期からミッチェルは1957年にメンフィスで創業されたハイ・レコードのタレント・スカウト/プロデューサーもするようになり、1970年には同レコードの副社長(後にオウナーとなった)および同社付きのロイヤル・スタジオの責任者として大車輪、グライムスはハイ/ロイヤルのハウス・ミュージシャンとなる。彼とともに、ベースのリロイ、キーボードのチャールズ、ギターのティーニーらのホッジス兄弟、トランペットのウェイン・ジャクソン、テナー・サックスのアンドリュー・ラヴ他が同サウンドの屋台骨を担った。
ミッチェル関与のアン・ピーブルス、アル・グリーン、ドン・ブライアント(2016年5月24日)、オーティス・クレイ、シル・ジョンスン、O.V.ライトら、秀でたシンガーたちをグライムスはサポート。そのパシャパシャした質感を持つドラムはジャストなタイミングを抱えていたこともありリズム・ボックス的な聞き味を持ち、それはハイのプロダクツの代名詞となるとともに、1970年代南部ソウルの機微を最大級に持つビートとして、キース・リチャーズ(2003年3月15日)ほか様々な人たちからオマージュ引用されている。マジ、彼の演奏が抱えた不思議なポケットはロマンを聞く者に与える。
ぼくが彼の演奏曲を一つあげるとしたら、何気にテクニカルという部分が出たアル・グリーンの「アイム・グラッド・ユール・ビー・マイン」(1972年作『アイム・スティル・イン・ラヴ・ウィズ・ユー』。アル・ジャクソンJr.の名前も参加者として入っている)をあげようか。あ、タイトル・トラックや「ラヴ・アンド・ハッピネス」のほうがハイ・サウンド節が楽しめるが。1970年後期以降は参加アルバムが減るが、それは彼はハイ・サウンドが下火になったことと関係あるか。ミッチェルはハイをリバティに売却したこともあった。また、達人グライムスはホームレスになったりもしたそう。
果たして、彼は日本に来たことはあったのだろうか。ビクター音産が名高い2枚組ライヴ盤を出した1978年のオーティス・クレイ(2006年7月23日)来日公演(O.V.ライトの代役だった)の際はハイ外の奏者たちが同行し、クレイ2度目の1983年の来日公演にはホッジズ兄弟らは来ていたものの、グライムスは来ていない(この際も、弱電メイカー〜本社は後に設立されるエイベックスの骨董通りの旧オフィスがあったビルの斜め向かいにあった〜が抱えていたユピテル・レコードがライヴ盤化した)。O.V.ライトは亡くなる前年に1979年に来日して万全ではない衰えたライヴをし、その公演をぼくは最前列で見ている。その際はハイ流れの奏者が同行していたはずだが、そこにグライムスがいたかは覚えていない。
グライムの最後の方のアルバム全面参加盤は、シンディ・ロウパー(2011年3月16日、2012年3月9日)のメンフォス録音作『メンフィス・ブルース』(ダウンタウン、2010年)だった。ロウパーはそれに負う来日公演を2011年と2012年にやっているが、一部ハイ・サウンド系奏者も同行していたものの、グライムズは入っていなかった。また、ホッジズ兄弟らでバンドが固められたカーラ・トーマス&ザ・メンフィス・オールスター・レヴュー(2018年7月30日)やウィリー・ハイタワー(2018年10月27日 )の来日公演にも、、、。
▶︎過去の、ドン・ブライアント
https://43142.diarynote.jp/201605250715068712/
▶︎過去の、ハイ〜ロイヤル・サウンド関連映画
https://43142.diarynote.jp/201707141126579276/
▶︎過去の、シル・ジョンソンの訃報
https://43142.diarynote.jp/202202071659315432/
▶︎過去の、オーティス・クレイ
https://43142.diarynote.jp/200607281032040000/
▶過去の、ザ・ローリング・ストーンズ/キース・リチャーズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm 3月13日(バック・バンド)。15日
https://43142.diarynote.jp/201904200941516964/ ストーンズ展
▶︎過去の、シンディ・ローパー
https://43142.diarynote.jp/201103171354125352/
https://43142.diarynote.jp/201203100844041105/
▶︎過去の、カーラ・トーマス&ザ・メンフィス・オールスター・レヴュー
https://43142.diarynote.jp/201807311020598905/
▶︎過去の、ウィリー・ハイタワー(スティーヴ・クロッパー付き)
https://43142.diarynote.jp/201810281058039311/
<今日、思い出したこと>
おとといの項で書き忘れていたことが一つ。映画『サ・ユナイテッド・ステイツvs ビリー・ホリデイ』では、やはりホリデイが大の犬好きであったことも描かれている。愛犬が亡くなった際はショウを身内の不幸としてキャンセルし、教会で葬式をするシーンが出てくる。そういえば、1ヶ月近く前にヨークシャーテリアの子犬を探していますという印刷物が新聞の折り込みとして入っていた。賞金は500万円、有力情報提供は100万円。昨年末に代々木公園で見失い、リードはつけていないと記されていた。
大雪の警報が出た翌日、積雪もない晴天のなか、二子玉川へ行く。そして、109シネマズで、音楽と関わりのある映画を2本見た。
1本目は、ビリー・ホリデイを題材に置く2021年米国映画『サ・ユナイテッド・ステイツvs ビリー・ホリデイ』。すごいタイトルだが、原題も『The United States vs. Billie Holiday』だ。BLM運動がとりだたされるなかの映画という感じはあるか。2019年に制作が始まった作品のようで、監督は『大統領の執事の涙』他の、1959年生まれのアフリカ系著名監督であるリー・ダニエルズが務める。
その表題は、32年間にわたり米国財務省連邦麻薬局のトップを務め続けたハリー・ジェイコブ・アンスリンガー (1892年〜1975年)の所業を下敷きにする。麻薬と黒人(とお酒)が大嫌いな彼は、ビリー・ホリデイが南部の黒人虐殺の様を綴った「奇妙な果実」(1939年初出。前世紀最大級のプロテスト・ソングなり)を歌うことに我慢がならず、歌うなという警告に従わない彼女をハメて抹殺しようとした。それについては、英国人ジャーナリストであるヨハン・ハリ(パクりの人という芳しくない定評を得てもいるよう)の2015年ノンフィクション「 Chasing the Scream: The First and Last Days of the War on Drugs 」(Bloomsbury社刊)からネタを得ているようだ。
1940年代中期から肝硬変で1959年に亡くなるまでのホリデイにまつわる諸々が、事実を踏みつつ映画的に綴られる。ヘロインに走っていた彼女はクリーンになったときもあったが、麻薬局は故意にブツを仕込んで彼女を逮捕しようとした。もろもろ、丁寧に作られている。あるコンサートのシーンの描き方はお見事と思った。ホリデイ役を務めるのは、R&Bシンガーのアンドラ・デイ(2016年9月17日)。最初はホリデイに顔が似ていないなと少し冷めて見ていたのだが、これは好演だ。あちらでのこの映画自体の評判はイマイチながら彼女は昨年度のゴールデン・グローブ賞を獲得、アカデミー賞にも主演女優賞にやはりノミネートされた。
そう、映画は焦点が少し緩いと感じさせる。映画表題の面も持ちつつ、ホリデイの不可解な、ブラックホールのごとき存在性をも欲張りに描こうとしており、それが災いする。だが、そこには監督の彼女に対するリスペクトがあるか。ホリデイの薬や酒への依存はアフリカン・アメリカンを取り巻く不幸な現実に起因すると言っているようにも、ぼくには思えた。作品の時間は130分、そこらへん整理してもう少し短いものにして欲しかった。
歌はすべてアンドラ・デイによって歌われる。そちらも、健闘している。サウンドトラックのクレジットを見ると、その多くはR&B大御所プロデューサーのサラーム・レミがプロデュースしている。ジャズっぽいのもいけるのネ。1曲彫りの深い男性美声ヴォーカルをフィーチャーしたものがあるが、その声の主はなんとチャーリー・ウィルソン(2007年4月24日)! イエイ。ストリングスも用いる劇中挿入音楽を担っているのは、音楽は映画『グリーンブック』のそれも担当していたジャズ・ピアニストのクリス・バワーズ(2014年7月27日)だ。担当者が二転して、彼が請け負った。
アンドラ・デイがステージで身に着ける衣装は、プラダが提供した。エンドロールで、彼女が最後に心を通わせた準主役の男性とワルツを踊る映像が流される。ドレスの裾を踏まれて、「踏まないでよ、プラダなのよ」というようなことを彼女は言う。「あのころ、プラダはないよ」と、お相手。プラダが衣服も販売するようになったのは、それほど昔のことではないのか。その洒落たそのやりとりで、アフリカン・アメリカンを取り巻く状況はかつてと今も変わらないんだよと言っている気がした。監督の思いがマイナスに出てしまった部分もあるが、ぼくはこの映画を嫌いじゃない。
▶︎過去の、ビリー・ホルデイの映画
https://43142.diarynote.jp/202106192235495779/
▶︎過去の、アンドラ・デイ
https://43142.diarynote.jp/201609201835285184/
▶︎過去の、チャーリー・ウィルソン
https://43142.diarynote.jp/200704251228250000/
▶︎過去の、クリス・バワーズ
https://43142.diarynote.jp/201408051020111821/
▶︎過去の、映画『グリーンブック』
https://43142.diarynote.jp/201901301508232449/ バワーズのインタヴュー付き
そして、もう一本は2022年米国映画『ザ・ビートルズ Get Back:ルーフトップ・コンサート(原題:The Beatles: Get Back - The Rooftop Concert)』。ディズニー・プラスの映像配信で6時間もの再編集版が公開されている、ザ・ビートルズの『ゲット・バック』セッションの、屋上のライヴ・シーンを特化して伝える映画だ。入場時にシールと一葉の印刷物を手渡される。ぼくはいらないかな。こちらはアイマックス・シアターにての上映だ。
冒頭、ザ・ビートルズ歴史が時系列で綴られる。そりゃ面白い映像もあるけど、俺にはこんなパートは必要ねえと思った。だって、ぼくはザ・ビートルズのあの1969年1月30日のアップル・コア社屋上でのライヴ・シーンだけをきっちり見てえと思い、映画館に向かったから。かつての同名記録映画ではそんなにそのソースが使われたわけではないから。とはいえ、ちゃんとザ・ビートルズのことを知らない人(これはやはりマニア向けで、そんな人は来るのかな?)にも久しぶりのライヴ披露となる屋上ライヴに至る筋道を伝えるという意味では、意味はあるのかとは思った。
ちょっとしたスタッフの屋上での段取り風景〜けっこうカメラの数を用意したことも伝えられる〜のあとに、メンバーが出てきて「ゲット・バック」が始められる。とたん、なんか込み上げてくるものがあって、なぜか目が潤んできてしまった。考えてみれば、旧映画版『ゲット・バック』を見たのは45年ぐらい前だものなあ。
ライヴの場面は、結構いくつかの画面が並行して映し出される。それって、旧映画もそうだったっけ? それについては、まったく覚えていない。かようなやり方で、ライヴの様だけでなく、周辺の人々の反応も多角的に伝えられるわけだが、どうしてライヴをやめろと社屋にやってきたスクエアな二人の警察官の姿を押さえた映像をあれほど執拗に画面に出す必要が今更あるのだろう。オリジナルにおいても、騒音クレイムを受けて現れる警官の様子や集まってきた人々の様子は出てきたと記憶する。当時であったなら、ザ・ビートルズは思うままに常識を覆す感じで、お上からのお達しをものともせずライヴを敢行したということを出すためにそれもアリであったろう。だが、今になってあんな生理的に陰鬱な映像を晒す意味があるのか。ライヴ映像をまっすぐに受け取ることを、それは妨げる。ぼくは、断固否定。監督のピーター・ジャクソンは映画「ロード・オブ・ザ・リング」他を作っている人のようだが、趣味が悪い。
それについてはいらつきを覚えたものの、いろいろ新たな発見を覚えつつ見た。ドキドキも得た。アップル・コア社はビジネス街にあったのだろう、下の道路に集まってきた人々は皆成人で勤め人風。しかし、ここに写っている人で存命なのは何パーセントほどか。また、社屋の平面積は広くないので、両隣のビルに勤務している人々が屋上に出てすぐ横で来て見ている。あー、自分もあの人たちになりたかったと思う者は少なくないはず。
「冷たくてコードが押さえられない」とジョンが発言するように気温は高くないだろう。それが酔狂さを増させる。吐く息が白く映るときもある。レノンとハリソンとスターはコートを着ているが、マッカトニー(2018年10月31日)は溌剌とスーツ姿だ。映画は65分の尺となっているが、ライヴのシーンは40分ぐらいか。演奏されるのは、3回演奏される「ゲット・バック」、2回演奏される「ドント・レット・ミー・ダウン」と「アイヴ・ガッタ・ア・フィーリング」、そして1回でOKの「ワン・アフター・909」と「ディッグ・ア・ポニー」。披露したなかの3曲はザ・ビートルズの最終作となる同名アルバムに使われた。また、曲間で即興でやる小曲も紹介される。ふふ。
歌にせよ、演奏にせよ(一部のハリソンのギター・ソロを除く)、ほんとうに上等だったのは間違いない。ビートのある曲を披露しており、ザ・ビートルズは本当に素晴らしいガレージ・バンドだと痛感する。リンゴ・スターはキットの革モノにはタオルをかけて音をミュートしていた。それから、エレトリック・ピアノを弾くビリー・プレストン(1946年〜 2006年)が少しだけだが映るのもうれしい。彼はハリソンが連れてきて速攻参加し、おおいにバンドに滋養を与えたわけだが、譜面を置かず指を踊らせ、バンド音の骨格を支え、「ゲット・バック」では適切なソロを取る。天才だな。
願わくは複数のカメラによる屋上シーン映像に特化し、曲間の場面も入れたものを見たかった。なんなんだという周りの人々の様子は興味深いので、それはサブで下部なり、横なりに小さく出し続けるので良かったのではないか。
ライヴ後、プレイ・バックをみんなで聞く映像も少し入る。ハリソン以外は妻や彼女同伴だ。最後には、スタジオにおけるレコーディング映像も少し入れられる。実はこの映画を見たら、ぼくはいてもたってもいられなくなってディズニー・プラスに入ってしまい、3話6時間の同新装本編を見ちゃうんじゃないかと思っていた。だが、先に書いた監督の指針への大きな違和感もあり、それはなしか。それでも見たくはあるのだが、オリジナルで一番覚えているのはハリソンとマッカーニーの軋轢のシーン。それをまた見せられるのは辛いしなあ。あと思ったのは、デカいスクリーン&大きな音でライヴの様を享受できたのはとってもうれしい。でも、アイマックスで上映する必然性は感じなかった。そこまで映像も音質も鮮明になってはいない。というか、アイマックスは今のデジタル技術を介したハッタリ作品のためにあるものだと思う。あ、でもスクリーン比率はアイマックス仕様になっていた?
▶︎過去の、ポール・マッカートニー
https://43142.diarynote.jp/201811011655349966/
それから、訃報を1つ書き留める。キング・クリムゾンやフォーリナーの創設者であったイアン・マクドナルドが、ニューヨークの自宅で近親者に囲まれ息を引き取ったとのこと。1946年6月25日〜2022年2月9日、享年75。管楽器、鍵盤、ギターなど、様々な楽器を扱うマルチ・プレイヤーであり、秀でたソングライターであった。彼が音楽学校で学んだという記載をぼくは見たことはない(って、ちゃんと調べたことがない)が、一時はまっとうな音楽教育を受けた人であったのだろうか。キング・クリムゾンからは、1枚目を出した後に脱退。そして、同僚ドラマーだったマイケル・ジャイルズとマクドナルド&ジャイルズを結成し、アイランドからセルフ・タイトル作を1971年にリリース。その後、1977年には大成功したロック・バンドのフォーリナーを米国で結成。それにしても、ジャイルズ&マクドナルドでの密やかな好メロディや英国型機微の在処とフォーリナーでのプロに徹した産業ロック提出手腕の落差には驚かされる。彼はそちらも3作で脱退した。その後は一応プログ・ロックにかする方向で、ゆったりと活動したと括れるかな。
▶過去の、︎かつての同志の訃報
https://43142.diarynote.jp/202007122159073271/
<今日の、疑惑>
今年にぼくがした最初の行動は、スイカの自動チャージ目的でビュー・カードを作ったこと。これで時々現金でチャージすることが不要になった。めでたし。まあ、今さらですが。そしたら、すぐにビュー・カードを語るスパムが来るようになった。これ、JR側からデーターが漏れているんじゃないかと考えるのが、普通だよな。ぷんぷん。
1本目は、ビリー・ホリデイを題材に置く2021年米国映画『サ・ユナイテッド・ステイツvs ビリー・ホリデイ』。すごいタイトルだが、原題も『The United States vs. Billie Holiday』だ。BLM運動がとりだたされるなかの映画という感じはあるか。2019年に制作が始まった作品のようで、監督は『大統領の執事の涙』他の、1959年生まれのアフリカ系著名監督であるリー・ダニエルズが務める。
その表題は、32年間にわたり米国財務省連邦麻薬局のトップを務め続けたハリー・ジェイコブ・アンスリンガー (1892年〜1975年)の所業を下敷きにする。麻薬と黒人(とお酒)が大嫌いな彼は、ビリー・ホリデイが南部の黒人虐殺の様を綴った「奇妙な果実」(1939年初出。前世紀最大級のプロテスト・ソングなり)を歌うことに我慢がならず、歌うなという警告に従わない彼女をハメて抹殺しようとした。それについては、英国人ジャーナリストであるヨハン・ハリ(パクりの人という芳しくない定評を得てもいるよう)の2015年ノンフィクション「 Chasing the Scream: The First and Last Days of the War on Drugs 」(Bloomsbury社刊)からネタを得ているようだ。
1940年代中期から肝硬変で1959年に亡くなるまでのホリデイにまつわる諸々が、事実を踏みつつ映画的に綴られる。ヘロインに走っていた彼女はクリーンになったときもあったが、麻薬局は故意にブツを仕込んで彼女を逮捕しようとした。もろもろ、丁寧に作られている。あるコンサートのシーンの描き方はお見事と思った。ホリデイ役を務めるのは、R&Bシンガーのアンドラ・デイ(2016年9月17日)。最初はホリデイに顔が似ていないなと少し冷めて見ていたのだが、これは好演だ。あちらでのこの映画自体の評判はイマイチながら彼女は昨年度のゴールデン・グローブ賞を獲得、アカデミー賞にも主演女優賞にやはりノミネートされた。
そう、映画は焦点が少し緩いと感じさせる。映画表題の面も持ちつつ、ホリデイの不可解な、ブラックホールのごとき存在性をも欲張りに描こうとしており、それが災いする。だが、そこには監督の彼女に対するリスペクトがあるか。ホリデイの薬や酒への依存はアフリカン・アメリカンを取り巻く不幸な現実に起因すると言っているようにも、ぼくには思えた。作品の時間は130分、そこらへん整理してもう少し短いものにして欲しかった。
歌はすべてアンドラ・デイによって歌われる。そちらも、健闘している。サウンドトラックのクレジットを見ると、その多くはR&B大御所プロデューサーのサラーム・レミがプロデュースしている。ジャズっぽいのもいけるのネ。1曲彫りの深い男性美声ヴォーカルをフィーチャーしたものがあるが、その声の主はなんとチャーリー・ウィルソン(2007年4月24日)! イエイ。ストリングスも用いる劇中挿入音楽を担っているのは、音楽は映画『グリーンブック』のそれも担当していたジャズ・ピアニストのクリス・バワーズ(2014年7月27日)だ。担当者が二転して、彼が請け負った。
アンドラ・デイがステージで身に着ける衣装は、プラダが提供した。エンドロールで、彼女が最後に心を通わせた準主役の男性とワルツを踊る映像が流される。ドレスの裾を踏まれて、「踏まないでよ、プラダなのよ」というようなことを彼女は言う。「あのころ、プラダはないよ」と、お相手。プラダが衣服も販売するようになったのは、それほど昔のことではないのか。その洒落たそのやりとりで、アフリカン・アメリカンを取り巻く状況はかつてと今も変わらないんだよと言っている気がした。監督の思いがマイナスに出てしまった部分もあるが、ぼくはこの映画を嫌いじゃない。
▶︎過去の、ビリー・ホルデイの映画
https://43142.diarynote.jp/202106192235495779/
▶︎過去の、アンドラ・デイ
https://43142.diarynote.jp/201609201835285184/
▶︎過去の、チャーリー・ウィルソン
https://43142.diarynote.jp/200704251228250000/
▶︎過去の、クリス・バワーズ
https://43142.diarynote.jp/201408051020111821/
▶︎過去の、映画『グリーンブック』
https://43142.diarynote.jp/201901301508232449/ バワーズのインタヴュー付き
そして、もう一本は2022年米国映画『ザ・ビートルズ Get Back:ルーフトップ・コンサート(原題:The Beatles: Get Back - The Rooftop Concert)』。ディズニー・プラスの映像配信で6時間もの再編集版が公開されている、ザ・ビートルズの『ゲット・バック』セッションの、屋上のライヴ・シーンを特化して伝える映画だ。入場時にシールと一葉の印刷物を手渡される。ぼくはいらないかな。こちらはアイマックス・シアターにての上映だ。
冒頭、ザ・ビートルズ歴史が時系列で綴られる。そりゃ面白い映像もあるけど、俺にはこんなパートは必要ねえと思った。だって、ぼくはザ・ビートルズのあの1969年1月30日のアップル・コア社屋上でのライヴ・シーンだけをきっちり見てえと思い、映画館に向かったから。かつての同名記録映画ではそんなにそのソースが使われたわけではないから。とはいえ、ちゃんとザ・ビートルズのことを知らない人(これはやはりマニア向けで、そんな人は来るのかな?)にも久しぶりのライヴ披露となる屋上ライヴに至る筋道を伝えるという意味では、意味はあるのかとは思った。
ちょっとしたスタッフの屋上での段取り風景〜けっこうカメラの数を用意したことも伝えられる〜のあとに、メンバーが出てきて「ゲット・バック」が始められる。とたん、なんか込み上げてくるものがあって、なぜか目が潤んできてしまった。考えてみれば、旧映画版『ゲット・バック』を見たのは45年ぐらい前だものなあ。
ライヴの場面は、結構いくつかの画面が並行して映し出される。それって、旧映画もそうだったっけ? それについては、まったく覚えていない。かようなやり方で、ライヴの様だけでなく、周辺の人々の反応も多角的に伝えられるわけだが、どうしてライヴをやめろと社屋にやってきたスクエアな二人の警察官の姿を押さえた映像をあれほど執拗に画面に出す必要が今更あるのだろう。オリジナルにおいても、騒音クレイムを受けて現れる警官の様子や集まってきた人々の様子は出てきたと記憶する。当時であったなら、ザ・ビートルズは思うままに常識を覆す感じで、お上からのお達しをものともせずライヴを敢行したということを出すためにそれもアリであったろう。だが、今になってあんな生理的に陰鬱な映像を晒す意味があるのか。ライヴ映像をまっすぐに受け取ることを、それは妨げる。ぼくは、断固否定。監督のピーター・ジャクソンは映画「ロード・オブ・ザ・リング」他を作っている人のようだが、趣味が悪い。
それについてはいらつきを覚えたものの、いろいろ新たな発見を覚えつつ見た。ドキドキも得た。アップル・コア社はビジネス街にあったのだろう、下の道路に集まってきた人々は皆成人で勤め人風。しかし、ここに写っている人で存命なのは何パーセントほどか。また、社屋の平面積は広くないので、両隣のビルに勤務している人々が屋上に出てすぐ横で来て見ている。あー、自分もあの人たちになりたかったと思う者は少なくないはず。
「冷たくてコードが押さえられない」とジョンが発言するように気温は高くないだろう。それが酔狂さを増させる。吐く息が白く映るときもある。レノンとハリソンとスターはコートを着ているが、マッカトニー(2018年10月31日)は溌剌とスーツ姿だ。映画は65分の尺となっているが、ライヴのシーンは40分ぐらいか。演奏されるのは、3回演奏される「ゲット・バック」、2回演奏される「ドント・レット・ミー・ダウン」と「アイヴ・ガッタ・ア・フィーリング」、そして1回でOKの「ワン・アフター・909」と「ディッグ・ア・ポニー」。披露したなかの3曲はザ・ビートルズの最終作となる同名アルバムに使われた。また、曲間で即興でやる小曲も紹介される。ふふ。
歌にせよ、演奏にせよ(一部のハリソンのギター・ソロを除く)、ほんとうに上等だったのは間違いない。ビートのある曲を披露しており、ザ・ビートルズは本当に素晴らしいガレージ・バンドだと痛感する。リンゴ・スターはキットの革モノにはタオルをかけて音をミュートしていた。それから、エレトリック・ピアノを弾くビリー・プレストン(1946年〜 2006年)が少しだけだが映るのもうれしい。彼はハリソンが連れてきて速攻参加し、おおいにバンドに滋養を与えたわけだが、譜面を置かず指を踊らせ、バンド音の骨格を支え、「ゲット・バック」では適切なソロを取る。天才だな。
願わくは複数のカメラによる屋上シーン映像に特化し、曲間の場面も入れたものを見たかった。なんなんだという周りの人々の様子は興味深いので、それはサブで下部なり、横なりに小さく出し続けるので良かったのではないか。
ライヴ後、プレイ・バックをみんなで聞く映像も少し入る。ハリソン以外は妻や彼女同伴だ。最後には、スタジオにおけるレコーディング映像も少し入れられる。実はこの映画を見たら、ぼくはいてもたってもいられなくなってディズニー・プラスに入ってしまい、3話6時間の同新装本編を見ちゃうんじゃないかと思っていた。だが、先に書いた監督の指針への大きな違和感もあり、それはなしか。それでも見たくはあるのだが、オリジナルで一番覚えているのはハリソンとマッカーニーの軋轢のシーン。それをまた見せられるのは辛いしなあ。あと思ったのは、デカいスクリーン&大きな音でライヴの様を享受できたのはとってもうれしい。でも、アイマックスで上映する必然性は感じなかった。そこまで映像も音質も鮮明になってはいない。というか、アイマックスは今のデジタル技術を介したハッタリ作品のためにあるものだと思う。あ、でもスクリーン比率はアイマックス仕様になっていた?
▶︎過去の、ポール・マッカートニー
https://43142.diarynote.jp/201811011655349966/
それから、訃報を1つ書き留める。キング・クリムゾンやフォーリナーの創設者であったイアン・マクドナルドが、ニューヨークの自宅で近親者に囲まれ息を引き取ったとのこと。1946年6月25日〜2022年2月9日、享年75。管楽器、鍵盤、ギターなど、様々な楽器を扱うマルチ・プレイヤーであり、秀でたソングライターであった。彼が音楽学校で学んだという記載をぼくは見たことはない(って、ちゃんと調べたことがない)が、一時はまっとうな音楽教育を受けた人であったのだろうか。キング・クリムゾンからは、1枚目を出した後に脱退。そして、同僚ドラマーだったマイケル・ジャイルズとマクドナルド&ジャイルズを結成し、アイランドからセルフ・タイトル作を1971年にリリース。その後、1977年には大成功したロック・バンドのフォーリナーを米国で結成。それにしても、ジャイルズ&マクドナルドでの密やかな好メロディや英国型機微の在処とフォーリナーでのプロに徹した産業ロック提出手腕の落差には驚かされる。彼はそちらも3作で脱退した。その後は一応プログ・ロックにかする方向で、ゆったりと活動したと括れるかな。
▶過去の、︎かつての同志の訃報
https://43142.diarynote.jp/202007122159073271/
<今日の、疑惑>
今年にぼくがした最初の行動は、スイカの自動チャージ目的でビュー・カードを作ったこと。これで時々現金でチャージすることが不要になった。めでたし。まあ、今さらですが。そしたら、すぐにビュー・カードを語るスパムが来るようになった。これ、JR側からデーターが漏れているんじゃないかと考えるのが、普通だよな。ぷんぷん。
R.I.P.ベティ・デイヴィス(1944年7月26日– 2022年2月9日)
2022年2月10日 音楽 開けっぴろげなファンク・ロックの担い手にして、マイルズ・デイヴィスの電化/ストリート期のキー・パーソンであったベティ・ディヴィスの訃報が届いた。彼はブラック・ロックの文脈の走りとして語られるザ・チェンバー・ブラザーズ(コロムビア所属)の1967年曲「アップ・タウン」を書いているが、彼女もまたブラック・ロックの先駆的存在と言えるかもしれない。晩年はペンシルベニア州ホームステッドに住んでおり、自宅で自然死したと伝えられる。
ノース・カロライナ州生まれ、1960年代初頭にはニューヨークに住むようになり、モデル業その他につく。イケイケ、今で言うならインフルエンサー的なスタンスを彼女は持っていたかもしれない。当時の名は、ベティ・メイブリー。音楽のほうでは1964年にシングルを出し、その後は南ア出身のトランペッター/シンガーのヒュー・マセケラ(2005年7月20日)と交際し、彼のお膳立てでコロムビア・レコードで録音し、シングルを出している。
1968年には、彼女はマイルズ・デヴィスと邂逅。ベティ・メイブリーはデイヴィスの 『キリマンジャロの娘』(コロムビア,1968年)のジャケット・カヴァーのモデルとして起用された。当時、デイヴィスは女優のシシリー・タイソンと付き合っていたが、こんないいオンナ逃してなるものかと彼女を捨てて19歳年下のメイブリーと速攻で結婚する。とはいえ、その婚姻関係は1968年9月から約1年と短期間だった。
だが、当時のデイヴィスのファッションにせよ音楽性にせよ、間違いなくベティありき。誇張するなら、彼女の気をひくためにデイヴィスのジャズ・ビヨンド化は急進化の一途を辿った。大発展作『ビッチェズ・ブリュー』(コロムビア, 1969年)というアルバム表題は、彼女が提案した。また、不思議なぐらいロック、ソウル界に顔のきいた彼女を介して、デイヴィスはジミ・ヘンドリックスやスライ・ストーンとも会ったという。
デイヴィスと別れて以降、ベティはデイヴィス姓のままシーンを闊歩。一時はロンドンに住みエリック・クラプトン(2006年11月20日)らと浮名を流し、帰国後の1972年にスライ&ザ・ファミリー・ストーンのドラマーだったグレッグ・エリコの制作のもと西海岸ベイ・エリアの逸材が大結集したセルフ・タイトル作 (Just Sunshine)を出し、ロッキッシュな歌手として再デビューする。ハードなファンク・サウンドのもと、彼女は潰した歌声をのせ(それについてはどこか無理があり、僕は好きではない)、ときに歌詞は性的に破廉恥きわまりなく。もうビッチを絵に描いたようなジャケット写真を持つその3作目 『Nasty Gal』(Island,1975年)には旧曲なのかマイルス・デイヴィスと彼女の共作バラード「You And I」も収録された。で、そのアレンジにはなんとギル・エヴァンスの名前が入る。なるほど、そのレイヤー感を持つ管楽器音の重なりはそれなりにエヴァンスっぽい。なお、アイランドからアルバムが出たのは、やはりおつきあいのあったアイランド育ちのロバート・パーマーの推挙によるという。ともあれ、一連のもろもろな所作は、炎上上等。そのスタンスはやはり時代を先取りしていたか。
2016年には、マイルス・デイヴィスとテオ・マセロ制作の未発表曲を中心に当時のマセケラ関与曲なども加えた彼女の 『The Columbia Years 1968-1969』(Light In The Attic,)が発掘リリースされ、そこにはミッチ・ミッチェルやビリー・コックスらジミ・ヘンドリックス関係者や、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、ジョン・マクラフリン、ラリー・ヤングらマイルス・デイヴィス系奏者が録音クレジットに見られる。1976年に録音されつつ眠っていた幻の4作目『Is It Love Or Desire』も同レーベルから発掘リリースされた。
もう私ワタシで、有名人と世間を振り回し、妙なスケール感を持つガチンコな自分を短期間ながら噴出しまくらせた稀有の人物。なんか、あっぱれ。どうぞ、安からに。
▶過去の、ヒュー・マセケラ
http://43142.diarynote.jp/200507220552110000/
▶︎過去の、シシリー・タイソンの訃報
https://43142.diarynote.jp/202101291342418770/
▶︎過去の、エリック・クラプトン
http://43142.diarynote.jp/200611221236140000/
<今日の、振り返り>
NYのアヴァン・ジャズ界のギタリスト/シンガーであるマイケル・グレゴリー・ジャクソン〜ワタクシのヒーローの一人であります〜のフェイスブック投稿共有でたまたま知ったが、ウェイン・ショーター(2001年8月3~5日、2002年8月25日、2004年2月9日、2014年9月7日、2015年9月6日)も『キリマンジャロの娘』のジャケッット・カヴァーとパーソネルを出して、彼女の死に反応している。というのはともかく、改めて同作をすんごく久しぶりに聞いたら、俺の中の共鳴版がごんごん鳴り響き、いささか慌てた。1960年代下半期の一作と言うと、ぼくは『イン・ア・サイレント・ウェイ』一択で、次は『ネフェルティティ』かなあとおぼろげに思っていたが、『イン・ア・サイレント・ウェイ』のアコースティックな前哨戦といった感じもある『キリマンジャロ』の方が鋭くもいいぢゃん。含みを抱えた弛緩と強いインタープレイ意識が導く緊張の絶妙なマリアージュの様に唸ってしまった。そして、あの『ネフェルティティ』はコンサヴァだとまで感じてしまったし、当時の御大は本当に新たなジャズのシェイプ探求に仲間たちと鋭意邁進していたんだと痛感した。過去の音楽プロダクツに対するこうした新たな聴感の書き換えはいろいろあるわけで……。今の音も追いつつ、やはり過去にも目を向けないとなー。それは、後ろ向きではない。うれしい思いを得つつ、音楽に接する時間が限られていることに悲しみも覚えてしまうよー。
▶過去の、ウェイン・ショーター
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-8.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/framepagelive.htm
http://43142.diarynote.jp/200402091738240000/
http://43142.diarynote.jp/201404161959228005/
http://43142.diarynote.jp/201509220833541918/
ノース・カロライナ州生まれ、1960年代初頭にはニューヨークに住むようになり、モデル業その他につく。イケイケ、今で言うならインフルエンサー的なスタンスを彼女は持っていたかもしれない。当時の名は、ベティ・メイブリー。音楽のほうでは1964年にシングルを出し、その後は南ア出身のトランペッター/シンガーのヒュー・マセケラ(2005年7月20日)と交際し、彼のお膳立てでコロムビア・レコードで録音し、シングルを出している。
1968年には、彼女はマイルズ・デヴィスと邂逅。ベティ・メイブリーはデイヴィスの 『キリマンジャロの娘』(コロムビア,1968年)のジャケット・カヴァーのモデルとして起用された。当時、デイヴィスは女優のシシリー・タイソンと付き合っていたが、こんないいオンナ逃してなるものかと彼女を捨てて19歳年下のメイブリーと速攻で結婚する。とはいえ、その婚姻関係は1968年9月から約1年と短期間だった。
だが、当時のデイヴィスのファッションにせよ音楽性にせよ、間違いなくベティありき。誇張するなら、彼女の気をひくためにデイヴィスのジャズ・ビヨンド化は急進化の一途を辿った。大発展作『ビッチェズ・ブリュー』(コロムビア, 1969年)というアルバム表題は、彼女が提案した。また、不思議なぐらいロック、ソウル界に顔のきいた彼女を介して、デイヴィスはジミ・ヘンドリックスやスライ・ストーンとも会ったという。
デイヴィスと別れて以降、ベティはデイヴィス姓のままシーンを闊歩。一時はロンドンに住みエリック・クラプトン(2006年11月20日)らと浮名を流し、帰国後の1972年にスライ&ザ・ファミリー・ストーンのドラマーだったグレッグ・エリコの制作のもと西海岸ベイ・エリアの逸材が大結集したセルフ・タイトル作 (Just Sunshine)を出し、ロッキッシュな歌手として再デビューする。ハードなファンク・サウンドのもと、彼女は潰した歌声をのせ(それについてはどこか無理があり、僕は好きではない)、ときに歌詞は性的に破廉恥きわまりなく。もうビッチを絵に描いたようなジャケット写真を持つその3作目 『Nasty Gal』(Island,1975年)には旧曲なのかマイルス・デイヴィスと彼女の共作バラード「You And I」も収録された。で、そのアレンジにはなんとギル・エヴァンスの名前が入る。なるほど、そのレイヤー感を持つ管楽器音の重なりはそれなりにエヴァンスっぽい。なお、アイランドからアルバムが出たのは、やはりおつきあいのあったアイランド育ちのロバート・パーマーの推挙によるという。ともあれ、一連のもろもろな所作は、炎上上等。そのスタンスはやはり時代を先取りしていたか。
2016年には、マイルス・デイヴィスとテオ・マセロ制作の未発表曲を中心に当時のマセケラ関与曲なども加えた彼女の 『The Columbia Years 1968-1969』(Light In The Attic,)が発掘リリースされ、そこにはミッチ・ミッチェルやビリー・コックスらジミ・ヘンドリックス関係者や、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、ジョン・マクラフリン、ラリー・ヤングらマイルス・デイヴィス系奏者が録音クレジットに見られる。1976年に録音されつつ眠っていた幻の4作目『Is It Love Or Desire』も同レーベルから発掘リリースされた。
もう私ワタシで、有名人と世間を振り回し、妙なスケール感を持つガチンコな自分を短期間ながら噴出しまくらせた稀有の人物。なんか、あっぱれ。どうぞ、安からに。
▶過去の、ヒュー・マセケラ
http://43142.diarynote.jp/200507220552110000/
▶︎過去の、シシリー・タイソンの訃報
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▶︎過去の、エリック・クラプトン
http://43142.diarynote.jp/200611221236140000/
<今日の、振り返り>
NYのアヴァン・ジャズ界のギタリスト/シンガーであるマイケル・グレゴリー・ジャクソン〜ワタクシのヒーローの一人であります〜のフェイスブック投稿共有でたまたま知ったが、ウェイン・ショーター(2001年8月3~5日、2002年8月25日、2004年2月9日、2014年9月7日、2015年9月6日)も『キリマンジャロの娘』のジャケッット・カヴァーとパーソネルを出して、彼女の死に反応している。というのはともかく、改めて同作をすんごく久しぶりに聞いたら、俺の中の共鳴版がごんごん鳴り響き、いささか慌てた。1960年代下半期の一作と言うと、ぼくは『イン・ア・サイレント・ウェイ』一択で、次は『ネフェルティティ』かなあとおぼろげに思っていたが、『イン・ア・サイレント・ウェイ』のアコースティックな前哨戦といった感じもある『キリマンジャロ』の方が鋭くもいいぢゃん。含みを抱えた弛緩と強いインタープレイ意識が導く緊張の絶妙なマリアージュの様に唸ってしまった。そして、あの『ネフェルティティ』はコンサヴァだとまで感じてしまったし、当時の御大は本当に新たなジャズのシェイプ探求に仲間たちと鋭意邁進していたんだと痛感した。過去の音楽プロダクツに対するこうした新たな聴感の書き換えはいろいろあるわけで……。今の音も追いつつ、やはり過去にも目を向けないとなー。それは、後ろ向きではない。うれしい思いを得つつ、音楽に接する時間が限られていることに悲しみも覚えてしまうよー。
▶過去の、ウェイン・ショーター
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-8.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/framepagelive.htm
http://43142.diarynote.jp/200402091738240000/
http://43142.diarynote.jp/201404161959228005/
http://43142.diarynote.jp/201509220833541918/
午後になると曇り空から晴天となり、気分が軽くなって、2つの美術展に突発的に行っちゃう。清澄白河・東京都現代美術館で、ともに3月23日まで開かれる。こんな状況下ゆえ混んではいないのだろうとは思ったが、当日券買えますかと家を出る前に電話で一応尋ねたら、きっぱり大丈夫です。会場内入り口手前に高校生が10人ぐらいいたけど、あれは修学旅行の自由行動の集団? 今、2月にやる学校もけっこうあるというからな。でも、このおり学校側はできるだけリスクを負うのを避ける方向に出ると思われ……。はて。入場料は1800円と1400円だったが、ペアのチケットは2400円だった。
まず、クリチャン・マークレーのほうから見る。自らのアルバムのアート・ワークをしているブツもあり、彼が美術方面にも出張っている人物であるのはおぼろげに知っていたつもりであったが、昨年11月からこの3月までMO+で大々的に彼の展覧会が持たれると知ったときには驚いた。だって、彼はぼくのなかでは1980年代前半に現れたNYアンダーグラウンド/アヴァン音楽界の唯一のターンテーブリストという位置にいるから。
1950年カリフォルニア州生まれ、ジュネーヴ育ち。ボストンの美大を出て、ニューヨークで活動を始める、という経歴をマークレーは持つ。そして、今はロンドンに住んでいるようだ。ジョン・ゾーン(1999年9月24日、2006年1月21日)、ブッチ・モリス、デイヴィッド・モス、エリオット・シャープ(2005年12月11日)、フレッド・フリス(2004年6月9日、2009年1月17日、2016年9月4日)、クロノス・カルテット(2003年12月19日)、大友良英(2002年3月17日、2003年6月28日、2004年2月6日、2004年10月10日、2004年11月7日、2005年4月26日、2006年1月21日、2006年4月18日、2007年4月21日、2009年5月31日、2011年6月8日、2012年3月21日、2013年7月13日、2016年9月4日、2016年10月27日、2019年11月12日)のグラウンド・ゼロなど、彼は様々な人たちのアルバムに参加するとともに、リーダー作も相当数出している。
1970年代後期から昨年にかけての制作物が展示される。入り口にあったのは、映像が映し出される古いPCのモニター群。2005年に東京のリサイクル工場で材料を調達して作られたようだが、そこにはPC、消費が連鎖する物質社会に対する悪意があるような。いや、<リサイクル工場のためのプロジェクト>という表題からするに、再生賛歌の気持ちがフツーに横たわっている? まあ、いろいろ感じさせるのはマル。彼は日本通のジョン・ゾーンと仲良しなだけあって、日本の漫画を素材に置く展示コーナーも複数あった。
やはり、アナログ・レコード絡みのプロダクツは多い。なかの盤を自在に再構成したり、レコード・ジャケットも切り貼りしたりし、そこから諧謔や批評を浮き上がらせる。それらは、リミックス感覚に貫かれるとも言えるか。発想はいろいろ。口や指の様々な写真だけで構成される一群もあり。それらに触れ、トランク・ルームに眠っているアナログ・レコードを用い、オレもなんかやったろうかという欲望も芽生える。でも、アナログには愛着があるから、切り刻むのは抵抗があるかな。同様に山ほど眠っているCDやCDシングルを用いてなんかしてみようか。←そちらの大半には、なんの未練もない。いやはや、コラージュ調の大きな作品にしてもそうだが、オレもなんかしてえという気持ちを鼓舞するなあ。
また、映像作品群展示もあるのだが、それがまた素晴らしい。一つは<ヴィデオ・カルテット>。それは属性の異なる楽器にまつわる山ほどの映像を4つ横に並べ随時スウィッチング、付随する音込みでそれらを映すというもの。その違和感を感じなくては嘘な総体は不思議な局面(調和と書いてしまうと、少し違うよな)を生み出すとともに、本来バラバラなはずのオリジナル楽器音は重なることで騙し絵的にもう一つの楽曲になってしまう。すげえな。また、<サラウンド・サウンズ>と名付けられた広い空間での出し物にも圧倒された。漫画のカラフルなカット・アップ/コラーシュ映像で成り立つようだが、部屋中の壁にクリエイティヴ極まりない色と模様の波が効果的に映し出される様には、もう……。うひょー、と言うしかありません。
あとぼくが頷いたのは、<グラフィティ・コンポジション>というコーナー。1996年ベルリンで行われた催しで、マークレーは街にデフォルト五線譜だけが印刷されたポスターを5000枚街頭に貼り、それに人々が音符からただの落書きまでいろんなものを書いたものを回収。うち150枚を組み、それは実際の即興演奏のガイドとして使われた。のちに、マークレーは『Graffiti Composition』( Dog w/a Bone)というアルバムを出した。今回の会場は楽譜(?)展示だけだったが、このアルバム音を流してほしかった。
そのCD『Graffiti Composition』は2006年9月にニューヨークのMoMaでなされた実演を収めたもので、制作/まとめ役はエリオット・シャープ(2005年12月11日)がしており、メルヴィン・ギブス(1999年12月18日、2002年9月9日、2004年11月21日、2014年10月26日、2017年6月23日、2018年10月23日)、メアリー・ハルヴォーソン(2018年7月24日)、ソニック・ユース( 2001年2月20日、2007年4月20日)にいたリー・ラナルド 、ヴァーノン・リード(2000年8月13日、2008年12月16日、2015年10月26日)という面々で演奏されている。
とかなんとか、おおいに勧めます。
▶︎過去の、ジョン・ゾーン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/september1999live.htm
http://43142.diarynote.jp/200601271857530000/
▶︎過去の、エリオット・シャープ
http://43142.diarynote.jp/200512140951100000/
▶︎過去の、フレッド・フリス
http://43142.diarynote.jp/200406090118170000/
http://43142.diarynote.jp/200901181343426080/
http://43142.diarynote.jp/201609201052518160/
▶︎過去の、クロノス・カルテット
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-12.htm
▶︎過去の、大友良英
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm
http://43142.diarynote.jp/200402061359140000/
http://43142.diarynote.jp/200410162220330000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20041107
http://43142.diarynote.jp/200504301042210000/
http://43142.diarynote.jp/200601271857530000/
http://43142.diarynote.jp/200604210538510000/
http://43142.diarynote.jp/200704251227010000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090531
http://43142.diarynote.jp/201106141341111340/
http://43142.diarynote.jp/201203260805006088/
http://43142.diarynote.jp/201307160735048974/
http://43142.diarynote.jp/201609201052518160/
https://43142.diarynote.jp/201610310943306583/
https://43142.diarynote.jp/201911131405562579/
▶過去の、メルヴィン・ギブス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/december1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://43142.diarynote.jp/200411231722390000/
http://43142.diarynote.jp/201410301512336095/
http://43142.diarynote.jp/201706240934237865/
https://43142.diarynote.jp/201810240904066739/
▶︎過去の、メアリー・ハルヴォーソン
https://43142.diarynote.jp/201807260047172162/
▶過去の、リー・ナルド/ソニック・ユース
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm
http://43142.diarynote.jp/200704251225580000/
▶過去の、ヴァーノン・リード
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm 8/13
http://43142.diarynote.jp/?day=20081216
http://43142.diarynote.jp/201510290732352521/
そして、もう一つは1937年新潟県生まれ、ニューヨークで長年前衛流れの表現を求め続けた久保田成子の仕事を伝える展覧会だ。彼女は東京教育大で美術を専攻したのち、都内中学校の美術の教師をしながら彫刻系の自己表現を世に問い始める。すでにそのころ4歳年長のオノ・ヨーコ(彼女は、1962〜64年は日本に帰国していた)とも付き合いを持っていた。そして、教師を辞めた1964年に自己表現をがっつり問える場を求め、彼女はニューヨークに渡る。いやあ、やっぱり1ドルが360円に固定されていた時代に海外に渡る人は根性が入っているよなあ。というわけで、この展は彼女のプロダクツを知らせるとともに、彼女の人生やパーソナリティを紹介する方向にある。だから、彼女の書簡、彼女が映った写真群、1970年代に美術手帖にNYからリポートしていたという記事などの展示もある。ヴェトナム人に扮し役者出演した映画も紹介されるし、周辺にいた人たちも伝えるなど、彼女にまつわるものがいろいろ。高校時代の絵もあった。
というわけで、展示は時系列でなされる。1960〜70年代に新風を吹かせ続けた芸術集団のフルクサスにも渡米した当初から属し、オノ・ヨーコのような発想ありきのクリエイター活動をし、なかには<ヴァギナ・ペインティング>というパンクな所作をしたこともあった。それ、言葉から多くの人が思い浮かべるものよりも過激だ。トホホでもあるか。
そんな彼女は1970年代前半にヴィデオと出会い(ビデオ・デンスケと呼ばれた、ソニーのDV-2400というヴィデオ・カメラが用いられた)、これこそが私を表現する最良の手段とばかり、映像を用いる方向の活動に邁進する。そして、彼女は映像を送り出す設定にも懲り、もう一つの感興を受容する者に与えた。オブジェとヴィデオの再生画像を組み合わせた手法は“ビデオ彫刻”と呼ばれたよう。展示物を見ると、実はそうした装置に付けられたヴィジョンに映像が映し出されていないものがあったり、また映像自体も画質が悪いものも少なくない。それに接し、磨き直すことはできなかったのかと一瞬思ったが、<彼女のヴィデオ作品は日記のよう>というような関係者の言葉が紹介されており、画質を良くするとうディレクションは当時の彼女の生きた日々を変質させることにつながるかとぼくは思った。
かなり先進的なヴィジョンのもと、好奇心旺盛に創作にあたっていたことがとても分かる。ちなみに、4人姉妹の末っ子だった彼女の両親はともに教師で、母親は音楽の先生であったという。そんなこともあってか彼女は音楽好きでもあったようで、音楽との関わりもいろいろ持った人物であったことも示される。そうした事実はなにより、彼女の旦那さんにも表れているだろう。最初の夫は、現代音楽の作曲家でありシンセサイザー音楽の嚆矢となったデイヴィッド・バーマン(久保田と同い年、存命)。そして、再婚の相手はジョン・ケイジ他なにかと音楽家と繋がりも持ったヴィデオ・アートの第一人者であるナム・ジュン・パイク(1932年7月20日〜2006年1月29日)だった。しかし、オノ(2018年9月11日)にせよバーマンにしろパイクにせよ、とても富ある家庭の出だな。久保田もおじいさんは名士であったよう。
そんな彼女の<セクシャル・ヒーリング>という4分の1998年発表映像作品はパイクが脳梗塞で倒れた際〜そのとき、彼女は創作活動を控えて介護にあたったという〜の、彼のリハビリの模様を編集したもの。どこかほんわか、ユーモラスでもあるそのモノクロ映像には、マーヴィン・ゲイの同名のあの曲がまんまつけられていた。
彼女は、2015年にニューヨークで逝去。なんか、とっても尊い生き方をした女性。そんな感想しか、出てこない。もちろん、お勧めします。
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
https://43142.diarynote.jp/201809121745334226/ 新作
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/201105282358273180/ ショーン・レノンの、両親を語るインタヴュー付き
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う展覧会
https://43142.diarynote.jp/202010081306571190/
▶︎過去の、ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm 15日
▶過去の、︎フルクサスに属した人物の映画
https://43142.diarynote.jp/201901091047191151/
<今日の、インタヴュー>
午前中、zoomでアルト・サックス奏者のチャールズ・マクファーソンに取材する。1978年いこう居住するサンディエゴの自宅(の、ピアノが置いてある居間)で彼は対応してくれたが、82歳ながら頭髪フサフサ、格好良くもいい感じであったな。1939年ミズーリ州生まれ、デトロイト育ち。高校時代にジェイムズ・ジェマーソンやピストル・アレンら後のザ・ファンク・ブラザーズ(2006年4月11日)の構成員たちと演奏することもし、ジェマーソンは当時ダブル・ベースを弾いていたもののモータウンのセッションに関わるようになって電気ベースを手にするようになり、すると“エレクトリック・ベースのチャーリー・パーカー”と呼ばれたんだそう。マクファーソンはアルト奏者ゆえパーカー派となる奏者だが、モータウンの前身が設立された1959年に一度は行ってみなきゃとニューヨークに向かい、彼の演奏を聞いたチャールズ・ミンガスに認められ、1960年にミンガス・グループ入りした。当時、そこでアルト・サックス奏者を務めていたのは、エリック・ドルフィーだった。アルバムによって参加者が流動的だったりするが(唯一変わらなかったのが、ドラマーのダニー・リッチモンド。そんな彼も1970年代前半に、突然UKロック・ユニットのマーク=アーモンドのメンバーになってしまったことがあった)、マクファーソンは1972年までミンガスのグループに在籍した。彼がプレスティッジからリーダー作を出すようになったのは、1965年から。マクファーソンはキャンディドやジャズ・ワークショップという強面レーベルから出ているミンガスのアルバム群にはほぼ入っているか。
今回の取材は、ユニヴァーサル・ミュージックが現在カタログを持つ8作品がリイッシューされるのに際し、数少ないミンガス・バンドの存命者であるマクファーソンが彼のことを語りますという名目でなされた。だいぶCovid-19 も収まってきた(と、彼は言った)ので近く自己グループでツアーに出るという彼だが、その近作は『Jazz Dance Suites』(Chazz Mack Music ,2020年)。実はそれ、彼が嘱託作曲家を務めているサンディエゴ・バレエ団のために2015、2016、2019年に書いた音楽を7人(うち一人は女性シンガー)にて再録音したもの。舞踏と結びついているため、ハード・パップでありつつ曲趣は多彩。全曲マクファーソン作で、そこに収められたサックス音は艶やかにして、雄弁だ。それについては、驚かされる。ジャケット・カヴァーには一人のダンサーも小さく載せられているが、それは娘のカミヨーさん。52歳のときの子供である彼女は8年だかサンディエゴ・バレエ団のソリストを務めている。彼女のインスタグラムには父娘の写真も載せられているが、ホントいい感じだ。
とても、楽しい時間を持てた。ぼくは1993年にコンパイルした“ソウル・ソサエティ”・シリーズのなかの『Prestige #7000’s "Good ’n’ Groovy"』(ビクター、1993年)に彼のポップな「リトル・シュガー・ベイビー」(1968年『From This Moment On!』に収録されている)を入れたことがあったが、ここに来て単純なぼくのマクファーソンへの思いが爆上がり中。うーん、来日の機会がまたないものか。取材原稿は、ユニバーサル・ミュージックのウェッブ<BLUE NOTE CLUB>に出ます。
▶︎過去の、ファンク・ブラザーズ
http://43142.diarynote.jp/200604141318090000/
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-12.htm 映画
まず、クリチャン・マークレーのほうから見る。自らのアルバムのアート・ワークをしているブツもあり、彼が美術方面にも出張っている人物であるのはおぼろげに知っていたつもりであったが、昨年11月からこの3月までMO+で大々的に彼の展覧会が持たれると知ったときには驚いた。だって、彼はぼくのなかでは1980年代前半に現れたNYアンダーグラウンド/アヴァン音楽界の唯一のターンテーブリストという位置にいるから。
1950年カリフォルニア州生まれ、ジュネーヴ育ち。ボストンの美大を出て、ニューヨークで活動を始める、という経歴をマークレーは持つ。そして、今はロンドンに住んでいるようだ。ジョン・ゾーン(1999年9月24日、2006年1月21日)、ブッチ・モリス、デイヴィッド・モス、エリオット・シャープ(2005年12月11日)、フレッド・フリス(2004年6月9日、2009年1月17日、2016年9月4日)、クロノス・カルテット(2003年12月19日)、大友良英(2002年3月17日、2003年6月28日、2004年2月6日、2004年10月10日、2004年11月7日、2005年4月26日、2006年1月21日、2006年4月18日、2007年4月21日、2009年5月31日、2011年6月8日、2012年3月21日、2013年7月13日、2016年9月4日、2016年10月27日、2019年11月12日)のグラウンド・ゼロなど、彼は様々な人たちのアルバムに参加するとともに、リーダー作も相当数出している。
1970年代後期から昨年にかけての制作物が展示される。入り口にあったのは、映像が映し出される古いPCのモニター群。2005年に東京のリサイクル工場で材料を調達して作られたようだが、そこにはPC、消費が連鎖する物質社会に対する悪意があるような。いや、<リサイクル工場のためのプロジェクト>という表題からするに、再生賛歌の気持ちがフツーに横たわっている? まあ、いろいろ感じさせるのはマル。彼は日本通のジョン・ゾーンと仲良しなだけあって、日本の漫画を素材に置く展示コーナーも複数あった。
やはり、アナログ・レコード絡みのプロダクツは多い。なかの盤を自在に再構成したり、レコード・ジャケットも切り貼りしたりし、そこから諧謔や批評を浮き上がらせる。それらは、リミックス感覚に貫かれるとも言えるか。発想はいろいろ。口や指の様々な写真だけで構成される一群もあり。それらに触れ、トランク・ルームに眠っているアナログ・レコードを用い、オレもなんかやったろうかという欲望も芽生える。でも、アナログには愛着があるから、切り刻むのは抵抗があるかな。同様に山ほど眠っているCDやCDシングルを用いてなんかしてみようか。←そちらの大半には、なんの未練もない。いやはや、コラージュ調の大きな作品にしてもそうだが、オレもなんかしてえという気持ちを鼓舞するなあ。
また、映像作品群展示もあるのだが、それがまた素晴らしい。一つは<ヴィデオ・カルテット>。それは属性の異なる楽器にまつわる山ほどの映像を4つ横に並べ随時スウィッチング、付随する音込みでそれらを映すというもの。その違和感を感じなくては嘘な総体は不思議な局面(調和と書いてしまうと、少し違うよな)を生み出すとともに、本来バラバラなはずのオリジナル楽器音は重なることで騙し絵的にもう一つの楽曲になってしまう。すげえな。また、<サラウンド・サウンズ>と名付けられた広い空間での出し物にも圧倒された。漫画のカラフルなカット・アップ/コラーシュ映像で成り立つようだが、部屋中の壁にクリエイティヴ極まりない色と模様の波が効果的に映し出される様には、もう……。うひょー、と言うしかありません。
あとぼくが頷いたのは、<グラフィティ・コンポジション>というコーナー。1996年ベルリンで行われた催しで、マークレーは街にデフォルト五線譜だけが印刷されたポスターを5000枚街頭に貼り、それに人々が音符からただの落書きまでいろんなものを書いたものを回収。うち150枚を組み、それは実際の即興演奏のガイドとして使われた。のちに、マークレーは『Graffiti Composition』( Dog w/a Bone)というアルバムを出した。今回の会場は楽譜(?)展示だけだったが、このアルバム音を流してほしかった。
そのCD『Graffiti Composition』は2006年9月にニューヨークのMoMaでなされた実演を収めたもので、制作/まとめ役はエリオット・シャープ(2005年12月11日)がしており、メルヴィン・ギブス(1999年12月18日、2002年9月9日、2004年11月21日、2014年10月26日、2017年6月23日、2018年10月23日)、メアリー・ハルヴォーソン(2018年7月24日)、ソニック・ユース( 2001年2月20日、2007年4月20日)にいたリー・ラナルド 、ヴァーノン・リード(2000年8月13日、2008年12月16日、2015年10月26日)という面々で演奏されている。
とかなんとか、おおいに勧めます。
▶︎過去の、ジョン・ゾーン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/september1999live.htm
http://43142.diarynote.jp/200601271857530000/
▶︎過去の、エリオット・シャープ
http://43142.diarynote.jp/200512140951100000/
▶︎過去の、フレッド・フリス
http://43142.diarynote.jp/200406090118170000/
http://43142.diarynote.jp/200901181343426080/
http://43142.diarynote.jp/201609201052518160/
▶︎過去の、クロノス・カルテット
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-12.htm
▶︎過去の、大友良英
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm
http://43142.diarynote.jp/200402061359140000/
http://43142.diarynote.jp/200410162220330000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20041107
http://43142.diarynote.jp/200504301042210000/
http://43142.diarynote.jp/200601271857530000/
http://43142.diarynote.jp/200604210538510000/
http://43142.diarynote.jp/200704251227010000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090531
http://43142.diarynote.jp/201106141341111340/
http://43142.diarynote.jp/201203260805006088/
http://43142.diarynote.jp/201307160735048974/
http://43142.diarynote.jp/201609201052518160/
https://43142.diarynote.jp/201610310943306583/
https://43142.diarynote.jp/201911131405562579/
▶過去の、メルヴィン・ギブス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/december1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://43142.diarynote.jp/200411231722390000/
http://43142.diarynote.jp/201410301512336095/
http://43142.diarynote.jp/201706240934237865/
https://43142.diarynote.jp/201810240904066739/
▶︎過去の、メアリー・ハルヴォーソン
https://43142.diarynote.jp/201807260047172162/
▶過去の、リー・ナルド/ソニック・ユース
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm
http://43142.diarynote.jp/200704251225580000/
▶過去の、ヴァーノン・リード
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm 8/13
http://43142.diarynote.jp/?day=20081216
http://43142.diarynote.jp/201510290732352521/
そして、もう一つは1937年新潟県生まれ、ニューヨークで長年前衛流れの表現を求め続けた久保田成子の仕事を伝える展覧会だ。彼女は東京教育大で美術を専攻したのち、都内中学校の美術の教師をしながら彫刻系の自己表現を世に問い始める。すでにそのころ4歳年長のオノ・ヨーコ(彼女は、1962〜64年は日本に帰国していた)とも付き合いを持っていた。そして、教師を辞めた1964年に自己表現をがっつり問える場を求め、彼女はニューヨークに渡る。いやあ、やっぱり1ドルが360円に固定されていた時代に海外に渡る人は根性が入っているよなあ。というわけで、この展は彼女のプロダクツを知らせるとともに、彼女の人生やパーソナリティを紹介する方向にある。だから、彼女の書簡、彼女が映った写真群、1970年代に美術手帖にNYからリポートしていたという記事などの展示もある。ヴェトナム人に扮し役者出演した映画も紹介されるし、周辺にいた人たちも伝えるなど、彼女にまつわるものがいろいろ。高校時代の絵もあった。
というわけで、展示は時系列でなされる。1960〜70年代に新風を吹かせ続けた芸術集団のフルクサスにも渡米した当初から属し、オノ・ヨーコのような発想ありきのクリエイター活動をし、なかには<ヴァギナ・ペインティング>というパンクな所作をしたこともあった。それ、言葉から多くの人が思い浮かべるものよりも過激だ。トホホでもあるか。
そんな彼女は1970年代前半にヴィデオと出会い(ビデオ・デンスケと呼ばれた、ソニーのDV-2400というヴィデオ・カメラが用いられた)、これこそが私を表現する最良の手段とばかり、映像を用いる方向の活動に邁進する。そして、彼女は映像を送り出す設定にも懲り、もう一つの感興を受容する者に与えた。オブジェとヴィデオの再生画像を組み合わせた手法は“ビデオ彫刻”と呼ばれたよう。展示物を見ると、実はそうした装置に付けられたヴィジョンに映像が映し出されていないものがあったり、また映像自体も画質が悪いものも少なくない。それに接し、磨き直すことはできなかったのかと一瞬思ったが、<彼女のヴィデオ作品は日記のよう>というような関係者の言葉が紹介されており、画質を良くするとうディレクションは当時の彼女の生きた日々を変質させることにつながるかとぼくは思った。
かなり先進的なヴィジョンのもと、好奇心旺盛に創作にあたっていたことがとても分かる。ちなみに、4人姉妹の末っ子だった彼女の両親はともに教師で、母親は音楽の先生であったという。そんなこともあってか彼女は音楽好きでもあったようで、音楽との関わりもいろいろ持った人物であったことも示される。そうした事実はなにより、彼女の旦那さんにも表れているだろう。最初の夫は、現代音楽の作曲家でありシンセサイザー音楽の嚆矢となったデイヴィッド・バーマン(久保田と同い年、存命)。そして、再婚の相手はジョン・ケイジ他なにかと音楽家と繋がりも持ったヴィデオ・アートの第一人者であるナム・ジュン・パイク(1932年7月20日〜2006年1月29日)だった。しかし、オノ(2018年9月11日)にせよバーマンにしろパイクにせよ、とても富ある家庭の出だな。久保田もおじいさんは名士であったよう。
そんな彼女の<セクシャル・ヒーリング>という4分の1998年発表映像作品はパイクが脳梗塞で倒れた際〜そのとき、彼女は創作活動を控えて介護にあたったという〜の、彼のリハビリの模様を編集したもの。どこかほんわか、ユーモラスでもあるそのモノクロ映像には、マーヴィン・ゲイの同名のあの曲がまんまつけられていた。
彼女は、2015年にニューヨークで逝去。なんか、とっても尊い生き方をした女性。そんな感想しか、出てこない。もちろん、お勧めします。
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
https://43142.diarynote.jp/201809121745334226/ 新作
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/201105282358273180/ ショーン・レノンの、両親を語るインタヴュー付き
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う展覧会
https://43142.diarynote.jp/202010081306571190/
▶︎過去の、ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm 15日
▶過去の、︎フルクサスに属した人物の映画
https://43142.diarynote.jp/201901091047191151/
<今日の、インタヴュー>
午前中、zoomでアルト・サックス奏者のチャールズ・マクファーソンに取材する。1978年いこう居住するサンディエゴの自宅(の、ピアノが置いてある居間)で彼は対応してくれたが、82歳ながら頭髪フサフサ、格好良くもいい感じであったな。1939年ミズーリ州生まれ、デトロイト育ち。高校時代にジェイムズ・ジェマーソンやピストル・アレンら後のザ・ファンク・ブラザーズ(2006年4月11日)の構成員たちと演奏することもし、ジェマーソンは当時ダブル・ベースを弾いていたもののモータウンのセッションに関わるようになって電気ベースを手にするようになり、すると“エレクトリック・ベースのチャーリー・パーカー”と呼ばれたんだそう。マクファーソンはアルト奏者ゆえパーカー派となる奏者だが、モータウンの前身が設立された1959年に一度は行ってみなきゃとニューヨークに向かい、彼の演奏を聞いたチャールズ・ミンガスに認められ、1960年にミンガス・グループ入りした。当時、そこでアルト・サックス奏者を務めていたのは、エリック・ドルフィーだった。アルバムによって参加者が流動的だったりするが(唯一変わらなかったのが、ドラマーのダニー・リッチモンド。そんな彼も1970年代前半に、突然UKロック・ユニットのマーク=アーモンドのメンバーになってしまったことがあった)、マクファーソンは1972年までミンガスのグループに在籍した。彼がプレスティッジからリーダー作を出すようになったのは、1965年から。マクファーソンはキャンディドやジャズ・ワークショップという強面レーベルから出ているミンガスのアルバム群にはほぼ入っているか。
今回の取材は、ユニヴァーサル・ミュージックが現在カタログを持つ8作品がリイッシューされるのに際し、数少ないミンガス・バンドの存命者であるマクファーソンが彼のことを語りますという名目でなされた。だいぶCovid-19 も収まってきた(と、彼は言った)ので近く自己グループでツアーに出るという彼だが、その近作は『Jazz Dance Suites』(Chazz Mack Music ,2020年)。実はそれ、彼が嘱託作曲家を務めているサンディエゴ・バレエ団のために2015、2016、2019年に書いた音楽を7人(うち一人は女性シンガー)にて再録音したもの。舞踏と結びついているため、ハード・パップでありつつ曲趣は多彩。全曲マクファーソン作で、そこに収められたサックス音は艶やかにして、雄弁だ。それについては、驚かされる。ジャケット・カヴァーには一人のダンサーも小さく載せられているが、それは娘のカミヨーさん。52歳のときの子供である彼女は8年だかサンディエゴ・バレエ団のソリストを務めている。彼女のインスタグラムには父娘の写真も載せられているが、ホントいい感じだ。
とても、楽しい時間を持てた。ぼくは1993年にコンパイルした“ソウル・ソサエティ”・シリーズのなかの『Prestige #7000’s "Good ’n’ Groovy"』(ビクター、1993年)に彼のポップな「リトル・シュガー・ベイビー」(1968年『From This Moment On!』に収録されている)を入れたことがあったが、ここに来て単純なぼくのマクファーソンへの思いが爆上がり中。うーん、来日の機会がまたないものか。取材原稿は、ユニバーサル・ミュージックのウェッブ<BLUE NOTE CLUB>に出ます。
▶︎過去の、ファンク・ブラザーズ
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R.I.P.シル・ジョンソン( 1936年7月1日〜2022年2月6日?)
2022年2月7日 音楽 ちょい前に兄のジミー・ジョンソンの訃報(2022年2月1日)を聞き、長生き家系なのかと書いたら、なんと弟のシル・ジョンソン(2014年7月29日)もお亡くなりになってしまった。享年85、死因は明らかにされていない。二人の名義の『Two Johnsons Are Better Than On』(Evidence,2002年)はいろんなタイプのブルース曲が収められた好盤だった。とくに、JBビートのオープナーが格好いい。
ミシシッピー州ホリー・スプリングの生まれ。1950年ごろに家族でシカゴに引っ越し、以後はシカゴを拠点としている。当初はブルースのギタリスト/ハーモニカ奏者として活動し、ソロとしては1959 年にはキング傘下のフェデラルに初吹き込みした。
1960年代中期にはシカゴのトゥワイライト/トゥワイナイトにレコーディングしだし、初アルバム『Dresses Too Short 』(Twinight,1968年)を聞くと、南部色も持つソウル・シンガーという姿を出している。1969年にはキング牧師暗殺を受けて書いたマイナー・キーのブルージィ曲「 Is It Because I’m Black?」(Twinight)がR&Bチャート11位まで登った。そして、1970年代に入ると彼はメンフィスのハイ・レコードと契約。しょっぱい、でもどこか都会的なソウル・マン像をアピールするアルバムを4作リリースする。この時期が彼にとって、一番華やかな時期になるだろうか。
ハイから離れた1980年代に彼は自己レーベルのシャマや仏イザベルなどからアルバムをリリースするものの、1980年代後半には引退状態となる。フィッシュ&チップスのチェーン店を経営したり不動産投資をするなど、実業家の道に入ったからのよう。そんな彼が前線に戻ったのは、1990年代に入るとヒップホッパーたちによる彼のプロダクツのサンプリング需要が相次ぎ、やっぱオレの出番だナと思ったから。シカゴの重鎮レーベルであるデルマーク発の復帰盤『Back In the Game』はハイのミュージシャンたちとの録音で、彼の三女でまだ10代だったシリーナ・ジョンソン(2003年1月28日)も入った。
米国の訃報を伝えるネット記事を見ると、ほとんどの見出しが、彼がヒップホッパーたちへのサンプリング提供王であることを掲げている。まずは彼の音楽性を出してよと思わなくもないが、パブリック・エネミー(2005年8月14日、2009年7月25日)、カニエ・ウェスト(2007年3月31日)、ジェイ・Z(2010年8月7日)、ウータン・クランらにサンプリングされた1967年曲「Different Strokes」をはじめ、ブルースとつながっていることが幸いしただろう彼の引っ掛かりのあるトラックは多々引用された。それを受けて、彼は著作権を主張し、生涯困らない富を得た。1990年代後期になると、彼の音楽性はブルース回帰色を強めたが、それはソウルっぽいことをしないとセールスに結びつかないというかつての彼の判断を示唆する?
2015年にはロブ・ハッチ監督にドキュメンタリー『Syl Johnson: Any Way the Wind Blows』が作られたが、それも彼のサンプリング需要がなかったら制作されなかったのではないだろうか。→その映画のトレイラーは https://vimeo.com/ondemand/syljohnsonmovie
▶︎過去の、シル・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/201408051721103640/
▶︎過去の、ジミー・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/202202021321255619/
▶過去の、シリーナ・ジョンソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-1.htm
▶︎過去の、チャック・D/パブリック・エネミー
http://43142.diarynote.jp/?day=20050814
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725
▶︎過去の、カニエ・ウェスト
https://43142.diarynote.jp/200704011614290000/
▶過去の、ジェイ・Z
http://43142.diarynote.jp/201008261617154352/
<今日の、ムスメ>
1976年生まれのシリーナ・ジョンソンはデビュー作『Love Hangover』 (Twinight,1998年)を出していこう、ジャイヴ、シャナキー、E-1からアルバムを順調にリリースしてきている。大学で学び直すということもしており、強く明晰な女性というパブリック・イメージを獲得しており、タレント/文化人的な活動も彼女はしている。2度結婚していて、二番目の旦那は大学バスケット・ボールで知られた人のよう。子供も二人授かっている。シルの奥さん、つまりお母さんはシカゴ地区の警察で黒人女性で初めて重職についた人のようだが、アルコール中毒に苦しんだこともあった。
ミシシッピー州ホリー・スプリングの生まれ。1950年ごろに家族でシカゴに引っ越し、以後はシカゴを拠点としている。当初はブルースのギタリスト/ハーモニカ奏者として活動し、ソロとしては1959 年にはキング傘下のフェデラルに初吹き込みした。
1960年代中期にはシカゴのトゥワイライト/トゥワイナイトにレコーディングしだし、初アルバム『Dresses Too Short 』(Twinight,1968年)を聞くと、南部色も持つソウル・シンガーという姿を出している。1969年にはキング牧師暗殺を受けて書いたマイナー・キーのブルージィ曲「 Is It Because I’m Black?」(Twinight)がR&Bチャート11位まで登った。そして、1970年代に入ると彼はメンフィスのハイ・レコードと契約。しょっぱい、でもどこか都会的なソウル・マン像をアピールするアルバムを4作リリースする。この時期が彼にとって、一番華やかな時期になるだろうか。
ハイから離れた1980年代に彼は自己レーベルのシャマや仏イザベルなどからアルバムをリリースするものの、1980年代後半には引退状態となる。フィッシュ&チップスのチェーン店を経営したり不動産投資をするなど、実業家の道に入ったからのよう。そんな彼が前線に戻ったのは、1990年代に入るとヒップホッパーたちによる彼のプロダクツのサンプリング需要が相次ぎ、やっぱオレの出番だナと思ったから。シカゴの重鎮レーベルであるデルマーク発の復帰盤『Back In the Game』はハイのミュージシャンたちとの録音で、彼の三女でまだ10代だったシリーナ・ジョンソン(2003年1月28日)も入った。
米国の訃報を伝えるネット記事を見ると、ほとんどの見出しが、彼がヒップホッパーたちへのサンプリング提供王であることを掲げている。まずは彼の音楽性を出してよと思わなくもないが、パブリック・エネミー(2005年8月14日、2009年7月25日)、カニエ・ウェスト(2007年3月31日)、ジェイ・Z(2010年8月7日)、ウータン・クランらにサンプリングされた1967年曲「Different Strokes」をはじめ、ブルースとつながっていることが幸いしただろう彼の引っ掛かりのあるトラックは多々引用された。それを受けて、彼は著作権を主張し、生涯困らない富を得た。1990年代後期になると、彼の音楽性はブルース回帰色を強めたが、それはソウルっぽいことをしないとセールスに結びつかないというかつての彼の判断を示唆する?
2015年にはロブ・ハッチ監督にドキュメンタリー『Syl Johnson: Any Way the Wind Blows』が作られたが、それも彼のサンプリング需要がなかったら制作されなかったのではないだろうか。→その映画のトレイラーは https://vimeo.com/ondemand/syljohnsonmovie
▶︎過去の、シル・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/201408051721103640/
▶︎過去の、ジミー・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/202202021321255619/
▶過去の、シリーナ・ジョンソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-1.htm
▶︎過去の、チャック・D/パブリック・エネミー
http://43142.diarynote.jp/?day=20050814
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725
▶︎過去の、カニエ・ウェスト
https://43142.diarynote.jp/200704011614290000/
▶過去の、ジェイ・Z
http://43142.diarynote.jp/201008261617154352/
<今日の、ムスメ>
1976年生まれのシリーナ・ジョンソンはデビュー作『Love Hangover』 (Twinight,1998年)を出していこう、ジャイヴ、シャナキー、E-1からアルバムを順調にリリースしてきている。大学で学び直すということもしており、強く明晰な女性というパブリック・イメージを獲得しており、タレント/文化人的な活動も彼女はしている。2度結婚していて、二番目の旦那は大学バスケット・ボールで知られた人のよう。子供も二人授かっている。シルの奥さん、つまりお母さんはシカゴ地区の警察で黒人女性で初めて重職についた人のようだが、アルコール中毒に苦しんだこともあった。
R.I.P. ダニー・ジェラード(1946〜2022年)
2022年2月6日 音楽 スターたちの表現を影で支えた女性サポート歌手たちにスポットを当てた『バックコーラスの歌姫たち(原題:20 Feet from Stardom)』という2013年米国映画があるが、その男性版があるとしたらキャスティングされてもおかしくいような男性シンガーがお亡くなりになった。たとえば1980年代の売れっ子のアフリカ系男性セッション・シンガーというと、ぼくはフォンジー・ソーントンやカーティス・キングといったニューヨークをベースにしていた人たちをまず思い浮かべるが、ジェラードは西海岸に拠点を置いていたことはポイントだ。
カナダ生まれ、ヴァンクーヴァーで結成されたスカイラークに加入。同バンドはのちにプロデューサーとして大成するデイヴィッド・フォスター(2011年10月19日、2018年11月29日)が中心となったバンドで白人と黒人、男性と女性(女性シンガーのB.J.クックはフォスターと結婚。B.J.クック・フォスターとしてクレジットされた2作目ではカヴァー写真には載せられていない)が混在するソウル味も抱えるポップ・ロック・バンドだった。1972年と1974年には米キャピトルからアルバムをリリース、録音もそうだし、そのころ面々は米国に住んでいたかもしれない。ヴォーカル・ワークに力を入れるバンドで、その総体は曲のいくつかは自前で作れる(フォスターが多くの曲を書いていたわけではない)スリー・ドッグ・ナイトなるものという戦略がキャピトルにはあったか。
スカイラーク解散後、彼はセッション・ワークをしながらシンガー活動を始める。1975年にエルトン・ジョンの『キャプテン・ファンタスティック』(DJM)に参加した縁だろうか、エルトン・ジョンが仲間たちと作ったレーベルのロケットからシングルをリリースしたよう。翌年には、LAのディスコ系インディであるグリーディからセルフ・タイトルのリーダー作をロビー・ブキャナンの制作で発表。そこには品のいいディスコ調曲から訥々と歌うザ・ビートルズ「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のカヴァーまでが収録された。また、彼は2000年にバラードものでまとめる『The Romantic 』を自己レーベルのフリクエンシーからも出しており、おそらく彼自身のアルバムはその2作品だけと思われる。
それらを聞くと、いかようにもあわせられますという感じの、癖のないジェントルな持ち味を抱えた歌い手で、あちらにはスムース・ソウル・シンガーという記載があるのにも納得できよう。その感触はどこかバラードを歌う際のライオネル・リーチーとも重なると思えたりするが、彼は実際にリッチーが抜けたザ・コモドアーズから誘われたことがあっという。1970年代中期からスタジオ界で活躍。ドノヴァン、ベット・ミドラー、エリック・カルメン、イヴォンヌ・エリマン、リタ・クーリッジ、B.B.キング(2007年2月3日)、アーロン・ネヴィル(2004 年9月18日、2012年5月14日)、ニール・ダイアモンド、スティーヴ・ウッズ、ピンク・フロイド、ブレンダ・ラッセル、ザ・カルト、ボブ・シーガー、リンダ・ロンシュタット、ヴァン・ダイク・パークス(2013年1月29日)など参加したアルバムは様々。そして、彼は2010年近くになると大御所メイヴィス・ステイプルズから気に入られ彼女アルバムにいろいろ参加、ライヴ盤にも入っているのでツアーにも帯同していたと思われる。また、彼はTVコマーシャルの歌入れとか、周辺の需要にも事欠かなかった。
死因は癌。カナダの自宅で家族に見守られなくなったという記事がある(ホスピスで、というものもある)ので、晩年は自国に帰っていたようだ。
▶︎過去の、デイヴィッド・フォスター
http://43142.diarynote.jp/201111141208525234/
https://43142.diarynote.jp/201811301120319508/
▶過去の、”ブルース・ボーイ”キング
http://43142.diarynote.jp/200702112125550000/
▶過去の、アーロン・ネヴィル
http://43142.diarynote.jp/200410121001170000/
http://43142.diarynote.jp/201205221056242128/
▶過去の、ヴァン・ダイク・パークス
http://43142.diarynote.jp/201301311032072367/
<今日の、マル>
冬季オリンピックが始まったよう。とはいえ、モニターをアンテナ端子に結線しておらずフツーのTV放送が映らないぼくにとっては、関係のないことであるのだが。前に夏のオリンピックのチケット抽選を申し込んだ際のアドレスが生きているよう〜とっとと消してほしい〜で、国際オリンピック委員会というところからまたマメに日本語メールが送られることになったが、それらはなぜか迷惑メールにされて入ってくる。それについては精神衛生上よろしい。なんか、今のぼくにとってIOCのイメージって鬼のように悪い。……って、それはサッカーのFIFAだって同様なのだろうけど。
カナダ生まれ、ヴァンクーヴァーで結成されたスカイラークに加入。同バンドはのちにプロデューサーとして大成するデイヴィッド・フォスター(2011年10月19日、2018年11月29日)が中心となったバンドで白人と黒人、男性と女性(女性シンガーのB.J.クックはフォスターと結婚。B.J.クック・フォスターとしてクレジットされた2作目ではカヴァー写真には載せられていない)が混在するソウル味も抱えるポップ・ロック・バンドだった。1972年と1974年には米キャピトルからアルバムをリリース、録音もそうだし、そのころ面々は米国に住んでいたかもしれない。ヴォーカル・ワークに力を入れるバンドで、その総体は曲のいくつかは自前で作れる(フォスターが多くの曲を書いていたわけではない)スリー・ドッグ・ナイトなるものという戦略がキャピトルにはあったか。
スカイラーク解散後、彼はセッション・ワークをしながらシンガー活動を始める。1975年にエルトン・ジョンの『キャプテン・ファンタスティック』(DJM)に参加した縁だろうか、エルトン・ジョンが仲間たちと作ったレーベルのロケットからシングルをリリースしたよう。翌年には、LAのディスコ系インディであるグリーディからセルフ・タイトルのリーダー作をロビー・ブキャナンの制作で発表。そこには品のいいディスコ調曲から訥々と歌うザ・ビートルズ「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のカヴァーまでが収録された。また、彼は2000年にバラードものでまとめる『The Romantic 』を自己レーベルのフリクエンシーからも出しており、おそらく彼自身のアルバムはその2作品だけと思われる。
それらを聞くと、いかようにもあわせられますという感じの、癖のないジェントルな持ち味を抱えた歌い手で、あちらにはスムース・ソウル・シンガーという記載があるのにも納得できよう。その感触はどこかバラードを歌う際のライオネル・リーチーとも重なると思えたりするが、彼は実際にリッチーが抜けたザ・コモドアーズから誘われたことがあっという。1970年代中期からスタジオ界で活躍。ドノヴァン、ベット・ミドラー、エリック・カルメン、イヴォンヌ・エリマン、リタ・クーリッジ、B.B.キング(2007年2月3日)、アーロン・ネヴィル(2004 年9月18日、2012年5月14日)、ニール・ダイアモンド、スティーヴ・ウッズ、ピンク・フロイド、ブレンダ・ラッセル、ザ・カルト、ボブ・シーガー、リンダ・ロンシュタット、ヴァン・ダイク・パークス(2013年1月29日)など参加したアルバムは様々。そして、彼は2010年近くになると大御所メイヴィス・ステイプルズから気に入られ彼女アルバムにいろいろ参加、ライヴ盤にも入っているのでツアーにも帯同していたと思われる。また、彼はTVコマーシャルの歌入れとか、周辺の需要にも事欠かなかった。
死因は癌。カナダの自宅で家族に見守られなくなったという記事がある(ホスピスで、というものもある)ので、晩年は自国に帰っていたようだ。
▶︎過去の、デイヴィッド・フォスター
http://43142.diarynote.jp/201111141208525234/
https://43142.diarynote.jp/201811301120319508/
▶過去の、”ブルース・ボーイ”キング
http://43142.diarynote.jp/200702112125550000/
▶過去の、アーロン・ネヴィル
http://43142.diarynote.jp/200410121001170000/
http://43142.diarynote.jp/201205221056242128/
▶過去の、ヴァン・ダイク・パークス
http://43142.diarynote.jp/201301311032072367/
<今日の、マル>
冬季オリンピックが始まったよう。とはいえ、モニターをアンテナ端子に結線しておらずフツーのTV放送が映らないぼくにとっては、関係のないことであるのだが。前に夏のオリンピックのチケット抽選を申し込んだ際のアドレスが生きているよう〜とっとと消してほしい〜で、国際オリンピック委員会というところからまたマメに日本語メールが送られることになったが、それらはなぜか迷惑メールにされて入ってくる。それについては精神衛生上よろしい。なんか、今のぼくにとってIOCのイメージって鬼のように悪い。……って、それはサッカーのFIFAだって同様なのだろうけど。
映画「私はヴァレンティナ」。ロメロ・ブリット展
2022年2月3日 音楽 京橋テアトル試写室で、2020年ブラジル映画『私はヴァレンティナ』(原題:Valentina)を見る。トランスジェンダーをテーマに据えた作品で、監督と脚本は、1980年生まれのカッシオ・ペレイラ・ドス・サントスがしている。
新しい街(ミナスの地方都市と設定されているか)に引っ越してきたトランスジェンダーの娘と、その母親、さらには娘の新しい高校の友達の姿などを通して、とても真面目で重い問題提起を行わんとする映画だ。その主人公を演じているのは、実際トランスジェンダーである人気ユーチューバーとか。学生を演じているのは大学生だそうで、それ以上の年代の役はプロの役者が演じている。
映像の編集がクール。大げさに臭〜くストーリー展開できそうなところ、最低限の説明を付帯する映像が淡々と組まれる。いいな。最後に出される文言も、効果大。ブラジルって、もう一つのジェンダーについて鷹揚(事実、憲法で認められているよう)な感じもするが、そうでもないのか。そっちのほうに嫌悪を撒き散らす極右のジャイール・ボルソナロが2020年に大統領になったりもしているしな。音楽は外側の人間にとってブラジルっぽいと感じさせるものは使われていない。4月から公開される。
その後、六本木・テレビ朝日1F けやき坂スペースで、ブラジル人のポップ・アートの人気の担い手であるロメロ・ブリットの展示を見る。彼の映像もモニターで映されていたが、流暢に英語でしゃべっている。ずっとマイアミ在住のようで、それならホメロではなく、ロメロという読みで通っているのだろうなと納得する。
大小、ポップでカラフルな作品が展示される。なるほどの、作風あり。少し、オブジェっぽいものも。バイーアの人気者ナルド・ベニーの2015年作のジャケを手がけている御仁だが、マイケル・ジャクソンをもろに描いたものをはじめ、なるほど音楽派生のブツも少なくない。作品には円表示の販売価格も表示されていて、デジタル・プリントものは少し価格が低め。ちょっとチープなプリントの小さなぬいぐるみのようなやつは1万円前後だった。
多くは2010年代のプロダクツだったか。また、2021年のものも多く、やはり制作に向ける時間があったのだろう。そんな彼は様々な企業案件をこなしている人物としても知られるらしい。彼は米国の共和党を応援してきていて、ブラジルのボルソナロ大統領支持者でもあるよう。ブラジルは今年独立200周年であるのか。展は無料、3月いっぱいまで。
<今日は、暖かかった>
1週間ぶりの外出。電車に乗ったのは、20日ぶりとなるのかな。昨日はトランペッターのアヴィシャイ・コーエン(2010年8月22日、2015年9月6日)にzoomで取材をしたが、テル・アヴィヴ在住の彼は訪問先のパリでそれを受けた。というのはともかく、その新作『ネイキッド・トゥルース』(ECM、2022年)はCOVID-19禍のおりいろいろ自分と向き合った末に出てきた、慈しみとほのかな希望とジャズ回路の魔法にあふれた作品だ。イスラエルはワクチン対応優秀国として知られるが、現状はどーなのとかいう話は時間が限られていたので問えなかった。mikikiからの依頼で、そのうち原稿が出ます。ブリット展会場の真ん前に始発バスが止まっていて、それは渋谷駅行き。乗るとすぐに発車して、世の中うまくできているなあと思った。昼間、陽光が気持ちよかった。
▶過去の、アヴィシャイ・コーエン(tp)
http://43142.diarynote.jp/201008261620103318/
http://43142.diarynote.jp/?day=20150906
新しい街(ミナスの地方都市と設定されているか)に引っ越してきたトランスジェンダーの娘と、その母親、さらには娘の新しい高校の友達の姿などを通して、とても真面目で重い問題提起を行わんとする映画だ。その主人公を演じているのは、実際トランスジェンダーである人気ユーチューバーとか。学生を演じているのは大学生だそうで、それ以上の年代の役はプロの役者が演じている。
映像の編集がクール。大げさに臭〜くストーリー展開できそうなところ、最低限の説明を付帯する映像が淡々と組まれる。いいな。最後に出される文言も、効果大。ブラジルって、もう一つのジェンダーについて鷹揚(事実、憲法で認められているよう)な感じもするが、そうでもないのか。そっちのほうに嫌悪を撒き散らす極右のジャイール・ボルソナロが2020年に大統領になったりもしているしな。音楽は外側の人間にとってブラジルっぽいと感じさせるものは使われていない。4月から公開される。
その後、六本木・テレビ朝日1F けやき坂スペースで、ブラジル人のポップ・アートの人気の担い手であるロメロ・ブリットの展示を見る。彼の映像もモニターで映されていたが、流暢に英語でしゃべっている。ずっとマイアミ在住のようで、それならホメロではなく、ロメロという読みで通っているのだろうなと納得する。
大小、ポップでカラフルな作品が展示される。なるほどの、作風あり。少し、オブジェっぽいものも。バイーアの人気者ナルド・ベニーの2015年作のジャケを手がけている御仁だが、マイケル・ジャクソンをもろに描いたものをはじめ、なるほど音楽派生のブツも少なくない。作品には円表示の販売価格も表示されていて、デジタル・プリントものは少し価格が低め。ちょっとチープなプリントの小さなぬいぐるみのようなやつは1万円前後だった。
多くは2010年代のプロダクツだったか。また、2021年のものも多く、やはり制作に向ける時間があったのだろう。そんな彼は様々な企業案件をこなしている人物としても知られるらしい。彼は米国の共和党を応援してきていて、ブラジルのボルソナロ大統領支持者でもあるよう。ブラジルは今年独立200周年であるのか。展は無料、3月いっぱいまで。
<今日は、暖かかった>
1週間ぶりの外出。電車に乗ったのは、20日ぶりとなるのかな。昨日はトランペッターのアヴィシャイ・コーエン(2010年8月22日、2015年9月6日)にzoomで取材をしたが、テル・アヴィヴ在住の彼は訪問先のパリでそれを受けた。というのはともかく、その新作『ネイキッド・トゥルース』(ECM、2022年)はCOVID-19禍のおりいろいろ自分と向き合った末に出てきた、慈しみとほのかな希望とジャズ回路の魔法にあふれた作品だ。イスラエルはワクチン対応優秀国として知られるが、現状はどーなのとかいう話は時間が限られていたので問えなかった。mikikiからの依頼で、そのうち原稿が出ます。ブリット展会場の真ん前に始発バスが止まっていて、それは渋谷駅行き。乗るとすぐに発車して、世の中うまくできているなあと思った。昼間、陽光が気持ちよかった。
▶過去の、アヴィシャイ・コーエン(tp)
http://43142.diarynote.jp/201008261620103318/
http://43142.diarynote.jp/?day=20150906
シカゴをベースに活動したブルース・マンの訃報が届いた。享年、93。弟のソウル主体顔役シンガー/ギタリストのシル・ジョンソン(2014年7月29日)も存命なはずで、長生き家系なのかな。もとい音楽的な才には恵まれてやはり弟のマック・トンプソンはマジック・サムのバンドでベーシスを弾いていたことで知られる。姪(シルの娘)はシリーナ・ジョンソン(2003年1月28日)ですね。
ミシシッピー州ホーリー・スプリングの生まれ。本名はジェイムス・アール・トンプソン、当初はピアノを弾いていたという。シカゴに移ったのは1950年ごろ、ブルース・ギタリストとしてちゃんと活動したのは30歳を回ってからだった。ジョンソンという苗字に変えたのは、シル・ジョンソンという名前で活動していた弟に倣ったと言われる。そして、地の利を得て名のあるブルース・マンたちのサポートをし、オーティス・クレイ(2006年7月23日)やデニス・ラサール(2004年12月20日)らディープなソウル・シンガーとも仕事をした。
リーダー作を出すのは1970年代中期以降、仏MCM、アリゲイター、デルマーク、ブラック&ブルー他からいろいろとアルバムをリリース。フィーチャリング・ビリー・ブランチ&ラッキー・ピーターソン(2016年4月10日、2020年5月18日)と副題されていた1994年作『I’m A Jockey』は仏ドリュフュス・ジャズの傘下レーベル“バードロジー”で録ったものが米ヴァーヴからもリリースされた。整った指さばきをし、マジック・サム愛好を思わせる甲高い声で歌った人物。『Every Day of Your Life』(Delmark、2019年)にあるように、伸びる甲高い歌声は晩年作まで変わりがなかった。同作には、レゲエ・ビートの曲も収められていた。
▶︎過去の、シル・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/201408051721103640/
▶過去の、シリーナ・ジョンソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-1.htm
▶︎過去の、オーティス・クレイ
https://43142.diarynote.jp/200607281032040000/
▶︎過去の、デニス・ラサール
http://43142.diarynote.jp/200412212106260000/
https://43142.diarynote.jp/?day=20180110 訃報
▶︎過去の、ラッキー・ピーターソン
https://43142.diarynote.jp/201604190912403018/
https://43142.diarynote.jp/202005181643344196/ 訃報
<今日の、チェック>
アンテプリマ・プダクションズというところから、案内メールが1通。それは在欧(だと思う)ジャズ・ビヨンド歌手であるユン・サン・ナ(나윤선)の新作リリースの告知。ヴィデオ・クリップも添付されており、それがなかなか良かったので、嫌いなアップル社の音楽提供回路で彼女をチェック。こういうとき、本当に便利。かつてはサブスクリプションで音楽を聞くのだけは勘弁被りたいと思っていたが、選曲を頼まれてリストを送る必要性にかられてからはしっかり加入するようになり……。悔しいけど、楽。そりゃ、音質やクレジットやジャケットのカヴァー・ワークにこだわりのない人だったら、それで済ませちゃうよなー。だからこそ、アーティストにもっと分配金を!
話は戻って、1969年ソウル生まれのユン・サン・ナには感心。独アクトから何作も出しいて、確かな喉の力のもと今を見渡す視点を持つ俯瞰型のヴォーカル表現を作っている。彼女、フランス語と英語に堪能であるのかな。歌い込む場合は過剰さを覚えるが、引いた際の風情が美しい。そのスタンスは現代のジャズのあり方として正しい。
ミシシッピー州ホーリー・スプリングの生まれ。本名はジェイムス・アール・トンプソン、当初はピアノを弾いていたという。シカゴに移ったのは1950年ごろ、ブルース・ギタリストとしてちゃんと活動したのは30歳を回ってからだった。ジョンソンという苗字に変えたのは、シル・ジョンソンという名前で活動していた弟に倣ったと言われる。そして、地の利を得て名のあるブルース・マンたちのサポートをし、オーティス・クレイ(2006年7月23日)やデニス・ラサール(2004年12月20日)らディープなソウル・シンガーとも仕事をした。
リーダー作を出すのは1970年代中期以降、仏MCM、アリゲイター、デルマーク、ブラック&ブルー他からいろいろとアルバムをリリース。フィーチャリング・ビリー・ブランチ&ラッキー・ピーターソン(2016年4月10日、2020年5月18日)と副題されていた1994年作『I’m A Jockey』は仏ドリュフュス・ジャズの傘下レーベル“バードロジー”で録ったものが米ヴァーヴからもリリースされた。整った指さばきをし、マジック・サム愛好を思わせる甲高い声で歌った人物。『Every Day of Your Life』(Delmark、2019年)にあるように、伸びる甲高い歌声は晩年作まで変わりがなかった。同作には、レゲエ・ビートの曲も収められていた。
▶︎過去の、シル・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/201408051721103640/
▶過去の、シリーナ・ジョンソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-1.htm
▶︎過去の、オーティス・クレイ
https://43142.diarynote.jp/200607281032040000/
▶︎過去の、デニス・ラサール
http://43142.diarynote.jp/200412212106260000/
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▶︎過去の、ラッキー・ピーターソン
https://43142.diarynote.jp/201604190912403018/
https://43142.diarynote.jp/202005181643344196/ 訃報
<今日の、チェック>
アンテプリマ・プダクションズというところから、案内メールが1通。それは在欧(だと思う)ジャズ・ビヨンド歌手であるユン・サン・ナ(나윤선)の新作リリースの告知。ヴィデオ・クリップも添付されており、それがなかなか良かったので、嫌いなアップル社の音楽提供回路で彼女をチェック。こういうとき、本当に便利。かつてはサブスクリプションで音楽を聞くのだけは勘弁被りたいと思っていたが、選曲を頼まれてリストを送る必要性にかられてからはしっかり加入するようになり……。悔しいけど、楽。そりゃ、音質やクレジットやジャケットのカヴァー・ワークにこだわりのない人だったら、それで済ませちゃうよなー。だからこそ、アーティストにもっと分配金を!
話は戻って、1969年ソウル生まれのユン・サン・ナには感心。独アクトから何作も出しいて、確かな喉の力のもと今を見渡す視点を持つ俯瞰型のヴォーカル表現を作っている。彼女、フランス語と英語に堪能であるのかな。歌い込む場合は過剰さを覚えるが、引いた際の風情が美しい。そのスタンスは現代のジャズのあり方として正しい。
R.I.P.サム・レイ(1935年3月20日〜 2022年1月29日)
2022年1月31日 音楽 シカゴでチェス系ブルースのレコーディングにいろいろ関与し、1960年代半ばに同地をベースにしていたポール・バターフィールド・ブルース・バンドに参画して知名度を得た、アフリカ系ドラマー/シンガーのサム・レイがお亡くなりになった。彼は、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドではエレクトラ発のセルフ・タイトルのデビュー作のみで叩いている。
エレクトリック・ギターを手にしたボブ・ディランをフォークを求める観客が拒否ったことで知られる1965年ニューポート・フォーク・フェスティヴァルにおける彼のショウでも、サム・レイはポール・バターフィールドらとサポート。レイはディランのアッパーな1965年シングル曲「ハイウェイ61・リヴィジテッド」にも録音参加している。ブルースという表現に顕著なビート、シャッフルで妙味を放った人物。彼は1960年代半ばまでマディ・ウォーターズのバンドにいて、その後もハウリン・ウルフのバンドには入り続けていたようだ。写真を見るとなかなかキャラ立ちしているという感じもあり、1969年ブルー・サムからの『Sam Lay In Bluesland』(マイク・ブルームフィールドも参加)をはじめリーダー作も何作も出している。
アラバム州バーミンガム生まれ、1950年代後期にはブルースが盛んだったシカゴを拠点とするようになった。その後、シカゴに住み続けた。急死のようだが、心臓病を患っていたという。
▶︎過去の、チェス・レコードを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/200905271738046764/
▶︎過去の、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドの同僚だったエルヴィン・ビショップ
https://43142.diarynote.jp/201708081443281390/
<今日の、追記>
「ハイウェイ61・リヴィジテッド」は同年発売アルバムのタイトル・トラックでもあるが、レイが入っているのはその曲のみのよう。他のドラムが入っている曲とは明らかに弾力が違っていて笑える。ちなみに、61号線というのは、ディランが育ったミネソタ州のダルースからルイジアナ州ニューオーリンズまでをつなぐ道路で、南部から北西部へのアフリカ系労働力移動の重要な導線だった。ミシシッピ州での61号線と49号線の“クロスロード”が、その十字路で悪魔に魂を売り飛ばすとブルース・マンとしての成功を得られるという伝説のご当地であったとの話もある。
エレクトリック・ギターを手にしたボブ・ディランをフォークを求める観客が拒否ったことで知られる1965年ニューポート・フォーク・フェスティヴァルにおける彼のショウでも、サム・レイはポール・バターフィールドらとサポート。レイはディランのアッパーな1965年シングル曲「ハイウェイ61・リヴィジテッド」にも録音参加している。ブルースという表現に顕著なビート、シャッフルで妙味を放った人物。彼は1960年代半ばまでマディ・ウォーターズのバンドにいて、その後もハウリン・ウルフのバンドには入り続けていたようだ。写真を見るとなかなかキャラ立ちしているという感じもあり、1969年ブルー・サムからの『Sam Lay In Bluesland』(マイク・ブルームフィールドも参加)をはじめリーダー作も何作も出している。
アラバム州バーミンガム生まれ、1950年代後期にはブルースが盛んだったシカゴを拠点とするようになった。その後、シカゴに住み続けた。急死のようだが、心臓病を患っていたという。
▶︎過去の、チェス・レコードを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/200905271738046764/
▶︎過去の、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドの同僚だったエルヴィン・ビショップ
https://43142.diarynote.jp/201708081443281390/
<今日の、追記>
「ハイウェイ61・リヴィジテッド」は同年発売アルバムのタイトル・トラックでもあるが、レイが入っているのはその曲のみのよう。他のドラムが入っている曲とは明らかに弾力が違っていて笑える。ちなみに、61号線というのは、ディランが育ったミネソタ州のダルースからルイジアナ州ニューオーリンズまでをつなぐ道路で、南部から北西部へのアフリカ系労働力移動の重要な導線だった。ミシシッピ州での61号線と49号線の“クロスロード”が、その十字路で悪魔に魂を売り飛ばすとブルース・マンとしての成功を得られるという伝説のご当地であったとの話もある。
映画『MONK モンク』。同『モンク・イン・ヨーロッパ』
2022年1月25日 音楽 ヒューマントラストシネマ渋谷で、セロニアス・モンク(1917〜1982年)の1968年米国記録映像作品を2本続けて見る。普段からモンク、モンクと言っているのに、実はそんなに彼の動く姿を知っているわけではない。こんなおりではあったが、これは見に行くべきじゃとなったなり。そんなに長い期間は上映しないだろうし。
ともにマイケルとクリスチャンのブラックウッド兄弟が監督しており、二人は半年間にわたりワン・アンド・オンリーのジャズ・ピアニストを追った。西ドイツ人でありながらニューヨークに住んでいた兄弟は西ドイツのTV局の求めを受けて撮影に入り、その結果はニューヨーク撮影編である『MONK モンク』(原題『Monk』)と、欧州撮影編である『モンク・イン・ヨーロッパ』(原題『Monk in Europe』)の二つに分けてまとめられたのだった。
ともにモノクロームの作品で、1時間の尺。両作品は1968年に西ドイツの公共TV放送で放映された後、ひっそりと眠っていた。モンクのドキュメンタリーというと、クリント・イーストウッドがエグゼクティヴ・プロデューサーを務めたシャーロット・ツワーリン監督の1988年米国映画『セロニアス・モンク/ストレート・ノー・チェイサー』が知られるが、それはブラックウッド兄弟による映像の存在を知ったことでイーストウッドがお金を出して作られたという認識をぼくは持つ。←その映画、ぼくは未見ですが。
『MONK モンク』のほうは、ヴィレッジ・ヴァンガードでのステージや他愛ない会話がなされる楽屋の模様、そしてコロムビア・レコードのスタジオにおける録音リハーサルの模様が主たるソース。それらが、ぶっきらぼうな感じで繋がれるが、それはモンクのテイストと離れてはいないか。おおっと思うのは、物理的にかなりモンクに近づいた映像が多いこと。当時の大きな機材のもとかなり対象に寄って録られたはずであり(ライヴに来ているお客の邪魔にもなったろう)、兄弟はモンクの懐に入っていたことが分かる。
そのモンクの演奏シーンからは、彼がまったくもって我流にして気持ちがいいぐらい独創的な指さばきを持つこと、右足はしょっちゅうストンプしていたことなどが伝わる。とともに、今更ながらなんともイケているソングライターであることも。ああ、なにゆえに彼はあれほどまでにブラック・ジャズの得難い襞を照らす秀でた曲作りの才を与えられたのだろう? 演奏は他の奏者にまかせて、ピアノから離れて少し踊るような仕草をするシーンもある。ライヴやスタジオでサイド・マンを務めているのはテナー・サックスのチャーリー・ラウズ、ダブル・ベースのラリー・ゲイルズ、ドラムのベン・ライリーの3人。彼らはモンクのコロムビア・レーベル期の『Monk』 (1964年)から『Monk’s Blues』 (1968年)にかけての7作に共通する奏者たちだ。
スタジオのシーンには、コロムビアの社員A&Rにしてヒストリカルなジャズ・プロデューサーであるテオ・マセロも出てくる。揉み手状態でモンクたちに愛想よく接するその様は、マセロが下手に出て相手を木に登らせレコーディングを進めていたことを伝えよう。
また、NY編でほうと思わせるのはジャズ黄金期最大の黒人ジャズ・アーティストの支援者であったパノニカ・デ・コーニグズウォーター(1913〜1988年)の姿や会話も楽屋のシーンで出てくること。英国富豪のロスチャイルド伯爵家の娘である彼女は熱烈なジャズ愛好家で富を抱えて渡米した1950年代中期以降、数々のアフリカ系ジャズ・マンを様々な形で援助したことで知られる。愛称はニカ、ソニー・クラークの「ニカ」やホレス・シルヴァーの「ニカズ・ドリーム」、ジジ・グライスの「ニカズ・テンポ」など彼女の名前を冠したジャズ曲はいろいろ。モンクの「バルー・ボリバー・バルーズ・アー」(ボリバーは、パノニカが一時住んでいたセントラル・パーク・ウェストにあったホテルの名前だ)や「パノニカ」もそう。それらは『Pannonica - A Tribute To Pannonica』としてフランスのレーベルのクリスタルからまとめられたことがあった。彼女の死後、1961年から1966年にかけて300人の担い手に3つの夢が叶うとしたらという問いとアーティストを自ら撮ったポラロイド写真で構成された書籍が少し離れた姪を介して形にされた。まず2006年にフランス語版「Lesmusiciens de jazz etleurstroisvœux」がフランスで出版され、遅れて英語版「Three Wishes:An Intimate Look at JazzGreats」も出た。日本語版は「ジャズ・ミュージシャン3つの願い ニカ夫人の撮ったジャズ・ジャイアンツ」としてP-ヴァイン・ブックスから2008年に出版されている。
一方、ヨーロッパ各国での実演やリハの模様やオフを抑えた映像で構成される映画『モンク・イン・ヨーロッパ』は先のカルテットに加え、トランペットのレイ・コープランド、アルト・サックスのフィル・ウッズ(2011年3月26日)、テナー・サックスのジョニー・グリフィン、トロンボーンのジミー・クリーヴランドも加わった5管でことに当たっていることがうれしい。僕はまずモンクス・ミュージックというと、複数の管楽器奏者を使う1950年代リヴァーサイド時代の表現を頭に浮かべる者であるから。ソロも好きだが、モンクの米国黒人音楽の精華と言える歪みやほつれは管楽器が入った方が映えるとぼくは感じる。映画には、そこにトランペッターのクラーク・テリーがゲストで加わる場面も入っている。
欧州編には彼のホテルの部屋にカメラが入った映像も出てきて、相当にモンクはカメラが内側に入ることを許しているのは間違いない。トレードマークの妙な帽子をかぶりヤギのようなヒゲを蓄えるモンク(いつも、ちゃんとスーツを着ている)は、このころ50歳前後。まったくもって、元気だ。気難しいゾと思わせるところもなし。オフの仕草はお茶目でもある。この3年後には彼がレコーディングやライヴから離れてしまう〜強度の躁鬱病であったとも伝えられる〜なんて信じられない。スライ・ストーン(2008年8月31日、2008年9月2日、2010年1月20日)がそうであるように、普通の人の何百倍もの創造を提出したアーティストの活躍期間には限りがあるのだろうか。音楽から離れた晩年の数年間、モンク家はニュージャージーのパノニカ邸に身を寄せていたという。
▶︎過去の、セロニアス・モンクが出てくる映画
https://43142.diarynote.jp/202107041453546495/
▶︎過去の、フィル・ウッズ
https://43142.diarynote.jp/201103271555032719/
▶過去の、スライ・ストーン
http://43142.diarynote.jp/200809011923060000/
http://43142.diarynote.jp/200809071428140000/
http://43142.diarynote.jp/201001211346277187/
http://43142.diarynote.jp/201505201630381899/ 映画
<今日の、公園>
1本目は10時からで、2本目は11時ちょいから。朝のラッシュと重なるのがイヤで、風もなく寒さを感じなかったので、歩いて映画館に向かう。どちらの上映も、入場者の数は10人ほどだった。やはりこういう時期(今日の東京の感染者数は過去最多、12000人越え)である影響もあるか。帰り、向かいの宮下公園の建物(マニアックな品揃えではないが、ヴァイナルのレコード店もあった)や公園機能を与えられた屋上をゆったり散策。人がまばらなので、OKと判断した。食事は百貨店のレストラン・フロアに行く。そちらのほうが安心して食べることができそうな気がしたからだ。がらがら。昼ビール、うしし。気を使いつつ、こういう行動が制限されないことを切に願う。飲食店もそうだが、音楽ライヴやそれにつながるヴェニューなどにまたしわ寄せが出てきていて、本当にキブンが重い。
映画の話に戻るが、『モンク・イン・ヨーロッパ』を見るとそこそこ予算も潤沢だったツアーではないかと思えた。撮影するギャラも上乗せされたか、それゆえ管楽器奏者を連れて行くことができたのかもしれない(もしくは、欧州側のリクエスト?)。モンクをはじめ、身内を同行させていたミュージシャンもいたような。飛行機内のモンクも終盤出くるが、それは座席背もたれの厚さからビジネス・クラスの席であるように見えた。ホテル自室における映像には、彼がベッドに寝っころがって白人のホテル・マンにルーム・サーヴィスの品をいろいろ問いながら頼むシーンがあった。ふむ。当時その少し前まで「The Negro Motorist Green Book」が発行されていた米国から逃げ出すアフリカ系ジャズ・ミュージシャンがいるのも当然至極だと、それを見て思った。
▶︎過去の、映画『グリーンブック』
https://43142.diarynote.jp/201901301508232449/
ともにマイケルとクリスチャンのブラックウッド兄弟が監督しており、二人は半年間にわたりワン・アンド・オンリーのジャズ・ピアニストを追った。西ドイツ人でありながらニューヨークに住んでいた兄弟は西ドイツのTV局の求めを受けて撮影に入り、その結果はニューヨーク撮影編である『MONK モンク』(原題『Monk』)と、欧州撮影編である『モンク・イン・ヨーロッパ』(原題『Monk in Europe』)の二つに分けてまとめられたのだった。
ともにモノクロームの作品で、1時間の尺。両作品は1968年に西ドイツの公共TV放送で放映された後、ひっそりと眠っていた。モンクのドキュメンタリーというと、クリント・イーストウッドがエグゼクティヴ・プロデューサーを務めたシャーロット・ツワーリン監督の1988年米国映画『セロニアス・モンク/ストレート・ノー・チェイサー』が知られるが、それはブラックウッド兄弟による映像の存在を知ったことでイーストウッドがお金を出して作られたという認識をぼくは持つ。←その映画、ぼくは未見ですが。
『MONK モンク』のほうは、ヴィレッジ・ヴァンガードでのステージや他愛ない会話がなされる楽屋の模様、そしてコロムビア・レコードのスタジオにおける録音リハーサルの模様が主たるソース。それらが、ぶっきらぼうな感じで繋がれるが、それはモンクのテイストと離れてはいないか。おおっと思うのは、物理的にかなりモンクに近づいた映像が多いこと。当時の大きな機材のもとかなり対象に寄って録られたはずであり(ライヴに来ているお客の邪魔にもなったろう)、兄弟はモンクの懐に入っていたことが分かる。
そのモンクの演奏シーンからは、彼がまったくもって我流にして気持ちがいいぐらい独創的な指さばきを持つこと、右足はしょっちゅうストンプしていたことなどが伝わる。とともに、今更ながらなんともイケているソングライターであることも。ああ、なにゆえに彼はあれほどまでにブラック・ジャズの得難い襞を照らす秀でた曲作りの才を与えられたのだろう? 演奏は他の奏者にまかせて、ピアノから離れて少し踊るような仕草をするシーンもある。ライヴやスタジオでサイド・マンを務めているのはテナー・サックスのチャーリー・ラウズ、ダブル・ベースのラリー・ゲイルズ、ドラムのベン・ライリーの3人。彼らはモンクのコロムビア・レーベル期の『Monk』 (1964年)から『Monk’s Blues』 (1968年)にかけての7作に共通する奏者たちだ。
スタジオのシーンには、コロムビアの社員A&Rにしてヒストリカルなジャズ・プロデューサーであるテオ・マセロも出てくる。揉み手状態でモンクたちに愛想よく接するその様は、マセロが下手に出て相手を木に登らせレコーディングを進めていたことを伝えよう。
また、NY編でほうと思わせるのはジャズ黄金期最大の黒人ジャズ・アーティストの支援者であったパノニカ・デ・コーニグズウォーター(1913〜1988年)の姿や会話も楽屋のシーンで出てくること。英国富豪のロスチャイルド伯爵家の娘である彼女は熱烈なジャズ愛好家で富を抱えて渡米した1950年代中期以降、数々のアフリカ系ジャズ・マンを様々な形で援助したことで知られる。愛称はニカ、ソニー・クラークの「ニカ」やホレス・シルヴァーの「ニカズ・ドリーム」、ジジ・グライスの「ニカズ・テンポ」など彼女の名前を冠したジャズ曲はいろいろ。モンクの「バルー・ボリバー・バルーズ・アー」(ボリバーは、パノニカが一時住んでいたセントラル・パーク・ウェストにあったホテルの名前だ)や「パノニカ」もそう。それらは『Pannonica - A Tribute To Pannonica』としてフランスのレーベルのクリスタルからまとめられたことがあった。彼女の死後、1961年から1966年にかけて300人の担い手に3つの夢が叶うとしたらという問いとアーティストを自ら撮ったポラロイド写真で構成された書籍が少し離れた姪を介して形にされた。まず2006年にフランス語版「Lesmusiciens de jazz etleurstroisvœux」がフランスで出版され、遅れて英語版「Three Wishes:An Intimate Look at JazzGreats」も出た。日本語版は「ジャズ・ミュージシャン3つの願い ニカ夫人の撮ったジャズ・ジャイアンツ」としてP-ヴァイン・ブックスから2008年に出版されている。
一方、ヨーロッパ各国での実演やリハの模様やオフを抑えた映像で構成される映画『モンク・イン・ヨーロッパ』は先のカルテットに加え、トランペットのレイ・コープランド、アルト・サックスのフィル・ウッズ(2011年3月26日)、テナー・サックスのジョニー・グリフィン、トロンボーンのジミー・クリーヴランドも加わった5管でことに当たっていることがうれしい。僕はまずモンクス・ミュージックというと、複数の管楽器奏者を使う1950年代リヴァーサイド時代の表現を頭に浮かべる者であるから。ソロも好きだが、モンクの米国黒人音楽の精華と言える歪みやほつれは管楽器が入った方が映えるとぼくは感じる。映画には、そこにトランペッターのクラーク・テリーがゲストで加わる場面も入っている。
欧州編には彼のホテルの部屋にカメラが入った映像も出てきて、相当にモンクはカメラが内側に入ることを許しているのは間違いない。トレードマークの妙な帽子をかぶりヤギのようなヒゲを蓄えるモンク(いつも、ちゃんとスーツを着ている)は、このころ50歳前後。まったくもって、元気だ。気難しいゾと思わせるところもなし。オフの仕草はお茶目でもある。この3年後には彼がレコーディングやライヴから離れてしまう〜強度の躁鬱病であったとも伝えられる〜なんて信じられない。スライ・ストーン(2008年8月31日、2008年9月2日、2010年1月20日)がそうであるように、普通の人の何百倍もの創造を提出したアーティストの活躍期間には限りがあるのだろうか。音楽から離れた晩年の数年間、モンク家はニュージャージーのパノニカ邸に身を寄せていたという。
▶︎過去の、セロニアス・モンクが出てくる映画
https://43142.diarynote.jp/202107041453546495/
▶︎過去の、フィル・ウッズ
https://43142.diarynote.jp/201103271555032719/
▶過去の、スライ・ストーン
http://43142.diarynote.jp/200809011923060000/
http://43142.diarynote.jp/200809071428140000/
http://43142.diarynote.jp/201001211346277187/
http://43142.diarynote.jp/201505201630381899/ 映画
<今日の、公園>
1本目は10時からで、2本目は11時ちょいから。朝のラッシュと重なるのがイヤで、風もなく寒さを感じなかったので、歩いて映画館に向かう。どちらの上映も、入場者の数は10人ほどだった。やはりこういう時期(今日の東京の感染者数は過去最多、12000人越え)である影響もあるか。帰り、向かいの宮下公園の建物(マニアックな品揃えではないが、ヴァイナルのレコード店もあった)や公園機能を与えられた屋上をゆったり散策。人がまばらなので、OKと判断した。食事は百貨店のレストラン・フロアに行く。そちらのほうが安心して食べることができそうな気がしたからだ。がらがら。昼ビール、うしし。気を使いつつ、こういう行動が制限されないことを切に願う。飲食店もそうだが、音楽ライヴやそれにつながるヴェニューなどにまたしわ寄せが出てきていて、本当にキブンが重い。
映画の話に戻るが、『モンク・イン・ヨーロッパ』を見るとそこそこ予算も潤沢だったツアーではないかと思えた。撮影するギャラも上乗せされたか、それゆえ管楽器奏者を連れて行くことができたのかもしれない(もしくは、欧州側のリクエスト?)。モンクをはじめ、身内を同行させていたミュージシャンもいたような。飛行機内のモンクも終盤出くるが、それは座席背もたれの厚さからビジネス・クラスの席であるように見えた。ホテル自室における映像には、彼がベッドに寝っころがって白人のホテル・マンにルーム・サーヴィスの品をいろいろ問いながら頼むシーンがあった。ふむ。当時その少し前まで「The Negro Motorist Green Book」が発行されていた米国から逃げ出すアフリカ系ジャズ・ミュージシャンがいるのも当然至極だと、それを見て思った。
▶︎過去の、映画『グリーンブック』
https://43142.diarynote.jp/201901301508232449/
R.I.P.モンテス・コールマン(1973年7月23日〜2022年1月14日)、バーダル・ロイ(1945年〜2022年1月19日)、エルザ・ソアレス(1930年6月23日〜2022年1月20日)
2022年1月21日 音楽 以下、訃報を3つ載せる。
まず、ミズーリ州セントルイス生まれのジャズ・ドラマーであるモンテス・コールマン。享年48は早すぎるな。とはいえ、孫も2人いたという。原因はうっ血性心不全で、セントルイスの病院で亡くなった。
父親は牧師。ノースキャロライナ州の大学で学んだこともあったようだが、基本地元で演奏し、2000年にはニューヨークに引っ越した。トランペッターのラッセル・ガン(2019年1月3日)やアルト主体サックス奏者であるボビー・ワトソンの2002年作に彼は参加しており、わりとすんなり需要を得たという印象を持つ。そんな彼のニューヨーク期のハイライトはロイ・ハーグローヴ(2003年2月18日、2003年9月21日、2004年12月2日、2007年9月10日、2008年9月16日、2009年6月24日、2011年2月22日、2012年3月23日、2014年2月19日、2016年1月27日、2017年3月2日、2018年3月1日)のグループに2000年代後半に入ったこと。彼のユニヴァーサル/エマーシー発の『イアーフード』(2008年)や『エマージェンス』(2009年)に録音参加するとともに、間違いなくハーグローヴの2011年ブルーノート公演に同行。もしかすると、2007、2008、2009年のハーグローヴの来日公演にも入っていたかもしれない。2013年に再びセントルイスに戻り、同地のジャズ・シーンを牽引していた。今の4ビートを叩ける人でした。
▶︎過去の、ラッセル・ガン
https://43142.diarynote.jp/201901041047462042/
▶過去の、ロイ・ハーグローヴ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-2.htm 18日、ディレクションズ・イン・ミュージック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-9.htm 21日
http://43142.diarynote.jp/200412111742300000/
http://43142.diarynote.jp/200709171108570000/
http://43142.diarynote.jp/200809171409066704/
http://43142.diarynote.jp/200906300951327850/
http://43142.diarynote.jp/201102240921561671/
http://43142.diarynote.jp/201203260806527228/
http://43142.diarynote.jp/201402201343247604/
http://43142.diarynote.jp/201601301016081732/
http://43142.diarynote.jp/201703081443314613/
https://43142.diarynote.jp/201803031242579295/
英領インド〜現バングラデシュの出身となるタブラ奏者であるバーダル・ロイは、1月19日に亡くなった。父親は政府のお偉方、10歳ごろからタブラを叩くとともにおおいにアメリカの音楽にも親しみ、大学卒業後の1968年にニューヨークに引っ越している。そんな彼は1970年にジョン・マクラフリン(2005年1月31日、2014年3月25日)の『マイ・ゴール・イズ・ビヨンド』(ダグラス、1971年)に参加して以降、新たなビートや音色を求める当時のNYのジャズ界で大注目の存在となる。マイルズ・デイヴィスの『オン・ザ・コーナー』(コロムビア、1972年)をはじめ、ファラオ・サンダース(2006年8月23日、2009年7月8日、2003年4月22日)、デイヴ・リーブマン、ジョン・ハッセル(2021年6月27日)、菊地雅章1999年11月3日、2002年9月22日、2003年6月10日、2004年11月3日、2012年6月24日、2012年6月25日、2012年10月26日)らのアルバムに次々に参加。また、その後もヨーコ・オノ(2009年1月21日)、ビル・ラズウェル(2004年9月5日、2005年7月30日、2005年8 月20日、2005年8月21日、2006年1月21日、2006年11月26日、2007年8月3日、2011年3月7日)、オーネット・コールマン(2006年3月27日)、ガース・ハドソン(2013年8月2日)、他。そんな彼のファースト作は東京録音の『アシルバッド』(トリオ、1975年)。以後、エンヤ他からリーダー作もリリースし、その数は15作以上あるのではないか。NY在住のタテイシ兄弟(2004年5月27日、2005年6月8日、2005年6月9日、2006年9月2日)関与の『Daybreak』(Igmod、1998年)は浮遊感に溢れ、印象に残っているな。
▶過去の、ジョン・マクラフリン
http://43142.diarynote.jp/200502041825460000/
http://43142.diarynote.jp/201403270907123498/
▶︎過去の、ファラオ・サンダース
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-4.htm 4月22日
https://43142.diarynote.jp/200608271341340000/
https://43142.diarynote.jp/200907131200224908/
▶過去の、ジョン・ハッセルの訃報
https://43142.diarynote.jp/202106272114548480/
▶過去の、菊地雅章
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20041103
http://43142.diarynote.jp/201207031322126509/
http://43142.diarynote.jp/201207031323242844/
http://43142.diarynote.jp/201210271744294415/
http://43142.diarynote.jp/201507091044561526/
http://43142.diarynote.jp/?day=20160611
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
https://43142.diarynote.jp/201809121745334226/ 新作
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/201105282358273180/ ショーン・レノンの、両親を語るインタヴュー付き
▶︎過去の、ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm 15日
▶︎過去の、ジョンとヨーコの展覧会
https://43142.diarynote.jp/202010081306571190/
▶過去の、ビル・ラズウェル
http://43142.diarynote.jp/200409050916440000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20050730
http://43142.diarynote.jp/200508230544440000/
http://43142.diarynote.jp/200508230545510000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20060121
http://43142.diarynote.jp/200611271213510000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20070803
http://43142.diarynote.jp/201103101345364557/
▶︎過去の、オーネット・コールマン
http://43142.diarynote.jp/200603281335030000/
▶︎過去の、ガース・ハドソン関連
https://43142.diarynote.jp/201204221307297965/ 下の方の<>内
https://43142.diarynote.jp/201308110826574632/ ハドソン夫妻
https://43142.diarynote.jp/201909011034527807/ ザ・ウェイト・バンド
https://43142.diarynote.jp/202010311315187907/ ザ・バンドの映画
▶︎過去の、タテイシ兄弟関連
https://43142.diarynote.jp/200406062249580000/
https://43142.diarynote.jp/200506120643190000/
https://43142.diarynote.jp/200506120644360000/
https://43142.diarynote.jp/200609031313220000/
大サンバ歌手のエルザ・ソアレスの訃報も届いている。リオに1930年6月23日に生まれ、2022年1月20日にリオで亡くなる。自然死だったようだ。ドラマティックな人生でも知られる彼女だが〜ともにブラジルが優勝した1958年と1962年のワールド・カップにセレソンとして出場した、最高の右アタッカーだったガヒンシャと結婚していたこともある〜、やはりその残されたプロダクツに最敬礼するしかない。
がらっぱちかつ弾力ある歌唱を武器に、いろんなサウンドをのりこなし、ブラジル音楽の強さや広い汎用性を示し続けた人物。いろいろあった後、1960年に『Se Acaso Você Chegasse』(Odeon)でデビュー。初期の数作で採用されるのは米国乗りビッグ・バンドのサウンドで、けっこうラテン・ジャズかと思わせる曲調も採用されていた。そこに彼女はスキャットをがんがん載せ、のりとしては女性版ルイ・アームストロングという趣もあった。それを聞くと、彼女がアメリカのジャズを聞いていたのは間違いないと思ってしまうところだが、ソアレスはそれを否定していたようだ。そのずっこーんとした歌唱はブラス群音との相性も良し、ブラジル人歌手のなかでももっとも菅セクション音との相性がいいシンガーという感想もぼくは持つ。
その後、よりブラジル色に根ざすようになるが、奔放さは絶対無比。もうやりたいようにやるわよ感覚が見事に横溢していて、それは様々な設定のジャケット・カヴァーにも表れている。それら、楽しいナ。そして、ぼくが感服してしまうのは、かような彼女は21世紀に入ってもどんどんコンテンポラリー要素を取り込み、カっとぶことをやめなかったこと。カエターノ・ヴェローゾ(2005年5月23日、2016年10月9日)、カルリーニョース・ブラウン(2000年4月30日)、セウ・ジョルジ(2005年9月1日)、ムンド・リブレS/A(2008年10月30日)のフレッド04他、助力者も本当にいろいろ。リミックス・アルバムも生んだ『Mulher do Fim do Mundo』(Circus、2015年)、ギター音が効きアフロ・ビート調もある『DeuséMulher』(Deck、2018年)や『Planeta Fome』(同、2019年)などはぶっとび、声は枯れてきてはいるものの、ぼくは大好きだ。まさにあっぱれ⤴︎⤴︎⤴︎
▶︎過去の、カエターノ・ヴェローゾ
http://43142.diarynote.jp/200506021846130000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20161009
▶︎過去の、カルリーニョス・ブラウン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-4.htm
▶︎過去の、セウ・ジョルジ
http://43142.diarynote.jp/?day=20050901
▶︎過去の、ムンド・リブレS/A
https://43142.diarynote.jp/200811141644484256/
<今日の、+ >
シンガー/俳優として米国で成功した、ミート・ローフもお亡くなりになった。1947年9月27日〜2022年1月20日。欄外に持ってきたのは、曲も書かないし、大仰な歌い方も好みではなく、そんなに聞いたことがないからだ。彼が出演した映画『ファイト・クラブ』(1999年11月25日)の項で、歌手を引退したと書いているけどそれは誤り。すみません、その後も5作アルバムも出している。メガ・ヒット作となったデビュー作『Bat Out Of Hell』(Epic,1977年)は大好きなトッド・ラングレン(2001年11月9日、2002年9月19日、2002年9月28日、2008年4月7日、2010年10月10日)のプロデュースなためわりとリアル・タイムで聞いたが、それで大失望しちゃったんだよなあ。だが、そんな彼でもその前にストーニー&ミートローフ(レコード会社の手違いで1ワードとなった)名義で出した『Stoney & Meatloaf』(Rear Earth,1971年)は持っている。https://43142.diarynote.jp/202201112019266248/のR.ディーン・テイラー項で触れているように、レア・アースはモータウンのロック・レーベルだった。そこには、いかにもモータウン・ポップというものからスワンプ調ロック曲まで収められていた。なぜ『Stoney & Meatloaf』を持っているかというと、アーシーなロックのデュオであるディレイニー&ボニーの『Accept No Substitute』(Elektra,1969年)のジャケットとけっこう似ており、NYの中古盤店でジャケ買いしてしまったから。処分していないので、今もトランク・ルームのどこかにあるはずだ。同じく白人の女男デュオであったストーニー&ミートローフはディレイニー&ボニーを参照したところがあった思う。ちなみに、ディレイニー&ボニーのデビュー作『Home』(1969 年)はスタックス発だった。
▶︎映画『ファイト・クラブ』
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
▶過去の、トッド・ラングレン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://43142.diarynote.jp/200804081929500000/
http://43142.diarynote.jp/201010111257003810/
まず、ミズーリ州セントルイス生まれのジャズ・ドラマーであるモンテス・コールマン。享年48は早すぎるな。とはいえ、孫も2人いたという。原因はうっ血性心不全で、セントルイスの病院で亡くなった。
父親は牧師。ノースキャロライナ州の大学で学んだこともあったようだが、基本地元で演奏し、2000年にはニューヨークに引っ越した。トランペッターのラッセル・ガン(2019年1月3日)やアルト主体サックス奏者であるボビー・ワトソンの2002年作に彼は参加しており、わりとすんなり需要を得たという印象を持つ。そんな彼のニューヨーク期のハイライトはロイ・ハーグローヴ(2003年2月18日、2003年9月21日、2004年12月2日、2007年9月10日、2008年9月16日、2009年6月24日、2011年2月22日、2012年3月23日、2014年2月19日、2016年1月27日、2017年3月2日、2018年3月1日)のグループに2000年代後半に入ったこと。彼のユニヴァーサル/エマーシー発の『イアーフード』(2008年)や『エマージェンス』(2009年)に録音参加するとともに、間違いなくハーグローヴの2011年ブルーノート公演に同行。もしかすると、2007、2008、2009年のハーグローヴの来日公演にも入っていたかもしれない。2013年に再びセントルイスに戻り、同地のジャズ・シーンを牽引していた。今の4ビートを叩ける人でした。
▶︎過去の、ラッセル・ガン
https://43142.diarynote.jp/201901041047462042/
▶過去の、ロイ・ハーグローヴ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-2.htm 18日、ディレクションズ・イン・ミュージック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-9.htm 21日
http://43142.diarynote.jp/200412111742300000/
http://43142.diarynote.jp/200709171108570000/
http://43142.diarynote.jp/200809171409066704/
http://43142.diarynote.jp/200906300951327850/
http://43142.diarynote.jp/201102240921561671/
http://43142.diarynote.jp/201203260806527228/
http://43142.diarynote.jp/201402201343247604/
http://43142.diarynote.jp/201601301016081732/
http://43142.diarynote.jp/201703081443314613/
https://43142.diarynote.jp/201803031242579295/
英領インド〜現バングラデシュの出身となるタブラ奏者であるバーダル・ロイは、1月19日に亡くなった。父親は政府のお偉方、10歳ごろからタブラを叩くとともにおおいにアメリカの音楽にも親しみ、大学卒業後の1968年にニューヨークに引っ越している。そんな彼は1970年にジョン・マクラフリン(2005年1月31日、2014年3月25日)の『マイ・ゴール・イズ・ビヨンド』(ダグラス、1971年)に参加して以降、新たなビートや音色を求める当時のNYのジャズ界で大注目の存在となる。マイルズ・デイヴィスの『オン・ザ・コーナー』(コロムビア、1972年)をはじめ、ファラオ・サンダース(2006年8月23日、2009年7月8日、2003年4月22日)、デイヴ・リーブマン、ジョン・ハッセル(2021年6月27日)、菊地雅章1999年11月3日、2002年9月22日、2003年6月10日、2004年11月3日、2012年6月24日、2012年6月25日、2012年10月26日)らのアルバムに次々に参加。また、その後もヨーコ・オノ(2009年1月21日)、ビル・ラズウェル(2004年9月5日、2005年7月30日、2005年8 月20日、2005年8月21日、2006年1月21日、2006年11月26日、2007年8月3日、2011年3月7日)、オーネット・コールマン(2006年3月27日)、ガース・ハドソン(2013年8月2日)、他。そんな彼のファースト作は東京録音の『アシルバッド』(トリオ、1975年)。以後、エンヤ他からリーダー作もリリースし、その数は15作以上あるのではないか。NY在住のタテイシ兄弟(2004年5月27日、2005年6月8日、2005年6月9日、2006年9月2日)関与の『Daybreak』(Igmod、1998年)は浮遊感に溢れ、印象に残っているな。
▶過去の、ジョン・マクラフリン
http://43142.diarynote.jp/200502041825460000/
http://43142.diarynote.jp/201403270907123498/
▶︎過去の、ファラオ・サンダース
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-4.htm 4月22日
https://43142.diarynote.jp/200608271341340000/
https://43142.diarynote.jp/200907131200224908/
▶過去の、ジョン・ハッセルの訃報
https://43142.diarynote.jp/202106272114548480/
▶過去の、菊地雅章
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20041103
http://43142.diarynote.jp/201207031322126509/
http://43142.diarynote.jp/201207031323242844/
http://43142.diarynote.jp/201210271744294415/
http://43142.diarynote.jp/201507091044561526/
http://43142.diarynote.jp/?day=20160611
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
https://43142.diarynote.jp/201809121745334226/ 新作
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/201105282358273180/ ショーン・レノンの、両親を語るインタヴュー付き
▶︎過去の、ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm 15日
▶︎過去の、ジョンとヨーコの展覧会
https://43142.diarynote.jp/202010081306571190/
▶過去の、ビル・ラズウェル
http://43142.diarynote.jp/200409050916440000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20050730
http://43142.diarynote.jp/200508230544440000/
http://43142.diarynote.jp/200508230545510000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20060121
http://43142.diarynote.jp/200611271213510000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20070803
http://43142.diarynote.jp/201103101345364557/
▶︎過去の、オーネット・コールマン
http://43142.diarynote.jp/200603281335030000/
▶︎過去の、ガース・ハドソン関連
https://43142.diarynote.jp/201204221307297965/ 下の方の<>内
https://43142.diarynote.jp/201308110826574632/ ハドソン夫妻
https://43142.diarynote.jp/201909011034527807/ ザ・ウェイト・バンド
https://43142.diarynote.jp/202010311315187907/ ザ・バンドの映画
▶︎過去の、タテイシ兄弟関連
https://43142.diarynote.jp/200406062249580000/
https://43142.diarynote.jp/200506120643190000/
https://43142.diarynote.jp/200506120644360000/
https://43142.diarynote.jp/200609031313220000/
大サンバ歌手のエルザ・ソアレスの訃報も届いている。リオに1930年6月23日に生まれ、2022年1月20日にリオで亡くなる。自然死だったようだ。ドラマティックな人生でも知られる彼女だが〜ともにブラジルが優勝した1958年と1962年のワールド・カップにセレソンとして出場した、最高の右アタッカーだったガヒンシャと結婚していたこともある〜、やはりその残されたプロダクツに最敬礼するしかない。
がらっぱちかつ弾力ある歌唱を武器に、いろんなサウンドをのりこなし、ブラジル音楽の強さや広い汎用性を示し続けた人物。いろいろあった後、1960年に『Se Acaso Você Chegasse』(Odeon)でデビュー。初期の数作で採用されるのは米国乗りビッグ・バンドのサウンドで、けっこうラテン・ジャズかと思わせる曲調も採用されていた。そこに彼女はスキャットをがんがん載せ、のりとしては女性版ルイ・アームストロングという趣もあった。それを聞くと、彼女がアメリカのジャズを聞いていたのは間違いないと思ってしまうところだが、ソアレスはそれを否定していたようだ。そのずっこーんとした歌唱はブラス群音との相性も良し、ブラジル人歌手のなかでももっとも菅セクション音との相性がいいシンガーという感想もぼくは持つ。
その後、よりブラジル色に根ざすようになるが、奔放さは絶対無比。もうやりたいようにやるわよ感覚が見事に横溢していて、それは様々な設定のジャケット・カヴァーにも表れている。それら、楽しいナ。そして、ぼくが感服してしまうのは、かような彼女は21世紀に入ってもどんどんコンテンポラリー要素を取り込み、カっとぶことをやめなかったこと。カエターノ・ヴェローゾ(2005年5月23日、2016年10月9日)、カルリーニョース・ブラウン(2000年4月30日)、セウ・ジョルジ(2005年9月1日)、ムンド・リブレS/A(2008年10月30日)のフレッド04他、助力者も本当にいろいろ。リミックス・アルバムも生んだ『Mulher do Fim do Mundo』(Circus、2015年)、ギター音が効きアフロ・ビート調もある『DeuséMulher』(Deck、2018年)や『Planeta Fome』(同、2019年)などはぶっとび、声は枯れてきてはいるものの、ぼくは大好きだ。まさにあっぱれ⤴︎⤴︎⤴︎
▶︎過去の、カエターノ・ヴェローゾ
http://43142.diarynote.jp/200506021846130000/
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▶︎過去の、カルリーニョス・ブラウン
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▶︎過去の、セウ・ジョルジ
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▶︎過去の、ムンド・リブレS/A
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<今日の、+ >
シンガー/俳優として米国で成功した、ミート・ローフもお亡くなりになった。1947年9月27日〜2022年1月20日。欄外に持ってきたのは、曲も書かないし、大仰な歌い方も好みではなく、そんなに聞いたことがないからだ。彼が出演した映画『ファイト・クラブ』(1999年11月25日)の項で、歌手を引退したと書いているけどそれは誤り。すみません、その後も5作アルバムも出している。メガ・ヒット作となったデビュー作『Bat Out Of Hell』(Epic,1977年)は大好きなトッド・ラングレン(2001年11月9日、2002年9月19日、2002年9月28日、2008年4月7日、2010年10月10日)のプロデュースなためわりとリアル・タイムで聞いたが、それで大失望しちゃったんだよなあ。だが、そんな彼でもその前にストーニー&ミートローフ(レコード会社の手違いで1ワードとなった)名義で出した『Stoney & Meatloaf』(Rear Earth,1971年)は持っている。https://43142.diarynote.jp/202201112019266248/のR.ディーン・テイラー項で触れているように、レア・アースはモータウンのロック・レーベルだった。そこには、いかにもモータウン・ポップというものからスワンプ調ロック曲まで収められていた。なぜ『Stoney & Meatloaf』を持っているかというと、アーシーなロックのデュオであるディレイニー&ボニーの『Accept No Substitute』(Elektra,1969年)のジャケットとけっこう似ており、NYの中古盤店でジャケ買いしてしまったから。処分していないので、今もトランク・ルームのどこかにあるはずだ。同じく白人の女男デュオであったストーニー&ミートローフはディレイニー&ボニーを参照したところがあった思う。ちなみに、ディレイニー&ボニーのデビュー作『Home』(1969 年)はスタックス発だった。
▶︎映画『ファイト・クラブ』
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
▶過去の、トッド・ラングレン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
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R.I.P.フレッド・ヴァン・ホーフ(1937年2月19日〜2021年1月13日)
2022年1月19日 音楽 ベルギー人鍵盤奏者であるフレッド・ヴァン・ホーフの訃報が届いている。欧州フリー・ジャズの名聞な担い手で、関与した作品は山ほど。リーダー作はベルギーのVogelやWIMpro、ドイツのFMP、フランスのnatoなど様々なところから出ている。1960年代半ばから、ハン・ベンニク(2010年9月5日、2014年9月6日)やペーター・ブロッツマン(2008年9月25日)らと吹っ切れた活動を問い、絵に描いたような(?)アヴァンな指さばきやサウンド志向を見せた。今のところ最終作は2019年8月にアントワープで録音されたブロッツマンとのデュオ『Front To Front』(Dropa,2020年)となるのかな。彼はピアノを主に弾いたが、先に鍵盤奏者と書いたのはオルガンやアコーディオンを前衛でありつつ情緒ある感じで弾く場合もあったからだ。
ところで、ホーフというとチェ・ゲバラを思い出す。彼のデビュー作『Fred Van Hove / Wolfgang Dauner – Requiem For Che Guevara / Psalmus Spei』(MPS,1969年)のアルバム・カヴァーに、堂々とチェ・ゲバラの肖像が載せられていたからだ。あれは、印象的だった。同作はドイツ人ピアニストのウォルフガング・ダウナーとの、ベルリン・ジャズ祭の実演をソースとするスプリット・アルバム。そのA面はダウナーたちの13分曲、B面はホーフたちによる17分の曲が収められていたが、後者の曲タイトルは「Requiem For Che Guevara, Martin Luther King, John Fitzgerald And Robert Kennedy, Malcolm X」。1969年はチャーリー・ヘイデン(2001年11月20日、2005年3月16日、2009年9月10日)の『リベレイション・ミュージック・オーケストラ』(インパルス!)が出た年でもありますね。そこで、ホーフはピアノではなくオルガンを弾いている。また、彼は2001年にピエール・バルー(2010年7月11日、2016年10月27日)のサラヴァからいろいろな楽器を扱うエティエンヌ・ブリュネとの双頭アルバムを出したこともあり、そこでもオルガンを弾いていた。晩年は認知症になるとともに、闘病していたという。
蛇足だが、今ピアノとオルガン両刀で活動しているのが、1986年生まれ英国人のキット・ダウンズ(2015年9月28日)だ。彼は音楽大学に通う前に教会でパイプ・オルガンを弾いていたという経験を持ち、活動初期からパイブ・オルガンを飄々と使う傾向にあった。そんな彼は2018年からECMからもリーダー作を出しているが、初作『Obsidian』は教会オルガンを弾くソロ演奏盤。同3作目となる『ヴァーミリオン』(2022年)はピアノ・トリオで録られているが、過去にはシンガーや電気音色を用いるものある。我が道を行くアヴァン系シンガー/写真家であるポーラ・レイ・ギブソンとダウンズの双頭名義作『Emotion Mashine』(Slowfoot,2018年)は音響的な指針も取る清新な仕上がりだった。なお、そのポーラ・レイ・ギブソンの旦那だったのは映画監督のブライアン・ギブソン(1944〜2004年)。彼はティナ・ターナーの1993年米国自伝ドラマ映画『TINA ティナ(原題:What’s Love Got to Do with It)』やロック・バンドを主役に据えた1998年英国映画『スティル・クレイジー』(2000年2月17日)なども撮っている。
▶︎過去の、ハン・ベンニク
http://43142.diarynote.jp/201009171511588216/
http://43142.diarynote.jp/201409100929108025/
▶︎過去の、ペーター・ブロッツマン
https://43142.diarynote.jp/200809270215092074/
▶過去の、チャーリー・ヘイデン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm 彼のライナーノーツの金言付記
http://43142.diarynote.jp/200503240453290000/
http://43142.diarynote.jp/200909120650273142/
▶︎過去の、ピエール・バルー
http://43142.diarynote.jp/201007130731368326/
https://43142.diarynote.jp/201610310943306583/
▶︎過去の、キッド・タウンズ
https://43142.diarynote.jp/201510021143165760/
▶︎過去の、映画『スティル・クレイジー』http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-2.htm 2000年2月17日
<今日の、迷い>
昼間試写会に行こうと思ったが、元気だなあと思えないこともあり日和ってやめにする。一昨年は引きこもることに快感を覚えたりもしたが、今はそう思えない。外出を避けていると、<思い立ったが吉日的速攻型>のぼくも筆も遅くなるような気がする。しゅん。……あさってから、マンボウ。あ”ー。
ところで、ホーフというとチェ・ゲバラを思い出す。彼のデビュー作『Fred Van Hove / Wolfgang Dauner – Requiem For Che Guevara / Psalmus Spei』(MPS,1969年)のアルバム・カヴァーに、堂々とチェ・ゲバラの肖像が載せられていたからだ。あれは、印象的だった。同作はドイツ人ピアニストのウォルフガング・ダウナーとの、ベルリン・ジャズ祭の実演をソースとするスプリット・アルバム。そのA面はダウナーたちの13分曲、B面はホーフたちによる17分の曲が収められていたが、後者の曲タイトルは「Requiem For Che Guevara, Martin Luther King, John Fitzgerald And Robert Kennedy, Malcolm X」。1969年はチャーリー・ヘイデン(2001年11月20日、2005年3月16日、2009年9月10日)の『リベレイション・ミュージック・オーケストラ』(インパルス!)が出た年でもありますね。そこで、ホーフはピアノではなくオルガンを弾いている。また、彼は2001年にピエール・バルー(2010年7月11日、2016年10月27日)のサラヴァからいろいろな楽器を扱うエティエンヌ・ブリュネとの双頭アルバムを出したこともあり、そこでもオルガンを弾いていた。晩年は認知症になるとともに、闘病していたという。
蛇足だが、今ピアノとオルガン両刀で活動しているのが、1986年生まれ英国人のキット・ダウンズ(2015年9月28日)だ。彼は音楽大学に通う前に教会でパイプ・オルガンを弾いていたという経験を持ち、活動初期からパイブ・オルガンを飄々と使う傾向にあった。そんな彼は2018年からECMからもリーダー作を出しているが、初作『Obsidian』は教会オルガンを弾くソロ演奏盤。同3作目となる『ヴァーミリオン』(2022年)はピアノ・トリオで録られているが、過去にはシンガーや電気音色を用いるものある。我が道を行くアヴァン系シンガー/写真家であるポーラ・レイ・ギブソンとダウンズの双頭名義作『Emotion Mashine』(Slowfoot,2018年)は音響的な指針も取る清新な仕上がりだった。なお、そのポーラ・レイ・ギブソンの旦那だったのは映画監督のブライアン・ギブソン(1944〜2004年)。彼はティナ・ターナーの1993年米国自伝ドラマ映画『TINA ティナ(原題:What’s Love Got to Do with It)』やロック・バンドを主役に据えた1998年英国映画『スティル・クレイジー』(2000年2月17日)なども撮っている。
▶︎過去の、ハン・ベンニク
http://43142.diarynote.jp/201009171511588216/
http://43142.diarynote.jp/201409100929108025/
▶︎過去の、ペーター・ブロッツマン
https://43142.diarynote.jp/200809270215092074/
▶過去の、チャーリー・ヘイデン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm 彼のライナーノーツの金言付記
http://43142.diarynote.jp/200503240453290000/
http://43142.diarynote.jp/200909120650273142/
▶︎過去の、ピエール・バルー
http://43142.diarynote.jp/201007130731368326/
https://43142.diarynote.jp/201610310943306583/
▶︎過去の、キッド・タウンズ
https://43142.diarynote.jp/201510021143165760/
▶︎過去の、映画『スティル・クレイジー』http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-2.htm 2000年2月17日
<今日の、迷い>
昼間試写会に行こうと思ったが、元気だなあと思えないこともあり日和ってやめにする。一昨年は引きこもることに快感を覚えたりもしたが、今はそう思えない。外出を避けていると、<思い立ったが吉日的速攻型>のぼくも筆も遅くなるような気がする。しゅん。……あさってから、マンボウ。あ”ー。
R.I.P.ジョン・リンド(1945年〜2022年1月15日)
2022年1月18日 音楽 ロックとブラック・ミュージックの両方の聞き手に名前が認知されている、米国業界人がお亡くなりになった。ニューヨーク生まれで、マンハッタンのマネス音楽学校でクラシック・ギターを学んだという。なお、同校は近年活躍するミュージシャンをいろいろ輩出しているザ・ニュー・スクール大学の傘下に収まっている。
リンドが最初に名前を出すのは、後にシンガー・ソングライターとして脚光を浴びるピーター・ゴールウェイらがグリニッチ・ヴィレッジ界隈で組んでいた趣味性の高いしなやかロック・バンドであるザ・フィフス・アヴェニュー・バンドにリード・シンガーとして参加したこと。そのセルフ・タイトル作(リプリーズ、1969年)は少したってから日本のアメリカン・ロックのファンの間でカルト的な評価を得た。だが、バンドは1970年に解散してしまっていた。
その後、リンドはロサンゼルスに移り、シンガーのヴァレリー・カーターとギタリストのリチャード・ボビーとのトリオであるハウディ・ムーンを組んで、1974年にA&Mからセルフ・タイトル作をリリースする。それは部分的にロウエル・ジョージがプロデュースに関与(リトル・フィートのメンバーも参加)し、ヴァン・ダイク・パークス(2013年1月29日)もピアノで入っている。ハウディ・ムーンも短命に終わったが、ヴァレリー・カーター(1953〜2017年)はソロになり、コロムビアからリリースした1977年デビュー作『Just a Stone’s Throw Away』のプロデューサーは名エンジニアのジョージ・メッセンバーグを主に、ロウエル・ジョージとE.W.&F(2006年1月19日、2012年5月17 日)のモウリス・ホワイトが2曲づつ制作クレジットを得ていた。
その『Just a Stone’s Throw Away』に名目上リンドは関与していないが、実は間に入っていた可能性はある。彼はモウリス・ホワイトの知遇を得てラムゼイ・ルイス(2008年7月2日、2009年8月29日、2010年9月28日、2011年8月22日、2013年2月21日)のホワイト制作盤『サン・ゴッテス』(コロムビア、1974年)のタイトル曲〜それはすぐにE.W.&W.のレパートリーにもなる〜をホワイトと共作。また、リンドは彼流れでザ・エモーションズ(2006年10月30日、2009年4月15日)にも曲を提供。E.W.&Fにも、複数曲を提供している。さらに、一方ではザ・スタイリスティックス(2015年12月27日)、ザ・テンプテイションズ(2009年11月8日、2013年8月18日、2017年3月20日)、ロジャー・ダルトリー(2008年11月17日)、ベティ・ライト(2012年2月28日)、デバージ、シェール、ジェニファー・ホリデイ、ミーシャ・パリス、バリー・マニロウなどに曲を書き、ソングライターとしての地位を確立した。そんな彼の一番の成功曲はマドンナ(2005年12月7日)の1985年全米1位曲「クレイジー・フォー・ユー」とヴァネッサ・ウィリアムズ(2014年6月18日、2018年3月6日)の1991年のやはり1位曲「セイヴ・ザ・ベスト・フォー・ラスト」を作った(どれも、共作)ことだろうか。
また、彼はシールズ&クロフツをはじめ様々なアーティストのマネイジメントをしていたボブ・カヴァロと1970年代から親しくしている。カヴァロは、クインシー・ジョーンズ(2013年8月1日)が音楽を担当したスピルバーグ映画「ザ・カラー・パープル」(1983年)やプリンス(2002年11月19日)が監督した映画「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」(1986年)などのプロデュースに関与。1988年には映画製作会社のアトラス・エンターテインメントを設立し、さらに1998年からはディズニーの音楽部門であるブエナ・ヴィスタ・ミュージック・グループの会長に就任(2012年に引退)した。リンドはいつからか、ブエナ・ヴィスタ傘下の音楽レーベルであるハリウッドのA&R上級副社長を勤めていたが、それはキャヴァロの誘いであったかもしれない。
ザ・フィフス・アヴェニュー・バンドは日本のポニーキャニオン/ヴィレッジ・グリーンの誘いを受け、『リアリー』(1990年)をレコーディング。そこにはリンドもしっかり入り、ファーストでは1曲だったところ、同作ではメンバーのなかで一番い多い3曲を提供している。享年、75。ガンを患っていた。
▶︎過去の、ザ・エモーションズ
https://43142.diarynote.jp/200611020837020000/
https://43142.diarynote.jp/200904211952514994/
https://43142.diarynote.jp/202009220751493208/ メンバーの訃報
▶︎過去の、ロウエル・ジョージの娘
https://43142.diarynote.jp/200704300158440000/
▶過去の、リトル・フィート関連
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-12.htm
http://43142.diarynote.jp/201205301327209613/
https://43142.diarynote.jp/201909011034527807/
https://43142.diarynote.jp/201911011701216748/ ポール・バレルの訃報
▶過去の、ヴァン・ダイク・パークス
http://43142.diarynote.jp/201301311032072367/
▶過去の、E.W.&.F.関連
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-10.htm フィリップ・ベイリー
http://43142.diarynote.jp/200601271855390000/ E.W.&.F.
http://43142.diarynote.jp/200803051002560000/ モーリス・プレジャー
http://43142.diarynote.jp/200804030045430000/ アル・マッケイ
http://43142.diarynote.jp/200910021138591223/ ラリー・ダン シェルドン・レイノルズ
http://43142.diarynote.jp/201011140051119042/ フィリップ・ベイリー モーリス・プレジャー
http://43142.diarynote.jp/201109171048385669/ アル・マッケイ
http://43142.diarynote.jp/201207031311348277/ モーリス・プレジャー
http://43142.diarynote.jp/201209191235365909/ アル・マッケイ
http://43142.diarynote.jp/201301051329276221/ アル・マッケイ
http://43142.diarynote.jp/201205301252113538/ E.W.&.F.
http://43142.diarynote.jp/201412011305372891/ アル・マッケイ
https://43142.diarynote.jp/201602290953239524/ アル・マッケイ
▶︎過去の、ラムゼイ・ルイス
http://43142.diarynote.jp/200807031119590000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090829
http://43142.diarynote.jp/201009290720426339/
http://43142.diarynote.jp/201109100857091783/
http://43142.diarynote.jp/201302281043262653/
▶︎過去の、ザ・テンプテーションズ・レヴュー
http://43142.diarynote.jp/200911101136006646/
http://43142.diarynote.jp/201308191407221107/
http://43142.diarynote.jp/201703211232135720/
▶︎過去の、ザ・フー/ロジャー・ダルトリー関連
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm ジョン・エントウィッスル 2001年11月9日
https://43142.diarynote.jp/200810010211566772/ 映画
https://43142.diarynote.jp/200811201240456237/
▶︎過去の、ベティ・ライト
https://43142.diarynote.jp/201203061824335340/
https://43142.diarynote.jp/202005110748547114/ 訃報、インタヴュー
▶過去の、マドンナ
http://43142.diarynote.jp/200512091117210000/
▶︎過去の、ヴァネッサ・ウィリアムズ
http://43142.diarynote.jp/201406191121201568/
https://43142.diarynote.jp/201803081132302328/
▶︎過去の、クインシー・ジョーンズ
http://43142.diarynote.jp/201308091149599475/
▶過去の、プリンス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
<今日の、欲求>
唐突に、美味しいうなぎが食いたくなる。寒いので、風邪を引かないように栄養を取らなきゃと思っている? ずっとちゃんと鰻を食してないしな。感染者増大しているこのおりではなかったら、ランチ目当て〜ディナー価格を出す根性はなし〜で出かけているところだ。そういえば、この2年、予約を必要とするようなお店での外食はあんまししてねえか。誘いを受けている友人宅訪問も延期になっているよなあ。昨年秋〜年末にかけてもう少し活発に動いていたらよかったなあ……。この春頃にはどうなっているか。まっすぐに向き合うとダークになる〜自粛飽きで昨年の4月と5月はメンタルがやさぐれていた〜ので、不謹慎と言われようとゲーム感覚で、神経質気味に状況にあたろうと思う。思うだけになりそうだが、新しい些細な趣味増やそうかなー。
リンドが最初に名前を出すのは、後にシンガー・ソングライターとして脚光を浴びるピーター・ゴールウェイらがグリニッチ・ヴィレッジ界隈で組んでいた趣味性の高いしなやかロック・バンドであるザ・フィフス・アヴェニュー・バンドにリード・シンガーとして参加したこと。そのセルフ・タイトル作(リプリーズ、1969年)は少したってから日本のアメリカン・ロックのファンの間でカルト的な評価を得た。だが、バンドは1970年に解散してしまっていた。
その後、リンドはロサンゼルスに移り、シンガーのヴァレリー・カーターとギタリストのリチャード・ボビーとのトリオであるハウディ・ムーンを組んで、1974年にA&Mからセルフ・タイトル作をリリースする。それは部分的にロウエル・ジョージがプロデュースに関与(リトル・フィートのメンバーも参加)し、ヴァン・ダイク・パークス(2013年1月29日)もピアノで入っている。ハウディ・ムーンも短命に終わったが、ヴァレリー・カーター(1953〜2017年)はソロになり、コロムビアからリリースした1977年デビュー作『Just a Stone’s Throw Away』のプロデューサーは名エンジニアのジョージ・メッセンバーグを主に、ロウエル・ジョージとE.W.&F(2006年1月19日、2012年5月17 日)のモウリス・ホワイトが2曲づつ制作クレジットを得ていた。
その『Just a Stone’s Throw Away』に名目上リンドは関与していないが、実は間に入っていた可能性はある。彼はモウリス・ホワイトの知遇を得てラムゼイ・ルイス(2008年7月2日、2009年8月29日、2010年9月28日、2011年8月22日、2013年2月21日)のホワイト制作盤『サン・ゴッテス』(コロムビア、1974年)のタイトル曲〜それはすぐにE.W.&W.のレパートリーにもなる〜をホワイトと共作。また、リンドは彼流れでザ・エモーションズ(2006年10月30日、2009年4月15日)にも曲を提供。E.W.&Fにも、複数曲を提供している。さらに、一方ではザ・スタイリスティックス(2015年12月27日)、ザ・テンプテイションズ(2009年11月8日、2013年8月18日、2017年3月20日)、ロジャー・ダルトリー(2008年11月17日)、ベティ・ライト(2012年2月28日)、デバージ、シェール、ジェニファー・ホリデイ、ミーシャ・パリス、バリー・マニロウなどに曲を書き、ソングライターとしての地位を確立した。そんな彼の一番の成功曲はマドンナ(2005年12月7日)の1985年全米1位曲「クレイジー・フォー・ユー」とヴァネッサ・ウィリアムズ(2014年6月18日、2018年3月6日)の1991年のやはり1位曲「セイヴ・ザ・ベスト・フォー・ラスト」を作った(どれも、共作)ことだろうか。
また、彼はシールズ&クロフツをはじめ様々なアーティストのマネイジメントをしていたボブ・カヴァロと1970年代から親しくしている。カヴァロは、クインシー・ジョーンズ(2013年8月1日)が音楽を担当したスピルバーグ映画「ザ・カラー・パープル」(1983年)やプリンス(2002年11月19日)が監督した映画「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」(1986年)などのプロデュースに関与。1988年には映画製作会社のアトラス・エンターテインメントを設立し、さらに1998年からはディズニーの音楽部門であるブエナ・ヴィスタ・ミュージック・グループの会長に就任(2012年に引退)した。リンドはいつからか、ブエナ・ヴィスタ傘下の音楽レーベルであるハリウッドのA&R上級副社長を勤めていたが、それはキャヴァロの誘いであったかもしれない。
ザ・フィフス・アヴェニュー・バンドは日本のポニーキャニオン/ヴィレッジ・グリーンの誘いを受け、『リアリー』(1990年)をレコーディング。そこにはリンドもしっかり入り、ファーストでは1曲だったところ、同作ではメンバーのなかで一番い多い3曲を提供している。享年、75。ガンを患っていた。
▶︎過去の、ザ・エモーションズ
https://43142.diarynote.jp/200611020837020000/
https://43142.diarynote.jp/200904211952514994/
https://43142.diarynote.jp/202009220751493208/ メンバーの訃報
▶︎過去の、ロウエル・ジョージの娘
https://43142.diarynote.jp/200704300158440000/
▶過去の、リトル・フィート関連
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-12.htm
http://43142.diarynote.jp/201205301327209613/
https://43142.diarynote.jp/201909011034527807/
https://43142.diarynote.jp/201911011701216748/ ポール・バレルの訃報
▶過去の、ヴァン・ダイク・パークス
http://43142.diarynote.jp/201301311032072367/
▶過去の、E.W.&.F.関連
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-10.htm フィリップ・ベイリー
http://43142.diarynote.jp/200601271855390000/ E.W.&.F.
http://43142.diarynote.jp/200803051002560000/ モーリス・プレジャー
http://43142.diarynote.jp/200804030045430000/ アル・マッケイ
http://43142.diarynote.jp/200910021138591223/ ラリー・ダン シェルドン・レイノルズ
http://43142.diarynote.jp/201011140051119042/ フィリップ・ベイリー モーリス・プレジャー
http://43142.diarynote.jp/201109171048385669/ アル・マッケイ
http://43142.diarynote.jp/201207031311348277/ モーリス・プレジャー
http://43142.diarynote.jp/201209191235365909/ アル・マッケイ
http://43142.diarynote.jp/201301051329276221/ アル・マッケイ
http://43142.diarynote.jp/201205301252113538/ E.W.&.F.
http://43142.diarynote.jp/201412011305372891/ アル・マッケイ
https://43142.diarynote.jp/201602290953239524/ アル・マッケイ
▶︎過去の、ラムゼイ・ルイス
http://43142.diarynote.jp/200807031119590000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090829
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▶︎過去の、ザ・テンプテーションズ・レヴュー
http://43142.diarynote.jp/200911101136006646/
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▶︎過去の、ザ・フー/ロジャー・ダルトリー関連
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm ジョン・エントウィッスル 2001年11月9日
https://43142.diarynote.jp/200810010211566772/ 映画
https://43142.diarynote.jp/200811201240456237/
▶︎過去の、ベティ・ライト
https://43142.diarynote.jp/201203061824335340/
https://43142.diarynote.jp/202005110748547114/ 訃報、インタヴュー
▶過去の、マドンナ
http://43142.diarynote.jp/200512091117210000/
▶︎過去の、ヴァネッサ・ウィリアムズ
http://43142.diarynote.jp/201406191121201568/
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▶︎過去の、クインシー・ジョーンズ
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▶過去の、プリンス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
<今日の、欲求>
唐突に、美味しいうなぎが食いたくなる。寒いので、風邪を引かないように栄養を取らなきゃと思っている? ずっとちゃんと鰻を食してないしな。感染者増大しているこのおりではなかったら、ランチ目当て〜ディナー価格を出す根性はなし〜で出かけているところだ。そういえば、この2年、予約を必要とするようなお店での外食はあんまししてねえか。誘いを受けている友人宅訪問も延期になっているよなあ。昨年秋〜年末にかけてもう少し活発に動いていたらよかったなあ……。この春頃にはどうなっているか。まっすぐに向き合うとダークになる〜自粛飽きで昨年の4月と5月はメンタルがやさぐれていた〜ので、不謹慎と言われようとゲーム感覚で、神経質気味に状況にあたろうと思う。思うだけになりそうだが、新しい些細な趣味増やそうかなー。
R.I.P. フレッド・パリス(1936年3月26日〜2022年1月13日)。ローザ・リー・ホウキンズ(1945年10月23日〜1月14日)、グレッグ・ウェブスター(1938年1月4日〜1月14日)
2022年1月17日 音楽 米国ブラック・ミュージックの輪にいた3人の方々が亡くなってしまっている。
R&Bコーラス表現の重要ヴァリエイションであり、1950年代の最たる街角肉声表現であったドゥーワップの代表ブループであるザ・ファイヴ・サテンの創設者であるフレッド・パリスの訃報が届いた。コネティカット州ニュー・ヘヴン生まれ。ハイティーンには友達たちと前身グループを結成、1956年にニュー・ヘヴンの教会の地下室で「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」を録音。当初それはシングルのB面曲だったが、パリス作のその曲は歌詞の良さもありDJたちが好んでオンエアし続け、1959年にR&Bチャート3位に入った。パリスは軍に勤務していたようで同曲を書いた際はフィラデルフィアの基地にいて、ヒット・チャートを登った際は日本に従軍していた。そして、帰国後にザ・ファイヴ・サテンの活動に力を入れた。
「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」はまさにドゥーワップのスタンダード。映画『アメリカン・グラフィティ』などオールディーズなのりを出す映画に挿入歌として使われるとともに、ザ・ビーチ・ボーイズ(2014年3月28日)、ロニー・ミルサップ、山下達郎、ボーイズⅡメンなど、いろいろな人たちから取り上げられている。
▶︎過去の、マイク・ラヴ/ザ・ビーチ・ボーイズ
http://43142.diarynote.jp/201403291149242320/
ニューオーリンズの女性コーラス・グループであるザ・ディキシー・カップスのローザ・リー・ホーキンズもお亡くなりになった。1963年、バーバラとローザの姉妹に従姉妹のジョアン・マリー・ジョンソンをくわえた3人でディキシー・カップスを結成、姉のバーバラともにグループは、姉が亡くなった2016年まで続いたという。
フィル・スペクターが共作者として名前を連ねる1964年デビュー曲「チャペル・オブ・ラヴ」が全米1位に輝き、それは彼女たち一番の成功曲となった。実はそのデビュー曲はほとんどニューオーリンズの香りがないナンバーだったが、その後のプロダクツにはホーン音や屈託のないあっけらかんさなどNOLA的な持ち味が認められる。ドクター・ジョン(2000年5月24日、2002年3月23日、2005年9月20日、2012年2月15日、2013年10月1日)のカヴァーで知られる1965年ヒット曲「アイコ・アイコ」はなにげにプリミティヴ/簡素なノリで披露されているんだよな。やはりニューオーリンズの何かを伝えた存在であったと思う。手術中に亡くなったと伝えられる。
▶︎過去の、フィル・スペクターの訃報
https://43142.diarynote.jp/202101181437145267/
▶過去の、ドクター・ジョン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-5.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
http://43142.diarynote.jp/200510030016390000/
http://43142.diarynote.jp/201202161725143619/
http://43142.diarynote.jp/201310050709459564/
そして、オハイオ・プレイヤーズ初期のドラマーを勤めたグレッグ・ウェブスターも、同バンドが拠点としたオハイオ州デイトンの病院で亡くなった。オハイオ州ハミルトンの生まれ、彼は1964年から1972年までグループにいたが、大ブレイクする前の1972年ウェストバウンド発の『Pain』と『Pleasure』はオハイオ・プレイヤーズの作品としては一番好きなアルバムだな。ジャジーな回路も絶妙に活きる甘さを排した都会的ファンク・サウンドは非常に良い聞き味あり。ウェブスターもときに人力ダブという感覚も持つ不思議な溜めを持つドラミングでバンド表現に多大に貢献している。脱退後は教会でずっと演奏したそうだ。
▶︎過去の、シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ
https://43142.diarynote.jp/201006071817447501/
<今日の、……>
前にもこの項で書いたことがあるかもしれないが。以前は、あまり熱心には訃報に触れたりしなかった。だが、新型コロナ禍に入ると来日ミュージシャン公演がなくなるばかりでなく、開かれる公演も少なくなり、書く項目が減少するので、ならばと訃報にマメに触れるようになった。でも、やっぱり訃報ばかり書いていると飽きる(?)よなあ。ヤなことはしない主義だが、それでもぼくが続けているのは、音楽の積み重ねや先達に対する感謝であると思う。臭くなるけど。
R&Bコーラス表現の重要ヴァリエイションであり、1950年代の最たる街角肉声表現であったドゥーワップの代表ブループであるザ・ファイヴ・サテンの創設者であるフレッド・パリスの訃報が届いた。コネティカット州ニュー・ヘヴン生まれ。ハイティーンには友達たちと前身グループを結成、1956年にニュー・ヘヴンの教会の地下室で「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」を録音。当初それはシングルのB面曲だったが、パリス作のその曲は歌詞の良さもありDJたちが好んでオンエアし続け、1959年にR&Bチャート3位に入った。パリスは軍に勤務していたようで同曲を書いた際はフィラデルフィアの基地にいて、ヒット・チャートを登った際は日本に従軍していた。そして、帰国後にザ・ファイヴ・サテンの活動に力を入れた。
「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」はまさにドゥーワップのスタンダード。映画『アメリカン・グラフィティ』などオールディーズなのりを出す映画に挿入歌として使われるとともに、ザ・ビーチ・ボーイズ(2014年3月28日)、ロニー・ミルサップ、山下達郎、ボーイズⅡメンなど、いろいろな人たちから取り上げられている。
▶︎過去の、マイク・ラヴ/ザ・ビーチ・ボーイズ
http://43142.diarynote.jp/201403291149242320/
ニューオーリンズの女性コーラス・グループであるザ・ディキシー・カップスのローザ・リー・ホーキンズもお亡くなりになった。1963年、バーバラとローザの姉妹に従姉妹のジョアン・マリー・ジョンソンをくわえた3人でディキシー・カップスを結成、姉のバーバラともにグループは、姉が亡くなった2016年まで続いたという。
フィル・スペクターが共作者として名前を連ねる1964年デビュー曲「チャペル・オブ・ラヴ」が全米1位に輝き、それは彼女たち一番の成功曲となった。実はそのデビュー曲はほとんどニューオーリンズの香りがないナンバーだったが、その後のプロダクツにはホーン音や屈託のないあっけらかんさなどNOLA的な持ち味が認められる。ドクター・ジョン(2000年5月24日、2002年3月23日、2005年9月20日、2012年2月15日、2013年10月1日)のカヴァーで知られる1965年ヒット曲「アイコ・アイコ」はなにげにプリミティヴ/簡素なノリで披露されているんだよな。やはりニューオーリンズの何かを伝えた存在であったと思う。手術中に亡くなったと伝えられる。
▶︎過去の、フィル・スペクターの訃報
https://43142.diarynote.jp/202101181437145267/
▶過去の、ドクター・ジョン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-5.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
http://43142.diarynote.jp/200510030016390000/
http://43142.diarynote.jp/201202161725143619/
http://43142.diarynote.jp/201310050709459564/
そして、オハイオ・プレイヤーズ初期のドラマーを勤めたグレッグ・ウェブスターも、同バンドが拠点としたオハイオ州デイトンの病院で亡くなった。オハイオ州ハミルトンの生まれ、彼は1964年から1972年までグループにいたが、大ブレイクする前の1972年ウェストバウンド発の『Pain』と『Pleasure』はオハイオ・プレイヤーズの作品としては一番好きなアルバムだな。ジャジーな回路も絶妙に活きる甘さを排した都会的ファンク・サウンドは非常に良い聞き味あり。ウェブスターもときに人力ダブという感覚も持つ不思議な溜めを持つドラミングでバンド表現に多大に貢献している。脱退後は教会でずっと演奏したそうだ。
▶︎過去の、シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ
https://43142.diarynote.jp/201006071817447501/
<今日の、……>
前にもこの項で書いたことがあるかもしれないが。以前は、あまり熱心には訃報に触れたりしなかった。だが、新型コロナ禍に入ると来日ミュージシャン公演がなくなるばかりでなく、開かれる公演も少なくなり、書く項目が減少するので、ならばと訃報にマメに触れるようになった。でも、やっぱり訃報ばかり書いていると飽きる(?)よなあ。ヤなことはしない主義だが、それでもぼくが続けているのは、音楽の積み重ねや先達に対する感謝であると思う。臭くなるけど。
英ウェールズのロック・トリオであるバッジーのリード・ヴォーカリスト/ベーシストであった、バーク・シェリーが亡くなった。クリームに触発されて結成したようなノリもなくはないセルフ・タイトル作(Kapp/MCA、1971年)でデビューし、かなり確かなソングライティング能力も有しており、1970年代にぼくはけっこう彼らを聞いていた。同じ編成ということもあり、グランドファンク・レイルロードの英国版みたいな印象も持っていたかな。曲作りは、バッジーの方が基本勝っていた。そんな彼らはドキュメンタリー映画にもなったウェールズにある宿泊型の英国著名スタジオであるロックフィールド(現在も稼働中で有名バンドがいろいろ使っている同スタジオは『Rockfield:The Studio on the Farm』という2020年英国映画にもなった。それ、2013年米国映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』が引き金となり作られたよう。1月下旬より日本公開もされる)の70年代の際たる顧客バンドでもあった。また、彼らは当初からアーティスト写真ではなくイラストレーションをジャケット・カヴァーに使用していたが、その2作目と3作目はロジャー・ディーンが担当していた。
ピックでベースを弾きながら、高めの歌声で歌った人物。結成いらい、少し休止期などはあったものの、唯一バンドに関わり続けた“ミスター・バッジー”。ではあったが、2010年にツアーでポーランドを訪れた際に大動脈瘤で倒れ、その後バッジーは活動休止に追い込まれた。晩年にはスティックラー症候群も患い、シェリーはウェールズ・カーディフの大学病院で息を引き取った。
▶︎過去の、映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』
https://43142.diarynote.jp/201406270933515875/
また、“1960年代型バッド・ガール”のアイコン的存在であるシンガーのロニー・スペクターもお亡くなりになった。アフリカ系とチェロキーの血を引く母親とアイルランド系アメリカ人の父親のもとマンハッタンのワシントン・ハイツでベロニカ・イヴェット・ベネットとして誕生。子供のころから姉や従姉妹と歌い始め、それはガールズ・グループのザ・ロネッツへと繋がる。
1961年にコルピクッスと解約したもののヒットには結びつかなかったが、1963年にフィル・スペクターのフィルズと契約することで状況は一転し、ロネッツは人気グループとなる。特にロネッツの中央に立った彼女は印象的なルックス/雰囲気とともに多大な注目を獲得。その影響力は、1980年代のマドンナのよう、と指摘することも可能か。あのティナー・ターナーもロニーの外見には影響を受けたんじゃないか。彼女たちは英国でも絶大な支持を得た。また、ザ・ビートルズのアメリカ・ツアーの前座も務めたこともあったはずだ。全米2位に輝いた「ビー・マイ・ベイビー」をはじめ、その多くの作曲/制作はフィル・スペクターだった。
ロネッツは1967年に解散し、フィルとロニーは翌年に正式に結婚。とはいえ、二人の関係はその前からあり、65年まではフィルは既婚者だった。1972年にロニーは命からがらフィルのビヴァリー・ヒルズ邸宅から逃げ出し、後に離婚する。フィルは最大級にロニーの復帰を邪魔し、ロネッツ時代の印税支払いを拒否したとも伝えられる。ロニーの1971年発売シングルは、フィル流れでザ・ビートルズのアップルからだった。また、一時はロネッツも彼女以外は新メンバーで再結成したものの、基本ソロとしてゆったり活動。1980年から2016年にかけて、彼女は4枚のリーダー作を出している。
1982年にはマネージャーをしていた人物と結婚した彼女は音楽外のところで、とてもクールに振る舞ったという印象も得る。フィル・スペクターが亡くなった際のSNSの投稿文章もそうだったが、彼女はネイティヴ・アメリカンの教育支援をはじめ、社会活動にもあたったようだ。
▶︎過去の、フィル・スペクターの訃報
https://43142.diarynote.jp/202101181437145267/
<今日の、うずき>
なんとなく、なぜかしらうずうず。ふむ。これは感染者増大(今日は、3000人代超え)していて、またいろいろ行動制限が打ち出されそうと思ってしまうからか。音楽に関する〜他のことも同様だが、これがぼくと一番密接に関わることだから。皆、自分と身近なことから考え、声を上げるといいのだ〜こと、これ以上日常に負荷がかかってしまうのは、、、。なんか、どこかでポジティヴになっていることと、それはつながると都合良く解釈しておこう。
ピックでベースを弾きながら、高めの歌声で歌った人物。結成いらい、少し休止期などはあったものの、唯一バンドに関わり続けた“ミスター・バッジー”。ではあったが、2010年にツアーでポーランドを訪れた際に大動脈瘤で倒れ、その後バッジーは活動休止に追い込まれた。晩年にはスティックラー症候群も患い、シェリーはウェールズ・カーディフの大学病院で息を引き取った。
▶︎過去の、映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』
https://43142.diarynote.jp/201406270933515875/
また、“1960年代型バッド・ガール”のアイコン的存在であるシンガーのロニー・スペクターもお亡くなりになった。アフリカ系とチェロキーの血を引く母親とアイルランド系アメリカ人の父親のもとマンハッタンのワシントン・ハイツでベロニカ・イヴェット・ベネットとして誕生。子供のころから姉や従姉妹と歌い始め、それはガールズ・グループのザ・ロネッツへと繋がる。
1961年にコルピクッスと解約したもののヒットには結びつかなかったが、1963年にフィル・スペクターのフィルズと契約することで状況は一転し、ロネッツは人気グループとなる。特にロネッツの中央に立った彼女は印象的なルックス/雰囲気とともに多大な注目を獲得。その影響力は、1980年代のマドンナのよう、と指摘することも可能か。あのティナー・ターナーもロニーの外見には影響を受けたんじゃないか。彼女たちは英国でも絶大な支持を得た。また、ザ・ビートルズのアメリカ・ツアーの前座も務めたこともあったはずだ。全米2位に輝いた「ビー・マイ・ベイビー」をはじめ、その多くの作曲/制作はフィル・スペクターだった。
ロネッツは1967年に解散し、フィルとロニーは翌年に正式に結婚。とはいえ、二人の関係はその前からあり、65年まではフィルは既婚者だった。1972年にロニーは命からがらフィルのビヴァリー・ヒルズ邸宅から逃げ出し、後に離婚する。フィルは最大級にロニーの復帰を邪魔し、ロネッツ時代の印税支払いを拒否したとも伝えられる。ロニーの1971年発売シングルは、フィル流れでザ・ビートルズのアップルからだった。また、一時はロネッツも彼女以外は新メンバーで再結成したものの、基本ソロとしてゆったり活動。1980年から2016年にかけて、彼女は4枚のリーダー作を出している。
1982年にはマネージャーをしていた人物と結婚した彼女は音楽外のところで、とてもクールに振る舞ったという印象も得る。フィル・スペクターが亡くなった際のSNSの投稿文章もそうだったが、彼女はネイティヴ・アメリカンの教育支援をはじめ、社会活動にもあたったようだ。
▶︎過去の、フィル・スペクターの訃報
https://43142.diarynote.jp/202101181437145267/
<今日の、うずき>
なんとなく、なぜかしらうずうず。ふむ。これは感染者増大(今日は、3000人代超え)していて、またいろいろ行動制限が打ち出されそうと思ってしまうからか。音楽に関する〜他のことも同様だが、これがぼくと一番密接に関わることだから。皆、自分と身近なことから考え、声を上げるといいのだ〜こと、これ以上日常に負荷がかかってしまうのは、、、。なんか、どこかでポジティヴになっていることと、それはつながると都合良く解釈しておこう。
映画『べルーシ』。HANA●TORI
2022年1月12日 音楽 カルトなノリを抱えていたのに、見事に米国では頂点に立ったコメディアン/俳優のジョン・ベルーシ(1949年1月24日〜1982年3月5日)の人生を扱う2020年米国ドキュメンタリー映画(原題:Belushi)を、新宿シネマカリテで見る。ジョン・ランディスがともに監督し、べルーシが印象的な役どころで出演した映画『アニマル・ハウス』や映画『ブルース・ブラザース』を大好きなぼくとしては、やはり見ておきたかった。監督をしているのはドキュメンタリー映画/TV番組のプロデューサーや監督をいろいろしている、1962年生まれのR.J.カトラーだ。
要点は、彼の妻ジョディスをはじめ、昔の友達や彼の個性を形作ったナショナル・ランプーンやNBCサタデイ・ナイト・ライヴ周辺の人たちがべルーシを語る音声が多用されること。それ、2005年に出版されたジョディス・べルーシ・ビサーノ(彼女は再婚し、今はこのラスト・ネームとなった)とタナー・コルビーとの共著伝記「Belushi」(Rugged Land刊)の取材テープを流用したもので、映画の流れもその本に沿っているという。ジュディスとジョンは高校時代から付き合っていて、彼がエスタブリッシュされてから結婚。エンド・ロールにはジュディスの境遇が歌詞となった自ら歌うフォーキー曲が流される。彼女はかなりべルーシのもろい精神面を整えた人であったようで、それも許されようか。
アルバニア移民の両親(ダイナーをやっていたから、まあ成功者と言えるだろうか)のもと、シカゴで生まれる。おお、映画『ブルース・ブラザース』はもろにホームで撮影された映画であったのだな。映画はべルーシの生い立ちや芸風を伝えていくが、関連映像がない場合はアニメ動画で補われる。彼はコカインとヘロインのオーヴァードーズで亡くなったが、やはり彼の薬耽溺についてはずっと触れられる。あの突き抜けた笑いの芸はクスリに支えられるものであるのは疑いがなく、またハリウッドはコカインまみれという話はよく聞くので、その事実に驚きはしないが、やはり改めて提示されると辛い……。
なんにせよ、太っちょだったけどかなり運動神経が良く、音楽的な才にも恵まれた人であったことは示され、それにはおおいに頷いた。30歳のころには見事に中年臭を出していた彼だったが、生きていたらもう70歳すぎであるのか。なお、べルーシの人生を扱った映画は、役者を立てた1989年作『Wired』が先にある。それは同名の本をもとにしているようだ。
▶過去の、ザ・ブルース・ブラザース・バンド
http://43142.diarynote.jp/200907161729269209/
渋谷・公園通りクラシックスで、歌と一部ピアニカの蜂谷真紀(2008年8月24日、2009年1月8日、2010年9月11日、2014年7月22日、2014年9月25日、2015年5月20日、2015年6月15日、2016年11月2日、2018年1月19日、2019年3月29日、2019年9月12日、2019年12月19日 、2021年4月14日 )とピアノの田中信正(2018年3月28日)のデュオである、HANA●TORIを見る。
文字通りの阿吽の呼吸で支えられたこのユニットは普段セット・リストを組まずに思うまま曲選びをしていくのが常であるようだが、この日はちゃんと曲を決めてきたとのこと。だが、途中からやはり臨機応変にと、なったよう。話によれば、この晩はゆったり目の曲が多かったよう。
蜂谷のオリジナルを披露していくのだが、そこは十全に二人のなかで咀嚼、反応、相乗などがあり、それぞれの曲の尺はけっこう長い。モチーフとなる元の曲自体はわりとシンプルなものらしいが、それを受けて田中が確かにして自在なジャズ感性で広げ、それを受けてまた蜂谷が新たなフェイズを差し出し……といった感じで曲と音楽的会話は育っていく。前のHANA●TORIのライヴに触れた際にも書いているが、田中の指さばきはブリリアントで、そのピアノ音の粒だちがいいことにはしかと頷く。柔らかな物腰ながらリストは強く、自在に曲趣を動かしていく様に触れながら、本当にアンダーレイテッドな奏者であると思わずにはいられない。
曲調はシャンソンやオペラ的と感じるものから、ラテン調まで、いろいろと富む。それに沿う二人の所作は、かなりストーリーテリングしているという所感も接するものに与える。歌詞は一応日本語が付けられているようだが、それもその流れによってどんどん変わっているのかな。蜂谷はかなりシアトリカルというか、曲調ややりとりで浮かぶ風景に従い、いくつもの人格を使い分けるように雄弁に流れる。なかには中近東的、中央アジア的と演歌的と言いたくなる歌唱法を取る場合もあった。
終演後にも、少し目が点。お客さんがピアノにおかれた楽譜を見てピアノを弾き出したり、蜂谷ふうに歌声を出したり。彼らはお医者さんや出版社勤務のようだが、自由だなあ。そんな人たちがライヴにやってくるあたりにも、このユニットの誉は表れている? 蜂谷にはスペシャリストのファンが少なくないようで、ある大御所歌人は自らの短歌に“蜂谷真紀”といれたり、俳人の夏井いつきもライヴに来たりするそう(で、実演に触れながらその場で句を読むそう)。
▶過去の、蜂谷真紀
http://43142.diarynote.jp/200808260821260000/
http://43142.diarynote.jp/200901091437341082/
http://43142.diarynote.jp/?day=20100911
http://43142.diarynote.jp/201407231341189225/
http://43142.diarynote.jp/201409261635554506/
http://43142.diarynote.jp/201410310931316189/
http://43142.diarynote.jp/201505211022511238/
http://43142.diarynote.jp/?day=20161102
http://43142.diarynote.jp/201707111737453393/
https://43142.diarynote.jp/201801200930278094/
https://43142.diarynote.jp/201803281101075372/
https://43142.diarynote.jp/201903301004154036/
https://43142.diarynote.jp/201909141634343903/
https://43142.diarynote.jp/202008231525422463/
https://43142.diarynote.jp/202104151741019185/
▶︎過去の、田中信正
https://43142.diarynote.jp/201803281101075372/
<今日の、あ“〜>
https://43142.diarynote.jp/202112081802215945/ の下のほうで触れている顛末。新しい機種に合うオフィスを手に入れインストゥールし、ようやく原稿を打てるようになった。のだが、うわー。もともとタイプ・ミスが多いぼくが悪いと言えばそうなのだが、ときどき文章が全部消えてしまう。それは左手のほうのなにかしらのタイピングで<全てを選択>になってしまい、その後に流れでエンター・キーを押してしまうことから、かような悲劇が起きてしまうのではないかと、今は推測している。でも、これまでのマックで原稿を打つ際には起きなかったことであり……。ときどき文章が消えてしまうことを肯定しマメに文書の保存をすることで対処しているが、それでもノって書いていくとそれを忘れてしまい、保存した文書の後に打ったものを失い再度打ちということを、今は繰り返している。実に悲しい。この文章は、普段の3倍ほど時間がかかっているんじゃないか。
要点は、彼の妻ジョディスをはじめ、昔の友達や彼の個性を形作ったナショナル・ランプーンやNBCサタデイ・ナイト・ライヴ周辺の人たちがべルーシを語る音声が多用されること。それ、2005年に出版されたジョディス・べルーシ・ビサーノ(彼女は再婚し、今はこのラスト・ネームとなった)とタナー・コルビーとの共著伝記「Belushi」(Rugged Land刊)の取材テープを流用したもので、映画の流れもその本に沿っているという。ジュディスとジョンは高校時代から付き合っていて、彼がエスタブリッシュされてから結婚。エンド・ロールにはジュディスの境遇が歌詞となった自ら歌うフォーキー曲が流される。彼女はかなりべルーシのもろい精神面を整えた人であったようで、それも許されようか。
アルバニア移民の両親(ダイナーをやっていたから、まあ成功者と言えるだろうか)のもと、シカゴで生まれる。おお、映画『ブルース・ブラザース』はもろにホームで撮影された映画であったのだな。映画はべルーシの生い立ちや芸風を伝えていくが、関連映像がない場合はアニメ動画で補われる。彼はコカインとヘロインのオーヴァードーズで亡くなったが、やはり彼の薬耽溺についてはずっと触れられる。あの突き抜けた笑いの芸はクスリに支えられるものであるのは疑いがなく、またハリウッドはコカインまみれという話はよく聞くので、その事実に驚きはしないが、やはり改めて提示されると辛い……。
なんにせよ、太っちょだったけどかなり運動神経が良く、音楽的な才にも恵まれた人であったことは示され、それにはおおいに頷いた。30歳のころには見事に中年臭を出していた彼だったが、生きていたらもう70歳すぎであるのか。なお、べルーシの人生を扱った映画は、役者を立てた1989年作『Wired』が先にある。それは同名の本をもとにしているようだ。
▶過去の、ザ・ブルース・ブラザース・バンド
http://43142.diarynote.jp/200907161729269209/
渋谷・公園通りクラシックスで、歌と一部ピアニカの蜂谷真紀(2008年8月24日、2009年1月8日、2010年9月11日、2014年7月22日、2014年9月25日、2015年5月20日、2015年6月15日、2016年11月2日、2018年1月19日、2019年3月29日、2019年9月12日、2019年12月19日 、2021年4月14日 )とピアノの田中信正(2018年3月28日)のデュオである、HANA●TORIを見る。
文字通りの阿吽の呼吸で支えられたこのユニットは普段セット・リストを組まずに思うまま曲選びをしていくのが常であるようだが、この日はちゃんと曲を決めてきたとのこと。だが、途中からやはり臨機応変にと、なったよう。話によれば、この晩はゆったり目の曲が多かったよう。
蜂谷のオリジナルを披露していくのだが、そこは十全に二人のなかで咀嚼、反応、相乗などがあり、それぞれの曲の尺はけっこう長い。モチーフとなる元の曲自体はわりとシンプルなものらしいが、それを受けて田中が確かにして自在なジャズ感性で広げ、それを受けてまた蜂谷が新たなフェイズを差し出し……といった感じで曲と音楽的会話は育っていく。前のHANA●TORIのライヴに触れた際にも書いているが、田中の指さばきはブリリアントで、そのピアノ音の粒だちがいいことにはしかと頷く。柔らかな物腰ながらリストは強く、自在に曲趣を動かしていく様に触れながら、本当にアンダーレイテッドな奏者であると思わずにはいられない。
曲調はシャンソンやオペラ的と感じるものから、ラテン調まで、いろいろと富む。それに沿う二人の所作は、かなりストーリーテリングしているという所感も接するものに与える。歌詞は一応日本語が付けられているようだが、それもその流れによってどんどん変わっているのかな。蜂谷はかなりシアトリカルというか、曲調ややりとりで浮かぶ風景に従い、いくつもの人格を使い分けるように雄弁に流れる。なかには中近東的、中央アジア的と演歌的と言いたくなる歌唱法を取る場合もあった。
終演後にも、少し目が点。お客さんがピアノにおかれた楽譜を見てピアノを弾き出したり、蜂谷ふうに歌声を出したり。彼らはお医者さんや出版社勤務のようだが、自由だなあ。そんな人たちがライヴにやってくるあたりにも、このユニットの誉は表れている? 蜂谷にはスペシャリストのファンが少なくないようで、ある大御所歌人は自らの短歌に“蜂谷真紀”といれたり、俳人の夏井いつきもライヴに来たりするそう(で、実演に触れながらその場で句を読むそう)。
▶過去の、蜂谷真紀
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https://43142.diarynote.jp/202104151741019185/
▶︎過去の、田中信正
https://43142.diarynote.jp/201803281101075372/
<今日の、あ“〜>
https://43142.diarynote.jp/202112081802215945/ の下のほうで触れている顛末。新しい機種に合うオフィスを手に入れインストゥールし、ようやく原稿を打てるようになった。のだが、うわー。もともとタイプ・ミスが多いぼくが悪いと言えばそうなのだが、ときどき文章が全部消えてしまう。それは左手のほうのなにかしらのタイピングで<全てを選択>になってしまい、その後に流れでエンター・キーを押してしまうことから、かような悲劇が起きてしまうのではないかと、今は推測している。でも、これまでのマックで原稿を打つ際には起きなかったことであり……。ときどき文章が消えてしまうことを肯定しマメに文書の保存をすることで対処しているが、それでもノって書いていくとそれを忘れてしまい、保存した文書の後に打ったものを失い再度打ちということを、今は繰り返している。実に悲しい。この文章は、普段の3倍ほど時間がかかっているんじゃないか。
モータウンのスタッフ・ライターであり、その傘下レーベルからリーダー作も出していた白人シンガー・ソングイターがお亡くなりになった。アメリカ人ではなく、カナダ人。トロント生まれで、ピアニストでもあった彼は1961年に初シングルをリリース、その後、1964年にモータウン傘下のVIPと契約し、翌年からシングルを出した。なかにはホランド/ドジャー/ホランドと組んだものもあり、一方ではザ・テンプテーションズ他に楽曲を提供するようにもなった。
基本的には、フォーク・ロック/ソフト・ロックの担い手と言っていいか。1970年には同社が興した白人を扱うレーベルであるレア・アースに迎えられ、自己プロデュースによるアルバム『I Think, Therefore I Am』を発表。うち、「インディアナ・ウォンツ・ミー」は全米1位を記録した(キャッシュボックス誌。ビルボード誌は5位)。同作の多くは自作曲であったが、ザ・ビートルズの「トゥ・オブ・アス」もカヴァー。なお、レア・アースというのはモータウンが送り出していたロック・バンドのレア・アースから取られた。
また、1970〜90年代前半の米国黒人音楽のメインストリームのダイナモ的才人であったジェイムズ・エムトゥーメイの訃報も届いた。
フィラデルフィア生まれ。著名ジャズ・リード奏者のジミー・ヒースは父親となり、アルバートやパーシーらヒース・ブラザーズは叔父となる。10代のときは音楽と共に運動全般にもずば抜けた才能を示し、カリフォルニアのカレッジには水泳の奨学金で入っている。その時代、彼はアフリカン・アメリカン立場向上の意識にも目覚め、その際にスワヒリ語であるエムトゥーメイを名乗るようになったようだ。なお、そのスペルからエムトゥーメと記されたりもするが、のちのリーダー・グループであるエムトゥーメイのアルバムの裏ジャケにMtumeはエムトゥーメイと発音するという注釈を彼は載せたことがあった。
1960年代後期からコンガ奏者としてニューヨークのジャズ界で活動、70年前後からマッコイ・タイナー(2003年7月9日、2008年9月10日、2011年1月12日)やガトー・バルビエリ、ハロルド・ランド、ジミー・ヒースらのアルバムに名前を出すようになり、1972年から75年にかけては黄金の混沌を差し出したマイルズ・デイヴィスのグループに参画。デイヴィスは、「エムトゥーメイ」という曲を作ったこともあった。その一方では、ファラオ・サンダース(2006年8月23日、2009年7月8日、2003年4月22日)、サニー・ロリンズ(2005年11月13日)、ロニー・リストン・スミス(2003年10月16日)、アビー・リンカーン、エディ・ヘンダーソンらのアルバムなどにも彼は名を連ねた。そんなエムトゥーメイの初リーダー作はエムトゥーメイ・ウモジャ・アンサンブルという名義による2枚組の『Alkebu-Lan』(Strata-East,1972年)。その発売レーベルから、彼はロフト・ジャズ周辺にいた人物であったことが分かる。ハービー・ハンコックのセクスタントのメンバーたちやジョー・リー・ウィルソンやアンディ・ベイらのシンガーを擁して1971年に録られた同作は日本盤も少し遅れてリリースされたが、スピリチュアルかつストリート性に満ちた総花型の冒険ジャズをモノにした好盤だ。
だが、エムトゥーメイの真価が鮮明に出されたのは、マイルズ・デイヴィス・バンドが瓦解した後だと言っていい。まずはデイヴィス・バンド時代の同僚ギタリストであるレジー・ルーカス(1953年2月25日〜2018年5月19日)とコンビを組む形で、エムトゥーメイ名義で『Rebirth Cycle』(Third Street Records、1977年)をリリース。ジャズから歌モノまでいろいろ入っているが、なかでもマイルズ・バンドでスライ・ストーン(2008年8月31日、2008年9月2日、2010年1月20日)曲をカヴァーしたような「Yebo」は出色だ。また、菊地雅章(1999年11月3日、2002年9月22日、2003年6月10日、2004年11月3日、2012年6月24日、2012年6月25日、2012年10月26日)=日野皓正(2005年6月5日、2006年11月3日、2011年3月28日、2011年7月25日、2011年9月2日 、2013年9月22日、2014年4月4日、2015年3月10日、2017年9月3日、2018年8月11日、2019年4月27日、2021年9月23日)双頭リーダーの『ウイッシズ〜東風』(イースト・ウィンド,1976年)にも、その二人は入っている。
その後、エムトゥーメイとルーカスは関係をより近くし、作曲/プロダクション・チームを組み、ステファニー・ミルズをはじめソウル・シンガーをいろいろ扱うようになる。以降は、R&B一直線。そして、1978年にはルーカスや奥さんのシンガーでもあるタワサ・エイジーらとR&Bグループのエムトゥーメイを結成し(ルーカスは2作目まで入っていた)、1986年までエピックから5枚のアルバムをリリース。とくに、『ジューシー・フルーツ』(1983年)はアルバム・タイトル曲がR&B1位、アルバムがR&Bチャート3位に輝くヒット作となった。
グループのエムトゥーメイをはじめ、彼が関与する適切に機械音も介したサウンドは濃密な都会的グループに満ちており、シック(2003年4月15日、2003年8月24日、2006年4月11日、2009年4月6日、2010年4月30日、2011年4月18日、2012年12月28日)とともに彼のサウンドはまさに<ザ・グルーヴ・オブ・ニューヨーク>であったと思う。手がけたタレントは、ロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイ、フィリス・ハイマン、ザ・スピナーズ、リヴァート、メアリー・J・ブライジ(2002年3月13日)、リーラ・ジェイムズ2010年6月28日)他、いろいろ。そうした様を振り返るに、やはりぼくはエムトゥーメイスをジャズの人ではなく、R&Bの人として見てしまうところはあるか。
だが、彼はジャズ側の人たちとの付き合いは持っていたようで、ジャマラディーン・タクーマ(2014年7月28日。彼もフィラデルフィアン)が18歳のときにオーネット・コールマン(2006年3月27日)のバンド入りしたきっかけは。レジー・ルーカスとジェイムズ・エムトゥーメイからオーネットのところに入るかいと電話を受けたからだった。
彼の二人の息子たち、ダム・エムトゥーメイとファ・エムトゥーメイはやはり音楽の道に進み、作曲、プロダクション、マネージメントといった裏方業についた。ビラル(2001年8月18日、2017年1月24日)はその二人が初期に送り出した成功者で、その流れで父親もビラルの初作『ファースト・ボーン・セカンド』(インタースコープ、2000年)に1つ楽曲を提供し、プロデュースもしている。
▶︎過去の、マイルズやコルトレーン関連映画に証言者として出てくるジミー・ヒース
https://43142.diarynote.jp/202008062131405684/
https://43142.diarynote.jp/202111250906471373/
▶過去の、マッコイ・タイナー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm
http://43142.diarynote.jp/200809111754413101/
http://43142.diarynote.jp/201101131336421886/
https://43142.diarynote.jp/202003120731162119/ 訃報
▶︎過去の、ファラオ・サンダース
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-4.htm 4月22日
https://43142.diarynote.jp/200608271341340000/
https://43142.diarynote.jp/200907131200224908/
▶過去の、ロニー・ロリンズ
http://43142.diarynote.jp/200511130413390000/
▶︎過去の、ロニー・リストン・スミス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-10.htm
▶︎過去の、レジー・ルーカスの訃報
https://43142.diarynote.jp/201805220051333200/ 下部
▶過去の、スライ・ストーン
http://43142.diarynote.jp/200809011923060000/
http://43142.diarynote.jp/200809071428140000/
http://43142.diarynote.jp/201001211346277187/
http://43142.diarynote.jp/201505201630381899/ 映画
▶過去の、菊地雅章
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20041103
http://43142.diarynote.jp/201207031322126509/
http://43142.diarynote.jp/201207031323242844/
http://43142.diarynote.jp/201210271744294415/
http://43142.diarynote.jp/201507091044561526/
http://43142.diarynote.jp/?day=20160611
▶過去の、日野皓正
http://43142.diarynote.jp/200506120639310000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20061103
http://43142.diarynote.jp/?day=20110328
http://43142.diarynote.jp/201107310727152406/
http://43142.diarynote.jp/?day=20110902
http://43142.diarynote.jp/201309260930584072/
http://43142.diarynote.jp/201404070654593139/
http://43142.diarynote.jp/201503110740041978/
http://43142.diarynote.jp/201709101639096076/
https://43142.diarynote.jp/201808120917002515/
https://43142.diarynote.jp/201904271153238361/
https://43142.diarynote.jp/201904281151232549/
https://43142.diarynote.jp/202109241712255724/
▶︎過去の、シック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-4.htm 4月15日
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-8.htm Mt.フジ・ジャズ・フェスティヴァル
http://43142.diarynote.jp/200604141318090000/
http://43142.diarynote.jp/200904120633434116/
http://43142.diarynote.jp/201005011117591329/
http://43142.diarynote.jp/201104220822068448/
http://43142.diarynote.jp/201301051329276221/
▶︎過去の、メアリー・J・ブライジ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
▶︎過去の、リーラ・ジェイムズ
https://43142.diarynote.jp/201007061026239509/
▶︎過去の、ジャマラディーン・タクーマ
http://43142.diarynote.jp/201408051026553769/
▶︎過去の、オーネット・コールマン
http://43142.diarynote.jp/200603281335030000/
▶︎過去の、ビラル
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-8.htm サマーソニック
https://43142.diarynote.jp/201701251128533335/
<少し前の、たいそうな驚き>
そういえば、書き忘れていたことが一つ。年末に髪の毛の脱色とカットをお願いした際。いつもやってくれるG君が、あれ円形脱毛になっているところがありますよ。ええ〜ッ。過去彼からも、その前にいじってくれた人にもそんなことを言われたことはなかった。。。びっくり、困惑。人生無理せず、ヤなことはなるたけスルーすると決めてきたのに、これはどうしたことか。ここに来て、なにかに心痛している? あーん、自覚ないよーーー。若いおねえちゃんに思い焦がれて、なんてことだと、あっぱれ(?)ではあるけんど。
基本的には、フォーク・ロック/ソフト・ロックの担い手と言っていいか。1970年には同社が興した白人を扱うレーベルであるレア・アースに迎えられ、自己プロデュースによるアルバム『I Think, Therefore I Am』を発表。うち、「インディアナ・ウォンツ・ミー」は全米1位を記録した(キャッシュボックス誌。ビルボード誌は5位)。同作の多くは自作曲であったが、ザ・ビートルズの「トゥ・オブ・アス」もカヴァー。なお、レア・アースというのはモータウンが送り出していたロック・バンドのレア・アースから取られた。
また、1970〜90年代前半の米国黒人音楽のメインストリームのダイナモ的才人であったジェイムズ・エムトゥーメイの訃報も届いた。
フィラデルフィア生まれ。著名ジャズ・リード奏者のジミー・ヒースは父親となり、アルバートやパーシーらヒース・ブラザーズは叔父となる。10代のときは音楽と共に運動全般にもずば抜けた才能を示し、カリフォルニアのカレッジには水泳の奨学金で入っている。その時代、彼はアフリカン・アメリカン立場向上の意識にも目覚め、その際にスワヒリ語であるエムトゥーメイを名乗るようになったようだ。なお、そのスペルからエムトゥーメと記されたりもするが、のちのリーダー・グループであるエムトゥーメイのアルバムの裏ジャケにMtumeはエムトゥーメイと発音するという注釈を彼は載せたことがあった。
1960年代後期からコンガ奏者としてニューヨークのジャズ界で活動、70年前後からマッコイ・タイナー(2003年7月9日、2008年9月10日、2011年1月12日)やガトー・バルビエリ、ハロルド・ランド、ジミー・ヒースらのアルバムに名前を出すようになり、1972年から75年にかけては黄金の混沌を差し出したマイルズ・デイヴィスのグループに参画。デイヴィスは、「エムトゥーメイ」という曲を作ったこともあった。その一方では、ファラオ・サンダース(2006年8月23日、2009年7月8日、2003年4月22日)、サニー・ロリンズ(2005年11月13日)、ロニー・リストン・スミス(2003年10月16日)、アビー・リンカーン、エディ・ヘンダーソンらのアルバムなどにも彼は名を連ねた。そんなエムトゥーメイの初リーダー作はエムトゥーメイ・ウモジャ・アンサンブルという名義による2枚組の『Alkebu-Lan』(Strata-East,1972年)。その発売レーベルから、彼はロフト・ジャズ周辺にいた人物であったことが分かる。ハービー・ハンコックのセクスタントのメンバーたちやジョー・リー・ウィルソンやアンディ・ベイらのシンガーを擁して1971年に録られた同作は日本盤も少し遅れてリリースされたが、スピリチュアルかつストリート性に満ちた総花型の冒険ジャズをモノにした好盤だ。
だが、エムトゥーメイの真価が鮮明に出されたのは、マイルズ・デイヴィス・バンドが瓦解した後だと言っていい。まずはデイヴィス・バンド時代の同僚ギタリストであるレジー・ルーカス(1953年2月25日〜2018年5月19日)とコンビを組む形で、エムトゥーメイ名義で『Rebirth Cycle』(Third Street Records、1977年)をリリース。ジャズから歌モノまでいろいろ入っているが、なかでもマイルズ・バンドでスライ・ストーン(2008年8月31日、2008年9月2日、2010年1月20日)曲をカヴァーしたような「Yebo」は出色だ。また、菊地雅章(1999年11月3日、2002年9月22日、2003年6月10日、2004年11月3日、2012年6月24日、2012年6月25日、2012年10月26日)=日野皓正(2005年6月5日、2006年11月3日、2011年3月28日、2011年7月25日、2011年9月2日 、2013年9月22日、2014年4月4日、2015年3月10日、2017年9月3日、2018年8月11日、2019年4月27日、2021年9月23日)双頭リーダーの『ウイッシズ〜東風』(イースト・ウィンド,1976年)にも、その二人は入っている。
その後、エムトゥーメイとルーカスは関係をより近くし、作曲/プロダクション・チームを組み、ステファニー・ミルズをはじめソウル・シンガーをいろいろ扱うようになる。以降は、R&B一直線。そして、1978年にはルーカスや奥さんのシンガーでもあるタワサ・エイジーらとR&Bグループのエムトゥーメイを結成し(ルーカスは2作目まで入っていた)、1986年までエピックから5枚のアルバムをリリース。とくに、『ジューシー・フルーツ』(1983年)はアルバム・タイトル曲がR&B1位、アルバムがR&Bチャート3位に輝くヒット作となった。
グループのエムトゥーメイをはじめ、彼が関与する適切に機械音も介したサウンドは濃密な都会的グループに満ちており、シック(2003年4月15日、2003年8月24日、2006年4月11日、2009年4月6日、2010年4月30日、2011年4月18日、2012年12月28日)とともに彼のサウンドはまさに<ザ・グルーヴ・オブ・ニューヨーク>であったと思う。手がけたタレントは、ロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイ、フィリス・ハイマン、ザ・スピナーズ、リヴァート、メアリー・J・ブライジ(2002年3月13日)、リーラ・ジェイムズ2010年6月28日)他、いろいろ。そうした様を振り返るに、やはりぼくはエムトゥーメイスをジャズの人ではなく、R&Bの人として見てしまうところはあるか。
だが、彼はジャズ側の人たちとの付き合いは持っていたようで、ジャマラディーン・タクーマ(2014年7月28日。彼もフィラデルフィアン)が18歳のときにオーネット・コールマン(2006年3月27日)のバンド入りしたきっかけは。レジー・ルーカスとジェイムズ・エムトゥーメイからオーネットのところに入るかいと電話を受けたからだった。
彼の二人の息子たち、ダム・エムトゥーメイとファ・エムトゥーメイはやはり音楽の道に進み、作曲、プロダクション、マネージメントといった裏方業についた。ビラル(2001年8月18日、2017年1月24日)はその二人が初期に送り出した成功者で、その流れで父親もビラルの初作『ファースト・ボーン・セカンド』(インタースコープ、2000年)に1つ楽曲を提供し、プロデュースもしている。
▶︎過去の、マイルズやコルトレーン関連映画に証言者として出てくるジミー・ヒース
https://43142.diarynote.jp/202008062131405684/
https://43142.diarynote.jp/202111250906471373/
▶過去の、マッコイ・タイナー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm
http://43142.diarynote.jp/200809111754413101/
http://43142.diarynote.jp/201101131336421886/
https://43142.diarynote.jp/202003120731162119/ 訃報
▶︎過去の、ファラオ・サンダース
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-4.htm 4月22日
https://43142.diarynote.jp/200608271341340000/
https://43142.diarynote.jp/200907131200224908/
▶過去の、ロニー・ロリンズ
http://43142.diarynote.jp/200511130413390000/
▶︎過去の、ロニー・リストン・スミス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-10.htm
▶︎過去の、レジー・ルーカスの訃報
https://43142.diarynote.jp/201805220051333200/ 下部
▶過去の、スライ・ストーン
http://43142.diarynote.jp/200809011923060000/
http://43142.diarynote.jp/200809071428140000/
http://43142.diarynote.jp/201001211346277187/
http://43142.diarynote.jp/201505201630381899/ 映画
▶過去の、菊地雅章
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20041103
http://43142.diarynote.jp/201207031322126509/
http://43142.diarynote.jp/201207031323242844/
http://43142.diarynote.jp/201210271744294415/
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▶過去の、日野皓正
http://43142.diarynote.jp/200506120639310000/
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https://43142.diarynote.jp/202109241712255724/
▶︎過去の、シック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-4.htm 4月15日
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-8.htm Mt.フジ・ジャズ・フェスティヴァル
http://43142.diarynote.jp/200604141318090000/
http://43142.diarynote.jp/200904120633434116/
http://43142.diarynote.jp/201005011117591329/
http://43142.diarynote.jp/201104220822068448/
http://43142.diarynote.jp/201301051329276221/
▶︎過去の、メアリー・J・ブライジ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
▶︎過去の、リーラ・ジェイムズ
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▶︎過去の、ジャマラディーン・タクーマ
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▶︎過去の、オーネット・コールマン
http://43142.diarynote.jp/200603281335030000/
▶︎過去の、ビラル
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-8.htm サマーソニック
https://43142.diarynote.jp/201701251128533335/
<少し前の、たいそうな驚き>
そういえば、書き忘れていたことが一つ。年末に髪の毛の脱色とカットをお願いした際。いつもやってくれるG君が、あれ円形脱毛になっているところがありますよ。ええ〜ッ。過去彼からも、その前にいじってくれた人にもそんなことを言われたことはなかった。。。びっくり、困惑。人生無理せず、ヤなことはなるたけスルーすると決めてきたのに、これはどうしたことか。ここに来て、なにかに心痛している? あーん、自覚ないよーーー。若いおねえちゃんに思い焦がれて、なんてことだと、あっぱれ(?)ではあるけんど。