ウォリス・バード。シャソル
2015年5月30日 音楽 初来日で多大な個を持つ、欧州のアーティストの公演をハシゴする。両方ともかなりすごい。うひょ〜。
まず、吉祥寺・スター・パインズ・カフェでアイルランドのシンガー・ソングライターのウォリス・バードを見る。1982年生まれ、アイランドやコロムビアからアルバムを出したこともある人。ロンドンやベルリンに住んでいるという話だが、皆アイルランドに遊びに来てよと言っていたので、今はまた母国に戻っているのだろうか。まず、真っすぐに弾ける、眩しい個体アリ。それで、もうOK。やんちゃというか。酒付きと思わせるところも、たいそうよろしい。
アコースティック・ギターを持っての弾き語り。左利きの彼女は、右利きのギター(弦の張り方はそのままと、言われる)逆さに持って弾いているそうだが、時にオープン・チューニングぽく聞こえるところもあった。なんにせよ、個性的ね。また、エフェクターを少し使ってギター音を広げるときもあったし、ストンプ音を出すときもあった。でも、そんなことは、些細な問題だろう。だって、きっちりと声の大きな歌唱や揺れるメロディを他者にがっつ〜んと問うことができる、気っ風のいい、竹を割ったような実演者の様こそが、彼女の最たる魅力である(と、思えた)から。ああ、この人は“持っている”、と思わずにはいられないものなあ。ギターをおいて、無伴奏で歌う曲もあり。一つは、一週間前のアイルランドの国民投票による同性愛合法化を受けてのもののよう。瑞々しくも、気持ちがいやになるほど通じる。
腹をくくったというか、はっちゃけたギターを介する個性的表現ということで(さらには、元が綺麗目ということで?)、アーニー・ディフランコ(2000年1月28日、2001年7月29日、2004年3月8日)と比較する向きもあるようだが、グルーヴやメロディに対するが感覚が相当に離れていて、ぼくは比べる気になれないな。ウォリスはウォリス、ディフラコはディフランコでいいちゃない? ああ、久しぶりに、ディフランコのことも見てみたい。どうして、日本には呼ばれなくなってしまったんだろう?
終盤、彼女はギターの弦を弾きながら、すべての弦を切る。おおっ。そんなことをする人は初めて見た。力いるだろうし、ケガしかねないし。でも、それは一連の彼女の所作にあっていて、マル。とにもかくにも、まっとうな才を持つ、秀でたパフォーマー。バンドでやってもいろいろと広がりや妙味を出せる人のはずで、次々回ぐらいでそれを望めはしないだろうか。
あと、本当に日本が気に入ってしまった。絶対にまた来る! という気持ちが随所から透けて見えるのが、よろしい。ほんとうに、受け手も幸せな気持ちになれる。
▶過去の、アーニー・ディフランコ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-7.htm フジ・ロック3日目
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-1.htm
http://43142.diarynote.jp/200403081053300000/
21時過ぎからは、飯田橋・アンティスチュ・フランスのエスパス・イマージュ(ホールの名前)で、マルチニークをルーツとするフランス人特殊鍵盤←→映像クリエイターの(クリストフ・)シャソルのショウを見る。
音楽と映像/PC編集、現在その掛け合わせ表現を求めるクリエイターはいろいろといるだろう。熱心にその手のアーティストを追っているわけではないが、この40歳手前のブランス人の表現を知ったときにはホントびっくりしちゃった。ジャイルズ・ピーターソン(1999年5月21日、2002年11月7日、2004年1月16日、2008年9月18日、2012年9月13日)も彼の才に注目していて、いろいろ応援している。
過去、シャソルはニューオーリンズやインド(彼、インドの血もちょい入っているとか)で自らフィールドワークした映像を大胆に抽出編集したものを元に、そこに自らのメロディやビートを加えて、新たな世界を提出。と、書くと、彼の地の音を消費したものではないかと危惧を覚える人もいるかもしれないが、驚愕の創造性のテンコもりの作業を否定すると表現の自由と発展が阻害されてしまうと、シャソルの我が道を行く音楽所作は思わせる。とともに、その総体は、新たなワールド・ミュージックなるものではないかという所感も持たせもする。彼の映像音と自らの音楽器量のセッションといった作品は沢山YouTubeにもいろいろのっているので、見る事をおすすめする。Chassolで出てくるはず。
しかも、その才気走ったプロダクツ群は洒落たメロディや響きを持ち、チル・アウトというか、基本的に聞き手に満たされた楽園情緒を与えるのが素晴らしい。なんか、記憶の底にある何かをノックされる感じもあるよな。おそらく、彼はただピアノを弾いても、きっと聞き手の耳をひく音楽を作ることができるだろう。だが、YouTubeやPCがある時代の特権を行使して、彼は新しい大地を獲得せんとする。書き遅れたが、映像を伴う彼のCDはDVD がついていたり、映像が見ることができるコードが添付されている。
ステージには、フェンダーのローズ(CDを聞いても感心するが、いい音出します)、ヤマハのグランド型電気ピアノ(もしかして、ヴィンテージのCP-80か?)、ベース・ラインなどの単音を弾いたシンセサイザーの3台が並ぶ。そして、彼は映し出される映像と同軌するように、それらを自在に弾いて行く。また、そこにやはり肌の黒いドラマーも加わる。ぼくはもう少しタイトで軽い叩き口を持つ人のほうが合うように思えたが、そのドラマーは最後に振られたMCで、米国居住経験のあるシャソルより、英語が自然だった。彼、何人?
シャソルの2015 年新作『Big Sun』(Tricatel)はマルチニークに出向いて撮影した映像を元にするアルバム。そして、この1時間強のショウは、そのマテリアルに全面的に負う。一つ意外だったのは、流される映像を彼はオペレートすることなく、決まったものがまんま流されていたこと。また、映像に合わせて弾く鍵盤の演奏もそれ自体はほとんど即興性のないものであった。生ではもっとスポンテイニアスに事をすすめるのかと、思った。だが、即興性が彼の表現の生命線ではなく、築いた方法論とその実践が気が遠くなるほどすごいので、それをなぞるだけでも多大な価値があると、ぼくは思う。最後、アンコールに応えて、映像抜きでソロ演奏。やはり、即興性に富むとはそれほど感じなかったが、パッションと迸りはあり。彼が好きなジャズ・ピアニストは、チック・コリア、ハービー・ハンコック、キース・ジャレットだそう。
この月曜日(6月1日)には、20時からモーションブルー・ヨコハマでノー・チャージの公演が持たれることにもなっているが、かなり推奨します。あ、ぼくは彼に、エルメート・パスコアール(2004年11月6日)的な何かを感じたりもするかな。
▶過去の、エルメート・パスコアール
http://43142.diarynote.jp/200411071407550000/
<金曜の、シャソル>
この才人には話をぜひきかなきゃ。というわけで、インタヴューをする。ラティーナ誌にて。パフォーマンス中、声をあげたりするなど、相当に陽性なところを見せていたシャソルだが、素も人懐こいナイス・ガイ。父親はサックス奏者で、家ではやはりマルチニークの音楽が流れていたという。小さいころからピアノを習い、大学や音楽学校を出た後は、映像に音楽を付ける仕事に就く。その後、奨学金を得て1年間米国バークリー音楽大学に通い、またロック・バンドのフェニックスのツアーに鍵盤奏者として関与したあと、2005 年にはLAに住んだ。LAの生活は大好きだったそう。
そんな彼が上で触れた映像を下敷きに沸き上がる音楽表現の回路を築いたのは、2008年ごろのこと。「もののけ姫」(だったかな? アニメにはうとくて…)の映像の女性登場者の日本語のセリフに電気ピアノ音を重ねたものを彼は試作していて、取材中にそれを見せてくれたりもする。フィールドワークの楽器音や歌から、鳥の鳴き声まで。彼はいろんな事象に、自分の指さばきをヴィヴィッドに重ねる。その敏感さ、瞬発力の高さはすごい。新作『ビッグ・サン』には、世の黒人に対する負のイメージを逆手にとったテーマを重ねているとか。それを聞いて、”俺たちはヴォランティアで奴隷をやってあげているんだよ”という気持ちをこめた、ローランド・カークの『ヴォランティアード・スレイヴリー』のことを思い出したが、彼はカークのことも知っていた。
まず、吉祥寺・スター・パインズ・カフェでアイルランドのシンガー・ソングライターのウォリス・バードを見る。1982年生まれ、アイランドやコロムビアからアルバムを出したこともある人。ロンドンやベルリンに住んでいるという話だが、皆アイルランドに遊びに来てよと言っていたので、今はまた母国に戻っているのだろうか。まず、真っすぐに弾ける、眩しい個体アリ。それで、もうOK。やんちゃというか。酒付きと思わせるところも、たいそうよろしい。
アコースティック・ギターを持っての弾き語り。左利きの彼女は、右利きのギター(弦の張り方はそのままと、言われる)逆さに持って弾いているそうだが、時にオープン・チューニングぽく聞こえるところもあった。なんにせよ、個性的ね。また、エフェクターを少し使ってギター音を広げるときもあったし、ストンプ音を出すときもあった。でも、そんなことは、些細な問題だろう。だって、きっちりと声の大きな歌唱や揺れるメロディを他者にがっつ〜んと問うことができる、気っ風のいい、竹を割ったような実演者の様こそが、彼女の最たる魅力である(と、思えた)から。ああ、この人は“持っている”、と思わずにはいられないものなあ。ギターをおいて、無伴奏で歌う曲もあり。一つは、一週間前のアイルランドの国民投票による同性愛合法化を受けてのもののよう。瑞々しくも、気持ちがいやになるほど通じる。
腹をくくったというか、はっちゃけたギターを介する個性的表現ということで(さらには、元が綺麗目ということで?)、アーニー・ディフランコ(2000年1月28日、2001年7月29日、2004年3月8日)と比較する向きもあるようだが、グルーヴやメロディに対するが感覚が相当に離れていて、ぼくは比べる気になれないな。ウォリスはウォリス、ディフラコはディフランコでいいちゃない? ああ、久しぶりに、ディフランコのことも見てみたい。どうして、日本には呼ばれなくなってしまったんだろう?
終盤、彼女はギターの弦を弾きながら、すべての弦を切る。おおっ。そんなことをする人は初めて見た。力いるだろうし、ケガしかねないし。でも、それは一連の彼女の所作にあっていて、マル。とにもかくにも、まっとうな才を持つ、秀でたパフォーマー。バンドでやってもいろいろと広がりや妙味を出せる人のはずで、次々回ぐらいでそれを望めはしないだろうか。
あと、本当に日本が気に入ってしまった。絶対にまた来る! という気持ちが随所から透けて見えるのが、よろしい。ほんとうに、受け手も幸せな気持ちになれる。
▶過去の、アーニー・ディフランコ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-7.htm フジ・ロック3日目
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-1.htm
http://43142.diarynote.jp/200403081053300000/
21時過ぎからは、飯田橋・アンティスチュ・フランスのエスパス・イマージュ(ホールの名前)で、マルチニークをルーツとするフランス人特殊鍵盤←→映像クリエイターの(クリストフ・)シャソルのショウを見る。
音楽と映像/PC編集、現在その掛け合わせ表現を求めるクリエイターはいろいろといるだろう。熱心にその手のアーティストを追っているわけではないが、この40歳手前のブランス人の表現を知ったときにはホントびっくりしちゃった。ジャイルズ・ピーターソン(1999年5月21日、2002年11月7日、2004年1月16日、2008年9月18日、2012年9月13日)も彼の才に注目していて、いろいろ応援している。
過去、シャソルはニューオーリンズやインド(彼、インドの血もちょい入っているとか)で自らフィールドワークした映像を大胆に抽出編集したものを元に、そこに自らのメロディやビートを加えて、新たな世界を提出。と、書くと、彼の地の音を消費したものではないかと危惧を覚える人もいるかもしれないが、驚愕の創造性のテンコもりの作業を否定すると表現の自由と発展が阻害されてしまうと、シャソルの我が道を行く音楽所作は思わせる。とともに、その総体は、新たなワールド・ミュージックなるものではないかという所感も持たせもする。彼の映像音と自らの音楽器量のセッションといった作品は沢山YouTubeにもいろいろのっているので、見る事をおすすめする。Chassolで出てくるはず。
しかも、その才気走ったプロダクツ群は洒落たメロディや響きを持ち、チル・アウトというか、基本的に聞き手に満たされた楽園情緒を与えるのが素晴らしい。なんか、記憶の底にある何かをノックされる感じもあるよな。おそらく、彼はただピアノを弾いても、きっと聞き手の耳をひく音楽を作ることができるだろう。だが、YouTubeやPCがある時代の特権を行使して、彼は新しい大地を獲得せんとする。書き遅れたが、映像を伴う彼のCDはDVD がついていたり、映像が見ることができるコードが添付されている。
ステージには、フェンダーのローズ(CDを聞いても感心するが、いい音出します)、ヤマハのグランド型電気ピアノ(もしかして、ヴィンテージのCP-80か?)、ベース・ラインなどの単音を弾いたシンセサイザーの3台が並ぶ。そして、彼は映し出される映像と同軌するように、それらを自在に弾いて行く。また、そこにやはり肌の黒いドラマーも加わる。ぼくはもう少しタイトで軽い叩き口を持つ人のほうが合うように思えたが、そのドラマーは最後に振られたMCで、米国居住経験のあるシャソルより、英語が自然だった。彼、何人?
シャソルの2015 年新作『Big Sun』(Tricatel)はマルチニークに出向いて撮影した映像を元にするアルバム。そして、この1時間強のショウは、そのマテリアルに全面的に負う。一つ意外だったのは、流される映像を彼はオペレートすることなく、決まったものがまんま流されていたこと。また、映像に合わせて弾く鍵盤の演奏もそれ自体はほとんど即興性のないものであった。生ではもっとスポンテイニアスに事をすすめるのかと、思った。だが、即興性が彼の表現の生命線ではなく、築いた方法論とその実践が気が遠くなるほどすごいので、それをなぞるだけでも多大な価値があると、ぼくは思う。最後、アンコールに応えて、映像抜きでソロ演奏。やはり、即興性に富むとはそれほど感じなかったが、パッションと迸りはあり。彼が好きなジャズ・ピアニストは、チック・コリア、ハービー・ハンコック、キース・ジャレットだそう。
この月曜日(6月1日)には、20時からモーションブルー・ヨコハマでノー・チャージの公演が持たれることにもなっているが、かなり推奨します。あ、ぼくは彼に、エルメート・パスコアール(2004年11月6日)的な何かを感じたりもするかな。
▶過去の、エルメート・パスコアール
http://43142.diarynote.jp/200411071407550000/
<金曜の、シャソル>
この才人には話をぜひきかなきゃ。というわけで、インタヴューをする。ラティーナ誌にて。パフォーマンス中、声をあげたりするなど、相当に陽性なところを見せていたシャソルだが、素も人懐こいナイス・ガイ。父親はサックス奏者で、家ではやはりマルチニークの音楽が流れていたという。小さいころからピアノを習い、大学や音楽学校を出た後は、映像に音楽を付ける仕事に就く。その後、奨学金を得て1年間米国バークリー音楽大学に通い、またロック・バンドのフェニックスのツアーに鍵盤奏者として関与したあと、2005 年にはLAに住んだ。LAの生活は大好きだったそう。
そんな彼が上で触れた映像を下敷きに沸き上がる音楽表現の回路を築いたのは、2008年ごろのこと。「もののけ姫」(だったかな? アニメにはうとくて…)の映像の女性登場者の日本語のセリフに電気ピアノ音を重ねたものを彼は試作していて、取材中にそれを見せてくれたりもする。フィールドワークの楽器音や歌から、鳥の鳴き声まで。彼はいろんな事象に、自分の指さばきをヴィヴィッドに重ねる。その敏感さ、瞬発力の高さはすごい。新作『ビッグ・サン』には、世の黒人に対する負のイメージを逆手にとったテーマを重ねているとか。それを聞いて、”俺たちはヴォランティアで奴隷をやってあげているんだよ”という気持ちをこめた、ローランド・カークの『ヴォランティアード・スレイヴリー』のことを思い出したが、彼はカークのことも知っていた。