飯田橋・日仏学院の野外ステージで、フランスの好漢グループを見る。歌、ギター/バンジョー、ベース、ドラム、パーカッションという、アディッショナルの奏者を含めた5人にてパフォーマンス。彼らはサウンドやライティング担当も含めて9人でやってきたらしい。奏者は1人しかいないのにギターとバンジョーの音が共に出ている場合もあったが、あれはどういう仕組みになっていたのか。

 マルセイユ=港町文化圏のバンドであることを謳歌するような(彼らはマルセイユ郊外のラ・シオタを拠点とする)好奇心旺盛にいろんな音楽要素を併せ持つ手作り表現を、ムッスー・テ&レイ・ジューヴェンは味わい深く届ける。アルバムを聞くと軽妙さやしなやかさに耳を奪われたりもするが、実演ではサウンドが厚めになる局面もあり、けっこう堂々濃厚と思わせる、それは、レゲエ系バンドのスピン・オフ活動としてスタートしたという成り立ちを思い出させたか。とともに、それはヴォーカリストのタトゥーの存在感ある歌唱が導くものであるかもしれないが。彼はオック語を交えて歌っているそうだが、それはライヴで酔っぱらって聞くぶんにははよく分らない。だが、面々の心意気が澄み、出自に自負を持っていることは皮膚感覚で了解できる。

 そういえば、小さい頃、ぼくはマルセイユを未知の場所へつながる夢の街のように感じていたことがあった。少なくてもパリという都市名は認知していなくても、マルセイユという名前は頭に刻んでいたことがあった。それは、フランスの「ムスティクの冒険」という童話が大好きだったから。やんちゃな主人公は自分で船乗りと交渉し、マルセイユから船でサハラ砂漠を目指してアルジェリアに渡るというくだりが印象的であり、ぼくの未熟な好奇心はたいそうくすぐられた。そのことをタトゥーらに伝えると、俺もその童話は読んだことがある……。ラ・シオタ、万歳!

 その後、六本木・ビルボードライブ東京(セカンド・ショウ)へ。ロバート・グラスパー(2013年1月25日、他)のバンドに参画して多大な注目を浴びた〜10年前はミシェル・ンデゲオチェロ(2009年5月15日、他)のバンドで叩いていたんだよな〜アフリカ系現代米国人ドラマーのリーダー・バンドを見る。

 前回のトリオによる公演(2012年9月21日)では一緒にディアンジェロのツアーを回ったピノ・パラディーノ(2010年10月26日、他)が同行したが、今回はニック・マクナックというベーシストが来日。ギタリストのアイザイア・シャーキー(ロナルド・アイズリーのソロ新作にも入っている!)は前回公演の際も同行し、今回はそこに実力派テナー・サックス奏者のマーカス・ストリックランド(2007年12月18日、2012年1月13日)が加わるという布陣。

 いくつもの曲やフレイズをどんどんつなげつつ、インタープレイ演奏を披露するというスタイルは前回とほぼ同じ。ハービー・ハンコック「アクチュアル・プーフ」、ジョン・コルトレーン「ジャイアント・ステップス」、ジミ・ヘンドリックスのヴァージョンで知られる「ヘイ・ジョー」なんかをやったのはよく分った。

 変則セッティングのドラム・キットを変調というか、イビツに叩くデイヴの演奏はヒップホップ時代の何かとつながるほつれを有するのだが、その総体には、なんだかんだあんたってジャズ好きなんじゃんと思わせる。ま、それはストリックランドを起用したことでも明らかではであろうが。彼なりの癖や主張で正統なそれからは離れるのだが、今のグラスパーの表現よりは間違いなく即興度が高かった。

<今日の、暴言>
 きのう知人と飲んでいて、なぜか歌詞の話になる。そこで、再確認したのは、ロックは歌詞がださいもの、歌詞なんか基本気にしちゃいけない、といこと。かつて、すげえいい曲だと思って歌詞をチェックしたら愚にもつかないものだったり、訳詞を見ても何を言っているんだか不明で超ガッカリとかいうことが続くと、そう悟るようになるわけですね。たとえば、ポール・サイモンは素晴らしい歌詞作りの才を持つ人だと思うが、上手すぎて逆にワザとならしい、なんて感じるときもぼくはある。あ、ジョン・レノンに関しては全面的に支持なワタシではありますが。でも、やっぱり、ぼくは耳に入る総体重視主義者であり、基本歌詞に重きを置こうとは思わない。というか、言葉よりも重要なものがポップ・ミュージックにはあると、ぼくは思う。日本語の曲を聞いても、ぼくはほとんど歌詞は頭のなかに入ってこないんだよなー。