オアシス。デイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキン
2009年3月20日 音楽 幕張メッセの国際展示場にて、いま日本トップ級の集客をほこる英国ロック・バンドを見る。ぼくが彼らをちゃんと見るのは、なんと9年ぶり。おお、息が長い人気バンドだな。前回原稿で触れているのと同様な理由(2000年2月29日。要約すれば、メロディも歌もいいのに、なぜあんなに大志のないサウンドを採用するの?)で軽い気持ちで会場に車を飛ばしたが、今回はずっと印象が良かった。一つ間違いなく言えるのは、音響の悪いメッセにも関わらず、音がけっこう良かったこと。2本のギター演奏の差異/重なりの妙が実感できて、単なるべったりギター・サウンドで満足しているバンドじゃないんだとちゃんと実感できた。平板でぼくが辟易するドラムも音質はともかく(エコーがかかりすぎで、人工的な印象を強く与える)、比較的メリハリが効いているように聞こえたもの。
と、そんな具合だと、楽曲の良さ、歌の多大な存在感はよりくっきりと伝わる。“英国的な歌心の行方”をいろいろと堪能できる。随所に散りばめられたザ・ビートルズやザ・フーやT・レックスなど大先輩バンドに対するオマージュもより甘酸っぱく感じることができる。ふふふ。先に触れたようにギターのギザギザ感の噛み合いを良く感じる事ができたせいで、ショウに接しながら、<ザ・ビートルズの語彙を愛でつつ、カレージ・ロックのりで突っ走るバンド>像を追求しているぞ、なんて思える部分も。楽しめた。
が、もう一つ見たいライヴがあって、後ろ髪ひかれる気分で途中退座(セット・リストには最後曲としてザ・ビートルズの「アイ・アム・ザ・ウォラルス」が載せられていたけど、やったのかな)。南青山・月見ル君想フに向かい、英国プログレッシヴ・ロック畑で確固たる活動歴を残しているキーボーディストのデイヴ・スチュアート(もちろん、ユーリズミックスを組んでいたギタリストとは別人)と女性シンガーのバーバラ・ガスキンのユニットを一部の終盤から見る。おお、なつかしい。蓄積と感性豊かな二人は今から20年前にデュオ作をライコディスクから何作か出し、それは当時ライコディスクをライセンスしていたミディからリリースされ、そのさい二人にぼくは取材したことがあった。あのときの詳細はとんと忘れているが、その音楽同様にいかにも機知あふれる大人の英国人てな所感を持ったんではなかったか。
スチュワートの前と横は数台のキーボードが囲む。ドラム音やベース音などはプリセットのものを用い、そこに上乗せ音を加えるなかで、ガスキンが甘さを排した声で歌う。また、二人に加えアンディー・レイノルズというスキンヘッドのおじさんがギターで加わる(その音色はキーボード音群にとけ込むためなのか、かなりエフェクター加工されたものだった)。基本、リズム・トラックは固定されたもので、それに沿って3人が歌や楽器音を乗せていくわけだが、ぜんぜん窮屈なものでなく、有機的かつ広がりに満ちていたのにはおおいに頷く。メロディのあり方、アレンジとか、全てが良く吟味構成されているんだろうな。いかにもプログレッシヴ・ロックを通過した者ならではの変拍子/凝った和音を持つ曲から、よりメロディアスな夢心地もの、果てはけっこうグルーヴィだったりするハネものまで自由自在。オリジナルだけでなく、カヴァーも少しやっていた(ジョー・ザヴィヌルやルーファス・トーマス?)がそれも新たなフェイズを加えている。それに共通しているのは、自分の資質を全開にして音楽をする歓び、なり。
それにしても、そんなに普段ライヴをやっているとも思えないが、難しい旋律をなんなんく清新な含みとともに歌うガスキンには感心。たまに取るスチュワートの鍵盤ソロも聞き所あるし、ギターのレイノルズの演奏も多彩にして巧み。彼は一切譜面なしで二人によりそっていた(ときにかけ声をだしたりして、かなりファンキーな側面が透けて見えるときもマル)。見終わったあとは、彼らが発する澄んだミュージシャンシップとオリジナリティにため息をつくことができました。
なんか傾向は異なるものの、英国的な何か、いや英国人でなければ出しえないロックの確かなヴァリエイションに触れることが出来た贅沢な晩だと、ほんの少し感無量……。
と、そんな具合だと、楽曲の良さ、歌の多大な存在感はよりくっきりと伝わる。“英国的な歌心の行方”をいろいろと堪能できる。随所に散りばめられたザ・ビートルズやザ・フーやT・レックスなど大先輩バンドに対するオマージュもより甘酸っぱく感じることができる。ふふふ。先に触れたようにギターのギザギザ感の噛み合いを良く感じる事ができたせいで、ショウに接しながら、<ザ・ビートルズの語彙を愛でつつ、カレージ・ロックのりで突っ走るバンド>像を追求しているぞ、なんて思える部分も。楽しめた。
が、もう一つ見たいライヴがあって、後ろ髪ひかれる気分で途中退座(セット・リストには最後曲としてザ・ビートルズの「アイ・アム・ザ・ウォラルス」が載せられていたけど、やったのかな)。南青山・月見ル君想フに向かい、英国プログレッシヴ・ロック畑で確固たる活動歴を残しているキーボーディストのデイヴ・スチュアート(もちろん、ユーリズミックスを組んでいたギタリストとは別人)と女性シンガーのバーバラ・ガスキンのユニットを一部の終盤から見る。おお、なつかしい。蓄積と感性豊かな二人は今から20年前にデュオ作をライコディスクから何作か出し、それは当時ライコディスクをライセンスしていたミディからリリースされ、そのさい二人にぼくは取材したことがあった。あのときの詳細はとんと忘れているが、その音楽同様にいかにも機知あふれる大人の英国人てな所感を持ったんではなかったか。
スチュワートの前と横は数台のキーボードが囲む。ドラム音やベース音などはプリセットのものを用い、そこに上乗せ音を加えるなかで、ガスキンが甘さを排した声で歌う。また、二人に加えアンディー・レイノルズというスキンヘッドのおじさんがギターで加わる(その音色はキーボード音群にとけ込むためなのか、かなりエフェクター加工されたものだった)。基本、リズム・トラックは固定されたもので、それに沿って3人が歌や楽器音を乗せていくわけだが、ぜんぜん窮屈なものでなく、有機的かつ広がりに満ちていたのにはおおいに頷く。メロディのあり方、アレンジとか、全てが良く吟味構成されているんだろうな。いかにもプログレッシヴ・ロックを通過した者ならではの変拍子/凝った和音を持つ曲から、よりメロディアスな夢心地もの、果てはけっこうグルーヴィだったりするハネものまで自由自在。オリジナルだけでなく、カヴァーも少しやっていた(ジョー・ザヴィヌルやルーファス・トーマス?)がそれも新たなフェイズを加えている。それに共通しているのは、自分の資質を全開にして音楽をする歓び、なり。
それにしても、そんなに普段ライヴをやっているとも思えないが、難しい旋律をなんなんく清新な含みとともに歌うガスキンには感心。たまに取るスチュワートの鍵盤ソロも聞き所あるし、ギターのレイノルズの演奏も多彩にして巧み。彼は一切譜面なしで二人によりそっていた(ときにかけ声をだしたりして、かなりファンキーな側面が透けて見えるときもマル)。見終わったあとは、彼らが発する澄んだミュージシャンシップとオリジナリティにため息をつくことができました。
なんか傾向は異なるものの、英国的な何か、いや英国人でなければ出しえないロックの確かなヴァリエイションに触れることが出来た贅沢な晩だと、ほんの少し感無量……。