映画「ディナー・イン・アメリカ」
2021年8月5日 音楽 京橋テアトル試写室で、2020年アメリカ映画「ディナー・イン・アメリカ(現題:Dinner in America)」を見る。興味深かかった。
監督・脚本・編集をするアダム・レーマイヤーはネブラスカ州リンカーンで(少年期から?)20年間もパンク・ロックをやり、その経験が染み付いているそう。なるほど、ネットで拾うことができるその容貌はグランジ系ロック・バンドの一員ですと言われても違和感はない。とともに、彼はトランプ政権下だったからこそ出来上がった作品という認識も持っているようだ。ようはなんらかのロック的心象とやるせない現況が引き金となる映画とすることができるだろう。
「ディナー・イン・アメリカ」ということでアメリカ人家族が揃って夕食するシーンは3回(主人公はそこにいるが、家族はそれぞれ別だ)あるが、それは表づらを取り繕いいい子ぶるアメリカのサイレント・マジョリティの愚鈍さを表わしているか。クズが長に立つことを許すアメリカ/人々に対する違和感が下敷きになっているとは、やはり思わせる。あー、「ディナー・イン・ジャパン」がなきゃダメだお〜。
中年が入りかけたパンク(犯罪行為も平気できちゃう)なロッカー〜ステージではマスクを被っており、一部では評価を受けている〜と、うだつがまったくあがらない二十歳のスクエアな女性〜ではあるものの、件のパンク・ロック・バンドを密かに聞きながら発散するのが唯一の愉しみ〜のあららな邂逅+ラヴ・ストーリーと言っていいのか。新型コロナ禍に入ってしまい、いくつもの映画祭出展とBlu-rayリリースだけで止まっていて、9月下旬から公開が始まる日本が劇場初上映の国となるようだ。あちらではコメディとも紹介されていたりもし、もちろんクスっと笑えるところはあるのだが、いい意味で笑えない部分もいろいろとある。
冒頭のクレジット群表示と打ち込みビートのかみ合いが格好いい。それだけで、ぼくは足をストンプしたくなった(なぜか、エンドロール部は無音で通される。そんな映画はあまり記憶にない。試写であっても、その最中に立つ人がいた←普通、そういうことはまずない)。まあ、音楽映画と言えなくもないわけだが、音楽を担当しているのはジョン・スウィートハートという人。いろいろ映画畑で仕事をしているらしい。そういえば、ダメなアメリカ人(でも性欲たっぷりのおばさん)が流す音楽として音楽性もルックスもなかなかに痒い1970年代に支持を得たソフト・ポップ・デュオのイングラン・ダン&ジョン・フォード(一人はシールズ&クロフツの片方の弟だ)の曲が使われる。苦笑。その他の挿入歌には監督や、二人の主人公が関与する曲が使われる。劇中には、主人公二人が一緒に作曲をする部分もある。
人によっては、ザ・フー(2008年11月17日)のロック・ミュージカル『トミー』の映画版byケン・ラッセルの「サリー・シンプソン」のくだりを思い出す人もいるかもしれない。親が厳格な真面目な少女がピンボール名手のトミーに夢中になり、いろいろあって彼女はカリフォルニア出身のロックンローラーと結婚するという筋をそれは持っていた。と、やっぱり「ディナー・イン・アメリカ」はロックな映画なんだろうな。
それから、場所と時間は架空という設定なのか。田舎街が舞台となっているので風景はタイムレスな感じとなる。でも、家にあるTVがブラウン管のそれであったり、カセット・テープが使われていたりもし、一応1990年代を舞台においているようだ。
▶︎過去の、ザ・フー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm ジョン・エントウィッスル 2001年11月9日
https://43142.diarynote.jp/200810010211566772/ 映画
https://43142.diarynote.jp/200811201240456237/
<今日の、あっぱれ>
ぼくにとって直近の胸のすく「ディナー・イン・ジャパン」なる音楽商品は、定石越えのシンガー/ソングライターの花咲政之輔(2021年3月1日)率いる太陽肛門スパパーンのアナログ2枚組新作『円谷幸吉と人間』(レフトサイド)だ。物言いが直裁で、音楽的に研ぎ澄まされている佳盤というしかない。兎にも角にもまずはジャズ、ロック、ポップス、ラップなどを多岐に見渡した末の、百花繚乱する冒険心満載の音楽性に魅了される。管音や弦音や肉声群もクール極まりなく使われる。そして、そうしたイケてる器に見合う強いメッセージがこれでもかと流し込まれる。多数が望まない五輪開催の暴挙に代表される不条理への拒否がウヒヒな諧謔とともに乗せられ、ぼくはチャーリー・ヘイデン(2001年11月20日、2005年3月16日、2009年9月10日)のリベレイション・ミュージック・オーケストラやフェラ・クティら秀でた正の民衆の音楽の最新版として愛でたくなってしまう。あっさりと酔狂なことに思うまま当たっている様、良いなあ。ジャズ系猛者がいろいろ入っているなか、エレクトリック・ベースはシアターブルック他の中条卓(2000年7月29日、2001年12月9日、2001年12月22日、2003年6月22日、2007年1月26日,2010年1月12日、2012年10月10日、2014年9月2日、2015年10月3日、2016年11月18日、2019年5月21日)が弾いているのが何気にうれしい。また、まだ内緒なのでこっそり聞いてねと、某ミュージシャンからはうわあなユニティ作の音が届いたりして、この夏死んだふりをしていようと思っていたのだが、そうも行かねえかという気持ちにもなっているかも。。。まったくもって、この夏の生理的にあまりにうれしい清涼剤、いや淀んだ空気をとばす解毒剤だよなあ。
▶︎過去の、花咲政之輔
https://43142.diarynote.jp/202103031127296987/
▶過去の、チャーリー・ヘイデン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm 彼のライナーノーツの金言付記
http://43142.diarynote.jp/200503240453290000/
http://43142.diarynote.jp/200909120650273142/
▶︎過去の、フェラ・クティの息子たち
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-4.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm
http://43142.diarynote.jp/200711121022550000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090726
http://43142.diarynote.jp/?day=20120727
▶︎過去の、中条卓
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm シアターブルック 7.29フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm シアターブルック+マルコス・スザーノ12/22
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm シアターブルック
http://43142.diarynote.jp/?day=20070126 OKI DUB AINU BAND
http://43142.diarynote.jp/201001131101085950/ blues.the-butcher-590213
http://43142.diarynote.jp/201210111837516874/ OKI DUB AINU BAND
http://43142.diarynote.jp/?day=20140902 blues.the-butcher-590213
http://43142.diarynote.jp/201510051403147675/ シアターブルック
http://43142.diarynote.jp/?day=20161118
https://43142.diarynote.jp/201905220902467859/
監督・脚本・編集をするアダム・レーマイヤーはネブラスカ州リンカーンで(少年期から?)20年間もパンク・ロックをやり、その経験が染み付いているそう。なるほど、ネットで拾うことができるその容貌はグランジ系ロック・バンドの一員ですと言われても違和感はない。とともに、彼はトランプ政権下だったからこそ出来上がった作品という認識も持っているようだ。ようはなんらかのロック的心象とやるせない現況が引き金となる映画とすることができるだろう。
「ディナー・イン・アメリカ」ということでアメリカ人家族が揃って夕食するシーンは3回(主人公はそこにいるが、家族はそれぞれ別だ)あるが、それは表づらを取り繕いいい子ぶるアメリカのサイレント・マジョリティの愚鈍さを表わしているか。クズが長に立つことを許すアメリカ/人々に対する違和感が下敷きになっているとは、やはり思わせる。あー、「ディナー・イン・ジャパン」がなきゃダメだお〜。
中年が入りかけたパンク(犯罪行為も平気できちゃう)なロッカー〜ステージではマスクを被っており、一部では評価を受けている〜と、うだつがまったくあがらない二十歳のスクエアな女性〜ではあるものの、件のパンク・ロック・バンドを密かに聞きながら発散するのが唯一の愉しみ〜のあららな邂逅+ラヴ・ストーリーと言っていいのか。新型コロナ禍に入ってしまい、いくつもの映画祭出展とBlu-rayリリースだけで止まっていて、9月下旬から公開が始まる日本が劇場初上映の国となるようだ。あちらではコメディとも紹介されていたりもし、もちろんクスっと笑えるところはあるのだが、いい意味で笑えない部分もいろいろとある。
冒頭のクレジット群表示と打ち込みビートのかみ合いが格好いい。それだけで、ぼくは足をストンプしたくなった(なぜか、エンドロール部は無音で通される。そんな映画はあまり記憶にない。試写であっても、その最中に立つ人がいた←普通、そういうことはまずない)。まあ、音楽映画と言えなくもないわけだが、音楽を担当しているのはジョン・スウィートハートという人。いろいろ映画畑で仕事をしているらしい。そういえば、ダメなアメリカ人(でも性欲たっぷりのおばさん)が流す音楽として音楽性もルックスもなかなかに痒い1970年代に支持を得たソフト・ポップ・デュオのイングラン・ダン&ジョン・フォード(一人はシールズ&クロフツの片方の弟だ)の曲が使われる。苦笑。その他の挿入歌には監督や、二人の主人公が関与する曲が使われる。劇中には、主人公二人が一緒に作曲をする部分もある。
人によっては、ザ・フー(2008年11月17日)のロック・ミュージカル『トミー』の映画版byケン・ラッセルの「サリー・シンプソン」のくだりを思い出す人もいるかもしれない。親が厳格な真面目な少女がピンボール名手のトミーに夢中になり、いろいろあって彼女はカリフォルニア出身のロックンローラーと結婚するという筋をそれは持っていた。と、やっぱり「ディナー・イン・アメリカ」はロックな映画なんだろうな。
それから、場所と時間は架空という設定なのか。田舎街が舞台となっているので風景はタイムレスな感じとなる。でも、家にあるTVがブラウン管のそれであったり、カセット・テープが使われていたりもし、一応1990年代を舞台においているようだ。
▶︎過去の、ザ・フー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm ジョン・エントウィッスル 2001年11月9日
https://43142.diarynote.jp/200810010211566772/ 映画
https://43142.diarynote.jp/200811201240456237/
<今日の、あっぱれ>
ぼくにとって直近の胸のすく「ディナー・イン・ジャパン」なる音楽商品は、定石越えのシンガー/ソングライターの花咲政之輔(2021年3月1日)率いる太陽肛門スパパーンのアナログ2枚組新作『円谷幸吉と人間』(レフトサイド)だ。物言いが直裁で、音楽的に研ぎ澄まされている佳盤というしかない。兎にも角にもまずはジャズ、ロック、ポップス、ラップなどを多岐に見渡した末の、百花繚乱する冒険心満載の音楽性に魅了される。管音や弦音や肉声群もクール極まりなく使われる。そして、そうしたイケてる器に見合う強いメッセージがこれでもかと流し込まれる。多数が望まない五輪開催の暴挙に代表される不条理への拒否がウヒヒな諧謔とともに乗せられ、ぼくはチャーリー・ヘイデン(2001年11月20日、2005年3月16日、2009年9月10日)のリベレイション・ミュージック・オーケストラやフェラ・クティら秀でた正の民衆の音楽の最新版として愛でたくなってしまう。あっさりと酔狂なことに思うまま当たっている様、良いなあ。ジャズ系猛者がいろいろ入っているなか、エレクトリック・ベースはシアターブルック他の中条卓(2000年7月29日、2001年12月9日、2001年12月22日、2003年6月22日、2007年1月26日,2010年1月12日、2012年10月10日、2014年9月2日、2015年10月3日、2016年11月18日、2019年5月21日)が弾いているのが何気にうれしい。また、まだ内緒なのでこっそり聞いてねと、某ミュージシャンからはうわあなユニティ作の音が届いたりして、この夏死んだふりをしていようと思っていたのだが、そうも行かねえかという気持ちにもなっているかも。。。まったくもって、この夏の生理的にあまりにうれしい清涼剤、いや淀んだ空気をとばす解毒剤だよなあ。
▶︎過去の、花咲政之輔
https://43142.diarynote.jp/202103031127296987/
▶過去の、チャーリー・ヘイデン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm 彼のライナーノーツの金言付記
http://43142.diarynote.jp/200503240453290000/
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▶︎過去の、フェラ・クティの息子たち
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-4.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm
http://43142.diarynote.jp/200711121022550000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090726
http://43142.diarynote.jp/?day=20120727
▶︎過去の、中条卓
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm シアターブルック 7.29フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm シアターブルック+マルコス・スザーノ12/22
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm シアターブルック
http://43142.diarynote.jp/?day=20070126 OKI DUB AINU BAND
http://43142.diarynote.jp/201001131101085950/ blues.the-butcher-590213
http://43142.diarynote.jp/201210111837516874/ OKI DUB AINU BAND
http://43142.diarynote.jp/?day=20140902 blues.the-butcher-590213
http://43142.diarynote.jp/201510051403147675/ シアターブルック
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https://43142.diarynote.jp/201905220902467859/
映画「ココ・シャネル 時代と闘った女」
2021年8月6日 音楽 渋谷・bunkamuraのル・シネマで、2019年フランスTVドキュメンタリー「ココ・シャネル 時代と闘った女」(原題:Les guerres de Coco Chanel)を見る。直訳すれば、“ココ・シャネルの戦争”となるか。本名ガブリエル・シャネル、1883年〜1971年。あの有数のフランスのファッション・ブランドの創設者ですね。
監督と脚本は、ジャン・ロリターノ。彼はドキュメンタリー畑のクリエイターで、その最新作はチャールズ・ブロンソンのそれであるよう。監督はシャネルの生い立ちと成功と人間性を追う。TV番組用として作られたので、時間は1時間を少し切る。だから、なぜ香水販売に進出したかとか、印象的なCを二つ重ねたロゴの由来などは語られない。そのかわり、彼女がいかに成り上がりのマインドを持ち、“ワタクシ様”のキツい性格とともに自らの帝国を築いていったかは、遠慮なく語られる。ぼくは彼女のキャリアなんて全然知らなかったが、この映像作品が教えてくれたことは以下の通り。
地方の裕福でない家庭に生まれ、12歳のときに母親が病気で亡くなってしまい、父親は子供達を残してとんずら。その年で彼女は奉公(映画では“洗濯女”という字幕が出たか)に出ることを強いられる。その後、歌は上手ではなかったがキャバレーで歌ったりした後に彼女は貴族や権力を持つ人たち相手の愛人業に入り、パトロンから得たお金でまずは帽子販売店を出す。安い出来合いの帽子に二つ三つ飾りをつけて高額で売り、それで彼女は成功の第一歩を踏み出した。その後、シャネルはパリに進出し、衣服その他の販売をするようになるわけだ。彼女は英国人のチャーチルまで、権力者との付き合いは驚くほど広かった。
彼女がいつデザインを勉強したかとか、実際にどう創作作業をしていたかということは一切語られない。でも、実際にシャネルから販売された衣服には時代を導くようなスタイルがあったはずで、おそらく独学でそれを成し遂げた彼女はやはり天賦の才を持ち、また秀でたビジネスのセンスを抱えていたのは間違いないだろう。上流社会の出ではない彼女の成功譚の裏にある様々な障害は想像して余りあるのもで、本当にいろんな壁に体当たりして、勝利を得た女性であるとも痛感させられる。いやー、図抜けて強い人であったことに頭がクラクラしちゃう。
いろんな男性陣との交流は語られても、同性との付き合いは示されない。フランソワーズ・サガンの彼女に対するコメント映像は出てくるが、それは竹を割ったような悪口だもんなー。あと、権力者好きのシャネルは親ナチスで、第二次世界大戦中にスパイのようなこともしたこともきっぱり映画は伝える。持たざる者であっても、悪魔に魂を売り渡すことも厭わない上昇志向を度を越して持てば、立派な成功も果たせる……。この映画はそうも言っている? 世のシャネル信者は、この映画を見てどんな気持ちになるのだろうか。
しかし、TV用作品とはいえ、映像構成は優れている。19世紀生まれの人だから、そんなに映像や写真が残っているわけではない。だが、監督はちゃんとプロットを組み立てた上で、それにしっくり合う昔のモノクロームの映像を当てはめて行く。それ、本当に巧みで感心した。だからこそ、彼女の負の部分は効果的に見る者に伝わるところはあるだろう。なんか、その忖度なしの制作指針に、ぼくはフランス発という誉れを感じたか。また、どんな筋道を辿っていたとしても、シャネルの成功は世の女性の活躍の場や権利を拡大したことも疑いない。
▶︎過去の、チャーチルを扱った映画
https://43142.diarynote.jp/201808040806206081/
<今日の、麦わら帽子と香水と>
晴天の昼間は暑いなあ。先週金曜日以来の外出となった昨日、麦わら帽子を被って外出したら行楽気分になりほのかに楽しかった。なので、今日もそれで出かける。おっと、今日はサングラスを持つのを忘れた。まずは正午から、銀座で上原ひろみのインタヴュー取材。先週の仕事もそうだったし、今またフツーに対面に戻っているなあ。あの目抜き通りを歩くと、立派なお店の空いた入り口からけっこう冷気が流れてきて少し楽ナリ。取材後、銀座を少しブラついた後に地元に戻り映画を見たわけだが、こちらの場内は空いていた。今日は炎天下のなか意外に歩き、1万歩を超えた。ぼくとしては、拍手。仮で入っていた次のインタヴュー予定が再来週になったので、来週は引きこもろうと思えば可能だナ。でも、急に擬似禁酒法のキブンを味わいたくなったりしてなー。さずが、似非気配り者としては地方に行くのはちょい憚られる。観光地以外は東京から来たと言うと、退かれそう。
ところで、ぼくが所有している唯一のシャネルの製品は、“ALLURE HOMME SPORT”というオードゥトワレ。自分で買ったものではなく、お土産でもらったものだ。ちょい値段を調べたら立派な値付けで驚いたというのはともかく、それはかなり香りがきつい。真夏に、戸外にいる時間が長く汗臭くなりそうと思えるときにしかつけない。というわけで、今年はまだ1度しかそれを使っていない。今年はあと、何度使うかな? 2021年はココ・シャネルが亡くなって50年、そして著名香水の「No.5」が生まれて100年にあたるという。
監督と脚本は、ジャン・ロリターノ。彼はドキュメンタリー畑のクリエイターで、その最新作はチャールズ・ブロンソンのそれであるよう。監督はシャネルの生い立ちと成功と人間性を追う。TV番組用として作られたので、時間は1時間を少し切る。だから、なぜ香水販売に進出したかとか、印象的なCを二つ重ねたロゴの由来などは語られない。そのかわり、彼女がいかに成り上がりのマインドを持ち、“ワタクシ様”のキツい性格とともに自らの帝国を築いていったかは、遠慮なく語られる。ぼくは彼女のキャリアなんて全然知らなかったが、この映像作品が教えてくれたことは以下の通り。
地方の裕福でない家庭に生まれ、12歳のときに母親が病気で亡くなってしまい、父親は子供達を残してとんずら。その年で彼女は奉公(映画では“洗濯女”という字幕が出たか)に出ることを強いられる。その後、歌は上手ではなかったがキャバレーで歌ったりした後に彼女は貴族や権力を持つ人たち相手の愛人業に入り、パトロンから得たお金でまずは帽子販売店を出す。安い出来合いの帽子に二つ三つ飾りをつけて高額で売り、それで彼女は成功の第一歩を踏み出した。その後、シャネルはパリに進出し、衣服その他の販売をするようになるわけだ。彼女は英国人のチャーチルまで、権力者との付き合いは驚くほど広かった。
彼女がいつデザインを勉強したかとか、実際にどう創作作業をしていたかということは一切語られない。でも、実際にシャネルから販売された衣服には時代を導くようなスタイルがあったはずで、おそらく独学でそれを成し遂げた彼女はやはり天賦の才を持ち、また秀でたビジネスのセンスを抱えていたのは間違いないだろう。上流社会の出ではない彼女の成功譚の裏にある様々な障害は想像して余りあるのもで、本当にいろんな壁に体当たりして、勝利を得た女性であるとも痛感させられる。いやー、図抜けて強い人であったことに頭がクラクラしちゃう。
いろんな男性陣との交流は語られても、同性との付き合いは示されない。フランソワーズ・サガンの彼女に対するコメント映像は出てくるが、それは竹を割ったような悪口だもんなー。あと、権力者好きのシャネルは親ナチスで、第二次世界大戦中にスパイのようなこともしたこともきっぱり映画は伝える。持たざる者であっても、悪魔に魂を売り渡すことも厭わない上昇志向を度を越して持てば、立派な成功も果たせる……。この映画はそうも言っている? 世のシャネル信者は、この映画を見てどんな気持ちになるのだろうか。
しかし、TV用作品とはいえ、映像構成は優れている。19世紀生まれの人だから、そんなに映像や写真が残っているわけではない。だが、監督はちゃんとプロットを組み立てた上で、それにしっくり合う昔のモノクロームの映像を当てはめて行く。それ、本当に巧みで感心した。だからこそ、彼女の負の部分は効果的に見る者に伝わるところはあるだろう。なんか、その忖度なしの制作指針に、ぼくはフランス発という誉れを感じたか。また、どんな筋道を辿っていたとしても、シャネルの成功は世の女性の活躍の場や権利を拡大したことも疑いない。
▶︎過去の、チャーチルを扱った映画
https://43142.diarynote.jp/201808040806206081/
<今日の、麦わら帽子と香水と>
晴天の昼間は暑いなあ。先週金曜日以来の外出となった昨日、麦わら帽子を被って外出したら行楽気分になりほのかに楽しかった。なので、今日もそれで出かける。おっと、今日はサングラスを持つのを忘れた。まずは正午から、銀座で上原ひろみのインタヴュー取材。先週の仕事もそうだったし、今またフツーに対面に戻っているなあ。あの目抜き通りを歩くと、立派なお店の空いた入り口からけっこう冷気が流れてきて少し楽ナリ。取材後、銀座を少しブラついた後に地元に戻り映画を見たわけだが、こちらの場内は空いていた。今日は炎天下のなか意外に歩き、1万歩を超えた。ぼくとしては、拍手。仮で入っていた次のインタヴュー予定が再来週になったので、来週は引きこもろうと思えば可能だナ。でも、急に擬似禁酒法のキブンを味わいたくなったりしてなー。さずが、似非気配り者としては地方に行くのはちょい憚られる。観光地以外は東京から来たと言うと、退かれそう。
ところで、ぼくが所有している唯一のシャネルの製品は、“ALLURE HOMME SPORT”というオードゥトワレ。自分で買ったものではなく、お土産でもらったものだ。ちょい値段を調べたら立派な値付けで驚いたというのはともかく、それはかなり香りがきつい。真夏に、戸外にいる時間が長く汗臭くなりそうと思えるときにしかつけない。というわけで、今年はまだ1度しかそれを使っていない。今年はあと、何度使うかな? 2021年はココ・シャネルが亡くなって50年、そして著名香水の「No.5」が生まれて100年にあたるという。
タワー・オブ・パワー(1999年11月4日、2002年8月11日、2004年1月19日、2008年5月18日、2008年5月19日、2010年5月11日、2011年3月10日、2012年9月9日、2014年5月6日、2016年7月10日、2018年9月4日)の活発活動期たる1970年代(1973〜79年ごろ)のギター奏者を務めたブルース・コンテがお亡くなりになったようだ。タワーズのギタリストと言うとやはり彼の名前を思い出す人が多いのではないか。フィリピンで亡くなったようだが、詳細は発表されていない。彼は健康問題を抱えて2012年に寄付を募るFacebookページができ、2015年3月には白血病と糖尿病のため困窮している彼を助けるベネフィット公演がポートランドで開かれたこともあった。これ→https://www.youtube.com/watch?v=XY1qCThgjWY は2019年に出された彼によるジミ・ヘンドリックス曲の弾き語り演奏。なんか、心に入ってくるな。
タワー・オブ・パワー時代は絶妙な刻みでボトムを整える演奏を担いつつ、ときにソロを取る場合は単音主体のブルージーなそれを聞かせたという印象がぼくにはある。タワーズ脱退後はいろんなバンドを組んでいた彼だが、2000年代中期にもタワー・オブ・パワーに戻ったこともあった。リーダー作も数枚、『Right From My Heart』(Lucky,1997年)はスムース・ジャズ調のアルバムだった。彼の従兄弟はセッション奏者としてはベイ・エリア周辺でより売れっ子だったベーシストのヴィクター・コンテ。彼も、1970年代後期に少しだけタワーズに加入したことがあった。
また、クール&ザ・ギャング(2014年12月26日、2016年2月23日、2017年10月10日)のオリジナル(1960年代中期〜1970年代)のアルト・サックス/フルート奏者であるデニス・トーマス(1951年2月9日〜2021年8月7日)もニュージャージー州(のたぶん自宅)で睡眠中に亡くなった。当初の管楽器奏者たちが中央に立つクール&ザ・ギャングにとって彼はまさに顔役的存在だった。MC主任担当者をしていたという話や、ワードローブやお金の管理もしていたという話もある。記事を探すと彼はこの7月4日のハリウッド・ボウルの実演に出演していたという記載も見つけられるが、だいぶ前からツアーには帯同しなくなっており、ぼくが日本で見たクール&ザ・ギャングの実演にはすでに入っていなかった。
高校生時代に結成された彼らは、当初はジャズの影響下にあった歌なしの表現を求めた管楽器ソロをばっちり入れるバンドであったが、JBらファンク・グルーヴ勢の台頭を横目にそのクロスオーヴァーに向かい、あまりに見事なワイルド&ヒップなファンク・バンドとしての姿を1973年に完成させた。そんな彼らの動向は、ジャズ→ファンク/R&Bの流れ、切ってもきれない関係を示す決定的なサンプルであると思う。
▶過去の、タワー・オブ・パワー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/framepagelive.htm
http://43142.diarynote.jp/200401190000000000/
http://43142.diarynote.jp/200805201629180000/
http://43142.diarynote.jp/200805201631280000/
http://43142.diarynote.jp/201005121331016518/
http://43142.diarynote.jp/201103171348262145/
http://43142.diarynote.jp/?day=20120909
http://43142.diarynote.jp/201405071616599721/
http://43142.diarynote.jp/201607111518214717/
https://43142.diarynote.jp/201809071706397376/
▶過去の、クール&ザ・ギャング/J.T.テイラー
http://43142.diarynote.jp/200611281428510000/ J.T.テイラー
http://43142.diarynote.jp/201403051230433466/ J.T.テイラー
http://43142.diarynote.jp/201412291146465218/
http://43142.diarynote.jp/201508051544452721/ J.T.テイラー
http://43142.diarynote.jp/201602290953239524/
https://43142.diarynote.jp/201710121703595237/
https://43142.diarynote.jp/202009111437086137/ 旧メンバー、ロナルド・ベルの訃報
<今日の、安堵>
ふう、オリンピックが終わったか。ホっとする。中継は一切見ていない。サトー家は地上波が映らないので、もうきっぱりとそれができる。知人からネットでNHK映像が見られるよとも言われたが、受信料を払っていない(見ることができない環境にあるのだから当然だ。もしお金を払っていたら、あの政権寄りの偏向報道の鉄板姿勢にぼくはどうなることやら……)ぼくは見ちゃいけないとも思ったし。いや、やっぱり見たくねえ、オレはこのデタラメ五輪を断固拒否すると思っていたんだろうな。サッカーの結果だけは気にしていたが(苦笑)。とはいえ、一度母親詣でをした際、女子の3人バスケットボールの試合はTVで流れていたのでちらり見た。←けっこう、おもしろかった。とともに、あれを見てやはり観客を入れてするものだよなあとも思えた。実は男子サッカーの初戦の味スタや陸上競技の国立競技場はチケットが当たった知人から誘われていて、イヴェント好きゆえ五輪反対でも見に行こうとは思っていたのだ。反対だけど、オレの税金も幾ばくかは使われているはずだし、今後の負債のツケはぼくにもふりかかるはずで、その権利はある。ともあれ、新聞に五輪の報道記事がどばあと出なくなったことに安堵している。実はそれが嫌で、この時期、あまり新聞も開かなかった。
タワー・オブ・パワー時代は絶妙な刻みでボトムを整える演奏を担いつつ、ときにソロを取る場合は単音主体のブルージーなそれを聞かせたという印象がぼくにはある。タワーズ脱退後はいろんなバンドを組んでいた彼だが、2000年代中期にもタワー・オブ・パワーに戻ったこともあった。リーダー作も数枚、『Right From My Heart』(Lucky,1997年)はスムース・ジャズ調のアルバムだった。彼の従兄弟はセッション奏者としてはベイ・エリア周辺でより売れっ子だったベーシストのヴィクター・コンテ。彼も、1970年代後期に少しだけタワーズに加入したことがあった。
また、クール&ザ・ギャング(2014年12月26日、2016年2月23日、2017年10月10日)のオリジナル(1960年代中期〜1970年代)のアルト・サックス/フルート奏者であるデニス・トーマス(1951年2月9日〜2021年8月7日)もニュージャージー州(のたぶん自宅)で睡眠中に亡くなった。当初の管楽器奏者たちが中央に立つクール&ザ・ギャングにとって彼はまさに顔役的存在だった。MC主任担当者をしていたという話や、ワードローブやお金の管理もしていたという話もある。記事を探すと彼はこの7月4日のハリウッド・ボウルの実演に出演していたという記載も見つけられるが、だいぶ前からツアーには帯同しなくなっており、ぼくが日本で見たクール&ザ・ギャングの実演にはすでに入っていなかった。
高校生時代に結成された彼らは、当初はジャズの影響下にあった歌なしの表現を求めた管楽器ソロをばっちり入れるバンドであったが、JBらファンク・グルーヴ勢の台頭を横目にそのクロスオーヴァーに向かい、あまりに見事なワイルド&ヒップなファンク・バンドとしての姿を1973年に完成させた。そんな彼らの動向は、ジャズ→ファンク/R&Bの流れ、切ってもきれない関係を示す決定的なサンプルであると思う。
▶過去の、タワー・オブ・パワー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/framepagelive.htm
http://43142.diarynote.jp/200401190000000000/
http://43142.diarynote.jp/200805201629180000/
http://43142.diarynote.jp/200805201631280000/
http://43142.diarynote.jp/201005121331016518/
http://43142.diarynote.jp/201103171348262145/
http://43142.diarynote.jp/?day=20120909
http://43142.diarynote.jp/201405071616599721/
http://43142.diarynote.jp/201607111518214717/
https://43142.diarynote.jp/201809071706397376/
▶過去の、クール&ザ・ギャング/J.T.テイラー
http://43142.diarynote.jp/200611281428510000/ J.T.テイラー
http://43142.diarynote.jp/201403051230433466/ J.T.テイラー
http://43142.diarynote.jp/201412291146465218/
http://43142.diarynote.jp/201508051544452721/ J.T.テイラー
http://43142.diarynote.jp/201602290953239524/
https://43142.diarynote.jp/201710121703595237/
https://43142.diarynote.jp/202009111437086137/ 旧メンバー、ロナルド・ベルの訃報
<今日の、安堵>
ふう、オリンピックが終わったか。ホっとする。中継は一切見ていない。サトー家は地上波が映らないので、もうきっぱりとそれができる。知人からネットでNHK映像が見られるよとも言われたが、受信料を払っていない(見ることができない環境にあるのだから当然だ。もしお金を払っていたら、あの政権寄りの偏向報道の鉄板姿勢にぼくはどうなることやら……)ぼくは見ちゃいけないとも思ったし。いや、やっぱり見たくねえ、オレはこのデタラメ五輪を断固拒否すると思っていたんだろうな。サッカーの結果だけは気にしていたが(苦笑)。とはいえ、一度母親詣でをした際、女子の3人バスケットボールの試合はTVで流れていたのでちらり見た。←けっこう、おもしろかった。とともに、あれを見てやはり観客を入れてするものだよなあとも思えた。実は男子サッカーの初戦の味スタや陸上競技の国立競技場はチケットが当たった知人から誘われていて、イヴェント好きゆえ五輪反対でも見に行こうとは思っていたのだ。反対だけど、オレの税金も幾ばくかは使われているはずだし、今後の負債のツケはぼくにもふりかかるはずで、その権利はある。ともあれ、新聞に五輪の報道記事がどばあと出なくなったことに安堵している。実はそれが嫌で、この時期、あまり新聞も開かなかった。
R.I.P. チャッキー・トンプソン(1968年7月12日– 2021年8月9日)
2021年8月11日 音楽 R&Bとヒップホップが不可分な関係になった1990年代以降、プロデューサー/作曲家/トラック・メイカーとして活躍したチャッキー・トンプソンがロサンゼルスでお亡くなりになった。死因はCovid-19感染による合併症とのことだ。
バッド・ボーイ・エンターテイメントのプロデューサーとして世に出て、メアリー・J・ブライジ(2002年3月13日)、ザ・ノートリアスBIG、フェイス・エヴァンス(2013年5月31日)、SWV(2012年8月21日、2019年10月16日)、ナス(2004年8月8日)、レデシー(2002年6月12日、2007年11月12日、2009年1月25日、2010年1月8日2012年3月21日)など様々な人たちを手がけ、合衆国のアーバン・ミュージックの動向をおおいに担った実力者だ。
そんな彼のキャリアで着目したいのはワシントンDCの出身で、ワシントン・ゴーゴーにどっぷり浸っていること。実はチャック・ブラウン&ソウル・サーチャーズ(2010年3月18日)の一員だったことがあり、いろんな楽器をできたもの、その際はドラムを叩いていたという話がある。そんなバックグラウンドを持つ人のブツが多くの人に受けたという事実はまったくもってめでたい。
▶︎過去の、メアリー・J・ブライジ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
▶︎過去の、フェイス・エヴァンス
https://43142.diarynote.jp/201306060609052151/
▶︎過去の、SWV
http://43142.diarynote.jp/201209180912154167/
https://43142.diarynote.jp/201910170731042901/
▶︎過去の、ナス
https://43142.diarynote.jp/200408082300500000/
▶過去の、レデシー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-6.htm
http://43142.diarynote.jp/200711131002450000/
http://43142.diarynote.jp/200901270025408952/
http://43142.diarynote.jp/201001091312302526/
http://43142.diarynote.jp/201203260805006088/
▶︎過去の、チャック・ブラウン
http://43142.diarynote.jp/201003201059063030/
<今日の、朗報>
知人との電話の会話で、ブルース・ギタリスト/シンガーの吾妻光良(2007年7月22日、2010年5月29日、2010年11月20日、2016年10月22日、2019年7月31日)の話が出る。2007年7月22日の項でぼくはこんな〜https://43142.diarynote.jp/200707232253550000/〜ことを書いているが、実際に彼は晴れて会社員をリタイアし、ミュージシャン業に邁進するらしい。そういやあ、彼の兄のギタリストのジョージ吾妻はお元気なんだろうか。しかし、オレの周りで知り合いの誰かがご隠居になったという話はまだ聞かないなあ。前に知人のトレイダーをやっていた人が50歳を期に自適悠々の引退生活に入るというのは聞いたことがあるものの。その人が幸せだといいナ。
ところで、立派な桃をいただいので、昼間(曇り気味でよかった)に母親に届ける。入所時に、モニター型検温機が37.6度と出てブザーがなったのにはびっくり。計測し直すとすぐに1度減る。ふむ。訪問する際は、花(すっかり花屋とは仲良しだな)と地下食品フロアで買った昼食他食べ物を持参するのが毎度のならわし。いつも、喜んでくれるから続いるんだろうな。ぼくが歳を取って一番かわったのは、わりかし親孝行になったことだな。ああ、オレも人の子……。同年代の知人との会話には介護の話は出てくるなー。
▶︎過去の、吾妻光良
http://43142.diarynote.jp/200707232253550000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20100529
http://43142.diarynote.jp/201011250546335197/
https://43142.diarynote.jp/201610241405267224/
https://43142.diarynote.jp/201908011004351383/
バッド・ボーイ・エンターテイメントのプロデューサーとして世に出て、メアリー・J・ブライジ(2002年3月13日)、ザ・ノートリアスBIG、フェイス・エヴァンス(2013年5月31日)、SWV(2012年8月21日、2019年10月16日)、ナス(2004年8月8日)、レデシー(2002年6月12日、2007年11月12日、2009年1月25日、2010年1月8日2012年3月21日)など様々な人たちを手がけ、合衆国のアーバン・ミュージックの動向をおおいに担った実力者だ。
そんな彼のキャリアで着目したいのはワシントンDCの出身で、ワシントン・ゴーゴーにどっぷり浸っていること。実はチャック・ブラウン&ソウル・サーチャーズ(2010年3月18日)の一員だったことがあり、いろんな楽器をできたもの、その際はドラムを叩いていたという話がある。そんなバックグラウンドを持つ人のブツが多くの人に受けたという事実はまったくもってめでたい。
▶︎過去の、メアリー・J・ブライジ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
▶︎過去の、フェイス・エヴァンス
https://43142.diarynote.jp/201306060609052151/
▶︎過去の、SWV
http://43142.diarynote.jp/201209180912154167/
https://43142.diarynote.jp/201910170731042901/
▶︎過去の、ナス
https://43142.diarynote.jp/200408082300500000/
▶過去の、レデシー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-6.htm
http://43142.diarynote.jp/200711131002450000/
http://43142.diarynote.jp/200901270025408952/
http://43142.diarynote.jp/201001091312302526/
http://43142.diarynote.jp/201203260805006088/
▶︎過去の、チャック・ブラウン
http://43142.diarynote.jp/201003201059063030/
<今日の、朗報>
知人との電話の会話で、ブルース・ギタリスト/シンガーの吾妻光良(2007年7月22日、2010年5月29日、2010年11月20日、2016年10月22日、2019年7月31日)の話が出る。2007年7月22日の項でぼくはこんな〜https://43142.diarynote.jp/200707232253550000/〜ことを書いているが、実際に彼は晴れて会社員をリタイアし、ミュージシャン業に邁進するらしい。そういやあ、彼の兄のギタリストのジョージ吾妻はお元気なんだろうか。しかし、オレの周りで知り合いの誰かがご隠居になったという話はまだ聞かないなあ。前に知人のトレイダーをやっていた人が50歳を期に自適悠々の引退生活に入るというのは聞いたことがあるものの。その人が幸せだといいナ。
ところで、立派な桃をいただいので、昼間(曇り気味でよかった)に母親に届ける。入所時に、モニター型検温機が37.6度と出てブザーがなったのにはびっくり。計測し直すとすぐに1度減る。ふむ。訪問する際は、花(すっかり花屋とは仲良しだな)と地下食品フロアで買った昼食他食べ物を持参するのが毎度のならわし。いつも、喜んでくれるから続いるんだろうな。ぼくが歳を取って一番かわったのは、わりかし親孝行になったことだな。ああ、オレも人の子……。同年代の知人との会話には介護の話は出てくるなー。
▶︎過去の、吾妻光良
http://43142.diarynote.jp/200707232253550000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20100529
http://43142.diarynote.jp/201011250546335197/
https://43142.diarynote.jp/201610241405267224/
https://43142.diarynote.jp/201908011004351383/
渋谷・映画美学校で昼下がりに、多くの出演者が高校生役である2021年日本映画「彼女が好きなものは」を見る。文化庁の助成金を得ていて、この秋にロードショー公開される。監督と脚本は、1984年生まれの草野翔吾。映画を見ながら、映像が綺麗というか風情があるナと思えた。そして、映像の構図取りなども的確なように思う。尺は、2時間。僕にとってはちょっと長いが、ゆったりと流れていく質感も味であると思わせる作風に触れるとこのぐらいの時間が必要ではあったのかとも思う。
原作は『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』という浅原ナオトの小説で、好評につき漫画になったり、『腐女子、うっかりゲイに告る。』というNHKドラマになっているとのこと。それら表題が示唆するように、ゲイであることに悩みを持ち、でも年上の妻子持ちの彼氏がいる男子生徒と、彼の仮面彼女のような存在になるクラス・メイトとのやり取りや主人公周辺の軋轢や友情を軸に、性的マイノリティに対する偏見への問題提起がなされる。ゲイだと結婚ができず子供がいる幸せな家庭を持つことはできないのかと主人公は真面目に悩んでいるが、高校生でそんな先のことまで考えるのか。と、何も具体的なことは考えず快楽的に過ごそうとしていた自らの高校時代を振り返る……。比較してもしょうがないが、保守政党を支持する人が多い今の若者は本当にコンサヴァであるという話にそれは沿ったものである?
あちこちに高校生活の甘酸っぱさは配されるが、ゲイリー芦屋による音楽はおやじ臭い。響くギターによる効果音的サウンドなんかも使われているが、往々にして古臭く感じた。終盤にはオルガンを使ったセンチなインストゥメンタルが印象的に使われるが、それを聞いてぼくはプロコル・ハルムの1967年曲「青い影」を想起した。音楽の質は、けっして低くない。遊園地の場面では本当に立派なビッグ・バンド調ジャズが使われる。だが、それがまったく映像と噛み合わないように、ぼくには感じられた。となかんとか、ヒップホップ流れのものとかエレクトロニカ調のサウンドをつけろとは毛頭思わないが、もう少し今っぽい風情の音楽がつけられていたらこの映画はより今の高校生の事象を扱っているというノリが出たのではないだろうか。いや、それともそうした音楽を使うことで、高校生を取り巻く凸凹は昔からの普遍的な問題なんだよというのを示したかったのか。
その後は、丸の内・コットンクラブ(セカンド・ショウ)で 竹村一哲のカルテットを見る。ドラムの竹村一哲(2016年9月27日、2018年9月2日、2019年10月6日、2019年12月20日、2020年10月5日、2021年6月23日、2021年6月24日 )、ギターの井上銘((2016年6月27日、2017年6月21日、2019年1月21日、2020年1月19日、2021年6月24日)、ピアノの魚返明未(2021年6月24日)、ダブル・ベースの三嶋大輝(2021年6月24日)という顔ぶれ。おお、1か月以内に、彼らを2回も見ちゃったぞ。
演目は、竹村や魚坂のオリジナル曲に、キース・ジャレットやエグベルト・ジスモンチ曲など。アルバム『村雨』をフォロウするツアーの最後の日となり、覇気と創意工夫を抱え、心から寄り添える仲間と音を出し合っているのがと手にとるように分かる1時間強。まっとうなジャズの丁々発止の回路を若さとともに獰猛に追求し、管楽器奏者の代わりに電気ギターが暴れることで、もう一つの表情をしかと得る。しかし、ギターやドラムがゴンゴンとデカい音を出すなか、ちゃんとピアノの音が聞こえることに大きく頷く。音、いいな。とともに、ピアニストの秀逸さもよく伝わる。ベース奏者がもっとソロをとってくれたなら、言うことなかったのだが。
▶︎過去の、竹村一哲
http://43142.diarynote.jp/201610100849458472/
https://43142.diarynote.jp/201809071509481583/
https://43142.diarynote.jp/201910070759405954/
https://43142.diarynote.jp/201912220907352341/
https://43142.diarynote.jp/202010060748585515/
https://43142.diarynote.jp/202106240847332337/
https://43142.diarynote.jp/202106251409441425/
▶︎過去の、井上銘
http://43142.diarynote.jp/201606281737237220/
https://43142.diarynote.jp/201706220952582448/
https://43142.diarynote.jp/201901231045028294/
https://43142.diarynote.jp/202001201340286359/
https://43142.diarynote.jp/202106251409441425/
ところで、セッションキーボード奏者/シンガーのマイク・フィニガンが LA でお亡くなりになった。肝臓がんであったという。オハイオ州生まれで、同じ中西部のカンザス州の大学へはバスケット・ボールの奨学金を得て入ったというので、多分身長の高い人であったのだろう。20歳ごろからしっかり音楽活動を始め、1960年代後半から達者なオルガン奏者としてスタジオ・ミュージシャンの需要をいろいろ得ることとなる。その最初の大きな仕事は、ジミ・ヘンドリックス『エレクトリック・レディランド』(1968年。英国はザ・フー関連レーベルのトラック、米国はリプリーズから出ていたのだな。他の国ではトラックにお金を出したポリドールからリリース)だった。
その後、ジャニス・ジョプリン抜きのザ・ホールディング・カンパニー、デイヴ・メイソン、マリア・マルダー、ピーター・フランプトン、ベン・シドラン(ピアノストの彼も、1970年代の複数作にアーシー軽妙な演奏ができる彼を起用していた)、ロッド・スチュアートらのレコーディングに参加。さらには、ステーヴン・スティルス、ダン・フォーゲルバーグ、エタ・ジェイムズ、ジョン・ハイアット、スティーヴ・タイレル、キャンド・ヒート、サム・ムーア、ボニー・レイット、タージ・マハール、ドン・フェルダーら様々なアルバムにキーボード奏者として参加している。
ヴォーカルも取れた彼はソロ・アーティストとしても、1970年代に2作品をリリースした。1977年発表の『Mike Finnigan』(Warner Brosthers。なお、彼はMike Finneganとクレジットされることもあった)はジェリー・ウェスクラーのプロデュースのもとマッスル・ショールズで録音されたアルバムだった。アラン・トゥーサンの2曲ほかいろいろ他人の曲をそこで取り上げており、彼はそこで非ロック的ともぼくは言いたくもなる朗々とした歌声を聞かせている。また、翌年にリリースされた何気にセレブ風なノリのカヴァーを持つ『Black & White』(Columbia)は当時同じレーベルでブレイクしていたボズ・スキャッグスの線をもろに狙った内容を持っていた。そちらはロスのザ・レコード・プラントの録音で、制作者はハード・ロックや産業ロックに強い英国出身のロン・ネヴィソン。こちらは、彼が書いた曲はゼロ。基本、あまり曲作りは得意な人ではなかったのだと思う。
マイク・フィニガンの情報を得るためにいくつか記事にあたると、なかなか高潔な人間性の持ち主であったことが伺えるし、一人の奥さんともずっと添い遂げたようだ。とても周りの人間から慕われ続けた人であったのではないだろうか。
<私の、口癖>
あー、つかれた。とは、独り言のようによく言っているはず。情けねえ。とはいえ、もう何十年もそうであるような気もする。そんな感じなので、具合がすぐれなくてもなあなあでずっとやり過ごしているか。唯一心にとめているのは、格好つけたいときはそれはやめましょうね〜大体は、おねいちゃんの前となるか〜、ということ。はあ、小せえ、、、。無理はしない。それは、何気に座右の銘? でないと、本当に本気を出さないといけないとき、それができなくなる。
原作は『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』という浅原ナオトの小説で、好評につき漫画になったり、『腐女子、うっかりゲイに告る。』というNHKドラマになっているとのこと。それら表題が示唆するように、ゲイであることに悩みを持ち、でも年上の妻子持ちの彼氏がいる男子生徒と、彼の仮面彼女のような存在になるクラス・メイトとのやり取りや主人公周辺の軋轢や友情を軸に、性的マイノリティに対する偏見への問題提起がなされる。ゲイだと結婚ができず子供がいる幸せな家庭を持つことはできないのかと主人公は真面目に悩んでいるが、高校生でそんな先のことまで考えるのか。と、何も具体的なことは考えず快楽的に過ごそうとしていた自らの高校時代を振り返る……。比較してもしょうがないが、保守政党を支持する人が多い今の若者は本当にコンサヴァであるという話にそれは沿ったものである?
あちこちに高校生活の甘酸っぱさは配されるが、ゲイリー芦屋による音楽はおやじ臭い。響くギターによる効果音的サウンドなんかも使われているが、往々にして古臭く感じた。終盤にはオルガンを使ったセンチなインストゥメンタルが印象的に使われるが、それを聞いてぼくはプロコル・ハルムの1967年曲「青い影」を想起した。音楽の質は、けっして低くない。遊園地の場面では本当に立派なビッグ・バンド調ジャズが使われる。だが、それがまったく映像と噛み合わないように、ぼくには感じられた。となかんとか、ヒップホップ流れのものとかエレクトロニカ調のサウンドをつけろとは毛頭思わないが、もう少し今っぽい風情の音楽がつけられていたらこの映画はより今の高校生の事象を扱っているというノリが出たのではないだろうか。いや、それともそうした音楽を使うことで、高校生を取り巻く凸凹は昔からの普遍的な問題なんだよというのを示したかったのか。
その後は、丸の内・コットンクラブ(セカンド・ショウ)で 竹村一哲のカルテットを見る。ドラムの竹村一哲(2016年9月27日、2018年9月2日、2019年10月6日、2019年12月20日、2020年10月5日、2021年6月23日、2021年6月24日 )、ギターの井上銘((2016年6月27日、2017年6月21日、2019年1月21日、2020年1月19日、2021年6月24日)、ピアノの魚返明未(2021年6月24日)、ダブル・ベースの三嶋大輝(2021年6月24日)という顔ぶれ。おお、1か月以内に、彼らを2回も見ちゃったぞ。
演目は、竹村や魚坂のオリジナル曲に、キース・ジャレットやエグベルト・ジスモンチ曲など。アルバム『村雨』をフォロウするツアーの最後の日となり、覇気と創意工夫を抱え、心から寄り添える仲間と音を出し合っているのがと手にとるように分かる1時間強。まっとうなジャズの丁々発止の回路を若さとともに獰猛に追求し、管楽器奏者の代わりに電気ギターが暴れることで、もう一つの表情をしかと得る。しかし、ギターやドラムがゴンゴンとデカい音を出すなか、ちゃんとピアノの音が聞こえることに大きく頷く。音、いいな。とともに、ピアニストの秀逸さもよく伝わる。ベース奏者がもっとソロをとってくれたなら、言うことなかったのだが。
▶︎過去の、竹村一哲
http://43142.diarynote.jp/201610100849458472/
https://43142.diarynote.jp/201809071509481583/
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▶︎過去の、井上銘
http://43142.diarynote.jp/201606281737237220/
https://43142.diarynote.jp/201706220952582448/
https://43142.diarynote.jp/201901231045028294/
https://43142.diarynote.jp/202001201340286359/
https://43142.diarynote.jp/202106251409441425/
ところで、セッションキーボード奏者/シンガーのマイク・フィニガンが LA でお亡くなりになった。肝臓がんであったという。オハイオ州生まれで、同じ中西部のカンザス州の大学へはバスケット・ボールの奨学金を得て入ったというので、多分身長の高い人であったのだろう。20歳ごろからしっかり音楽活動を始め、1960年代後半から達者なオルガン奏者としてスタジオ・ミュージシャンの需要をいろいろ得ることとなる。その最初の大きな仕事は、ジミ・ヘンドリックス『エレクトリック・レディランド』(1968年。英国はザ・フー関連レーベルのトラック、米国はリプリーズから出ていたのだな。他の国ではトラックにお金を出したポリドールからリリース)だった。
その後、ジャニス・ジョプリン抜きのザ・ホールディング・カンパニー、デイヴ・メイソン、マリア・マルダー、ピーター・フランプトン、ベン・シドラン(ピアノストの彼も、1970年代の複数作にアーシー軽妙な演奏ができる彼を起用していた)、ロッド・スチュアートらのレコーディングに参加。さらには、ステーヴン・スティルス、ダン・フォーゲルバーグ、エタ・ジェイムズ、ジョン・ハイアット、スティーヴ・タイレル、キャンド・ヒート、サム・ムーア、ボニー・レイット、タージ・マハール、ドン・フェルダーら様々なアルバムにキーボード奏者として参加している。
ヴォーカルも取れた彼はソロ・アーティストとしても、1970年代に2作品をリリースした。1977年発表の『Mike Finnigan』(Warner Brosthers。なお、彼はMike Finneganとクレジットされることもあった)はジェリー・ウェスクラーのプロデュースのもとマッスル・ショールズで録音されたアルバムだった。アラン・トゥーサンの2曲ほかいろいろ他人の曲をそこで取り上げており、彼はそこで非ロック的ともぼくは言いたくもなる朗々とした歌声を聞かせている。また、翌年にリリースされた何気にセレブ風なノリのカヴァーを持つ『Black & White』(Columbia)は当時同じレーベルでブレイクしていたボズ・スキャッグスの線をもろに狙った内容を持っていた。そちらはロスのザ・レコード・プラントの録音で、制作者はハード・ロックや産業ロックに強い英国出身のロン・ネヴィソン。こちらは、彼が書いた曲はゼロ。基本、あまり曲作りは得意な人ではなかったのだと思う。
マイク・フィニガンの情報を得るためにいくつか記事にあたると、なかなか高潔な人間性の持ち主であったことが伺えるし、一人の奥さんともずっと添い遂げたようだ。とても周りの人間から慕われ続けた人であったのではないだろうか。
<私の、口癖>
あー、つかれた。とは、独り言のようによく言っているはず。情けねえ。とはいえ、もう何十年もそうであるような気もする。そんな感じなので、具合がすぐれなくてもなあなあでずっとやり過ごしているか。唯一心にとめているのは、格好つけたいときはそれはやめましょうね〜大体は、おねいちゃんの前となるか〜、ということ。はあ、小せえ、、、。無理はしない。それは、何気に座右の銘? でないと、本当に本気を出さないといけないとき、それができなくなる。
ピアニスト/シンガーである橋本一子(2001年5月3日、2006年10月25日、2009年11年19日、2010年9月14日、2012年9月5日、2013年2月22日、2018年3月8日)のソロによる実演を、祐天寺・FJ‘sで見る。新作『view』(najanaja)発表をフォロウするライヴで、換気のためだろう短い休憩を置き、アルバムに収録されたすべての曲を本編で披露する。アンコールでは、ヴォーカル入りジョビン曲とソロ・ピアノ小曲を演奏した。
その『view』は約半数がオリジナル曲で、「ジャイアント・ステップス」や「ダニー・ボーイ」など4曲がジャズ・スタンダードで、さらにザ・ビートルズの「ブラック・バード」やトニーニョ・オルタの「ベイジョ・マルチード」も取り上げる。ソロ演奏曲とともに、ヴォーカル入りは11曲中5つ。ドラム(もちろん、藤本敦夫〜2001年5月3日、2006年10月25日、2009年11年19日、2010年9月14日、2012年9月5日〜が叩く)が入る曲が3曲で、自らトラック・メイキングした曲も一つある。また、トランパッターの類家心平(2011年5月5日、2011年7月31日、2014年6月13日、2014年9月25日、2014年12月28日、2015年5月20日、2017年6月21日、2017年9月2日、2018年1月19日、2018年5月13日、2018年7月7日、2019年3月29日、2020年1月19日)とかつて音楽学校で教えていたときの教え子だった菊地成孔((2001年9月22日、2002年1月5日、2002年3月17日、2002年11月30日、2003年6月28日、2004年2月6日、2004年7月6日、2004年8月12日、2004年10月10日、2005年6月9日、2006年1月21日、2007年11月7日、2009年7月19日、2010年3月26日、2011年4月22日、2011年5月5日、2011年7月31日、2013年3月26日、2013年7月27日、2014年2月20日、2014年4月3日、2014年9月7日、2016年10月28日、2017年9月2日、2018年5月13日、2018年7月7日、2020年11月14日、2020年11月18日)がアルト・サックスで入る曲も1つづつ。そこで、二人はそれぞれに漂う演奏を入れている。
と書くと、とてもバラバラな要素が入り込んだ内容のようだが、アルバムを規定するのは、アンビエンスと間にも留意された、音の並びが徹底的に吟味されたピアノの演奏。プラスして、流れる感覚を持つ淡いヴォーカルが前に出る曲が広がりを持たせ、他の楽器音やコーラスもときに曲趣を高めるために入るというわけで、統一感はなかなかにあり。その総体はとても詩情と余韻と棘を抱えた、ジャズ的な衝動を根底に持つコンテンポラリー・ミュージックなのだと合点が行く。
基本、ゆったりと実演は進む。だが、周りには様々な音が舞っていて、それらを橋本は彼女でしかない感性で拾い上げ、それを体内で咀嚼したうえで指先からピアノに伝え、そのボディからメロディや情緒をこぼれ出させているのだというのが実演に触れると良く分かる。それはとっても甘美で優美な作業でもあるのだが、一方ではとんでもない冒険や不埒な“窓”も抱えているわけで、それが一筋縄ではいかない快感、聞く者の音楽探究心をノックする。絶妙、なり。
トニーニョ・オルタ曲では、アルバムと同じように橋本眞由己(2009年11月19日、2010年9月14日、2013年2月22日)が加わり、得難くも確かなコーラスを加える。やはり、実力者だな。橋本眞由己は現在ヴォーカルとピアノを弾きつつ、他者を交えたデュオでライヴをやっているそう。また、先に触れた打ち込み曲の「good girl」ではそのトラックを流しながら、橋本は歌う。さらりとした軋轢を抱えたそれはいい感じで、そちらの方向をも少し求めるのもありではないかとも思えた。
▶︎過去の、橋本一子
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-5.htm
http://43142.diarynote.jp/200611020833520000/
http://43142.diarynote.jp/200911241550342013/
http://43142.diarynote.jp/201009231547465891/
http://43142.diarynote.jp/201209181238434594/
http://43142.diarynote.jp/201302281046506238/
https://43142.diarynote.jp/201803091807511062/
▶︎過去の、藤本敦夫
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-5.htm
http://43142.diarynote.jp/200611020833520000/
http://43142.diarynote.jp/200911241550342013/
http://43142.diarynote.jp/201009231547465891/
http://43142.diarynote.jp/201209181238434594/
▶過去の、菊地成孔
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-9.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-1.ht
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm
http://43142.diarynote.jp/200402061359140000/
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http://43142.diarynote.jp/?day=20110422
http://43142.diarynote.jp/?day=20110505
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http://43142.diarynote.jp/201805150750157494/
https://43142.diarynote.jp/201807080932266789/
https://43142.diarynote.jp/202011150954203089/
https://43142.diarynote.jp/202011191142195242/
▶︎過去の、橋本眞由己
https://43142.diarynote.jp/200911241550342013/
https://43142.diarynote.jp/201009231547465891/
https://43142.diarynote.jp/201302281046506238/
<今日の、もろもろ>
今、お盆であるのか。昨日から、ワワワというほど涼しい。エアコンを使わないどころか、夜はしっかり窓を閉め、ちゃんと長袖のパジャマを着て寝ている。雨天につき傘をさしながら会場に向かうなか、今日のJリーグの試合は会場によってはずぶ濡れになって観戦している人もいるのかとふと思う。今は、雨が大嫌い。濡れるのがいやでボロ目の靴を履くなど、格好に気を遣う気持ちが半減しちゃう。
初めて行くFJ‘sは一階にある路面店で、中目黒駅から向かった。駅から近くはないが、駒沢通り沿いにあって分かりやすい。もともとピアニスト/キーボーディストの故深町純さんが開いたお店で、もうだいぶ昔からあるはずだ。フルコンではないもののちゃんとグランド・ピアノ(ヤマハだった)が置いてあるのは当然として、結構広めで、雰囲気ある作りで感心する。入店して、思わずきょろきょろしちゃいました。中目黒駅周辺、閉まっている店はしまっているが、やっている飲み屋は絶賛開店。どの店も上々の入りのように見えた。
その『view』は約半数がオリジナル曲で、「ジャイアント・ステップス」や「ダニー・ボーイ」など4曲がジャズ・スタンダードで、さらにザ・ビートルズの「ブラック・バード」やトニーニョ・オルタの「ベイジョ・マルチード」も取り上げる。ソロ演奏曲とともに、ヴォーカル入りは11曲中5つ。ドラム(もちろん、藤本敦夫〜2001年5月3日、2006年10月25日、2009年11年19日、2010年9月14日、2012年9月5日〜が叩く)が入る曲が3曲で、自らトラック・メイキングした曲も一つある。また、トランパッターの類家心平(2011年5月5日、2011年7月31日、2014年6月13日、2014年9月25日、2014年12月28日、2015年5月20日、2017年6月21日、2017年9月2日、2018年1月19日、2018年5月13日、2018年7月7日、2019年3月29日、2020年1月19日)とかつて音楽学校で教えていたときの教え子だった菊地成孔((2001年9月22日、2002年1月5日、2002年3月17日、2002年11月30日、2003年6月28日、2004年2月6日、2004年7月6日、2004年8月12日、2004年10月10日、2005年6月9日、2006年1月21日、2007年11月7日、2009年7月19日、2010年3月26日、2011年4月22日、2011年5月5日、2011年7月31日、2013年3月26日、2013年7月27日、2014年2月20日、2014年4月3日、2014年9月7日、2016年10月28日、2017年9月2日、2018年5月13日、2018年7月7日、2020年11月14日、2020年11月18日)がアルト・サックスで入る曲も1つづつ。そこで、二人はそれぞれに漂う演奏を入れている。
と書くと、とてもバラバラな要素が入り込んだ内容のようだが、アルバムを規定するのは、アンビエンスと間にも留意された、音の並びが徹底的に吟味されたピアノの演奏。プラスして、流れる感覚を持つ淡いヴォーカルが前に出る曲が広がりを持たせ、他の楽器音やコーラスもときに曲趣を高めるために入るというわけで、統一感はなかなかにあり。その総体はとても詩情と余韻と棘を抱えた、ジャズ的な衝動を根底に持つコンテンポラリー・ミュージックなのだと合点が行く。
基本、ゆったりと実演は進む。だが、周りには様々な音が舞っていて、それらを橋本は彼女でしかない感性で拾い上げ、それを体内で咀嚼したうえで指先からピアノに伝え、そのボディからメロディや情緒をこぼれ出させているのだというのが実演に触れると良く分かる。それはとっても甘美で優美な作業でもあるのだが、一方ではとんでもない冒険や不埒な“窓”も抱えているわけで、それが一筋縄ではいかない快感、聞く者の音楽探究心をノックする。絶妙、なり。
トニーニョ・オルタ曲では、アルバムと同じように橋本眞由己(2009年11月19日、2010年9月14日、2013年2月22日)が加わり、得難くも確かなコーラスを加える。やはり、実力者だな。橋本眞由己は現在ヴォーカルとピアノを弾きつつ、他者を交えたデュオでライヴをやっているそう。また、先に触れた打ち込み曲の「good girl」ではそのトラックを流しながら、橋本は歌う。さらりとした軋轢を抱えたそれはいい感じで、そちらの方向をも少し求めるのもありではないかとも思えた。
▶︎過去の、橋本一子
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-5.htm
http://43142.diarynote.jp/200611020833520000/
http://43142.diarynote.jp/200911241550342013/
http://43142.diarynote.jp/201009231547465891/
http://43142.diarynote.jp/201209181238434594/
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▶︎過去の、藤本敦夫
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▶過去の、菊地成孔
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▶︎過去の、橋本眞由己
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https://43142.diarynote.jp/201302281046506238/
<今日の、もろもろ>
今、お盆であるのか。昨日から、ワワワというほど涼しい。エアコンを使わないどころか、夜はしっかり窓を閉め、ちゃんと長袖のパジャマを着て寝ている。雨天につき傘をさしながら会場に向かうなか、今日のJリーグの試合は会場によってはずぶ濡れになって観戦している人もいるのかとふと思う。今は、雨が大嫌い。濡れるのがいやでボロ目の靴を履くなど、格好に気を遣う気持ちが半減しちゃう。
初めて行くFJ‘sは一階にある路面店で、中目黒駅から向かった。駅から近くはないが、駒沢通り沿いにあって分かりやすい。もともとピアニスト/キーボーディストの故深町純さんが開いたお店で、もうだいぶ昔からあるはずだ。フルコンではないもののちゃんとグランド・ピアノ(ヤマハだった)が置いてあるのは当然として、結構広めで、雰囲気ある作りで感心する。入店して、思わずきょろきょろしちゃいました。中目黒駅周辺、閉まっている店はしまっているが、やっている飲み屋は絶賛開店。どの店も上々の入りのように見えた。
映画「夢のアンデス」
2021年8月18日 音楽 渋谷・映画美学校試写室で、2019年チリ/フランス映画「夢のアンデス」(原題:The Cordillera of Dreams)を見る。ドキュメンタリー作品で、脚本を書き監督をしているのはパトリシオ・グスマン。1941年生まれで、マドリードの映画学校で学んでいたりもする彼は、1973年の裏に米国ありの軍クーデターを境にパリに居住し、<私とチリ>を語る映画をいろいろ撮ってきているようだ。そして、これはそうした流れにある3部作の3作目になるよう。原表題は英語だが、使われる言葉はスペイン語だ。
冒頭のほう首都のサンチアゴ(すごい都会。とても繁栄しているように見える)と、(その奥に広がる)アンデス山脈の雄大な空撮風景が映し出される。ナレーションは監督自身がしているようで、アンデス山脈こそはチリ悠久の歴史を背負う母なる事象であることが語られる。その自然を活用した彫刻家たちの発言や作業も紹介される。当面、そうした流れが続き、おおこれはものすごく含みを残した、原点回帰的視点を持つチリ讃歌作なのかと思いきや、途中から件のクーデターおよび、そこから生まれた米国傀儡政権の恐怖政治の様を語る部分が出てきて、手触りが変わる。同国の作家、カメラマン、火山学者などの発言も紹介され、とくに1980年代以降サンチアゴでの為政者側と市民の衝突を収めたそのカメラマンの映像も使われる。
ぼくはチリというとあまりに細長い国土の在りように興味が向き、そこにある地域性の違いはどーなっているのだろうとすぐに思ってしまうが、なんとチリは1962年にサッカーのワールド・カップを行っていたのか。会場の一つとなったサンチアゴの大きなスタジアムにはクーデター時にたくさんの逮捕者がそこに幽閉されたことも伝え、またクーデターの際にビクトル・ハラが惨殺されたと聞いて泣いてしまったという女性の発言も紹介される(その方の肩書きは見逃した)。そして、そうした生々しい軋轢を扱った末に、再び映像はアンデスの空撮映像に戻っていく。何となく、ホっとできる流れであり、技ありだな。
しかし、この時期にこんな内容に触れると、米国“ならず者”政権の狼藉で数奇な運命を辿っているアフガニスタンの今に思いは向いてしまう。ああ。
<今日の、アフター>
緊急事態宣言につきずっとバーを閉めている店主を呼び出し、15時前から店を開けてもらい、貸切で飲む。わあ、家では基本飲みたくならない人間なので、半月以上ぶりの飲酒だぁ。くいくいくい。ぐいぐいぐい。お酒はおいしいなあ。お酒の場は楽しいなあ。
冒頭のほう首都のサンチアゴ(すごい都会。とても繁栄しているように見える)と、(その奥に広がる)アンデス山脈の雄大な空撮風景が映し出される。ナレーションは監督自身がしているようで、アンデス山脈こそはチリ悠久の歴史を背負う母なる事象であることが語られる。その自然を活用した彫刻家たちの発言や作業も紹介される。当面、そうした流れが続き、おおこれはものすごく含みを残した、原点回帰的視点を持つチリ讃歌作なのかと思いきや、途中から件のクーデターおよび、そこから生まれた米国傀儡政権の恐怖政治の様を語る部分が出てきて、手触りが変わる。同国の作家、カメラマン、火山学者などの発言も紹介され、とくに1980年代以降サンチアゴでの為政者側と市民の衝突を収めたそのカメラマンの映像も使われる。
ぼくはチリというとあまりに細長い国土の在りように興味が向き、そこにある地域性の違いはどーなっているのだろうとすぐに思ってしまうが、なんとチリは1962年にサッカーのワールド・カップを行っていたのか。会場の一つとなったサンチアゴの大きなスタジアムにはクーデター時にたくさんの逮捕者がそこに幽閉されたことも伝え、またクーデターの際にビクトル・ハラが惨殺されたと聞いて泣いてしまったという女性の発言も紹介される(その方の肩書きは見逃した)。そして、そうした生々しい軋轢を扱った末に、再び映像はアンデスの空撮映像に戻っていく。何となく、ホっとできる流れであり、技ありだな。
しかし、この時期にこんな内容に触れると、米国“ならず者”政権の狼藉で数奇な運命を辿っているアフガニスタンの今に思いは向いてしまう。ああ。
<今日の、アフター>
緊急事態宣言につきずっとバーを閉めている店主を呼び出し、15時前から店を開けてもらい、貸切で飲む。わあ、家では基本飲みたくならない人間なので、半月以上ぶりの飲酒だぁ。くいくいくい。ぐいぐいぐい。お酒はおいしいなあ。お酒の場は楽しいなあ。
完全版マハーバーラタ~愛の章
2021年8月20日 音楽 下町兄弟(2005年12月8日、2006年12月21日、2014年10月9日、2015年12月15日、2017年1月30日)が音楽を共同担当する演劇/パフォーマンスを見に行く。
小池博史(2005年12月8日、2006年12月21日、2014年10月9日、2015年12月15日、2017年1月30日)の作/演出/振付による出し物「マハーバーラタ」の総集編的内容を持つ出し物で4日間にわたり、<愛の章>なる前編と<嵐の章>なる後編の二つが2回づつ披露される。本日は初日で、<愛の章>披露の日。当日券を求める人がかなりな列になっていた。
その原典となるのは、世界三大叙事詩の一つと言われているそうなインドの「マハーバーラタ」。それ、壮大な神話みたいなものなのかな? ときにステージ横に、ストーリー文言が映し出させる場合もあるが、まったくもって雲を掴むようなもので分からん。だが、それでいい。我々はあらゆる手を尽くし、吟味された刺激的なマテリアルを提供するので、受け手はそれぞれに感じる部分を拾い上げていただければという姿勢があるような……。
ある種の骨組みに則って、人と人、人々の閃きや創造性や気持ちが綱引きしあう。演技、踊り、肉声、音楽、オブジェクト、舞台効果などが、いろいろな試行のもと即興性を重視する形でまとめ上げられ、すごい情報量を伴って広げられていると感じる。けっこう、リハをしながら、会場の特性なども鑑みられ、臨機応変に決まっていたのではとも思わせられ、その積み重ねに気が遠くなる。なるほどへえとなるのは、出演者/スタッフに他国の方々がいろいろ関わっていること。以下に、案内メールの記載からコピー/ペーストする。外国人の名前にナカグロがないのはもとの記載がそうであるからだ。
+出演:リースイキョン(マレーシア)、小谷野哲郎(日本)、パムンカスダナン(インドネシア)、シンムーンムーン(インド)、カンパロンナロオン(タイ)、川満香多(沖縄、日本)、プルノモスルヨ(インドネシア)、土屋悠太郎(日本)シンヌンヌグロホヘルマワン(インドネシア)、福島梓(日本)、ウェオダオシリスーク(タイ)今井尋也(日本)、川野誠一(日本)
+演奏:下町兄弟(日本)、細川拓実(沖縄、日本)、今井尋也(日本)
+美術 栗林隆(日本)、ティモテアス アンガワン クスノ(インドネシア)、フィロス カーン(インド)、ARS マネジメント(インドネシア)
+衣装 浜井弘治(日本)、アティンナ リズキアナ (インドネシア)
+音楽 アリエンドライェンヌ(インドネシア)、チャンドランベヤトゥンマル(インド)、藤井健介(日本)、下町兄弟(日本)、ペニチャンドラリーニ(インドネシア)
+映像 飯名尚人(日本)
*アニメーション 青山健一(日本)
*仮面:イ ワヤン タングー(インドネシア)、イ マデ スティアルカ(インドネシア)
+小道具:森聖一郎(日本)、五十嵐彩乃(日本)
+宣伝美術 葛西薫(日本)、安藤隆(日本)、伊比由理恵(日本)、安達祐貴(日本)
部分的アジア的価値観や創造性の溶解と相乗……なーんて。なるほど、役者のセリフには日本語以外の言葉(おそらく演じ手の母国語だろう)も用いられ、それは多様性のしなやかな認知を、そしてその先にある協調〜一緒に重なり合う素敵を接するものに与える。それを認めて、悪いキブンになるはずもない。
休憩を別にしての、3時間ちょいのスペクタクル。さて、<嵐の章>はもっと動的なものになるのだろうか。
▶過去の、小池博史
http://43142.diarynote.jp/?day=20051208
http://43142.diarynote.jp/200612270253390000/
http://43142.diarynote.jp/201410160819402945/
http://43142.diarynote.jp/?day=20151215
https://43142.diarynote.jp/201701310904097357/
▶過去の、下町兄弟
http://43142.diarynote.jp/?day=20051208
http://43142.diarynote.jp/200612270253390000/
http://43142.diarynote.jp/201410160819402945/
http://43142.diarynote.jp/?day=20151215
https://43142.diarynote.jp/201701310904097357
<今日の、いろいろ>
会場に行く道すがら、緑色の好きな売都婆のポスターが何気に目に付く。少なくてもぼくの地元では一切見られない光景であり、気持ち悪い。中野って、都知事のお膝元なの? ちょうどオリンピックとパラリンピックの間に行う日程が取られているこの公演は文化庁他の援助を受けるとともに、東京五輪の関連プログラムにもなっているよう。ゆえに、本来は昨年に公開されることになっていた。中野区関連施設の一つである会場は横に長いステージを持つ、1000人以上入れるだろうなかなか立派なホールだった。クラシック用途も考えているようで、オーケストラ・ピット区画もあり、音楽家たちはそこに位置してヴィヴィッドに音を出していた。
感染者数5000人を超える日が続くなか、かつてだったら出ないよなあと思いつつ外出する。行き帰り、少し電車は空いているかと思う。座って行けたから。でも、並走していた中央線快速は結構混んでいた。しかし、今いろいろ公演が中止になるなか、よく開催したな。まあ、海外からも人を大掛かりに呼んでおり、引くも地獄ではあるだろうけど。HPにはチケットのキャンセル対応の項目が設けられている。6月からリハーサルが続けられてきたようだが、一人感染者が出たらアウトなわけで運営/スタッフ、出演者たちの対策思慮はそうとうなものではないかとも思え、一瞬アタマがくらくらした。来週はぼくのスペシャル・デイもあるが、見たいと思っていた公演の中止連絡も来たし、ほぼ在宅おやじになるつもり。
小池博史(2005年12月8日、2006年12月21日、2014年10月9日、2015年12月15日、2017年1月30日)の作/演出/振付による出し物「マハーバーラタ」の総集編的内容を持つ出し物で4日間にわたり、<愛の章>なる前編と<嵐の章>なる後編の二つが2回づつ披露される。本日は初日で、<愛の章>披露の日。当日券を求める人がかなりな列になっていた。
その原典となるのは、世界三大叙事詩の一つと言われているそうなインドの「マハーバーラタ」。それ、壮大な神話みたいなものなのかな? ときにステージ横に、ストーリー文言が映し出させる場合もあるが、まったくもって雲を掴むようなもので分からん。だが、それでいい。我々はあらゆる手を尽くし、吟味された刺激的なマテリアルを提供するので、受け手はそれぞれに感じる部分を拾い上げていただければという姿勢があるような……。
ある種の骨組みに則って、人と人、人々の閃きや創造性や気持ちが綱引きしあう。演技、踊り、肉声、音楽、オブジェクト、舞台効果などが、いろいろな試行のもと即興性を重視する形でまとめ上げられ、すごい情報量を伴って広げられていると感じる。けっこう、リハをしながら、会場の特性なども鑑みられ、臨機応変に決まっていたのではとも思わせられ、その積み重ねに気が遠くなる。なるほどへえとなるのは、出演者/スタッフに他国の方々がいろいろ関わっていること。以下に、案内メールの記載からコピー/ペーストする。外国人の名前にナカグロがないのはもとの記載がそうであるからだ。
+出演:リースイキョン(マレーシア)、小谷野哲郎(日本)、パムンカスダナン(インドネシア)、シンムーンムーン(インド)、カンパロンナロオン(タイ)、川満香多(沖縄、日本)、プルノモスルヨ(インドネシア)、土屋悠太郎(日本)シンヌンヌグロホヘルマワン(インドネシア)、福島梓(日本)、ウェオダオシリスーク(タイ)今井尋也(日本)、川野誠一(日本)
+演奏:下町兄弟(日本)、細川拓実(沖縄、日本)、今井尋也(日本)
+美術 栗林隆(日本)、ティモテアス アンガワン クスノ(インドネシア)、フィロス カーン(インド)、ARS マネジメント(インドネシア)
+衣装 浜井弘治(日本)、アティンナ リズキアナ (インドネシア)
+音楽 アリエンドライェンヌ(インドネシア)、チャンドランベヤトゥンマル(インド)、藤井健介(日本)、下町兄弟(日本)、ペニチャンドラリーニ(インドネシア)
+映像 飯名尚人(日本)
*アニメーション 青山健一(日本)
*仮面:イ ワヤン タングー(インドネシア)、イ マデ スティアルカ(インドネシア)
+小道具:森聖一郎(日本)、五十嵐彩乃(日本)
+宣伝美術 葛西薫(日本)、安藤隆(日本)、伊比由理恵(日本)、安達祐貴(日本)
部分的アジア的価値観や創造性の溶解と相乗……なーんて。なるほど、役者のセリフには日本語以外の言葉(おそらく演じ手の母国語だろう)も用いられ、それは多様性のしなやかな認知を、そしてその先にある協調〜一緒に重なり合う素敵を接するものに与える。それを認めて、悪いキブンになるはずもない。
休憩を別にしての、3時間ちょいのスペクタクル。さて、<嵐の章>はもっと動的なものになるのだろうか。
▶過去の、小池博史
http://43142.diarynote.jp/?day=20051208
http://43142.diarynote.jp/200612270253390000/
http://43142.diarynote.jp/201410160819402945/
http://43142.diarynote.jp/?day=20151215
https://43142.diarynote.jp/201701310904097357/
▶過去の、下町兄弟
http://43142.diarynote.jp/?day=20051208
http://43142.diarynote.jp/200612270253390000/
http://43142.diarynote.jp/201410160819402945/
http://43142.diarynote.jp/?day=20151215
https://43142.diarynote.jp/201701310904097357
<今日の、いろいろ>
会場に行く道すがら、緑色の好きな売都婆のポスターが何気に目に付く。少なくてもぼくの地元では一切見られない光景であり、気持ち悪い。中野って、都知事のお膝元なの? ちょうどオリンピックとパラリンピックの間に行う日程が取られているこの公演は文化庁他の援助を受けるとともに、東京五輪の関連プログラムにもなっているよう。ゆえに、本来は昨年に公開されることになっていた。中野区関連施設の一つである会場は横に長いステージを持つ、1000人以上入れるだろうなかなか立派なホールだった。クラシック用途も考えているようで、オーケストラ・ピット区画もあり、音楽家たちはそこに位置してヴィヴィッドに音を出していた。
感染者数5000人を超える日が続くなか、かつてだったら出ないよなあと思いつつ外出する。行き帰り、少し電車は空いているかと思う。座って行けたから。でも、並走していた中央線快速は結構混んでいた。しかし、今いろいろ公演が中止になるなか、よく開催したな。まあ、海外からも人を大掛かりに呼んでおり、引くも地獄ではあるだろうけど。HPにはチケットのキャンセル対応の項目が設けられている。6月からリハーサルが続けられてきたようだが、一人感染者が出たらアウトなわけで運営/スタッフ、出演者たちの対策思慮はそうとうなものではないかとも思え、一瞬アタマがくらくらした。来週はぼくのスペシャル・デイもあるが、見たいと思っていた公演の中止連絡も来たし、ほぼ在宅おやじになるつもり。
テキサスとニューヨーク。地域性と結びつく自己表現を悠々とやってきた二人の米国人アーティストの訃報が届いている。と言っておいてナンだが、その属性どっぷりではない広がりも魅力的な人たちであったはずだ。
テキサス・ブルースのギター・マナー……。というと、ワイルドかつどこか諧謔を抱え、ジャジーな気配りもできると、乱暴に要約できるか。テキサス州ワスコム生まれであるギタリスト/シンガーのロイ・ゲインズは6歳から同州ヒューストンに住み、ローティーンの頃の最大のアイドルはT・ボーン・ウォーカーだった。二十歳になるころにはロサンゼルスに移動したという記載も認められ、1950年代中期には自己アルバムをリリースしてもいるようだ。
ロサンゼルスではブルージーなシンガーのサポート・ミュージシャンの需要も得たが、そうしたなか一番著名であったのがレイ・チャールズであったろう。また、ジ・エヴァリー・ブラザーズやザ・スプリームスやスティーヴィー・ワンダー(2005年11月3日、2010年8月8日、2012年3月5日)など多彩なセッション・ワークにものぞみ、クインシー・ジョーンズ(2013年8月1日)のサウンドトラック『カラー・パーププル』(ワーナー・ブラザーズ、1985年)にも彼は参加している。
そうした折に出された、テキサス系ブルース・マン姿勢と視野の広いメロウネスを表出した『Gainelining』(Red Lightnin’,1982 年)はP-ヴァインからも大々的にリリースされて、一番知られる彼のアルバムか。彼は約10作のリーダー作を出した。東京での、吾妻光良(2007年7月22日、2010年5月29日、2010年11月20日、2016年10月22日、2019年7月31日)との双頭作もあり。なお、ファンキーだったりもする英国録音の『Gainelining』は“ウィズ・クルセイダーズ・クリュー”との記載もジャケット・カヴァーに入っていて、それはザ・クルセイダーズ(2005年3月8日)関連者をサポート陣に迎えていた。ゲインズは、ザ・ジャズ・クルセイダーズの『Freedom Sound』(Pacific Jazz,1961年)に参加している。
ロイの兄はブルース・ギタリスト/テナー・サックス奏者のグレイディ・ゲインズだが、彼も今年早々にお亡くなりになっていることを知った。1934年5月14日〜2021年1月29日。ヒューストン拠点の名レーベルであるピーコックのハウス・ミュージシャンになり業界内基盤を固め、1950年代中期以降、クラレンス“ゲイトマウス”ブラウン(2004年9月18日)、リトル・リチャード、ジャッキー・ウィルソン、サム・クックら有名人をサポートしている。そんな彼は1980年代前半は音楽から離れてホテル・チェーンの配送マネージャーとて働いたが、しばらくして戻り、それ以降ブラック・トップ他からリーダー作もリリースするようになった。
▶過去の、スティーヴィー・ワンダー
http://43142.diarynote.jp/200511130015240000/
http://43142.diarynote.jp/201008261618276388/
http://43142.diarynote.jp/201203062006429595/
▶︎過去の、クインシー・ジョーンズ
http://43142.diarynote.jp/201308091149599475/
▶︎過去の、吾妻光良
http://43142.diarynote.jp/200707232253550000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20100529
http://43142.diarynote.jp/201011250546335197/
https://43142.diarynote.jp/201610241405267224/
https://43142.diarynote.jp/201908011004351383/
▶過去の、ザ・クルセイダーズ
http://43142.diarynote.jp/200503120546520000/
▶︎過去の、クラレンス“ゲイトマウス”ブラウン
https://43142.diarynote.jp/200410121001170000/
ニューヨーク・サルサの名ピアニスト/プロデューサーであるラリー・ハーロウ(1999年8月28日、2014年1月25日、2014年1月28日、2015年1月15日、2016年3月30日)も亡くなった。腎臓を患っており、心不全が死因であるという。彼はラティーノではなく、ユダヤ系。だが、周りの環境の影響やキューバで修行したりもし、ニューヨークの一側面を活写する誉高いビート・ミュージックの作り手として堂々君臨した。また、非ラティーノである立ち位置はより自由な視点でラテンにあたることを可能とし、それも彼なりの魅力的な創造性を生んだろう。ファニア1973年発『Hommy: A Latin Opera 』はザ・フー(2008年11月17日)のロック・オペラ作『トミー』(トラック、1969年)にインスパイアされた内容を持っていた。
1960年代中期から、NY サルサの名レーベル“ファニア”から続々とアルバムをリリース。同社の興隆にも大きな役割を果たした。ファニアがなくなった1980年代中期以降はアルバム・リリースが減じた感もあるが、ソニー他からアルバムをリリーし、エキサイティングさと娯楽性を併せ持つ力ある来日ギグの模様も忘れがたい。エレヴェイターが急上昇/急降下しているような感覚を与えるピアノの決まりソロも忘れがたいなあ。
▶過去の、ラリー・ハーロウ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティヴァル
http://43142.diarynote.jp/201401271737069409/
http://43142.diarynote.jp/201401291105093975/
http://43142.diarynote.jp/201501161004061742/
http://43142.diarynote.jp/201603310813244084/
▶︎過去の、ザ・フー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm ジョン・エントウィッスル 2001年11月9日
https://43142.diarynote.jp/200810010211566772/ 映画
https://43142.diarynote.jp/200811201240456237/
<もう一つの、訃報>
先日の、西独サッカー選手のゲルト・ミュラーの悲報には自分でもびっくりするほど悲しみを覚えた。1945年11月3日〜2021年8月15日。いろんな見方があると思うが、彼はゴール・ゲッターという観点において今も1、2を争う存在ではないのか。1970年代前半、サッカー部に入りアタッカーのポジションを得ていたぼくにとっては、マンチェスター・ユナイテッド/北アイルランド代表のジョージ・ベストと並ぶ存在だった。格好いいのがベストで、格好悪いのがミュラー。ずっと華やスキャンダルを抱えていたベストの方が好きだったのは間違いなく、今回の死に際してのぼくの心持ちには自分でも少しアラっとなっているわけだ。うまいかどうか不明な、どさくさゴーラー。という世評もあった。だが、ミュラーは意外にしなやかな部分もあり、技ありゴールも決めていたはずだ。なんによ、常軌を逸するゴールに対する嗅覚を持つ、生粋のストライカーだった。引退後は、ベストもミュラーもアル中になったという共通項を持つ。いや、ベストは引退前からそうであったか。ミュラーはアルコール中毒からは立ち直ったが、ここ5年ちょいはアルツハイマーにかかり、彼が所属したバイエルン・ミュンヘンが面倒を見ていたという。
テキサス・ブルースのギター・マナー……。というと、ワイルドかつどこか諧謔を抱え、ジャジーな気配りもできると、乱暴に要約できるか。テキサス州ワスコム生まれであるギタリスト/シンガーのロイ・ゲインズは6歳から同州ヒューストンに住み、ローティーンの頃の最大のアイドルはT・ボーン・ウォーカーだった。二十歳になるころにはロサンゼルスに移動したという記載も認められ、1950年代中期には自己アルバムをリリースしてもいるようだ。
ロサンゼルスではブルージーなシンガーのサポート・ミュージシャンの需要も得たが、そうしたなか一番著名であったのがレイ・チャールズであったろう。また、ジ・エヴァリー・ブラザーズやザ・スプリームスやスティーヴィー・ワンダー(2005年11月3日、2010年8月8日、2012年3月5日)など多彩なセッション・ワークにものぞみ、クインシー・ジョーンズ(2013年8月1日)のサウンドトラック『カラー・パーププル』(ワーナー・ブラザーズ、1985年)にも彼は参加している。
そうした折に出された、テキサス系ブルース・マン姿勢と視野の広いメロウネスを表出した『Gainelining』(Red Lightnin’,1982 年)はP-ヴァインからも大々的にリリースされて、一番知られる彼のアルバムか。彼は約10作のリーダー作を出した。東京での、吾妻光良(2007年7月22日、2010年5月29日、2010年11月20日、2016年10月22日、2019年7月31日)との双頭作もあり。なお、ファンキーだったりもする英国録音の『Gainelining』は“ウィズ・クルセイダーズ・クリュー”との記載もジャケット・カヴァーに入っていて、それはザ・クルセイダーズ(2005年3月8日)関連者をサポート陣に迎えていた。ゲインズは、ザ・ジャズ・クルセイダーズの『Freedom Sound』(Pacific Jazz,1961年)に参加している。
ロイの兄はブルース・ギタリスト/テナー・サックス奏者のグレイディ・ゲインズだが、彼も今年早々にお亡くなりになっていることを知った。1934年5月14日〜2021年1月29日。ヒューストン拠点の名レーベルであるピーコックのハウス・ミュージシャンになり業界内基盤を固め、1950年代中期以降、クラレンス“ゲイトマウス”ブラウン(2004年9月18日)、リトル・リチャード、ジャッキー・ウィルソン、サム・クックら有名人をサポートしている。そんな彼は1980年代前半は音楽から離れてホテル・チェーンの配送マネージャーとて働いたが、しばらくして戻り、それ以降ブラック・トップ他からリーダー作もリリースするようになった。
▶過去の、スティーヴィー・ワンダー
http://43142.diarynote.jp/200511130015240000/
http://43142.diarynote.jp/201008261618276388/
http://43142.diarynote.jp/201203062006429595/
▶︎過去の、クインシー・ジョーンズ
http://43142.diarynote.jp/201308091149599475/
▶︎過去の、吾妻光良
http://43142.diarynote.jp/200707232253550000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20100529
http://43142.diarynote.jp/201011250546335197/
https://43142.diarynote.jp/201610241405267224/
https://43142.diarynote.jp/201908011004351383/
▶過去の、ザ・クルセイダーズ
http://43142.diarynote.jp/200503120546520000/
▶︎過去の、クラレンス“ゲイトマウス”ブラウン
https://43142.diarynote.jp/200410121001170000/
ニューヨーク・サルサの名ピアニスト/プロデューサーであるラリー・ハーロウ(1999年8月28日、2014年1月25日、2014年1月28日、2015年1月15日、2016年3月30日)も亡くなった。腎臓を患っており、心不全が死因であるという。彼はラティーノではなく、ユダヤ系。だが、周りの環境の影響やキューバで修行したりもし、ニューヨークの一側面を活写する誉高いビート・ミュージックの作り手として堂々君臨した。また、非ラティーノである立ち位置はより自由な視点でラテンにあたることを可能とし、それも彼なりの魅力的な創造性を生んだろう。ファニア1973年発『Hommy: A Latin Opera 』はザ・フー(2008年11月17日)のロック・オペラ作『トミー』(トラック、1969年)にインスパイアされた内容を持っていた。
1960年代中期から、NY サルサの名レーベル“ファニア”から続々とアルバムをリリース。同社の興隆にも大きな役割を果たした。ファニアがなくなった1980年代中期以降はアルバム・リリースが減じた感もあるが、ソニー他からアルバムをリリーし、エキサイティングさと娯楽性を併せ持つ力ある来日ギグの模様も忘れがたい。エレヴェイターが急上昇/急降下しているような感覚を与えるピアノの決まりソロも忘れがたいなあ。
▶過去の、ラリー・ハーロウ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティヴァル
http://43142.diarynote.jp/201401271737069409/
http://43142.diarynote.jp/201401291105093975/
http://43142.diarynote.jp/201501161004061742/
http://43142.diarynote.jp/201603310813244084/
▶︎過去の、ザ・フー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm ジョン・エントウィッスル 2001年11月9日
https://43142.diarynote.jp/200810010211566772/ 映画
https://43142.diarynote.jp/200811201240456237/
<もう一つの、訃報>
先日の、西独サッカー選手のゲルト・ミュラーの悲報には自分でもびっくりするほど悲しみを覚えた。1945年11月3日〜2021年8月15日。いろんな見方があると思うが、彼はゴール・ゲッターという観点において今も1、2を争う存在ではないのか。1970年代前半、サッカー部に入りアタッカーのポジションを得ていたぼくにとっては、マンチェスター・ユナイテッド/北アイルランド代表のジョージ・ベストと並ぶ存在だった。格好いいのがベストで、格好悪いのがミュラー。ずっと華やスキャンダルを抱えていたベストの方が好きだったのは間違いなく、今回の死に際してのぼくの心持ちには自分でも少しアラっとなっているわけだ。うまいかどうか不明な、どさくさゴーラー。という世評もあった。だが、ミュラーは意外にしなやかな部分もあり、技ありゴールも決めていたはずだ。なんによ、常軌を逸するゴールに対する嗅覚を持つ、生粋のストライカーだった。引退後は、ベストもミュラーもアル中になったという共通項を持つ。いや、ベストは引退前からそうであったか。ミュラーはアルコール中毒からは立ち直ったが、ここ5年ちょいはアルツハイマーにかかり、彼が所属したバイエルン・ミュンヘンが面倒を見ていたという。
R.I.P.チャーリー・ワッツ(1941年6月2日〜2021年8月24日)
2021年8月25日 音楽 ザ・ローリング・ストーンズ(2003年3月15日)のサウンドを支え続けてきたドラマーである、チャーリー・ワッツ(2001年10月31日、2003年3月15日)の訃報が届いた。享年80、ロンドンの病院で亡くなったようだ。健康のため(喉頭癌と伝えられたこともあったか)、ツアーには参加せずというニュースは何度も届いており、それも高齢ゆえ致し方ないのかと思っていたが。
彼には、対面で一度インタヴューする機会を得た。1990年代上半期だったか。自己バンドを率いて来日した際のこと。そのときの回答を大雑把に要約すると、<オレはジャズ・ドラマー。ストーンズもジャズだと思って叩いている>。彼は西海岸プログ・ジャズのドラマー/バンド・リーダーであったチコ・ハミルトンのことが大好きだったが、あのときはけっこうスウィング・ジャズにも言及したような。実際に会ったワッツさんは、実年齢よりかなり上に感じた。温厚寡黙な人ながらある種の含みを接する者に与え、やはり正の変人臭はどこか出ていたと思う。
ビル・ワイマンが抜けたのち、ダリル・ジョーンズ(2003年3月13日、2003年3月15日、2013年3月8日、2017年4月8日)がその後を埋めた。そして、キース・リチャーズ流れで、ワイマンの後釜としてスティーヴ・ジョーダン(2005年11月13日、2006年11月20日、2006年12月22日、2010年10月26日)やチャーリー・ドレイトン(2018年11月22日)がストーンズで叩くのではないかとも言われている。
ロックをロックたらしめるザ・ローリング・ストーンズの屋台骨を支え続けた、唯一無二のドラマー。どうぞ、やすらかに。これまでも、そして今後も、ぼくはあなたの演奏を聞き続けます。
▶過去の、ザ・ローリング・ストーンズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm 3月13日(バック・バンド)。15日
https://43142.diarynote.jp/201904200941516964/ ストーンズ展
▶︎過去の、チャーリー・ワッツ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-10.htm
▶過去の、ダリル・ジョーンズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm 13日、バーナード・ファウラー他のセッション。15日、ストーンズ
http://43142.diarynote.jp/201303110415585115/
https://43142.diarynote.jp/201704130838405526/
▶過去の、スティーヴ・ジョーダン
http://43142.diarynote.jp/200511130413390000/
http://43142.diarynote.jp/200611221236140000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20061222
http://43142.diarynote.jp/201010301012548114/
▶︎過去の、チャーリー・ドレイトン
https://43142.diarynote.jp/201811251043143983/
<今日の、雨のち薄曇り>
あの娘の好きな、チャーリー・ワッツ……。RCサクセション(2005年7月29日)の「エリーゼのために」の終盤には、忌野清志郎(2004年10月19日)によってそう歌われる。もう不埒極まりなくて、ぼくが大好きな曲。昨年だかミュージック・マガジン誌で<RCサクセション/忌野清志郎の100曲>みたいな特集の際、30曲をリストするアンケートに答えたが、ぼくは迷わず「エリーゼのために」を第1位に入れた。
話は飛ぶが、ぼくは学生時代に一番やっていたバンドはストーンズぽいことをする5人組で、ゆえにストーンズのバンド・サウンドの妙を肌で感じていると自負している。実はそのストーンズ・バンドの際、ドラマーはジャズ研でマジにジャズをやっている奴を入れた。その彼(そのあき君という名前だったかな。苗字は忘れた。彼の発言でよく覚えているのは、ネイティヴ・サンの村上寛のドラミングは素人としか思えねえ)を引き入れたのは高校時代の友人であるリーダー格のヴォーカリストだったが、それはワッツの属性を知っていたからだった。メンバー中一番真面目だったそのあきくん、なんか妙で絶対にチャーリー・ワッツのように叩けないと言っていたな。うーむ、どこかにそのバンドのライヴや練習スタジオの録音テープが残っていないかしら。オレのオリジナルをやっていたバンドのそれは間違いなくあるんだけど……。ぼくはそのストーンズ系バンドではベースを弾いていたが、ビル・ワイマンはピック弾きをしていたものの普通に指弾きでことに当たった。なんか、ウィリー・ウィークス(2006年11月20日、2019年5月7日)やカール・レイドルが大好きだった者としては、ピック弾きをするのは恥ずかしかった。1976年曲「ヘイ・ネグリータ」のようなアッパーな曲の場合、控えめにスラッピングや引っ掛けもしていたしな。今となってみれば、かなりワイマンからは離れる音を出していたと思うがメンバーは誰も文句を言わなかったなー。実は最近、小さめのベース・アンプを購入〜こういう場合、ほんとネット・ショッピングって便利だな〜、ときどきブリブリ弾いている。オレ、こんなに下手だっけ? 少しヘコんでいるが、それはぼくの音楽素養が上がっているためだと思うことにしよう。しかし、バッドな弾き手だぁ、泣。
▶過去の、忌野清志郎/RCサクセション
http://43142.diarynote.jp/200410240628530000/
http://43142.diarynote.jp/200508042335560000/
▶︎過去の、ウィリー・ウィークス
https://43142.diarynote.jp/200611221236140000/
https://43142.diarynote.jp/201905080904334080/
彼には、対面で一度インタヴューする機会を得た。1990年代上半期だったか。自己バンドを率いて来日した際のこと。そのときの回答を大雑把に要約すると、<オレはジャズ・ドラマー。ストーンズもジャズだと思って叩いている>。彼は西海岸プログ・ジャズのドラマー/バンド・リーダーであったチコ・ハミルトンのことが大好きだったが、あのときはけっこうスウィング・ジャズにも言及したような。実際に会ったワッツさんは、実年齢よりかなり上に感じた。温厚寡黙な人ながらある種の含みを接する者に与え、やはり正の変人臭はどこか出ていたと思う。
ビル・ワイマンが抜けたのち、ダリル・ジョーンズ(2003年3月13日、2003年3月15日、2013年3月8日、2017年4月8日)がその後を埋めた。そして、キース・リチャーズ流れで、ワイマンの後釜としてスティーヴ・ジョーダン(2005年11月13日、2006年11月20日、2006年12月22日、2010年10月26日)やチャーリー・ドレイトン(2018年11月22日)がストーンズで叩くのではないかとも言われている。
ロックをロックたらしめるザ・ローリング・ストーンズの屋台骨を支え続けた、唯一無二のドラマー。どうぞ、やすらかに。これまでも、そして今後も、ぼくはあなたの演奏を聞き続けます。
▶過去の、ザ・ローリング・ストーンズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm 3月13日(バック・バンド)。15日
https://43142.diarynote.jp/201904200941516964/ ストーンズ展
▶︎過去の、チャーリー・ワッツ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-10.htm
▶過去の、ダリル・ジョーンズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm 13日、バーナード・ファウラー他のセッション。15日、ストーンズ
http://43142.diarynote.jp/201303110415585115/
https://43142.diarynote.jp/201704130838405526/
▶過去の、スティーヴ・ジョーダン
http://43142.diarynote.jp/200511130413390000/
http://43142.diarynote.jp/200611221236140000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20061222
http://43142.diarynote.jp/201010301012548114/
▶︎過去の、チャーリー・ドレイトン
https://43142.diarynote.jp/201811251043143983/
<今日の、雨のち薄曇り>
あの娘の好きな、チャーリー・ワッツ……。RCサクセション(2005年7月29日)の「エリーゼのために」の終盤には、忌野清志郎(2004年10月19日)によってそう歌われる。もう不埒極まりなくて、ぼくが大好きな曲。昨年だかミュージック・マガジン誌で<RCサクセション/忌野清志郎の100曲>みたいな特集の際、30曲をリストするアンケートに答えたが、ぼくは迷わず「エリーゼのために」を第1位に入れた。
話は飛ぶが、ぼくは学生時代に一番やっていたバンドはストーンズぽいことをする5人組で、ゆえにストーンズのバンド・サウンドの妙を肌で感じていると自負している。実はそのストーンズ・バンドの際、ドラマーはジャズ研でマジにジャズをやっている奴を入れた。その彼(そのあき君という名前だったかな。苗字は忘れた。彼の発言でよく覚えているのは、ネイティヴ・サンの村上寛のドラミングは素人としか思えねえ)を引き入れたのは高校時代の友人であるリーダー格のヴォーカリストだったが、それはワッツの属性を知っていたからだった。メンバー中一番真面目だったそのあきくん、なんか妙で絶対にチャーリー・ワッツのように叩けないと言っていたな。うーむ、どこかにそのバンドのライヴや練習スタジオの録音テープが残っていないかしら。オレのオリジナルをやっていたバンドのそれは間違いなくあるんだけど……。ぼくはそのストーンズ系バンドではベースを弾いていたが、ビル・ワイマンはピック弾きをしていたものの普通に指弾きでことに当たった。なんか、ウィリー・ウィークス(2006年11月20日、2019年5月7日)やカール・レイドルが大好きだった者としては、ピック弾きをするのは恥ずかしかった。1976年曲「ヘイ・ネグリータ」のようなアッパーな曲の場合、控えめにスラッピングや引っ掛けもしていたしな。今となってみれば、かなりワイマンからは離れる音を出していたと思うがメンバーは誰も文句を言わなかったなー。実は最近、小さめのベース・アンプを購入〜こういう場合、ほんとネット・ショッピングって便利だな〜、ときどきブリブリ弾いている。オレ、こんなに下手だっけ? 少しヘコんでいるが、それはぼくの音楽素養が上がっているためだと思うことにしよう。しかし、バッドな弾き手だぁ、泣。
▶過去の、忌野清志郎/RCサクセション
http://43142.diarynote.jp/200410240628530000/
http://43142.diarynote.jp/200508042335560000/
▶︎過去の、ウィリー・ウィークス
https://43142.diarynote.jp/200611221236140000/
https://43142.diarynote.jp/201905080904334080/
ベイビーフェイス(2001年10月25日、2014年9月6日)のラフェイス・レーベルから1997年にデビューし、2枚のアルバムを残したR&Bシンガー/ソングライターのサム・ソルターの訃報が届いている。ロサンゼルス生まれ、いかにもベイビーフェイスとの関係に合点が行く、とっても円満なソウル感覚を持つ人であったと思う。どんどんヒップホップ色が強くなるアーバン・フォーマットのメインストリームでは生き残れなかったというイメージも持つが、熟れた歌声とメロディ感覚を持つ才人であった。2010年代に入っても、彼はチャーリー・ウィルソン(2007年4月24日)、エルドラ・デバージやブッカー・T・ジョーンズ(2007年7月18日、2008年11月24日、2009年7月25日、2010年2月8日 、2011年9月12日、2012年5月11日、2013年10月29日、2017年4月13日)らに曲を提供していたりもした。死因は不明で、カリフォルニア州アップル・ヴァレイで死去。実はLAに出張した際、もうすぐラフェイスからデビューする新人だと彼を紹介されたことがあった。真面目さとイキがりを併せ持つ、シャイ・ガイであったと記憶する。
▶過去の、ベイビーフェイス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-10.htm
https://43142.diarynote.jp/201409100929108025/
▶︎過去の、チャーリー・ウィルソン
https://43142.diarynote.jp/200704251228250000/
▶過去の、ブッカー・T・ジョーンズ
https://43142.diarynote.jp/200707232251010000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725
http://43142.diarynote.jp/200812110456078867/
http://43142.diarynote.jp/201002090914248826/
http://43142.diarynote.jp/201109151819433479/
http://43142.diarynote.jp/201310301217408539/
http://43142.diarynote.jp/201704161228187684/
そして、なんとリー“スクラッチ”・ペリーがお亡くなりになった。85歳。じいさん、思うまま生き切ったじゃないかと、ぼくは言いたくなるな。ジャマイカが生んだ、閃きに富むクリエイターであり、プロデューサー。ポピュラー・ミュージック界に燦然と輝く……。
ダブをはじめ、現代ビート・ミュージックにものすごい影響力を持つジャマイカン・ミュージックの創造性をいろいろと担った最たる偉人。ではあるが、ぼくの中ではフェスのステージ(2004年8月7日、2007年4月6日)に出ていた際の、カラフルで、飄々根無し草で、ラヴリーなおじいちゃんという印象がすごい残る。だが、裏ではモダン・ミュージック史を書き換えることをやっていた。いやあ、うひひだなあ。1996年にはザ・ビースティ・ボーイズと来日して、川崎の等々力アリーナに出たこともあった。その公演は、ちょうど来日中だったカサンドラ・ウィルソン(1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2004年9月7日、2008年8月11日、2010年6月13日、2011年5月5日、2013年5月31日、(1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2004年9月7日、2008年8月11日、2010年6月13日、2011年5月5日、2013年5月31日、2015年3月19日)も見た。
亡くなったのは、ジャマイカの病院と報じられている。スイスに住んでいると言われていたと記憶するが、最後には故郷に戻ったのか。
▶︎過去の、リー“スクラッチ”ペリー
https://43142.diarynote.jp/200408071336510000/
https://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
https://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶過去の、カサンドラ・ウィルソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/september1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm
http://43142.diarynote.jp/200409070203440000/
http://43142.diarynote.jp/200808121357410000/
http://43142.diarynote.jp/201006181521416566/
http://43142.diarynote.jp/201105101010399933/
http://43142.diarynote.jp/201306060609052151/
http://43142.diarynote.jp/201503211741478728/
<今日の、立腹>
げんざい国際サッカー連盟(FIFA)仕切りで2年おきに行われる(らしい)ビーチ・サッカーのワールド・カップで、日本チームが決勝に進出した。家で見ることができるスポーツ・チャンネルで中継が映るので、昼下がりにそのファイナルを見た。今年はロシアのモスクワで開催(観客はヒャッホー状態)、相手はロシアのナショナル・チームだった。フットサルのイメージからするとコートは何気に大きめ、とはいえゴールキーパーが手でボールを投げると相手のゴール近くまで届く。ボールは軽めそう、裸足でやる球技だしナ。バイシクル・キックがポピュラーな得点手段であることを、今回初めて知った。結果は2−5で負けたが、そんなのどーでもいいやと思えたのは、日本人の解説が絶望的に酷すぎたから。嗄れ声が耳障りとかいうのはもう些細なことで、話がダメすぎる。ビーチ・サッカー関係者なのだろうが、放送に接する一般の人たちのことを考えず自分の半径1メートルの視野で独りよがりに与太応援話をする様はあんまり。こんな奴が日本のビーチ・サッカーの世界でデカい顔をしているのなら、ビーチ・サッカーなんて廃れていいと暴言を吐きたくなった。心から競技にあたる選手たちには申し訳ないが。なんか気安いようで、俺様パワハラ体質抱えていそうと思わせるのもバツ。実は昨日、同じスポーツ・チャンネルでたまたまスーパー・フォーミュラのツインリンクもてぎでの自動車レースの中継を見た(まじ、ものすごく久しぶりだった)のだが、チャラい走り屋というイメージのある土屋圭市がとっても穏やかに大人な解説をしているのに感心した後だけに、余計にぼくの反感メーターは振り切れた。
▶過去の、ベイビーフェイス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-10.htm
https://43142.diarynote.jp/201409100929108025/
▶︎過去の、チャーリー・ウィルソン
https://43142.diarynote.jp/200704251228250000/
▶過去の、ブッカー・T・ジョーンズ
https://43142.diarynote.jp/200707232251010000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725
http://43142.diarynote.jp/200812110456078867/
http://43142.diarynote.jp/201002090914248826/
http://43142.diarynote.jp/201109151819433479/
http://43142.diarynote.jp/201310301217408539/
http://43142.diarynote.jp/201704161228187684/
そして、なんとリー“スクラッチ”・ペリーがお亡くなりになった。85歳。じいさん、思うまま生き切ったじゃないかと、ぼくは言いたくなるな。ジャマイカが生んだ、閃きに富むクリエイターであり、プロデューサー。ポピュラー・ミュージック界に燦然と輝く……。
ダブをはじめ、現代ビート・ミュージックにものすごい影響力を持つジャマイカン・ミュージックの創造性をいろいろと担った最たる偉人。ではあるが、ぼくの中ではフェスのステージ(2004年8月7日、2007年4月6日)に出ていた際の、カラフルで、飄々根無し草で、ラヴリーなおじいちゃんという印象がすごい残る。だが、裏ではモダン・ミュージック史を書き換えることをやっていた。いやあ、うひひだなあ。1996年にはザ・ビースティ・ボーイズと来日して、川崎の等々力アリーナに出たこともあった。その公演は、ちょうど来日中だったカサンドラ・ウィルソン(1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2004年9月7日、2008年8月11日、2010年6月13日、2011年5月5日、2013年5月31日、(1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2004年9月7日、2008年8月11日、2010年6月13日、2011年5月5日、2013年5月31日、2015年3月19日)も見た。
亡くなったのは、ジャマイカの病院と報じられている。スイスに住んでいると言われていたと記憶するが、最後には故郷に戻ったのか。
▶︎過去の、リー“スクラッチ”ペリー
https://43142.diarynote.jp/200408071336510000/
https://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
https://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶過去の、カサンドラ・ウィルソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/september1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm
http://43142.diarynote.jp/200409070203440000/
http://43142.diarynote.jp/200808121357410000/
http://43142.diarynote.jp/201006181521416566/
http://43142.diarynote.jp/201105101010399933/
http://43142.diarynote.jp/201306060609052151/
http://43142.diarynote.jp/201503211741478728/
<今日の、立腹>
げんざい国際サッカー連盟(FIFA)仕切りで2年おきに行われる(らしい)ビーチ・サッカーのワールド・カップで、日本チームが決勝に進出した。家で見ることができるスポーツ・チャンネルで中継が映るので、昼下がりにそのファイナルを見た。今年はロシアのモスクワで開催(観客はヒャッホー状態)、相手はロシアのナショナル・チームだった。フットサルのイメージからするとコートは何気に大きめ、とはいえゴールキーパーが手でボールを投げると相手のゴール近くまで届く。ボールは軽めそう、裸足でやる球技だしナ。バイシクル・キックがポピュラーな得点手段であることを、今回初めて知った。結果は2−5で負けたが、そんなのどーでもいいやと思えたのは、日本人の解説が絶望的に酷すぎたから。嗄れ声が耳障りとかいうのはもう些細なことで、話がダメすぎる。ビーチ・サッカー関係者なのだろうが、放送に接する一般の人たちのことを考えず自分の半径1メートルの視野で独りよがりに与太応援話をする様はあんまり。こんな奴が日本のビーチ・サッカーの世界でデカい顔をしているのなら、ビーチ・サッカーなんて廃れていいと暴言を吐きたくなった。心から競技にあたる選手たちには申し訳ないが。なんか気安いようで、俺様パワハラ体質抱えていそうと思わせるのもバツ。実は昨日、同じスポーツ・チャンネルでたまたまスーパー・フォーミュラのツインリンクもてぎでの自動車レースの中継を見た(まじ、ものすごく久しぶりだった)のだが、チャラい走り屋というイメージのある土屋圭市がとっても穏やかに大人な解説をしているのに感心した後だけに、余計にぼくの反感メーターは振り切れた。
映画「これは君の闘争だ」
2021年8月31日 音楽 渋谷・映画美学校試写室で、2019年ブラジル映画「これは君の闘争だ」を見る。原題は、「Espero tua (Re)volta」。舞台はサンパウロ、映るのは市街地のみ。すごい都会だな。財源難のため教育予算を削減する州の指針に反対し高校を占拠した高校生たちの様を扱うドキュメンタリーだ。おお、若者燃えているナ。
それは、2015年のこと。1校から始まったそれは200校にも及び、また抵抗を広く伝えるため、一部は一般道路を封鎖したりもした。2013年には公共交通料金の値上げに反対する大きなデモがやはりサンパウロで起こり、その様を紹介するところから映画は始まる。2013年にせよ、2015年にせよ、反対の意が直裁に大衆の動きになっていることはうらやましい。そこらあたり、日本の様との乖離にも思いは向き、日本人の精神性にまで考えは至るか。映画はそれらの行動は人種や性別差別などの他の問題に対するアンチの姿勢とも繋がることを示唆もする。
監督は、エリザ・カパイという女性だ。サンパウロ大学でジャーナリズムを学び、これが長編3作目となる。近年まで、米国MITのオープン・ドキュメンタリー・ラボの研究員でもあったという。2013年や2015年のデモその他の映像は他者が撮影した映像を借りているが、それを監督は巧みに構成し、効果的に(少し分かりづらいところもあるとぼくは感じたが)再提出する。その際、2015年の反対活動に高校生として関わった3人(男性1、女性2)をフィーチャーしているのが要点となる。彼女たちの回想の話をテンポよく挿入しながら動的に映像は進められるが、それはリアリティを高めるとともに、さながらヒップホップ的とも指摘できようか。
バス代の値上げや教育費の削減は、市民があげた声で撤回されたよう。だが、ずっと続いていた左翼政権の腐敗もあり、そうした社会運動の一切を犯罪と断じる極右のジャイル・ボルソナロ政権(Covid-19なんか怖くないという態度でニュースにもなった元軍人ですね)が2018年生まれたところで、映画は終わる。あなたの復帰を待つといったような原題に、この作品に込められた思いは示されているか。
音楽は大雑把に言えば宅録ヒップホップ調のものが用いられ、作っているのはサンパウロ在住のトラック・メイカーのDécio 7。エンド・ロールでは、なんとフェラ・クティ起点の黄金のレベル・ミュージックたるアフロ・ビートっぽい音楽が使われている。アムネスティ・インターナショナルの賞も受けているらしいこの映画の公開は11月、シアター・イメージフォーラムにて。
▶︎過去の、フェラ・クティの息子たち
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-4.htm フェミ・クティ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm フェミ・クティ
http://43142.diarynote.jp/200711121022550000/ これ以下は、シェウン・クティ
https://43142.diarynote.jp/200908180045212538/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090726
http://43142.diarynote.jp/?day=20120727
https://43142.diarynote.jp/201808012004309687/
<今日の、遠い記憶>
日本で学生運動が盛んだった頃、大学生がストライキを起こし校舎に立てこもり、また大学外でも彼らと機動隊がよくぶつかり合っていた。流血もいろいろ。1960年代下半期か。この映画の映像はそれを思い出させる。そういう時代がしっかりと、日本にもあった。かつての日本のそれのほうが、カゲキではあったと思うが。そして、それに加わる高校生もいて、近所に住んでいる地域で一番の進学高に通っていたお兄さんが東京にゲバ(ルト)棒をふるいに行ったなんて話を聞いたりもした。当時、TVのニュースでは学生と警察が衝突する模様がよく報道されていた。東京に対する憧れもあったのだろう、小学生だったぼくはそれを見て、「いいなあ。ぼくもしたいなあ」。それを聞いた母親は、「じゃあ、勉強しようね。いい高校に入れば行けるから」と言った。スクエアな両親が嫌いだったが、そういうサバけたところもあったんだナ。
追記:音楽担当者は、サンパウロでアフロ・ビートのバンドをやっているらしい。
それは、2015年のこと。1校から始まったそれは200校にも及び、また抵抗を広く伝えるため、一部は一般道路を封鎖したりもした。2013年には公共交通料金の値上げに反対する大きなデモがやはりサンパウロで起こり、その様を紹介するところから映画は始まる。2013年にせよ、2015年にせよ、反対の意が直裁に大衆の動きになっていることはうらやましい。そこらあたり、日本の様との乖離にも思いは向き、日本人の精神性にまで考えは至るか。映画はそれらの行動は人種や性別差別などの他の問題に対するアンチの姿勢とも繋がることを示唆もする。
監督は、エリザ・カパイという女性だ。サンパウロ大学でジャーナリズムを学び、これが長編3作目となる。近年まで、米国MITのオープン・ドキュメンタリー・ラボの研究員でもあったという。2013年や2015年のデモその他の映像は他者が撮影した映像を借りているが、それを監督は巧みに構成し、効果的に(少し分かりづらいところもあるとぼくは感じたが)再提出する。その際、2015年の反対活動に高校生として関わった3人(男性1、女性2)をフィーチャーしているのが要点となる。彼女たちの回想の話をテンポよく挿入しながら動的に映像は進められるが、それはリアリティを高めるとともに、さながらヒップホップ的とも指摘できようか。
バス代の値上げや教育費の削減は、市民があげた声で撤回されたよう。だが、ずっと続いていた左翼政権の腐敗もあり、そうした社会運動の一切を犯罪と断じる極右のジャイル・ボルソナロ政権(Covid-19なんか怖くないという態度でニュースにもなった元軍人ですね)が2018年生まれたところで、映画は終わる。あなたの復帰を待つといったような原題に、この作品に込められた思いは示されているか。
音楽は大雑把に言えば宅録ヒップホップ調のものが用いられ、作っているのはサンパウロ在住のトラック・メイカーのDécio 7。エンド・ロールでは、なんとフェラ・クティ起点の黄金のレベル・ミュージックたるアフロ・ビートっぽい音楽が使われている。アムネスティ・インターナショナルの賞も受けているらしいこの映画の公開は11月、シアター・イメージフォーラムにて。
▶︎過去の、フェラ・クティの息子たち
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-4.htm フェミ・クティ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm フェミ・クティ
http://43142.diarynote.jp/200711121022550000/ これ以下は、シェウン・クティ
https://43142.diarynote.jp/200908180045212538/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090726
http://43142.diarynote.jp/?day=20120727
https://43142.diarynote.jp/201808012004309687/
<今日の、遠い記憶>
日本で学生運動が盛んだった頃、大学生がストライキを起こし校舎に立てこもり、また大学外でも彼らと機動隊がよくぶつかり合っていた。流血もいろいろ。1960年代下半期か。この映画の映像はそれを思い出させる。そういう時代がしっかりと、日本にもあった。かつての日本のそれのほうが、カゲキではあったと思うが。そして、それに加わる高校生もいて、近所に住んでいる地域で一番の進学高に通っていたお兄さんが東京にゲバ(ルト)棒をふるいに行ったなんて話を聞いたりもした。当時、TVのニュースでは学生と警察が衝突する模様がよく報道されていた。東京に対する憧れもあったのだろう、小学生だったぼくはそれを見て、「いいなあ。ぼくもしたいなあ」。それを聞いた母親は、「じゃあ、勉強しようね。いい高校に入れば行けるから」と言った。スクエアな両親が嫌いだったが、そういうサバけたところもあったんだナ。
追記:音楽担当者は、サンパウロでアフロ・ビートのバンドをやっているらしい。