菊地成孔(2011年4月22日、他)の主要プロジェクトの一つである、二管を擁するクインテット+電気的音響効果担当者という編成を持つバンドの公演。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。わあ。電気処理担当のパードン木村(2004年8月12日)がステージ中央後方に位置し、その場で生音演奏にエフェクトをかけているのだが、その関与度がこれほどまでに高いとは。サウンド総体に効果をかけるとともに、菊地のテナー・サックスと類家心平のトランペットの音にも7割ぐらいは電気エフェクトがかまされていたもの。ぼくは変なところピュアな感じ手で管楽器音にエフェクターをかけるのを好ましく感じない者、ゆえにここでも電気処理がなされ過ぎと感じた。が、その妙の先にあるものを求めゆとしているわけで……とか、思っていたら、彼らのセカンド作が出た際に文章を書いたことを思い出した。→後出。坪口昌恭(2006年10月19日)の演奏、何気に効いていた。

 アンコール時に菊地は珍しく、ソプラノ・サックスを手に登場する。で、演奏したのは、レディ・ガガ曲のカヴァー。なんでも、彼は類家のソロ作をプロデュース中で、そこに入れようとした際、類家の意向でボツになってしまったアレンジ曲を披露したもののよう。それを聞けるこの日の客は幸運、みたいなことも、彼は言っていた。

 そして、六本木ミッドタウンに移動し、カサンドラ・ウィルソン(2010年6月13日、他)の1年弱ぶりの来日ショウを見る。今回のギグ設定の肝は、ブランドン・ロス(2004年9月7日、2005年6月8日、2005年6月9日、2006年9月2日)とマーヴィン・スーウェル(1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2008年8月11日、2010年6月13日)というカサンドラ表現のミュージッカル・ディレクターを担った&担う異端ギタリストが二人そろいぶみしていること。それ、少なくても、日本では初めてのことだ。なお、カサンドラにリーダー作をプロデュースしてもらったことがある、今回も同行のロニー・プラキシコ(電気アップライト・ベース。1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2004年9月7日、2008年8月11日、2010年6月13日)も来日公演におけるミュージカル・ディレクターをつとめたことが過去あったはず。

 ウィルソン変革期たる『ブルー・ライト』(93年)と『ニュー・ムーン・ドーター』(95年)でオルタナティヴな編曲に多大に貢献したロスだったが、ウィルソンはスーウェルと出会うと、あっさりとスーウェルの方を重用するようになり、今回もミュージカル・ディレクターはスーウェルと紹介されていた。実際、出だしなどの合図等をふくめスーウェルがバンド音を掌握、ロスはあまり彼である必然性を持たないセカンド・ギター奏者演奏に終始、けっこう端から見ているぶんにはかわいそうと思えたか。

 ギター奏者が2人いるゆえ、今回はピアノレス編成にて(まあ、昔はそれが売りであったこともあったが)。上で触れた以外のサポート素者はハーモニカのグレゴア・マレ(2004年9月7日、2006年9月3日、2007年12月13日、2009年3月18日)、ドラムのジョナサン・ブレイク(2009年9月3日)、打楽器のレカン・ババロラ(2010年6月13日)で、計6人の編成でショウを行なう。ライヴ録音をソースとするアルバム(最新作の『シルヴァー・ポニー』)を出した前回編成バンドから見ると、しっとり目。一番はねていたのは、新作にも入っていたアンコールの「セイント・ジェイムズ・インファーマリー」か。そんなわけだから、ババロアの演奏が目立つ場面はあまりなし。あ、『ニュー・ムーン・ドーター』に入っていた「ラスト・トレイン・トゥ・クラークスヴィル」(ザ・モンキーズの66年全米1位曲)もやりました。新旧のレパートリーをこの顔触れで肩肘張らずやってみましたという感じのショウであったか。次のアルバムの内容につながるものは提示されていなっかたと思うが、ウィルソンの“フツー”は普通の担い手の数倍の質をも持つのは間違いない。

 なお、ウィルソンはステージで裸足になることでも知られるが、今回ぼくが見たショウでは裸足にならなかった。素足にペニャペニャの靴を履いていたものの。そんな彼女、8曲ぐらいで、1時間半ぐらいやったか。その前に見た菊地のショウもそのぐらいやったな。そういえば、ブランドン・ロスと菊地のグループはライヴをリキッドルームでシェアした(2005年6月9日)ことがありました。



<今日の、付録原稿>
 以下の原稿は2008年7月リリースの『ダブ・オービッツ』リリースの際に、発売元のイーストワークスからの依頼されて書いたものだ。すぐに忘れちゃっていたが、その後の掲載報告などは一切なく、一体この原稿はどうなったのかしら。依頼してきた人物はとうに退社しているし、いまや幻の原稿?





 菊地成孔、きくちなるよし。10年前だったら、コアな音楽ファンしか読めなかっただろう、その名前を今はすらりと読めちゃう人が少なくないはず。だって、ここ数年の彼の活動は華々しく、本当に話題を呼ぶ男になっているもの。雑で品のない言い方をするなら、先端カルチャーにおけるイケてる文化人みたいな感じも菊地にはあるかもしれない。
 テナー・サックス奏者であり作詞/作曲家/プロデューサー、多筆で広い領域を持つ分筆家(いっぱい書籍を出してます)、冴えた音楽教育者などいろんな顔を持つ彼だが、ことミュージシャンということに限っても、彼は鋭敏に時代と繋がった様々な活動単位をこれまで持ってきた。……ジャズ的越境感を備えたダンス・グルーヴ表現を求めたデートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデン。刹那的歌ものポップ・ユニットであるスパンク・ハッピー。ストロングな現代ジャズ表現を求めたクインテット・ライヴ・ダブ(04年夏期のツアーにはUAが全面的に絡み、それは両者連名の06年作『cure jazz』に繋がった)。洒脱なストリングス音やラテン・ビートの揺れを通した官能的音像を求めるペペ・トルメント・アスカラール、などなど。そして、もちろん、一言で語るのが難しい美学を投影しまくりのソロ名義作も出しているし、映画音楽も複数担当していたりする。
 そんないろんなことをやっている彼が今もっとも力を注いでいるのが、昨年の師走から活動している菊地成孔ダブ・セクステットというスーツ姿の似合うバンドだ。先に触れたクインテット・ライヴ・ダブの次の形という言い方も言えるかもしれないが(菊地を含め、メンバー3人が留任)、とにかく格好いいジャズ・マンでありたいという意欲が漲りまくったバンドとそれは言える。ちなみに、バンド名にある“セクステット”は6人組を指す言葉で、そのメンバーは菊地(テナー・サックス)、類家心平(トランペット。アーブ)、坪口昌恭(ピアノ。東京ザヴィヌル・バッハ)、鈴木正人(ウッド・ベース。リトル・クリーチャーズ)、本田珠也(ドラム。ケイ赤城トリオ)、パードン木村(効果音)というもの。また、“ダブ”とはレゲエから発生したエコー効果他を用いる破壊〜再生の意思を持つポスト・プロダクション手法(ダンス・ミュージックのリミックスもダブから来たと言われる)で、ダブ的音響処理のスペシャリストのパードン木村が重要メンバーとなっていることでも、そのバンド名は容易に納得が行くだろう。
 基本、菊地成孔ダブ・セクステットはマイルス・デイヴィスやオーネット・コールマン(ファースト作『The Revolution Not To Be Computerized』)のジャケットは、オーネットの61年作『ディス・イズ・アワ・ミュージック』のそれをパロディ引用したものだ)やエリック・ドルフィーといったリアルきわまりない楽器ソロがとれ、且つそれを効果的に泳がせることが出来る機微いっぱいのサウンドも提出できた大ジャズ偉人の黄金アコースティック表現に愛を持ちつつ、その真価を菊地ならではの創造性を介して今に持ってこようとする意図を持つ。言い換えれば、テナー・サックスとトランペットの二管をフロントに置く編成(それは、まさにジャズ編成の王道と言える)による生気と飛躍力たっぷりのリアル・ジャズ表現に現代的な音響処理を大胆に掛け合わせ、数奇なストーリーに満ちた先端ジャズ表現を送りだそうというのが、菊地成孔ダブ・セクステットの求めるところなのである。
 それにしても、なんと性急な。もともとワーカホリックというに相応しい精力的な活動を維持している菊地だが、ダブ・セクステットの新作『ダブ・オービッツ』は前作から7か月しか間をおかずにリリースされる。が、バンドは生き物、新作で彼らより現代的な技術や発想を通るようになっている。なかには、各人のソロを別々に録り後からつないでみたり、せえので録ったものでも大胆な編集/差し替えを施したり跳んだ効果音を噛ましてみたり。実は秀でた技量と感性を持つプレイヤーの集合体である彼らはただ演奏しても(ライヴの場であっさりと示されるように)、優れたジャズ表現が浮上するのは疑いがない。だが、それはマイルスたちがあの時代に出したものを超えるものではない。ならば、彼ら巨匠たちと横並びになれる我々のジャズ表現とは……。そう考えたときに、酔狂とも言える菊地成孔ダブ・セクステットの行き方が出てきたのだと思う。
 オーネット・コールマンは66年に自分の表現に自由な風〜ハプニングをもたらすために10歳の素人ドラマー(息子のデナード・コールマン)を自分のバンドに涼しい顔して加入させた。一方、マイルス・デイヴィスの60年代後期から70年代中期にかけての電化表現はスタジオで延々と録ったテープを制作者のテオ・マセロが自由にハサミを入れる事で濃い表現にヴァージョン・アップし、アルバムとして世に出された。かように秀でたジャズはいつだって変てこで、我が道を行く?印のこだわりを経たものだったのだ。そして、菊地成孔ダブ・セクステットにおける“デナード・コールマンの天衣無縫なドラム”がテクノロジーや電気音なのであり、マイルス表現のテオ・マセロ役をしているのが菊地と木村なのである。
 そう言えば、エリック・ドルフィーの64年の最終作『ラスト・デイト』には「音楽を聞いても、終われば宙に消えてしまう。それを二度と捕まえることはできない」という彼のモノローグが収録されている。閃きと即興に根ざした表現を求め早くして亡くなってしまった天才ドルフィーならではの、それは名言だ。でも、菊地成孔ダブ・セクステットのポスト・プロダクション込みのジャズ表現を聞いていると、「今なら捕まえることでより鮮烈にジャズを宙に放つ事ができるんです」と菊地たちがドルフィーに返答しているように、ぼくには思えたりもする。と、話は飛んでしまったが、そうした正しいジャズのつっぱった哲学や美意識の発露を、今の時代を生きる人間として今の環境にワープさせようとするのが菊地成孔ダブ・セクステットの流儀なのだ。
 そして、新作ではさらに編集が凝ったり、タイトなビートが採用されたりもし、よりモダン・ミュージック色の濃いアプローチを持つ曲も散見される。たとえば、「Monkey Mush Down」という曲はYMO、マイルス、N.E.R.D、ロイヤル・ティーンズ(オールディーズのグループ)の曲がマッシュ・アップされていると菊地本人が解説するように、やんちゃに弾けた仕上がりになっており、今後はそういう方向性を強めていくのかもしれない。なんにせよ、得体の知れない、だからこそ素敵きわまりないジャズのもやもやを核に置きつつ、菊地成孔ダブ・セクステットはアメーバーのように動いていくのは間違いないことと思われる。
 さて、そんな<私の考える現代ジャズ>作をリリースする菊地は、7月16、17日と渋谷・デュオでアルバム発表ライヴをやったあと、フジ・ロック・フェスティヴァル(7月27日)とライジング・サン・フェスティヴァル(8月15日)に出演。また、8月10日に日比谷野外音楽堂で行われる<野蛮人たちの夜会>には、東京スカパラダイスオーケストラとともに新版ペペ・トルメント・アスカラールで出演する。なんでも、新しいペペ・トルメント・アスカラールは女性メンバーが増えて、より淫媚な感じで迫るようである。