正式名称は、メインのスポンサー名を入れて、ジャカルタ・インターナショナル・ジャラム・スーパー・マイルド・ジャワ・ジャズ・フェスティヴァル。2005年からインドネシアで開催されている、かなり大きな音楽フェスである。それ以前から同地であったフェスティヴァルが二つに分かれ、そのうちの一つであるという情報も聞いたが、海外アーティストのラインアップを見ると誰もがびっくりしちゃうよな。SW、EB、MMWなどの出演者にひかれるとともに、なんか暖かい所に行きたくなり、ぼくはエイヤっと行ってしまった。会場で会ったフェス通のある人は、オランダのノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルと出演者も似ているし、そのアジア版だよね、と言っていた。

 会場は、ジャカルタ・インターナショナル・エキスポと名付けられた、東京圏で言うなら幕張メッセと東京国際フォーラムをあわせたような施設。そこに、18ものステージが設置され(大きなステージは皆屋内会場)、200組もの内外のアーティスト(半数は国内のアーティストだろう)が出演する。フェスは週末3日間に渡って行われ、のべのオーディエンスは10万人近いという話もあるが、ぼくの所感だとそこまで多くはないかなという感じ。でも、立派な施設に、沢山人が集まっていたのは間違いない。

 基本、出演アーティストは2日にわたって出演する場合が多い。ようは、フェス中、2回パフォーマンスをする。もちろん、1日だけの人もいるし、ボビー・マクファーリンのように3日間とも出た人もいた。なお、会場(大きい3、4のステージは5.000〜10.000人キャパの規模か)スタンディングもあれば、椅子付きのときもある。出し物によって、同じ会場でも臨機応変に変わったりするが、おおまかに言えばスタンディングの場合のほうが多いかな。タイムテーブルがどこかにいってしまって、忘れ落としているのもあるかもしれないが、いかに見たものを挙げておく。2日両日見たアーティストもいるが、どちらかの日だけに記すようにする。


▶ボビー・コールドウェル
 ビッグ・バンドを従えての、ジャズ・スタンダード披露路線。その体裁で、日本には相当回数来ているはずだが、いわゆるAORにあまり興味を持たないできたぼくは、今回初めて触れる。まず、ビッグ・バンドがけっこう質が高いゾと感心。で、細い身体つきのコールドウェルも無難にジャズ曲を歌っていた。

▶DEPAPEPE
日本のアコースティック・ギター・デュオ、サポート奏者を伴っての出演。MCによれば、インドネシアの別フェスに昨年呼ばれているらしいが、しっかりファンがついているのが分かる。かなり、声援を受けていた。巧みな生ギターの重なりが中心にあるインスト表現を聞かせるわけだが、それについては、他の出し物にいろいろ触れていくにつれ、彼ら音楽性のこのフェスみおける希少性を痛感することしきり。だって、生ギター基調の表現を聞かせる人たちに他に会わなかったし、彼らのような軽快さを持つような曲調/サウンドを聞かせる人も皆無だったもの。日本らしさというか、彼ららしさは存分にジャカルタっ子にアピールされたはず。

▶ジェフ・ローバー
 一時は都会派ポップ・ソウルのプロデューサーとしても大活躍していたヴェテランのフュージョンの鍵盤奏者。僕の知らないサックス奏者を特別ゲストと紹介。ドラマーは90年前後にEW&F(2006年1月19日)のメンバーだったことがあり、現在はブルース・ホーンズビーのバンドに入っているソニー・エモリーであったよう。

▶ボビー・マクファーリン(2004年2月3日)
 様々な肉声の使い方で、“自由”を体現する、我が道を行く個性派歌手だが、さすがだったな。基本はアイデアを凝らしたソロの肉声パフォーマンスであるのだが、息子のテイラー・マクファーリン(2012年2月18日)、女性ダンサーなども、曲によっては加わる。そして、さらにはバリ島のガムランの担い手たちがゾロゾロ出てきて、一緒にやる場面も。ほう、興味深く、珍味であるのは間違いない。インドネシアに来た利点をちゃんと出したのは彼だけとも言えるか。

▶アル・ジャロウ(2003年3月13日)&ジョージ・デューク(2010年3月15日、他)・トリオ
 いい感じの協調を見せるが、ジャロウはなんかどっしり感が出ていて、前に見たときより印象がいい。基本、インドネシアの観客はおおらか。見るゾという感じの人が少しは開演前からステージ前で構えていたりもするが、スタンディングの会場でも多くの人は床に座って見ていたりする。が、この出し物に関してはちょっと違っていて、開演のそうとう前から入場を待つ人の列が延々とできていた。特に、アル・ジャロウはインドネシアにおいてはとんでもない人気者のようだ。
 実は、このフェスは大物アーティストの場合はフェス入場料とは別に、入場料がかかる。ハービー・ハンコック、パット・メセニー、スティーヴィー・ワンダー、エリカ・バドゥなどはそうで、もちろんアル・ジャロウもそう。価格は日本円に直すと1.500〜2.500円。デイヴィッド・サンボーンはそれほど評価は高くないのか(オフィシャル雑誌の扱いも小さい)、特別料金設定はない。

▶メデスキ・マーティン&ウッド(2007年5月10日、他)
 彼らとは、会場入りする前に二度もホテル内で遭遇。いづれも3人一緒で、ホント仲がいいんだな。近年はK.D.ラングやナタリー・マーチャント作にバンドごと部分参加したりもしている彼らだが、なんだかんだ20年も続いているのはすごいし、いまだ煮詰まりを感じさせず、風通しいいナと思わせるのは驚異的ではないか。応援者として、天晴と思う。関係ないけど、ベース奏者のクリス・ウッドがギターや歌を担当する兄と組んでいるザ・ウッド・ブラザーズの新作『Smoke Ring Halo』(Southern Grownd,2011)はもう好盤。五十嵐くん、今からでも連載“フォーキー・トーキー”で紹介してえ。

▶エリカ・バドゥ(2006年4月2日、他)
 マレーシアのクアラルンプール公演を終えた後に本フェスに出るはずであったが、宣伝用に現地プロモーターが用いた写真がイスラム教を冒涜しているという理由で、政府命令によって同公演が中止の憂き目にあった。インドネシアもイスラム教を信仰する人が多数を締めるが(ベールで頭を覆う女性は全体の5%ほどと感じた。少なくても、ぼくの目に触れた部分での所感においては)、なんの問題もなく開かれた。このフェス、アーティストの出演時間に関しては緩くて、彼女のショウは1時間遅れでスタート。ながら、ショウが始まる前に、若い女性二人が出てきてインドネシアの国家を歌ったのにはびっくり。その後、何もなかったようにショウは始められた。
 女性コーラス4人、キーボード、ベース、ドラム、そして本人。中央に立つバドゥの両横にはそれぞれ、コントローラーと鳴りモノ類がおいてある。彼女はときにそれを扱いつつ、すべては私の掌握下のもと送り出されるといった感じを強くだしつつ、気と視点あるパフォーマンスを遂行する。サウンドは近作より薄目というかけっこう隙間を持つもので、それをいい感じで女性の歌声が埋めていく様はやはり絶品。うわあ、考えている、練られている。で、エリカだあ、今のエリカ・バドゥだあ、という感慨が頭のなかを埋め尽くしていく。さすが。


<昨日の、ホテル>
 ガルーダ・インドネシアの便に乗って行くが、デンパサール(バリ島)ではなく、ジャカルタ行きなためか、機内はすいている。驚いたのは、飛行機にインドネシアの入国審査官が二人乗っていて、彼らが席を回り、飛行機内で入国審査が受けられること。これはいい。
 空港内外のいろんな人のうざさは、バリ島と同じ。到着して、あーこれこれ、と思う。現金をほとんど持っていなかったので、空港内のタクシー斡旋カウンターで手続き、カードが使えてよかった。日本円で約1.800円。そしたら、トヨタのピカピカのワゴン新車(シートは皮)が来た。かつて行ったバリ島残りの現地紙幣(約100円)を試しにチップで先に渡したら、運転手ががぜん張り切ってとばしまくる。車線変更がんがん、他は誰もしてないのに、高速道路では路肩走行もごんごん。カウンターのおねえちゃんは渋滞がすごいので1時間かかると言っていたが、30分ぐらいでホテルについてしまう。まあ、グッジョブ。なるほど、渋滞はすごい。とともに、途中の道すがらの、だいぶ前に行ったジャマイカの風景を思い出させるような、リッチではない風景におおおとなる。
 タクシーはホテルに入るときに検問をとおらなくてはならなく、トランクのチェックを受ける。イスラム教過激派によるテロを考慮しての対策だろう。とともに、ホテル入り口では、人間は空港にあるようなゲートを通り、荷物は横の機械に流す。厳重。それは、後日行ったリッチなモールもそうだった。
 宿泊したのはフェスのオフィシャルとなる立派なホテルで、外来出演者もみんなそこに泊まっている。レセプションでチェックインしていると、見たことありそうな顔がぞろぞろ。でも、バックのメンバーの顔は覚えられないものなあ。なんか、ホテルのボールルームみたいなところで、セレブ相手っぽいパーティ&ショウをやっていて、入るのを別にとがめられなかったので、のぞく。ワインや食べ物もサーヴしていて、ごちそうさま。ステージのある方ではちょうどデイヴィッド・コーズがやっていて、客席にはジョージ・デュークがいた。満面の笑みで司会をつとめていたのは、本フェスの元締めペータル・F・ゴンサという人物であるのを後に知る(パンフというか、それをかねるオフィシャル雑誌-約250円-にでっかく顔がのっていた。60歳ぐらい? 元軍人という話も聞いたが、これだけ大掛かりなことをできちゃうのだから、政財界にかなり顔の効く人物であるのは間違いないだろう)。他にもNYのアカペラ・コーラス・グループのドュエンデや地元のミュージシャンも出てくる。
 フロントの奥のほうには、フェス出演者たち用のセッション会場となる場ももうけられていて、知らない人たちがスタンダードだかを演奏していた。それ、最終日の深夜までずっともうけられていて、昨年はジージョ・ベンソンが仕切ったときもあったという。

 一年中夏のようだが、30度を超えることはないようで、日本の真夏よりはかなり楽。ホテルには立派なプールがあったが、泳ぎたいとは思わなかったし、泳いでいる人はあまりいなかった。今は雨期だそうで、昨日もスコールがあったが、今日はほぼ雨は降らなかったかな。まあ、野外ステージ以外はだいたい屋根があるので、会場では雨が降ってもそんなに不自由はないと思うが。

 ライヴは夕方近くから深夜まで、ゆったりと繰り広げられる。出演者の割合の半数はインドネシア勢だろうが、その多くはフュージョンやソウル系のバンド(まあ、それはフェスの性格から来るものでもあるだろう)で、それらはおしなべてちゃんとしている。翌々日、ホテルから徒歩15分ぐらいの地元向けアーケードに行ったら、立派な楽器屋さんがあったりして(他にも、楽器屋はあった)、同国のバンド熱は低くないと思わせられる。

▶パット・メセニー(2012年1月25日、他)・トリオ
 1月に日本に来たばかりと思ったら、3月にはインドネシアへ。メセニー、元気だな。で、ここでの実演は、若手黒人リズム・セクションを擁する新トリオにて。ベン・ウィリアムズとジャマイア・ウィリアムズ、おお3年前のジャッキー・テラソン来日公演(2009年5月18日)の来日リズム・セクションと同じじゃないか。渡辺貞夫(2011年7月4日、他)もお気に入りでレコーディング起用しているベン・ウィリアムズは今年のメセニーのサマー・シーズンのツアーにも起用されるようだ(ドラマーはアントニオ・サンチェス-2011年7月20日-とか)。で、最初とアンコールは生ギター・ソロだったが、他は電気ギターを持ちトリオにてギグをする。静かな曲をやるときもあるけど、やっぱ、ぐいぐい進むような質感のパフォーマンスが核となるものであったか。本編最後の曲なんて、ごんごんプッシュするリズムに乗って、彼はシンセサイザー・ギターであっち側に行かんとするソロを取りまくり。回春目的のユニットでもあると、ぼくは理解した。ここのところ、あっさり路線で勝負していたメセニーだが、次作はこういう方向に出るのもアリ。なお、彼に関しては、今回ちょいいい話があった。それは、明日のスティーヴィ・ワンダーの項に書きます。

▶ママズ・ガン(2011年8月3日、他)
 主催者側の選択もあるんだろうけど、外タレ出演者にロックやワールドの担い手はなし。見事に、フュージョンとアーバン(R&B)系の担い手がフェスには呼ばれていた。というわけで、ぼくが今回触れたなかで一番ロックっぽいアーティストが彼らだった?

▶デイヴィッド・サンボーン(2010年12月1日、他)
 ここのところの来日の公演はオルガンとドラマーという簡素な編成でやっているサンボーンだが、ここでは通常編成と言えるような設定でライヴをする。鍵盤のリッキー・ピーターソン、ギターのニック・モロック、電気ベース(に専念)のジェイムズ・ジナス(2012年1月13日)、ドラムのジーン・レイク(2012年2月10日、他)というのが、その顔ぶれ。驚きはないが、これぞサンボーンという演奏を披露する。

▶ジュリアード・ジャズ・トリオ
 ジュリアード音楽院卒業生のバンドということで、誰が演奏するのかなあと思ってのぞいたら、格調高くアコースティックなピアノ・トリオが演奏している。ありゃ、中央にいる痩身のベーシストはどう見ても大御所ロン・カーター(2011年1月30日、他)ではないか。彼の名前なんて、どこにも出されていないぞ。まさか、トラ(=エクストラ。臨時の奏者の意)? ドラマーは仲良しのカール・アレン(2009年8月30日)、彼はオフィシャル雑誌でちゃんと紹介されている。ピアニストは誰か分からなかった。

▶サイモン・グレイ
 オーストラリア生まれのキーボード奏者/トラック・メイカーで、クラブ・ミュージックと重なる範疇を得意分野とし、英国で活動している人物。彼はミレニアム以降のインコグニート表現にも関与しているが、フィーチャード歌手としてインコグニート(2011年3月31日、他)のトニー・モムレル(彼って、マレーシアかどこかの出身だっけか?)を同行させる。で、インコグニートから親しみやすさを少し抜いたような、クールなジャジー・ソウル表現を送り出していた。

▶メイヤー・ホーソーン
 昨年の来日公演は行けなかったのが、見に行った知り合いからは高評価を受けていた。そして、なるほど、それもよく分かりました。実は、ちょい確認したいことがあり昼にホテル内にあるプレス・センターに行ったのだが、そこは現地プレスによるアーティスト取材場所にもなっていた。で、ホーソーンは入り口のソファーで取材を受けていたのだが、そのとき彼は客室備えのバスローブ姿。その様に触れ、おいおい、あんたインドネシア嘗めとんのかいとぼくは思ったのだが、パフォーマンスはきっちりやっていたな。感心したのは、とっても両手を広げる感じを出して、オーディエンスに働きかけていたこと。DJ志向者だったわりには、歌声もちゃんと出ていたし、温故知新型のソウル曲/サウンドも親しみやすいし、受けて当然と思った。

▶ハービー・ハンコック(2005年8月21日、他)
 エレクトリック志向のバンドにて登場。メンバーは、電気ギター専念のリオネル・ルエケ(2007年7月24日、他)、デイヴィッド・サンボーン・バンドとの掛け持ちのジェイムズ・ジナス(2012年1月13日、他)、そして、ドラマーはトレバー・ローレンスJr.だったのかな。『ヘッドハンターズ』や『スラスト』期の曲を丁々発止披露。ゴツゴツ感あり、アンコールの「カメレオン」ではショルダー・キーボードを持ちぎゅい〜ん。彼ともホテルで偶然会ったが、少し若返ったような。取材やったこともあるためか、親身にせっしてくれ、こっちがうまく言い表せないことを、推測して言い当ててくれたりもする。やはり、いい人だ。

▶ソイル&“ピンプ”・セッションズ(2011年6月23日、他)
 弾けていたなー。その噴出感、エネルギー感はちょっとしたもの。J.A.M.(2010年6月11日)という名でも活動しているリズム隊の上で、阿吽の呼吸を持つ二管と、進行役/肉声担当者の社長が思うまま振る舞う。そして、その総体はジャズでもポップでもない、彼らなりの音楽領域を何かを引き裂くような感じのもと広げていると感じさせられたりもしたか。なんか、鮮やかだった。彼らは2009年にもこのフェスに呼ばれているそうだが、そのときと比しても、けっこう街並み変わったと思わせるとか。また、ベーシストの秋田ゴールドマンは6歳までジャカルタ育ちなんだとか。

<今日の、ショッピング・モール>
 昼下がりにプチ市内探訪のついでにさくっと寄ったのだが、その豪華さに言葉を失う。ぼくがいろいろ行った各国のもののなかで、一番立派。行ったことはないが、オレはドゥバイに来ているのかと思ってしまったりして……。とうぜん、値段もさほど日本と変わらず。でも地元の人がけっこう来ているような気もするし、今インドネシアでは富裕層が出てきているのだろうというのは、肌で感じる。で、けっこうな値段をとるフェス(3日間通し券で、16.000円ほどのよう。それ、現地の感覚だと、相当に高いだろう)もそうした繁栄が生む中間層を顧客にするものであろうのは想像に難くない。まあ、飛行機ですぐのシンガポールからも人はやってくるようだが。なんでも、インドネシアの経済成長率は年6パーセントを超え、それはアジアだと中国、インドにつぐものあるという。とはいえ、一方では、50年前と変わらないような祖末な行商もすぐ横に出ていたりするのも事実。その目に見える貧富の差には、相当に驚くとともに、うーんととめげる。

 会場内には企業宣伝ブース練や、フードコード練(支払はプリペイド・カード方式)もどっかーんとある。イスラム教圏であるためか、フードコートのほうではソフト・ドリンクしか売っていない。とはいえ、企業ブースにはハイネケンとジャック・ダニエルのブースがあって、そちらでお酒は買える。確か、値段はハイネケン缶が250円、ジャック・ダニエルのシングルが500円(日本と変わらなーい)。滞在中、日本との比較で一番安く感じたのは、タクシー。20分ぐらい乗っても、200円だからな。

 フェスの大きなスポンサーは、タバコ、清涼飲料、銀行など。企業ブース練(ちょいWOMEXの昼の場の様を思い出す)には、ほんと沢山の企業が出店している。やっぱ、景気いいんだな。一般企業を中心に、音楽周辺産業まで(レコード会社はユニバーサルだけだったが)、様々。面白いのは、そのブースに小ステージをもうけている所も多数あり、あちこちから演奏や歌声が聞こえてきて、なんかインドネシア人は音楽好きだなあと思わせられること請け合い。そういえば、もうだいぶ前だけど、久保田麻琴(2010年12月4日、他)さんもジャカルタのクラブ・ミュージック・シーンはすごいと言っていたな。
 
 音楽の会場で一番おどろいたのは、録音や撮影に関して、なんの制約もないこと。というか、公式雑誌に<していいこと>と<しちゃいけないこと>の項目があり、OKの項目にデジタル・カメラやヴィデオ持ち込めますとわざわざ書いてある。みんな気ままに携帯電話で写真や動画を撮ったりしている。ときに大げさなカメラを持っている剛の者もいれば、あるおばさんは長い棒を持ち込み、その先端にヴィデオ・カメラを括り付けてステージを撮影していた。そんなわけなので、ジャワ・ジャズの模様はいろいろとユーチューブにアップされるのではないだろうか。

▶バリー・ホワイト・ショウ&ザ・プレジャー・アンリミッテッド・オーケストラ
 タイムテーブルに載ったこの名前を見て、あれれと、思う。1970 年代ディスコ・ミュージック期のスムース・ソウルなるものを提示して当てた、低音ヴォイスも売りであった御大はすでに亡くなっているから。そしたら、出てきたのは、往年のバリー・ホワイトを彷彿とさせる恰幅のいい黒髪/黒髭のおじさん。おお、歌は本人ほど低音ではないかもしれないが、オリジナルよりうまい? 血筋の人なんだろう、と思う。で、本家はザ・ラヴ・アンリミテッド・オーケストラと名付けた集団を率いていたが、ザ・プレジャー・アンリミッテッド・オーケストラと名乗るこちらもストリングスやブラス陣をたっぷりおごった30 人ほどの陣容。ま、やっていることは過去表現の小粒な焼き直しにすぎないのだが、接することができてちょいうれしかった。隣の会場の演奏音がばんばん漏れてきていて、彼らの小さ目の音がおおいにかき消され気味、少し気の毒だし、その真価をつかみにくかった。

▶スウィング・アウト・シスター
 これは、ちぃっと拾いものだった。何の期待もなく、時間が空いたからと見に行ったら、管セクションを含む15人ぐらいの大所帯で、実に高品質なソフト・ソウル/アーバン・ポップ表現を提出していた。コリーン嬢のヴォーカルもサウンドに負けず声が出ていて、ふくよか。この手の実演としてはかなり非の打ちどころがなかったのではないか。

▶スティーヴィー・ワンダー(2010年8月8日)
 昔は、そんなに彼のことを特別視していなかった。なんか、色づけやグルーヴが薄く感じられ、所謂ニュー・ソウル勢のなかでは、メイフィールドやハサウェイやゲイより、彼は下にいた。なのに、特別な理由もなく、彼のことがたまらないなあと感じるようになったのは、40歳ごろから。いつのまにか、大好きになってしまった。好みが緩くなってきたからかなあ。そして、インタヴュー(2005年11月3日、参照)経験後はそれがより強いものとなった。そんな人の実演を楽々ともろに受けとめることができて、ぼくはとっても幸せな気持ちになれた。
 予定時間から、90分以上遅れての登場。エリカ・バドゥと同様にインドネシア人によるインドネシアの国家斉唱がなされたのちに、ショウは始まった。タイムテーブルでは1時間半のパフォーマンス予定となっていたはずだが、なんと悠々2時間20分にわたる実演を見せる。ある意味、時間にルーズなフェスティヴァルって最高だァ。
 バンドがで出てきて(コーラス4人を含め、全14人編成)、しばらくしたあとにスティーヴィー・ワンダーがステージに出てきたのだが、観客の反応を楽しむように、すっと奥横に立っている。すごい歓声。その後、中央に出てきて、ショウはスタート。イエーイ。最初の2曲はショルダー・キーボードを弾きながら歌う。何をやったか、記憶がとんでいる。とにかく、代表曲のオン・パレード。メドレーぽいこともせず、1曲1曲をじっくり聞かせる。キーボードを弾きながら歌ったり、グランド・ピアノを弾いたり、立ってマイクを持ちつつ歌ったり、娘(アイシャ)のいるコーラス隊の位置に来て、コーラス隊の一員のような位置で歌ったり。そのパート、けっこう長かった。アイシャをフィーチャーした曲も1曲やったが、歌ったのは父親の曲ではなく、アシュフォード&シンプソン(2009年11月20日)が作ったチャカ・カーンの78年ヒット曲「アイム・エヴリー・ウーマン」。へえ。ともあれ、いろんな私を見せましょうという意思を強く感じました。
 キーボード・ソロも披露するジャジーなインストゥメンタルも披露したが、それはジョン・コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」だった。よりオデコは広くなったような感じもあるが、元気にはしゃいでいる感じに、ぼくのココロは溶けていく。来て良かったア、と思った。
 途中、トイレに行くため出口に向かったら、後ろのほうにライオン頭の男性が。ありゃ、パット・メセニーじゃん。もうニッコニコしながら、一般客に混じって見ている。お、写真も撮っているじゃん。実は初日のハービー・ハンコックのショウの際も、彼は客席で見ていた。メセニーにとってのフェスは、普段なかなか触れることができない同業者のライヴに客席から触れることができる場でもある? まっすぐな素の音楽愛好者の様に触れて、ぼくはメセニーのことを見直した。
 実はスティーヴィー・ワンダーはこの日(ライヴ前)の深夜の3時過ぎにホテルのセッション会場にジョージ・デュークと現れ、パフォーマンスをしたという! ぼくがその前にそこをのぞいたときはどうってことないセッションをやっていて、会場も混んでいたので、すぐにその場を離れてしまった。ガーン。話は飛ぶが、空港で日本に帰る便にチェックインするとき、ぼくの前に並んだのがフェス出演のあと日本公演に向かうフランク・マッコム(2011年3月4日、他)だった。彼に、「今回、スティーヴィーと会った?」(プリンスのホーム・パーティで、スティーヴィー・ワンダーと一緒にパフォーマンスしたことがあると、かつてインタヴューで言ったことがあったはず)と聞くと、2日目の夜に一緒にセッションしたよとの返事。なぬ、話題となっていたワンダー/デュークのセッションにはマッコムも参加していたのか。どうやら、マッコムがやっていた所に二人がシット・インしたようだ。
 この日の深夜はジャム・セッションの会場にけっこういて(すいている、ステージが見えないテーブルにいた)、シラーズのワインを2本あけたが、その日は見ている者が色めき立つ出演者はなかったよう。でも、ちょっといい話ができた。
 
 書くのを忘れていたが、スティーヴィー・ワンダー公演の特別料金は桁が違っていて、2万5000円ぐらい。それ、インドネシアの感覚だと10万円を超えると思うが、それでも人は集まる。それは彼の威光であるとともに、やはりインドネシアは豊かになっているんだろう。

 他に出演した主な海外アーティスは、ポンチョ・サンチェス(2007年7月17日、他)、シーラ・E.(2011年1月18日、他)&ザ・Eファミリー(ちょっと見たけど、かなり大人数でことにあたっていた)、アルフレド・ロドリゲス(2011年11月25日)、シャンテ・ムーア(2008年12月8日、他。愛想良く「テレマカシ(ありがとう)」を連発していたな。ジェラルド・オルブライトかだれか、スムース・ジャズ系の名のあるサックス奏者を招いた特別編成にての実演)、フィル・ペリー、ローラ・フィジー、ジョーイ・デフランセスコ(2010年12月1日)、ロバート・ランドルフ&ザ・ファミリー・バンド(2012年2月28日、他。終了直前の様を見たけど、ギタリストが混ざっていた)、フランク・マッコム(これまでの日本公演はサックス奏者なり打楽器奏者も抱えてやっていたが、今回はトリオ編成だった)、など。

 地元のバンドで一番立ち止まって見たのは、一番大きな野外ステージでやっていたG-プルックという4人組。で、これがザ・ビートルズのコピー・バンド。やっぱ、どこにでもいるんですね。彼らは初期風の格好や髪型をし(ベーシストは左利きだったっけ?)、ソツなく楽しいカヴァー曲演奏を行う。ニコっ。一緒に口ずさんでいる人も少なくなかったな。初期曲だけだく、「カム・トゥゲザー」とか後期のバンドっぽい曲もやっていた。なお、彼らはステージの両端に、コートやジャケットを4点得意げに飾っていたが、それは縁の品であったりするのだろうか。

 リハーサルとか、音のオペレーションの部分とか、送り手にとって内側はなんだかんだ大変だったところもあるようだが、出演者たちはみんなちゃんとやっていたと思う。そして、いま日本だと音楽にまつわる話はネガティヴなものが多いが、まだこちらでは娯楽として光り輝く位置に音楽が存在する感じがヘルシー。うれしくもなる。それは、スポンサーの多さにも顕われているのではないか。

<今日の、交通>
 外国に行ったときに一度は考えるのは、オレはここでストレスを感じることなく車を運転できるか、ということ。インドネシア語の文字はアルファベットで、そして車線は日本と同じ左側通行。それゆえ、運転しやすそうに一瞬思ったが、ぼくが行った外国の都市のなかで一番運転することに絶望的になったのがジャカルタと言える。ぎょっとするぐらいバイクの数が多く、膨大なそれが車に群がるように、ぐちゃぐちゃで流れていく様には驚愕。これじゃ、すぐに交通事故が起きそうとも感じたが、滞在中にそれには出会わなかった。だが、ぼくが運転難しそうと思うのはそういうの抜きの部分、ジャカルタの道路のありかたが妙だから。ここでは普通に車道がクロスする交差点がなく(故に信号がない)、かわりに変てこなラウンド・アバウトのようなものがあるのだが、違う道路に入るにはとっても手間がいるし(それが重なると、なんか方向感覚も狂う)、今まで頭の中にある交通の物差しを取っ払う必要があると感じてしまうのだ。なお、広い道路は両交通だが、少なくてもジャカルタ中心地の道路の多くは一方通行となっている。走っている車は、トヨタの大圧勝。そして、ホンダとニッサンがわずか。シルヴァー・バード・タクシーはメルセデスを使っていた。1回だけ、パジャイ(タイでいうところの、トゥクトゥク)という三輪タクシーに乗った。ちょいうれしかった。

 1926年生まれだから、85歳。へえー。ちょい段差はゆったりのぼるが、杖をつくこともなく、背筋をピンとのばして、アルト・サックスをブロウする。やっぱり、好ましい年輪をいろいろ感じさせられたな。

 50年代前半から70年代中期にブルーノート・レコードが閉まるまで、ずっと同社に在籍したスター奏者。60年代を回るとオルガンを採用したソウル・ジャズ風の行き方で当て、その方向性はクラブ・ミュージック期になるとより顧みられている。

 サポートは、敦賀明子(オルガン)、ランディ・ジョンストン(ギター)、田井中福司(ドラム)。二人の日本人奏者は長くNY在住する奏者たちで、敦賀は何枚もジミー・スミス(2001年1月31日)を根に置くリーダー作を出しているし、田井中はずっと前からドナルドソン・バンドに入っている。白人ギター奏者のジョンストンも何枚もリーダー作を出すとともに、やはりソウル・ジャズ系テナー・サックス奏者のヒューストン・パーソン作に名前を出していたりもする。

 「ボディ・アンド・ソウル」や「チェロキー」などのスタンダードから、ソウル・ジャズ有名曲にして彼十八番曲(ドナルドソン作曲)の「アリゲイター・ブーガルー」まで、悠々と披露。面白いのは、テーマ→ドナルドソンのソロ→ジョンストンのソロ→敦賀のソロ→テーマという順で、どの曲も演奏されること。普通のジャズ・マンだと変化を出すためにオーダーを代えるものだが、大人(たいじん)はそんな策をろうしたりはしません。敦賀のハモンド演奏はまさに堂にいる(ベース音は左手で弾いていたのかな)、いい音を出していました。

 それから、最高だったのは、“彼女は一日中、ウィスキーを飲んでいる”と歌い始められる純スロウ・ブルース曲(俺の女だから、というのがオチ)を、じっくりドナルドソンが歌ってくれたこと。すんげえ味あり、とても良い。全曲ヴォーカル曲でもいいじゃないか。なんか大昔のブルース・フェスの場に俺はいるのか、なぞともと思ってしまった。やはり、米国黒人音楽の大河はつながってきた。そんなことをさらりと出しもする御大、やはり今や貴重な担い手というしかない。南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。アンコールにも応え、1時間20 分強やったはず。
 

<今日のエスペランサ>
 帰国後すぐ、けなげに勤労。おもったほど寒暖の差がきつく感じもしないし、不思議とストレス感じないなー。なにより、なにより。午前中から新作『ラジオ・ミュージック・ソサエティ』(ヘッズ・アップ/コンコード)プロモーション来日中のエスペランサ・スポルディング(2011年2月17日、他)にインタヴュー。前回の取材も午前中だったよなー。早起き、けっこう機材を持ってきていて、朝から作業しているらしい。とにもかくにも、何度あっても、いろんな部分で、ええ娘やあ、と思わずにはいられず。
 複数の血が入っている彼女ではあるが、アフリカンとしての意識が強く、その自負をしなやかきわまりない音楽に、特に今回はのせている。そんな新作のほとんどの曲に彼女は映像をつけていて、夜は関係者をまねいて、その発表会(大げさに言えば、ワールド・プレミアらしい)が明治神宮前のカフェであった。実は帰国便に乗る日のジャカルタ早朝からお腹をこわしていたのだが(やはり、インドネシア侮れず。帰りの飛行機のなかで、いっさいアルコールを飲む気にならなかった。そんなこと、自分の人生において初めてのこと)、ゴクゴク飲んでもなんともなく、お腹もいたくならない。お、薬飲んでも効かなかったのに、お酒飲んじゃったらなおったじゃないか。で、にこにこでライヴ会場に向かう。↑

 シンディ・ローパーは、まるっきりシンディ・ローパーなり。なんか澄んだ心持ちのもと、心意気と真心ありすぎ。そのパフォーマンスからは、音楽の力を信じる尊さが溢れまくり。そりゃ、頭をたれるしかない。

 昨年の3.11当日、地震直後に来日(成田に降りられなくて、横田基地に最初おりたよう。招聘スタッフによる昨年のローパー来日時の日記がパンフレットに載せられていて、それが興味深い)。そのまま、日本にいることを選択し、心の限りの音楽活動を遂行したシンディ姉さん(2011年3月16日)が、ちょうど1年後にまたやってきた。その惨事を風化させまい、もっと人々を力づけなきゃという気持ちを掲げるかのように。日本ツアー開始前に、彼女は宮城県の被災地を訪れたりもしたようだ。

 渋谷・オーチャードホール。東京公演の初日。バンドは昨年と同様といえるもの。近年のローパー表現を支えているキーボード奏者のスティーヴ・ガバリー以外は、南部メンフィス在住のミュージシャンたちで、スティーヴ・ポッツ(ドラム)、アーチー・ターナー(キーボード)、ウィリアム・ウィットマン(ベース)、マイケル・トゥールズ(ギター)という面々。そして、さらに今回は白人ブルース・ハープ(ハーモニカ)の大御所であるチャーリー・マッセルホワイト(!)も同行している。彼はステージから離れる曲も少しあったが、ブルース曲外でも演奏に参加し、ホーン奏者的役割を勤めた。

 演じる曲はローパーのキャリアを教える代表曲と昨年発表のメンフィス録音作『メンフィス・ブルース』からの曲、そして“その他”。ブルース・ハープ奏者が入っているということで、前回以上にブルースっぽい行き方を見せるのかと想像する人がいるかもしれないが、新作収録曲比率は前回よりも低目で従来のローパー曲のほうが多い。それは、普通のシンディ・ファンにはありがたいか。ただ、やはりハイ・サウンド(南部ソウル)系奏者を数多く採用したバンド・サウンドはやはりどこかゴツっとしていて、実直。それこそは、今回も引き続き南部の奏者を起用し続ける彼女が求めるところであっただろう。

 興味深かったのは、“その他”の楽曲。昨年もツアー途中から思いつきで歌ったりもしたようだが、マーヴィン・ゲイの大ヒューマン告発曲「ホワッツ・ゴーイン・オン」をきっちりとアレンジを施したうえで、前半部に披露。じわん。また、中盤では、「忘れないで」という日本語曲をもろに歌う。それ、なんでもリトル・ペギー・マーチという米国RCAが60年代に送り出した10代歌手(1948年生まれ。その「アイ・ウィル・フォロー・ユー」は1963年に全米1位を獲得しているよう)の曲。ぼくはその名前さえ知らなかったが、60年代には度々来日して、その際に日本人作家による日本語曲をいろいろと録音していたらしい。世の中、いろんなことがあるもんですね。そして、大成前に日本食レストランで働いていたとき、ローパーはこの曲に触れていたようだ。という能書きはともかく、彼女はこの曲を日本に対する思いの強さを出さんとするかのようにきっちり覚え、きっちり歌う。ちょい、演歌調? そして、バンドのアレンジというか、その曲で採用したビートはもろに特徴的なハイ・サウンドのそれ(ブッカー・T・ジョーンズ&ザ・MGズ〜2008年11月24日〜で来日しているスティーヴ・ポッツの叩き口、お見事)。ニンマリできました。
 
 アンコール最後は、スティーヴ・ガバリーとチャーリー・マッセルホワイトの二人の伴奏のもと、あまりに著名な彼女の大ヒット“励ましソング”を。会場内には、送り手側と受け手側のいろんな気持ちが交錯しあい、舞っていた。

<今日の心持ち>
 もうすぐ、1年。1年ぶりのローパーの実演に接して、昨年の暗い状況、暗い心持ちを思い出した。ローパーは“パワー・トゥ・ザ・ピープル”というジョン・レノン流れのメッセージもアピール。また、持ち歌を歌っていたさい(何の曲かは忘れた)、オーティス・レディングの「ファファファ」をさらりと歌い込んだりもした。それから。実は、震災後もっともすぐに来日して公演をした英国がらっぱちロッカーのルー・ルイスもまた、ちょうど1年後に日本にやってこようしようとしていた。が、過去の悪行をとがめられ、入国審査でひっかかり入国できなかったのだという。昨年は被災直後で審査があまくなっていたのか。ともあれ、ルイスの侠気も胸にとめておきたいな。

 丸の内・コットンクラブで、NYに拠点を置く奏者たちで組まれた多国籍グループを見る。リチャード・ボナ(2011年1月25日、他)からサム・ヤエル(2006年8月24日、他)までいろんな人のアルバムに参加しているフィラデルフィア出身のドラマーをリーダーとし、イスラエル生まれのピアノ奏者であるシャイ・マエストロ(現在、ベーシストのアビシャイ・コーエン-2006年5月17日-のバンドにも参画)、一部でかなり高評価を受けるイスラエル人ギタリストのギラッド・ヘクセルマン(過去、モーション・ブルー・ヨコハマでリーダー公演をしているよう)、英国出身コントラバス奏者のオーランド・ル・フレミングという面々による。

 基本はホーニグのオリジナル曲をやっていたのだろうが、なるほど、これは賢者の今のジャズだと頷く。的確に書き留められないのがもどかしいが、作曲を介した編み込みの集団表現から伸縮自在に即興という淡い光がこぼれ出る……と、いう感じ。曲は基本激しいものではないが〜ながら、上半身や頭を活発に動かしながらホーニグはけっこうアグレッシヴに叩く〜、それでも確かな意図や含みや大志を感じさせるのだから、その行き方は賞賛されるべきものだろう。アコースティック・ジャズの行方を真摯に追おうとする若手(みんな30代半ばぐらいか)の存在を確認するとともに、いまだNYはジャズ・ミュージシャンの中心地であることをおおいに了解した。

 その後は南青山・ブルーノート東京に移動して、米国(1965年ニュージャージー州)生まれながら、英国にわたり活動し、そしてエスタブリッシュされた女性歌手を聞く。ピアノ(一部電気ピアノも)、テナー・サックスとソプラノ・サックス(旦那だそう。ちょい悪オヤジ風で、スタン・ゲッツが好きそう)、ウッド・ベース、ドラムというカルテットがつくが、彼らはみな英国人なのだろうか。そういう男性陣の的をいた穏健派演奏にのって、ケントはまったく無理のない、これまた穏健きわまりないジャズ・ヴォーカル表現を無理なく披露する。彼女の、マイクと口の距離〜歌声の強弱の付け方の留意し具合は相当なもん。それゆえ、声自体はどこか耳に残る粘り気や歯切れの良さももつのだが、癒し系という言い方もできるだろう。和め、いい気分になれるジャズ・ヴォーカルの実演を見たいという人にはまさにぴったりの存在と、そのパフォーマンスに接しつつ思う。

 へえと思ったのは、「3月の雨」とか「イパネマの娘」とか、ブラジル曲をけっこう取り上げ、またボサノヴァ系リズムを採用する比率が高いこと。ガル・コスタ(2006年9月22日)で知られるカエターノ・ヴェローゾ曲「コラソン・ヴァガボンド」もボサノヴァ調で披露。ケントは、カエターノ・ヴェローゾ(2005年5月23日)は一番尊敬できる人みたいな発言もしていた。そういえば、ボサ調の曲をやる際、ケント(2曲)と旦那(1曲)はガット・ギターを弾いたりした。で、アンコール曲は、「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」。うまく、まとめるなあ。……うまくまとめてないなと感じたのは、ケントのお洒落じゃない格好。パンツとシャツで、普段着みたいに見える。伴奏陣はちゃんとスーツぽい格好をしているのだから、主役にももっと気を遣ってほしかった。

<今日の料理>
 「趣味は料理デス」なぞとはどう転んでも言えないワタシではあるが、たまにハタとしたくなることもある。ま、“工作”ですね。ホロ酔い気分ながら、寒い寒いと震えながら帰宅したこの晩は、なぜかまさにそんな気分となり……。むくむく食材加工意欲が湧いてきて、冷蔵庫のなかのチェック。サフランはなぜか賞味期限内のものがあるが、肝心の魚介食材が足りない。どうせなら、豪華に作りたい。飲んでいるので、車で出かけられないので、買い出しには歩いていくしかないけれど。一度湧いた意欲は大事にしようと外に出たら、ちょうど人をおろそうとするタクシーがとまっている。思わず乗り込み、午前2時までやっている最寄りのスーパーではなく、少し離れていてキブン高級な24時間営業のスーパーへGO。ちょちょいと買い物する間、タクシーには待っていてもらう。運転手さん、苦笑。白ワインも買っちゃうゾ。と、年に一回あるかないかの晩はすぎていくのであった。   うまーい。

 ルル・ゲンズブールは、その名字で察しがつくようにキャラクタリスティックな仏シンガー・ソングライターであるセルジュ・ゲンズブールの息子だ。セルジュと混血モデルのバンブーとの間に1986年に生まれているので、彼が5歳のときに父親は亡くなったということになる。もちろんシャルロット・ゲンズブールは異母姉、仲はいいようで、シャルロットのベック制作の2010年作『IRM』(エレクトラ)にルルはレコーディング参加していた。そして、バークリー音楽大学も出ているという彼は2011年ユニヴァーサルから父親の曲をひも解き直した初リーダー作『フロム・ゲンズブール・トゥ・ルル』(原題も同じ)をリリース、そこで彼は表現統括者的な位置に基本いて、各曲にルーファス・ウェインライト、イギー・ポップ、ヴァネッサ・パラディ、ジョニー・ディップ、マリアンヌ・フェイスフル、シェイン・マガウアン、リチャード・ボナらを配置していた。

 ステージ上に登場した本人は、ヌポーとした人。デビュー作ジャケットの絵とはかなり離れた感じ。外見だけだと、父親を想起させる部分はたぶん(ぼく、そんなにセルジュ・ゲンズブールのこと詳しくないもので)ない。1曲ごとに挟む曲紹介MCは英語とフランス語のチャンポンで、単語数はとても少ないものの、確かなイントネーションの日本語も時に挟む。ちょい素人くさいが、途中からコイツほんといい奴なんだろうなという所感がぼくのなかでは膨らんだ。1曲目はドラムから始まったのだが、それはもろにスティーヴィー・ワンダーの「迷信」ふうであった。

 バンドはサックス、鍵盤、ギター、電気ベース、ドラムス。うち、サックス奏者や鍵盤奏者は父(ルルは「マイおとうさん」とMCで言ったりも)のバンドにいたミュージシャンで、アメリカに住んでいると紹介されたか。スタン・ハリソンというサックス奏者以外は、皆フランス人ぽい名前を持つ。実はそのハリソンは80年代以降NYのスタジオ界でけっこう活躍している人物で、デイヴィッド・ボウイ、デュラン・デュラン、トーキング・ヘッズ、デイヴィッド・サンボーン、レディオヘッド、ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツなど、いろんなアルバムに名を出している。ブルース・スプリングスティーンの2012年新作『レッキング・ボール』(コロムビア)にも彼は参加していますね。

 先に少し触れたように、ぼくは“ジャマイカに行ったり、女装したりする”ゲンズブールしか知らない聞き手なので、断言はできないが、披露される曲はどれもゲンズブール曲であったよう。パリ生活の長い人が、そう言っていた。基本、シンプルな伴奏にのって、中央に立つルル・ゲンズブールが歌う。また、彼がピアノを弾くインスト曲もあった。六本木・ビルボードライブ、ファースト・ショウ。

 そして、南青山・ブルーノート東京で、西海岸在住ジャズ・ピアニストのカルテットを見る。

 で、まずは不明を恥じたりして。実はその奇麗な弾き口もあり(編曲にもたけ、クラシックの素養も持ちそう)、ぼくはビリー・チャイルズ(57年、カリフォルニア州生まれ)のことを白人奏者だとばかり思っていたのだ。が、どうやら肌の色は濃くはないもののアフリカンの血が入っていると、本人を見て了解。1980年代後期にアルバム・デビューの機会を与えられ、当分在籍したのが、ウィンダム・ヒルであったという事実はその勘違いの発端となっているか。サイド奏者は、アルトとソプラノ・サックスのスティーヴン・ウィルソン(61年、ヴァージニア州生まれ)、ベースのスコット・コリー(63年、カリフォルニア州生まれ)、ドラムのブライアン・ブレイド(70年、ルイジアナ州生まれ。2011年5月21日、他)という、みんな10作前後のリーダー作を持つ腕利きたち。なにげに、ミュージシャンズ・ミュージシャンであると、思わせられる。

 演奏したのは、チャイルズのオリジナル曲が主だったのかな。サラサラ感を持ちつつもけっこういろんな含蓄や思惑が差し込まれていて難しいんだろうナと思わせる曲を題材に、4人で淡々と音を重ねていく。手癖がきれい、間違いなく高尚にして、上品。そして、その奥に、ジャズをジャズたらしめる、一握りの刺や濁りがある。なんとなく、霞を食べているような、仙人ジャズだとも思った。

 MCによれば、初来日は1977年のJ.J.ジョンソンのバンドであったそう。それを言ったとき、ウィルソンがすごい小さいときだよねという素振りを見せ、笑いを誘う。リーダーとしての来日公演は今回が初とか。素直に、うれしそう。気合いれて、サイド・マンをそろえた? ウィルソンとチャイルズは同じチック・コリア関連サークルにいたとも言えるし、リズム隊はコンビを組むときもある。直近では、ジョン・スコフィールドの2011年盤に2人は参加していますね。という面々に接しながら、ミュージシャンの輪をめくっていくような感覚もぼくは得たか。

<今日の、ブルブル>
 日々、日は長くなっているが、暗くなると寒い。今日は風もあって、よけいに寒さを感じた。あー、鼻水が出るよお。という状況ではあるのだが、3月を回ると、大げさなコートとかは生理的に着づらくなる。厚着していると、春の到来に鈍感な、イケてない人という感じが出てしまうようで。。。事実、他の人々の格好を見ても、まだ真冬の人もいることはいるが、それなりに薄着になっているよな。でも、寒い。飲んでいても、まだ花見の話は出ない。まだまだマフラーははなせません。

 見た順ではなく、逆順で記す。後に見たのは、フランスの自作派ソウル歌手(1984年生まれ)。みんな、ウキッキッキだったんじゃないか。南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。

 会場内は、年有数と言えるだろう混み具合。2年前に仏ユニヴァーサル(レーベルはモータウンを用いる)から出したデビュー作はキャラを持つ温故知新型ソウル作となっていて、少し話題にはなった。だけど、日本盤は出なかったし、少なくても我が国においては派手な露出はなかったと思われる(ぼくはといえば、bmr誌で輸入盤レヴューを書いただけ)が、この大盛況はすごい。直近になって予約が急に伸びたようだが、何がプラスした?

 でも、雨のなかやってきた人たちの判断はまこと正しいというしかない。音楽的にも、視覚的にも充実し、楽しみどころたっぷりの実演を見せたのだから。彼はユニヴァーサル盤の後にインディからライヴDVD/CDをリリースしているが、本人たちも実演には自信をもっているんじゃないか。そのバンドは、ギター、キーボード、ベース、ドラム、トランペットとバリトン・サックス(こんな持ち替えをする人は初めて見た)、アルト・サックスに加え、男性サポート・ヴォーカルが2人という内訳。コーラス陣とベーシストはアフリカ系、彼らはみんなスーツ基調、コーラスの一人は半ズボンにネクタイ。

 そして、なんか人なつこい持ち味を振りまく当人は蝶ネクタイ&サスペンダーを身につける。歌う3人の息のあったアクションに会場は即わき、2曲目から客はみんな立ち上がる。早っ。繰り返すが、ヴォーカル陣のフリや絡みはなんとも魅力的。それに触れると、ソウルのヴォーカル・グループを趣味でしたくなる。

 先に書いたように、彼のやっていることは温故知新型表現ではあるのだが、いろんなソウル表現を俯瞰し、それを自分の持ち味を通した娯楽表現として打ち出せていて、それは輝いていて、訴求力大。そのとっぽいキャラクターはノーザン・ソウルのほうが似合うと思われるが、ヴォーカルの味やホーン音などはサザン・ソウル色をしかと持つ。そして、そこからは、ソウル・ミュージックを生んだ米国の外で生を受けたからこその、切実なモワモワのようなものも浮き上がるのだから、いい気分にならないはずがない。

 バッキング・コーラスの二人にもリード・ヴォーカルをとらせる箇所があったが、それぞれ歌ったのは、ザ・テンプテーションズの「マイ・ガール」とプリンスの「キッス」だった。そして、それに続いて本人が歌ったのは、レイ・チャールズの「ホワット・アイ・セイ」。もちろん、その際は、熱烈なコール&レスポンス大会となる。ライヴを終えて、オレたちやったぜみたいな感じで、ファイヴ(手のひら)や拳を会わせ合うステージ上のメンバーの様がまた良い。これだけ受けたんだから、また来る機会が与えられるはず。

 その前は、六本木・ビルボードライブ東京で、大御所ジャズ・ピアニスト(1941年、オハイオ州生まれ)のソロ・ピアノ公演を見た。フリーダム、運営にも関わったストラタ・イーストからアルバムを出した60年代後期〜70年代中期は、フリー・ジャズ系ピアニスト(一時、電気キーボードに向かったこともあった)として気を吐いた御仁で、ECMも73年に彼のアルバムを出した。90年代はコンコード・ジャズやスティープル・チェイス(そのころ、欧州に住むようになった?)からいろいろ作品を出していることが示すように、落ち着いた作風を見せるようになった。

 奇麗にスーツを着こなす(←エスタブリッシュされているノリ、おおいにあり)カウエルは見た目だけでいいじゃんと思わせる。MCはピアノから離れ、中央のマイクに向かって立って、きっちり行う。それも、マルと思わせる。

 曲は自らの70年代上半期の曲を多く演奏したようだが、MCの際に曲名を忘れても、指さばきは譜面無しで闊達、確か。ほうと頷いたのは、タッチの強さとリズミックさ。そして、左右の運指の微妙なバランス〜噛み合いの良さ。それゆえ、ストライド・ピアノっぽいなと思わせるときもあり、曲想が奇麗でも上滑りしない。とともに、そうした演奏は、ジャズはアフリカン・アメリカン・ミュージックなのだときっぱり示す部分があって、ぼくは頷きまくるしかなかった。彼なりに、アート・テイタムに捧げたピースもあり。やはり、触れて良かった。

 アンコールは親指ピアノ(小さなボディの裏に液晶表示板があって、下に流れる反復音もそこから出ていたよう)をポロポロ弾く。

<今日の、ギタリスト>
 カウエル公演終演後、声をかけられる。振り向くと、orange pekoeの藤本一馬(2011年8月22日)くん。相変わらず、笑顔が人なつこい。バラケ・シソコ&ヴァンサン・セガール(2011年6月6日)とかアブドゥール・イブラヒム(2011年8月7日)とか、彼とはちょい癖ある個性派ミュージシャン公演のときにばったり顔を合わせたりする。確か、orange pekoeも近くここでライヴをやるよなと思って問うと、明日であるという。管や弦も入った特別編成で、それ用のアレンジのため譜面と向かいっぱなしであったそう。ごめんね、明日は別な用事が入っていて。

 長く日本ジャズ界の第一人者であり続けているギタリスト(2010年11 月20日、他)のブルーノート東京公演は新作『トリコロール』で雇っていた在NYのリズム・セクションを呼んでのもの。5弦電気ベースを弾くヤネク・グウィズダーラ(うれしそうに弾く人だな)とアフリカ系ドラム奏者のオベド・カルヴェール。統合的なサウンド作りの才も持つグウィズダーラはリーダー作も持ち、一方のカルヴェールはリチャード・ボナ(2011年1月25日、他)やデイヴ・リーブマンやR&B歌手のジョー他のアルバムで叩いている。けっこうガチっと叩く彼のドラミングに接して、ロックに主活動分野を移せば、けっこう売れっ子になるかなとも思う。

 複雑な自作系曲をやるなか、途中でリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」の変則編曲(MCによれば、メンバーのアイデアらしい)によるカヴァーを披露。なかなか新鮮で、味よし。で、それは耳なじみの著名メロディを取り上げたからであると確信するとともに、饒舌を通して越境しようとする彼の演奏の美点は覚えづらいオリジナル系楽曲ではなく、優しい著名メロディ曲を題材にするほうが、よりアピールされると思った。たとえば、ビル・フリゼール(2011年1月30日、他)がバート・バカラック曲やザ・ビートルズ曲を弾いて自らの飛躍を鮮やかに聞き手に伝えるように。フリゼールはどんどんスペースを作り出していくようなギター演奏をしていくのに対し、渡辺はスペース(常人にはなかなか見つけられないスペースも彼は見つける)を徹底的にギター音で埋めていくタイプの人であるなあとも、ぼくは思った。

 アンコールは彼がツアー・メンバーを勤めたこともあったYMOの「ライディーン」を陰鬱傾向に開き直して披露。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。

 そして、六本木・ビルボードライブ東京に移って、イーグルス(2011年3月5日)にいたギタリストのドン・フェルダーのショウを見る。本家は東京ドームで複数回公演ができるわけで、入りは上々。もともとジョー・ウォルシュと仲良しだった感じがあって、昔あまり興味の持てないイーグルスのなかでは一番親近感を持てた人ではあったが、熱心なファンのなかにもイーグルスは彼のギターがあってこそと思う人はいるらしい。

 「ホテル・カリフォルニア」ではじまり、「テイク・イット・イージー」で終わる。女性の抗しがたい魅力を題材にした「ウィッチー・ウーマン」をやる際には、女難のタイガー・ウッズに捧げるとのMCあり。ネタが古いナ。イーグルスにまつわるお金のことを問いただしたら→バンド首脳のドン・ヘンリーやグレン・フライから解雇を言い渡され→裁判に持ち込みわりと勝った感じになり→“株式会社イーグルス”の暴露本を出して話題を呼んだりも、という流れを今世紀の彼は持つよう(すべて熱心なファンからのまた聞き)だが、27年間在籍したという(ショウが始まる際の英語口上による)イーグルスの曲をけっこうやった。ま、ソロ・アルバムは1983年に1枚出しただけだしな。

 ギターを弾きながら歌う当人に加え、ギター、キーボード、ベース、ドラム奏者。みんなLA産のアルバムに名を出しているミュージシャンたちで、特にキーボード奏者のティモシー・ドゥルーリーはイーグルス作やドン・ヘンリー作に関与していたりする。おもしろいのは、ギターの二人にはそれぞれ使用人がついていて、彼らのかいがいしいサポートにより曲ごとにギターをかえていたこと。2人はそれぞれ1曲づつスライド・ギターを弾いたりもした。

 ベーシストが1曲とった以外はすべて、フェルダーがリード・ヴォーカルをとる。もともとシンガーではないのでそれほど上手ではない。だが、無理のない老後を悠々過ごしているという感じのためか(?)イヤな感じはない。短髪の彼の外見は、ビリー・アイドルがじさんになったと言いたくなるか。それから、コーラス・パートはみんな歌って、厚く立派だった。

<今日の、スポーツ>
 早朝、起こされる夢で目がさめる。ちっ。そしたら、ちょうど大リーグのオープン戦のテキサス対ミルウォーキーの試合をスポーツ・チャンネルでやっていて、野球に興味がないのに見てしまう。先発がダルヴィッシュ。初めて、彼の投げる姿を見る。なるほどイケ面で足も長いが、意外とがっちりした体つきなんだな。アオキというミルウォーキーの選手が大活躍。やはり、日本人選手が活躍するのは何気にうれしい。そういえば、90年代に、ぼくは米国で野茂が先発する試合を2回見たことがある。オレ、そのころはまだ野球に興味を持っていたのかな。まあ、今も渡米中にプロ・スポーツを見る機会があったら、野球にかぎらず、喜んで見ると思うが。それにしても、投手が1球投げるたびに止まる(ランナーがいる場合、厳密には止まらないけど)野球は本当に異色のスポーツだと思う。根気や集中力のないぼくには向きではあるのかと思いつつ。
 そして、14時からは、国立霞ヶ関陸上競技場でサッカーの試合を見る。スポーツ観戦日和、あと5度ほど気温が高かったら最高だな。アジアのNo.1クラブ・チームを決めるACL(AFCチャンピンズ・リーグ)のグループ・リーグの国際試合でFC東京対蔚山現代。わーマリノスから移籍した渡邉が先発なのがうれしい←なにげにマリノス・ファンだね。2-2、最後においつかれて、少しどよーん。ポポヴィッチ監督、おもしろい試合を期待します。

 まず、水道橋・後楽園ホールに行く。84年か85年に英国レゲエ・バンドのスティール・パルスを見に行っていらい、このボクシングとかよくやっている会場に来る。あれ、もっと広い印象を持っていたが、こんなものか。リング+αをステージとし、いちおう四方から客が取り囲む。

 そんな特殊(?)会場で催されるのは<即興対戦型ライヴ>と副題された催しで、いろんな組み合わせで、一期一会的な即興演奏を提供。厳密には、”対戦”というお手合わせはなかったけれど。過去、同様のコンセプトによるコンピレーションCD が出され、2度ほど公演がもたれているようだ。アーティスト同士の自在の丁々発止対話の追求というのはフリー・ジャズの分野では当たり前にあることだが、ジャズの語法/文脈を避け、より同時代的行為というノリを強めたところで、それを求めたいという気持ちが主催者側にはあるのかな。ともあれ、1000人もの客(目測、なり)を集めるのだから、それは成功。ここに来たなかから何%かでも、フリー・ジャズ/ミュージックに入り込む人がいれば素晴らしいと思う。
 
 出演者は4組。千住宗臣(2011年5月22日、他)と服部正嗣(2010年5月13日)、このドラマー二人の演奏は場内が明るいなか、前奏的なものとしてなされる。2番目のDJ KENTARO(2005年11月25日)と古いオープン・リールのレコーダーを操る(それ、メロトロンの分散的構築とも言える?)集団のOpen Real Ensembleのセットはアブストラクトな音を重ね合う。次のいとうせいこう(クチロロのメンバーになったそう)とShing02(最初、プロレス風のマスクをかぶって登場。2010年2月25日、他)の肉声と言葉の使い手どうしの組み合わせ。そこには、下敷き音担当のDJも加わる。そして、最後は坂本龍一(2011年8月7日、他)と大友良英(2011年6月8日、他)。坂本はグランド・ピアノ(ながら、マイクで拾った音がPCに取り込まれ、それで音効果をかけたりも)、大友はギター、ターンテーブル、PC、打楽器/鳴りものなどフル・セット(?)を用意。

 プロジェクトFUKUSHIMA流れの組み合わせと言えなくもない、“世界の音楽家”どうしの邂逅の途中で六本木に移動する。あれ、カーナビを2台(にプラスして、ネズミとり関知の小さなモニターも)設置しているタクシーは初めてだ。

 そして、六本木・ビルボードライブ東京で、現役バリバリのR&B歌手のなかでももっとも油が乗っていると言えるだろう人(2010年1月8日、他)を見るが、やはり何度聞いてもほれぼれ。格好はカジュアル、たまにスキャットをかますこともあるが、完全にジャズ項目を抜いたポップ路線で私を出す。とても高いヒールの靴を履いて歌っていたが、のど自慢にはそんなことも関係ないんだろうな。女性コーラス2人、鍵盤2人、ギター、ベース、ドラムという布陣。コーラスの2人にもリード・ヴォーカルをとらせたが、そういうことをするのには初めてのような。見ながら、サンフランシスコ居住時代の彼女(現在はLA在住なはず)と仲良しで初期来日公演もサポートしたザ・ブラクストン・ブラザーズ(2002年6月12日)はどうしているのかと一瞬考えた。

 終盤、ルイ・アームストロングで知られる「ホワット・ア・ワンダフル・ナイト」を鎮魂歌ぽいノリで、彼女は歌ったりもした。この前のステイシー・ケント(2012年3月12 日)、そしてヘイリー・ロレン(2012 年2月13日)公演でも、このヒューマン・ソングは気持ちを込めて披露されている。来日アーティストは彼女たちなりに、震災に対する何かを、来日して胸にとめているのか。


<今日の、逃避?>
 午前中から、なぜか暢気にテレビっこ。映画チャンネルでたまたまやっていた、「オーケストラ!(Le Concert)」という、ロシア人が沢山出てくる2009年フランス映画を見ちゃう。クラシックの指揮者とオーケストラを題材とする、荒唐無稽なストーリーを持つ作品で、クラシック版「ブルース・ブラザース」と言えなくもないか。メラニー・ロランが奇麗。パリに演奏に行ったオーケストラ団員であるロシア人ユダヤ系演奏家たち(排斥される彼らを守ろうとしたため、主人公の指揮者は30年前に失脚したという筋書き)の振る舞いは、もろに我々が来日ジプシー系音楽家から受けるものと同様だった。

ライラ・ビアリ

2012年3月22日 音楽
 冒頭、ジョニ・ミッチェル、ロン・セクスミス(1999年9月12日)、ダニエル・ラノア(2012年1月16日)、レナード・コーエンとカナダ人の楽曲を連続してカヴァー。ビアリ(2008年6月1日、他)はジャズとポップの間をとても見目麗しく泳ぐカナダ人シンガー/ピアニストで、過去スザンヌ・ヴェガ(2012年1月23日、他)の鍵盤奏者として来日したこと(2008年1月24日)もあった。また、その後は、サイド・マン選択に一言も二言も持つスティング(2000年10 月16日)のバンドにも参加したそうな。丸の内・コットンクラブ、ファースト・ショウ。

 やはり、味がいい。サポートのウッド・ベーシストもアフリカ系ドラマーも腕がたち、彼女の落ち着いているんだけど、いろいろと才気が散りばめられた表現を見事に底上げする。終演後、彼女のCD を購入する客が散見されたが、そりゃそうだろう。それは、実演の魅力のまっとうな勝利だ。

 途中、ピアノから離れ、ステージ中央に出てきて、ウクレレを弾きながら、ほんわかとスタンダードの「ナイト&デイ」を歌ったりもする。人の良さが随所に顕われ出るのも、この人の好ポイントだな。


<今日の、飲み会>
 その後、ある実力者がたまにひらく私的な音楽宴会に顔を出す。そしたら、腕のたつジャズ・ミュージシャンがいるのは常なのだが、歌謡曲界の著名女性歌手もいて、驚く。米国人グループと組んだ昨年アルバムが海外で好評を得て大きな話題を呼んだ彼女は「マシュケナダ」とジャズ・シタンダード(なんだったっけな?)をジャズ・コンボの伴奏のもと歌う。やんやの喝采。それを受けて、「まあ、ロイヤル・アルバート・ホール(のライヴのとき、観客からもたった反応)みたい」。

 まず、渋谷のプレジャー・プレジャーで、米国と日本のミックスの女性歌手を見る。日本人ギター奏者2人にキーボード、日本に住むアフリカ系米国人のリズム隊がつく。彼らはJ・ソウル系サポートのファースト・コールと言っていのか。

 基本、英語の歌詞を持つオリジナル曲を歌う人で、それが確か。実は彼女をちゃんと聞いたのは2012 年新作からだが、それは今っぽいジャジーさや弾みを持つ高品質アダルト系シンガー・ソングライター作に仕上がっていて少し驚いた。で、それを生の場で開かんと、的をいたバッキング音のもと、しなやかな歌を載せる。その裏声もよく用いる歌唱をさして、知人はヨガの呼吸法を応用していると指摘。へー、そうなの?

 MCによれば、昨年もまったく同じ日にここでライヴをやったという。おお、まだ浮き足立ちまくりの時期。それは、さぞやピンと張りつめた空気のもと始められたと思う。そのさい、震災を受けて新たに作った曲を披露したそうで、今回はその練り上げヴァージョンをやったりもした。

 そういえば、深夜によったバーで昨年の震災時の話になったが、そこで聞いた話にはびっくり。有名企業でそれなりのポストにつく彼は3.11当日に仙台であった知人の通夜に車で向かい、高速道路でそれにあったという。一般道に降りさせられて仙台まで行き、線香をあげた後がもーたいへん。とりあえず帰路についたものの、ガソリン入れられず途中で足止め。車で行ったものだから喪服でコートも持たず、寒さに震え、そのまま途中で4泊することを余儀なくされたそうな。ガソリン入手も気の遠くなるような苦労があったようだが、ぼくが今まで聞いた東京在住の知人の体験談のなかではもっともそれはヘヴィ。電話もバッテリー切れし、なかなか連絡がつかなく、捜索願をだされる一歩手前であったという。

 その後は、南青山・ブルーノート東京。1969年テキサス州生まれの人気と実力を兼ね備えるジャズ・トランペッター(2011年2月2日、他)の公演を見るが、何気におおきくうなずく。いろんなことをできる人だが、ここのところは、少なくてもアルバムや来日公演においては精鋭を集めたクインテット表現に邁進していて、今回もそう。

 まっすぐに、王道のジャズ表現を聞き手に問う。澄んでいる、という言葉も形容として使いたくなるか。彼の場合、セットごとに大幅に曲を変えるようで、この日このセットの感想となるかもしれないが。トランペット(ときに、フリューゲル・ホーン)とアルト・サックスが気の利いたテーマ部を奏で、管楽器とピアノの瑞々しいソロ・パートが順に浮かび上がり、テーマに戻る。その様は甘さを排して、ある意味淡々。

 だが、その普通さが生理的に強くも、心地いい。ジャズという表現/歴史に対する愛着や知識、そして、その“環”のなかにいる自分を謳歌する様は瑞々しく、頼もしい。気をてらわらないのに(いや、てらわないからこそ)、ジャズという表現のすごさもさあっと浮かび上がる。とくに、今回はリズムもおさえ気味の4ビートでずっと行き、前回見せた娯楽性追求に基づくハーグローヴのくだけたヴォーカル披露もなし。で、最後のほうになって、やっと8ビートの曲が出てくる。アンコール曲はサム・クックの「ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー」をゴスペル濃度を高めつつ。2時間近い演奏時間、濃密で、高潔。セロニアス・モンクの「リズマニング」も彼らはやったな。

 お見事。みんな腕がたち、そんな彼らがジャズ愛のもと音を真摯に出し合い、その総体は今の何かを持った純ジャズ表現として結実する。そのハーグローヴたちのパフォーマンスに触れて、彼らはNYジャズ水準/動向の観測定点となりえる最たるコンボであると、ぼくには思えた。ハーグローヴは毎年やってきているが、それはまこと理にかない、意義のあることであると、ぼくは大きくうなずいた。


<今日の、オーネット>
 本編最後の曲だったか、ハーグローヴはオーネット・コールマンの著名曲「テーマ・フロム・ア・シンフォニー」をけっこう延々と引用。この二管による<オーネット・コールマン&ドン・チェリー>を根底に置く表現を聞いてみたいと思った。あ、蛇足だが、ドン・チェリーの娘のニーナ・チェリーはこのところ、ノルウェーの真性ジャズ・バンドのザ・シング(2008年9月25日、参照)と一緒にやっているみたい。そのパッケージで東京ジャズにこないかな。 

 ブリーヤは、現在LAに住む、インドやイランの血を持つ自作派の米国人歌手。イラン側には著名文化人もいるそうで、大学までは秀才でとおってきた人のよう。NYのコロンビア大学卒業後は一時エリート金融ウーマンの道を進みかけたものの、やはり私は音楽の道を進みたいと方向転換している。この2月にプロモーション来日したと思ったら、今度は公演。カナダでライヴをやった後に、今回は来たようだ。彼女がやっているのはレトロ感覚を持つ親しみやすいR&B表現で、それは故エイミー・ワインハウス他UKの売れっ娘たちの持ち味ともどこか重なるということで、送り手側(P-ヴァイン)が力を入れている。

 六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。そのプロモーション時に取材をしたが、なるほど頭の良さそうな人。とともに、きっちり狙いにそって戦略も練れそうな人という印象を持ったが、ステージに出てきた彼女を見てほう。露出度高し、身体張っている。プロ意識がすけて見えると書きたいが、それは素の彼女に接していないと出てこない感想か。愛想良くショウを進める様からは健気さがあふれでる。そんな彼女は間違いなく意識的に、扇情的なしゃくり声を時々入れる。それ、耳をひくが、ぼくにはトゥー・マッチ。肌の色が黒目である彼女との対比を得ようとするかのように、バンドにはアイビー・リーグに通うぼんぼんてな外見を持つ白人男性たちを配する。ギター、キーボード、ベース、ドラム、トランペット、サックスという陣容で、みんな白いシャツに細めのネクタイをしている。

 プリーヤは声に抑えが利かない部分もあるが、思った以上に声量はあり。二管音はけっこうスタックス調。そういえば、彼女はエディ・フロイド(2007年7月18日)やオーティス・レディングで知られるスタックス・スタンダードの「ノック・オン・ウッド」のカヴァーも披露した。

 その後は、銀座のノー・バード。2月にできた新しいジャズ・クラブで、壁にはロン・カーター(2012年3月3日、他)の息子(マイルス・カーターという。マイルスのスペルはMyles)のとっても細長い絵が二点飾られている。そこに出演したのは、ピアノの丈青(2012年3月3日、他)、電気ベースの日野賢二(2011年7月25日、他)、ドラムのFUYUのトリオ。

 有名曲カヴァー(ヘンドリックス「ヘイ・ジョー」からスタンダードまで)や丈青のこのトリオ用に書いたオリジナル曲などを素材に、3人の個性を重ね合う。このリズム・セクションだと目鼻立ちのしっかりしたビートを送り出しそうだが、それなりの退きの感覚も抱えつつ、メロディ性と立った感覚を両立させて自在に流れていく演奏を披露。進行役は、丈青が担当。彼は菊地雅章(2004年11月3日、他)のように、ときに大きな肉声を踊る指さばきに重ねる。それで、歌心や奔放さが増す場合もある。へえ、彼のそういう様には初めて触れるような。まあ、爆音Soilだと出していても聞こえないだろうけど。セカンドの途中から、在日カナダ人テナー・サックス奏者のアンディ・ウルフも入る。

<今日の、お答え>
 ここのところ、一日に複数の公演に接する日が多いな。と、自分ながら、思う。大変でしょう、印象がごっちゃになりませんとかと問われたけど、それは不思議とないなあ。ぼくはライヴを見るときはアルコール片手に普通に楽しみ、いっさいメモなどをとることはしない。だって、それはライヴを楽しむという行為からは大きく外れるものであるし、その様は会場内で浮くし、お客さんの感興をそぐことになるやもしれない。そりゃ、1万字のライヴ原稿を書くのなら、メモを取る必要も出てくるだろう。だが、4.000字ぐらいまでだったら、酔っぱらった頭に残った記憶だけで十分に埋まるし、自分の望む原稿は書ける。それほど、ライヴから得る情報量やインスピレーションは膨大であると、ぼくは思っている。また、ライヴに行くのが苦になったりはしませんかと問う人もいるが、ライヴは飲みの前座のようなもの、だからぼくはライヴに行くことにストレスを感じません。さらに書くなら、ぼくにとってライヴ会場のハシゴはまさに飲み屋をハシゴするようなもん、まさしく! そして、朝はそれなりにちゃんと起きて昼間はきっちり机に向かい、日が暮れたら遊ぶと決めていたら、時間のやりくりにも困らない。

Schroeder-Headz

2012年3月28日 音楽
 いろんな邦人サポートに引っ張りだこの(大手音楽プロダクションに所属しているので、そうとう売れっ子なんだと思う)キーボード奏者である渡辺シュンスケのユニット。ツアーの最終日だそうだが、なんとダブルのリズム隊を率いてパフォーマンス。5人による演奏と言うのは、ツアーを通じてのものなんだろうか。ベース奏者は一人は電気で、もうひとりは縦と電気の両方を弾く。接していて、坂本龍一(2012年3月21日、他)が好きなんだろうなとなぜか感じる部分アリ。で、いろんなことをやっているが、ベン・フォールズ的回路で今様な部分も持つポップ・インストをやっていると、ぼくは説明したくなるか。基本即興性はないが(だから、こういうのを語るのにジャズという言葉を用いてはいけません)、けっこう有機的に事を進めてもいて、ポップ・インストゥルメンタルという行き方において明晰で、楽しめることをやっていると思った。

 あと感心したのは、地味な外見なのに、ちゃんと聞き手に向かった娯楽性を随所に出していたこと。ちゃんと押しどころを知り、キーボードに寝たり立ったり、お茶目にピアニカを手にしたりと、受け手が高揚できるような所作を違和感なくしていた。でありつつ、基本、外タレと同様にあまりMCをしないのも偉い。日本人アクトは愚にもつかないMCをしすぎる。会場は、渋谷・クラブクアトロ、かなり混んでいた。アンコールでは音大の後輩だという、東京事変の鍵盤奏者(この日のオープニング・アクトをやったよう)も一緒にやる。

<今日の、感心>
 渡辺はローランドの、なんとか700なんとか、という機種1本だけをステージにおいて演奏していた。なんか、偉いっと、ぼくは思ってしまったナ。今時、サポートのミュージシャンでも複数台のキーボードを並べるのに潔い。けっこう、複数台つかっていても、この音色変化なら1台でもだいじょうぶぢゃん、ってときもなくはないしね。それは、オレが乱暴者だから出てくる感想かな。

 名古屋公演はリード・シンガーの喉の不調でキャンセルになったようだが、丸1日おいた東京公演は無事おこなわれた。渋谷・アックス。ここは音響のいい会場として認められているが、その恩恵をこの晩は如実に感じたな。
 
 リード・ヴォーカル/ギター、ギター/鍵盤/サックス、ベース、キーボード、ドラムからなる、今米国ではかなりな集客力を持つ5人組(2005年7月30日)。長髪のメンバーが2人いると思えば、そうじゃない2人はシャツにネクタイとベストという格好をしていたりするように、画一的な色に染まる事を良しとしない集団とも言えるか。アメリカン・バンドらしい渋さや大風呂敷さを持つ一方、今様な音の響きや繊細な佇まいに気をつかっているところがあるとともに、通常のロック表現/ライヴよりは演奏パートがぐぐいっと長かったりするのも、そうした一例と言える。まあ、開始後1時間すぎあたりでやった単純なフレーズをこれでもかと延々と繰り返すのには、ぼくは飽きちゃったけど。まあ、それも彼らなりのサイケデリアの具現であるのか。

 自分たちの“目”で行かんとし、大回りさと小回りを兼ね備える。と書くのが、まあ適切なんだろう。なお、1曲目はMountain Mocha Kilimanjaro(2011年7月2日、他)のトランペット奏者ら3人の日本人管楽器奏者がつき、広がりを助ける。ぼくは用事があったため、退出してしまい見ていないが、アンコールでも彼らは出て来て、一筋縄ではいかない色づけに貢献したはず。

<今日の、注意書き>
 地震があった場合は、係員の指示があるまでには絶対に場外に出ないでください。というような、但し書き表示が会場のあちこちに。どうやら、地震時に観客が出口に殺到する際の事故をおおいに危惧してのもののよう。だったら、もう一言、音響がいいことで有名な当会場は頑丈にできていて、地震による倒壊などの危険性はありません、とか付記してほしいものだが。ともかく、気付かないだけかもしれないが、他にこういうお知らせを出している会場を、ぼくは知らない。逆に言えば、アックスはそれぐらい、これでもかと告知されている。ま、なんにせよ、本当にデカい地震が来たときライヴ会場にいたら、普通の場所にいるより怖い思いするのは間違いないか。そんときはそんとき、と思いつつ、一応ココロにとめておきましょう。

 女優で名をなした後に音楽界にも進出した、メキシコ人シンガー・ソングライター。まず一人で出てきて、暗めの曲を、電気キーボード弾き語り。おお、根性あるオープナー選び。天衣無縫な感覚も与える人だが、歌声は意外に太目なんだな。以下はバンドが加わって、和気あいあいとパフォーマンス。MCの感じはイメージ通り、いい人であるのもよく伝わってくる。メキシコは何気に秀逸なオルタナなロック/ポップを生んでいるという印象があるが(あー、もう少し追いかけなきゃ)、どこかコード使いもおいしい、少し定石を外す感覚を持つポップスを送り出す。楽曲はスペイン語のほうが多かったのかな。新作は米国制作で、TVオン・ザ・レディオのデイヴ・シーテック(彼、ジェインズ・アディクションに入ると昨年アナウンスされたっけ?)やグレッグ・カースティン(2007年4月25日)らがプロデュースしていて、そこにはザ・マーズ・ヴォルタ(2008年6月13日、他)のオマー・ロドリゲスも録音参加していた。MCによれば、ギター、鉄琴/タンバリン/コーラス(女性)、ギター、ベース(鍵盤ベースも兼用)、ドラムという編成のバンド員は皆アメリカ人で、ブルクリン界隈に住んでいるようだ。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。

<今日の、風と灯り>
 風が強い。春一番と言っていいんだろうか。また、近くの目黒川の両側に提灯がずらり吊るされ、夜は電気もつけられていた。まだ、咲いてはいないけど。