ご存知、大御所ブルー・アイド・ソウルのデュオ(2011年2月28日、他)の二分の一の単独公演。ミレニアム前後からジョン・オーツはレギュラー・グループでの影に隠れた存在であることを払拭しようかとするかのように、リーダー作を連発し、ときにツアーもしているようで、このたび日本にもやってきた。南青山・ブルーノート東京。頭の2日間は1日1回公演で、週末の2日間は2回公演。で、初日のこの晩は、本編でちょうど1時間45分パフォーマンスした。
ギター(ソロはオーツと分け合う。オーツがアコースティック・ギターを弾く場合は彼が取る)、キーボード、ベース、ドラムというバンドともに、ショウを進める。驚いたのは、ソロ・アルバムからの曲が主になるのかと思ったら、ホール&オーツの曲をけっこうやったこと。『アバンダン・ランチョネット』(73年リリースのセカンド作)が一番好きとか言っていたが、そこからの曲を冒頭で連発、さらに本編最後の曲も同作白眉曲である「シーズ・ゴーン」だった。また、1982年全米1位曲「マンイーター」とか、生理的に立ったサウンドを採用していた時代の曲もやったが、それはやんわりアレンジをかえる。ま、なんにしても、それらは本来ダリル・ホールがリード・ヴォーカルを取っていたわけで、歌う人が変わるからこその味もアピールしていたか。実は、もっとヘタなのかと思っていたが、意外にオーツの歌は善戦。ほんわか、味ある歌手でした。
他には、自分の曲(すぐ前に作って、この晩が初公開と言う曲も)や、R&B曲やブルース曲カヴァーもいやみなくやって、奥にあるものを伝える。また、ジョン・デンヴァーの曲もやったが、それは少しボサっぽいギター刻みのもと、カントリー臭はゼロの形で披露した。
見終わった感想は、やはり実力者ということ。とともに、黄金グループを支え続け、いろんな場を踏んでいる余裕のようなものも痛感。そんな実演に触れて、彼はとってもスマートなリベラリストであることを思い出し(2002年9月12日の項、参照)たりもした。この晩もうれしそうに曲ごとにMCを挟んだオーツだったが、かつて単独で取材したときの彼もとても雄弁だった。ホール&オーツとして取材を受ける場合は、やはりホールのほうが主に受け答えする。
<今日の、困惑>
先週の土曜から突然、風邪をひいて非常に困惑。寒い日が続いたわけでもなく、無理したわけでもなく、不用意に外でハダカになったわけでもなく。どーして、風邪をひいたのか。で、熱っぽいのはまあおいといて、咳と鼻水がすごい。咳のしすぎで腹筋をいため(咳すると、もー痛い)、鼻をかみまくりで2日でティッシュを1箱使ってしまったのではないか。びっくりするぐらい鼻水出っぱなし、これだけの粘着質の液をのべつまくなし作る人間の身体ってすげえ、と思ってしまった。うえーんとなりつつ、医者に行く気はまったくないし、どうせ直るだろと、薬のたぐいも飲んでないが。だからか、一時期ほどはひどくないけど、鼻水も咳もまだ続いている。
ギター(ソロはオーツと分け合う。オーツがアコースティック・ギターを弾く場合は彼が取る)、キーボード、ベース、ドラムというバンドともに、ショウを進める。驚いたのは、ソロ・アルバムからの曲が主になるのかと思ったら、ホール&オーツの曲をけっこうやったこと。『アバンダン・ランチョネット』(73年リリースのセカンド作)が一番好きとか言っていたが、そこからの曲を冒頭で連発、さらに本編最後の曲も同作白眉曲である「シーズ・ゴーン」だった。また、1982年全米1位曲「マンイーター」とか、生理的に立ったサウンドを採用していた時代の曲もやったが、それはやんわりアレンジをかえる。ま、なんにしても、それらは本来ダリル・ホールがリード・ヴォーカルを取っていたわけで、歌う人が変わるからこその味もアピールしていたか。実は、もっとヘタなのかと思っていたが、意外にオーツの歌は善戦。ほんわか、味ある歌手でした。
他には、自分の曲(すぐ前に作って、この晩が初公開と言う曲も)や、R&B曲やブルース曲カヴァーもいやみなくやって、奥にあるものを伝える。また、ジョン・デンヴァーの曲もやったが、それは少しボサっぽいギター刻みのもと、カントリー臭はゼロの形で披露した。
見終わった感想は、やはり実力者ということ。とともに、黄金グループを支え続け、いろんな場を踏んでいる余裕のようなものも痛感。そんな実演に触れて、彼はとってもスマートなリベラリストであることを思い出し(2002年9月12日の項、参照)たりもした。この晩もうれしそうに曲ごとにMCを挟んだオーツだったが、かつて単独で取材したときの彼もとても雄弁だった。ホール&オーツとして取材を受ける場合は、やはりホールのほうが主に受け答えする。
<今日の、困惑>
先週の土曜から突然、風邪をひいて非常に困惑。寒い日が続いたわけでもなく、無理したわけでもなく、不用意に外でハダカになったわけでもなく。どーして、風邪をひいたのか。で、熱っぽいのはまあおいといて、咳と鼻水がすごい。咳のしすぎで腹筋をいため(咳すると、もー痛い)、鼻をかみまくりで2日でティッシュを1箱使ってしまったのではないか。びっくりするぐらい鼻水出っぱなし、これだけの粘着質の液をのべつまくなし作る人間の身体ってすげえ、と思ってしまった。うえーんとなりつつ、医者に行く気はまったくないし、どうせ直るだろと、薬のたぐいも飲んでないが。だからか、一時期ほどはひどくないけど、鼻水も咳もまだ続いている。
ザ・シー・アンド・ケイク
2012年4月7日 音楽 シカゴのポスト・ロック系4人組(2007年12月2日、他)を、六本木・ビルボードライブで見る・アルバムは2008年以降リリースしていないが、もう20年近くも同じメンバーで(レーベルもずっとスリル・ジョッキーだ)やっているのはすごいな。とともに、初期よりバンド濃度は高くなっているものの、基本、幾何学的文様を持つ暖簾に涼風が吹いているような聴感をずっと維持しているってのもすごいっちゃすごい。
唯一の東京公演であるこの晩も、悠々と変わりなく、癖あるオイラたちのアダルトなギター・ロックを展開。なんでも、ジョン・マッキンタイア(2011年11月21日、他)以外のメンバー3人は美術家としても活動しているそうで、東京と京都で「Three Side Chicago:Squares,Squirrels and Dots」という、ドローイングや絵画のグループ展を開いている。会場にそのチラシがあって初めて知った(東京は、翌日まで。見れない)が、仙人的にいろんなことをできるのはうらやましい。
一人だけ音楽に専念(?)のマッキンタイア〜彼、両腕にがつんと刺青いれてるんですね〜だが、今回ドラミングを見てほう。ハイハットを右手でチチチチチと叩きながらリズムをキープするのがロック・ドラムの常だが、彼の場合、ハイハットは左足によるオープン/クローズによる音ですませ、手は他のタムやシンバルを叩いていることが多い。もちろん、ハイハットを普通に叩くときもあるのだが、そういう変則ドラミングもマッキンタイア一派の独自の流動性や生理的な濃淡のあり方につながっているのかもと思った。なお、プリセットのビート・トラックを併用する曲も二つ。それから、リード・ヴォーカルを取るサム・プレコップは歌詞が書いてある紙を膨大に用意し、足下においていた。やっぱ、歌詞はちゃんと歌いたいのかにゃ?
<今日の、こりないこと>
この週末は、花見絶頂期か。金曜に深夜まで寒い寒いと言いつつ楽しく騒いだら、早朝にお腹がいたくて目をさます。オレ、変なもの飲み食いしてないよな。それとも、身体が冷えすぎたゆえ? とほ。ながら、この土曜もあまり暖かくなさそうと思いつつ、昼すぎに、たしょう体調を気にしつつ、お誘いを受けた花見に出かける。お堀横の、ぼくは初めてのところ。立派に場所が確保されていたが、場所取り隊は朝8時に行動を取っているとのこと。ごくろうさまです。冬用のマフラーは巻いたものの、コートなどはそんなに厚くないやつを着用。それは、花見後にライヴを見に行く予定があったというのは考慮したかな。基本曇天で、昼間ながら、案の定さむい。あー、楽しいけど、寒いよおおおおお。i-パッド+小スピーカーで音楽を流す者いて、それで場が華やぎ、少し暖まる。音楽の力ってすごいナ。で、上のライヴを見た後、その花見アフター飲み会に戻るが、けっこうな人数が残っている。みんな話足りないのか、飲むのが好きなだけか。とかなんとか、その後の帰路がまた寒い。震える。明日の花見は白い目をむけられようがナンだろうが、真冬の格好ででかけるゾと心に言い聞かせまくるワタシであった。しかし、花見で浮かれつつ寒くて震えるというのは、毎年のことだよなー。
唯一の東京公演であるこの晩も、悠々と変わりなく、癖あるオイラたちのアダルトなギター・ロックを展開。なんでも、ジョン・マッキンタイア(2011年11月21日、他)以外のメンバー3人は美術家としても活動しているそうで、東京と京都で「Three Side Chicago:Squares,Squirrels and Dots」という、ドローイングや絵画のグループ展を開いている。会場にそのチラシがあって初めて知った(東京は、翌日まで。見れない)が、仙人的にいろんなことをできるのはうらやましい。
一人だけ音楽に専念(?)のマッキンタイア〜彼、両腕にがつんと刺青いれてるんですね〜だが、今回ドラミングを見てほう。ハイハットを右手でチチチチチと叩きながらリズムをキープするのがロック・ドラムの常だが、彼の場合、ハイハットは左足によるオープン/クローズによる音ですませ、手は他のタムやシンバルを叩いていることが多い。もちろん、ハイハットを普通に叩くときもあるのだが、そういう変則ドラミングもマッキンタイア一派の独自の流動性や生理的な濃淡のあり方につながっているのかもと思った。なお、プリセットのビート・トラックを併用する曲も二つ。それから、リード・ヴォーカルを取るサム・プレコップは歌詞が書いてある紙を膨大に用意し、足下においていた。やっぱ、歌詞はちゃんと歌いたいのかにゃ?
<今日の、こりないこと>
この週末は、花見絶頂期か。金曜に深夜まで寒い寒いと言いつつ楽しく騒いだら、早朝にお腹がいたくて目をさます。オレ、変なもの飲み食いしてないよな。それとも、身体が冷えすぎたゆえ? とほ。ながら、この土曜もあまり暖かくなさそうと思いつつ、昼すぎに、たしょう体調を気にしつつ、お誘いを受けた花見に出かける。お堀横の、ぼくは初めてのところ。立派に場所が確保されていたが、場所取り隊は朝8時に行動を取っているとのこと。ごくろうさまです。冬用のマフラーは巻いたものの、コートなどはそんなに厚くないやつを着用。それは、花見後にライヴを見に行く予定があったというのは考慮したかな。基本曇天で、昼間ながら、案の定さむい。あー、楽しいけど、寒いよおおおおお。i-パッド+小スピーカーで音楽を流す者いて、それで場が華やぎ、少し暖まる。音楽の力ってすごいナ。で、上のライヴを見た後、その花見アフター飲み会に戻るが、けっこうな人数が残っている。みんな話足りないのか、飲むのが好きなだけか。とかなんとか、その後の帰路がまた寒い。震える。明日の花見は白い目をむけられようがナンだろうが、真冬の格好ででかけるゾと心に言い聞かせまくるワタシであった。しかし、花見で浮かれつつ寒くて震えるというのは、毎年のことだよなー。
ピー・ウィー・エリス。アトランティック・スター
2012年4月9日 音楽 まずは丸の内・コットンクラブ、JBズ出身のテナー・サックス奏者(2005年9月24日、2007年9月13日)のリーダー公演を見る。彼はジャズ気味路線とファンク気味路線の両刀でずっと活動をしており、その2011年作『Tenortion』(SPV)は2枚組で双方の路線をそれぞれ1枚づつまとめている。
彼をサポートするバンドは、トランペット、キーボード、ギター、ベース、ドラムという布陣。いい案配の外見のもとなんともうまい演奏をさしだすギタリストはレイ・オビエド(2007年9月6日)。ウィンダム・ヒル他にリーダー作を残し、70年代後期にハービー・ハンコック(2012年3月2、3日、他)のグループに入っていたこともある彼は米国西海岸ベイ・エリアの名ギタリストだが、ファンキーなのもジャジーなのもいける他の奏者たちもそこらあたりを拠点としているよう。トランペット奏者のゲイリー・ウィンターズはブーツィ・コリンズの近年のリーダー作に名前が見られたりもする。
そんな面々が送り出すのは、曲によってはファンク濃度も高かったりする、各人のソロをまわす悠々演奏。余裕たっぷりのエリスはやはり、不思議な存在感をやんわりだす。関係ないが、彼の奥さんは白人だ。また、3曲ほど、フレッド・ロスというおでこの広いブレイズ頭のシンガーが出てきて歌う。MCでエリスがアルバムを出していると言っていたので調べたら、最低でも2枚はだしているよう。90年の『Dignity』(Strokeland)ではかつてレディシーなどもお世話になったオークランド在住のトニー・ブラクストンがベースを弾いていたりもするので、やはりイースト・ベイ地区に居住しているのではないか。少し高めの声を出す彼、つきぬける個性とかはないものの、ソウル有名曲「ユーズ・ミー」を歌ったときはけっこうゾクゾク来たなあ。他のヴォーカル曲はJBズのナンバーくずしで、軽く受け手を高揚させる。もう1曲ぐらいフィーチャーされても良かったかも。
そして、六本木に移動、ビルボードライブ東京で、80年代の都会系ソウルを担ったセルフ・コンテインド・ブループ(2006年4月25日、2008年4月15日)を見る。オリジナル・メンバーのルイス兄弟(キーボード、ヴァーカル)を核に8人編成、もちろんきっちり噛み合う。顔ぶれは、前回と同じなのかな。
なんにせよ、自分たちの立ち位置をわきまえまくって、エンターテインメント性をたっぷり持つ、プロのショウを展開。ぼくは全盛期のころはあまり彼らを聞いてはいなかったものの、やはりあのときはァとか、就職したころのことを思い出したりもしちゃう? とりあえず、3年半しかしなかったけど、けっこういい会社員だったと思う。→自画自賛、ぼくの悪いクセですね。紅一点シンガーのマリー・ピアスは細い足首が奇麗。アンコールはメロディアスな代表曲「オールウェイズ」、いい曲だな。客は例によって熱い反応、外国生活を持つ知人はそれに触れて、なんかNYのクラブみたいと感激していた。
<今日の、花びら>
家から駅に向かう川沿いの道に桜があって、散ってきた桜を浴びる道すがら、という感じもあり、ほのかな幸福を感じる。家のバルコニーにも花びらが入るようになった。今週はフィンランド人、フランス在住日本人、米国人の3者にインタヴューすることになっているが、それぞれ、桜のことを話のマクラに出しそう????
彼をサポートするバンドは、トランペット、キーボード、ギター、ベース、ドラムという布陣。いい案配の外見のもとなんともうまい演奏をさしだすギタリストはレイ・オビエド(2007年9月6日)。ウィンダム・ヒル他にリーダー作を残し、70年代後期にハービー・ハンコック(2012年3月2、3日、他)のグループに入っていたこともある彼は米国西海岸ベイ・エリアの名ギタリストだが、ファンキーなのもジャジーなのもいける他の奏者たちもそこらあたりを拠点としているよう。トランペット奏者のゲイリー・ウィンターズはブーツィ・コリンズの近年のリーダー作に名前が見られたりもする。
そんな面々が送り出すのは、曲によってはファンク濃度も高かったりする、各人のソロをまわす悠々演奏。余裕たっぷりのエリスはやはり、不思議な存在感をやんわりだす。関係ないが、彼の奥さんは白人だ。また、3曲ほど、フレッド・ロスというおでこの広いブレイズ頭のシンガーが出てきて歌う。MCでエリスがアルバムを出していると言っていたので調べたら、最低でも2枚はだしているよう。90年の『Dignity』(Strokeland)ではかつてレディシーなどもお世話になったオークランド在住のトニー・ブラクストンがベースを弾いていたりもするので、やはりイースト・ベイ地区に居住しているのではないか。少し高めの声を出す彼、つきぬける個性とかはないものの、ソウル有名曲「ユーズ・ミー」を歌ったときはけっこうゾクゾク来たなあ。他のヴォーカル曲はJBズのナンバーくずしで、軽く受け手を高揚させる。もう1曲ぐらいフィーチャーされても良かったかも。
そして、六本木に移動、ビルボードライブ東京で、80年代の都会系ソウルを担ったセルフ・コンテインド・ブループ(2006年4月25日、2008年4月15日)を見る。オリジナル・メンバーのルイス兄弟(キーボード、ヴァーカル)を核に8人編成、もちろんきっちり噛み合う。顔ぶれは、前回と同じなのかな。
なんにせよ、自分たちの立ち位置をわきまえまくって、エンターテインメント性をたっぷり持つ、プロのショウを展開。ぼくは全盛期のころはあまり彼らを聞いてはいなかったものの、やはりあのときはァとか、就職したころのことを思い出したりもしちゃう? とりあえず、3年半しかしなかったけど、けっこういい会社員だったと思う。→自画自賛、ぼくの悪いクセですね。紅一点シンガーのマリー・ピアスは細い足首が奇麗。アンコールはメロディアスな代表曲「オールウェイズ」、いい曲だな。客は例によって熱い反応、外国生活を持つ知人はそれに触れて、なんかNYのクラブみたいと感激していた。
<今日の、花びら>
家から駅に向かう川沿いの道に桜があって、散ってきた桜を浴びる道すがら、という感じもあり、ほのかな幸福を感じる。家のバルコニーにも花びらが入るようになった。今週はフィンランド人、フランス在住日本人、米国人の3者にインタヴューすることになっているが、それぞれ、桜のことを話のマクラに出しそう????
フリッグはフィンランドの若い世代によるトラッド・グループ(バンジョー奏者だけおっさんだったが、彼はエキストラ)でフィドル奏者4人(うち、一人は5弦。それ、ヴァイオリンとヴィオラの両方をかねられるからだそう)いる8人組だ。別にオリジナル曲じゃなきゃ自分たちの表現は簡潔しないとかは思わないそうだが、多くは伝統の機微を通ったオリジナル曲を演奏する。青山・カイ。
音楽が生活に密着しまくった村(音楽学校も整備され、夏場はそこで、その道では著名な音楽フェスが開かれるらしい)の出身者を中心としているが、なるほど、他のトラッド系の担い手と比べて、おおいに楽器演奏のスキルが高いと思わせられる。ほう。だから切れもあり、スピード感も持つ。北の国に伝えられるトラッドに、ケルト系表現やブルーグラスなどいろんなことを重ねたことを志向する彼らだが、それゆえ、やっていることが無理なく伝わる。小さな排気量のエンジンでぎんぎんに回転を挙げて山道を疾走するのが通常のトラッドとしたら、彼らの車はけっこうデカい排気量のエンジンを持ち颯爽と走っているという所感を得たりもするか。
これまで5枚のアルバムをリリースしている彼らだが、実演に触れて驚いたのは、肉声の使い方。彼らはときに、やんちゃに、場合によっては少しだけダダイスト調? それが味あり、おおいに広がりと諧謔を導き、いい感じ。そんなことCD では見せていないわけで、これは発想のしなやかな新世代ならではの行き方だよなあと大きく頷いた。
その後、近くのプラッサ・オンゼにいく。シンガーの前田優子を、新澤健一郎(キーボード)、是方博邦(ギター)、コモブチキイチロウ(ベース。2011年1月21日)、藤井摂(ドラム)がサポート。ぼくは認知していなかったが、“ブラジル曲歌い”としてはかなりキャリアのある人で、かつてはブラジル音楽提供の日本における総本山的なこのお店にもとても良く出ていたそう。で、その歌唱を聞いて、自分を持った歌い方をする人だなと頷く。ブラジル音楽やボサノヴァに憧れて心をこめてうたうだけでなく、その先にきっちり自分の味を出している。ワナビーを超えた先にちゃんと個がある。スタジオ/サポート系の売れっ子奏者たちがそろってのバッキングも、それをやんわり助けるか。彼女の新作プロデュースは仙波清彦師匠(2011年4月1日、他)とのこと。
<今日の、サンダーバード>
フリッグのステージは前にヴァイオリン奏者たちが位置し、後ろにはウッド・ベース、ギター、マンドリン奏者が並ぶ。けっこう、みんな色彩感のあるカジュアルな格好をしているな。そんななか、客席側から向かって左側に立つ、赤いパンツをはいた眼鏡のヴァイオリン青年がポワっとしているのになんかかなり惹かれるキャラあり。27秒考えて、これはまるでサンダーバードに出てくる(脇役の)人形みたいだと合点する。知人にそれを伝えると、同意を受ける。ふふふ。
英国の人形を用いた特撮TVドラマ「サンダーバード」はとっても好きだった。もう、感心しっぱなし、感化されまくり。欲張りなぼくは、なんでも入れられるバージルが運転するサンダーバード2号が一番すきだったかな。さすが、サンダーバードの基地(もう、もろもろの設置や仕掛けに憧れました)は高価で買えなかったが、それぞれ各号はプラモデルで作ったような。小学生のころ、「サンダーバード」は日曜の18時からNHKでTV放映されていて、それを見終わると、あー明日からまた1週間学校かとほのかに暗くなるのが常だったっけ。
「サンダーバード」って、ぼくが一番夢中になったTV番組であるのは間違いなく、ぼくの人間形成に途方もない影響を与えているはず。こんなすごい番組を作ってしまう外国はすごい(当時、ちゃんと英国産と認識していたかなー?)と思いまくり、それが後のロック愛好にもつながっているはずだ。海外文化憧憬の一里塚? あ、「サンダーバード」を見ていなかったら、ぼくは音楽業界にすすんでいない? 仕事でロンドンに行くようになると、サンダーバード・グッズを探し、買い求めたりしたこともあったな。知人にプレゼントしたりもしたけど、まだ数点はトランクルームにあるはずだ。そのサンダーバードを作ったジェリー・アンダーソンによる、後続の特撮人形番組「キャプテンスカーレット」や「ロンドン指令X」もたまに光通信のTVチャンネルでやっているけど、ぼくは「サンダーバード」ほど燃えない。やはり、「サンダーバンダー」はぼくにとってはスペシャルすぎる。
音楽が生活に密着しまくった村(音楽学校も整備され、夏場はそこで、その道では著名な音楽フェスが開かれるらしい)の出身者を中心としているが、なるほど、他のトラッド系の担い手と比べて、おおいに楽器演奏のスキルが高いと思わせられる。ほう。だから切れもあり、スピード感も持つ。北の国に伝えられるトラッドに、ケルト系表現やブルーグラスなどいろんなことを重ねたことを志向する彼らだが、それゆえ、やっていることが無理なく伝わる。小さな排気量のエンジンでぎんぎんに回転を挙げて山道を疾走するのが通常のトラッドとしたら、彼らの車はけっこうデカい排気量のエンジンを持ち颯爽と走っているという所感を得たりもするか。
これまで5枚のアルバムをリリースしている彼らだが、実演に触れて驚いたのは、肉声の使い方。彼らはときに、やんちゃに、場合によっては少しだけダダイスト調? それが味あり、おおいに広がりと諧謔を導き、いい感じ。そんなことCD では見せていないわけで、これは発想のしなやかな新世代ならではの行き方だよなあと大きく頷いた。
その後、近くのプラッサ・オンゼにいく。シンガーの前田優子を、新澤健一郎(キーボード)、是方博邦(ギター)、コモブチキイチロウ(ベース。2011年1月21日)、藤井摂(ドラム)がサポート。ぼくは認知していなかったが、“ブラジル曲歌い”としてはかなりキャリアのある人で、かつてはブラジル音楽提供の日本における総本山的なこのお店にもとても良く出ていたそう。で、その歌唱を聞いて、自分を持った歌い方をする人だなと頷く。ブラジル音楽やボサノヴァに憧れて心をこめてうたうだけでなく、その先にきっちり自分の味を出している。ワナビーを超えた先にちゃんと個がある。スタジオ/サポート系の売れっ子奏者たちがそろってのバッキングも、それをやんわり助けるか。彼女の新作プロデュースは仙波清彦師匠(2011年4月1日、他)とのこと。
<今日の、サンダーバード>
フリッグのステージは前にヴァイオリン奏者たちが位置し、後ろにはウッド・ベース、ギター、マンドリン奏者が並ぶ。けっこう、みんな色彩感のあるカジュアルな格好をしているな。そんななか、客席側から向かって左側に立つ、赤いパンツをはいた眼鏡のヴァイオリン青年がポワっとしているのになんかかなり惹かれるキャラあり。27秒考えて、これはまるでサンダーバードに出てくる(脇役の)人形みたいだと合点する。知人にそれを伝えると、同意を受ける。ふふふ。
英国の人形を用いた特撮TVドラマ「サンダーバード」はとっても好きだった。もう、感心しっぱなし、感化されまくり。欲張りなぼくは、なんでも入れられるバージルが運転するサンダーバード2号が一番すきだったかな。さすが、サンダーバードの基地(もう、もろもろの設置や仕掛けに憧れました)は高価で買えなかったが、それぞれ各号はプラモデルで作ったような。小学生のころ、「サンダーバード」は日曜の18時からNHKでTV放映されていて、それを見終わると、あー明日からまた1週間学校かとほのかに暗くなるのが常だったっけ。
「サンダーバード」って、ぼくが一番夢中になったTV番組であるのは間違いなく、ぼくの人間形成に途方もない影響を与えているはず。こんなすごい番組を作ってしまう外国はすごい(当時、ちゃんと英国産と認識していたかなー?)と思いまくり、それが後のロック愛好にもつながっているはずだ。海外文化憧憬の一里塚? あ、「サンダーバード」を見ていなかったら、ぼくは音楽業界にすすんでいない? 仕事でロンドンに行くようになると、サンダーバード・グッズを探し、買い求めたりしたこともあったな。知人にプレゼントしたりもしたけど、まだ数点はトランクルームにあるはずだ。そのサンダーバードを作ったジェリー・アンダーソンによる、後続の特撮人形番組「キャプテンスカーレット」や「ロンドン指令X」もたまに光通信のTVチャンネルでやっているけど、ぼくは「サンダーバード」ほど燃えない。やはり、「サンダーバンダー」はぼくにとってはスペシャルすぎる。
ジェーン・モンハイト&イヴァン・リンス
2012年4月12日 音楽 わあ、これは素敵な出し物。
米国ジャズ界を代表する1977年ニューヨーク州生まれのジャズ歌手(2010年3月1日)と、米国の数々のジャズ・マンから作曲家として好評価を受けまくる1945年リオ生まれブラジル人洗練シンガー・ソングライター(2002年5月1日、2009年3月17日、2010年3月9日)の共演ショウ。あっても不思議ではないプログラムではあるものの、これは興味深い。
驚かされたのは、バンドもジェーン・モンハイトのピアノ・トリオだし、半分ほどすぎてから、ゲスト登場といった感じでイヴァン・リンスが登場するのかと思ったら、なんとモンハイト+トリオでスタンダード「オールド・デヴィル・ムーン」1曲をやったと思ったら、すぐにリンスはステージに登場、以下はずっと一緒にやる。その様は、まさに“がっつり”てな感じで、ほおおお。
以下は基本、リンス曲やブラジル曲をひも解く、ブラジリアン基調路線をいく。2人が交互に歌い、決めの部分は一緒にハモるみたいな王道のデュエット曲の行き方を見せるものが主で、おおいに心弾む。巧みに、重なっていたなー。リンスの歌唱力はモンハイトが横にいるときつく感じるんじゃないかと思ったがそれは杞憂、歌自体の実力差はそりゃあるだろうが、センスと経験でリンスは見事にそのギャップをものともしていなかった。なかには、リンスだけが歌い、モンハイトは横でずっと身体を揺すっているという曲も。あははは、モンハイトをダンサー扱い。でも、それでもモンハイトはうれしそう、かつて彼女はリンスにレコーディング参加を請うているが、本当に彼のファンなんだな。師匠のやることに私はついいていきますっ、という風情でてました。そんな共演で、いつもは正統派の香り高い彼女ながら、今回はお茶目でカジュアルな側面が出てもいた。
てな感じで、大雑把に言えばモンハイト+彼女のピアノ・トリオがリンスのブラジリアン・ジャジー・ポップ路線にすうっと寄り添う、となるか。実は、ブラジル人のバンドより、米国人ジャズ・マンと重なったほうが、洗練派リンスの味はいいと、今回ぼくは思ってしまった。リンスもずっと電気キーボードを弾いていて、二つの鍵盤音が不用意にぶつからないかと思ったが、ピアニストのマイケル・ケイナンは饒舌にならずに巧みにそれを回避。レニー・トリスターノ研究に一言持つ人物のようだが、彼は何気に実力者だ。
とかなんとか、聞き所、いろいろ。最終日ゆえ、よりまとまっていたのかもしれないが、これはうれしくも、おいしい組み合わせだよなあと思わずにはいられなかった。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。
<今日の、高架線路>
ライヴをみたあと、NYから戻ってきている知人と飲むことになり、ついでに何人かを呼ぶ。場所は、渋谷駅近くの、東急東横線と渋谷川に挟まれた所にある店。なんとついに、もうすぐ東横線は代官山をすぎると地下にもぐり副都心線と直結となるそう。ええ、もう少し先かと思っていた。わー。オレの感覚より、世間のスピードのほうが早くなってる? 横に走る東横線車両が見えることがこの店の魅力の一つになっていたのだが、電車が走らなくなるとだいぶ雰囲気が変わりそう。でもって、ここらあたりの再開発も大促進されるか。蛇足だが、ブルーノート東京の前の道と六本木通りがついにつながり(延々、工事中となっていた)、タクシーで渋谷駅周辺にいくのが便利(安価)になった。あ、逆もそうか……。
●追記。やっぱり上の情報は誤りで、東横線と副都心線が地下駅で連結するのはもう少し先のようだ。。。。
米国ジャズ界を代表する1977年ニューヨーク州生まれのジャズ歌手(2010年3月1日)と、米国の数々のジャズ・マンから作曲家として好評価を受けまくる1945年リオ生まれブラジル人洗練シンガー・ソングライター(2002年5月1日、2009年3月17日、2010年3月9日)の共演ショウ。あっても不思議ではないプログラムではあるものの、これは興味深い。
驚かされたのは、バンドもジェーン・モンハイトのピアノ・トリオだし、半分ほどすぎてから、ゲスト登場といった感じでイヴァン・リンスが登場するのかと思ったら、なんとモンハイト+トリオでスタンダード「オールド・デヴィル・ムーン」1曲をやったと思ったら、すぐにリンスはステージに登場、以下はずっと一緒にやる。その様は、まさに“がっつり”てな感じで、ほおおお。
以下は基本、リンス曲やブラジル曲をひも解く、ブラジリアン基調路線をいく。2人が交互に歌い、決めの部分は一緒にハモるみたいな王道のデュエット曲の行き方を見せるものが主で、おおいに心弾む。巧みに、重なっていたなー。リンスの歌唱力はモンハイトが横にいるときつく感じるんじゃないかと思ったがそれは杞憂、歌自体の実力差はそりゃあるだろうが、センスと経験でリンスは見事にそのギャップをものともしていなかった。なかには、リンスだけが歌い、モンハイトは横でずっと身体を揺すっているという曲も。あははは、モンハイトをダンサー扱い。でも、それでもモンハイトはうれしそう、かつて彼女はリンスにレコーディング参加を請うているが、本当に彼のファンなんだな。師匠のやることに私はついいていきますっ、という風情でてました。そんな共演で、いつもは正統派の香り高い彼女ながら、今回はお茶目でカジュアルな側面が出てもいた。
てな感じで、大雑把に言えばモンハイト+彼女のピアノ・トリオがリンスのブラジリアン・ジャジー・ポップ路線にすうっと寄り添う、となるか。実は、ブラジル人のバンドより、米国人ジャズ・マンと重なったほうが、洗練派リンスの味はいいと、今回ぼくは思ってしまった。リンスもずっと電気キーボードを弾いていて、二つの鍵盤音が不用意にぶつからないかと思ったが、ピアニストのマイケル・ケイナンは饒舌にならずに巧みにそれを回避。レニー・トリスターノ研究に一言持つ人物のようだが、彼は何気に実力者だ。
とかなんとか、聞き所、いろいろ。最終日ゆえ、よりまとまっていたのかもしれないが、これはうれしくも、おいしい組み合わせだよなあと思わずにはいられなかった。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。
<今日の、高架線路>
ライヴをみたあと、NYから戻ってきている知人と飲むことになり、ついでに何人かを呼ぶ。場所は、渋谷駅近くの、東急東横線と渋谷川に挟まれた所にある店。なんとついに、もうすぐ東横線は代官山をすぎると地下にもぐり副都心線と直結となるそう。ええ、もう少し先かと思っていた。わー。オレの感覚より、世間のスピードのほうが早くなってる? 横に走る東横線車両が見えることがこの店の魅力の一つになっていたのだが、電車が走らなくなるとだいぶ雰囲気が変わりそう。でもって、ここらあたりの再開発も大促進されるか。蛇足だが、ブルーノート東京の前の道と六本木通りがついにつながり(延々、工事中となっていた)、タクシーで渋谷駅周辺にいくのが便利(安価)になった。あ、逆もそうか……。
●追記。やっぱり上の情報は誤りで、東横線と副都心線が地下駅で連結するのはもう少し先のようだ。。。。
ファット・ファンクション。リチャード・トンプソン
2012年4月13日 音楽 この晩もライヴ・ショウをはしごしたが、両会場で仕事関連の知り合いといつも以上にいろいろ会ったなあ。それぞれに、注目度が高かったということでしょうか。
1本目は丸の内・コットンクラブで、ファット・ファンクション。中西部ウィスコンシン州マディソンをベースにする管セクション付き9人組のバンド。公立大学としては米国トップ級に優秀とされるウィスコンシン州立大学マディソン校の出身者たちで組まれたバンドで、地方都市であくせくせずにバンドが維持されているというのは、その風通しの良い持ち味につながっているか。
タワー・オブ・パワー(2011年3月10日、他)やE.W.&F.(2006年1月19日)などを下敷きにする広角型のファンク・バンドで、新作ではよりメロディアスな部分も追求しているバンド(それを聞いて、ぼくは13キャッツの曲を思い出したりも)で、実演でも屈託なく、我々のファンクを開く。ヴォーカルはキーボード奏者とアルト・サックス奏者が取るのだが、本当にその2人が自在に絡む。ラップぽい歌い方はアルト奏者のほうが担当していた。キーボード奏者(今、彼のみワシントンD.C.在住)はジャズ・クレイズだったそうだが、途中で取ったファンキーなキーボードのソロ演奏パートはファンク鍵盤演奏としてかなり非の打ち所なし。その際は左手でベース・ラインも弾いたが、それもかなり強力だった。2、3曲目から客が立ちだすなどかなり熱烈な反応を受けていたが、当人たちも本当にうれしそうにパフォーマンス。セカンド・ショウでは、ドラマーはスネアを破ってしまったそうだ。
そして、2本目は六本木・ビルボードライブ東京で、英国的な襞を随所に抱えるシンガー・ソングライターであるリチャード・トンプソンによるソロ公演。昨年4月に予定されていたものが中止となり、約1年ぶりの仕切り直し公演となった。
ステージに出てきた彼はなかなか颯爽。前見たとき(2001年2月21日)と外見はほとんど変わらず、体形もキープ。それだけでいいナと思わせられる。節々に真摯さをにじませる悠々としたキャラもいい感じ、ね。で、変則チューニングやカポタストも用いての巧みな生ギター演奏に、朗々とした響く声を乗せる。その様に接しながら、彼の歌声や曲調になじめない人でも、トンプソンはちゃんと人前で実演をやる資格をたっぷり持っていると、納得しちゃうのではないか、なぞとも思う。もちろん、60年代後期のフェアポート・コンヴェンション時代の曲もやった。そうだ、アイランド・レコードは彼のようなトラッド流れのタレントも親身にサポートしたんだよな。次はぜひとも、バンドでやってきてほしい。
<今日の、水色>
若い知人が、パナーパナーと言っている。なんのことかと思ったら、パンナム(パン・アメリカン・アエウェイズ)とのことで、米国人の発音だとそうなるのか。同航空が全盛だった60年代上半期を舞台とする同名の米国TVドラマが今日本でも放映されていて、ガキんちょはそれを見て、豊かな合衆国をほのかな憧れとともに追体験しているらしい。音楽はハイソ感をだすためか、ジャズ曲が使われているようだが、口で説明されても誰だか分んねえや。ぼくはやはり見てないのだが、少し前に話題になった「マッドメン」も60年代の気取った広告業界を扱ったドラマでしょ? なにかと頭打ちの米国は王様だった時代への懐古気運がどんどん盛り上がっているのかなあ。
しかし、実際に稼働していたパンナムを知るのはけっこう年寄りか? まさに米国政府の帝国主義に乗っかる形で海外路線拡大による栄華を70年代中盤までは謳歌していたが、ゆえにテロの標的になりやすくもあり、長年の殿様経営もあって90年代あたまに潰れた。ホテルのインターコンチはもともとパンナム傘下にあった。
本来パンナムはカリブ/南米路線で成長した航空会社のようだが、中南米方面に強い米国の航空会社というとコンチネンタル航空が頭に浮かぶ。そっちに行く顧客を求めて、同社はラティーナ誌の表Ⅳ広告をずっと出し続けているから。が、すこし前にユネイテッド航空と合併になり、それは同様のデザインながらユナイテッド航空の広告に変わった。2年前ぐらいにノースウェスト航空もデルタ航空と一緒になっちゃったし、いまだ日本航空が残っているのは驚くべきことかもしれない。
ぼくが米国とかに行くようになった80年代中期といえば、経営難でユナイテッド航空に権利を譲渡してパンナムは日本に乗り入れしなくなったころだが、その水色のロゴにはなんか甘酸っぱい思いを得る。とっても、ハイカラな感じがあったしね。初めてNYに行ったとき、パークアヴェニューの上にふんぞり返るように立つパンナム・ビル(すでに身売りされていたが、ロゴは残されていた)を見て、ああ米国に来たんだなあと実感したりもした。やっぱ、往年の海外〜アメリカの象徴の一つ。当時、北米便はすでに直行で運行されていたはずだが、そのときの帰りの日航便は飛行機の機種が点検とかでかわって、給油が必要になりアラスカのアンカレッジ経由に変更されたっけ。今、アンカレッジの免税店(屋上には、熊が飼われていた?)を知る人も少なくなってきている?
1本目は丸の内・コットンクラブで、ファット・ファンクション。中西部ウィスコンシン州マディソンをベースにする管セクション付き9人組のバンド。公立大学としては米国トップ級に優秀とされるウィスコンシン州立大学マディソン校の出身者たちで組まれたバンドで、地方都市であくせくせずにバンドが維持されているというのは、その風通しの良い持ち味につながっているか。
タワー・オブ・パワー(2011年3月10日、他)やE.W.&F.(2006年1月19日)などを下敷きにする広角型のファンク・バンドで、新作ではよりメロディアスな部分も追求しているバンド(それを聞いて、ぼくは13キャッツの曲を思い出したりも)で、実演でも屈託なく、我々のファンクを開く。ヴォーカルはキーボード奏者とアルト・サックス奏者が取るのだが、本当にその2人が自在に絡む。ラップぽい歌い方はアルト奏者のほうが担当していた。キーボード奏者(今、彼のみワシントンD.C.在住)はジャズ・クレイズだったそうだが、途中で取ったファンキーなキーボードのソロ演奏パートはファンク鍵盤演奏としてかなり非の打ち所なし。その際は左手でベース・ラインも弾いたが、それもかなり強力だった。2、3曲目から客が立ちだすなどかなり熱烈な反応を受けていたが、当人たちも本当にうれしそうにパフォーマンス。セカンド・ショウでは、ドラマーはスネアを破ってしまったそうだ。
そして、2本目は六本木・ビルボードライブ東京で、英国的な襞を随所に抱えるシンガー・ソングライターであるリチャード・トンプソンによるソロ公演。昨年4月に予定されていたものが中止となり、約1年ぶりの仕切り直し公演となった。
ステージに出てきた彼はなかなか颯爽。前見たとき(2001年2月21日)と外見はほとんど変わらず、体形もキープ。それだけでいいナと思わせられる。節々に真摯さをにじませる悠々としたキャラもいい感じ、ね。で、変則チューニングやカポタストも用いての巧みな生ギター演奏に、朗々とした響く声を乗せる。その様に接しながら、彼の歌声や曲調になじめない人でも、トンプソンはちゃんと人前で実演をやる資格をたっぷり持っていると、納得しちゃうのではないか、なぞとも思う。もちろん、60年代後期のフェアポート・コンヴェンション時代の曲もやった。そうだ、アイランド・レコードは彼のようなトラッド流れのタレントも親身にサポートしたんだよな。次はぜひとも、バンドでやってきてほしい。
<今日の、水色>
若い知人が、パナーパナーと言っている。なんのことかと思ったら、パンナム(パン・アメリカン・アエウェイズ)とのことで、米国人の発音だとそうなるのか。同航空が全盛だった60年代上半期を舞台とする同名の米国TVドラマが今日本でも放映されていて、ガキんちょはそれを見て、豊かな合衆国をほのかな憧れとともに追体験しているらしい。音楽はハイソ感をだすためか、ジャズ曲が使われているようだが、口で説明されても誰だか分んねえや。ぼくはやはり見てないのだが、少し前に話題になった「マッドメン」も60年代の気取った広告業界を扱ったドラマでしょ? なにかと頭打ちの米国は王様だった時代への懐古気運がどんどん盛り上がっているのかなあ。
しかし、実際に稼働していたパンナムを知るのはけっこう年寄りか? まさに米国政府の帝国主義に乗っかる形で海外路線拡大による栄華を70年代中盤までは謳歌していたが、ゆえにテロの標的になりやすくもあり、長年の殿様経営もあって90年代あたまに潰れた。ホテルのインターコンチはもともとパンナム傘下にあった。
本来パンナムはカリブ/南米路線で成長した航空会社のようだが、中南米方面に強い米国の航空会社というとコンチネンタル航空が頭に浮かぶ。そっちに行く顧客を求めて、同社はラティーナ誌の表Ⅳ広告をずっと出し続けているから。が、すこし前にユネイテッド航空と合併になり、それは同様のデザインながらユナイテッド航空の広告に変わった。2年前ぐらいにノースウェスト航空もデルタ航空と一緒になっちゃったし、いまだ日本航空が残っているのは驚くべきことかもしれない。
ぼくが米国とかに行くようになった80年代中期といえば、経営難でユナイテッド航空に権利を譲渡してパンナムは日本に乗り入れしなくなったころだが、その水色のロゴにはなんか甘酸っぱい思いを得る。とっても、ハイカラな感じがあったしね。初めてNYに行ったとき、パークアヴェニューの上にふんぞり返るように立つパンナム・ビル(すでに身売りされていたが、ロゴは残されていた)を見て、ああ米国に来たんだなあと実感したりもした。やっぱ、往年の海外〜アメリカの象徴の一つ。当時、北米便はすでに直行で運行されていたはずだが、そのときの帰りの日航便は飛行機の機種が点検とかでかわって、給油が必要になりアラスカのアンカレッジ経由に変更されたっけ。今、アンカレッジの免税店(屋上には、熊が飼われていた?)を知る人も少なくなってきている?
いやあ、いいもん、見せてもらいましたァ。そんな感想がひしひし。
現在ミシシッピ州ジャクソンに住む、ヴェテランの、キャラたち&ファンキーなブルース・シンガー/ハーモニカ奏者。サポートはギター、ベース、ドラム。前回見たとき(1999年12月10日)におおいに触れているが、あの最高にイケてる野卑な女性ダンサー陣が同行していないのは残念だなあと思っていたのだが、そのぶん、ラッシュのブルース・マンとしての顔がくっきり浮かび上がったものになっていて、ぼくはうなった。
ブルース・ショウのならわしで、まずは主役を抜いたバンドがパフォーマンス。まだ20代とおぼしき青年がギターを弾きながら、ブルース・スタンダード「ストーミー・マンデイ」を奇麗に歌う。と、思ったら、その若造はベーシストで以後は5弦のベースを弾く。で、1曲目にベースを弾いていたバリー・ホワイトを若くしたような御仁がそれ以降はギターを弾くのだが、こいつがスクイーズ・ギター+αを見事にモノにしていて、ほう。煩いと感じる人がいるかもしれないが、ぼくにはアリ。とともに、それは主役ラッシュのいろんな広がりを直裁に示唆してもいるわけで。その2曲目は、スーダラないい味を出す老人ドラマー(ラッシュとは35年も一緒にやっているらしい)がいい案配で歌う。彼、ブルース・ドラマーとして非の打ち所のない演奏を効かせてくれたのではないか。イエイ。そのバッキングの3人は皆アフリカン、通常のワーキング・バンドのはずでちょっとしたラッシュのブレイクの合図などにもばっちり対応、ラッシュが作り出すショウの流れをおいしく持ち上げる。
すごいと言えばあまりにすごいのは、ラッシュの外見。すでに70歳をすぎているはずだが、見た目にはせいぜい60歳ぐらいにしか見えない。太っていないし、髪は豊かで、髭ともども黒々としているし、異常に若々しい。もう、動きも軽やか、ちょっとした仕草もお茶目。そして何より、歌声が溌剌としていて、味もある。確かすぎるっ。節々でとるハーモニカ(大小〜音色が異なる〜を交互に吹く、ということもした)演奏ももう巧み。堂にいりまくり、これは頭をたれずにいられようか。
華やかなダンサーたちがいないせいか、ジャンプ調ナンバーは少な目にして、よりブルース色の強いショウをしたのではないだろうか。驚いたのは終盤、ラッシュはなんとギターを手にし、渋く1コード基調のブルースを2曲弾き語り(そして、もう1曲バンドともする)したこと。わー、なんでもこの人はできちゃうんだ。まあ、随所から、いろんな音楽を把握し、サウンドにもきっちり目配せできる達人であることは皮膚感覚で伝わってくるのだが、ここまでとは。そこからは、米国黒人音楽の一握りの人が持ち得るスケールのデカさも見ることができたか。実は、彼はギャンブル&ハフの制作でフィラデルフィア・インターナショナルからアルバムを出したこともあったのだが、それもなんら不思議はないと思える。
85分もの山あり谷ありの、ブルースという決定的音楽様式を芯におく、末広がりの、エンターテインメント性にも、ココロにも満ちたショウ。もう、うっきっき。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。
<先日の、コーチェラ>
ラッシュのバンドの、キース・ラフという名のギタリストはワイヤレスのギターを用い、ここぞというときストラップをしたまま、ギターをぐわんと派手に一回転させる。この記述ではよく分かんないかもしもしれないが、そんなことする人にぼくは初めて触れる。彼の扇情性たっぷりのアトラクティヴなギター演奏(ピック弾きと指弾きの併用)に触れて、1990年ごろのブラック・ロック全盛のころだったら、メジャーが彼と契約してもおかしくないナとも、ぼくは感じた。で、たとえば、コーチェラ・フェス(もう10年以上続いているカリフォルニアの春の砂漠のロック・フェス)のUストリーム中継に突如彼が映し出されたら、ロック・ファンはどういう反応を示すのかとも思いはとんだ。あ、それはボビー・ラッシュのパフォーマンスも同じか。
1日だけ行こうと思っていた先週末2日間のフェス“アイル・ビー・ユア・ミラー東京”が中止になり、時差で中継が午前中に見ることができたりもするので、4月13 ~15日に行われたコーチェラは何気に見たか。とはいえ、見ることができた時間は全体の10分の1かもしれないが、3つのステージをストレスなく、それなりの質を持つ映像で流していた。フェスの雰囲気もおぼろげに感じられるし、皆そこそこ好演しているし(お茶の間で冷静に見る人がいるということに、危惧を覚える出演者もいるかもしれない。Uストリーム中継はいいパフォーマンスを引き出す要因となるか?)。こういうのに触れると、テクノロジーの恩恵を感じずにはいられません。特に印象に残ったのは、ブラス奏者が入っていた出演者のギグ。ボン・イヴェール、ベイルート、tUnE=yArDs(なんて、読むの?)とか。ロック的でない楽器を用いることで、その底にあるうれしい体質が透けて出る? あと、ブルージィな情緒をもわも操る、ときにテルミンを用いていたバンドも良かったな。名前は忘れたけど。
現在ミシシッピ州ジャクソンに住む、ヴェテランの、キャラたち&ファンキーなブルース・シンガー/ハーモニカ奏者。サポートはギター、ベース、ドラム。前回見たとき(1999年12月10日)におおいに触れているが、あの最高にイケてる野卑な女性ダンサー陣が同行していないのは残念だなあと思っていたのだが、そのぶん、ラッシュのブルース・マンとしての顔がくっきり浮かび上がったものになっていて、ぼくはうなった。
ブルース・ショウのならわしで、まずは主役を抜いたバンドがパフォーマンス。まだ20代とおぼしき青年がギターを弾きながら、ブルース・スタンダード「ストーミー・マンデイ」を奇麗に歌う。と、思ったら、その若造はベーシストで以後は5弦のベースを弾く。で、1曲目にベースを弾いていたバリー・ホワイトを若くしたような御仁がそれ以降はギターを弾くのだが、こいつがスクイーズ・ギター+αを見事にモノにしていて、ほう。煩いと感じる人がいるかもしれないが、ぼくにはアリ。とともに、それは主役ラッシュのいろんな広がりを直裁に示唆してもいるわけで。その2曲目は、スーダラないい味を出す老人ドラマー(ラッシュとは35年も一緒にやっているらしい)がいい案配で歌う。彼、ブルース・ドラマーとして非の打ち所のない演奏を効かせてくれたのではないか。イエイ。そのバッキングの3人は皆アフリカン、通常のワーキング・バンドのはずでちょっとしたラッシュのブレイクの合図などにもばっちり対応、ラッシュが作り出すショウの流れをおいしく持ち上げる。
すごいと言えばあまりにすごいのは、ラッシュの外見。すでに70歳をすぎているはずだが、見た目にはせいぜい60歳ぐらいにしか見えない。太っていないし、髪は豊かで、髭ともども黒々としているし、異常に若々しい。もう、動きも軽やか、ちょっとした仕草もお茶目。そして何より、歌声が溌剌としていて、味もある。確かすぎるっ。節々でとるハーモニカ(大小〜音色が異なる〜を交互に吹く、ということもした)演奏ももう巧み。堂にいりまくり、これは頭をたれずにいられようか。
華やかなダンサーたちがいないせいか、ジャンプ調ナンバーは少な目にして、よりブルース色の強いショウをしたのではないだろうか。驚いたのは終盤、ラッシュはなんとギターを手にし、渋く1コード基調のブルースを2曲弾き語り(そして、もう1曲バンドともする)したこと。わー、なんでもこの人はできちゃうんだ。まあ、随所から、いろんな音楽を把握し、サウンドにもきっちり目配せできる達人であることは皮膚感覚で伝わってくるのだが、ここまでとは。そこからは、米国黒人音楽の一握りの人が持ち得るスケールのデカさも見ることができたか。実は、彼はギャンブル&ハフの制作でフィラデルフィア・インターナショナルからアルバムを出したこともあったのだが、それもなんら不思議はないと思える。
85分もの山あり谷ありの、ブルースという決定的音楽様式を芯におく、末広がりの、エンターテインメント性にも、ココロにも満ちたショウ。もう、うっきっき。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。
<先日の、コーチェラ>
ラッシュのバンドの、キース・ラフという名のギタリストはワイヤレスのギターを用い、ここぞというときストラップをしたまま、ギターをぐわんと派手に一回転させる。この記述ではよく分かんないかもしもしれないが、そんなことする人にぼくは初めて触れる。彼の扇情性たっぷりのアトラクティヴなギター演奏(ピック弾きと指弾きの併用)に触れて、1990年ごろのブラック・ロック全盛のころだったら、メジャーが彼と契約してもおかしくないナとも、ぼくは感じた。で、たとえば、コーチェラ・フェス(もう10年以上続いているカリフォルニアの春の砂漠のロック・フェス)のUストリーム中継に突如彼が映し出されたら、ロック・ファンはどういう反応を示すのかとも思いはとんだ。あ、それはボビー・ラッシュのパフォーマンスも同じか。
1日だけ行こうと思っていた先週末2日間のフェス“アイル・ビー・ユア・ミラー東京”が中止になり、時差で中継が午前中に見ることができたりもするので、4月13 ~15日に行われたコーチェラは何気に見たか。とはいえ、見ることができた時間は全体の10分の1かもしれないが、3つのステージをストレスなく、それなりの質を持つ映像で流していた。フェスの雰囲気もおぼろげに感じられるし、皆そこそこ好演しているし(お茶の間で冷静に見る人がいるということに、危惧を覚える出演者もいるかもしれない。Uストリーム中継はいいパフォーマンスを引き出す要因となるか?)。こういうのに触れると、テクノロジーの恩恵を感じずにはいられません。特に印象に残ったのは、ブラス奏者が入っていた出演者のギグ。ボン・イヴェール、ベイルート、tUnE=yArDs(なんて、読むの?)とか。ロック的でない楽器を用いることで、その底にあるうれしい体質が透けて出る? あと、ブルージィな情緒をもわも操る、ときにテルミンを用いていたバンドも良かったな。名前は忘れたけど。
福岡ユタカ+。仙波清彦+さがゆき+泉邦宏
2012年4月21日 音楽 代官山・晴れたら空に豆まいて で、大昔ピンクという広角型ロック・バンドのシンガーで表舞台のスタートをきり、その後は変幻自在のヴォーカリゼイションとサウンドの我が道を行く拮抗表現をつきつめんとしているシンガー/クリエイターを中心とする、セッションを見る。PC2人、ギター、ベース、ヴァイオリン奏者なども臨機応変に絡み、ゆったりとした即興を展開。1時間半見たのだが、退出するときはPC2人によるパフォーマンスが続いていた。福岡が求めるインプロヴィセイションはミュージシャン間の会話というよりも、自分の世界との対話、場(の響き)との対話を重用しする肉声の使い手だと、この日のギグ(声には自分でけっこうエフェクトをかけていた)を見て思った。そういえば、彼の曲がニュースステーションで使われていた昔、川の近くにあった彼の自宅でインタヴューしたことがあったな。
そして、渋谷・Bar Issheeで、即興強者の3人による、諧謔性の高い完全インプロパフォーマンスを楽しむ。打楽器(サンプラー・パッドを用いていてびっくり)の仙波清彦(2011年4月1日、他)、いろんな歌声や小物のさがゆき、各種リードや笛や肉声の泉邦宏(2011年7月10日、他)による自由自在丁々発止が延々。この3人によるパフォーマンスは初めてのよう。演奏が一応終了したあとも、さがと泉は一緒に肉声の饗宴を続けまくる。すごーく意気投合、これからは、トリトリトリオという名前で活動するとかしないとか。その後、学会が作ったウェイン・ショーターの短編映像作品を見せてもらう。わー。入会したら娘も奥さんも死んじゃったけど、それにめげず先生の教えとともに生きてます、という内容?
<一昨日の、悲報。今日の、晴耕雨読>
今日はまがりくねった、奇妙な1日? 東京(と、ぼくが書くときは、FC東京のことであり、断じてヴェルディではありません)とJ1首位の仙台の試合を調布で見ようと思ったら、それはなんと仙台での試合であった。この週末は、東京も川崎も横浜も柏も、すべてアウェイの試合じゃないか。見に行こうと誘ってきた友人から、ごめんなさい勘違いしてましたと連絡があったのは、お昼少し前。雨天だったら見るのやだから当日券で行きましょう、と話し合っていた。一瞬がっかりしたが、サッカー試合の間違いに関しては免疫がある。1997年、クリスタル・パレスがプレミアにあがっている時期があって、出張中にそれを見ようとタクシーに小1時間のって、ロンドン郊外にあるそのホーム・スタジアムにかけつけたら、アウェイの試合だったということがあったのだ。現地のレコード会社の人にこの試合なら見れると言われて、行ったんだけどね。そのときは、その人がぼくのカードでチケットも予約してくれた。女性だったので、サッカーの試合には不慣れだったのか。その後、カードの引き落としはキャンセルがきいた。クリスタル・パレスのスタジアムは大きなスーパーの真横にあったんだけど、がらーん誰もいねー。でも、スタジアムを一瞥できただけでも、落胆しつつ少しうれしかったか。そんとき、一緒に行ったSくん元気ですかあ。と、忘却の彼方にあったことを、思い出しちゃった。てなわけで、まいっかと昼間からのんきに飲みはじめ、予定外の人と会い、なんか想定外に高価なご飯を食べ、気持ちよくできあがったあと気分の向くままライヴをはしごし……。やはり、世の中、どうなろうとどうにもなるもんだア。特に、都会は。そういう融通のきき具合を、“都会型晴耕雨読”とぼくは呼んでいる。なーんて、いま思いつきました。最後は、なじみの店の開店4周年のパーティに店主から来てネと数日前に脅されたので顔を出す。サッカー見ていたら、別の流れになっていて行けなかったかな。なんだかんだ、半日以上アルコールの入ったグラスを持ち続けていた1日。てな、気ままな、生理的に元気でもある生活、あとどのぐらい、ぼくはできるのかなー。
ザ・バンドの唯一の米国人であった、リヴォン・ヘルムが死んじゃった。
享年、71。ここのところ亡くなってしまったミュージシャンのなかではトップに悲しさを覚えたか。やっぱ、ザ・バンドが大好きなんだよなー。彼らは聞くシチュエーションを選ばないし、近年は飲むと猛烈に聞きたくなったりもする。とともに、やはりちゃんと取材の機会を持てて、強い印象を得ている人物だと、より思いは湧くのだと思う。
ヘルムにインタヴューしたのは、Jリーグが始まった翌年の1994年、ザ・バンドで来日したとき。あのころ、チームに入っててサッカーをそれなりにやっていて、彼らの新宿厚生年金会館公演があるので、前半だけ杉並での試合(そのとき、バカみたいに調子が良かったんだよなー)に出て後ろ髪ひかれる思いでコンサートに向かったのを良く覚えている。実は取材のさい、ヘルムは少し“明後日”の感じがあって、クスリをやっているのかと思えたりもした。でも、別れ際のとってもココロある対応/発言が鮮やかに記憶にのこっている。その質疑応答で、やはりロビー・ロバートソンとは相当に仲が良くないことも分かり、印象の良さもあり非ロバートソン組を応援するゾと、単純なオレは心に決めた。あのとき一緒に取材に応えたリック・ダンコも99年に亡くなっているし、リチャード・マニュエルは86年にこの世を去っているし。これで、ザ・バンドの人間度の高いロックを支えた3人の歌担当者は全員いなくなってしまった。
ちなみに、再結成してのザ・バンドの初来日公演(すでに、ロバートソンとは袂を分かつ、という形態になっていた)は1983年で、そのときの冠はケンタッキー・フライド・チキン。大ファンだったので記者会見にも行ったら、山盛りセットのフリー・チケットを複数枚もらった。父親ともよく絡んだ娘のエイミーがいた趣味性の高いバンドであるオラベル(2004年9月19日)を見たのももう懐かしい思い出。彼女は父親をちゃんと看取ったらしい。
さて、来月にはザ・バンドと同様、ぼくが途方もなく愛してやまなかったリトル・フィート(2000年12月8日)の来日公演がある。少し前に70年代上半期のライヴが無料配信され、それはうれしく拝聴した。彼らの2000年の来日ライヴはジャム・バンド的流れにのり各人の楽器ソロ・パートを延々と垂れ流してて幻滅した記憶があるが、そんなのものともせず、見に行きたい。ビルボードライブでの公演だったら、演奏時間が限られるので、そうはならないのではないか。現在、リトル・フィートのホームページに行くと、今年1月にジャマイカでやったライヴの模様を公表しているが、それがザ・バンド曲の「アップ・オン・クリップル・クリーク」の映像(ビル・ペインのオルガンがけっこうガース・ハドソンぽい。なぜか、ステージ上には11人いる)と同「ラグ・ママ・ラグ」のオーディオ。ともに(いずれも、”チョコレート”とか”ブラウン・アルバム”とか一部で呼ばれるセカンド作収録曲だな)、素晴らしい! 日本でもザ・バンド曲をやってくれるか? そこでは、故ロウエル・ジョージの1979年ソロ作に入っていた「オネスト・マン」カヴァーのライヴ曲も聞けるが、それはアラン・トゥーサン(2011年1月10日、他)曲みたいに聞こえる。
話は飛ぶが、ボニー・レイット(2007年4月7、8日)のジョー・ヘンリー(2010 年4月2、4日)制作新作『ストップストーム』(これも、全曲無料配信されていた。日本盤は5月下旬にビクターエンタテインメントから発売)は間違いなく、今年No.1の米国ロック作だ。聞き惚れる。ヘンリーはこの秋にもまた来日する予定もあるようだが、レイットについてはとんと来日から縁遠い。単独ではギャラとの折り合いが駄目でも、ジョン・フォガティ(2010年7月31日)のようにフェスに呼ばれるとかないのだろうか。
だらだら書いたついでに、もう一つ思い出を書いちゃおう。好きな人に影響を受けたバンドをやりたいというのは、とても自然な流れではありますね。でも、大学時代、リトル・フィートにもろに影響を受けたビートをやろうとしても、ザ・バンドみたいなことをやろうとは思わなかった。やはり、あれをやるには困難すぎると最初からあきらめていたのか。そのかわり、ザ・バンドが「(アイ・ドント・ウォント・トゥ・)ドント・ハング・アップ・マイ・ロックロール・シューズ」という1958年チャック・ウィリス曲(原盤は、アトランティック)をライヴ盤『ロック・オブ・エイジズ』でカヴァーしていたのにならい(?)、「(ドント・ハング・アップ・)マイ・ロックンロール・ブーツ」というR&R曲を作り、バンドでやったことがあった。<ぼくのロックンロール・ブーツは世界中を飛び回り、興奮するとかかとが伸びる>、という内容の歌だった。ハハハ。あのころ、ぼくがいた音楽サークルは“SAシューズ”(←店名。わかる人には分かる)にお世話になっていた人が少なくなかった。
あ、なんかマンドリン、ほしくなっちゃった。
そして、渋谷・Bar Issheeで、即興強者の3人による、諧謔性の高い完全インプロパフォーマンスを楽しむ。打楽器(サンプラー・パッドを用いていてびっくり)の仙波清彦(2011年4月1日、他)、いろんな歌声や小物のさがゆき、各種リードや笛や肉声の泉邦宏(2011年7月10日、他)による自由自在丁々発止が延々。この3人によるパフォーマンスは初めてのよう。演奏が一応終了したあとも、さがと泉は一緒に肉声の饗宴を続けまくる。すごーく意気投合、これからは、トリトリトリオという名前で活動するとかしないとか。その後、学会が作ったウェイン・ショーターの短編映像作品を見せてもらう。わー。入会したら娘も奥さんも死んじゃったけど、それにめげず先生の教えとともに生きてます、という内容?
<一昨日の、悲報。今日の、晴耕雨読>
今日はまがりくねった、奇妙な1日? 東京(と、ぼくが書くときは、FC東京のことであり、断じてヴェルディではありません)とJ1首位の仙台の試合を調布で見ようと思ったら、それはなんと仙台での試合であった。この週末は、東京も川崎も横浜も柏も、すべてアウェイの試合じゃないか。見に行こうと誘ってきた友人から、ごめんなさい勘違いしてましたと連絡があったのは、お昼少し前。雨天だったら見るのやだから当日券で行きましょう、と話し合っていた。一瞬がっかりしたが、サッカー試合の間違いに関しては免疫がある。1997年、クリスタル・パレスがプレミアにあがっている時期があって、出張中にそれを見ようとタクシーに小1時間のって、ロンドン郊外にあるそのホーム・スタジアムにかけつけたら、アウェイの試合だったということがあったのだ。現地のレコード会社の人にこの試合なら見れると言われて、行ったんだけどね。そのときは、その人がぼくのカードでチケットも予約してくれた。女性だったので、サッカーの試合には不慣れだったのか。その後、カードの引き落としはキャンセルがきいた。クリスタル・パレスのスタジアムは大きなスーパーの真横にあったんだけど、がらーん誰もいねー。でも、スタジアムを一瞥できただけでも、落胆しつつ少しうれしかったか。そんとき、一緒に行ったSくん元気ですかあ。と、忘却の彼方にあったことを、思い出しちゃった。てなわけで、まいっかと昼間からのんきに飲みはじめ、予定外の人と会い、なんか想定外に高価なご飯を食べ、気持ちよくできあがったあと気分の向くままライヴをはしごし……。やはり、世の中、どうなろうとどうにもなるもんだア。特に、都会は。そういう融通のきき具合を、“都会型晴耕雨読”とぼくは呼んでいる。なーんて、いま思いつきました。最後は、なじみの店の開店4周年のパーティに店主から来てネと数日前に脅されたので顔を出す。サッカー見ていたら、別の流れになっていて行けなかったかな。なんだかんだ、半日以上アルコールの入ったグラスを持ち続けていた1日。てな、気ままな、生理的に元気でもある生活、あとどのぐらい、ぼくはできるのかなー。
ザ・バンドの唯一の米国人であった、リヴォン・ヘルムが死んじゃった。
享年、71。ここのところ亡くなってしまったミュージシャンのなかではトップに悲しさを覚えたか。やっぱ、ザ・バンドが大好きなんだよなー。彼らは聞くシチュエーションを選ばないし、近年は飲むと猛烈に聞きたくなったりもする。とともに、やはりちゃんと取材の機会を持てて、強い印象を得ている人物だと、より思いは湧くのだと思う。
ヘルムにインタヴューしたのは、Jリーグが始まった翌年の1994年、ザ・バンドで来日したとき。あのころ、チームに入っててサッカーをそれなりにやっていて、彼らの新宿厚生年金会館公演があるので、前半だけ杉並での試合(そのとき、バカみたいに調子が良かったんだよなー)に出て後ろ髪ひかれる思いでコンサートに向かったのを良く覚えている。実は取材のさい、ヘルムは少し“明後日”の感じがあって、クスリをやっているのかと思えたりもした。でも、別れ際のとってもココロある対応/発言が鮮やかに記憶にのこっている。その質疑応答で、やはりロビー・ロバートソンとは相当に仲が良くないことも分かり、印象の良さもあり非ロバートソン組を応援するゾと、単純なオレは心に決めた。あのとき一緒に取材に応えたリック・ダンコも99年に亡くなっているし、リチャード・マニュエルは86年にこの世を去っているし。これで、ザ・バンドの人間度の高いロックを支えた3人の歌担当者は全員いなくなってしまった。
ちなみに、再結成してのザ・バンドの初来日公演(すでに、ロバートソンとは袂を分かつ、という形態になっていた)は1983年で、そのときの冠はケンタッキー・フライド・チキン。大ファンだったので記者会見にも行ったら、山盛りセットのフリー・チケットを複数枚もらった。父親ともよく絡んだ娘のエイミーがいた趣味性の高いバンドであるオラベル(2004年9月19日)を見たのももう懐かしい思い出。彼女は父親をちゃんと看取ったらしい。
さて、来月にはザ・バンドと同様、ぼくが途方もなく愛してやまなかったリトル・フィート(2000年12月8日)の来日公演がある。少し前に70年代上半期のライヴが無料配信され、それはうれしく拝聴した。彼らの2000年の来日ライヴはジャム・バンド的流れにのり各人の楽器ソロ・パートを延々と垂れ流してて幻滅した記憶があるが、そんなのものともせず、見に行きたい。ビルボードライブでの公演だったら、演奏時間が限られるので、そうはならないのではないか。現在、リトル・フィートのホームページに行くと、今年1月にジャマイカでやったライヴの模様を公表しているが、それがザ・バンド曲の「アップ・オン・クリップル・クリーク」の映像(ビル・ペインのオルガンがけっこうガース・ハドソンぽい。なぜか、ステージ上には11人いる)と同「ラグ・ママ・ラグ」のオーディオ。ともに(いずれも、”チョコレート”とか”ブラウン・アルバム”とか一部で呼ばれるセカンド作収録曲だな)、素晴らしい! 日本でもザ・バンド曲をやってくれるか? そこでは、故ロウエル・ジョージの1979年ソロ作に入っていた「オネスト・マン」カヴァーのライヴ曲も聞けるが、それはアラン・トゥーサン(2011年1月10日、他)曲みたいに聞こえる。
話は飛ぶが、ボニー・レイット(2007年4月7、8日)のジョー・ヘンリー(2010 年4月2、4日)制作新作『ストップストーム』(これも、全曲無料配信されていた。日本盤は5月下旬にビクターエンタテインメントから発売)は間違いなく、今年No.1の米国ロック作だ。聞き惚れる。ヘンリーはこの秋にもまた来日する予定もあるようだが、レイットについてはとんと来日から縁遠い。単独ではギャラとの折り合いが駄目でも、ジョン・フォガティ(2010年7月31日)のようにフェスに呼ばれるとかないのだろうか。
だらだら書いたついでに、もう一つ思い出を書いちゃおう。好きな人に影響を受けたバンドをやりたいというのは、とても自然な流れではありますね。でも、大学時代、リトル・フィートにもろに影響を受けたビートをやろうとしても、ザ・バンドみたいなことをやろうとは思わなかった。やはり、あれをやるには困難すぎると最初からあきらめていたのか。そのかわり、ザ・バンドが「(アイ・ドント・ウォント・トゥ・)ドント・ハング・アップ・マイ・ロックロール・シューズ」という1958年チャック・ウィリス曲(原盤は、アトランティック)をライヴ盤『ロック・オブ・エイジズ』でカヴァーしていたのにならい(?)、「(ドント・ハング・アップ・)マイ・ロックンロール・ブーツ」というR&R曲を作り、バンドでやったことがあった。<ぼくのロックンロール・ブーツは世界中を飛び回り、興奮するとかかとが伸びる>、という内容の歌だった。ハハハ。あのころ、ぼくがいた音楽サークルは“SAシューズ”(←店名。わかる人には分かる)にお世話になっていた人が少なくなかった。
あ、なんかマンドリン、ほしくなっちゃった。
毎度ダレもやらないような試みをなにかとやるPE’Z(2009年10月29日、他)だが、今回もそう。『OH! YEAH! PARTY!!』と題された新作全曲をツアー前に2ヶ月間無料ダウンロード開放→→その新作曲をすべて演奏するこの日の公演をライヴ録音→→そして、フィジカルとしてスタジオ録音盤とライヴ録音盤からなる2枚組を1ヶ月後にはリリース。……という、手はずになっているという。へえ。ライヴの最中にはその商品のための1階フロアの観客も巻き込んだジャケット・カヴァー写真の撮影も行われ、また会場でそれを予約した人の名前が商品には載せられるとMCされていた。トッド・ラングレン(2010年10月10日、他)が1974 年作『トッド』でポスターを付け、それには前作(『魔法使い』)封入のハガキを返してきた人の名前をすべて印刷した、ということがあったのをふと思い出した。トッドって、ファン思いだったのだな。だからこそ、かつてのブルーノート東京での醜態(2002年9月19日)は残念でならない。そういえば、ちょうどポスターをつけたころストリーキング(公共の場を裸で走る行為)が流行っていて、彼はファンとそれをやったという話もあったな。って、それは別にファン・サーヴィスではないか。
ステージでのメンバーの立ち位置が変わっていた(MCによれば、この日かわったらしい)り、アコースティック・ピアノのヒイズミ(2008年4月6日)はよりやんちゃに弾くようになってもいる。が、妙にメロディ性を持つ楽曲を、晴れの場感覚で弾けつつ、さくっと演奏しちゃう路線はこれまでとおりで、マンネリと感じさせないのには感心。曲もいまだポンポンできるようだ。アルバム・デビューしてちょうど10年たつそうだが、リーダーのB.M.W.(2011年11年22日)以下、彼らは鉄壁なチームワークを誇りメンバー・チェンジしていないのか。継続は力なり、だな。
<今日の、あら?>
場所は、赤坂・ブリッツ。17時半と言う半端な開演時間で、会場に向かうため電車に乗ると、日曜なのに駒沢競技場であったサッカーJ2の試合(東京ヴェルディvs.湘南)帰りの人たちでそれなりに混んでいた。なんか雰囲気で、湘南が勝ったんだろうと推測。よしよし。わりと近い会場での試合だし、ぼくも見に行こうかなーと思ったりもしてたんだが、雨が降りそう&肌寒いのでやめにしたワタシ。毎度、無理を御法度にしておりマス。
ブリッツの中に入ると、おおおお。子供連れ家族がけっこういる。チケットを見ると、2階指定席チケット1枚につき未就学児一人入場可とあった。
ステージでのメンバーの立ち位置が変わっていた(MCによれば、この日かわったらしい)り、アコースティック・ピアノのヒイズミ(2008年4月6日)はよりやんちゃに弾くようになってもいる。が、妙にメロディ性を持つ楽曲を、晴れの場感覚で弾けつつ、さくっと演奏しちゃう路線はこれまでとおりで、マンネリと感じさせないのには感心。曲もいまだポンポンできるようだ。アルバム・デビューしてちょうど10年たつそうだが、リーダーのB.M.W.(2011年11年22日)以下、彼らは鉄壁なチームワークを誇りメンバー・チェンジしていないのか。継続は力なり、だな。
<今日の、あら?>
場所は、赤坂・ブリッツ。17時半と言う半端な開演時間で、会場に向かうため電車に乗ると、日曜なのに駒沢競技場であったサッカーJ2の試合(東京ヴェルディvs.湘南)帰りの人たちでそれなりに混んでいた。なんか雰囲気で、湘南が勝ったんだろうと推測。よしよし。わりと近い会場での試合だし、ぼくも見に行こうかなーと思ったりもしてたんだが、雨が降りそう&肌寒いのでやめにしたワタシ。毎度、無理を御法度にしておりマス。
ブリッツの中に入ると、おおおお。子供連れ家族がけっこういる。チケットを見ると、2階指定席チケット1枚につき未就学児一人入場可とあった。
フライング・ダッチマン、シーナ&ザ・ロケッツ
2012年4月23日 音楽 南青山・月見ル君想フ。フライング・ダッチマンは昨年「ヒューマン・エラー」という反原発ソングで大きな話題を得た関西のバンド。歌/ギター、ベース、シンセサイザー、ドラムと言う編成。見た目はそれなりに若く、皆20代? がらっぱちな、ときにアーシーな芯あるロックを聞かせる。やはり、心意気が底にある……。「ヒューマン・エラー」はもうやらねえよ、と言って、ステージを降りたが、それは過去のレパートリーにしがみつきたくない、特定の曲だけに注目するなというバンドの意思表示か。それとも、長い曲っぽいので、演奏時間が短い設定だとやらないのか。なんにせよ、もうちょい長く見たかった。
その後、ヴェテランのシーナ&ザ・ロケッツ。粗雑なブラック・ミュージックの扱いのため音楽的には残念ながらあまり興味を持てないけど、この夫婦はすごいと、素直に思う。還暦すぎているだろうに、スリムな体形を維持し、ツっぱりまくって、自らの信じる道を邁進している様には。
<今日の、思ひ出>
ロンドンの帰り、シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠夫妻と同じ便になったことがある。テレンス・トレント・ダービーの『シンフォニー・オア・ダム』リリースに際しての取材(そのとき、かなり静的な印象を与えるダービーは彼の周りだけ時間が止まっているようで、ぼくは息を飲んだ。彼はポップ・ミュージック界に大きく失望していて、プロモーションの席なのに、もう引退したい、なぞとも言っていた。2001年秋口に東京で会ったときは吹っ切れていて〜サナンダ・マイトルーヤと改名していた〜快活だった)であったので、93年初夏のことだったはず。そのとき、ぼくはビジネス・クラスの席だったのだが、後から入ってきて横を通るお二人が後ろのブロックに消えていき、大変申し訳ない気持ちになったので、一緒の便だったのをよく覚えている。なんか、その際の颯爽とした様にロックンロールを感じたか。また、そのBA便には、ぼくの近くの席に仏ル・マン24時間レース参戦帰りであるレーシング・ドライヴァーの鈴木利男さんが座っていた。当時、F-1にぼくは熱をあげていた(隔週発売のレース雑誌をときに2誌も買っていたよなー。あと一瞬、その延長でゴーカート運転に熱を入れかけたことがあった)ので、なんかうれしかったっけ。彼はその年のF-1に、終盤2カ所でラルースからスポット出走をした。
その後、ヴェテランのシーナ&ザ・ロケッツ。粗雑なブラック・ミュージックの扱いのため音楽的には残念ながらあまり興味を持てないけど、この夫婦はすごいと、素直に思う。還暦すぎているだろうに、スリムな体形を維持し、ツっぱりまくって、自らの信じる道を邁進している様には。
<今日の、思ひ出>
ロンドンの帰り、シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠夫妻と同じ便になったことがある。テレンス・トレント・ダービーの『シンフォニー・オア・ダム』リリースに際しての取材(そのとき、かなり静的な印象を与えるダービーは彼の周りだけ時間が止まっているようで、ぼくは息を飲んだ。彼はポップ・ミュージック界に大きく失望していて、プロモーションの席なのに、もう引退したい、なぞとも言っていた。2001年秋口に東京で会ったときは吹っ切れていて〜サナンダ・マイトルーヤと改名していた〜快活だった)であったので、93年初夏のことだったはず。そのとき、ぼくはビジネス・クラスの席だったのだが、後から入ってきて横を通るお二人が後ろのブロックに消えていき、大変申し訳ない気持ちになったので、一緒の便だったのをよく覚えている。なんか、その際の颯爽とした様にロックンロールを感じたか。また、そのBA便には、ぼくの近くの席に仏ル・マン24時間レース参戦帰りであるレーシング・ドライヴァーの鈴木利男さんが座っていた。当時、F-1にぼくは熱をあげていた(隔週発売のレース雑誌をときに2誌も買っていたよなー。あと一瞬、その延長でゴーカート運転に熱を入れかけたことがあった)ので、なんかうれしかったっけ。彼はその年のF-1に、終盤2カ所でラルースからスポット出走をした。
吉田慶子。ロニー・ジョーダン(+DJクラッシュ)
2012年4月25日 音楽 青山・プラッサオンゼで、定評あるボサノヴァ歌いの日本人歌手である吉田慶子を見る。ギタリストの笹子重治(2011年12月21日、他)一人のサポートを受け、ナチュラルな歌い口や息遣いのもと、奥行きや空間の感覚がおいしい、ある意味ハマったヴォーカル表現を淡々と開いていく。MCはものすごく、天然。曲ごとにマイ・ペースでけっこう話すのだが、MC嫌いのワタシもあまりのほんわか跳び具合にまあいっかとなってしまいましたとサ。しゃべる声は少しハスキ−なのに、歌声は透明度が高くなる。ファースト・ショウを見て、南青山・ブルーノート東京へ。
こちらは、ウェス・モンゴメリー的オクターヴ奏法とクラブ・ミュージックぽいビートを掛け合わせたマイルス・デイヴィス曲「ソー・ホワット」で当たりをとった(ちょうど20年前のこと!)英国人ギタリストの出演。デビューはトーキング・ラウドで、彼はその後NYに渡り、ブルーノートからアルバムを出したことがあった。当人に加え、2キーボード、電気ベース、ドラムがサポート。リズム・セクションがなかなかいい感じ。女性ヴォーカリストも2、3曲で加わったが、それは色を添えるという域。みんな、アフリカ系の人たちで、大雑把に言えば、ソウル・フュージョンと言える演奏を披露した。ジョーダン本人はこれまでどおり、指の動きでというよりは訥々とした弾き口で勝負する。
そして、アンコールを含め3曲で、1994年に『バッド・ブラザー』という双頭ミニ・アルバムを出したことがあるDJクラッシュ(2011年3月7日)が加わる。やった曲はそこに入っていた曲(データー一部流用? そんな昔のモノは取っていないか)だが、彼が入ったとたん表現総体がなんかビシっとし、格好よさが倍加する。さすがっ。
<今日の、新機軸>
今回のジョーダンのブルーノート公演、ファースト・ショウはオルガン・トリオ編成の3人(ようはジョーダンと、オルガン奏者とドラマー)で演奏し、セカンド・ショウは上の編成でのパフォーマンスと、完全にメンツを変えての出し物であったよう。なるほど、そういうのもアリでしょう。ファースト・ショウでたっぷりオルガンと鍵盤ベースを弾いたためか、オルガン奏者のメル・デイヴィスという人物はセカンドでは普通にキーボードを弾く。DJクラッシュが加わって以降の2曲で弾いたオルガンの演奏は悪くない感じだったので、もうちょっとハモンドを弾いてほしかったな。
こちらは、ウェス・モンゴメリー的オクターヴ奏法とクラブ・ミュージックぽいビートを掛け合わせたマイルス・デイヴィス曲「ソー・ホワット」で当たりをとった(ちょうど20年前のこと!)英国人ギタリストの出演。デビューはトーキング・ラウドで、彼はその後NYに渡り、ブルーノートからアルバムを出したことがあった。当人に加え、2キーボード、電気ベース、ドラムがサポート。リズム・セクションがなかなかいい感じ。女性ヴォーカリストも2、3曲で加わったが、それは色を添えるという域。みんな、アフリカ系の人たちで、大雑把に言えば、ソウル・フュージョンと言える演奏を披露した。ジョーダン本人はこれまでどおり、指の動きでというよりは訥々とした弾き口で勝負する。
そして、アンコールを含め3曲で、1994年に『バッド・ブラザー』という双頭ミニ・アルバムを出したことがあるDJクラッシュ(2011年3月7日)が加わる。やった曲はそこに入っていた曲(データー一部流用? そんな昔のモノは取っていないか)だが、彼が入ったとたん表現総体がなんかビシっとし、格好よさが倍加する。さすがっ。
<今日の、新機軸>
今回のジョーダンのブルーノート公演、ファースト・ショウはオルガン・トリオ編成の3人(ようはジョーダンと、オルガン奏者とドラマー)で演奏し、セカンド・ショウは上の編成でのパフォーマンスと、完全にメンツを変えての出し物であったよう。なるほど、そういうのもアリでしょう。ファースト・ショウでたっぷりオルガンと鍵盤ベースを弾いたためか、オルガン奏者のメル・デイヴィスという人物はセカンドでは普通にキーボードを弾く。DJクラッシュが加わって以降の2曲で弾いたオルガンの演奏は悪くない感じだったので、もうちょっとハモンドを弾いてほしかったな。
ビッグ・ダディ・ケイン・ウィズ・カーティス・ブロウ
2012年4月26日 音楽 オールド・スクールの大御所ラッパーが2人そろい、サポートにきっちり管つきの9人編成バンドがつくという公演。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。
定時に、バンド員がゾロゾロ出てくる。ギター、ベース、キーボード、ドラム、パーカッション、トランペット、テナー・サックス、バリトン・サックス、DJ。わ、DJ以外は見事にみんな白人じゃないか。中央目前方に位置したギタリストがリーダーシップを取っているようだ。実はその背の高いギタリストはブレイケストラ(そういえば、そのメンバーがザ・リバース;2005年10月23日のサポートで来たこともあった)にいたダン・ユービック。演奏陣は彼が率いたLAのファンク・バンドのコニー・プライス&ザ・キーノーツの構成員がけっこういるらしい。まずは1曲、短目のソロを回したりするインストゥルメンタルをバンドは披露する。
そして、80年代後期から90年代前半にかけてコールド・チリン/エレクトラから印象深い作品を出していたビッグ・ダディ・ケイン(1968年生まれ)が登場。お、老けてないし、格好いい。さすが、かつて色男で売った御仁。彼は実に歯切れのいい早口フロウを生サウンドに乗せていく。うーん、いいじゃないか! もう、何を言っているかまるで分からなくても、肉声自体の存在感や格好良さがびんびん伝わり、また生音との相乗も実にそそる。
後半の2曲はビッグ・ダディ・ケインと入れ替わりで、先輩カーティス・ブロウ(1959年生まれ)が出て来て(つまり、2人の共演はない)、またグイのりでラップをかます。彼の伴奏をすると、バックはよりレトロ色なファンク・サウンドとなる。そして、最後にはまたケインのパフォーマンス。
<肉声と機械経由のサウンド>と<肉声と生バンド音>。<アナログ×デジタル>と<アナログ×アナログ>。どちらが、肉声=ラップが引き立つかといったら、そりゃ前者。経済効率や手間を省くという目的以外に、ラップのトラックにDJ/サンプリング音が使われるようになったのはそういう構造ゆえだろう。だが、このアナログな2人はぜんぜんアナログなバンド音に負けておらず、生々しい拮抗を介し、臨機応変に自らの存在を仁王たちさせた。オールド・スクール、万歳! それにつきる。いやあ、浮かれたなあ。
楽しかったア。ということにかけて、今年トップ級の公演だった。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。
<今日の、20分>
ライヴを見る前に某ホテルで、来日中のブッゲ・ベッセルトフト(2010年1月24日、他)にインタヴュー。ゴールデン・ウィーク前に入っている最後の取材となる。ほのかな開放感を感じる? その前のFM 番組の収録がおしたとかで予定より50分おくれで、それは始まる。1時間の取材時間の予定であったが、ぼくに変更のきかない予定が迫っていたので、インタヴューを20分で切り上げざるをえなかった。しょうがねえ。でも、聞きたい事はちゃんと聞けた。ちゃんと進められれば、そのぐらいの時間でも本当はなんとかなるよな。今年は先方の都合で短時間しか取れないんですという取材依頼がいくつかもたらされ、チャカ・カーン(2012年1月10日、他)、ベティ・ライト(2012年2月28 日、他)、エスペランサ・スポルディング(2011年2月17日、他)などはどれも20分の取材時間だった。まあ、カーンの場合は本人のノリで長目に出来たけど。ライト(CDジャーナル)とエスペランサ(ミュージック・マガジン)は今本屋に出ている号に記事が掲載されているが、短い時間の取材でもまっとうなインタヴュー原稿になっていると信じる。
ベッセルトフトへの取材はちょうど10年ぶりとなるが、彼はぼくを見て即、君を覚えている。えッ。オレ、けっこう外見かわっているはずだが(最近、髪の毛がすばらしく金色になったばかり。2度の脱色&1度の染色は疲れる〜)、確信たっぷりに言い放つし、お調子者じゃない人なので本当に覚えているのだろう。あ、誰だったか、声でキミを覚えていると言ったミュージシャンがいたな。その10年前のインタヴュー時は、伏し目でぜんぜん人の目を見ないで受け答えしていたが、今回はそうにあらず。やはり、彼が押し進めてきてきた電化ジャズがちゃんと世界で認められ、進行形ジャズのメインストリームになっていることにかなり自信を深めているようだ。この晩、ベッセルトフトは渋谷の公園通りクラシックスで、ちょうど来日中のニルス・ペッター・モルヴェル(2008年11月13日、他)らとセッションするとか。そりゃ見たくはあるが、ぼくは上のショウを見ることになっているので、あきらめる。そしたら、書いてあるように、すんごい良くて、ウキキキキ。実は終わったあと少しでも見れればと大至急で渋谷に向かおうかとも考えたのだが。そのまま上機嫌で、六本木でごんごん飲んじゃいましたとさ。……多忙なゴールデン・ウィーク前、平気なのか。さいきん、筆の早さが戻って(いるよーな気がして)いて、オレちょーしこいてる?
定時に、バンド員がゾロゾロ出てくる。ギター、ベース、キーボード、ドラム、パーカッション、トランペット、テナー・サックス、バリトン・サックス、DJ。わ、DJ以外は見事にみんな白人じゃないか。中央目前方に位置したギタリストがリーダーシップを取っているようだ。実はその背の高いギタリストはブレイケストラ(そういえば、そのメンバーがザ・リバース;2005年10月23日のサポートで来たこともあった)にいたダン・ユービック。演奏陣は彼が率いたLAのファンク・バンドのコニー・プライス&ザ・キーノーツの構成員がけっこういるらしい。まずは1曲、短目のソロを回したりするインストゥルメンタルをバンドは披露する。
そして、80年代後期から90年代前半にかけてコールド・チリン/エレクトラから印象深い作品を出していたビッグ・ダディ・ケイン(1968年生まれ)が登場。お、老けてないし、格好いい。さすが、かつて色男で売った御仁。彼は実に歯切れのいい早口フロウを生サウンドに乗せていく。うーん、いいじゃないか! もう、何を言っているかまるで分からなくても、肉声自体の存在感や格好良さがびんびん伝わり、また生音との相乗も実にそそる。
後半の2曲はビッグ・ダディ・ケインと入れ替わりで、先輩カーティス・ブロウ(1959年生まれ)が出て来て(つまり、2人の共演はない)、またグイのりでラップをかます。彼の伴奏をすると、バックはよりレトロ色なファンク・サウンドとなる。そして、最後にはまたケインのパフォーマンス。
<肉声と機械経由のサウンド>と<肉声と生バンド音>。<アナログ×デジタル>と<アナログ×アナログ>。どちらが、肉声=ラップが引き立つかといったら、そりゃ前者。経済効率や手間を省くという目的以外に、ラップのトラックにDJ/サンプリング音が使われるようになったのはそういう構造ゆえだろう。だが、このアナログな2人はぜんぜんアナログなバンド音に負けておらず、生々しい拮抗を介し、臨機応変に自らの存在を仁王たちさせた。オールド・スクール、万歳! それにつきる。いやあ、浮かれたなあ。
楽しかったア。ということにかけて、今年トップ級の公演だった。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。
<今日の、20分>
ライヴを見る前に某ホテルで、来日中のブッゲ・ベッセルトフト(2010年1月24日、他)にインタヴュー。ゴールデン・ウィーク前に入っている最後の取材となる。ほのかな開放感を感じる? その前のFM 番組の収録がおしたとかで予定より50分おくれで、それは始まる。1時間の取材時間の予定であったが、ぼくに変更のきかない予定が迫っていたので、インタヴューを20分で切り上げざるをえなかった。しょうがねえ。でも、聞きたい事はちゃんと聞けた。ちゃんと進められれば、そのぐらいの時間でも本当はなんとかなるよな。今年は先方の都合で短時間しか取れないんですという取材依頼がいくつかもたらされ、チャカ・カーン(2012年1月10日、他)、ベティ・ライト(2012年2月28 日、他)、エスペランサ・スポルディング(2011年2月17日、他)などはどれも20分の取材時間だった。まあ、カーンの場合は本人のノリで長目に出来たけど。ライト(CDジャーナル)とエスペランサ(ミュージック・マガジン)は今本屋に出ている号に記事が掲載されているが、短い時間の取材でもまっとうなインタヴュー原稿になっていると信じる。
ベッセルトフトへの取材はちょうど10年ぶりとなるが、彼はぼくを見て即、君を覚えている。えッ。オレ、けっこう外見かわっているはずだが(最近、髪の毛がすばらしく金色になったばかり。2度の脱色&1度の染色は疲れる〜)、確信たっぷりに言い放つし、お調子者じゃない人なので本当に覚えているのだろう。あ、誰だったか、声でキミを覚えていると言ったミュージシャンがいたな。その10年前のインタヴュー時は、伏し目でぜんぜん人の目を見ないで受け答えしていたが、今回はそうにあらず。やはり、彼が押し進めてきてきた電化ジャズがちゃんと世界で認められ、進行形ジャズのメインストリームになっていることにかなり自信を深めているようだ。この晩、ベッセルトフトは渋谷の公園通りクラシックスで、ちょうど来日中のニルス・ペッター・モルヴェル(2008年11月13日、他)らとセッションするとか。そりゃ見たくはあるが、ぼくは上のショウを見ることになっているので、あきらめる。そしたら、書いてあるように、すんごい良くて、ウキキキキ。実は終わったあと少しでも見れればと大至急で渋谷に向かおうかとも考えたのだが。そのまま上機嫌で、六本木でごんごん飲んじゃいましたとさ。……多忙なゴールデン・ウィーク前、平気なのか。さいきん、筆の早さが戻って(いるよーな気がして)いて、オレちょーしこいてる?
ブッゲ・ベッセルトフト&フレンズ。ジョー・バルビエリ
2012年4月29日 音楽 ジャズランド・レーベルを主宰しつつ現代エレクトロ・ジャズの代表牽引者として鋭意活動しているノルウェー人ピアニスト/キーボード奏者(2010年1月24日、他)を中心とするいろんな国籍の奏者たちが重なるセッション。その内訳を見ると、ちょっと生を見るまで内容が???と言う感じ。でも、それもジャズ/インプロ系のライヴでは大アリなわけで。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。
フランス人トランペッターのエリック・トラファズ(2001年10 月26日)、トルコのルーツで今はNYで活動するイルハン・エルシャヒン(テナー・サックス)、米国広角型ハウス表現の人気DJであるホアキン・ジョー・クララウゼル(ビーツ、打楽器)、ノルウェー人ドラマーのアンドレアス・ビー(ドラム)といった人たちに加え、京都をベースとするSOFT(2000年7月30日)の右近雅人(エレクトリック縦ベース)とMasaharu Uehara(パーカッション)もそこに加わる。また、本編最後の曲とアンコール曲の2曲では、ベッセルトフトとアルバム作りや共演ライヴをやっているakiko(2010年1月24日、他)も歌や語りでステージに立った。
生演奏と電気的音/効果の拮抗を柱とする、肩のこらないお手合わせ。電気マイルス的というか、『イン・ア・サイレント・ウェイ』っぽい曲もあったな。まあ、それなりに構成のある曲をやったが、もう少しぶっちゃけてて、混沌としていてもいいとぼくは思ったが、よく抑制が取られていたとも言える? 全部で1時間ちょいの演奏というのは、それを表しているか。なんでも、彼は“ブッゲン・フレンズ”と名乗りこの多国籍ユニット(日本勢は未参加)で夏に欧州を回るそうで、表現をよりつきつめていきたい気持ちを持っている。もしかして、商品化もされるか。
次は、丸の内・コットンクラブ。出演者はイタリアの洒脱シンガー・ソングライターのジョー・バルビエリで、初来日。ピアノ・トリオ(普段はジャズをやっているのかな?)とチェロ奏者の4人がバッキング。皆、同様にイタリア人か。彼、多分にボサノヴァ的柔和さを巧みに介したりもする人だが、チェロ奏者とウッド・ベース奏者を重ねるという行き方はカエターノ・ヴェローゾ(2005年5月23日)のライヴ編成と同じだな。
パフォーマンスが始まって、なぜかすぐに思ったのが、なんとなくフランス的というか、シャンソン系の味がほのかにするな。さらっとしているようで、不可思議なベタつきを、ぼくは感じたからか。そしたら、彼は途中で2曲だかフランス語曲を歌った。
とにかく、丁寧かつ繊細に、綾が交錯し合うようなギター弾き語りが中央にあるアダルト表現が送られる。中盤にはチェロ奏者とのデュオで、新作の日本盤ボーナス・トラックにも入っていた、いずみたく作曲の「見上げてごらん夜空の星を」をじっくり日本語で歌う。とっても、真面目さ、誠実さが出ていた一コマ。それに限らず、いい人なんだろうなというのは、ショウの随所からにじみでていた。神経質そうで、ゲイぽい感じも受けたが、はたして実際は?
<今日の、移動中>
ライヴ会場間の移動に乗った地下鉄車両が、地震のためトンネル内で止まる。車中では、もちろん揺れは分からない。地震で乗っていた車両が止まるなんて、初めての経験かなあ。まあ、オレそんなに電車に乗るほうじゃないしな。そのため、ベッセルトフトたちの演奏時間が長かったら焦っちゃうところだが、上に書いたようにそうではなかったので、悠然と待つ。その最中、ドアの上にある車内モニターには、次の駅名の上に進入禁止マークのような赤い印が表示された。なんか、生々しい? 地震による点検のため運転を見合わせます、という、車中案内は日本語でのみなされた。まあ、それはいたしかたないだろうが、外国人だと不安を持つだろうなと思う。結局、止まっていたのは5分ぐらいだった。
フランス人トランペッターのエリック・トラファズ(2001年10 月26日)、トルコのルーツで今はNYで活動するイルハン・エルシャヒン(テナー・サックス)、米国広角型ハウス表現の人気DJであるホアキン・ジョー・クララウゼル(ビーツ、打楽器)、ノルウェー人ドラマーのアンドレアス・ビー(ドラム)といった人たちに加え、京都をベースとするSOFT(2000年7月30日)の右近雅人(エレクトリック縦ベース)とMasaharu Uehara(パーカッション)もそこに加わる。また、本編最後の曲とアンコール曲の2曲では、ベッセルトフトとアルバム作りや共演ライヴをやっているakiko(2010年1月24日、他)も歌や語りでステージに立った。
生演奏と電気的音/効果の拮抗を柱とする、肩のこらないお手合わせ。電気マイルス的というか、『イン・ア・サイレント・ウェイ』っぽい曲もあったな。まあ、それなりに構成のある曲をやったが、もう少しぶっちゃけてて、混沌としていてもいいとぼくは思ったが、よく抑制が取られていたとも言える? 全部で1時間ちょいの演奏というのは、それを表しているか。なんでも、彼は“ブッゲン・フレンズ”と名乗りこの多国籍ユニット(日本勢は未参加)で夏に欧州を回るそうで、表現をよりつきつめていきたい気持ちを持っている。もしかして、商品化もされるか。
次は、丸の内・コットンクラブ。出演者はイタリアの洒脱シンガー・ソングライターのジョー・バルビエリで、初来日。ピアノ・トリオ(普段はジャズをやっているのかな?)とチェロ奏者の4人がバッキング。皆、同様にイタリア人か。彼、多分にボサノヴァ的柔和さを巧みに介したりもする人だが、チェロ奏者とウッド・ベース奏者を重ねるという行き方はカエターノ・ヴェローゾ(2005年5月23日)のライヴ編成と同じだな。
パフォーマンスが始まって、なぜかすぐに思ったのが、なんとなくフランス的というか、シャンソン系の味がほのかにするな。さらっとしているようで、不可思議なベタつきを、ぼくは感じたからか。そしたら、彼は途中で2曲だかフランス語曲を歌った。
とにかく、丁寧かつ繊細に、綾が交錯し合うようなギター弾き語りが中央にあるアダルト表現が送られる。中盤にはチェロ奏者とのデュオで、新作の日本盤ボーナス・トラックにも入っていた、いずみたく作曲の「見上げてごらん夜空の星を」をじっくり日本語で歌う。とっても、真面目さ、誠実さが出ていた一コマ。それに限らず、いい人なんだろうなというのは、ショウの随所からにじみでていた。神経質そうで、ゲイぽい感じも受けたが、はたして実際は?
<今日の、移動中>
ライヴ会場間の移動に乗った地下鉄車両が、地震のためトンネル内で止まる。車中では、もちろん揺れは分からない。地震で乗っていた車両が止まるなんて、初めての経験かなあ。まあ、オレそんなに電車に乗るほうじゃないしな。そのため、ベッセルトフトたちの演奏時間が長かったら焦っちゃうところだが、上に書いたようにそうではなかったので、悠然と待つ。その最中、ドアの上にある車内モニターには、次の駅名の上に進入禁止マークのような赤い印が表示された。なんか、生々しい? 地震による点検のため運転を見合わせます、という、車中案内は日本語でのみなされた。まあ、それはいたしかたないだろうが、外国人だと不安を持つだろうなと思う。結局、止まっていたのは5分ぐらいだった。