JAVA JAZZ(ジャワ・ジャズ)
2012年3月2日 音楽 正式名称は、メインのスポンサー名を入れて、ジャカルタ・インターナショナル・ジャラム・スーパー・マイルド・ジャワ・ジャズ・フェスティヴァル。2005年からインドネシアで開催されている、かなり大きな音楽フェスである。それ以前から同地であったフェスティヴァルが二つに分かれ、そのうちの一つであるという情報も聞いたが、海外アーティストのラインアップを見ると誰もがびっくりしちゃうよな。SW、EB、MMWなどの出演者にひかれるとともに、なんか暖かい所に行きたくなり、ぼくはエイヤっと行ってしまった。会場で会ったフェス通のある人は、オランダのノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルと出演者も似ているし、そのアジア版だよね、と言っていた。
会場は、ジャカルタ・インターナショナル・エキスポと名付けられた、東京圏で言うなら幕張メッセと東京国際フォーラムをあわせたような施設。そこに、18ものステージが設置され(大きなステージは皆屋内会場)、200組もの内外のアーティスト(半数は国内のアーティストだろう)が出演する。フェスは週末3日間に渡って行われ、のべのオーディエンスは10万人近いという話もあるが、ぼくの所感だとそこまで多くはないかなという感じ。でも、立派な施設に、沢山人が集まっていたのは間違いない。
基本、出演アーティストは2日にわたって出演する場合が多い。ようは、フェス中、2回パフォーマンスをする。もちろん、1日だけの人もいるし、ボビー・マクファーリンのように3日間とも出た人もいた。なお、会場(大きい3、4のステージは5.000〜10.000人キャパの規模か)スタンディングもあれば、椅子付きのときもある。出し物によって、同じ会場でも臨機応変に変わったりするが、おおまかに言えばスタンディングの場合のほうが多いかな。タイムテーブルがどこかにいってしまって、忘れ落としているのもあるかもしれないが、いかに見たものを挙げておく。2日両日見たアーティストもいるが、どちらかの日だけに記すようにする。
▶ボビー・コールドウェル
ビッグ・バンドを従えての、ジャズ・スタンダード披露路線。その体裁で、日本には相当回数来ているはずだが、いわゆるAORにあまり興味を持たないできたぼくは、今回初めて触れる。まず、ビッグ・バンドがけっこう質が高いゾと感心。で、細い身体つきのコールドウェルも無難にジャズ曲を歌っていた。
▶DEPAPEPE
日本のアコースティック・ギター・デュオ、サポート奏者を伴っての出演。MCによれば、インドネシアの別フェスに昨年呼ばれているらしいが、しっかりファンがついているのが分かる。かなり、声援を受けていた。巧みな生ギターの重なりが中心にあるインスト表現を聞かせるわけだが、それについては、他の出し物にいろいろ触れていくにつれ、彼ら音楽性のこのフェスみおける希少性を痛感することしきり。だって、生ギター基調の表現を聞かせる人たちに他に会わなかったし、彼らのような軽快さを持つような曲調/サウンドを聞かせる人も皆無だったもの。日本らしさというか、彼ららしさは存分にジャカルタっ子にアピールされたはず。
▶ジェフ・ローバー
一時は都会派ポップ・ソウルのプロデューサーとしても大活躍していたヴェテランのフュージョンの鍵盤奏者。僕の知らないサックス奏者を特別ゲストと紹介。ドラマーは90年前後にEW&F(2006年1月19日)のメンバーだったことがあり、現在はブルース・ホーンズビーのバンドに入っているソニー・エモリーであったよう。
▶ボビー・マクファーリン(2004年2月3日)
様々な肉声の使い方で、“自由”を体現する、我が道を行く個性派歌手だが、さすがだったな。基本はアイデアを凝らしたソロの肉声パフォーマンスであるのだが、息子のテイラー・マクファーリン(2012年2月18日)、女性ダンサーなども、曲によっては加わる。そして、さらにはバリ島のガムランの担い手たちがゾロゾロ出てきて、一緒にやる場面も。ほう、興味深く、珍味であるのは間違いない。インドネシアに来た利点をちゃんと出したのは彼だけとも言えるか。
▶アル・ジャロウ(2003年3月13日)&ジョージ・デューク(2010年3月15日、他)・トリオ
いい感じの協調を見せるが、ジャロウはなんかどっしり感が出ていて、前に見たときより印象がいい。基本、インドネシアの観客はおおらか。見るゾという感じの人が少しは開演前からステージ前で構えていたりもするが、スタンディングの会場でも多くの人は床に座って見ていたりする。が、この出し物に関してはちょっと違っていて、開演のそうとう前から入場を待つ人の列が延々とできていた。特に、アル・ジャロウはインドネシアにおいてはとんでもない人気者のようだ。
実は、このフェスは大物アーティストの場合はフェス入場料とは別に、入場料がかかる。ハービー・ハンコック、パット・メセニー、スティーヴィー・ワンダー、エリカ・バドゥなどはそうで、もちろんアル・ジャロウもそう。価格は日本円に直すと1.500〜2.500円。デイヴィッド・サンボーンはそれほど評価は高くないのか(オフィシャル雑誌の扱いも小さい)、特別料金設定はない。
▶メデスキ・マーティン&ウッド(2007年5月10日、他)
彼らとは、会場入りする前に二度もホテル内で遭遇。いづれも3人一緒で、ホント仲がいいんだな。近年はK.D.ラングやナタリー・マーチャント作にバンドごと部分参加したりもしている彼らだが、なんだかんだ20年も続いているのはすごいし、いまだ煮詰まりを感じさせず、風通しいいナと思わせるのは驚異的ではないか。応援者として、天晴と思う。関係ないけど、ベース奏者のクリス・ウッドがギターや歌を担当する兄と組んでいるザ・ウッド・ブラザーズの新作『Smoke Ring Halo』(Southern Grownd,2011)はもう好盤。五十嵐くん、今からでも連載“フォーキー・トーキー”で紹介してえ。
▶エリカ・バドゥ(2006年4月2日、他)
マレーシアのクアラルンプール公演を終えた後に本フェスに出るはずであったが、宣伝用に現地プロモーターが用いた写真がイスラム教を冒涜しているという理由で、政府命令によって同公演が中止の憂き目にあった。インドネシアもイスラム教を信仰する人が多数を締めるが(ベールで頭を覆う女性は全体の5%ほどと感じた。少なくても、ぼくの目に触れた部分での所感においては)、なんの問題もなく開かれた。このフェス、アーティストの出演時間に関しては緩くて、彼女のショウは1時間遅れでスタート。ながら、ショウが始まる前に、若い女性二人が出てきてインドネシアの国家を歌ったのにはびっくり。その後、何もなかったようにショウは始められた。
女性コーラス4人、キーボード、ベース、ドラム、そして本人。中央に立つバドゥの両横にはそれぞれ、コントローラーと鳴りモノ類がおいてある。彼女はときにそれを扱いつつ、すべては私の掌握下のもと送り出されるといった感じを強くだしつつ、気と視点あるパフォーマンスを遂行する。サウンドは近作より薄目というかけっこう隙間を持つもので、それをいい感じで女性の歌声が埋めていく様はやはり絶品。うわあ、考えている、練られている。で、エリカだあ、今のエリカ・バドゥだあ、という感慨が頭のなかを埋め尽くしていく。さすが。
<昨日の、ホテル>
ガルーダ・インドネシアの便に乗って行くが、デンパサール(バリ島)ではなく、ジャカルタ行きなためか、機内はすいている。驚いたのは、飛行機にインドネシアの入国審査官が二人乗っていて、彼らが席を回り、飛行機内で入国審査が受けられること。これはいい。
空港内外のいろんな人のうざさは、バリ島と同じ。到着して、あーこれこれ、と思う。現金をほとんど持っていなかったので、空港内のタクシー斡旋カウンターで手続き、カードが使えてよかった。日本円で約1.800円。そしたら、トヨタのピカピカのワゴン新車(シートは皮)が来た。かつて行ったバリ島残りの現地紙幣(約100円)を試しにチップで先に渡したら、運転手ががぜん張り切ってとばしまくる。車線変更がんがん、他は誰もしてないのに、高速道路では路肩走行もごんごん。カウンターのおねえちゃんは渋滞がすごいので1時間かかると言っていたが、30分ぐらいでホテルについてしまう。まあ、グッジョブ。なるほど、渋滞はすごい。とともに、途中の道すがらの、だいぶ前に行ったジャマイカの風景を思い出させるような、リッチではない風景におおおとなる。
タクシーはホテルに入るときに検問をとおらなくてはならなく、トランクのチェックを受ける。イスラム教過激派によるテロを考慮しての対策だろう。とともに、ホテル入り口では、人間は空港にあるようなゲートを通り、荷物は横の機械に流す。厳重。それは、後日行ったリッチなモールもそうだった。
宿泊したのはフェスのオフィシャルとなる立派なホテルで、外来出演者もみんなそこに泊まっている。レセプションでチェックインしていると、見たことありそうな顔がぞろぞろ。でも、バックのメンバーの顔は覚えられないものなあ。なんか、ホテルのボールルームみたいなところで、セレブ相手っぽいパーティ&ショウをやっていて、入るのを別にとがめられなかったので、のぞく。ワインや食べ物もサーヴしていて、ごちそうさま。ステージのある方ではちょうどデイヴィッド・コーズがやっていて、客席にはジョージ・デュークがいた。満面の笑みで司会をつとめていたのは、本フェスの元締めペータル・F・ゴンサという人物であるのを後に知る(パンフというか、それをかねるオフィシャル雑誌-約250円-にでっかく顔がのっていた。60歳ぐらい? 元軍人という話も聞いたが、これだけ大掛かりなことをできちゃうのだから、政財界にかなり顔の効く人物であるのは間違いないだろう)。他にもNYのアカペラ・コーラス・グループのドュエンデや地元のミュージシャンも出てくる。
フロントの奥のほうには、フェス出演者たち用のセッション会場となる場ももうけられていて、知らない人たちがスタンダードだかを演奏していた。それ、最終日の深夜までずっともうけられていて、昨年はジージョ・ベンソンが仕切ったときもあったという。
会場は、ジャカルタ・インターナショナル・エキスポと名付けられた、東京圏で言うなら幕張メッセと東京国際フォーラムをあわせたような施設。そこに、18ものステージが設置され(大きなステージは皆屋内会場)、200組もの内外のアーティスト(半数は国内のアーティストだろう)が出演する。フェスは週末3日間に渡って行われ、のべのオーディエンスは10万人近いという話もあるが、ぼくの所感だとそこまで多くはないかなという感じ。でも、立派な施設に、沢山人が集まっていたのは間違いない。
基本、出演アーティストは2日にわたって出演する場合が多い。ようは、フェス中、2回パフォーマンスをする。もちろん、1日だけの人もいるし、ボビー・マクファーリンのように3日間とも出た人もいた。なお、会場(大きい3、4のステージは5.000〜10.000人キャパの規模か)スタンディングもあれば、椅子付きのときもある。出し物によって、同じ会場でも臨機応変に変わったりするが、おおまかに言えばスタンディングの場合のほうが多いかな。タイムテーブルがどこかにいってしまって、忘れ落としているのもあるかもしれないが、いかに見たものを挙げておく。2日両日見たアーティストもいるが、どちらかの日だけに記すようにする。
▶ボビー・コールドウェル
ビッグ・バンドを従えての、ジャズ・スタンダード披露路線。その体裁で、日本には相当回数来ているはずだが、いわゆるAORにあまり興味を持たないできたぼくは、今回初めて触れる。まず、ビッグ・バンドがけっこう質が高いゾと感心。で、細い身体つきのコールドウェルも無難にジャズ曲を歌っていた。
▶DEPAPEPE
日本のアコースティック・ギター・デュオ、サポート奏者を伴っての出演。MCによれば、インドネシアの別フェスに昨年呼ばれているらしいが、しっかりファンがついているのが分かる。かなり、声援を受けていた。巧みな生ギターの重なりが中心にあるインスト表現を聞かせるわけだが、それについては、他の出し物にいろいろ触れていくにつれ、彼ら音楽性のこのフェスみおける希少性を痛感することしきり。だって、生ギター基調の表現を聞かせる人たちに他に会わなかったし、彼らのような軽快さを持つような曲調/サウンドを聞かせる人も皆無だったもの。日本らしさというか、彼ららしさは存分にジャカルタっ子にアピールされたはず。
▶ジェフ・ローバー
一時は都会派ポップ・ソウルのプロデューサーとしても大活躍していたヴェテランのフュージョンの鍵盤奏者。僕の知らないサックス奏者を特別ゲストと紹介。ドラマーは90年前後にEW&F(2006年1月19日)のメンバーだったことがあり、現在はブルース・ホーンズビーのバンドに入っているソニー・エモリーであったよう。
▶ボビー・マクファーリン(2004年2月3日)
様々な肉声の使い方で、“自由”を体現する、我が道を行く個性派歌手だが、さすがだったな。基本はアイデアを凝らしたソロの肉声パフォーマンスであるのだが、息子のテイラー・マクファーリン(2012年2月18日)、女性ダンサーなども、曲によっては加わる。そして、さらにはバリ島のガムランの担い手たちがゾロゾロ出てきて、一緒にやる場面も。ほう、興味深く、珍味であるのは間違いない。インドネシアに来た利点をちゃんと出したのは彼だけとも言えるか。
▶アル・ジャロウ(2003年3月13日)&ジョージ・デューク(2010年3月15日、他)・トリオ
いい感じの協調を見せるが、ジャロウはなんかどっしり感が出ていて、前に見たときより印象がいい。基本、インドネシアの観客はおおらか。見るゾという感じの人が少しは開演前からステージ前で構えていたりもするが、スタンディングの会場でも多くの人は床に座って見ていたりする。が、この出し物に関してはちょっと違っていて、開演のそうとう前から入場を待つ人の列が延々とできていた。特に、アル・ジャロウはインドネシアにおいてはとんでもない人気者のようだ。
実は、このフェスは大物アーティストの場合はフェス入場料とは別に、入場料がかかる。ハービー・ハンコック、パット・メセニー、スティーヴィー・ワンダー、エリカ・バドゥなどはそうで、もちろんアル・ジャロウもそう。価格は日本円に直すと1.500〜2.500円。デイヴィッド・サンボーンはそれほど評価は高くないのか(オフィシャル雑誌の扱いも小さい)、特別料金設定はない。
▶メデスキ・マーティン&ウッド(2007年5月10日、他)
彼らとは、会場入りする前に二度もホテル内で遭遇。いづれも3人一緒で、ホント仲がいいんだな。近年はK.D.ラングやナタリー・マーチャント作にバンドごと部分参加したりもしている彼らだが、なんだかんだ20年も続いているのはすごいし、いまだ煮詰まりを感じさせず、風通しいいナと思わせるのは驚異的ではないか。応援者として、天晴と思う。関係ないけど、ベース奏者のクリス・ウッドがギターや歌を担当する兄と組んでいるザ・ウッド・ブラザーズの新作『Smoke Ring Halo』(Southern Grownd,2011)はもう好盤。五十嵐くん、今からでも連載“フォーキー・トーキー”で紹介してえ。
▶エリカ・バドゥ(2006年4月2日、他)
マレーシアのクアラルンプール公演を終えた後に本フェスに出るはずであったが、宣伝用に現地プロモーターが用いた写真がイスラム教を冒涜しているという理由で、政府命令によって同公演が中止の憂き目にあった。インドネシアもイスラム教を信仰する人が多数を締めるが(ベールで頭を覆う女性は全体の5%ほどと感じた。少なくても、ぼくの目に触れた部分での所感においては)、なんの問題もなく開かれた。このフェス、アーティストの出演時間に関しては緩くて、彼女のショウは1時間遅れでスタート。ながら、ショウが始まる前に、若い女性二人が出てきてインドネシアの国家を歌ったのにはびっくり。その後、何もなかったようにショウは始められた。
女性コーラス4人、キーボード、ベース、ドラム、そして本人。中央に立つバドゥの両横にはそれぞれ、コントローラーと鳴りモノ類がおいてある。彼女はときにそれを扱いつつ、すべては私の掌握下のもと送り出されるといった感じを強くだしつつ、気と視点あるパフォーマンスを遂行する。サウンドは近作より薄目というかけっこう隙間を持つもので、それをいい感じで女性の歌声が埋めていく様はやはり絶品。うわあ、考えている、練られている。で、エリカだあ、今のエリカ・バドゥだあ、という感慨が頭のなかを埋め尽くしていく。さすが。
<昨日の、ホテル>
ガルーダ・インドネシアの便に乗って行くが、デンパサール(バリ島)ではなく、ジャカルタ行きなためか、機内はすいている。驚いたのは、飛行機にインドネシアの入国審査官が二人乗っていて、彼らが席を回り、飛行機内で入国審査が受けられること。これはいい。
空港内外のいろんな人のうざさは、バリ島と同じ。到着して、あーこれこれ、と思う。現金をほとんど持っていなかったので、空港内のタクシー斡旋カウンターで手続き、カードが使えてよかった。日本円で約1.800円。そしたら、トヨタのピカピカのワゴン新車(シートは皮)が来た。かつて行ったバリ島残りの現地紙幣(約100円)を試しにチップで先に渡したら、運転手ががぜん張り切ってとばしまくる。車線変更がんがん、他は誰もしてないのに、高速道路では路肩走行もごんごん。カウンターのおねえちゃんは渋滞がすごいので1時間かかると言っていたが、30分ぐらいでホテルについてしまう。まあ、グッジョブ。なるほど、渋滞はすごい。とともに、途中の道すがらの、だいぶ前に行ったジャマイカの風景を思い出させるような、リッチではない風景におおおとなる。
タクシーはホテルに入るときに検問をとおらなくてはならなく、トランクのチェックを受ける。イスラム教過激派によるテロを考慮しての対策だろう。とともに、ホテル入り口では、人間は空港にあるようなゲートを通り、荷物は横の機械に流す。厳重。それは、後日行ったリッチなモールもそうだった。
宿泊したのはフェスのオフィシャルとなる立派なホテルで、外来出演者もみんなそこに泊まっている。レセプションでチェックインしていると、見たことありそうな顔がぞろぞろ。でも、バックのメンバーの顔は覚えられないものなあ。なんか、ホテルのボールルームみたいなところで、セレブ相手っぽいパーティ&ショウをやっていて、入るのを別にとがめられなかったので、のぞく。ワインや食べ物もサーヴしていて、ごちそうさま。ステージのある方ではちょうどデイヴィッド・コーズがやっていて、客席にはジョージ・デュークがいた。満面の笑みで司会をつとめていたのは、本フェスの元締めペータル・F・ゴンサという人物であるのを後に知る(パンフというか、それをかねるオフィシャル雑誌-約250円-にでっかく顔がのっていた。60歳ぐらい? 元軍人という話も聞いたが、これだけ大掛かりなことをできちゃうのだから、政財界にかなり顔の効く人物であるのは間違いないだろう)。他にもNYのアカペラ・コーラス・グループのドュエンデや地元のミュージシャンも出てくる。
フロントの奥のほうには、フェス出演者たち用のセッション会場となる場ももうけられていて、知らない人たちがスタンダードだかを演奏していた。それ、最終日の深夜までずっともうけられていて、昨年はジージョ・ベンソンが仕切ったときもあったという。