ええっ、あの人がジョージ・クリントンだったのか。彼は奇麗に白っぽいスーツを来て、帽子をかぶり、眼鏡をかけている。すごく、エスタブリッッシュされた人物っぽく見え、そして円満そう。かつてのよぼよぼし、小汚い風情なぞ微塵もなく(それは、少し太って、顔や身体がパンパンとしていたせいもあるか)。そのためか、前よりガタイが大きく、堂々としているようにも見える。で、頭から終わりまでステージ上にいて、終始バンドを盛りあげ、結構声も出す。とっても腰低く、観客に働きかけもする。前はもっと尊大な感じ、なかったっけ? でも、このツブれたような声はなるほど彼だし、なにより眼鏡の奥に見える細い目もクリントン翁だ。それはわりと正面ぽいところで見る事ができたので分った。うぬー。2011年1月22日の項に、クリントンがどこにいるか分らなかったとマヌケなことを書いていたが、あのビリー・ポール然とした人物(まさに、そんな感じなの)がご本人でありました。すごい横のほうから前回は見ていたので、かつての風体と180度変わった彼がまるで結びつかなかった。

 六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。定時にミュージシャンたちがポツリポツリ出て来て、ギター奏者が刻みはじめ、ショウはスタート。ステージ上には20人近い人たち。今回はホーン奏者が2人入っているのもうれしい。そんなにピリっとした音を出していたわけではないが、やはりP-ファンク(とくに、パーラメント)の表現は管奏者がいなくちゃ。女性シンガーの1人とキーボード奏者の1人いがいは、すべてアフリカ系か。ブーツィ・コリンズ(2012年5月31日、他)の実演のときも思うが、イカレた風情の黒人が沢山。フフフフ。

 いやあ、燃える、楽しいっ。フジ・ロック出演時(2002年7月28日)のときの様は忘却の彼方だが、少なくてもこの3回の来日公演のなかでは一番の質を持つか。それから、びっくりしたのは途中である中年女性シンガーをフィーチャーしたとき。1曲歌って彼女は引っ込もうとしたが、クリントンはもう1曲やりなよと促す。で、彼女はどスロウ・ブルースをどっぷりかます。わあああ、これが滅茶すげえ。まだブルースはアフリカン・アメリカン音楽のなか、イビツなもの、ダーティなもの、吹っ切れたものを表出する最良の手段として確固とした位置にあり、生きている! なんて、それは口走りもさせるもの。観客も発情。こんなにすんげえブルース・パフォーマンスをこの日、この場でまさか聞けちゃうとは! 曲によってはP−ファンク名士たるギタリストのマイケル“キッド・ファンカデリック”ハンプトンはステージの袖に降りていたが、このブルース披露のとき、彼は袖で(思わず?)ギターを肩にかける。ステージに上がることはなかったが、この曲に触れ、思わずソロを取りたくなったのかな。

 無駄にゾロゾロ人がいるなか、打楽器系楽器担当者は、ドラマーのフォーリー、ただ1人。近年のクリントン・バンドの常連ながら、1980年代後半はマイルズ・デイヴィス・バンドの花形リード・ベース奏者だった御仁。確かにドラム一筋な奏者から見れば、劣るところもあるだろう。だが、彼はしっかりファンクの勘所を理解した演奏をし、クリントンの意に添った流れをバンドに全体に伝える。なるほどにゃー。最後の曲の終盤、クリントンはステージを降りかけたが、戻り、マイク・スタンドをにょっきり股間から突き出すように持ち、片手で猛烈にこすりはじまる。なんだア、最後ははた迷惑な愛すべきじじいになっちゃった。ひゃひゃ。

 次は、青山・CAYで、ブラジルの名ギタリスト&作曲家であるバーデン・パウエル(1937〜2000年)の息子である、マルセル・パウエル(2008年12月14日)をファースト・セットの終盤から見る。この会場はステージ高がなく、演奏者が座る公演だと、その所作を見るのが難儀なのだが、この晩はちゃんとステージ高が応急処置で高くしてあった。マル。『情熱のギター』(リスペクト)のリリースを祝うソロ・パフォーマンスの公演。とってもシャイな感じを持つ彼は、現在31歳であるとか。繊細さとまろやかさを抱えた線画のようなものが、彼の手により描かれる。演目は父親曲、ブラジルの有名曲、自作曲など。

 セカンド・セットの頭3曲とアンコールでは、Saigenji(2013年1月7日、他)が加わる。グっと華や広がりが出る。やっぱ、ギターとの相乗を持つ歌も素晴らしいが、ギタリストとしてもSaigenjiは素敵。パウエルもおおいに彼を気に入り、一緒にアルバムを作りたいと感じたよう。

<今日の、感謝>
 ノーベル文学賞候補筆頭であるインターナショナルな人気作家の新作が本日発売で、盛り上がっているようだ。元ジャズ喫茶の若おやじというし、ちゃんとした社会観も持つような感じもあり、ぼくのなかでは好感を持てる作家だな。と書きつつ、実のところ彼の小説をちゃんと読んだことがない。それって音楽だったら、レディオヘッドを聞いたことがない、と言うのと同じ? とはいえ、フリーになってそれほどたたない四半世紀は前に友達の家でぼーっとしていたときがあって、その際そこにあった彼のエッセー集をペラペラめくったことがあった。その中の一遍に、原稿を書くのは朝型のほうが健全、みたいな内容のものがあって、仰せの通り〜そうしたほうが格好いい、そうありたい、と膝を打ったことがあった。そして、いつの間にか、ぼくは朝ちゃんと起き、昼間にしか原稿を書かない人間になっている。そうなって長いし、このままそうあり続けるだろう。とっても正しい導きをしてくれた、村上さん、ありがとう。