こんなにすぐに、在米ジャズ・ピアニストの菊地雅章(2012年6月25日、他。愛称、プーさん)の公演に接することができようとは。しかも、今回はソロのパフォーマンスだ。公演のことを書く前に、この6月にやったインタヴューのさわりを出しておく。

——その後(高校卒業以降。彼の父は日本画家。父親ゆずりの才があったためか、彼が通っていた東京芸大付属高校の美術の先生はそちらのほうで将来を嘱望したという)、もう絵筆は握らないんですか。
「やっぱり、絵は見ていたほうが楽しいよね。だから、良く見に行っている。俺、シャガールにすごい影響を受けたの。というのは、耳に限界が来ているから、別な音が聞こえないのかなと、どうすればそれは可能なのかとと、ずっと何年か悩んでいたわけ。それで、ソロを始めて、ちょうど4年前ぐらい前かな、シャガールの絵にすごいショックを受けた。それから、シャガールの絵をたくさん見始めたんだけど、俺が影響を受けたのは、例えば、あの人の描いている腕があるじゃない、それ途中でねじれているの。本来の腕(の形)じゃないわけ。で、俺はそれを見て突然、これでいいんだと思ってさ。既成概念にとらわれる理由はどこにもないんだと思い、それで俺は開眼した。それが、4、5年前だよね。それからだよ、俺が自由になったのは。うれしかったねえ」
——『サンライズ』(ECM発の新作)はそれを経ての録音になりますよね。
 「そう。シャガールにはほんと啓発されたよね。あれを見なかったら、もうちょっと違っているはず」 
——シャガールの絵って、NYにいろいろあったりするんですか。
「ところがさあ、それで全集とか集めると、作品数は多いの。だけど、あっちこっち探したんだけど、ないんだよね。確か、アメリカですごい売れたのは15年か20年前。最初メトロポリタンに原画を見たくて行ったんだけど、1点か2点しか飾ってない。それでは物足りないから、そのうちロシアでもなんでもいいんだけど、シャガールの絵を集めているところに行って、できるだけ沢山見たいなと思っている。シャガールの絵を見て、ああコレでいいんだと思って、ホントそれからだよね」
——意外な話です。ぼくは、最初から既成概念取っ払った所で、プーさんは音楽し続けているように思っていますから。
「やっぱり音楽っていうのは、倍音の構成を基本にしているじゃない? だから、それにずっと俺は囚われてきたわけ。それを、どう自分なりに踏まえて、超えるか。それが出きる感覚/方法みたいなものが、シャガールを見て分ったわけ。それからだよ、俺が徹底的に(ピアノを?)さわりだしたの」
——(ブルーノート東京公演をした)今回、ぼくは日曜と月曜のセカンド・セットを見ましたが、倍音のえも言われぬ新鮮な響きで場内が満たされるようなときがあって、ぼくは息を飲みました。
「それは、シャガールの影響だね。それ以降、倍音関係の音の処し方が分ったから。それを乗り越えられた。シャガールの影響はすごいと思うね。自分で確信できる、見えだしたと。だから、俺は今すごい自由よ」
——基本は完全にインプロヴィゼーションで事にあたる今は、曲を書いたりしなくなったんですよね。 
「書かない。昔は書いていたけどね。だから、楽よ」

 そんな話をしていると、これはソロ演奏が楽しみになるではないか。

 約1時間のセットを、2つ。もう気負いなく、楽に指を動かしていく。刺を散らすところもあるが、基本肩のこらないプーさん表現だ。確かに、おおいに演奏観が変わっているのは感じる。1時間少し欠けのファースト・ショウは少なくても10曲は演奏。とくに、前半部は短い曲(3分ぐらいで終える曲もあったか。なにげに、新鮮)が多かった。最終曲は「オルフェ」を気持ちのいいコード使いで開く。この曲はブルーノート公演のときもやりましたね。

 マナーは同じものの、セカンド・ショウ(こちらはアンコール1曲を含め、1時間10分近く)はもう少し長めの曲がおおく、少しゆったり目の曲にぼくは誘われる。ぼくは休憩時間にホワイエでワインを飲んで気が緩んだためもあってか、ポーンと気持ちが持って行かれる部分はセカンドのほうが多かったかも。ときに足を踏む音が加味されたり、うなり声があがりもするが、それはファースト・ショウのほうが多かった。また、少し腰を浮かしたのも、ファーストだけだったか。セカンド・ショウを終えてお辞儀するプーさん、とてもうれしそうだった。

 今回のソロ公演は、東京都が企画する土日のイヴェント<サウンド・ライヴ・トーキョー>の前夜祭として組まれた。会場は、上野・東京文化会館の小ホール。サウンドにまわるいろんな表現を多角的に提供する催しで、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(2004年3月18日、2004年8月31日) や、タイのイスラム・コミュニティに根ざすバンドのベイビー・アラビア他が出演する。

<今日の、東京文化会館>
 上野公園の入り口にあるが、前に来て一瞬????となる。だって、灯りが暗くて、開いているかイマイチ不明な感じを得てしまったから。なるほど建設されて50年たつそうだが、灯りの明るさもそのころを引き継ぐものなのか。ちょいダークな印象は受けるものの、今の建物は明るすぎるよなとは認知する。大ホールはキース・ジャレット・トリオ公演(2007年5月8日)で行ったことがあるが、小ホールに入るのは今回が初めて。扇型の客席がステージを囲む設計で、天井も高い。この会館はもっとも初期に立てられたクラシック専用ホールだそうだが、お金をかけて作ったんだろうなというのはよく分る。そして、実際、ピアノの音も自然で、望外に良かった。ステージ後方にマイクが2本立てられていたが、レコーディングしたのだろうか。

<もう一つ、付録>
 上と同じインタヴュー・ソース。

ーーもともと、ジャズにはいつ頃から興味を持ちだしたんですか?
「芸大の付属にいるころだよね。1年か2年のころ、渋谷(毅)とクラリネットの橋本とかと、水道橋にあったジャズ喫茶に行ってね。そこにはマイルスが出て来たころのレコードが入っていたりして、俺と渋谷と橋本と3人でよく授業をさぼって、行っていた。それからだよ、ジャズにひかれたのは。いやあ、あれは不思議な音楽だったよね。それで、ああいうふうに弾きたいなあと思ってね。ちょうどモンクの何が出た頃かな。モンクもあったし、あの印象は強烈だからねえ」
ーー同じようなことを、ぼくはプーさんの『バット・ノット・フォー・ミー』(1978年)を聞いて感じたような。あれを聞いて、わーなんでこうなるのと思い、感激しまくり、俺はジャズを聞くべきなんだと思いましたからね。
「あー、あれはある種の失敗作だよ」
ーーえー、ぼくは大好きです。嫌いですか?
「いや、ゲイリー(・ピーコック)がなんか違うんだよね。それがミスキャストだよね。ドラムはアル・フォスターでしょ。サックスはいなかったよな?」
ーーええ。バーダル・ロイとか打楽器は複数いましたが。
「あれ、まあまあのアルバムじゃない?」
ーーでは、プーさんをして、これはいいというアルバムは?
「『ススト』(1981年)は良くできているよね」
ーーだって、あれは一番調子のいいときのプリンスを凌駕するような出来ですから。
「いやいや、プリンスは凄いよ。まあ、『ススト』は時間がかかっているからねー」
ーーやっぱり、『ススト』はお好きですか。
「あれは凄いと思う。あのリハーサルを始めたとき、なんかのセット・アップを川崎僚に頼んだんだけど、あいつがそれをやらなかったから、エレヴェイターのなかでアイツを殴っちゃったんだ。そしたら、俺が手を折っちゃった。それで、1ヶ月以上レコーディングが延期になったりもした」
ーーあれ、レコーディング参加のミュージシャンの数が多いですよね。
「だから、鯉沼がよくお金を使わせてくれたよね」
ーーあれは、後から相当編集しているんですよね。
「うん、ずいぶん。それには俺もたちあっている。あれ、伊藤潔がやっている」
ーー『ススト』って、日野さんの『ダブル・レインボウ』なんかとわりと平行して録っているんですか。
「いや、『ダブル・レインボウ』は少し後だな。あれは100%、俺がコントロール持っていないから。ハービー(・ハンコック)入れてLAと同時録音したじゃない? そういうやりかた、俺はあんまり好きじゃない。ドラムが2ドラムだよね」
ーー『ススト』のテープはソニーのどこかにあるんですかね。まとめて、編集前のものやアウト・テイクを出さないかなと。
「あると思うよ。でも、今レコード業界がないに等しいじゃない。(それを実現させるのは)大変だよね」