夕方、元ディキシー・タンタス(1999年4月23日、同6月23日、同9月30日)〜ポンティアッッック・ブルーズ(2003年9月9日)の山浦“アニキ”智生くん(http://yamatomo.music.coocan.jp/index_pc.htm)と会い、渋谷でビールをぐびぐび。現在、彼はメインのバンドとしてバック・ソウル・インヴェイダーズというのをやっていて、『NEW FRONTIER』というアルバムを作って間もない。ブルース・イクスプロージョン的な音を出していたポンティアック・ブルーズからディキシー・タンタス(とっても、大好きでしたァ)でやってたようなグルーヴ・ポップ・ロック表現に戻っているところはあるか。メロディと歌心と塊感と心意気やダンディズムと洒落心がいい感じで、そこには混在する。いい出来、やっぱり才あるよなと思う。彼はピアノ弾き語りのライヴなんかもやっているという。

 その後、入谷・なってるハウスに。合羽橋道具街の近く。冒険心を持つジャズの担い手を実直に扱っているという好イメージをぼくは持っていて、一度行きたかったヴェニュー。けっこうきれいなハコで、小さいながらグランド・ピアノも置いてある。出演者はヴォイス・パフォーマーの蜂谷真紀(2008年8月24日)と渋さ知らズ(2007年6月13日、他)の一員としても活躍するピアニストのスガダイロー、そのお二人の完全即興のパフォーマンス。耳を研ぎすまし、反応し合い、自在にながれていく45分ぐらいのものを休憩を挟んで一つづつ。蜂谷はいろんな歌い方をするとともに、時に鳴りもの各種やピアニカなんかも扱い、気持ちの行方を具現化しようとする。スガはアヴァンギャルドに弾いてもタッチが綺麗で明晰。黒い感覚はあまり持たないものの、(彼の生ピアノ演奏には初めて触れたが)いい弾き手だと思った。ここでは、日本酒とワインを飲む。滅茶苦茶な飲み方しとるなあ。

 12時近く、銀座線に乗り換えたら、昨年の新年会以来となる旧知の週刊誌記者とばったり。おお。今年も“引き”はよさそうだ。こりゃ、流れるっきゃないでしょと、もりあがる。初めてお会いした同僚嬢とはとても交遊関係が重なっていて、びっくり。夜中、共通の知り合いに電話したりして(出やしねえ)。焼酎と沖縄ラム(やはり、焼酎ぽい)をごくごく。

 ところで……。昨年暮れ(12月29日)にジャズ・トランペッターのフレディ・ハバード(1938年生まれ)が亡くなった。以下の文章は、07年春にSJ誌増刊用に書いた原稿。70年代前半までの彼、もう好きでした。


兄貴。変な意味ではなく、尊敬と憧憬の念
をとっても持てて、多少は近しく感じられる
存在に対してそんな呼び方をしたくなったり
はしないか? ぼくにとって、ジャズの世界
でそう感じた数少ない一人がハバードである。
いやあ、浪人生のころブルーノート時代の
彼のアルバムが大好きで、バカみたいに聞い
てたことがあったのだ。で、そこから得た所
感を糧に自分なりのジャズのイメージを構築
していったみたいな部分がぼくはある。と書
いてて、認知している以上にハバードはぼく
のジャズ観を規定している部分があるんじゃ
ないかと思えてきた。彼に感謝。

 でも、明るい先を信じて吹きまくる様は本
当に輝いていた。60年代中期になるとちょっ
とアブストラクトなノリも入ってくるが、そ
れも本当に胸が高鳴るもの。こういうのが、
俺の求めるジャズなんだと無条件に感激しま
くったっけ。エリック・ドルフィー、ビル・
エヴァンス、ハービー・ハンコック他、その
ころのサイドマン参加演奏もきっちり耳を引
きつける。彼がマイルス・デイヴィス役を担
当したと言えるV.S.O.P.が高い評価を受けた
大きな理由は、彼がデイヴィスに媚びずに威
風堂々とした振る舞いに徹したからではない
のか。ぼくはそう感じている。それからもう
一つ、実は彼の名前は今のダンス・ミュージ
ック愛好者からは何気に知られているかもし
れない。だって、彼がCTI時代に発表しV.
S.O.P.でも取り上げている「レッド・クレイ
」はその道の大ネタ(多々、サンプリング使
用されていること)曲になっているから。

 90年代を回ると健康上の理由から、ハバー
ドは一気に第一線を退いてしまった。だが、
ぼくのなかには冒険心あるサウンドを採用し
てバリバリと吹きまくる彼がしっかりといる。
で、彼の「クライシス」(61年)のテーマ
とか、ときどき口ずさみたくなる。フレディ
・ハバードはぼくにとって永遠の、リアル・
ジャズの兄貴なのだ。