1.42nd Street/ Eric Reed 『Pure Imagination』(Impulse!,1998年)
2.Washington Square Thoroughfare/ Marc Whitfield『7th Ave.Stroll』(Verve,1995)
3.Drop Me Off In Harlem/ 海野雅威『As Times Goes By』(Happinet,2010)
4.New York State Of Mind/ Marlena Shaw『Lookin’ For Love』(Village,2003)
5.Central Park West/ The Cats(Uri Caine and so on)『Philly Sound Much Respect』(M&I,2002)
6.7th Ave. South/ Dave Weckl『Heads Up』(GRP,1992)
7.New York Attitude/ Regina Carter『Rhythms Of The Heart』(Verve,1999)
8.Lullaby Of Birdland / Roberta Gambarini (Honors Ella, Sarah & Carmen/Dedications(55Records,2019)
9.Manhattan Reverie/ Richie Beirach Trio『Manhattan Reverie』(Venus,2006)
10.New York 19/ 渋谷毅『Afternoon』(OnOff,2002)
11.W.110th St./ Eddie Gomez 『Power Play』(Epic/Sony,1988)


 デゥッセルドルフ郊外の音大仲間であるファルフ・ヒュッターとともに1960年代末にクラフトワーク(2002年12月13日)を組んだフローリアン・シュナイダーが癌で亡くなった。誕生日を過ぎてちょいとのことなので、73歳だった。裕福な家庭の出であり(実際、そういう容貌でしたね)、ドイツのもう一つのヒップさを感じさせる人であったか。また、バウハウスとか、やはりドイツのアートな流れを感じさせもした? 彼は、2000年代後期にクラフトワークを脱退していた。
 当初は鍵盤(ヒュッターが弾いた)はわりと控えめで、アナログ度も高いミュージック・コンクレート要素やアヴァンギャルド性やアンビエント傾向を抱えた表現(シュナイダーはフルートやヴァイオリンを弾いていた)をやっていたが、今ぼくが彼らを聞くなら、工事のパイロンをジャケ絵に出した初期2枚に示唆を受けるかな? 当時のフルートを聞いて、ぼくはユセフ・ラティーフのそれを思い出したことがある。あの頃から、彼は“鼓動”とも言うべき要件にも自覚的だった。
 とはいえ、よりエレクトロ度数を高め、ヴォイスなども一部使い分かりやすさを出した『アウトバーン』(フォリップス、1974年)はリアル・タイムで聞いたので印象は強い。いろんな部分でイっていたあのアルバム、意外なところではジョー・ジャクソンの『ナイト&デイ』(A&M、1982年)にその尻尾を見つけることができる。同作収録の「ステッピン・アウト」のリフやビート感、およびNYのブロックを過ぎると雰囲気が変わることを表す曲群の全体の連続性などを聞くと、ぼくはそう感じてしまう。
 やはり同作の印象は強かったんだろう、車好きだったためもあり、大学生のころドイツのアウトバーンを200キロでぶっ飛ばす、という願いを持っていたこともあったな。話はそれるが、スティーヴ・ウィンウッド(2003年7月27日)がマッスル・ショールズの奏者たちを雇って行なった欧州ツアーのライヴ・アルバムに『オン・ザ・ロード』(アイランド、1973年)がある。実はそれ、ドイツ楽旅をソースとするもので、ジャケット・カヴァーはアウトバーンを趣味良くグラフィック処理したものが使われた。ぼくはトラフィックのそれが、クラフトワークの『アウトバーン』のジャケット・カヴァーにぴったりだと常々思っている。
 アフリカ・バンバータがぞっこんだった『トランス・ヨーロッパ・エクスプレス』(クリング・クラング、1977年)あたりから、聞くものや興味が増えちゃってぼくはあまり彼らを追うことはなくなってしまった。だが、影響を受けた担い手は山のよう&サンプリング需要もたっぷり。まさしく音楽に新しい局面を差し出した、偉大な個性派でした。

▶︎過去の、クラフトワーク 13日
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-12.htm
▶︎過去の、スティーヴ・ウィンウッド
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm フジ・ロック
▶︎過去の、マッスル・ショールズを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/201406270933515875/

 うわー、スウィート・ピー・アトキンソンの訃報も届いた。住んでいたのはロサンゼルス、死因は心臓発作であった。ワズ(・ノット・ワズ)の一番の歌声を担ったソウル歌手。デトロイトのクライスラーの工場で働きながら歌っていたところ、1970年代末にドン・ワズ(2013年2月15日、2019年6月12日、2019年6月13日、2019年6月14日)からの知遇を得て、表舞台に。何気な、愛嬌ある洒落者でした。1982年には彼のプロデュースで、『Don’t Walk Away』(Island。弦アレンジはポール・ライザーがしていた)をリリース。また、バックグラウンド・ヴォーカルの需要も得て、ボブ・ディランやイギー・ポップ、エルトン・ジョン、ウェイン・クレイマー(2004年5月31日)、オフラ・ハザ他のレコーディングに参加。とくに、ボニー・レイット(2007年4月6日)やライル・ラヴェットらは彼のことを気に入り、何度もレコーディングに呼んでいた。
 https://43142.diarynote.jp/201510251330372218/ の下の方に書いてあるように、彼はミンディ・エイベア(2009年9月20日、2019年9月27日)のフィーチャリング・シンガーとして2015年10月に来日しているが、都合が悪くて行けなかった。うーん、後悔するなあ。
 救いといえば、義理堅いドン・ワズの力でブルーノートから2作目となるリーダー作『Get What You Deserve』(2017年)をリリースしていること。ケブ・モー(2007年9月19日)も制作に加わった同作には、張りのある歌声が剛性感のあるサウンドのもと残されている。

▶︎過去の、ドン・ワズ
http://43142.diarynote.jp/201302181044151204/
https://43142.diarynote.jp/201906151230594715/
https://43142.diarynote.jp/201906151238565701/
https://43142.diarynote.jp/201906151238565701/
▶過去の、ボニー・レイット
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶︎過去の、ミンディ・エイベア
https://43142.diarynote.jp/200909271554269289/
https://43142.diarynote.jp/201909271249038372/
▶︎過去の、ケブ・モー
https://43142.diarynote.jp/200709201052530000/

 米国ブラック・ミュージックの世界で、とんでもない飛躍を示した偉人がお亡くなりになった。オーティス・レディングのお墓があり、サザン・ロックのキャプリコーンがオフィスを置いたジョージア州メイコンの生まれ。享年87歳、骨の癌で亡くなったという。
 基本、ピアノを叩き、歌った。そして、とにもかくにも、その音楽が不滅。彼がヒットを飛ばしたのはロサンゼルスのレイス・レーベルのスペシャルティ時代だったが、他の同社プロダクツ、いやそのころのR&B表現との鮮やかな断絶の様はあまりに見事すぎる。妙にスッコーンと抜けた肉感性や外に飛び出す力やポップネスは規格外と言うしかなく、今聞いてもハレの感覚を持ち、訴求力大。そのころの彼のヴォーカルを熱烈にコビーしていたのが、初期のポール・マッカートニー(2018年10月31日)だった。
 そんな彼は早い時期から同性愛者であることを公言し、派手な衣装や化粧をしていたが、それは今でいうところの性同一性障害であったのか。あの時代に、しかもカラードである身でそれを遂行することがいかに大変なことであったことか。その人々に与える違和感は、初期のプリンス(2002年11月19日)のありかたを超えるものであったろう。
 昨年、BSR誌の記事企画と連動して、ブルース・インターアクションズの共同設立者である高地明、bsr編集長の濱田廣也との3者で、<今聴いてほしいブルース/ソウル/ファンクのメッセージ・ソング>とう企画イヴェントを四谷のいーぐるでやったのだが、そこでぼくはリトル・リチャードの「Tutti Frutti」 (1955年) も胸を張って選曲した。←https://43142.diarynote.jp/201903201617547581/。ちょい、恩返しできたかな? なお、四谷いーぐるの支援物販のサイトは→https://jazzeagle.base.shop
 ナッシュヴィルに住んでいた2009年に人工股関節を置換する手術を受けもし、表立った活動は伝わらなくなった。一番長生きしたにも関わらず、ボー・ディッドリー(2004年4月12日)、ベリー、ロックンロール天才3人集のなか、彼だけ生の姿を見ることができなかったのは、返す返す残念でならない。でも、ことあるごとに、ぼくはあなたの壁をブチ破る精気とエナジー溢れる表現を聞き返しますよ。

▶︎メイコン、キャプリコーンに触れた記載
https://43142.diarynote.jp/201306281331578950/
▶︎過去の、ポール・マッカートニー
https://43142.diarynote.jp/201811011655349966/
▶過去の、プリンス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
▶︎過去の、ボー・ディッドリー
https://43142.diarynote.jp/200404120828130000/
▶︎過去の、チャック・ベリーの訃報に際し
https://43142.diarynote.jp/201703211232135720/

 マイアミ・ソウルの女王、ベティ・ライト(2012年2月28日)がお亡くなりになった。彼女は癌で闘病していたという。以下は、初リーダー公演の際に行なったQ&A。CDジャーナル誌記事にまとめる前のものだ。

——日本に来るのは、何度目となるのでしょう?
「2度目よ。1991年のアメリカン・ミュージック・アワード(横浜アリーナで、アーティストの日替わりで8日間持たれた。ボビー・ブラウン、スティーヴ・ウィンウッド〜2003年7月27日〜他)に出演するグロリア・エステファンのサポートで来たことはあるけど、リーダーとしての公演は今回が初めてね」
——リジェンダリーな存在なのに、今回が初の来日自己公演だというのはびっくりです。
「あら、そう? でも、スター扱いは望んでいないわ。パリス・ヒルトンとかレディ・ガガと違って、私は普通よ。まあ、「クリーン・アップ・ウーマン」をはじめレコードもけっこう売ってきたし、そう見られるのはかまわないんだけど……。でも、10代のときからやっているので、気負いはないのよね」
——その17歳のときの大ヒット曲「クリーン・アップ・ウーマン」はいろんな人たちからサンプリングされていたりもしますが、それについてどう感じます?
「ほんと沢山サンプリングされているけど、当初はサンプリング使用にとっても憤慨していた。というのも、勝手に使われるだけで、いっさいお金が入ってこなかったから。でも、その後、その問題が整備されてお金が入ってくるようになったし、サンプリングにより私の聞き手も拡大もして、これはいいことだなと思った(笑い)」
——これまでのキャリアにおけるターニング・ポイントは?
「それは、私の息子が殺されたこと。2005年のクリスマスの日で、彼は21歳で生命を絶たれてしまった。それがあって以降、いろいろな部分において、私はシリアスに物事に取り組むようになったと思う。人生というのはまったく約束されていないもの、だからこそ物事をカジュアルに流さずに、もっと音楽にフォーカスして生きなきゃと思うようになった。特に、曲作りという部分には、それが強く言えるわね」
——では、そういう新たな所感は、新作『ベティ・ライト:ザ・ムーヴィ』(S−カーヴ、2011年)にも跳ねかえっています?
「ええ、楽曲の選別についてはすごく周到にやっていて、これまで以上にいい曲だけを私はレコーディングした。以前もそうではあったけど、その姿勢はより貫かれているわね。私はシンガーである前に、まずソング・ライターであると思っているのよ。で、それを大々的に聞き手に示せるようにと、私はいつも歌っている。まず、私の第一の愛は神に向かう。2番目は家族で、3番目はソング・ライティング。そして、4番目が歌唱、という順序なの」
——『ベティ・ライト:ザ・ムーヴィ』はザ・ルーツ(2002年12月29日、 2003年12月2日、2004年9月19日、2007年1月15日、2013年12月19日)との双頭名義のアルバムとなっていますが、どういう経緯で共演盤を出すことになったのでしょう?
「私がプロデュースしたジョス・ストーン(2004年11月20日、2007年4月5、6日)のアルバムで一部叩いてくれたクエストラヴと、(発売元である)S-カーヴ・レコードのスティーヴ・グリーンバーグが同じ飛行機に乗り合わせたのが、あのアルバムをレコーディングするきっかけなの。そのとき彼が私とレコードを作りたいと熱く語って、そのプロジェクトが実現したわけね。実は、ザ・ルーツとは2010年度のグラミー賞でも戦ったのよ。“ベスト・トラディッショナルR&Bパフォーマンス”部門に私は「ゴー!」という曲で、ザ・ルーツはジョン・レジェンド(2005年5月8日)と一緒に作った「ハング・オン・イン・ゼア」でノミネートされた。結果、彼らが賞を取ったわけだけど、<私は一人だけど、あなたたちは大人数だから、負けてあげるわ>と言ったのよね。<次は、おばあちゃんの私に勝たせてネ>とも付け加えたけど(笑い)。そんな感じで、私たちはとても仲良しなのよ」
——その新作には、なによりちゃんとマイアミ・ソウルのヴァイブがあって素晴らしいと思いました。ふくよかでもあり、あなたが築いてきた味の良さを再確認しました。
「マイアミ・ソウル色が強いのは、私が仲間と作ったデモ・テープに従って、ザ・ルーツが演奏しているからね。私はヒップホップは嫌いじゃないので、その要素は散りばめてはいる。でも、娘たち(2月の来日公演にもバック・コーラスとして2人同行した。娘は4人いる)も歌ったりするなど、フロリダ勢も参加しているので、マイアミならではのソウル・サウンドにはなったと思うわ」
——先に話が出たあジョス・ストーンのデビュー作『ソウル・セッションズ』(S-カーヴ、2003年)には70年代に活躍した地元のアーティストたちが入っていて、マイアミのソウル界って結束が強いんだなと思ってしまいます。
「リトル・ビーヴァー、ティミー・トーマス、ベニー・ラティモアら70年代のマイアミ・ソウル界を支えた人たちといまだ仕事ができるのはうれしいわね。そのジョス・ストーン作により、彼らにも再度注目が集まったのは本当にうれしかった」
——あなたは地元の才能豊かな担い手を掌握し、サウンドも作れ、もちろん曲も作れます。そういう統括する力が、アンジー・ストーン(2005年3月22日、2007年7月18日、2011年2月10日)やエリカ・バドゥ(2000年11月19日、2006年4月2日、2012年3月2日、2017年10月6日)らに助力を求められる理由なんだと思います。
「オリジナルなサウンドを持つ人物、皆そういう事実を認めて私のもとを訪れるんじゃないかしら。やはり、唯一の輝きを求めるんだと思うわ。リル・ウェイン、キーシャ・コール、ビヨンセ(2001年6月25日、2006年9月4日)までいろんな人から声がかかっている。グロリア(・エステファン)とは今も仲良しだし、エルトン・ジョンもそうね」
——今後はどんなことをしたいですか?
「レゲエをちゃんとやってみたいわね」

▶︎過去の、ベティ・ライト
https://43142.diarynote.jp/201203061824335340/
▶︎過去の、スティーヴ・ウィンウッド
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm フジ・ロック
▶過去の、ザ・ルーツ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-12.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-12.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20040919
http://43142.diarynote.jp/200701201415300000/
http://43142.diarynote.jp/201312200917503345/
▶︎過去の、ジョス・ストーン
https://43142.diarynote.jp/200411231721010000/
https://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
https://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶過去の、ジョン・レジェンド
http://43142.diarynote.jp/200505141714260000/
▶︎過去のアンジー・ストーン
https://43142.diarynote.jp/200503240458070000/
https://43142.diarynote.jp/200707232251010000/
https://43142.diarynote.jp/201102121001091213/
▶過去の、エリカ・バドゥ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-11.htm
http://43142.diarynote.jp/200604050124430000/
http://43142.diarynote.jp/201203062004221304/
https://43142.diarynote.jp/201710071225329957/
▶過去の、ビヨンセ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/livezanmai.htm 2001年6月25日
http://43142.diarynote.jp/200609070212050000/

 わー、ブルース・マンのラッキー・ピータソンが55歳でお亡くなりになった。ニューヨーク州バッファローの生まれで、お父さんはThe Governor’s Innとうナイト・クラブを経営してた。ちょこんとハモンド・オルガンの前に座る写真がカヴァーに使われた『Our Future: 5 Year Old Lucky Peterson』(Today,1971)でデヴュー。高校は地元の芸術高校に通い、フレンチ・ホルンなども吹いたらしい。シカゴのアリゲイター・レーベルを経て、1990年代に入るとフランスのポリグラムが彼のプロダクツ群を送り出したこともあり、欧州でも広く活動。21世紀に入るとフランスのドリフュス・ジャズや英国のJSPなどからアルバムをリリース。だが、なにもないときはテキサス州ダラスでに住んでおり、家で病気に伏せっていたところ、危篤で病院に運ばれたという。オルガンもギターもいけて、いい塩梅で歌った人。オールマイティ型の、いろんな勘所を持つ現代ブルース・マンだった。ぼくがパリで見たとき(2016年4月10日)は電気ピアノを弾きながらゴスペル崩しの美味しいパフォーマンスを、彼は見せてくれた。昨年の芸能生活50周年を祝う『50: Just Warming Up!』(Jazz Village,2019 )はもう充実好盤で、いい音楽人生だったと思われるのは何よりだ。

▶︎過去の、ラッキー・ピーターソン
https://43142.diarynote.jp/201604190912403018/


 なお、訃報を見逃していた人に2人触れておく。1人は1972年生まれの英国人ラッパーのタイ(2003年9月26日)。コロナ・ウィルスの治療を受けていて、5月7日に47後で歳でなくなった。
 また、20歳ごろからニューヨークのシーンで活動してきた、左利き用のストラトキャスターを逆さに構えたヘンドリックス耽溺ギタリストのロニー・ドレイトン(1953年5月19日〜2020年2月7日)の逝去の報を見逃したのは痛恨の極み。エドウィン・バードソン、ロイ・エアーズ、菊地雅章、ビル・ラズウェルのマテリアル、ノーナ・ヘンドリックス、デイヴィッド・シルヴィアン、坂本龍一、ディーファンク、カシーフ、フォンジー・ソーントン、ジャマラディーン・タクーマ、ミシェル・ンデゲオチェロ、ザ・ファミリー・スタンド、24−7スパイズ、アンジェリーク・キジョー、アリシア・キーズ、などなど。リーダー作はなし。だが、はみ出したギター演奏は不滅だ。なお、彼は息子ドノヴァンが殺人罪で投獄されてしまい、2010年前後の5年間にわたり無罪を主張。戦いのすえ、釈放を勝ち得た。その際、リヴィング・カラーら所縁のミュージシャンたちが資金援助の活動をした。

▶︎過去の、タイ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-9.htm トニー・アレン


 ギニアの有名なグリオの家系マンディンカに生まれたシンガー/コラ奏者の、モリ・カンテ(2006年8月4日)が、首都コナクリの病院で逝去した。カンテは慢性疾患に苦しみ、度々フランスで治療を受けていたものの、新型コロナ・ウィルスの流行によりそれが叶わなくなってしまっていた。が、急な死であっという。享年、70歳。

 7歳からマリで音楽修行を始め、20歳ちょいでサリフ・ケイタが在籍したグループに加わり、その2年後にケイタが独立したあとはそのフロントに立った。ソロとしては1982年にアイヴォリー・コーストのレーベルからセルフ・タイトルのアルバムを出し、その後は仏バークレーを中心にからいろいろな財産を背負う今のアフリカを伝えるプロダクツを送出。1988年に「イエケ・イエケ」が欧州で100万枚を超える大ヒットとなり、彼はワールド・ミュージックのブームを作る中心人物となった。張りのある歌唱と優美なコラ演奏はイスラム教徒であり、その流れの曲も歌った。

▶︎過去の、モリ・カンテ
https://43142.diarynote.jp/200608051211470000/

 また、レゲエ・ダンスホールの黄金期を支えた名プロデューサーのボビー“ディジタル”ディクソンも、腎臓病でお亡くなりになっている。エンジニアからキャリアを始め、シャバ・ランクス、シャインヘッド、ビーニー・マン、ブジュ・バンドン、ルチアーノ(2006年8月19日)他、いろんな人を手がけた。妻と子供3人、孫2人がいるそうだが、ジャマイカ人である彼はちゃんと1人と結婚した人なのか。ウータン・クランのRZAも別名でボビー・ディジタルと名乗るが、彼とは関係がない(はず)。

▶︎過去の、ルチアーノ
https://43142.diarynote.jp/200608201821080000/

 マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』(コロムビア、1958年)をはじめ、ハード・バップ期の最たるドラマーであるジミー・コブが肺がんのため、マンハッタンの自宅でお亡くなりになった。ダイナ・ワシントン、キャノンボール・アダリー、ジョン・コルトレーン、ウェス・モンゴメリー、他。コブと聞くと、なんとなくピアノのウィントン・ケリーとベースのポール・チェンバースという単位を思い浮かべもするか。基本、サポート大王。だが、21世紀に入るとリーダーとしていくつものアルバムをリリース。この2月に、彼の医療費を捻出するオンライン募金が始められたことが告知されてもいた。<From Lady Day(ビリー・ホリデイ) and Dinah Washington to Bird(チャーリー・パーカー) and Miles - straight through - you always brought it, dear friend. RIP>。と、投稿したのはチャールズ・ロイドだ。なお、若いころの写真を見ると、コブはイケ面だ。

▶︎︎過去の、チャールス・ロイド
http://43142.diarynote.jp/200505141717440000/
http://43142.diarynote.jp/200804081928430000/
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
http://43142.diarynote.jp/201701131141476377/
https://43142.diarynote.jp/201701141241544133/
https://43142.diarynote.jp/201909031830055314/
https://43142.diarynote.jp/201909071014576603/