渋谷・映画美学校試写室で、2019年日本/イラン映画を見る。多くの場面がイランで撮られている映画で、その部分は監督(筒井武文)と撮影者(柳島克己)以外のスタッフはイラン人が務めている。その筒井(1957年生まれ)と三船プロダクション出身で北野映画にも関与しているという柳島(1950年生まれ)は東京藝大の映像研究科で教えているようで、脚本を担当したイラン人のナグメ・サミニは何度も来日し藝大で脚本ワークショップを執っている人であるという。イランの映画界は世界的にも評価が高いが、逆に筒井はイランに何度も行っていて、その流れでぜひイランで映画を撮りたいと思い、それが本作に着地したという。まあ、藝大映像セクションのコネクションを利したものであり、エンドロールには文化庁のクレジットも出てくるので、国からお金が引き出された作品なのだろう。

 93分の尺だが、それよりも長く感じた。テヘランに住む母子家庭(娘は大学生)と日本人男性(永瀬正敏)や娘のボーイフレンド(なかなかに女々しい。イラン人男性って、今こういうタイプが少なくないの?)との暗めの重なりがゆったりと綴られるものになっている。

 イランで公開されることを、最初から念頭に置く作品のよう。それゆえではないかもしれないが、監督はとにかくイラン人が見てこれはないっしょという部分はなくそうとイラン人スタッフと密なやり取りをしたというし、日本が舞台となる部分には、イランで一番著名な女優である小林綾子(cf.「おしん」)がイラン側の求めによりキャスティングされている。一方、母親役を演じるマーナズ・アフシャルはイランの国民的な女優だそう。

 ぼくの感性においては他愛ないと言えば他愛ないけど、イランと日本を結ぶ数奇な人間関係の襞を含みを持たせる作法のもと、大人っぽく綴っていく現代劇になっている。9月中旬より公開。

 過剰には入らない、引き気味の音楽もイラン人のハメッド・サベットよる。可もなし、不可もなし。チェロの音色を生かしたものから、ジャパネスクなものまで。後者はオープニング部分と、日本の場面で使われる。そういえば、普段見ない日本のTVドラマを絶賛引きこもり中に、ネット映像プログラムから拾って見たんだけど、音楽がもんぎり型極まりないものがつけられているものがあり、驚きつつ鼻つまみまくり。あれじゃ、よくできた作品でもすんごくC級のものに、真面目に作っていてもギャグに成り下がってしまう。ちなみに、ぼくがTVドラマの劇バンとして評価するのは、たとえば米国ドラマの「メンタリスト」のそれ。シンプル(多くはデスクトップで作っているのでは?)かつ抽象的なんだけど、ストーリーの展開も促すものにもなっており、とても趣味がいいとしか言いようがない。

 ところで、イスラム教のヒジャーブはある意味、強力だナ。ぼく、人の顔を覚えることに難のある人間なので、ヒジャーブを巻いた母親と娘の区別がつきにくく、体型で判断していた。結構、人間って髪型で人を覚える部分もあるのではないか。

▶︎過去の、イランの映画
https://43142.diarynote.jp/201904191325355858/
https://43142.diarynote.jp/201910140916407770/

<今日の、もろもろ>
 上映前に、監督が挨拶。とっても腰の低い、実直そうなおじさんという感じの方。そのまま、試写を座席に座ってご覧になっていたがすごいなナ。だって、もう手直しもできないわけだし、撮影の苦労が蘇るだけで、ぼくだったらそういうことはしたくないのではないか。ミュージシャンも同様の理由で、特に新作については完成後は聞かないという人がよくいる。
 2月以降、少し気遣う生活をしてはいる。電車やエレヴェイターは極力避けるなど、何気に空気感染も疑う対処の仕方もしてきた。それはないと報じられていたように、おそらく新型コロナ・ウイルスのエアロゾル感染はないのだと思う。でなきゃ、電車通勤者が山ほどかからなきゃウソだ。マスクはそういう際の予防にはならないとも聞くし。それでも、外に出るときは、辛いけどマスクつけなきゃとも思う。ぼく不要に咳やくしゃみしちゃうから。今日も、試写中になぜか咳がでた。やっぱり、万が一無症状ながらキャリアである可能性も考えると、人と相対しているとき、パブリックな場にいる際は要マスクと思う。この人だったらうつしうつされてもしょうがないと思える人が相手なら別ですけどね。
 そういえば、ズーム飲み懇親会(ズームを入れたとたん、海外からスパムが来た。偶然だと思うが)で、マスクをしていない人と歩道ですれ違うのはいやという人の発言から、自分は予防に気をつかっていますよいう意思表示のためにマスクは気候が熱くなってもしたほうがいいだろうという結論になったことがあった。