アラマーイルマン・ヴァサラット(2009年10月2日、2013年4月7日)という変調ミクスチャー・プログ・ロック・グループを率いていたフィンランド人リード奏者のスタクラ(Jarno “Stakula” Sarkula)が、病気でポルトガルでお亡くなりになった。北の不思議の国たるフィンランドの奇妙な味を体現するキャラクターに富んだ人だった。彼はイヴェンターの愛に恵まれ、極東においては最上の活動をすることができた。最後は、明るく暖かい地を選んだのかな? 

▶︎過去の、アラマーイルマン・ヴァサラット
https://43142.diarynote.jp/200910111331493710/
https://43142.diarynote.jp/201304091016036527/

 また、著名ジャズ・ピアニストと同じ名前を持つ、米国著名アフリカ系偉人の訃報も届いた。マーティン・ルーサー・キング以後の公民権運動を主導したと言ってもいいだろう彼は、5月下旬のジョージ・フロイドの死を発端とするブラック・ライヴズ・マター運動の世界的な広がりをどう感じていたろうか。

 差別のひどいディープ・サウスのアラバマ州の田舎町に小作人の10人兄弟の3番目として生まれ、15歳にときにキング牧師の存在を知り、彼に傾倒。そして、神学校や大学に通いながら、非暴力の公民権運動に身を投じるようになり、若いながらキング牧師流れの活動団体の重要メンバーとなっていく。当然、数々の妨害や迫害を受け、投獄されたこともあった。

 1981年にアトランタ市議会議員に当選し、政界に進出。1986年には民主党ジョージア州選出下院議員となり、以後17期連続で議員を務めてきた。民主党の大統領予備選にも2度ほど出たことがあったという。昨年暮れに、末期のすい臓がんであることを公表。ルイスの姿勢は、<ハードコア・リベラル>と評されもした。なお、キング牧師やルイス議員とも親しく、やはり公民権運動に身を投じていたC・T・ヴィヴィアン牧師も同じ日に95歳でお亡くなりになった。

<先日の、誤解>
 「良かったあ。(携帯)メールを出してもつながらないので、死んじゃったのかと思ったー」。これ、ちょい前のずっと会ってはいなかった知人からの電話に出た際の、先方の最初の言葉。オレ、そんなに死にそうかい? 昨年12月から、携帯をドコモからauに変えた。だって、とっても安くなるんだもん。ハードも含めて。それによってドコモの携帯メールは使えなくなり、上のような顛末になったわけ。おれ、あんまりドコモのメールは使っていなかったので、まいっかとキャリアを代えたことを公表していなかった。今、文書連絡をすることができるツールはいくつもあるわけだし。他に、ドコモの携帯メールが繋がらなくなって困惑している人はいないよな。

 エディ・ゲイルは知る人ぞ知る、広角型米国黒人音楽をクリエイトしたジャズ・トランペッター。ブルックリン生まれの彼の大々的な業界スタートはサン・ラーのアーケストラ(2000年8月14日、2002年9月7日、2003年7月25日、2014年7月4日)。1960年代上半期のことで、彼は結構ずっと緩く関わり続けたのかな。ゲイルはその関わりに多大な影響を受けており、それはブルーノートからリリースされたその名も『 Ghetto Music』(1968年)『Black Rhythm Happening 』(1969年)も如実に表れた。サン・ラーは宇宙を見上げたのに対し、ゲイルは足元〜ストリートに立脚して、様々な黒人音楽の音楽財産を謳歌する肉声も用いた親しみやすい作品を送出。前者では親指ピアノやスティール・パンも演奏し、後者にはエルヴィン・ジョーンズが入っていた。ゲイルはセシル・テイラーの『Unit Structures』 (1966年)やラリー・ヤングの『Of Love and Peace 』(1969年) など過度期ブルーノート重要作にも録音参加しており、ブルーノート・レコードは彼の死に際して、ネットで記事を組んでいる。

 1970年代に入ると彼は西海岸サンノゼに住むようになり、音楽的社会活動や音楽教育に鋭意あたるとともに、数作のリーダー作もリリース。また、2000代に入るとジャザノヴァ(2009年8月25日)やザ・シネマティック・オーケストラ(2002年7月27日)という欧州のジャズ流れの集団からレコーディング客演を求められもした。6人の子供、12人の孫、11人のひ孫に恵まれるなど家庭環境は円満だったようだが、癌で闘病していた。

▶過去の、サン・ラー亡き後のサン・ラー・アーケストラ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm
http://43142.diarynote.jp/201407051336285619/
▶︎過去の、ジャザノヴァ
https://43142.diarynote.jp/200909091018074627/
▶︎過去の、ザ・シネマティック・オーケストラ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm
 
 一方、レジナルド・ヘインズは、1970年代初頭に世に出たザ・エスコーツの中心人物であった人。そのザ・エスコーツはニュージャージーの刑務所で組まれたドゥーワップのコーラス・グループ(そりゃ獄中は楽器は演奏できないだろうから)で、プロデューサーのジョージ・カーの目に止まり、彼の制作によるファースト作『All We Need Is Another Chance』(Alithia,1973年)でデビュー。刑務所で録音された同作のジャケット・カヴァーは檻の中にいる面々の写真が使われた。少し粗めとも思うが、ザ・ミラクルズあたりを根に置く情あるヴォーカル・グループ作ですね。なかには当時のブラック・ムーヴィを想起させるような闊達なサウンド採用も認められ、異色の彼らのデビューは高揚していた“ブラック・イズ・ビューティフル”的意識や、また件の映画にある白い掟に従わないちょいワル黒人像が投影された部分もあったのではないか? 翌年にも、ザ・エスコーツはアルバムを出している。

 窃盗で収監されていたヘインズが一番刑期が短く、初アルバム・リリースのころには娑婆に出て活動を始めたが、メンバーのなかには終身刑だった人もいて、非収監者も加わったという。グループは10年近くで消滅したが、ヘインズはザ・リジェンダリー・エスコーツを組み活動。1990年代初頭にもザ・エスコーツ名義のアルバムが出ているという話もあり、それはディスコっぽいところもあるそう。なんにせよ、彼らのトラックはパブリック・エネミー(2005年8月14日、2009年7月25日)、J・ディラ、ジル・スコットらに活用されている。

▶︎過去の、スモーキー・ロビンソン/ザ・ミラクスズ
https://43142.diarynote.jp/201909260735539261/
▶︎過去の、パブリック・エネミー
http://43142.diarynote.jp/?day=20050814
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725

<ここのところの、逡巡>
 マンションの5年ごとの掛け捨ての火災保険が保証期間が今月いっぱい。更新するのに、地震保険も入れるかどうかを迷う。今まではまあ大丈夫っしょとタカをくくってきたが、さすがにそろそろと思わなくもなく……。しかし、そっちも入ると料金が150パーセント増しになるんだよなあ。そろそろ大規模修繕があり、場合によっては積立金だけで終わらない可能性もあると考えていたほうがいいだろうし、とかなんとか考えると、よけいに判断を躊躇する。普段はわりとキブン一発で決定しちゃうほうなのだが、それはこの状況下で仕事が立て込んでおらず(夜遊びもせず)、時間があるということと関係もする? 

 清らかな歌声の持ち主である、ロンドン生まれの(うっすらサイケっぽいところもある)フォーク系シンガー/ソングライターであるジュディ・ダイブルの訃報が届く。闘病中であったようだ。まだ10代だった1967年にフェアポート・コンヴェンションに加入したが、2作目を作る前にグループを去り、彼女の後に入ったのが故サンディ・ディニーだった。

 当時、彼女はイアン・マクドナルドと付き合っており、ジャイルズ・ジャイルズ&フリップにも浅からず関係しており、ゆえに彼女はキング・クリムゾンの結成にも関与したという記載もなされる。2000年代に入りエストニア大使館で彼女はロバート・フリップと会い、それが縁で彼女の『The Whorl』(Talking Elephant、2006年)と『Talking With Strangers』(Genepool 、2009年)にはフリップの名前がギターとサウンドスケイプでクレジットされている。

  1970 年には、ジャッキー・マコーリーとのデュオ・ユニットであるトレイダー・ホームで『Morning Way』(Pye)をリリース。だが、1973年に貴族でもあったパーカッショニストのサイモン・デ・ラ・ベドイアー(彼はテン・イアーズ・アフターの1969年作『Stonedhenge』で叩いている)と結婚し、伯爵夫人〜とはいえ、裕福ではなかったよう〜となった彼女は音楽業界から離れてしまう。だが、1980年代初頭のフェアポート・コンヴェンションのライヴに彼女は数度参加した。

 そんな彼女は2000年代に入ると、旦那も亡くなり2人の子供も大きくなったためもあり、本格的に復帰。2004年以降、トーキング・エレファントやアシッド・ジャズなどからな何枚ものリーダー・アルバム群をリリースしている。また、2016年には自伝「An Accidental Musician: The Autobiography Of Judy Dyble」(Soundcheck Books)も出版された。

▶過去の、リチャード・トンプソン(フェアポート・コンヴェンション)
http://43142.diarynote.jp/201204160900538745/
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm
https://43142.diarynote.jp/201502271422421282/

<今日は、無気力>
 雨が降ると思っていたので、外出の予定を入れず。そしたら、少し晴れ間が見えるときもあり。あれれ。まあ、そういうときもあるサ。って、そういう場合も多い?

 南青山・ブルーノート青山、ファースト・ショウ。同所は少し前からぼちぼち(とびとびに)ライヴをやりはじている。で、すでにここにライヴを見に行った知人から、対面座りをやめ、片側だけに観客を座らせるようになっていると聞いていたが、なるほどそのとおり。すると、定員入場者数はほぼ半分となりますね。飲み物と食べ物のメニューは平常時よりは簡素版のものになっていた。ここは出演アーティストごとに特別ドリンクを組んでいたが、ビル・フリゼールやロイ・エアーズら過去の3アーティストのそれがメニューに載せられている。とくに評判が良かったり、考案者自信のブツであるのだろうか。テーブルにもすべてではないが、アルコール消毒ボトルが置かれている。それは、ありがたいかも。

 なお、会場には3つのカメラ/カメラマンが設置/いて、が、セカンドは有料配信もされているよう。

 この日と明日の出し物は、エレクトリック・ギターの小沼ようすけ(2004年11月30日、2010年10月12日、2011年3月28日、2011年3月31日、2011年7月25日、2013年7月1日、2014年2月5日、2017年4月29日)、ギターと詠唱のカイ・ペティート、パーカッションの岩原大輔、ドラマーの沼澤尚(1999年8月11日、2000年2月14日、2000年7月29日、2001年2月18日、2001年6月29日、2001年12月9日、2001年12月22日、2002年7月21日、2002年11月15日、2003年2月11日、2003年3月13日、2003年6月22日、2004年1月16日、2004年1月30日、2004年2月21日、2005年2月15日、2005年4月11日、2005年7月30日、2005年9月14日、2005年10月30日、2006年4月17日、2006年5月30日、2006年8月11日、2006年8月24日、2006年12月28日、2007年1月26日,2007年6月3日、2008年1月30日、2008年1月31日、2010年1月12日、2011年10月8日、2012年10月10日、2013年1月6、2013年1月7日、2014年9月2日、2015年10月3日、2016年9月27日、2016年11月18日、2017年7月14日、2017年9月22日、2019年5月21日)の4人。小沼はベティートと岩原のトリオでここ3年ほど活動をしており、また昨年は沼澤とツアーする機会も持ったりもして、その2つを重ねるとおもしろくなると思いこの陣容にしたと、小沼が説明する。

 また、フレンチ・カリビアンのビート/風情を介した『Jam Ka Deux2』、その後の表現を求めているとも彼は言ったか。それはよく分からなかったが、くつろいだ風情のインストメンタルが、伸び縮む感覚を持ちつつ披露される。小沼と同様にピックを使わず演奏するカイ・ペティートは低い弦の2弦でベース音を出し、ジャンベの日本人エキスパートであると説明された岩原はジャンベを主体の演奏。沼澤はふだんよりもゆる〜い叩き口なり。

▶過去の、小沼ようすけ
http://43142.diarynote.jp/200412111738540000/
http://43142.diarynote.jp/201010191156412288/
http://43142.diarynote.jp/201104041100266528/
http://43142.diarynote.jp/201104041101072561/
http://43142.diarynote.jp/?day=20110725
http://43142.diarynote.jp/?day=20130701
http://43142.diarynote.jp/201402071150071550/
https://43142.diarynote.jp/201704300807298823/
▶︎過去の、沼澤尚
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm wマルコス・スザーノ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-2.htm ナッシン・バット・ザ・ファンク
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-7.htm シアターブルック 7.29フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm スガシカオ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-6.htm ナッシン・バット・ザ・ファンク
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm wマルコス・スザーノ 12/9
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm シアターブルック+マルコス・スザーノ12/22
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm W.パウリーニョ・モスカ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm サンパウロ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-2.htm ナッシン・バット・ザ・ファンク
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-3.htm  バーナード・ファウラー、ブロンディ・チャップリン、リサ・フィッシャー、ダリル・ジョーンズ、奥田民生、小原礼
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-6.htm シアターブルック
http://43142.diarynote.jp/200401160000000000/ w.勝井、怒怒、佐藤
http://43142.diarynote.jp/200402051858240000/ サンパウロ
http://43142.diarynote.jp/200402211239510000/ アズ・ウィー・スピーク
http://43142.diarynote.jp/?day=20050215 wマルコス・スザーノ
http://43142.diarynote.jp/200504151004040000/ w勝井
http://43142.diarynote.jp/?day=20050730 ザ・ブルース・パワー
http://43142.diarynote.jp/200509161722260000/ 大貫妙子
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http://43142.diarynote.jp/?day=20060417 ビッグ・ホーンズ・ビー
http://43142.diarynote.jp/200606071931300000/ w.勝井
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http://43142.diarynote.jp/?day=20070126 OKI DUB AINU BAND
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http://43142.diarynote.jp/200802051634040000/ w.勝井
http://43142.diarynote.jp/200802051630130000/ TOYONO
http://43142.diarynote.jp/201001131101085950/ blues.the-butcher-590213
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http://43142.diarynote.jp/?day=20160927 大貫妙子
http://43142.diarynote.jp/?day=20161118 OKI AINU DUB BAND
http://43142.diarynote.jp/201707151654245284/ After School Hangout
https://43142.diarynote.jp/201709240955007593/ ナッシン・バット・ザ・ファンク
https://43142.diarynote.jp/201905220902467859/ シアターブルック

<今日の、感無量>
 3月16日以来の、ライヴ行きとなる。うわあ。実は、引きこもり期、ライヴに行きてえと、それに渇望するということはなかった。気持ちを切り替え、なるだけストレスを排する方向のもと、できることを粛々とこなすという方向にシフトし、日々を過ごしてきた。とはいえ、行ったら行ったでライヴはいいなあ、外でお酒を飲むのは楽しいなあ。という、ぼくのなかでの真理はいささかも揺るぎはしない。 
 ところで、運動不足でもあるし行き帰りともに会場と自宅の間を歩こう(検索したら、3,5k)と思ったが、雨天でフツーに電車で会場に向かう。だが、帰りは歩いた。渋谷で一時飲み屋休憩を挟んで。本日、過去最高の陽性者数が東京で出たというニュースが報じられ、雨天でもあったし、空いているかと思い入店したら、そうでもなかった。ブルーノートの体温計測器は36,1cで、飲み屋のほうは 36,5c.だった。

 クリーヴランド・イートンが4ヶ月にわたる入院のあと、アラバマ州バーミンガムで亡くなった。彼は生まれたアラバマ州フェアフィールドに居住していたはずなので、最後は入院のため近くの大都市であるバーミンガムに移っていたのだろうか。音楽一家に育ち、いろんな楽器に親しむとともに、楽器を家に持ち帰ることを許され、高校時代からダブル・ベースを弾くようになった。テネシー州の大学で音楽を学んだ後、彼はシカゴで活発に活動を始める。そのため、彼をシカゴ生まれとするあちらの記載も認められる。
 東京オリンピックのころからバンキー・グリーンやソニー・コックスらキャデットのレコーディングに関わった。そして、「ジ・イン・クラウド」を大ヒットさせた(その威光を借り、リズム・セクションのエディ・ヤングとアイザック・ホルトは新たにピアニストを雇いヤング・ホルト・アンリミテッドとして新規活動する)、1965年からはラムゼイ・ルイス(2008年7月2日、2009年8月29日、2010年9月28日、2011年8月22日、2013年2月21日)のトリオに加入。その相棒ドラマーはE.W.&F. (2006年1月19日、2012年5月17 日)を後に組むモウリス・ホワイトだった。そのトリオで1968年には日本公演も行い、東京でのライヴ盤はキャディットからリリースされている。ホワイトが抜けて以降も彼はルイスのトリオにとどまり続けるとともに、テリー・キャリア(2002年5月21日、2004年4月19日、2005年2月17日、2007年3月8日、2009年9月15日)ら周辺のレコーディングに参加した。
 とともに、弾んだ質感を持つベース演奏(ブーストもしていた)をしつつリーダーとしてもアルバムを発表する。P-ヴァインから日本盤も出ているブラック・ジャズ発の『Plenty Good Eaton』(1975年)は自らも歌い、ジャズとソウルが見事に溶け合った、当時の都会的なアフリカ系アメリカ人の生活感を描いた傑作として有名だ。彼の1970年代にはあと2枚リーダー作を出しているはずだが、その総花型グルーヴィ表現はいまだ有効だ。
 そんなイートンは1980年ごろからカウント・ベイシーのオーケストラ(2010年12月28日、2011年9月3日、2014年12月22日)に加入し15年は在籍したはず。でも、キャラも立った彼(ルックスも風情あり)は親分亡き後(ベイシーは1984年に逝去)の著名ジャズ・ビッグ・バンドにしっかりとひっかかりをもたらしたのではないか。
 1990年代中盤を回ると、彼はアラバマ州に戻り、悠々の音楽活動を続けていたようだ。
▶︎過去の、ラムゼイ・ルイス
http://43142.diarynote.jp/200807031119590000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090829
http://43142.diarynote.jp/201009290720426339/
http://43142.diarynote.jp/201109100857091783/
http://43142.diarynote.jp/201302281043262653/
▶過去の、E.W.&.F.
http://43142.diarynote.jp/200601271855390000/
http://43142.diarynote.jp/201205301252113538/
▶︎過去の、テリー・キャリア
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-5.htm
https://43142.diarynote.jp/200404190049350000/
http://43142.diarynote.jp/200502232039250000/
http://43142.diarynote.jp/200703101608130000/
http://43142.diarynote.jp/200909181206531984/
▶過去の、ベイシー・オーケストラ
http://43142.diarynote.jp/201101061048518045/
http://43142.diarynote.jp/201109121452527893/
https://43142.diarynote.jp/201412281018298837/

 また、ウェスト・コーストの重鎮ドラマーであるジョー・ポーカロ(2015年11月14日)の訃報もとどいた。息子は、ドラムのジェフ、ベースのマイク、鍵盤のスティーヴ、3人の息子たちはTOTO(2011年9月27日)を結成。すでにジェフとマイクは鬼籍に入っている。最後は家族に看取られ、自宅でお亡くなりになったという。
 当時先端の音楽であったジャズに邁進。業界入りし、スタジオ・ミュージシャン的な活動を始めて、映画音楽にも関わった。そして、メインストリームの移行とともに、ポップ側のセッションもしている。晩年はジャズ・ヴァイブラフォン奏者のエミール・リチャーズと一緒にコンボ活動をしており、その単位で来日(2015年11月14日)もした。

▶︎過去の、ジョー・ポーカロ
https://43142.diarynote.jp/201511181201122137/
▶過去の、TOTO
http://43142.diarynote.jp/201109300923303323/

<今日の、小さな世界>
 ズームのミーティングは可能ですか? との、メールあり。やっぱ、そういうの疎い人間と思われているんだろうな。コロナ禍のおりテレワークが推進されるなかでズームが脚光を浴び始めたおりは、確かにオレには関係ねえと思っていた。だが、ある大学のゼミ授業にゲストで出たり、打ち合わせしたり、インタヴューしたりで、なにかと使うようになっている。でもって、取材がズームを介してのものだと、わざわざ外に出向かずできちゃって楽だ(し、時間のロスが少ない)なと思う自分がいる。うひゃあ。
 とうぜん、ズームを使う場合はPCが置いてある仕事部屋でする(一度、居間にPCを持って出てやったら、いまいち塩梅が良くなかった)。その場合、机の背後は立派なラックを壁一面に設置してのCD群の壁。ズームの相手はまず、それにすごいですねと反応する。机の逆側はオーディオ機器とともにアナログ・レコード群の壁。反対だったらもっと格好いいのにと思うぼくは、小さな音楽的感性のなかで生きている? 普通だったら、綺麗な壁とともに、横には草木があり、またイケてるドロウイングとか飾ってあったほうが格好いいと思う? 

Don’t Know Why? / Pat Metheny 『One Quiet Night』 (Nonesuch,2003年)
Overjoyed / Danilo Perez『 ...Till Then』(Verve,2003年)
Just the Way You Are / Till Brönner ‎『Blue Eyed Soul』 (Verve,2002年)
Yozora no Muko / The Andy Azrin Trio 『Plays J-Pop Hits Vol.2』(M&I,2000)
People Make the World Go Round / Nicholas Payton『Payton’s Place』(Verve,1998年)
Calling You / Quasimode 『My Favorite Songs』 (Blue Note,2014年)
We Will Rock You / Keiko Lee 『The Golden Rule』 (Sony,2019年)
Strasbourg/St. Denis / Roy Hergrove『Earfood』 (EmArcy,2008年)
Teen Town / Yosuke Inoue 『New Stories』 (M&I,2019年)
Human Nature / Miles Davis 『Your Under Arrest』(Columbia,1985年)

<今日は、七夕>
 JALの国際線機内放送の選曲、ありがたいことに通常時のように選曲してくださいとにことで、<3〜4月>と<5〜6月>とコンパイルしてきたわけだが〜いや、今<11〜12月>選曲作業を終えつつあるといった感じで基本4ヶ月は先に作業は進められているので、ちょうど今月分からダークな状況のもとでの選曲となる〜、やはりどこかちゅうぶらりんな感じはなくはなかった。とくに国際線は結構飛んでいなかったはずで、選曲したチャンネルをどのぐらいの人が聞くのだろうかと。。。。ちゃんと、作業していますどね。7月からの回は少し聞く機会を持つ人が増えるかな。とはいえ、予断を許さないのが悲しい。
 とうぜん、家には七夕の笹飾りなどしておらず〜子供のころはやってたっけ?〜短冊を書く機会もないが、今それを書くとしたら、マジメになんとか早くウィルス禍が収まりますように、と書くかな。今、各地の七夕祭りは学校が休みになったほうが盛り上がるからか、8月に行われるものも多いと聞く。今年の生徒/学生の夏休みはどんな日程が取られるのだろう。自分本位だが、じじいで良かった。ぼくが多感なガキだったらそうとう世をはかないめっぽう塞ぎ込むだろうし、イキがった小僧ならもう爆発寸前という感じになっちゃうはず。

 映画少年じゃなかったので、彼の名前をちゃんと認知したのはだいぶ後になってからだが、マジ人並外れた作曲家であるのは間違いない。ブルガリやアルマーニやグッチやプラダといったファッション・ブランドやフェラーリやマセラッティやアルファロメオといった自動車メイカーのような誉を、音楽という分野においては一番与えてくれるイタリアの才人ではないだろうか。ちゃんとクラシック教育を受けた末に、メロディ性や詩情を持つ芳醇な音楽を作った御仁。おそらく、ぼくは彼が作った映画音楽の10分の1も知らないかもしれないが、深く頭を垂れるしかない。ローマ生まれで、ローマに死す。転倒による大腿骨の骨折が導く合併症で、91歳でお亡くなりになったという。

<今日の、追記>
 R.I.P.の原稿には、<今日の、〜>をつけないのねと知人から言われたので、今回からいつの回でも復活させることにする。まあ、考えるところがあって、そして、ライヴに行くようになったらちゃんと復活させようと思っていたのだが。モリコーネは熱い社会党支持者として知られるが、昨日の選挙の結果は分かっていてもあーあ。毎度のことながら、悲しくなる。って、こんなおり極右なのは置いておいても、私利私欲のみに走るだけで人として腹をくくることができない日本や東京の長は酷すぎる。
 ところで、モリコーネは2019年に日本の旭日小綬章を受賞をしているが、旭日双光賞(旭日小綬章より一つ下になるよう)を今年受賞したのは、南アフリカのジャズ・ピアニストのアブドゥーラ・イブラヒム(2011年8月7日)。実はそれもあり、イブラヒムには毎日新聞用にメール・インタヴューをした。新聞記事は答えの一部しか使えていないので、ここに全文を出しておく。(現在、イブラヒムが所属する英国ギアボックスの日本窓口を務めるロミさん、間に入ってくれてありがとう)

——旭日双光賞の受賞、おめでとうございます。長年のあなたのアフリカの大地に根ざした音楽活動が評価を受けたことを嬉しく思います。
「このような名誉ある賞を南アフリカの人間である私が授けられたこと、この場を借りて天皇陛下へ感謝の気持ちをお伝えしたいです。
 もう長い間日本のみなさん、そして日本の文化は私の音楽や表現を受け入れてくれました。そのおかげで日本と南アフリカの友好関係の強化に貢献することができました」
——ところで、あなたは親日家であり、日本の古武道の八神流躰術を熱心に学んでいることも知られます。そもそもいつ頃、どんな形で八神流躰術に出会ったのでしょうか?
「日本文化には無限でタイムレスな本質的知識が埋め込まれています。部外者である私はその輝かしい文化を最小限に観察して、畏敬の念と誠実さをもって取り入れているだけです。私がまだケープ・タウンの若い学生の頃、読書をきっかけに日本と南アフリカの文化に存在する共通点というものを学び、興味をそそられました。そこから当時私と若い研究者仲間たちとを結ぶ唯一の共通項であった空手に情熱を注ぐようになり、どんどんと謎めく日本にのめりこんでいきました。その後私の研究はケープ・タウンの奴隷制度や、南アフリカに渡った最初の日本人であるアンソニー(・ファン・ヤパン)についてへと拡大しました。2018年の在ケープタウン領事館開設100周年記念行事の際に私は、アンソニーの眠る墓を日本領事館員に伝えたことを記憶しています。
 1960年代というのは、我々多くの人間にとって弾圧的な南アフリカから亡命する時期だったんです。私はヨーロッパやアメリカへ渡りました。コンサートで滞在していたコペンハーゲンで武道家のトネガワ先生と出会い、私を弟子にすることを認めてくださいました。先生との関係はもう50年を超え、先生の教えである武術八神流躰術を今でも私は日々行なっています」
——あなたは日本の染物などにも詳しく、とても日本の文化を愛してくださっています。そうしたことは、あなたの生き方や音楽に影響しているのでしょうか?
「私が日本文化に最も共鳴する点はマナーを重んじていること。人間や自然に感謝と敬意を表すところです。伝統芸能の一つである能が、日本人の創造力を象徴する典型的な例です。その根底にある原理は、ジャズの芸術形式にも当てはまります。とりわけ能管の高周波のサウンドは、心音のように暗示する調性の中心音や律動的な鼓動に左右されずに、即時に物語を紐解くことに貢献します。それは二度と同じものを再現することができない即興音楽ジャズでも同じことです。抱くだけ無駄な願望、武道の持つ基本原理ですね。
 コスモロジー、原始地球、動物、そして銀河系やテクノロジーに対するヴィジョンは、日本とアフリカが共有しています」
——現在もケープ・タウン郊外の広大な土地に自然と共存する形で生活しているのですか。いま、Covid-19が世界的に感染していますが、ケープタウンの街の様子はどんな感じでしょうか?
「私の居住地は南アフリカとドイツ・アルプスにあります。普段はそこから世界中へコンサートに出向くのですが、今は公演が全て延期になってしまったので、山々や自然に囲まれたドイツの自宅でロックダウンを過ごしています。近々レコード会社Gearbox Recordsとともにオンラインでピアノのマスタークラス・シリーズを実施する予定です」
——あなたが取り組んでいる“Green Kalahari Project”のことを簡単に教えてください。
「アブドゥーラ・イブラヒム財団を通して、ジャズ・ミュージックというジャンルにおける私の貢献を保存したいと考えました。それを目的に、私は南アフリカのカラハリ砂漠に800ヘクタールの農場を手に入れ、施設を建設することにしました。美学、自然保護に対する総体的なアプローチを学ぶことが重要だと感じたからです。日本の象徴的な概念である「里山」と同じことです。様々な分野で共感して貢献してくれる方々を求めて、現在このプロジェクトの実現に向けて寄付金を募っています。世の中の若い世代の子達が、将来平和と期待に満ちた世界で生活できることを目指して。日本の若者や名人らが衛星中継、または実際に参加できる交流プログラムも思い描いています」
——アルバム『The Balance』は管楽器奏者たちも擁しての、滋味に満ちた仕上がりです。どんなアルバムにしたかったのでしょう? ロンドン録音ですよね。
「新しいものもあれば、再現したものもある、多数の作品から成る小宇宙です。今なおも探究し続けている、人生や人間関係において必要なバランスを確立することについての経験や物語の楽曲たちです。偉大なるマエストロ、デューク・エリントンの言葉を借りるのであれば、”音楽において最も重要なのは耳を傾けること”」。
——『The Balance』(Gearbox,2019年)はあなたの顔のアップをジャケット・カヴァーに用いています。そうした理由は?
「私がレーベルに提案したんです。このアルバムのジャケットにふさわしいのは、年老いた者の写真ではないかと」
——1960年代前半にヨーロッパに渡りデューク・エリントンと出会ったことをはじめ、あなたは1990年代に南アに戻るまで、様々な経験を重ねてきました、「Mannenberg」のように、南アの人々の拠り所となるような曲も書いています。そうしたキャリの中で、あなたの音楽観は変わってきていることもあれば、まったく変わっていないこともあると思います。それぞれを教えてください。今も好奇心旺盛に、様々なことをしているあなたには感服せざるをえません。そのモチヴェイションとなっているものはなんでしょう?
「音楽創作、芸術的試み、そして武道は全て同じ原理を持ち合わせています。生涯にわたる自己発見への探究、見返りを求めないで誰かとものを分け合うと言った精神です。何かを悟るたびにそれがモチベーションとなり、新たな扉を開ける鍵となります。私の今後の予定は、M7(ケープ・タウンのミュージシャンのために創設した音楽学校)やグリーン・カラハリ・プロジェクトを推進すること、そして新しい音楽を発表することで、悟りを得ることです」

▶︎過去の、アブドゥーラ・イブラヒム
https://43142.diarynote.jp/201108101635051749/

 アラバマ州マッスル・ショールズのフェイム・レコーディング・スタジオとアラバマ州シェフィールドのマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ。南部ソウル伴奏の奇跡を支えた白人ギタリストであるピート・カーが、アラバマ州フローレンスでお亡くなりになった。死因は明らかにされていないが、まだ70歳だった。

 フロリダ州デイトナ・ビーチ生まれ。13歳でギターを手にし、15歳のときに地元に来たデュエインとグレッグの兄弟バンドであるオールマン・ジョイズと意気投合。1968年に兄弟たちと一緒にアワ・グラスを結成、メジャーのリバティと契約し、面々はロサンセルスに居住した。だが、うまく行かず、グレッグ・オールマン以外は南部に戻り、カーはそのままマッスル・ショールズでスタジオ・ミュージシャンとして活動。R&Bから同所を訪れるロック勢まで、オールマイティな技量を発揮した。

裏方の人ではあるが、1976年と1978年にアトランティック傘下レーベルから2枚のリーダー作を発表。インスト主体のそれ、泣きのギター・インスト、ソウル/シティ調、プログ・ロックなどが交錯したものだった。

▶︎過去の、マッスル・ショールズ+を扱った映画
https://43142.diarynote.jp/201406270933515875/ 2013年米国映画「黄金のメロディ マッスル・ショールズ」
https://43142.diarynote.jp/201707141126579276/ 2014年米国映画「約束の地、メンフィス〜テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」

 シンガー/ピアニストのフレディ・コール(2010年4月20日)がジョージア州アトランタの自宅でお亡くなりになった。死因は、心臓血管系疾患の合併症。とはいえ、肺がんでなくなった偉大な兄ナット・キング・コールより倍近く生きたことになる。高校時代は将来を嘱望されるアメリカン・フットボールの選手だったが、夢破れ、兄の勧めもありジュリアード音楽院やニュー・イングランド音楽院に学び、まだ学生だった1952年にドットからシングル・デビューした。遺作はワーキング・バンドと録音した『My Mood is You』(High Note,2018年)で、グラミー賞のベスト・ジャズ・ヴォーカル・アルバムにノミネイションされた。

▶︎過去の、フレディ・コール
https://43142.diarynote.jp/201004221700527153/

 また、名アレンジャー/コンポーザーのジョニー・マンデルの訃報も届いた。享年94、自殺と報じているメディアもある。その年齢が示すように、ニューヨーク生まれの彼はまさにジャズ・エイジ。ジャズがポップ・ミュージックのメインストリームにある時代に素直にジャズ界入りした。

 恵まれた環境に育ち、ジュリーアドやマンハッタン音楽院でトロンボーンやトランペットを学び、当初はビッグ・バンドの管楽器奏者としてスタート。その後、アレンジャーとしての才をあらわし、アーティ・ショウ、チャーリー・パーカー、ウディ・ハーマン、チェット・ベイカー、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、クインシー・ジョーンズ、ダイアナ・クラール他、指揮込みでアレンジを提供。また、曲作りもし、彼の曲はいろんな人に取り上げられている。スタンダードの「シャドウ・オブ・ユア・スマイル」は彼が担当した映画「いそしぎ」のために書かれた曲ですね。そんな彼の映画音楽の代表作は、ローバート・アルトマンの1970年映画「M★A★S★H」か。また、1970年代を回ると、リッキー・リー・ジョーンズ、マイケル・ジャクソン、スティーリー・ダン、バリー・マニロウらポップ・アーティストの仕事も請け負った。

 彼のアレンジにそれほど着目してはかなかったが、彼の名前を聞くとなぜか甘酸っぱい気持ちにぼくはなる。彼は2018年に、レコーディングにおける歌唱や演奏ではない部分の功績を称えられる賞である“グラミー賞とラスティーズ・アワード”を受賞した。


 わあ。そんなに詳しいわけではないが、いろんなことをやることの素敵、場を自在に移動できる誉れをぞんぶんに感じさせてくれたフランス人アヴァン系ジャズ・トランペッターがお亡くなりになった。死因はぼくが見たかぎりにおいて不明だ。

 自在の羽と発想を抱える彼の存在をぼくが知ったのは、フリー・ジャズ歴に燦然と輝くフランスのBYGレーベル(1967年にサラヴァやバークレー・レーベルに関与していた人たちによって興された)からのリーダー作を知ったとき。1972年ごろまでと活動期間は長くはなかったが、同社は米国のレコード会社にはじかれがちだったシカゴやニューヨークの狼藉者たちを本当に確かな目で拾い上げ、米国ジャズのニュー・ウェイヴをしっかり送り出した。ドン・チェリー、AEOC、アーチー・シェップ、ポール・ブレイ、アンドリュー・シリル、アンソニー・ブラクストン、ソニー・シャーロック、サン・ラー、スティーヴ・レイシー、他。また、同社はゴング/デイヴィッド・アレンやフリーダムらロック側に出張る自由な担い手も送り出し、特にシングル盤はロック系のものも目立つ。アルバムのカタログは50作強、欠番なしでジャケットに目立つ感じで二桁の番号が出されており、ある意味“竹を割った”感覚をぼくには与えるレーベルであったかな。

 マルティニーク出身の両親(父親は共産党員でもあった)のもとパリで生まれたクルシルは1960年前後は独立機運にあったアフリカ数カ国に滞在し、フランスに戻ってからはトランペットと文学と数学を学んだという。そして、キング牧師暗殺を期に1965年から10年間はニューヨークに住み、フリー・ジャズをはじめとする米国のカウンター・カルチャーを真っ向から受け、その時期にパリ録音のBYG作を2作出している。その後、彼はパリでフランスで言語系の学者をするとともに、1990年に入るとアンティルズやガイアナの大学で教え、2000年代は米国の大学で教鞭をとっている。その再米国時代にはジョン・ゾーンのツァディックからトランペット音多重による単独アルバムをリリース。また、その後もやサニーサイド他からポスト・フリー回路にあるアンビエント/ニュー・エイジ調を持つアルバムを彼は出した。

 ブルックリンに生まれ、マンハッタンに死す。ミュージシャンではないが、ニューヨークを拠点に様々なアルバム・ジャケットやポスターのデザインをした、ハンガリー・ルーツのユダヤ系グラフィック・デザイナーであるミルトン・グレイザーが91歳の誕生日にお亡くなりになった。死因は脳卒中と腎不全だと報道されている。

 1950年代からデザイナーとして活動した彼が音楽方面で広く知られるようになったのは、ボブ・ディランの『グレイテスト・ヒッツ』(コロムビア、1967年)のアルバム・カヴァーとは別デザインのイラストを用いた広告ポスターを担当したこと。それ以後、ザ・バンド、タウンズ・ヴァン・ザント、チェイス、トッド・ラングレン、ポール・サイモン、アルバート・キング、メイナード・ファーガソン、ジョン・ハッセル、ロバート・クレイ、フィリップ・グラス、プロフェッサー・ロングヘア、ライトニング・ホプキンス他、本当に様々なアルバムのアート・ワークを彼は担当。写真を巧みに構成したもの、カラフルなイラストを用いたアトラクティヴなもの、近未来的なデザイン処理をしたものなど作法も広いが、それらは秀でたグレイザー印を持っていたはずだ。

 そんな彼のもっとも知られる作品は、1977年発表の赤いハートのマークを使った“I ♡NY”のロゴだろう。ニューヨークを愛する彼(1969年には、ニューヨーク・マガジンも創刊した。そのロゴもよく知られますね)は無料でこれを市に送ったと言われる。ロゴタイプ作りの才にも恵まれた彼は、グレイサー・スデンシルというアルファベット書体(切り抜き文字のスタイリッシュな型紙を思わせる)を1970年に発表するとともに、ブルックリン・ブリュワリー(ちょいスターバックスのそれはノリが近い)やSEEDロゴ他のロゴをいろいろと世に出している。2008年には「Milton Glaser: To Inform and Delight 」というドキュメンタリー映像も作られ、翌年にはバラク・オバマからザ・ナショナル・メダル・オブ・アーツをグラフィック・デザイナーとして初めて受けていた。

 渋谷・映画美学校で、2017年ベルギー/フランス/レバノン映画(原題「Insyriated」)を試写を見る。今日日こんなことが起こるのかと思わせもするシリア内戦を介する人間劇で、言葉はアラビア語。監督と脚本は、ベルギー人のフィリップ・ヴァン・レウ(1954年生まれ)が担当する。

 主となる登場人物は、共同隠遁生活を送る一家+(母、義理父、娘2人、息子ひとり、お手伝いさん、娘のボーイフレンド、同じアパートに住んでいて一緒に住むようになった母と赤ちゃん)。ほとんどの人が戦禍から逃げているなかとどまることを選んだ彼女たちはアパートのなかでひっそり生活していて、その朝から翌朝までの出来事を描いている。カメラはギリのところで暮らす女性たちを、アップ多用かつ動的なカメラ・ワークで追う。とはいえ、部屋の中は暗めだし、部屋が何室もあるとはいえアパートの一戸のなかでのもろもろを追うので、どこかまったりとした質感も持つか。戦闘シーンや市街の様子などは一切映らないが、彼女たちが置かれた境遇がおいつめられたものであり、悲惨なことが起こったりもし、緊張度は低くない。

 主役のお母さんを演じるヒアム・アッパスは、映画「カザの美容室」(2018年2月27日)に出ていた。室内での女性模様を追いつつ、戦争の悲惨さや不毛さを浮き上がらせるということで、この映画と「カザの美容室」(2018年2月27日)は重なるか。また、老人役のディヤマン・アブー・アッブードは「判決、ふたつの希望」(2018年6月6日)では弁護士を演じていた。

 音楽は、1960年生まれの現代音楽畑ベルギー人で、モンス王音楽立院大学で教鞭も取る作曲家/ピアニストのジャン-リュック・ファシャン。サブ・ローザからリーダー作を出していたりもする彼は、なるほどそれふうの音楽を控えめにつけている。8月22日より、ロードショウ公開が始まる。

▶︎過去の、2本のシリア内戦を扱うドキュメンタリー映画。映画「ラッカは静かに虐殺されている」、映画「ラジオ・コバニ」
https://43142.diarynote.jp/201802141255168037/
▶︎過去の、、映画「カザの美容室」
https://43142.diarynote.jp/201803011223342076/
▶︎過去の、「判決、ふたつの希望」
https://43142.diarynote.jp/201806081019169133/

<今日の、所感>
 戦禍を避けるため家に軟禁状態にある人たちを描いた、この映画を見ながら、これが3月だったら、辛すぎて見ていられなくなるかもと思った。ヘタレなもので。そういえば、1月下旬だか2月初旬だったか、家に入る光TVチャンネルに米国TVドラマ「ザ・ラストシップ」(シーズン5まである)が入っているのを見つけ、一瞬見かけたんだが、<新型細菌に世界中が侵されバースト、ワクチンを持った唯一の米国軍艦が世界を救う>(とっても、雑な要約)という内容が新型コロナ・ウィルス禍のなかではヘヴィすぎて、ぼくは途中で見るのをやめたんだよな。ぼくは薬禍という単語をときに用いるために禍という漢字を使っていたけど、“禍”は普段なかなか使われないながら急に使われるようになった漢字になるのではないだろうか。

 渋谷・映画美学校試写室で、2019年日本/イラン映画を見る。多くの場面がイランで撮られている映画で、その部分は監督(筒井武文)と撮影者(柳島克己)以外のスタッフはイラン人が務めている。その筒井(1957年生まれ)と三船プロダクション出身で北野映画にも関与しているという柳島(1950年生まれ)は東京藝大の映像研究科で教えているようで、脚本を担当したイラン人のナグメ・サミニは何度も来日し藝大で脚本ワークショップを執っている人であるという。イランの映画界は世界的にも評価が高いが、逆に筒井はイランに何度も行っていて、その流れでぜひイランで映画を撮りたいと思い、それが本作に着地したという。まあ、藝大映像セクションのコネクションを利したものであり、エンドロールには文化庁のクレジットも出てくるので、国からお金が引き出された作品なのだろう。

 93分の尺だが、それよりも長く感じた。テヘランに住む母子家庭(娘は大学生)と日本人男性(永瀬正敏)や娘のボーイフレンド(なかなかに女々しい。イラン人男性って、今こういうタイプが少なくないの?)との暗めの重なりがゆったりと綴られるものになっている。

 イランで公開されることを、最初から念頭に置く作品のよう。それゆえではないかもしれないが、監督はとにかくイラン人が見てこれはないっしょという部分はなくそうとイラン人スタッフと密なやり取りをしたというし、日本が舞台となる部分には、イランで一番著名な女優である小林綾子(cf.「おしん」)がイラン側の求めによりキャスティングされている。一方、母親役を演じるマーナズ・アフシャルはイランの国民的な女優だそう。

 ぼくの感性においては他愛ないと言えば他愛ないけど、イランと日本を結ぶ数奇な人間関係の襞を含みを持たせる作法のもと、大人っぽく綴っていく現代劇になっている。9月中旬より公開。

 過剰には入らない、引き気味の音楽もイラン人のハメッド・サベットよる。可もなし、不可もなし。チェロの音色を生かしたものから、ジャパネスクなものまで。後者はオープニング部分と、日本の場面で使われる。そういえば、普段見ない日本のTVドラマを絶賛引きこもり中に、ネット映像プログラムから拾って見たんだけど、音楽がもんぎり型極まりないものがつけられているものがあり、驚きつつ鼻つまみまくり。あれじゃ、よくできた作品でもすんごくC級のものに、真面目に作っていてもギャグに成り下がってしまう。ちなみに、ぼくがTVドラマの劇バンとして評価するのは、たとえば米国ドラマの「メンタリスト」のそれ。シンプル(多くはデスクトップで作っているのでは?)かつ抽象的なんだけど、ストーリーの展開も促すものにもなっており、とても趣味がいいとしか言いようがない。

 ところで、イスラム教のヒジャーブはある意味、強力だナ。ぼく、人の顔を覚えることに難のある人間なので、ヒジャーブを巻いた母親と娘の区別がつきにくく、体型で判断していた。結構、人間って髪型で人を覚える部分もあるのではないか。

▶︎過去の、イランの映画
https://43142.diarynote.jp/201904191325355858/
https://43142.diarynote.jp/201910140916407770/

<今日の、もろもろ>
 上映前に、監督が挨拶。とっても腰の低い、実直そうなおじさんという感じの方。そのまま、試写を座席に座ってご覧になっていたがすごいなナ。だって、もう手直しもできないわけだし、撮影の苦労が蘇るだけで、ぼくだったらそういうことはしたくないのではないか。ミュージシャンも同様の理由で、特に新作については完成後は聞かないという人がよくいる。
 2月以降、少し気遣う生活をしてはいる。電車やエレヴェイターは極力避けるなど、何気に空気感染も疑う対処の仕方もしてきた。それはないと報じられていたように、おそらく新型コロナ・ウイルスのエアロゾル感染はないのだと思う。でなきゃ、電車通勤者が山ほどかからなきゃウソだ。マスクはそういう際の予防にはならないとも聞くし。それでも、外に出るときは、辛いけどマスクつけなきゃとも思う。ぼく不要に咳やくしゃみしちゃうから。今日も、試写中になぜか咳がでた。やっぱり、万が一無症状ながらキャリアである可能性も考えると、人と相対しているとき、パブリックな場にいる際は要マスクと思う。この人だったらうつしうつされてもしょうがないと思える人が相手なら別ですけどね。
 そういえば、ズーム飲み懇親会(ズームを入れたとたん、海外からスパムが来た。偶然だと思うが)で、マスクをしていない人と歩道ですれ違うのはいやという人の発言から、自分は予防に気をつかっていますよいう意思表示のためにマスクは気候が熱くなってもしたほうがいいだろうという結論になったことがあった。

 個と眼を持つ、個性派英国ジャズ・ピアニスト(2013年3月15日)が昨日、亡くなった。享年、72。奥さんの女優もしたジュリー・ドリスコール(若い頃の写真は綺麗)は同い年で、まだ存命のはず。
▶︎過去の、キース・ティペット
https://43142.diarynote.jp/201303211554207854/

 朝10時からの試写に行き、2018年ロシア/フランス映画を見る。六本木・キノフィルムズ試写室。予約制が取られ、2席おきに座れるようになっていた。時間が早いせいもあり、ガラガラではありましたが。

 1980年代初頭、ソ連のレニングラード(現サンクトペテルグルグロベルク)で切実にロックをしていた実在の面々を材料に置くもので、監督はロシア人芸術家のキリル・セレブレンニコフ。彼は政府から割り当てられた予算を横領した罪で自宅軟禁を強いられてしまい、そうしたなかこの映画を作ったという。

 政府の監視下のもとロック楽曲発表(歌詞は検閲あり)や公演が行われていた時代の青春群像を描いた映画。基本当時の感じを出すためにモノクロームで撮られているが、ロック=反抗という感じで政府と戦うソ連ロッカーの姿を描くものではなく、西側のロックに憧れ、大きく呼吸しようとしていた青年たちを、ちょい甘酸っぱく描く。先にちらり書いたようにその際、当時を代表するロック・ミュージシャンだったズーバークのマイク・ナウメンコと奥さんのナタージャ、そして彼らに懐き、後にキノーというバンドを組んでもっとビッグな存在となるヴィオクトル・ツォイが主役となる。ナウメンコは1991年に、ツォイは1990年に亡くなっている。後者が交通事故で亡くなったときは、大騒ぎだったようだ。

 T・レックスやルー・ルード、イギー・ポップ、トーキング・ヘッズらの音楽も使われるが、その際はグラフィックも加えられたりもし、超質の高いPVみたいな映像になり、キリル・セレブレンニコフの腕はかなり確か。ほんの一部のカラー映像の使用も同様だ。

 マイク・ナウメンコは西側のロック曲をまんまロシア語にして歌う、悪い言葉で言えばパクリ大王だったようだが、だがなるほど劇中で使われるズーパークの音楽は格好いい。ひと頃の、プライマル・スクリーム(2000年2月11日、2002年11月16日、2005年7月31日、2009年1月28日、2011年8月12日、2013年11月6日)みたいと書きたくなるか。一方、ライヴでも12弦のアコースティック・ギターを持つヴィオクトル・ツォイの曲はフォークぽく、ぼくは好きではないがそれはぼくの偏狭さゆえであり、多くに人は気にならならいだろう。

 しかし、ソ連のロック史に今もしっかり名を残すというヴィクトル・ツォイが高麗人とロシア人のミックスであり、その役をドイツ生まれで、NYやロンドンで演劇を学び、2009年以降はソウルに住むというユ・テオが演じている。テオはロシアとの接点はないと思われるが、門外漢が接する分には普通にロシア語で演技していて驚く。出演者たちは総じて魅力的だ。

 ところで、西側ロックの耽溺を示す素材として部屋の壁ににいろんなロック・アルバムのカヴァーが飾られるなか、アフリカン・アメリカンのジャケット・カヴァーの表/裏が1作だけ飾られている。それ、アイク&ティナ・ターナーの『Outta Season 』(Blue Thumb、1969年)。そんなロシア発の音楽映画は7月24日、ヒューマンシネマトラスト渋谷他で公開。後援として、ロシアの公的機関の名前が入っている。

▶︎過去の、サンクトペテルブルクのグループ
https://43142.diarynote.jp/?day=20180628
▶過去の、プライマル・スクリーム
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-2.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20050731
http://43142.diarynote.jp/200901290803429732/ これ以降、ガャドガン加入
http://43142.diarynote.jp/201108131129381378/
http://43142.diarynote.jp/201311071343585896/

<今日の、社会復帰?>
 3月中旬以降、初めて電車に乗る。渋谷に出たことはあったが、歩いて往復しているからな。今日は、天気の良かった日。9時半ごろはまだ電車が混んでいるので、渋谷まで歩こうと思っていたのだが、日差しの強さに負けてバスに乗ってしまう。座れた。久しぶりの試写会のあとは知人のお店に行きご飯を食べ、その後は久しぶりに髪の毛を切る。なかなかのロン毛になっちゃっていました。いいぢゃんという人もいて、まあこれもアリかと思っていたが、さすが夏は暑いしナ。それに、サザン・ロッカーの気分になって、あんまし格好や体型に気を使わなくなりそうなのが、怖かった。3時間強にわたるカット&脱色&カラー後、馴染みの店をはしごする。やっぱり、楽しいィ。
 しかし、新型コロナ・ウィルス禍のおり、ほぼ毎晩日暮れ後は出かけていた自分が、引きこもり体質であるのを悟った。家では飲まない(飲みたくならない)ので、お酒もほぼ飲んでいないのだが、ストレスはそんなに感じていないものなー。家でちんたらしているのも楽でいいなとマジ思っちゃった。取材も、東京、奄美大島、ニューオーリンズ、マンチェスター、アルペンなどいろんなところに住む人とやっているが、電話かメールですんでしまっているしなー。

 オークランドの4姉妹コーラス・グループの一員であり、1人だけ独立しモータウンからソロ・アーティストとして立ち、成功を収めた三女のボニー・ポインターが心停止で亡くなった。まだ、60代であったのか。
 初期のブルー・サム時代はレトロな佇まいも前に出した、技巧に富むな総花的ジャズ・コーラス・グループという感じもあったか。だが、もうファンキー&タイトなデビュー・シングル「イエス・ウィ・キャン・キャン」(1973年デビュー作のオープナーでもあった)にすでに現れていたようになんでもありで、彼女たちはどんどんソウル色を強めていき、その流れでキャラが立っていたボニーは独立した……。確か初来日は同じブルー・サム所属ということで、ザ・クルセイダーズ(2005年3月8日)とのダブル・ビルだったような気もするが。1980年代だったか90年代を回ってからだったか、ザ・ポインター・シスターズにインタヴューしているはずだが、もちろん3人組になってのことなので、ボニーとは会っていない。
 ポインターズというと、すぐに思い出さずにはいられないのが、ベイ・エリアのプロデューサーであるデイヴィッド・ルビンソン(1942年生まれ)。彼は初期4作品を手がけているが、彼は彼女たちに本当に細かいディレクションを出し、成功に導いたと言われる。そんなルビンソンは同地のまさに顔役といった感じで、モビー・グレイプ、タージ・マハール(2000年10月12日、2007年4月6日)、コールド・ブラッド(2007年4月15日)、サンタナ(2013年3月12日)、タワー・オブ・パワー(1999年11月4日、2002年8月11日、2004年1月19日、2008年5月18日、2008年5月19日、2010年5月11日、2011年3月10日、2012年9月9日、2014年5月6日、2016年7月10日、2018年9月4日)、ハービー・ハンコック(2000年3月14日、2001年12月27日、2003年8月23日、2005年8月21日、2012年3月3日、2014年9月7日、2015年9月6日、2016年9月3日、2018年9月1日。彼もザ・ヘッドハンターズのころはシスコ在住だった)、エルヴィン・ビショップ(2017年7月31日)ら、当時ベイ・エリアに住むアーティストをいろいろ手がけ(1970年前後はビル・グレアムと近い位置にいた)、セールスも得た。ヒット・プロデューサーゆえ一時はCBSコロンビアと太い関係を持ち、その出資を得て1976年にはサンフランシスコ1のスタジオと謳われたザ・オウトマット・スタジオを持った。彼はナラダ・マイケル・ウォルデンやウェイン・ショーターらのマネイジメントもしたりもしたが、音楽の仕事からは完全引退し、2009年以降はフランスに住んでいる。

▶過去の、ザ・クルセイダーズ
http://43142.diarynote.jp/200503120546520000/
▶︎過去の、コールド・ブラッド
https://43142.diarynote.jp/200704251221190000/
▶︎過去の、タージ・マハール
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-10.htm
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶︎過去の、サンタナ
https://43142.diarynote.jp/201303211531189619/
▶過去の、タワー・オブ・パワー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/framepagelive.htm
http://43142.diarynote.jp/200401190000000000/
http://43142.diarynote.jp/200805201629180000/
http://43142.diarynote.jp/200805201631280000/
http://43142.diarynote.jp/201005121331016518/
http://43142.diarynote.jp/201103171348262145/
http://43142.diarynote.jp/?day=20120909
http://43142.diarynote.jp/201405071616599721/
http://43142.diarynote.jp/201607111518214717/
https://43142.diarynote.jp/201809071706397376/
▶過去の、ハービー・ハンコック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-3.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-8.htm
http://43142.diarynote.jp/200508230545510000/
http://43142.diarynote.jp/201203062005542291/
http://43142.diarynote.jp/201409100930206205/
http://43142.diarynote.jp/201509220833541918/
http://43142.diarynote.jp/?day=20160903/
https://43142.diarynote.jp/201809051532324111/
▶︎過去の、エルヴィン・ビショップ
https://43142.diarynote.jp/201708081443281390/
▶︎過去の、デイヴィッド・ルビンソンが出てくる映画
https://43142.diarynote.jp/201611121006546827/

 英国人プロデューサー/ソングライター/アーティストのルパート・ハインが癌でお亡くなりになった。72歳、少し早すぎる死であるかな。
 ケヴィン・エアーズ、キャメル、カフェ・ジャック、ザ・フィックス、ザ・ウォーター・ボーイズ(2015年4月6日 )、ハワード・ジョーンズ(2012年2月6日)、ラッシュ、スザンヌ・ヴェガ(2008年1月24日、2012年1月23日、2014年4月7日、2018年8月10日)など、まずはプロデューサーとしての仕事が思い出されるか。ティナ・ターナーがもう一度スターの座に返り咲いた大ヒット作『プライヴェイト・ダンサー』(キャピトル、1984年)の部分プロデュースもするなど、ダンス/ビート方面に対する冴えも持った。また、彼は奏者としてはキーボードの人だが、彼はなぜかロバート・パーマーと仲がよく、鍵盤で参加したパーマーの『プライド』(アイランド、1983年)は当時一番イケてるシンセサイザー音が入ったアルバムなんてことも言われましたね。
 初ソロ作『Pick Up A Bone』(Purple,1971年)は元祖ネオアコ表現と言えそうな仕上がり? 当初から、彼は弦楽器/菅楽器音を効果的に用いていた。1980年代に入ると機材/鍵盤使いの妙も通した作風を取るが、甘酸っぱくも優男なメロディ感覚/風情は通底しようか。そんな彼は当然キカイにも強く、晩年も音楽ソフトの開発などにも関わっていたよう。彼のホームページには、環境保護論者という肩書きも載せられている。なるほど、彼が大々的に仕切った『One World One Voice』(Virgin,1990年)はいろんなスター・ミュージシャンが山ほど集ったワールド傾向にもある作品だったが、それは環境問題への興味を喚起しようとするプロジェクト作だった。
 なんかこれを書いていて、英国ロックの襞をいろいろと築いた偉大な人であるなと、どんどん感じてきてしまった。

▶︎過去の、ハワード・ジョーンズ
https://43142.diarynote.jp/201202091203275169/
▶︎過去の、ウォーターボーイズ
https://43142.diarynote.jp/201504071657008525/
▶過去の、スザンヌ・ヴェガ
http://43142.diarynote.jp/200801280000120000/
http://43142.diarynote.jp/201201271243541443/
http://43142.diarynote.jp/201404081332394740/
https://43142.diarynote.jp/201808120915451094/
 マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』(コロムビア、1958年)をはじめ、ハード・バップ期の最たるドラマーであるジミー・コブが肺がんのため、マンハッタンの自宅でお亡くなりになった。ダイナ・ワシントン、キャノンボール・アダリー、ジョン・コルトレーン、ウェス・モンゴメリー、他。コブと聞くと、なんとなくピアノのウィントン・ケリーとベースのポール・チェンバースという単位を思い浮かべもするか。基本、サポート大王。だが、21世紀に入るとリーダーとしていくつものアルバムをリリース。この2月に、彼の医療費を捻出するオンライン募金が始められたことが告知されてもいた。<From Lady Day(ビリー・ホリデイ) and Dinah Washington to Bird(チャーリー・パーカー) and Miles - straight through - you always brought it, dear friend. RIP>。と、投稿したのはチャールズ・ロイドだ。なお、若いころの写真を見ると、コブはイケ面だ。

▶︎︎過去の、チャールス・ロイド
http://43142.diarynote.jp/200505141717440000/
http://43142.diarynote.jp/200804081928430000/
http://43142.diarynote.jp/201301151731112021/
http://43142.diarynote.jp/201701131141476377/
https://43142.diarynote.jp/201701141241544133/
https://43142.diarynote.jp/201909031830055314/
https://43142.diarynote.jp/201909071014576603/

 ギニアの有名なグリオの家系マンディンカに生まれたシンガー/コラ奏者の、モリ・カンテ(2006年8月4日)が、首都コナクリの病院で逝去した。カンテは慢性疾患に苦しみ、度々フランスで治療を受けていたものの、新型コロナ・ウィルスの流行によりそれが叶わなくなってしまっていた。が、急な死であっという。享年、70歳。

 7歳からマリで音楽修行を始め、20歳ちょいでサリフ・ケイタが在籍したグループに加わり、その2年後にケイタが独立したあとはそのフロントに立った。ソロとしては1982年にアイヴォリー・コーストのレーベルからセルフ・タイトルのアルバムを出し、その後は仏バークレーを中心にからいろいろな財産を背負う今のアフリカを伝えるプロダクツを送出。1988年に「イエケ・イエケ」が欧州で100万枚を超える大ヒットとなり、彼はワールド・ミュージックのブームを作る中心人物となった。張りのある歌唱と優美なコラ演奏はイスラム教徒であり、その流れの曲も歌った。

▶︎過去の、モリ・カンテ
https://43142.diarynote.jp/200608051211470000/

 また、レゲエ・ダンスホールの黄金期を支えた名プロデューサーのボビー“ディジタル”ディクソンも、腎臓病でお亡くなりになっている。エンジニアからキャリアを始め、シャバ・ランクス、シャインヘッド、ビーニー・マン、ブジュ・バンドン、ルチアーノ(2006年8月19日)他、いろんな人を手がけた。妻と子供3人、孫2人がいるそうだが、ジャマイカ人である彼はちゃんと1人と結婚した人なのか。ウータン・クランのRZAも別名でボビー・ディジタルと名乗るが、彼とは関係がない(はず)。

▶︎過去の、ルチアーノ
https://43142.diarynote.jp/200608201821080000/

 わー、ブルース・マンのラッキー・ピータソンが55歳でお亡くなりになった。ニューヨーク州バッファローの生まれで、お父さんはThe Governor’s Innとうナイト・クラブを経営してた。ちょこんとハモンド・オルガンの前に座る写真がカヴァーに使われた『Our Future: 5 Year Old Lucky Peterson』(Today,1971)でデヴュー。高校は地元の芸術高校に通い、フレンチ・ホルンなども吹いたらしい。シカゴのアリゲイター・レーベルを経て、1990年代に入るとフランスのポリグラムが彼のプロダクツ群を送り出したこともあり、欧州でも広く活動。21世紀に入るとフランスのドリフュス・ジャズや英国のJSPなどからアルバムをリリース。だが、なにもないときはテキサス州ダラスでに住んでおり、家で病気に伏せっていたところ、危篤で病院に運ばれたという。オルガンもギターもいけて、いい塩梅で歌った人。オールマイティ型の、いろんな勘所を持つ現代ブルース・マンだった。ぼくがパリで見たとき(2016年4月10日)は電気ピアノを弾きながらゴスペル崩しの美味しいパフォーマンスを、彼は見せてくれた。昨年の芸能生活50周年を祝う『50: Just Warming Up!』(Jazz Village,2019 )はもう充実好盤で、いい音楽人生だったと思われるのは何よりだ。

▶︎過去の、ラッキー・ピーターソン
https://43142.diarynote.jp/201604190912403018/


 なお、訃報を見逃していた人に2人触れておく。1人は1972年生まれの英国人ラッパーのタイ(2003年9月26日)。コロナ・ウィルスの治療を受けていて、5月7日に47後で歳でなくなった。
 また、20歳ごろからニューヨークのシーンで活動してきた、左利き用のストラトキャスターを逆さに構えたヘンドリックス耽溺ギタリストのロニー・ドレイトン(1953年5月19日〜2020年2月7日)の逝去の報を見逃したのは痛恨の極み。エドウィン・バードソン、ロイ・エアーズ、菊地雅章、ビル・ラズウェルのマテリアル、ノーナ・ヘンドリックス、デイヴィッド・シルヴィアン、坂本龍一、ディーファンク、カシーフ、フォンジー・ソーントン、ジャマラディーン・タクーマ、ミシェル・ンデゲオチェロ、ザ・ファミリー・スタンド、24−7スパイズ、アンジェリーク・キジョー、アリシア・キーズ、などなど。リーダー作はなし。だが、はみ出したギター演奏は不滅だ。なお、彼は息子ドノヴァンが殺人罪で投獄されてしまい、2010年前後の5年間にわたり無罪を主張。戦いのすえ、釈放を勝ち得た。その際、リヴィング・カラーら所縁のミュージシャンたちが資金援助の活動をした。

▶︎過去の、タイ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-9.htm トニー・アレン


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