ザ・スリー・ディグリーズ
2009年12月1日 音楽 師走だァ。それについて、感想を挟むのはヤメよう。むなしくなる部分もあるので。今年はいつもより忘年会のたぐいの誘いが多いな......。年の瀬、遊びも仕事もスマートにこなさなきゃ。で、さっそくプチ忘年会気分で飲んだ後に、丸の内・コットンクラブ(セカンド・ショウ)。
フィラデルフィア・ソウルの大御所の女性3人組コーラス・グループの出演。70年代の全盛期は当然の事、近年もけっこうやってきているはずだが、ぼくは今回初めて見るし、オリジナルのシンガーはいるのかとか全然気にもとめずに行く。二人はオリジナルに近く、もう一人もここ20年近くかかわっているようだが、なんにせよ、ちゃんと日々営業をやっているなら、ぜったい変な訳はないしネ。バンドは2キーボード、ギター、ベース、ドラムという編成で、みんな黒一色の格好。ながら、ベーシスト(途中で、ちょい歌ったりも)だけは縞のシャツを着ていて、彼はミュージカル・ディレクターとか。
フィリー・ソウルって、バブリー・ソウルという言い方も少しできる? オーケストレイションもばっちり決めてゴーシャスかつメロウに行こうとしたその表現は、60年代中期以降に意気高揚していった都市型米国黒人文化の最後の粋のようなものだったのかもしれない。そのハウス大型バンドはM.F.S.B.(Mother,Father,Sister,Brotherの略)といった。で、そんなノリに、スリー・ディグリーズは明解なお色気や官能をまぶすことで人気を得て、あっと驚くぐらい日本でも(本国を超えるほどに?)人気を得たはずだ。当時、ぼくはイキがったロック小僧だったから、歌謡曲界ノリも感じさせた彼女たちのことはほぼスルーしていたけど。
そんな彼女たちは現在いろいろカヴァーもやるという話は聞いていたが、オープナーとクローザーはE.W.&F.(2006年1月17日)の曲やんけ。そういえば、2曲目にやったのはマイケル・ジャクソンの「ワナ・ビー・スターティン・サムシン」。今年、来日アーティストがジャクソン曲をやるのを何度きいたろう? 09年というのは、そういう年であったんだよなあ。なんで、「ソウル・トレイン」のテーマ曲はやらねえんだァとか、いろいろツっこみ所はあるのだが、なんか楽しかった。フぁーっていう感じの、ウィスパー気味のいい感じのコーラスは彼女たちの専売特許(だよな?)でウフフ。主役の3人はみんな胴は太めだが、足首は細くて綺麗。それを何度も確認する自分を認知して、オレは足首フェチなのかとふと思う。3人はマイクを手に持つときは、マイク・スタンドをさりげなく低く縮ませる。それ、スタンドで顔や姿が隠れないようにいう配慮か。それも、シュービズの一つの流儀なり。
繰り返しになるが、70年台中期ぐらいはかなり日本の一般家庭に入り、日本語曲もいろいろ吹き込んだよう。知り合いは、ユーチューブにキャンディーズの曲を彼女たちが日本語で歌っている映像がアップされていると言っていた。この晩も1曲は日本語で歌ったはずだが、<海外アーティストが日本語で歌うこと、その歴史>、そんなのを誰かまとめないか。日本の洋楽享受側面史としてそれはアリだと思うが。ともあれ、さすが日本慣れしていて、彼女たちの日本語のヴォキャブラリーはすごーく豊富。慣れた感じで、客をいじったりも。
なんか、思っていた以上に盛り上がる。で、そのあとショット・バーで軽く飲んで終電気味で素直に帰宅するはずが、どんどん楽しくなっちゃって銀座のほうに流れる。結局、朝まで。あー。後で、ほとんど記憶にない写メが送られてきて、ビビ√る。おいおい。
フィラデルフィア・ソウルの大御所の女性3人組コーラス・グループの出演。70年代の全盛期は当然の事、近年もけっこうやってきているはずだが、ぼくは今回初めて見るし、オリジナルのシンガーはいるのかとか全然気にもとめずに行く。二人はオリジナルに近く、もう一人もここ20年近くかかわっているようだが、なんにせよ、ちゃんと日々営業をやっているなら、ぜったい変な訳はないしネ。バンドは2キーボード、ギター、ベース、ドラムという編成で、みんな黒一色の格好。ながら、ベーシスト(途中で、ちょい歌ったりも)だけは縞のシャツを着ていて、彼はミュージカル・ディレクターとか。
フィリー・ソウルって、バブリー・ソウルという言い方も少しできる? オーケストレイションもばっちり決めてゴーシャスかつメロウに行こうとしたその表現は、60年代中期以降に意気高揚していった都市型米国黒人文化の最後の粋のようなものだったのかもしれない。そのハウス大型バンドはM.F.S.B.(Mother,Father,Sister,Brotherの略)といった。で、そんなノリに、スリー・ディグリーズは明解なお色気や官能をまぶすことで人気を得て、あっと驚くぐらい日本でも(本国を超えるほどに?)人気を得たはずだ。当時、ぼくはイキがったロック小僧だったから、歌謡曲界ノリも感じさせた彼女たちのことはほぼスルーしていたけど。
そんな彼女たちは現在いろいろカヴァーもやるという話は聞いていたが、オープナーとクローザーはE.W.&F.(2006年1月17日)の曲やんけ。そういえば、2曲目にやったのはマイケル・ジャクソンの「ワナ・ビー・スターティン・サムシン」。今年、来日アーティストがジャクソン曲をやるのを何度きいたろう? 09年というのは、そういう年であったんだよなあ。なんで、「ソウル・トレイン」のテーマ曲はやらねえんだァとか、いろいろツっこみ所はあるのだが、なんか楽しかった。フぁーっていう感じの、ウィスパー気味のいい感じのコーラスは彼女たちの専売特許(だよな?)でウフフ。主役の3人はみんな胴は太めだが、足首は細くて綺麗。それを何度も確認する自分を認知して、オレは足首フェチなのかとふと思う。3人はマイクを手に持つときは、マイク・スタンドをさりげなく低く縮ませる。それ、スタンドで顔や姿が隠れないようにいう配慮か。それも、シュービズの一つの流儀なり。
繰り返しになるが、70年台中期ぐらいはかなり日本の一般家庭に入り、日本語曲もいろいろ吹き込んだよう。知り合いは、ユーチューブにキャンディーズの曲を彼女たちが日本語で歌っている映像がアップされていると言っていた。この晩も1曲は日本語で歌ったはずだが、<海外アーティストが日本語で歌うこと、その歴史>、そんなのを誰かまとめないか。日本の洋楽享受側面史としてそれはアリだと思うが。ともあれ、さすが日本慣れしていて、彼女たちの日本語のヴォキャブラリーはすごーく豊富。慣れた感じで、客をいじったりも。
なんか、思っていた以上に盛り上がる。で、そのあとショット・バーで軽く飲んで終電気味で素直に帰宅するはずが、どんどん楽しくなっちゃって銀座のほうに流れる。結局、朝まで。あー。後で、ほとんど記憶にない写メが送られてきて、ビビ√る。おいおい。
ケルティック・クリスマス
2009年12月6日 音楽 アイルランドのアルタン(2000年5月21日、2002年9月1日、2004年12月17日、2005年3月21日)とスコットランドのカトリオーナ・マッケイ&クリス・スタウト(2005年2月1日、2008年11月9日)、2組のケルト音楽系担い手が出演するもの。いわきアリオス・中劇場。新しい、とっても立派なホールで、聞きやすい。出演者たちもこりゃうれしい、張り切んなきゃという気持ちになっちゃうだろうな。いわきは、実家があるところだが、おそらくちゃんとしたケルト系のミュージシャンが出る公演が開かれたのは初めてのことではないか(なためもあってか、通訳をちゃんと付けてアーティストのMCを訳していた。それ、別に公演の流れを妨げないし、ぼくにとってもありがたかった)。いや、東京だって、ちゃんとアイリッシュ・ミュージックの公演が開かれるようになって、15年ほどだろう。ぼくの、アリッシュ・ミュージック歴も同様だ。
先発はスコティッシュ・ハープとフィドルのデュオのマッケイ&スタウト。二人はちゃんと音楽大学を出たうえで現在進行形のトラッド・ミュージックをやることを活動の柱に据えているわけだが、今回の実演に触れて思うのは、やはり技量が長けているということ。もう、切れがあって、両者が微妙な綾を作る感覚とともに丁々発止していく様は圧巻。とくに今回のパフォーマンスはよりプレイヤーとしての野望を求める方向にあって、そのぶん難解なほうに行ってしまっているナと感じなくはないけれど。カトリオーナ(けっこう、派手なミニのドレスを着ていました。彼女はオフでも胸の谷間を出す服をよく着ていたりする)は完全にカスタム・メイドのハープをものにしているようで、あれれどういう感じで音が出ているのかなと思わせられるところも多々。音質がハープ本来の優美な響きから離れる部分があるのは無責任な聞き手にとっては痛し痒しだが、それもまた過去/伝統から一歩飛び出ようとする彼女にとっての通行手形の一つだったりするのだろう。そんな彼女は近年、電気効果経由のアブストラクト・ミュージック作りのほうにも邁進していて、そこから持ち込まれている手触り/方向性も今回の演奏にはあったのかな(そっちのほうのユニットであるストレンジ・レインボウはすでに2枚目を作ったとか)。でも、やっぱりマッケイ作のたゆたふ超美曲「スワンLK243」はやってほしかった。と、思っていたら、終演後にホワイエでその曲をアコーディオンと生ギターで演奏した日本人がいて、マッケイはそのことにとても感動していた。蛇足だが、過剰にフットボール愛好者ではないが、スタウトの贔屓のチームは(中村俊輔がいた)セルティックのライヴァルのダンディー・ユナイテッドとか。
休憩を挟んで、若い頃はお綺麗だったんでしょうねと思わせる紅一点のマレード・ニ・ウィニーを中央に置く5人組、アルタンの実演。トラッド曲/流儀に新しい風や気持ちを吹き込んで紐解き直すというのは、ケルト系コンテンポラリー・トラッド・グループにおしなべて言えることだが、アルタンはそうした行き方をもっとも無理なく広げて、清風と滋味を獲得しているインターナショナルなグループと言えるだろうか(来年は1月にパリ公演を行い、3月は各都市を回る米国ツアーを行う)。反復の快感を持つインストのダンス・ナンバーと、地元のゲール語によるマレード・ニ・ウィニーの清楚な歌を前に出したスロウを交互にやるような感じでショウは進む。ウィニーはその歌唱に焦点があたりがちだが、改めてフィドラーとしても、かなりイケる事をおおいに認知。しかし、ウィニー(今年、ちょうど50歳)の普段の気安いお茶目なキャラとあの高潔さをたっぷり持つパフォーマンスの落差はすごい。お酒が大好きなアイリッシュ音楽家の中でも彼女たちはトップの酒量を誇るというし、公演後の飲み会になるとウィニーはトラッド曲やザ・ビートルズ曲をアカペラで毎度のごとく歌いだしちゃう。とか、そんなコテコテのオフの部分と深みあるの音楽家との落差がなんかうれしく、人間が生活とともに胸を張ってやっている音楽、生理的にとても幸せで贅沢な音楽という所感を、ぼくはアルタンには多大に得てしまうのだ。アンコールではもちろん2組の出演者が一緒に演奏。それも、トラッド系ミュージシャンのいいところ、ですね。
「いわきでアイリッシュ・アーティストが演奏するのは初めてのことというのは聞いていたけど、ほんと素晴らしいお客さんだったと思う。反応も良かったし、立ち上がってもくれたし。ホールも綺麗で立派で、照明もとっても良かったし、完璧だったと思うわ。私たちの活動においてヴァージン・テリトリーというのは常にあるわけだけど、さすがに(アイリッシュ公演が初となる)いわきの公演前には少し緊張したのよ。でも、やりはじめたら、熱心に聞いてくれ、すぐに反応も返ってきて、どこも変わらないんだと思えたし、こんなお客さんたちにとって初めてのアーティストとなれるのは光栄だと思った」(ウィニー)
「前回日本に来た2005年のときはアイルランド大統領の訪日に同行したわけだけど、確かに音楽大使みたいな位置にいるなとは感じるよね。でも、今回は感慨深かった。もし、僕たちの公演に触れてフィドルをやりたいという子供がいわきで出てきたら、もう最高だな」(フィドルのキーラン・トゥーリッシュ)
と、これらは後日のインタヴューでの発言。ウィニーはアイルランドの地元ドニゴールでパブを持っているのは前に聞いて知っていたが、それは売却してしまったとか。同じドニゴールでもウィニーの住む地域はいまだにゲール語で日常会話をするが、トゥーリッシュの住むあたりは普通に英語を用いるそう。6歳になるウィニーの娘はゲール後で話しかけると、意地でも英語で返事をしてくるという。が、彼女もフィドルをたしなむ。なお、ゲール語と英語は全く異なり、それと比べると、同じ語源を持つイタリア語とスペイン語のほうが全然近い。そんな話になったとき、ゲール語はもともと東洋のほうの言葉から来たという話もあるし、英語よりまだ語感は日本語に近いかも、とウィニーは言い出す。確かに、ときにその歌はいろいろと“空耳”ゴコロをくすぐられるしなあ。なるほど、そりゃ初めて接する聞き手もするりと入り込めるはずだ。
先発はスコティッシュ・ハープとフィドルのデュオのマッケイ&スタウト。二人はちゃんと音楽大学を出たうえで現在進行形のトラッド・ミュージックをやることを活動の柱に据えているわけだが、今回の実演に触れて思うのは、やはり技量が長けているということ。もう、切れがあって、両者が微妙な綾を作る感覚とともに丁々発止していく様は圧巻。とくに今回のパフォーマンスはよりプレイヤーとしての野望を求める方向にあって、そのぶん難解なほうに行ってしまっているナと感じなくはないけれど。カトリオーナ(けっこう、派手なミニのドレスを着ていました。彼女はオフでも胸の谷間を出す服をよく着ていたりする)は完全にカスタム・メイドのハープをものにしているようで、あれれどういう感じで音が出ているのかなと思わせられるところも多々。音質がハープ本来の優美な響きから離れる部分があるのは無責任な聞き手にとっては痛し痒しだが、それもまた過去/伝統から一歩飛び出ようとする彼女にとっての通行手形の一つだったりするのだろう。そんな彼女は近年、電気効果経由のアブストラクト・ミュージック作りのほうにも邁進していて、そこから持ち込まれている手触り/方向性も今回の演奏にはあったのかな(そっちのほうのユニットであるストレンジ・レインボウはすでに2枚目を作ったとか)。でも、やっぱりマッケイ作のたゆたふ超美曲「スワンLK243」はやってほしかった。と、思っていたら、終演後にホワイエでその曲をアコーディオンと生ギターで演奏した日本人がいて、マッケイはそのことにとても感動していた。蛇足だが、過剰にフットボール愛好者ではないが、スタウトの贔屓のチームは(中村俊輔がいた)セルティックのライヴァルのダンディー・ユナイテッドとか。
休憩を挟んで、若い頃はお綺麗だったんでしょうねと思わせる紅一点のマレード・ニ・ウィニーを中央に置く5人組、アルタンの実演。トラッド曲/流儀に新しい風や気持ちを吹き込んで紐解き直すというのは、ケルト系コンテンポラリー・トラッド・グループにおしなべて言えることだが、アルタンはそうした行き方をもっとも無理なく広げて、清風と滋味を獲得しているインターナショナルなグループと言えるだろうか(来年は1月にパリ公演を行い、3月は各都市を回る米国ツアーを行う)。反復の快感を持つインストのダンス・ナンバーと、地元のゲール語によるマレード・ニ・ウィニーの清楚な歌を前に出したスロウを交互にやるような感じでショウは進む。ウィニーはその歌唱に焦点があたりがちだが、改めてフィドラーとしても、かなりイケる事をおおいに認知。しかし、ウィニー(今年、ちょうど50歳)の普段の気安いお茶目なキャラとあの高潔さをたっぷり持つパフォーマンスの落差はすごい。お酒が大好きなアイリッシュ音楽家の中でも彼女たちはトップの酒量を誇るというし、公演後の飲み会になるとウィニーはトラッド曲やザ・ビートルズ曲をアカペラで毎度のごとく歌いだしちゃう。とか、そんなコテコテのオフの部分と深みあるの音楽家との落差がなんかうれしく、人間が生活とともに胸を張ってやっている音楽、生理的にとても幸せで贅沢な音楽という所感を、ぼくはアルタンには多大に得てしまうのだ。アンコールではもちろん2組の出演者が一緒に演奏。それも、トラッド系ミュージシャンのいいところ、ですね。
「いわきでアイリッシュ・アーティストが演奏するのは初めてのことというのは聞いていたけど、ほんと素晴らしいお客さんだったと思う。反応も良かったし、立ち上がってもくれたし。ホールも綺麗で立派で、照明もとっても良かったし、完璧だったと思うわ。私たちの活動においてヴァージン・テリトリーというのは常にあるわけだけど、さすがに(アイリッシュ公演が初となる)いわきの公演前には少し緊張したのよ。でも、やりはじめたら、熱心に聞いてくれ、すぐに反応も返ってきて、どこも変わらないんだと思えたし、こんなお客さんたちにとって初めてのアーティストとなれるのは光栄だと思った」(ウィニー)
「前回日本に来た2005年のときはアイルランド大統領の訪日に同行したわけだけど、確かに音楽大使みたいな位置にいるなとは感じるよね。でも、今回は感慨深かった。もし、僕たちの公演に触れてフィドルをやりたいという子供がいわきで出てきたら、もう最高だな」(フィドルのキーラン・トゥーリッシュ)
と、これらは後日のインタヴューでの発言。ウィニーはアイルランドの地元ドニゴールでパブを持っているのは前に聞いて知っていたが、それは売却してしまったとか。同じドニゴールでもウィニーの住む地域はいまだにゲール語で日常会話をするが、トゥーリッシュの住むあたりは普通に英語を用いるそう。6歳になるウィニーの娘はゲール後で話しかけると、意地でも英語で返事をしてくるという。が、彼女もフィドルをたしなむ。なお、ゲール語と英語は全く異なり、それと比べると、同じ語源を持つイタリア語とスペイン語のほうが全然近い。そんな話になったとき、ゲール語はもともと東洋のほうの言葉から来たという話もあるし、英語よりまだ語感は日本語に近いかも、とウィニーは言い出す。確かに、ときにその歌はいろいろと“空耳”ゴコロをくすぐられるしなあ。なるほど、そりゃ初めて接する聞き手もするりと入り込めるはずだ。
ギジェルモ・アンダーソン
2009年12月9日 音楽 ホンジュラスと聞いて、何を思い浮かべる? 漠然と、政情がとっても不安定な中米の小国と思う人は少なくないか。今年もクーデターがあったようだが、しかしながら、同国は久しぶりに2010年のサッカーW杯の出場権を獲得。サッカー愛好者だったら、その事実でその国名を頭に刻んでいる人もいるだろう。ギジェルモ・アンダーソンはホンジュラスの人気/重要アーティストだそうで、その来日公演が青山・草月ホールであった。
冒頭に、ホンジュラスという国の事を紹介する映像が流される。それは断片的なものではあるだろうが、ありがたい。同国にはガリフナと呼ばれるアフリカ起源のダンス・ミュージックがあることを、ぼくは初めて知った。というか、ぼくはホンジュラスの音楽についてまったく知らないんだよなあ。というのはともかく、ラ・セイバーナというバンドを伴ってのライヴ・パフォーマンス。電気ギター、キーボード、ベース、ドラム、打楽器、ダンサー/打楽器、女性コーラス/ダンサーという布陣だったか。
アンダーソンさんは笑顔の、けっこう天真爛漫さを与えるおじさん。生ギターの弾き語りから始まったが、すぐにバンドが入り、その構成員は西欧コンテンポラリー音楽のマナーを持つことが分かる、しっかりしたカラフルな演奏を聞かせる。で、アンダーソンはそれを乗りこなしつつ、ちゃんと根と繋がった歌を開いてくわけで、いいタレントじゃんと素直に思わせられた。事前に見た紹介文にはジルベルト・ジルみたいなスケールを持つというような記述があったが、なるほど外れてはいない。もろなレゲエ調もあったし、地に足をつけつつ、かなり末広がり。パーカッシヴな曲はガリフナを下敷きにするのだろうか。
ステージ背後のスクリーンにはときに歌詞やMCの訳が映し出されたりもする。何気に、理解の助けにはなる。詳細はすっかり忘れたが、僕は難破船の漁師みたいな曲があり、美しい君にはまって動けなくなった、というような他愛ない歌詞に、ぼくはニッコリ。しかし、このフルの編成による来日ライヴ、どういう経緯で実現したのだろう。とても生理的に贅沢な実演、という気持ちもしっかり持ちました。
冒頭に、ホンジュラスという国の事を紹介する映像が流される。それは断片的なものではあるだろうが、ありがたい。同国にはガリフナと呼ばれるアフリカ起源のダンス・ミュージックがあることを、ぼくは初めて知った。というか、ぼくはホンジュラスの音楽についてまったく知らないんだよなあ。というのはともかく、ラ・セイバーナというバンドを伴ってのライヴ・パフォーマンス。電気ギター、キーボード、ベース、ドラム、打楽器、ダンサー/打楽器、女性コーラス/ダンサーという布陣だったか。
アンダーソンさんは笑顔の、けっこう天真爛漫さを与えるおじさん。生ギターの弾き語りから始まったが、すぐにバンドが入り、その構成員は西欧コンテンポラリー音楽のマナーを持つことが分かる、しっかりしたカラフルな演奏を聞かせる。で、アンダーソンはそれを乗りこなしつつ、ちゃんと根と繋がった歌を開いてくわけで、いいタレントじゃんと素直に思わせられた。事前に見た紹介文にはジルベルト・ジルみたいなスケールを持つというような記述があったが、なるほど外れてはいない。もろなレゲエ調もあったし、地に足をつけつつ、かなり末広がり。パーカッシヴな曲はガリフナを下敷きにするのだろうか。
ステージ背後のスクリーンにはときに歌詞やMCの訳が映し出されたりもする。何気に、理解の助けにはなる。詳細はすっかり忘れたが、僕は難破船の漁師みたいな曲があり、美しい君にはまって動けなくなった、というような他愛ない歌詞に、ぼくはニッコリ。しかし、このフルの編成による来日ライヴ、どういう経緯で実現したのだろう。とても生理的に贅沢な実演、という気持ちもしっかり持ちました。
ケルティック・クリスマス
2009年12月12日 音楽 毎年恒例となっているケルト系アクトがいろいろ出るイヴェント、錦糸町・すみだトリフォニー・ホールでの同公演はカトリオーナ&クリス、アヌーナ、アルタンの順に出演。最後は3組一緒にパフォーマンスもする。カトリオーナ&クリスは人気者で、アヌーナとアルタンの両者から一緒にやりたいとリクエストがあったとか。どの出演者も、女性を含む編成。ケルト音楽はもともと男女差のない世界なのだろうか? な〜んてことをふと頭の片隅で考える。
カトリオーナ&クリスとアルタンは一週間前(2009年12月6日)に見たばかりだが、けっこう気分で進め方を変えていたりもするのだろうな。当然、根本は変わらぬが、受けた所感は過剰に既聴感なし。ま、それこそは当人たちもフレッシュにギグをこなせる所以ではあるのだろうけど。特に、アルタンは曲/構成もそれなりに変えていたような。アンコールでマレード・ニ・ウィニーがギター一本をバックに歌ったゆったり曲は胸にしみました。
そして、まん中に出た、アヌーナ(2007年12月15日)。アイルランドの大昔の宗教歌や伝承歌+αを今にワープさせようとするアカペラ集団(今回は女性7人、男性6人という編成)だが、やはり特殊で、視覚的にもとても綺麗で、ビミョーな力あふれていた。基本、みんなステージに立って歌うわけだが、ときに女性陣は1階/2階客席に出てきて、歌いながら移動したり……興味深すぎる3Dしなやか肉声表現だよなあ。もう浮世離れしていて、荘厳、静謐。一聴(一見)、クラシック流れとも言いたくなるお硬さや痒さを与えもするが、そのヴェールを1枚めくったところにある闊達さや自立感や創意の欠片の在処の興味深いこと。今回、リーダー/ディレクターのマイケル・マクグリンにいろいろ話を聞いたのだが、な〜るほど、そういう成り立ちであったのか(殆ど、語れてないよなー)。彼、一見とっつぁん坊やで、猫撫で声でしゃべる様(ダブリン生まれ/育ちながら、訛りのない綺麗な英語を話す)はオカマ風というか公家調(?)なのだが、次々ツっぱった発言が出てきてびっくり。で、結果的にすげえ変人だァと痛感させられるわけだが、とにかく、その発言を知ると、アイルランドの何かに根ざしつつ過去と現在を行き来しようとするそのコーラス表現にある本懐は明瞭に納得できるわけで……。そのインタヴューの抜粋を以下に載せておく。
○ 子供のころはどんな音楽が好きだったのでしょう?
「最初に熱くなった曲は、デイヴィッド・ボウイの“ライフ・オン・マーズ”だ。彼のことは今でも好き。そういえば、最初の子供が生まれて3日後に彼の公演がダブリンであって、見に行ったことがあった。妻(アヌーナの構成員の一人。子育のためだろう、来日には同行していない)も彼のファンだったので、携帯で中継してあげたんだ。そんなわけで、必ずしもクラシックに浸っていたわけではないし、間違ってもトラディッショナルを愛好してはいなかった」
○なら、子供のころはデイヴィッド・ボウイのようになりたかった?
「いや、彼のようになりたいとは思わなかったな。だって、彼はスターの資質を持つ人だけど、僕にはそれはなく、裏でものを作るタイプの人間だと知っていたから。デイヴィッド・ボウイはスターであることと実質を持つミュージシャンであることを両立させた初めての人なんじゃないかな」
○ クラシックの教育はちゃんと受けているんですよね?
「一応まなんでいることは学んでいるし学位も取っているけど、僕の教育的背景としては一部と言える。とくに、クラシックはクラシック、トラッドはトラッドといったように、それぞれの音楽がきっちりと括られているのが、僕は馴染めなかった。僕の興味はもっと広いし、実際クラシックの公演なんか滅多に行かないな。それだったら、ジャズのコンサートに行ったほうがいい。好きな作曲家はと問われれば、ドビュッシーと答えるけど、好きなシンガーはと問われれば、デイヴィッド・シルヴィアンと僕は答える」
○ そんなあなたは、どうしてアヌーナのような合唱団を主宰するようになったのでしょう。
「作曲家ではいられないという、焦燥感のようなものかな。世にパン屋や漁師や左官屋がいるように、芸術家はそれと同じく世の中の一部でしかない。そう思う僕は、アートの世界のスノッブな感じというのがとても許せなかった。なので、ただコンポーザーとして実態のないまま、そのスノッブな場所に存在するのがイヤだったんだ。そう思いつつ音楽理論やその歴史を学んでいくなかで、自分の進む道、自分が社会に問うべきこととして見えたのが、合唱だった」
○ 大学時代は音楽以外に、どんなことを学んでいました?
「専攻は音楽より英文学を熱心に取っていた。ダブリン大学とトリニティ・カレッジに学んだんだけど、トリニティでは中世の英語を勉強し、大学院にも進んだ。そっちのほうは、修士論文をバスの座席に置き忘れて紛失してしまい〜そのころは、パソコンなんて使っていなかったからね〜、ならもういいやという感じで、卒業はしなかったけど。僕の双子の弟のジョンはロックをやっていたけど、今は共同ディレクターのような形でアヌーナにも関わっているんだ。けど、そういう兄弟が関与しているからこそという部分が、アヌーナにはあると思う。僕はバンドは組まなかったけど、やはりあちこちで歌っていたんだよ。アイルランドには僕たちみたいな音楽家はいないし、いても知らない。何もない所から、僕はアヌーナを作り上げたんだ」
○ アヌーナを組んだのはいつ?
「23歳。合唱を最初にしたのが19歳のときで、それまでクワイアーで歌ったことはなかった。レパートリーはメシアンとかで、1時間半あまりの演目を終えたときに、僕は非常に怒りを覚えた。だって、こんなに美しい歌があるのに、それまで受けてきた音楽教育ではまったく教えてもらうことはなかった……そうした、システムの不備に対する怒りが沸々と湧いてきたんだ。でも、そうしたシステムを通ってこなかったからこそ、僕はもっと自由に合唱をやれると思ったときには、その怒りが少し薄れた。他に素晴らしい音楽があることを、僕は知っている。それをいろいろと持ってきて、新しい表現を作る事ができるんじゃないかと思ったんだ。合唱はとても素晴らしいもの、日本でもそうだろうと思うけど、だけど一方ではエリート主義が蔓延っていたりする。そういうものをとっぱらって、歌っている人もオーディエンスも同じなんだよというあり方を提示できるかなと思ったのは、その晩だった」
○ あなたが持つヴィジョンはすぐに、他の人にも分かってもらえた? それとも試行錯誤したのですか。
「全然、分かってもらえなかった。僕が言っていることが間違っているのかなとも思ってしまったよ(笑い)」
○ それで、もう20年もアヌーナをやっているけど、ターニング・ポイントと感じることは?
「いろいろあると思う。アヌーナは普通テンプレートがあるべきところ、なしでやってきているから、毎日がターニング・ポイントであり、試行錯誤の連続だね。大きい最たるものは96年で、“リバーダンス”のシンガー/ディレクターをやめたとき。ボスというのは一つのプロジェクトで一人しかありえないから、去ったんだ。それで、自腹を切ってファースト・アルバムを作った。貯金をはたいてね。あの頃、ああいいう事をしていた人はいないので、アルバムを買ってくれる人がいるかどうかも分からなかったけど、情熱の向くまま、最初のアルバムを作ったんだ。そのころ、アヌーナを始めて6年たっていたので、溜まっていたものはあったしね。ロバート・フロストの言葉ではないけど、駄目と言われる事、どうなるか分からない事を自分で責任を負ってやった、ということだ」
○ “リバーダンス”のプロジェクトは最初から関わっていたんですか。
「そう言っていいと思う。あれは、あちこちから派生したものを組み合わせたプロジェクトだった。ザ・チーフタンズがいて、ジーン・バトラーとマイケル・グラットレーのダンサーがいて、アンディ・アーヴァインらミュージシャンがいて、彼らが僕の歌に興味を持っていて、そういった人たちが“リバーダンス”の前身となったわけだ。で、“リバーダンス”として動き出した最初の6ヶ月は本当に刺激的だった。本当にダンサーもミュージシャンも素晴らしい人が揃っていたし、アヌーナもその中で特異な存在として注目を集めたし。トラッドなアイリッシュ音楽だけではなく、東欧からの影響とか、いろんなものものを示すことも出来たし、アイルランドの若い力みたいなものも出せたと思う。だけど、本当にそれが素晴らしかったのは95年の半ばぐらいまでだね。その後は、こんなコマーシャルな事は勘弁してくれと感じるようになってしまった。そもそもお金のためだったら、僕は音楽をやっていないからね。“リバーダンス”をやって良かったと思うのは、僕たちのような風変わりなコーラスを広く聞いてもらえる事ができたことに尽きる。ほんとに僕たちのコーラスはユニーク。唯一、やっていることは違うけど、先達としてクラナドがいるぐらいかな。“リバーダンス”で一番エキサイティングだったのは初めて聞くタイプのコーラスをやるアヌーナを聞けたことと、エルヴィス・コステロにほめられたのはうれしかった。僕たちは映画音楽にもとても影響を与えたみたいで、アヌーナぽいのが欲しいとか、ハリウッドでも言われているそうなんだ。僕はアイルランドやその音楽に対する誇りもあってアヌーナを始めたわけで、だからちゃんと評価を受けて軌道に乗ったのはうれしい。でないと、自尊心のあるアーティストでいれなくもなるしね」
○ レパートリーをいろんなところから取っていて、いろんな言語が用いられていますよね。その理由は?
「僕たちがやっていることのほとんどは、オーセンティックなものではない。正直言って〜実はぼくは正直ではなく、だから普通は昔の話はしないけど〜基本、僕は自分で聞きたい曲しか作らない。ケイト・ブッシュは自分のアルバムを聞かないと言ったけど、だったらなんで作るのと、僕は思う。話は脱線したけど、一般的な音楽の魅力のポイントはソウルフルさとか心に訴えるかとかなんだけど、僕の場合はそこに言葉が先に立つんだ。ラテン語、英語、アイルランド語とかいろいろだけど、歌われている言葉の響きに留意し、何語で歌うかを音楽のサウンドのスタイルを決めて行くわけさ」
○ これまで、アヌーナには沢山の人がメンバーとして出入りしているはずです。どんな基準でその構成員を選ぶんでしょうか?
「もう200人以上の人が出入りしたと思う。小さな国だし、その運営は楽ではない。寄ってくる人も多いけど、こちらから求めるものも多いからねえ。アヌーナに残る人は僕と同じぐらい情熱を持っている人。4、5年いては出て行くという人が多かったけど、ここ5年ぐらいの動きでは、2、3年いて出て、また戻ってくるという人が出てきている。それで、思い当たるのは、僕自身変わってきているからかなということ。感情でモノを判断していた所が大分自制するようになってきているから、それでアヌーナが居心地のいい場所になってきているのかもしれないな(笑い)。基本、オーディションはやっておらず、選ぶ基準は直感だね。それから、トレーニングをちゃんと受けたシンガーはあまり取っていないよ」
○ いろいろ種類が出ていますが、アルバムはコンセプトありきで作っている?
「いいや。コンセプチュアルな音楽材料を用意するといっても、曲を書く時間がない。だって、今、オフィイスで20人分ぐらいの仕事をしているから。そのため、二人の子供の相手をして、ふっとインスピレーションが湧くとピアノの前に走るというような生活をしているんだ。どうやって、アルバムの材料を用意しているかというのは二つの答えを用意するので、好きなほうを使ってもらえれば。その1、私はとてもアーティスティックな人間なので、何かにつけて古代の森に彷徨い、そこをふらふら歩き、そこからインスピレーションを受けて出てきたものが、アルバムに反映されます。その2、時間があるときだけ作曲活動にいそしみ、現実と音楽活動とのギャップを埋めるかのように創作生活を送っている結果のもの……。後者は夢がない答えだが、だからこそ、日常生活に振り回される人たちに分かってもらえるようなアルバムも作れるという解釈もできるんじゃないかな」
○コンサートでは女性は統一感のあるローブをまとい、視覚的に幻想的なものを提供しています。なんか、鮮やかな短編映画を見るような気持ちになったりもします。また、CDのジャケットも自然と構成員の姿を重ねたりとか、全体的な提示の仕方にも気を使っているように思えます。いい音楽を提供するだけでなく、イメージ作りも大切だと考えて、アヌーナをやっているように思えますが。
「クククク(笑い)。こんなの、日本でしか絶対にされない質問だよ。だから、日本でのインタヴューは好きなんだ。特にアメリカじゃこんな質問はされない、“リバーダンス”の話に終始されちゃうから。僕が表現を練る際、聞こえるというよりは、見えているという感覚でまとまっていくんだ。そういうものを人に伝えようとするときは、当然視覚的に伝えたくはなるよね。だから、僕が得たヴィジョンに従い、そこに中世的なフレイヴァーが付けられたり、太古の雰囲気が出るようにしたり。でも、それが妙に古いものであってはいけない。僕が提供しようとしているのは、今の表現。けっしてわざとらしくないもので、旧さも感じさせるような行き方を、僕は求めている」
カトリオーナ&クリスとアルタンは一週間前(2009年12月6日)に見たばかりだが、けっこう気分で進め方を変えていたりもするのだろうな。当然、根本は変わらぬが、受けた所感は過剰に既聴感なし。ま、それこそは当人たちもフレッシュにギグをこなせる所以ではあるのだろうけど。特に、アルタンは曲/構成もそれなりに変えていたような。アンコールでマレード・ニ・ウィニーがギター一本をバックに歌ったゆったり曲は胸にしみました。
そして、まん中に出た、アヌーナ(2007年12月15日)。アイルランドの大昔の宗教歌や伝承歌+αを今にワープさせようとするアカペラ集団(今回は女性7人、男性6人という編成)だが、やはり特殊で、視覚的にもとても綺麗で、ビミョーな力あふれていた。基本、みんなステージに立って歌うわけだが、ときに女性陣は1階/2階客席に出てきて、歌いながら移動したり……興味深すぎる3Dしなやか肉声表現だよなあ。もう浮世離れしていて、荘厳、静謐。一聴(一見)、クラシック流れとも言いたくなるお硬さや痒さを与えもするが、そのヴェールを1枚めくったところにある闊達さや自立感や創意の欠片の在処の興味深いこと。今回、リーダー/ディレクターのマイケル・マクグリンにいろいろ話を聞いたのだが、な〜るほど、そういう成り立ちであったのか(殆ど、語れてないよなー)。彼、一見とっつぁん坊やで、猫撫で声でしゃべる様(ダブリン生まれ/育ちながら、訛りのない綺麗な英語を話す)はオカマ風というか公家調(?)なのだが、次々ツっぱった発言が出てきてびっくり。で、結果的にすげえ変人だァと痛感させられるわけだが、とにかく、その発言を知ると、アイルランドの何かに根ざしつつ過去と現在を行き来しようとするそのコーラス表現にある本懐は明瞭に納得できるわけで……。そのインタヴューの抜粋を以下に載せておく。
○ 子供のころはどんな音楽が好きだったのでしょう?
「最初に熱くなった曲は、デイヴィッド・ボウイの“ライフ・オン・マーズ”だ。彼のことは今でも好き。そういえば、最初の子供が生まれて3日後に彼の公演がダブリンであって、見に行ったことがあった。妻(アヌーナの構成員の一人。子育のためだろう、来日には同行していない)も彼のファンだったので、携帯で中継してあげたんだ。そんなわけで、必ずしもクラシックに浸っていたわけではないし、間違ってもトラディッショナルを愛好してはいなかった」
○なら、子供のころはデイヴィッド・ボウイのようになりたかった?
「いや、彼のようになりたいとは思わなかったな。だって、彼はスターの資質を持つ人だけど、僕にはそれはなく、裏でものを作るタイプの人間だと知っていたから。デイヴィッド・ボウイはスターであることと実質を持つミュージシャンであることを両立させた初めての人なんじゃないかな」
○ クラシックの教育はちゃんと受けているんですよね?
「一応まなんでいることは学んでいるし学位も取っているけど、僕の教育的背景としては一部と言える。とくに、クラシックはクラシック、トラッドはトラッドといったように、それぞれの音楽がきっちりと括られているのが、僕は馴染めなかった。僕の興味はもっと広いし、実際クラシックの公演なんか滅多に行かないな。それだったら、ジャズのコンサートに行ったほうがいい。好きな作曲家はと問われれば、ドビュッシーと答えるけど、好きなシンガーはと問われれば、デイヴィッド・シルヴィアンと僕は答える」
○ そんなあなたは、どうしてアヌーナのような合唱団を主宰するようになったのでしょう。
「作曲家ではいられないという、焦燥感のようなものかな。世にパン屋や漁師や左官屋がいるように、芸術家はそれと同じく世の中の一部でしかない。そう思う僕は、アートの世界のスノッブな感じというのがとても許せなかった。なので、ただコンポーザーとして実態のないまま、そのスノッブな場所に存在するのがイヤだったんだ。そう思いつつ音楽理論やその歴史を学んでいくなかで、自分の進む道、自分が社会に問うべきこととして見えたのが、合唱だった」
○ 大学時代は音楽以外に、どんなことを学んでいました?
「専攻は音楽より英文学を熱心に取っていた。ダブリン大学とトリニティ・カレッジに学んだんだけど、トリニティでは中世の英語を勉強し、大学院にも進んだ。そっちのほうは、修士論文をバスの座席に置き忘れて紛失してしまい〜そのころは、パソコンなんて使っていなかったからね〜、ならもういいやという感じで、卒業はしなかったけど。僕の双子の弟のジョンはロックをやっていたけど、今は共同ディレクターのような形でアヌーナにも関わっているんだ。けど、そういう兄弟が関与しているからこそという部分が、アヌーナにはあると思う。僕はバンドは組まなかったけど、やはりあちこちで歌っていたんだよ。アイルランドには僕たちみたいな音楽家はいないし、いても知らない。何もない所から、僕はアヌーナを作り上げたんだ」
○ アヌーナを組んだのはいつ?
「23歳。合唱を最初にしたのが19歳のときで、それまでクワイアーで歌ったことはなかった。レパートリーはメシアンとかで、1時間半あまりの演目を終えたときに、僕は非常に怒りを覚えた。だって、こんなに美しい歌があるのに、それまで受けてきた音楽教育ではまったく教えてもらうことはなかった……そうした、システムの不備に対する怒りが沸々と湧いてきたんだ。でも、そうしたシステムを通ってこなかったからこそ、僕はもっと自由に合唱をやれると思ったときには、その怒りが少し薄れた。他に素晴らしい音楽があることを、僕は知っている。それをいろいろと持ってきて、新しい表現を作る事ができるんじゃないかと思ったんだ。合唱はとても素晴らしいもの、日本でもそうだろうと思うけど、だけど一方ではエリート主義が蔓延っていたりする。そういうものをとっぱらって、歌っている人もオーディエンスも同じなんだよというあり方を提示できるかなと思ったのは、その晩だった」
○ あなたが持つヴィジョンはすぐに、他の人にも分かってもらえた? それとも試行錯誤したのですか。
「全然、分かってもらえなかった。僕が言っていることが間違っているのかなとも思ってしまったよ(笑い)」
○ それで、もう20年もアヌーナをやっているけど、ターニング・ポイントと感じることは?
「いろいろあると思う。アヌーナは普通テンプレートがあるべきところ、なしでやってきているから、毎日がターニング・ポイントであり、試行錯誤の連続だね。大きい最たるものは96年で、“リバーダンス”のシンガー/ディレクターをやめたとき。ボスというのは一つのプロジェクトで一人しかありえないから、去ったんだ。それで、自腹を切ってファースト・アルバムを作った。貯金をはたいてね。あの頃、ああいいう事をしていた人はいないので、アルバムを買ってくれる人がいるかどうかも分からなかったけど、情熱の向くまま、最初のアルバムを作ったんだ。そのころ、アヌーナを始めて6年たっていたので、溜まっていたものはあったしね。ロバート・フロストの言葉ではないけど、駄目と言われる事、どうなるか分からない事を自分で責任を負ってやった、ということだ」
○ “リバーダンス”のプロジェクトは最初から関わっていたんですか。
「そう言っていいと思う。あれは、あちこちから派生したものを組み合わせたプロジェクトだった。ザ・チーフタンズがいて、ジーン・バトラーとマイケル・グラットレーのダンサーがいて、アンディ・アーヴァインらミュージシャンがいて、彼らが僕の歌に興味を持っていて、そういった人たちが“リバーダンス”の前身となったわけだ。で、“リバーダンス”として動き出した最初の6ヶ月は本当に刺激的だった。本当にダンサーもミュージシャンも素晴らしい人が揃っていたし、アヌーナもその中で特異な存在として注目を集めたし。トラッドなアイリッシュ音楽だけではなく、東欧からの影響とか、いろんなものものを示すことも出来たし、アイルランドの若い力みたいなものも出せたと思う。だけど、本当にそれが素晴らしかったのは95年の半ばぐらいまでだね。その後は、こんなコマーシャルな事は勘弁してくれと感じるようになってしまった。そもそもお金のためだったら、僕は音楽をやっていないからね。“リバーダンス”をやって良かったと思うのは、僕たちのような風変わりなコーラスを広く聞いてもらえる事ができたことに尽きる。ほんとに僕たちのコーラスはユニーク。唯一、やっていることは違うけど、先達としてクラナドがいるぐらいかな。“リバーダンス”で一番エキサイティングだったのは初めて聞くタイプのコーラスをやるアヌーナを聞けたことと、エルヴィス・コステロにほめられたのはうれしかった。僕たちは映画音楽にもとても影響を与えたみたいで、アヌーナぽいのが欲しいとか、ハリウッドでも言われているそうなんだ。僕はアイルランドやその音楽に対する誇りもあってアヌーナを始めたわけで、だからちゃんと評価を受けて軌道に乗ったのはうれしい。でないと、自尊心のあるアーティストでいれなくもなるしね」
○ レパートリーをいろんなところから取っていて、いろんな言語が用いられていますよね。その理由は?
「僕たちがやっていることのほとんどは、オーセンティックなものではない。正直言って〜実はぼくは正直ではなく、だから普通は昔の話はしないけど〜基本、僕は自分で聞きたい曲しか作らない。ケイト・ブッシュは自分のアルバムを聞かないと言ったけど、だったらなんで作るのと、僕は思う。話は脱線したけど、一般的な音楽の魅力のポイントはソウルフルさとか心に訴えるかとかなんだけど、僕の場合はそこに言葉が先に立つんだ。ラテン語、英語、アイルランド語とかいろいろだけど、歌われている言葉の響きに留意し、何語で歌うかを音楽のサウンドのスタイルを決めて行くわけさ」
○ これまで、アヌーナには沢山の人がメンバーとして出入りしているはずです。どんな基準でその構成員を選ぶんでしょうか?
「もう200人以上の人が出入りしたと思う。小さな国だし、その運営は楽ではない。寄ってくる人も多いけど、こちらから求めるものも多いからねえ。アヌーナに残る人は僕と同じぐらい情熱を持っている人。4、5年いては出て行くという人が多かったけど、ここ5年ぐらいの動きでは、2、3年いて出て、また戻ってくるという人が出てきている。それで、思い当たるのは、僕自身変わってきているからかなということ。感情でモノを判断していた所が大分自制するようになってきているから、それでアヌーナが居心地のいい場所になってきているのかもしれないな(笑い)。基本、オーディションはやっておらず、選ぶ基準は直感だね。それから、トレーニングをちゃんと受けたシンガーはあまり取っていないよ」
○ いろいろ種類が出ていますが、アルバムはコンセプトありきで作っている?
「いいや。コンセプチュアルな音楽材料を用意するといっても、曲を書く時間がない。だって、今、オフィイスで20人分ぐらいの仕事をしているから。そのため、二人の子供の相手をして、ふっとインスピレーションが湧くとピアノの前に走るというような生活をしているんだ。どうやって、アルバムの材料を用意しているかというのは二つの答えを用意するので、好きなほうを使ってもらえれば。その1、私はとてもアーティスティックな人間なので、何かにつけて古代の森に彷徨い、そこをふらふら歩き、そこからインスピレーションを受けて出てきたものが、アルバムに反映されます。その2、時間があるときだけ作曲活動にいそしみ、現実と音楽活動とのギャップを埋めるかのように創作生活を送っている結果のもの……。後者は夢がない答えだが、だからこそ、日常生活に振り回される人たちに分かってもらえるようなアルバムも作れるという解釈もできるんじゃないかな」
○コンサートでは女性は統一感のあるローブをまとい、視覚的に幻想的なものを提供しています。なんか、鮮やかな短編映画を見るような気持ちになったりもします。また、CDのジャケットも自然と構成員の姿を重ねたりとか、全体的な提示の仕方にも気を使っているように思えます。いい音楽を提供するだけでなく、イメージ作りも大切だと考えて、アヌーナをやっているように思えますが。
「クククク(笑い)。こんなの、日本でしか絶対にされない質問だよ。だから、日本でのインタヴューは好きなんだ。特にアメリカじゃこんな質問はされない、“リバーダンス”の話に終始されちゃうから。僕が表現を練る際、聞こえるというよりは、見えているという感覚でまとまっていくんだ。そういうものを人に伝えようとするときは、当然視覚的に伝えたくはなるよね。だから、僕が得たヴィジョンに従い、そこに中世的なフレイヴァーが付けられたり、太古の雰囲気が出るようにしたり。でも、それが妙に古いものであってはいけない。僕が提供しようとしているのは、今の表現。けっしてわざとらしくないもので、旧さも感じさせるような行き方を、僕は求めている」
DVD化もされた、T・ボーン・バーネット制作の『Akiko』派生の米国人バンドとのライヴ(2008年12月14日)、その続編。と、言っていいかな。矢野(ヴォーカル、ピアノ)、マーク・リーボウ(ギター、バンジョー)、ジェニファー・コンドス(ベース)、ジェイ・ベルローズ(ドラム)という、初回時と同じメンバー。うれしい。が、一年ぶりに再会した当人たち(11 月に矢野とリーボウはNYでデュオの公演をしているようだが)が誰よりもそう感じていたのではないか。渋谷・NHKホール。
天衣無縫な彼女はmimi(2006年12月18日、他)ばりの巨大なアフロ調の髪型のもと、ステージに登場。着替えてアンコールに出てきたときはストレートな髪だったので、それはウィッグだったんだけど、そういう他愛ないことを年に一度の大きなコンサートでやってしまう精神ににっこり。楽しんじゃおう、それがショウの根幹にある大きな項目であるのは疑いがない。まあ、“さとがえるコンサート”と名付けられたこの年末の公演は毎年恒例になっており固定の客も多いゆえ、こういう変化球が容易に出しやすい部分はあるかもしれないが。
ちゃんと立った顔やミュージシャンシップを持つ4人がお互いにそれを認めて自在に重なり、そこから矢野顕子ならではの歌や節使いや指さばきや感情がわき上がる。途中、弾き語りのパートをはさみ、約2時間。今回、新たに披露される曲もあり。明けて出る彼女の新作はピアノ弾き語り作のようだが、じきにこの4人でのスタジオ録音作も録ってほしいナ。それは新曲でなくても……。この大人の野生を持つカルテットでやれば、どんな楽曲や素材であっても、美味しい息吹や輝きが与えられる。あ、でも、それは弾き語りでもそうか。
天衣無縫な彼女はmimi(2006年12月18日、他)ばりの巨大なアフロ調の髪型のもと、ステージに登場。着替えてアンコールに出てきたときはストレートな髪だったので、それはウィッグだったんだけど、そういう他愛ないことを年に一度の大きなコンサートでやってしまう精神ににっこり。楽しんじゃおう、それがショウの根幹にある大きな項目であるのは疑いがない。まあ、“さとがえるコンサート”と名付けられたこの年末の公演は毎年恒例になっており固定の客も多いゆえ、こういう変化球が容易に出しやすい部分はあるかもしれないが。
ちゃんと立った顔やミュージシャンシップを持つ4人がお互いにそれを認めて自在に重なり、そこから矢野顕子ならではの歌や節使いや指さばきや感情がわき上がる。途中、弾き語りのパートをはさみ、約2時間。今回、新たに披露される曲もあり。明けて出る彼女の新作はピアノ弾き語り作のようだが、じきにこの4人でのスタジオ録音作も録ってほしいナ。それは新曲でなくても……。この大人の野生を持つカルテットでやれば、どんな楽曲や素材であっても、美味しい息吹や輝きが与えられる。あ、でも、それは弾き語りでもそうか。
品川・ステラボール。景気付けにビールを買おうとしたら、かなりな列。2階席だったので、購入を断念。ちぇっ。プリンスホテル所有のここの飲み物販売オペレーション、トロいよな。客はけっこうな入り。前日も彼らはO-イーストでやっているはずで、かなりな動員じゃ。シケた話が多いここのところの音楽回りだが、いいロック・バンドがちゃんと支持を集めていて、なにより。
在NY男女混成トリオ(2007年2月19日、他)の冒頭曲は、15分近い一発っぽいジャム演奏。ギターは刺々しくも、飛翔する。かっこいい。こういう演奏(フリー・ミュージック要素をロック・バンド流儀で活用する)に触れると、ソニック・ユース(2007年4月20日、他)はもうぼくには必要ないかもと思えたりも。そして、その後はときに楽器を持ち替えたりして(リード・ヴォーカルは3人とも取る)、DIY感覚もありの、歌心と含蓄にも満ちた、機知と機微が吉と出るロック表現を飄々と披露して行く。自由自在。彼らを見て、ダンナとこういうバンドを組みたくなったと話す知人も。そういう事を思わせるバンドって、いいナ。ではあるものの、忘年会があり、1時間見て退出。少し、ぐすん。あー、師走。
在NY男女混成トリオ(2007年2月19日、他)の冒頭曲は、15分近い一発っぽいジャム演奏。ギターは刺々しくも、飛翔する。かっこいい。こういう演奏(フリー・ミュージック要素をロック・バンド流儀で活用する)に触れると、ソニック・ユース(2007年4月20日、他)はもうぼくには必要ないかもと思えたりも。そして、その後はときに楽器を持ち替えたりして(リード・ヴォーカルは3人とも取る)、DIY感覚もありの、歌心と含蓄にも満ちた、機知と機微が吉と出るロック表現を飄々と披露して行く。自由自在。彼らを見て、ダンナとこういうバンドを組みたくなったと話す知人も。そういう事を思わせるバンドって、いいナ。ではあるものの、忘年会があり、1時間見て退出。少し、ぐすん。あー、師走。
この日は、忘年会→ライヴという順序にて、私の夜は更けていく。南青山・プラッサオンゼ。
<Feliz Natal>〜ポルトガル語でメリー・クリスマスの意味だという〜と題された出し物で、ディレクションをするTOYON0(2009年9月26日、他)を中心に月路奏、Nobie、yuki、4人の女性ヴォーカリストがフロントに立つ。皆さん、黒系の服でシックにまとめていましたね。そして、ギター、キーボード、打楽器がサポート。取り上げるのは広義のクリスマス・ソングで、それらをどこかにブラジリアン・テイストを通しつつ、フレッシュにして柔らかい女性コーラスで紡いでいくという趣向のパフォーマンス。会場内には、いつも以上にファミリアな気分が流れる。この晩のショウのためにすべては用意されたもののようで、プレミアムね。
見ていてどんどんいい気持ちになってきて、ビールを2杯飲んだ後、ブラジル産のワイン(アルゼンチン寄りで作られるらしい)があるというので、開ける。ほわーんと真夏のクリスマスに思いをはせる。ブラジルのサンタクロースも冬っぽい格好をしているのかなあとか、誘う女性声群に触れつつ、いろんな夢想に走りました。もし、多くの大陸や人口が南半球に集中していたら、地球の価値観はどう違っていたろうか。無宗教でキリスト教との親和性は持たないが(なぜか、小川町周辺でぼくが牧師の息子だというガセねたが出たことがあったなー)、クリスマスにはいい思い出がいっぱいで、ほんわかした気持ちになれる。と、書くとモテた奴のようだが、それは主に小僧だったころの思い出に依る。
ぼくにとってクリスマス(・イヴ)というのは、いろんなうれしいことの最たる代名詞のようなものだったのだ。2学期が終了し冬休みに突入、これから当分お休みだァという開放感とともに、クリスマス・プレゼントを買ってもらい、その晩にはケーキをはじめ、いろんなものが食卓にのる……。ツリーを置きたいとねだって、飾り付けとかしたのもいい記憶としてあるし、なんかきらきらしたイメージで一杯だな。そんなぼくは、小学校低学年のころにはサンタクロースにまつわる話はおかしいんじゃいかと思うようになり、半信半疑ながら母親にサンタさんは本当はいないんでしょと訊ねたことがあった。彼女が少しとまどいつつ肯定するのを聞いて、サンタの存在をしっかり信じていた姉は泣き出しちゃったんだよな。そのとき、実は平静を装いつつ、ぼくは子供心にパンドラの箱を開けちゃったなーみたいな(そのころはパンドラの箱なんて言葉、知りませんでしたが)寂寥感にとらわれたのをとてもよく覚えている。そんなビターな思い出込みで、ぼくにとってクリスマスは新しい世界/未知のものへの好奇心の“扉”のようなものだったのではないか。
年が明けると、真夏のオセアニアの公演の行き帰りのアクトの公演が多くなるなあ。
古い知人とも会い杯を重ねたりして、けっこう酔っぱらっちゃったナリ。夜半、帰りにタクシーに乗ったら、「お客さん、忘年会は今日がピークなんですってね」と言われる。現実に引き戻される←嘘。あれれ、数年前にも同じ台詞を年末にタクシーに乗ってかけられたような。帰宅したらそんなに眠くない気もしたので、雑誌原稿を書くことになっている、モンティ・パイソン出身のテリー・ギリアムの新しい映画「Dr.パルナサスの鏡」を見はじめたが、起きたら昼間。映画のなかの博士がサンタクロースの格好していて、ぼくと一緒に不思議世界を徘徊する夢を見ちゃった……。うー、師走。
<Feliz Natal>〜ポルトガル語でメリー・クリスマスの意味だという〜と題された出し物で、ディレクションをするTOYON0(2009年9月26日、他)を中心に月路奏、Nobie、yuki、4人の女性ヴォーカリストがフロントに立つ。皆さん、黒系の服でシックにまとめていましたね。そして、ギター、キーボード、打楽器がサポート。取り上げるのは広義のクリスマス・ソングで、それらをどこかにブラジリアン・テイストを通しつつ、フレッシュにして柔らかい女性コーラスで紡いでいくという趣向のパフォーマンス。会場内には、いつも以上にファミリアな気分が流れる。この晩のショウのためにすべては用意されたもののようで、プレミアムね。
見ていてどんどんいい気持ちになってきて、ビールを2杯飲んだ後、ブラジル産のワイン(アルゼンチン寄りで作られるらしい)があるというので、開ける。ほわーんと真夏のクリスマスに思いをはせる。ブラジルのサンタクロースも冬っぽい格好をしているのかなあとか、誘う女性声群に触れつつ、いろんな夢想に走りました。もし、多くの大陸や人口が南半球に集中していたら、地球の価値観はどう違っていたろうか。無宗教でキリスト教との親和性は持たないが(なぜか、小川町周辺でぼくが牧師の息子だというガセねたが出たことがあったなー)、クリスマスにはいい思い出がいっぱいで、ほんわかした気持ちになれる。と、書くとモテた奴のようだが、それは主に小僧だったころの思い出に依る。
ぼくにとってクリスマス(・イヴ)というのは、いろんなうれしいことの最たる代名詞のようなものだったのだ。2学期が終了し冬休みに突入、これから当分お休みだァという開放感とともに、クリスマス・プレゼントを買ってもらい、その晩にはケーキをはじめ、いろんなものが食卓にのる……。ツリーを置きたいとねだって、飾り付けとかしたのもいい記憶としてあるし、なんかきらきらしたイメージで一杯だな。そんなぼくは、小学校低学年のころにはサンタクロースにまつわる話はおかしいんじゃいかと思うようになり、半信半疑ながら母親にサンタさんは本当はいないんでしょと訊ねたことがあった。彼女が少しとまどいつつ肯定するのを聞いて、サンタの存在をしっかり信じていた姉は泣き出しちゃったんだよな。そのとき、実は平静を装いつつ、ぼくは子供心にパンドラの箱を開けちゃったなーみたいな(そのころはパンドラの箱なんて言葉、知りませんでしたが)寂寥感にとらわれたのをとてもよく覚えている。そんなビターな思い出込みで、ぼくにとってクリスマスは新しい世界/未知のものへの好奇心の“扉”のようなものだったのではないか。
年が明けると、真夏のオセアニアの公演の行き帰りのアクトの公演が多くなるなあ。
古い知人とも会い杯を重ねたりして、けっこう酔っぱらっちゃったナリ。夜半、帰りにタクシーに乗ったら、「お客さん、忘年会は今日がピークなんですってね」と言われる。現実に引き戻される←嘘。あれれ、数年前にも同じ台詞を年末にタクシーに乗ってかけられたような。帰宅したらそんなに眠くない気もしたので、雑誌原稿を書くことになっている、モンティ・パイソン出身のテリー・ギリアムの新しい映画「Dr.パルナサスの鏡」を見はじめたが、起きたら昼間。映画のなかの博士がサンタクロースの格好していて、ぼくと一緒に不思議世界を徘徊する夢を見ちゃった……。うー、師走。
ニコラ・コンテ・ジャズ・コンボ。ロバート・グラスパー・エキスペリエンス
2009年12月19日 音楽 南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。今、ブルーノートは日曜日だけでなく、土曜日も開演が“休日時間”となり早くなっているのか。遅刻してしまった。注意ちゅうい。イタリアのクラブ派生ジャズ・ムーヴメントの中心人物たるDJ/プロデューサーが率いる、イタリアの確かな若手奏者が集ったジャズ・コンボのパフォーマンス。サックスとトランペットの二管、ピアノ、ベース、ドラムス。そして、コンテもギター(演奏はこわさないが、いなくてもいい)で参加する。トランペットはザ・ハイ・ファイヴ・クインテットの人気者、ファブリツィオ・ボッソ(2008年11月16日)だ。今様視点でおいしく聞こえるハード・バップを気軽に、ほんの少し自己主張を込めてやりましょう、という実演。コンテのオリジナルもやったろうが、「処女航海」や「キャラヴァン」などベタなジャズ有名曲もいろいろ忌憚なく、程よいアダプテーションを噛ましつつ送り出す。また、イタリア人ジャズ歌手のアリーチェ・リシャルディがけっこうな割合で加わって、華と変化を添える。彼女、前回の単独公演時(2008年7月24日)より、綺麗に見えたかも。
そして、丸の内・コットンクラブに移動。ヒップホップ時代のリアル・ジャズを送り出そうとする、今年2度目となるロバート・グラスパー(2009年4月13日、他)のパフォーマンスを見る。前回来日後に、彼は旧来のトリオ単位にヴォコーダー/サックス奏者を加えて、さらに一聴ポップで軟派なところもありつつ酔狂度数を高めた路線を提示した『ダブル・ブックド』(ブルーノート)をリリースしたわけだが、今回はそこでお披露目した新カルテットによるもの。ピアノ/電気ピアノのグラスパーに加え、ヴォコーダー/サックスのケイシー・ベンジャミン、電気ベースだけを弾いたデリック・ホッジ(2009年3月26日)、実はグラスパーよりも拍手が大きかったかもしれなく現在かなり注目されてる変調ドラマーのクリス・デイヴという布陣。で、その演奏は、CDよりもベター。というのも、丁々発止しつつ、それぞれの個体の顔がちゃんと見えることをやっていたから。センスはいいと言えないがイカレた髪型をしていたベンジャミンはサックスよりショルダー・キーボードを肩にかけてヴォコーダー加工のヴォーカルを担当する事が多く、ベースのホッジもけっこう弾き口は電気ベースとしては間を重視し変則的。で、フォーリィ(2009年9月5日)とも仲良しのデイヴのドラミングはやはり面白すぎ。身体の中に正しいパルスを保ちつつも、そのなかでなんかコワれてて、ときに爆裂でもあるイビつなビートを自分流儀で叩き倒していて。あれは、ある種の聞き手をしっかり引き付けるワ。そんなサイド・マン演奏のもとグラスパーは指を踊らす(今回はピアノより電気ピアノを弾く頻度のほうが高い)のだが、これまでで一番弾かない公演でもあったはず。でも、それもグループ表現としてみれば、アリ。
両会場とも、見事にフル・ハウス。不況なんて、嘘みたい。とくに、グラスパーのほうは同ヴェニュー一番の入りだったという。
そして、丸の内・コットンクラブに移動。ヒップホップ時代のリアル・ジャズを送り出そうとする、今年2度目となるロバート・グラスパー(2009年4月13日、他)のパフォーマンスを見る。前回来日後に、彼は旧来のトリオ単位にヴォコーダー/サックス奏者を加えて、さらに一聴ポップで軟派なところもありつつ酔狂度数を高めた路線を提示した『ダブル・ブックド』(ブルーノート)をリリースしたわけだが、今回はそこでお披露目した新カルテットによるもの。ピアノ/電気ピアノのグラスパーに加え、ヴォコーダー/サックスのケイシー・ベンジャミン、電気ベースだけを弾いたデリック・ホッジ(2009年3月26日)、実はグラスパーよりも拍手が大きかったかもしれなく現在かなり注目されてる変調ドラマーのクリス・デイヴという布陣。で、その演奏は、CDよりもベター。というのも、丁々発止しつつ、それぞれの個体の顔がちゃんと見えることをやっていたから。センスはいいと言えないがイカレた髪型をしていたベンジャミンはサックスよりショルダー・キーボードを肩にかけてヴォコーダー加工のヴォーカルを担当する事が多く、ベースのホッジもけっこう弾き口は電気ベースとしては間を重視し変則的。で、フォーリィ(2009年9月5日)とも仲良しのデイヴのドラミングはやはり面白すぎ。身体の中に正しいパルスを保ちつつも、そのなかでなんかコワれてて、ときに爆裂でもあるイビつなビートを自分流儀で叩き倒していて。あれは、ある種の聞き手をしっかり引き付けるワ。そんなサイド・マン演奏のもとグラスパーは指を踊らす(今回はピアノより電気ピアノを弾く頻度のほうが高い)のだが、これまでで一番弾かない公演でもあったはず。でも、それもグループ表現としてみれば、アリ。
両会場とも、見事にフル・ハウス。不況なんて、嘘みたい。とくに、グラスパーのほうは同ヴェニュー一番の入りだったという。
MONO。エリック・ベネイ
2009年12月21日 音楽 海外ベースの日本人インスト・ロック・バンド、MONO(2001年10月18日、2007年6月7日)の渋谷・Oイースト公演はとっても特別製。結成10周年となる彼らはそれに際して、5月に26人編成オーケストラと共演する公演をNYで行い好評を得たのだが、それを母国にもってきた、という内容をこの晩の公演は持つ。
見た目がかなり若い日本人奏者が集まったオーケストラ(ミュージック・アート・ロマンティック・オーケストラと命名されている)はこの実演のために組まれたもののようで、コンサート・マスターはNHK交響楽団(2009年9月4日)でもそれを務めている人が担うとか。そして、指揮者はデイヴ・マックス・クロウフォードという外国人で、NYでやったときとは違う人のようだ。彼は客側から向かってステージ左端に横を見て立ち、指揮者と対面するオーケストラの面々は聴衆には横顔を見せる感じで、細長く(縦長に)位置する。NY公演の写真を見ると、オケはステージに普通の配置にて上がっているので、この晩のけったいなセッティングはステージの奥行きがないためになされたものと推測される。そしてMONOの面々は毎度のことという感じで淡々とオーケストラの前で演奏しはじめる。バンド音とオーケストラ音が拮抗するというものではなく、バンド音の深みや奥行きを付けるためにオーケストラ音がバンド音に寄り添っていく、という所感をぼくは得た。ただ、電気増幅のバンド音に比して、オケの音は小さかった。ともあれ、見た目だけでもかなり変テコで、こりゃいい(レアな)ものに触れさせてもらったナという気分になった。で、それを実行できちゃうMONOはすげえな、とも。スコアは誰が書いたのだろう?
途中まで見て、次はエリック・ベネイ@南青山・ブルーノート東京。サポートはキーボード、ベース、ドラムと簡素。コーラス音も含めプリセット音併用で、もう少しサポート人数を増やしてほしい。とともに、今回はベネイの格好が普通というか、少し安っぽい感じで、時節柄もあり(クリスマス・ソングも歌いました)もっと気張ってよと、ぼくは言いたくなった。とはいえ、客さばきも巧みに、ベネイ(1999年7月11日、2005年9月29日、他)は視野を広めに取る熟れてる優男ソウル・ショウをまっとう。彼はもともとカヴァー曲も笑顔でやっちゃう人だが今回はデイヴィッド・フォスター絡みの曲を次々に繰り出す場面も。女優のハル・ベリーと離婚しセックス依存症であることが衆知の事実になったころ、彼はワーナー・ブラザースから切られてしまいトホホの体、そんなベネイに温かく手を伸ばし、業界政治力で再び彼がワーナー(リプリーズ)と契約できる道を切り開いてくれた恩人がフォスターなのだ。昔、やったインタヴューで彼はそのことをありがたや〜と語っていたが、ここまでしおらしく感謝の念を出すとは。いい人というか、けっこう任侠の人なのかも。でも、彼が日本でがんがん打ちまくっている、なんて話を聞いたほうがぼくはうれしくなるが。
見た目がかなり若い日本人奏者が集まったオーケストラ(ミュージック・アート・ロマンティック・オーケストラと命名されている)はこの実演のために組まれたもののようで、コンサート・マスターはNHK交響楽団(2009年9月4日)でもそれを務めている人が担うとか。そして、指揮者はデイヴ・マックス・クロウフォードという外国人で、NYでやったときとは違う人のようだ。彼は客側から向かってステージ左端に横を見て立ち、指揮者と対面するオーケストラの面々は聴衆には横顔を見せる感じで、細長く(縦長に)位置する。NY公演の写真を見ると、オケはステージに普通の配置にて上がっているので、この晩のけったいなセッティングはステージの奥行きがないためになされたものと推測される。そしてMONOの面々は毎度のことという感じで淡々とオーケストラの前で演奏しはじめる。バンド音とオーケストラ音が拮抗するというものではなく、バンド音の深みや奥行きを付けるためにオーケストラ音がバンド音に寄り添っていく、という所感をぼくは得た。ただ、電気増幅のバンド音に比して、オケの音は小さかった。ともあれ、見た目だけでもかなり変テコで、こりゃいい(レアな)ものに触れさせてもらったナという気分になった。で、それを実行できちゃうMONOはすげえな、とも。スコアは誰が書いたのだろう?
途中まで見て、次はエリック・ベネイ@南青山・ブルーノート東京。サポートはキーボード、ベース、ドラムと簡素。コーラス音も含めプリセット音併用で、もう少しサポート人数を増やしてほしい。とともに、今回はベネイの格好が普通というか、少し安っぽい感じで、時節柄もあり(クリスマス・ソングも歌いました)もっと気張ってよと、ぼくは言いたくなった。とはいえ、客さばきも巧みに、ベネイ(1999年7月11日、2005年9月29日、他)は視野を広めに取る熟れてる優男ソウル・ショウをまっとう。彼はもともとカヴァー曲も笑顔でやっちゃう人だが今回はデイヴィッド・フォスター絡みの曲を次々に繰り出す場面も。女優のハル・ベリーと離婚しセックス依存症であることが衆知の事実になったころ、彼はワーナー・ブラザースから切られてしまいトホホの体、そんなベネイに温かく手を伸ばし、業界政治力で再び彼がワーナー(リプリーズ)と契約できる道を切り開いてくれた恩人がフォスターなのだ。昔、やったインタヴューで彼はそのことをありがたや〜と語っていたが、ここまでしおらしく感謝の念を出すとは。いい人というか、けっこう任侠の人なのかも。でも、彼が日本でがんがん打ちまくっている、なんて話を聞いたほうがぼくはうれしくなるが。
18時からのインタヴューのため最寄りの六本木駅に降りたら、だっせえ(ROPPONGIという電飾が各ポールごとに付けられる)電飾が通り沿いに延々付けられている。なんか成金趣味というか。それなりにはお金をかけているんだろうから、もっと趣味のいいものにすればいいのに。余計に、六本木が嫌いになる。その後、丸の内・コットンクラブに向かう。一番早く着く手段としてタクシーに乗ったものの、途中のお堀周辺はそこそこな渋滞。ちぇっ。皇居前の広場の横を通るとテントが沢山設営されていたが、そうか明日はお誕生日なのね。丸の内に入ると、かつて大規模な電飾がほどこされ年末は名所的な扱いを受けていた通りの木々にシンプルな電飾が付けられていた。それでも、綺麗。地下鉄ではなく地上の通りを行くと、いろいろなことが発見できるな。もともとクリスマス・シーズンを街頭の木々などを飾って祝うというのは海外のやり口だと思うが、いまや日本でもそうした街中電飾は師走の風物詩と言えるのか。
だいぶ遅刻しちゃったものの、コットンクラブ(ファースト・セット)でニコール・ヘンリー(2008年4月25日、2009年11月18日)。今回は、マイアミ在住の奏者で組まれた自分付きのピアノ・トリオをサポートにおいての実演。ぼく、彼女のファンです。時節柄、クリスマス・ソングも披露。彼女のショウには控え目ながらとても趣味の良いイルミネーションが付けられていた、と書いておきましょうか。終演後、忘年会に向かう。だいぶ、肝臓つかれぎみ。けっこう知らない人もそこにはいたが、気をつかいたくなかったので、知っている人とだけ話す。人間、そういうときもあるサ。素直に電車がある時間においとましたのだが、途中乗り換え地点の渋谷でつかまる。むにゃむにゃ。夜半にタクシーに乗ったら、今日が忘年会のピークなんですってねと、運転手さんから先日と同じようなことを言われる。うぬ、師走じゃ。
だいぶ遅刻しちゃったものの、コットンクラブ(ファースト・セット)でニコール・ヘンリー(2008年4月25日、2009年11月18日)。今回は、マイアミ在住の奏者で組まれた自分付きのピアノ・トリオをサポートにおいての実演。ぼく、彼女のファンです。時節柄、クリスマス・ソングも披露。彼女のショウには控え目ながらとても趣味の良いイルミネーションが付けられていた、と書いておきましょうか。終演後、忘年会に向かう。だいぶ、肝臓つかれぎみ。けっこう知らない人もそこにはいたが、気をつかいたくなかったので、知っている人とだけ話す。人間、そういうときもあるサ。素直に電車がある時間においとましたのだが、途中乗り換え地点の渋谷でつかまる。むにゃむにゃ。夜半にタクシーに乗ったら、今日が忘年会のピークなんですってねと、運転手さんから先日と同じようなことを言われる。うぬ、師走じゃ。
直枝政広(ヴォーカル、ギター)と太田譲(ベース、ヴォーカル)の二人になった日本人ロック・バンド(2003年10月3日、2004年12月12日、2006年4月14日)の新作『Velvet Velvet』はとんでもない傑作。とにかく、曲が含蓄豊かで出来が良い。で、ときに技ありで開かれた総体は、70年代から洋楽を聞いている者にとっては甘美さを口惜しいぐらい与えてくれる魔法のドロップみたい作品に仕上がっているのだ。と、書くと、少し後ろ向きな所を持つと思う人もいるかもしれないが、その一方で、前を見た意欲や迸りや発展の種ようなものも随所に埋め込まれていて、おおいに鼓舞されちゃうのだから! 祝日だし、家にいたい気持ちはなくはなかったが、こりゃ見なきゃと、渋谷・O-ウェストへ。
男性キーボード奏者と女性ドラマーをサポートに迎えて正々堂々、太い姿勢と質感たっぷりの実演を繰り広げる。新曲はもちろん、たぶん過去の代表曲もやったろう、そのショウはほぼ3時間。ひえ〜。もう、正の日本人のロックを堪能しまくりました。
会場で会った知人と流れた先で、どうしてあのドラマーを起用しているかというのが少し話題にのぼる。グルーヴがあまりないのと、音楽経験値の不足(たとえば、ザッパぽいインストでドラムが叩き込むときに、それがおこすカタルシスを理解していないから、譜割りでは間違ってなくてもなんかダイナミズムとパッションが欠けちゃう)は明らかだから。ちゃんと叩く人ではあるんだけど、最高峰のことをやっているから、こちらも高い目で見ちゃうのだ。男だけでやるより心が和むからかとか、女性コーラスがほしいからかとか、いろいろ見解が出ましたが。そういやあ、大学1年のとき学祭用にバンドを組んだ際、同じサークルにいたラモーンズしか叩けない女性ドラマーに入ってもらったんだけど(マミちゃん、元気ですかあ?)、リトル・フィートみたいなビート叩けとか無茶な要求したっけなー。
いやー。年末、いろいろ忙しい。このブログ原稿のアップはずっとほうっておいたが、生業の原稿はちゃんとこなし、締め切りもたぶん破っていないんじゃないかな。オレは偉い。と、最後に自画自賛。自分でおだてて、木に登りマース。
男性キーボード奏者と女性ドラマーをサポートに迎えて正々堂々、太い姿勢と質感たっぷりの実演を繰り広げる。新曲はもちろん、たぶん過去の代表曲もやったろう、そのショウはほぼ3時間。ひえ〜。もう、正の日本人のロックを堪能しまくりました。
会場で会った知人と流れた先で、どうしてあのドラマーを起用しているかというのが少し話題にのぼる。グルーヴがあまりないのと、音楽経験値の不足(たとえば、ザッパぽいインストでドラムが叩き込むときに、それがおこすカタルシスを理解していないから、譜割りでは間違ってなくてもなんかダイナミズムとパッションが欠けちゃう)は明らかだから。ちゃんと叩く人ではあるんだけど、最高峰のことをやっているから、こちらも高い目で見ちゃうのだ。男だけでやるより心が和むからかとか、女性コーラスがほしいからかとか、いろいろ見解が出ましたが。そういやあ、大学1年のとき学祭用にバンドを組んだ際、同じサークルにいたラモーンズしか叩けない女性ドラマーに入ってもらったんだけど(マミちゃん、元気ですかあ?)、リトル・フィートみたいなビート叩けとか無茶な要求したっけなー。
いやー。年末、いろいろ忙しい。このブログ原稿のアップはずっとほうっておいたが、生業の原稿はちゃんとこなし、締め切りもたぶん破っていないんじゃないかな。オレは偉い。と、最後に自画自賛。自分でおだてて、木に登りマース。