ケルティック・クリスマス
2009年12月12日 音楽 毎年恒例となっているケルト系アクトがいろいろ出るイヴェント、錦糸町・すみだトリフォニー・ホールでの同公演はカトリオーナ&クリス、アヌーナ、アルタンの順に出演。最後は3組一緒にパフォーマンスもする。カトリオーナ&クリスは人気者で、アヌーナとアルタンの両者から一緒にやりたいとリクエストがあったとか。どの出演者も、女性を含む編成。ケルト音楽はもともと男女差のない世界なのだろうか? な〜んてことをふと頭の片隅で考える。
カトリオーナ&クリスとアルタンは一週間前(2009年12月6日)に見たばかりだが、けっこう気分で進め方を変えていたりもするのだろうな。当然、根本は変わらぬが、受けた所感は過剰に既聴感なし。ま、それこそは当人たちもフレッシュにギグをこなせる所以ではあるのだろうけど。特に、アルタンは曲/構成もそれなりに変えていたような。アンコールでマレード・ニ・ウィニーがギター一本をバックに歌ったゆったり曲は胸にしみました。
そして、まん中に出た、アヌーナ(2007年12月15日)。アイルランドの大昔の宗教歌や伝承歌+αを今にワープさせようとするアカペラ集団(今回は女性7人、男性6人という編成)だが、やはり特殊で、視覚的にもとても綺麗で、ビミョーな力あふれていた。基本、みんなステージに立って歌うわけだが、ときに女性陣は1階/2階客席に出てきて、歌いながら移動したり……興味深すぎる3Dしなやか肉声表現だよなあ。もう浮世離れしていて、荘厳、静謐。一聴(一見)、クラシック流れとも言いたくなるお硬さや痒さを与えもするが、そのヴェールを1枚めくったところにある闊達さや自立感や創意の欠片の在処の興味深いこと。今回、リーダー/ディレクターのマイケル・マクグリンにいろいろ話を聞いたのだが、な〜るほど、そういう成り立ちであったのか(殆ど、語れてないよなー)。彼、一見とっつぁん坊やで、猫撫で声でしゃべる様(ダブリン生まれ/育ちながら、訛りのない綺麗な英語を話す)はオカマ風というか公家調(?)なのだが、次々ツっぱった発言が出てきてびっくり。で、結果的にすげえ変人だァと痛感させられるわけだが、とにかく、その発言を知ると、アイルランドの何かに根ざしつつ過去と現在を行き来しようとするそのコーラス表現にある本懐は明瞭に納得できるわけで……。そのインタヴューの抜粋を以下に載せておく。
○ 子供のころはどんな音楽が好きだったのでしょう?
「最初に熱くなった曲は、デイヴィッド・ボウイの“ライフ・オン・マーズ”だ。彼のことは今でも好き。そういえば、最初の子供が生まれて3日後に彼の公演がダブリンであって、見に行ったことがあった。妻(アヌーナの構成員の一人。子育のためだろう、来日には同行していない)も彼のファンだったので、携帯で中継してあげたんだ。そんなわけで、必ずしもクラシックに浸っていたわけではないし、間違ってもトラディッショナルを愛好してはいなかった」
○なら、子供のころはデイヴィッド・ボウイのようになりたかった?
「いや、彼のようになりたいとは思わなかったな。だって、彼はスターの資質を持つ人だけど、僕にはそれはなく、裏でものを作るタイプの人間だと知っていたから。デイヴィッド・ボウイはスターであることと実質を持つミュージシャンであることを両立させた初めての人なんじゃないかな」
○ クラシックの教育はちゃんと受けているんですよね?
「一応まなんでいることは学んでいるし学位も取っているけど、僕の教育的背景としては一部と言える。とくに、クラシックはクラシック、トラッドはトラッドといったように、それぞれの音楽がきっちりと括られているのが、僕は馴染めなかった。僕の興味はもっと広いし、実際クラシックの公演なんか滅多に行かないな。それだったら、ジャズのコンサートに行ったほうがいい。好きな作曲家はと問われれば、ドビュッシーと答えるけど、好きなシンガーはと問われれば、デイヴィッド・シルヴィアンと僕は答える」
○ そんなあなたは、どうしてアヌーナのような合唱団を主宰するようになったのでしょう。
「作曲家ではいられないという、焦燥感のようなものかな。世にパン屋や漁師や左官屋がいるように、芸術家はそれと同じく世の中の一部でしかない。そう思う僕は、アートの世界のスノッブな感じというのがとても許せなかった。なので、ただコンポーザーとして実態のないまま、そのスノッブな場所に存在するのがイヤだったんだ。そう思いつつ音楽理論やその歴史を学んでいくなかで、自分の進む道、自分が社会に問うべきこととして見えたのが、合唱だった」
○ 大学時代は音楽以外に、どんなことを学んでいました?
「専攻は音楽より英文学を熱心に取っていた。ダブリン大学とトリニティ・カレッジに学んだんだけど、トリニティでは中世の英語を勉強し、大学院にも進んだ。そっちのほうは、修士論文をバスの座席に置き忘れて紛失してしまい〜そのころは、パソコンなんて使っていなかったからね〜、ならもういいやという感じで、卒業はしなかったけど。僕の双子の弟のジョンはロックをやっていたけど、今は共同ディレクターのような形でアヌーナにも関わっているんだ。けど、そういう兄弟が関与しているからこそという部分が、アヌーナにはあると思う。僕はバンドは組まなかったけど、やはりあちこちで歌っていたんだよ。アイルランドには僕たちみたいな音楽家はいないし、いても知らない。何もない所から、僕はアヌーナを作り上げたんだ」
○ アヌーナを組んだのはいつ?
「23歳。合唱を最初にしたのが19歳のときで、それまでクワイアーで歌ったことはなかった。レパートリーはメシアンとかで、1時間半あまりの演目を終えたときに、僕は非常に怒りを覚えた。だって、こんなに美しい歌があるのに、それまで受けてきた音楽教育ではまったく教えてもらうことはなかった……そうした、システムの不備に対する怒りが沸々と湧いてきたんだ。でも、そうしたシステムを通ってこなかったからこそ、僕はもっと自由に合唱をやれると思ったときには、その怒りが少し薄れた。他に素晴らしい音楽があることを、僕は知っている。それをいろいろと持ってきて、新しい表現を作る事ができるんじゃないかと思ったんだ。合唱はとても素晴らしいもの、日本でもそうだろうと思うけど、だけど一方ではエリート主義が蔓延っていたりする。そういうものをとっぱらって、歌っている人もオーディエンスも同じなんだよというあり方を提示できるかなと思ったのは、その晩だった」
○ あなたが持つヴィジョンはすぐに、他の人にも分かってもらえた? それとも試行錯誤したのですか。
「全然、分かってもらえなかった。僕が言っていることが間違っているのかなとも思ってしまったよ(笑い)」
○ それで、もう20年もアヌーナをやっているけど、ターニング・ポイントと感じることは?
「いろいろあると思う。アヌーナは普通テンプレートがあるべきところ、なしでやってきているから、毎日がターニング・ポイントであり、試行錯誤の連続だね。大きい最たるものは96年で、“リバーダンス”のシンガー/ディレクターをやめたとき。ボスというのは一つのプロジェクトで一人しかありえないから、去ったんだ。それで、自腹を切ってファースト・アルバムを作った。貯金をはたいてね。あの頃、ああいいう事をしていた人はいないので、アルバムを買ってくれる人がいるかどうかも分からなかったけど、情熱の向くまま、最初のアルバムを作ったんだ。そのころ、アヌーナを始めて6年たっていたので、溜まっていたものはあったしね。ロバート・フロストの言葉ではないけど、駄目と言われる事、どうなるか分からない事を自分で責任を負ってやった、ということだ」
○ “リバーダンス”のプロジェクトは最初から関わっていたんですか。
「そう言っていいと思う。あれは、あちこちから派生したものを組み合わせたプロジェクトだった。ザ・チーフタンズがいて、ジーン・バトラーとマイケル・グラットレーのダンサーがいて、アンディ・アーヴァインらミュージシャンがいて、彼らが僕の歌に興味を持っていて、そういった人たちが“リバーダンス”の前身となったわけだ。で、“リバーダンス”として動き出した最初の6ヶ月は本当に刺激的だった。本当にダンサーもミュージシャンも素晴らしい人が揃っていたし、アヌーナもその中で特異な存在として注目を集めたし。トラッドなアイリッシュ音楽だけではなく、東欧からの影響とか、いろんなものものを示すことも出来たし、アイルランドの若い力みたいなものも出せたと思う。だけど、本当にそれが素晴らしかったのは95年の半ばぐらいまでだね。その後は、こんなコマーシャルな事は勘弁してくれと感じるようになってしまった。そもそもお金のためだったら、僕は音楽をやっていないからね。“リバーダンス”をやって良かったと思うのは、僕たちのような風変わりなコーラスを広く聞いてもらえる事ができたことに尽きる。ほんとに僕たちのコーラスはユニーク。唯一、やっていることは違うけど、先達としてクラナドがいるぐらいかな。“リバーダンス”で一番エキサイティングだったのは初めて聞くタイプのコーラスをやるアヌーナを聞けたことと、エルヴィス・コステロにほめられたのはうれしかった。僕たちは映画音楽にもとても影響を与えたみたいで、アヌーナぽいのが欲しいとか、ハリウッドでも言われているそうなんだ。僕はアイルランドやその音楽に対する誇りもあってアヌーナを始めたわけで、だからちゃんと評価を受けて軌道に乗ったのはうれしい。でないと、自尊心のあるアーティストでいれなくもなるしね」
○ レパートリーをいろんなところから取っていて、いろんな言語が用いられていますよね。その理由は?
「僕たちがやっていることのほとんどは、オーセンティックなものではない。正直言って〜実はぼくは正直ではなく、だから普通は昔の話はしないけど〜基本、僕は自分で聞きたい曲しか作らない。ケイト・ブッシュは自分のアルバムを聞かないと言ったけど、だったらなんで作るのと、僕は思う。話は脱線したけど、一般的な音楽の魅力のポイントはソウルフルさとか心に訴えるかとかなんだけど、僕の場合はそこに言葉が先に立つんだ。ラテン語、英語、アイルランド語とかいろいろだけど、歌われている言葉の響きに留意し、何語で歌うかを音楽のサウンドのスタイルを決めて行くわけさ」
○ これまで、アヌーナには沢山の人がメンバーとして出入りしているはずです。どんな基準でその構成員を選ぶんでしょうか?
「もう200人以上の人が出入りしたと思う。小さな国だし、その運営は楽ではない。寄ってくる人も多いけど、こちらから求めるものも多いからねえ。アヌーナに残る人は僕と同じぐらい情熱を持っている人。4、5年いては出て行くという人が多かったけど、ここ5年ぐらいの動きでは、2、3年いて出て、また戻ってくるという人が出てきている。それで、思い当たるのは、僕自身変わってきているからかなということ。感情でモノを判断していた所が大分自制するようになってきているから、それでアヌーナが居心地のいい場所になってきているのかもしれないな(笑い)。基本、オーディションはやっておらず、選ぶ基準は直感だね。それから、トレーニングをちゃんと受けたシンガーはあまり取っていないよ」
○ いろいろ種類が出ていますが、アルバムはコンセプトありきで作っている?
「いいや。コンセプチュアルな音楽材料を用意するといっても、曲を書く時間がない。だって、今、オフィイスで20人分ぐらいの仕事をしているから。そのため、二人の子供の相手をして、ふっとインスピレーションが湧くとピアノの前に走るというような生活をしているんだ。どうやって、アルバムの材料を用意しているかというのは二つの答えを用意するので、好きなほうを使ってもらえれば。その1、私はとてもアーティスティックな人間なので、何かにつけて古代の森に彷徨い、そこをふらふら歩き、そこからインスピレーションを受けて出てきたものが、アルバムに反映されます。その2、時間があるときだけ作曲活動にいそしみ、現実と音楽活動とのギャップを埋めるかのように創作生活を送っている結果のもの……。後者は夢がない答えだが、だからこそ、日常生活に振り回される人たちに分かってもらえるようなアルバムも作れるという解釈もできるんじゃないかな」
○コンサートでは女性は統一感のあるローブをまとい、視覚的に幻想的なものを提供しています。なんか、鮮やかな短編映画を見るような気持ちになったりもします。また、CDのジャケットも自然と構成員の姿を重ねたりとか、全体的な提示の仕方にも気を使っているように思えます。いい音楽を提供するだけでなく、イメージ作りも大切だと考えて、アヌーナをやっているように思えますが。
「クククク(笑い)。こんなの、日本でしか絶対にされない質問だよ。だから、日本でのインタヴューは好きなんだ。特にアメリカじゃこんな質問はされない、“リバーダンス”の話に終始されちゃうから。僕が表現を練る際、聞こえるというよりは、見えているという感覚でまとまっていくんだ。そういうものを人に伝えようとするときは、当然視覚的に伝えたくはなるよね。だから、僕が得たヴィジョンに従い、そこに中世的なフレイヴァーが付けられたり、太古の雰囲気が出るようにしたり。でも、それが妙に古いものであってはいけない。僕が提供しようとしているのは、今の表現。けっしてわざとらしくないもので、旧さも感じさせるような行き方を、僕は求めている」
カトリオーナ&クリスとアルタンは一週間前(2009年12月6日)に見たばかりだが、けっこう気分で進め方を変えていたりもするのだろうな。当然、根本は変わらぬが、受けた所感は過剰に既聴感なし。ま、それこそは当人たちもフレッシュにギグをこなせる所以ではあるのだろうけど。特に、アルタンは曲/構成もそれなりに変えていたような。アンコールでマレード・ニ・ウィニーがギター一本をバックに歌ったゆったり曲は胸にしみました。
そして、まん中に出た、アヌーナ(2007年12月15日)。アイルランドの大昔の宗教歌や伝承歌+αを今にワープさせようとするアカペラ集団(今回は女性7人、男性6人という編成)だが、やはり特殊で、視覚的にもとても綺麗で、ビミョーな力あふれていた。基本、みんなステージに立って歌うわけだが、ときに女性陣は1階/2階客席に出てきて、歌いながら移動したり……興味深すぎる3Dしなやか肉声表現だよなあ。もう浮世離れしていて、荘厳、静謐。一聴(一見)、クラシック流れとも言いたくなるお硬さや痒さを与えもするが、そのヴェールを1枚めくったところにある闊達さや自立感や創意の欠片の在処の興味深いこと。今回、リーダー/ディレクターのマイケル・マクグリンにいろいろ話を聞いたのだが、な〜るほど、そういう成り立ちであったのか(殆ど、語れてないよなー)。彼、一見とっつぁん坊やで、猫撫で声でしゃべる様(ダブリン生まれ/育ちながら、訛りのない綺麗な英語を話す)はオカマ風というか公家調(?)なのだが、次々ツっぱった発言が出てきてびっくり。で、結果的にすげえ変人だァと痛感させられるわけだが、とにかく、その発言を知ると、アイルランドの何かに根ざしつつ過去と現在を行き来しようとするそのコーラス表現にある本懐は明瞭に納得できるわけで……。そのインタヴューの抜粋を以下に載せておく。
○ 子供のころはどんな音楽が好きだったのでしょう?
「最初に熱くなった曲は、デイヴィッド・ボウイの“ライフ・オン・マーズ”だ。彼のことは今でも好き。そういえば、最初の子供が生まれて3日後に彼の公演がダブリンであって、見に行ったことがあった。妻(アヌーナの構成員の一人。子育のためだろう、来日には同行していない)も彼のファンだったので、携帯で中継してあげたんだ。そんなわけで、必ずしもクラシックに浸っていたわけではないし、間違ってもトラディッショナルを愛好してはいなかった」
○なら、子供のころはデイヴィッド・ボウイのようになりたかった?
「いや、彼のようになりたいとは思わなかったな。だって、彼はスターの資質を持つ人だけど、僕にはそれはなく、裏でものを作るタイプの人間だと知っていたから。デイヴィッド・ボウイはスターであることと実質を持つミュージシャンであることを両立させた初めての人なんじゃないかな」
○ クラシックの教育はちゃんと受けているんですよね?
「一応まなんでいることは学んでいるし学位も取っているけど、僕の教育的背景としては一部と言える。とくに、クラシックはクラシック、トラッドはトラッドといったように、それぞれの音楽がきっちりと括られているのが、僕は馴染めなかった。僕の興味はもっと広いし、実際クラシックの公演なんか滅多に行かないな。それだったら、ジャズのコンサートに行ったほうがいい。好きな作曲家はと問われれば、ドビュッシーと答えるけど、好きなシンガーはと問われれば、デイヴィッド・シルヴィアンと僕は答える」
○ そんなあなたは、どうしてアヌーナのような合唱団を主宰するようになったのでしょう。
「作曲家ではいられないという、焦燥感のようなものかな。世にパン屋や漁師や左官屋がいるように、芸術家はそれと同じく世の中の一部でしかない。そう思う僕は、アートの世界のスノッブな感じというのがとても許せなかった。なので、ただコンポーザーとして実態のないまま、そのスノッブな場所に存在するのがイヤだったんだ。そう思いつつ音楽理論やその歴史を学んでいくなかで、自分の進む道、自分が社会に問うべきこととして見えたのが、合唱だった」
○ 大学時代は音楽以外に、どんなことを学んでいました?
「専攻は音楽より英文学を熱心に取っていた。ダブリン大学とトリニティ・カレッジに学んだんだけど、トリニティでは中世の英語を勉強し、大学院にも進んだ。そっちのほうは、修士論文をバスの座席に置き忘れて紛失してしまい〜そのころは、パソコンなんて使っていなかったからね〜、ならもういいやという感じで、卒業はしなかったけど。僕の双子の弟のジョンはロックをやっていたけど、今は共同ディレクターのような形でアヌーナにも関わっているんだ。けど、そういう兄弟が関与しているからこそという部分が、アヌーナにはあると思う。僕はバンドは組まなかったけど、やはりあちこちで歌っていたんだよ。アイルランドには僕たちみたいな音楽家はいないし、いても知らない。何もない所から、僕はアヌーナを作り上げたんだ」
○ アヌーナを組んだのはいつ?
「23歳。合唱を最初にしたのが19歳のときで、それまでクワイアーで歌ったことはなかった。レパートリーはメシアンとかで、1時間半あまりの演目を終えたときに、僕は非常に怒りを覚えた。だって、こんなに美しい歌があるのに、それまで受けてきた音楽教育ではまったく教えてもらうことはなかった……そうした、システムの不備に対する怒りが沸々と湧いてきたんだ。でも、そうしたシステムを通ってこなかったからこそ、僕はもっと自由に合唱をやれると思ったときには、その怒りが少し薄れた。他に素晴らしい音楽があることを、僕は知っている。それをいろいろと持ってきて、新しい表現を作る事ができるんじゃないかと思ったんだ。合唱はとても素晴らしいもの、日本でもそうだろうと思うけど、だけど一方ではエリート主義が蔓延っていたりする。そういうものをとっぱらって、歌っている人もオーディエンスも同じなんだよというあり方を提示できるかなと思ったのは、その晩だった」
○ あなたが持つヴィジョンはすぐに、他の人にも分かってもらえた? それとも試行錯誤したのですか。
「全然、分かってもらえなかった。僕が言っていることが間違っているのかなとも思ってしまったよ(笑い)」
○ それで、もう20年もアヌーナをやっているけど、ターニング・ポイントと感じることは?
「いろいろあると思う。アヌーナは普通テンプレートがあるべきところ、なしでやってきているから、毎日がターニング・ポイントであり、試行錯誤の連続だね。大きい最たるものは96年で、“リバーダンス”のシンガー/ディレクターをやめたとき。ボスというのは一つのプロジェクトで一人しかありえないから、去ったんだ。それで、自腹を切ってファースト・アルバムを作った。貯金をはたいてね。あの頃、ああいいう事をしていた人はいないので、アルバムを買ってくれる人がいるかどうかも分からなかったけど、情熱の向くまま、最初のアルバムを作ったんだ。そのころ、アヌーナを始めて6年たっていたので、溜まっていたものはあったしね。ロバート・フロストの言葉ではないけど、駄目と言われる事、どうなるか分からない事を自分で責任を負ってやった、ということだ」
○ “リバーダンス”のプロジェクトは最初から関わっていたんですか。
「そう言っていいと思う。あれは、あちこちから派生したものを組み合わせたプロジェクトだった。ザ・チーフタンズがいて、ジーン・バトラーとマイケル・グラットレーのダンサーがいて、アンディ・アーヴァインらミュージシャンがいて、彼らが僕の歌に興味を持っていて、そういった人たちが“リバーダンス”の前身となったわけだ。で、“リバーダンス”として動き出した最初の6ヶ月は本当に刺激的だった。本当にダンサーもミュージシャンも素晴らしい人が揃っていたし、アヌーナもその中で特異な存在として注目を集めたし。トラッドなアイリッシュ音楽だけではなく、東欧からの影響とか、いろんなものものを示すことも出来たし、アイルランドの若い力みたいなものも出せたと思う。だけど、本当にそれが素晴らしかったのは95年の半ばぐらいまでだね。その後は、こんなコマーシャルな事は勘弁してくれと感じるようになってしまった。そもそもお金のためだったら、僕は音楽をやっていないからね。“リバーダンス”をやって良かったと思うのは、僕たちのような風変わりなコーラスを広く聞いてもらえる事ができたことに尽きる。ほんとに僕たちのコーラスはユニーク。唯一、やっていることは違うけど、先達としてクラナドがいるぐらいかな。“リバーダンス”で一番エキサイティングだったのは初めて聞くタイプのコーラスをやるアヌーナを聞けたことと、エルヴィス・コステロにほめられたのはうれしかった。僕たちは映画音楽にもとても影響を与えたみたいで、アヌーナぽいのが欲しいとか、ハリウッドでも言われているそうなんだ。僕はアイルランドやその音楽に対する誇りもあってアヌーナを始めたわけで、だからちゃんと評価を受けて軌道に乗ったのはうれしい。でないと、自尊心のあるアーティストでいれなくもなるしね」
○ レパートリーをいろんなところから取っていて、いろんな言語が用いられていますよね。その理由は?
「僕たちがやっていることのほとんどは、オーセンティックなものではない。正直言って〜実はぼくは正直ではなく、だから普通は昔の話はしないけど〜基本、僕は自分で聞きたい曲しか作らない。ケイト・ブッシュは自分のアルバムを聞かないと言ったけど、だったらなんで作るのと、僕は思う。話は脱線したけど、一般的な音楽の魅力のポイントはソウルフルさとか心に訴えるかとかなんだけど、僕の場合はそこに言葉が先に立つんだ。ラテン語、英語、アイルランド語とかいろいろだけど、歌われている言葉の響きに留意し、何語で歌うかを音楽のサウンドのスタイルを決めて行くわけさ」
○ これまで、アヌーナには沢山の人がメンバーとして出入りしているはずです。どんな基準でその構成員を選ぶんでしょうか?
「もう200人以上の人が出入りしたと思う。小さな国だし、その運営は楽ではない。寄ってくる人も多いけど、こちらから求めるものも多いからねえ。アヌーナに残る人は僕と同じぐらい情熱を持っている人。4、5年いては出て行くという人が多かったけど、ここ5年ぐらいの動きでは、2、3年いて出て、また戻ってくるという人が出てきている。それで、思い当たるのは、僕自身変わってきているからかなということ。感情でモノを判断していた所が大分自制するようになってきているから、それでアヌーナが居心地のいい場所になってきているのかもしれないな(笑い)。基本、オーディションはやっておらず、選ぶ基準は直感だね。それから、トレーニングをちゃんと受けたシンガーはあまり取っていないよ」
○ いろいろ種類が出ていますが、アルバムはコンセプトありきで作っている?
「いいや。コンセプチュアルな音楽材料を用意するといっても、曲を書く時間がない。だって、今、オフィイスで20人分ぐらいの仕事をしているから。そのため、二人の子供の相手をして、ふっとインスピレーションが湧くとピアノの前に走るというような生活をしているんだ。どうやって、アルバムの材料を用意しているかというのは二つの答えを用意するので、好きなほうを使ってもらえれば。その1、私はとてもアーティスティックな人間なので、何かにつけて古代の森に彷徨い、そこをふらふら歩き、そこからインスピレーションを受けて出てきたものが、アルバムに反映されます。その2、時間があるときだけ作曲活動にいそしみ、現実と音楽活動とのギャップを埋めるかのように創作生活を送っている結果のもの……。後者は夢がない答えだが、だからこそ、日常生活に振り回される人たちに分かってもらえるようなアルバムも作れるという解釈もできるんじゃないかな」
○コンサートでは女性は統一感のあるローブをまとい、視覚的に幻想的なものを提供しています。なんか、鮮やかな短編映画を見るような気持ちになったりもします。また、CDのジャケットも自然と構成員の姿を重ねたりとか、全体的な提示の仕方にも気を使っているように思えます。いい音楽を提供するだけでなく、イメージ作りも大切だと考えて、アヌーナをやっているように思えますが。
「クククク(笑い)。こんなの、日本でしか絶対にされない質問だよ。だから、日本でのインタヴューは好きなんだ。特にアメリカじゃこんな質問はされない、“リバーダンス”の話に終始されちゃうから。僕が表現を練る際、聞こえるというよりは、見えているという感覚でまとまっていくんだ。そういうものを人に伝えようとするときは、当然視覚的に伝えたくはなるよね。だから、僕が得たヴィジョンに従い、そこに中世的なフレイヴァーが付けられたり、太古の雰囲気が出るようにしたり。でも、それが妙に古いものであってはいけない。僕が提供しようとしているのは、今の表現。けっしてわざとらしくないもので、旧さも感じさせるような行き方を、僕は求めている」