以下は、2月初旬にニューオーリンズに行ったときに、山岸潤史と交わし
た会話。パパ・グロウズ・ファンクはけっこうヨーロッパに行っているとい
う話のあとに......。
「パパグロはオーストラリアにも毎年行っているな。今年は行かんけど」
「え、なんでオーストラリア?」
「おまえ、知らんの? ブルース・フェスってのが毎年春にあるの。デカい
やつ。俺ら、毎年そこに呼ばれてた」
「えー、そんなのあるなんて知らなかった。行ってみたいなー」
「おう、あれはいいぞ」
なんて、会話をかわしていたら、実際行ってしまった。
正式名称は、“Byron Bay East Coast Blues & Roots Music Festival
2007" 。なんと今年で18回目を数えるフェスで、ここ5年ぐらいで立派なも
のになったらしい。バイロン・ベイとは、ブリスベンからゴールド・コース
トを越して南下し、車で2時間ちょい行ったサーフィンの有名地でもあるリ
ゾート地っぽいところ。で、大幅に略して、ブルース・フェスと呼ばれ、記
載もされる。とはいえ、純粋なブルース・マンの出演は今年はゼロで、ルー
ツと繋がった自然体のアクトや人間ぽいグループが呼ばれていて(ベン・ハ
ーパー、ボニー・レイット、フィッシュボーン、オゾマトリ、ボ・ディドリ
ー、リー・ペリー、ジョン・メイヤー他)、出演者は100 組あまり。うち半
数はジョン・バトラーらオージーのアーティストといった案配かな。イース
ター・ウィーク、ようはあちらのゴールデン・ウィークにあわせて5日間も
のあいだ開催され、4つの大小ステージを持ち昼から11時すぎまで(平日で
ある初日のみ、夕方から)、パフォーマンスを楽しむことができる。ラグビ
ー場(というか、それなりの高低を持つ芝生地にしか、思えなかったが)を
利用した野外会場だが、各ステージはテントが組まれ、屋根つき。でかいテ
ントは幕張メッセの1区画ぶんぐらいあるかも。なんでまだ夏場なのに熱く
てたまらんだろと感じたが、それについてはずっとフェスに付き合うとその
必然性を鬼のように感じたわけで......。なお、ジャック・ジョンソンはバ
イロン・ベイに家を持っていてずっと家族たちと滞在しているとかで、AL
Oやウィル・コナーのライヴに出演するなど大車輪の活躍で観客を沸かせた
りも。他にも、オゾとフィッボーンのアンジェロの正義の共演とか、ハーパ
ーとレイットのハート・オブ・ブルースな共演とかもあり。詳細は、だいぶ
後にアップします。やること多すぎて。とともに、せっかく和んできたのに
、根を急につめると身体や頭に悪そうだしい....... 。公式ホームページは
http://www.bluesfest.com.au/index.html
と書いて、おいて1年以上なにも追記してなかったが、The Dig誌にフェスの
模様を書いていたので、それを転載する(→4月6日の項に)
た会話。パパ・グロウズ・ファンクはけっこうヨーロッパに行っているとい
う話のあとに......。
「パパグロはオーストラリアにも毎年行っているな。今年は行かんけど」
「え、なんでオーストラリア?」
「おまえ、知らんの? ブルース・フェスってのが毎年春にあるの。デカい
やつ。俺ら、毎年そこに呼ばれてた」
「えー、そんなのあるなんて知らなかった。行ってみたいなー」
「おう、あれはいいぞ」
なんて、会話をかわしていたら、実際行ってしまった。
正式名称は、“Byron Bay East Coast Blues & Roots Music Festival
2007" 。なんと今年で18回目を数えるフェスで、ここ5年ぐらいで立派なも
のになったらしい。バイロン・ベイとは、ブリスベンからゴールド・コース
トを越して南下し、車で2時間ちょい行ったサーフィンの有名地でもあるリ
ゾート地っぽいところ。で、大幅に略して、ブルース・フェスと呼ばれ、記
載もされる。とはいえ、純粋なブルース・マンの出演は今年はゼロで、ルー
ツと繋がった自然体のアクトや人間ぽいグループが呼ばれていて(ベン・ハ
ーパー、ボニー・レイット、フィッシュボーン、オゾマトリ、ボ・ディドリ
ー、リー・ペリー、ジョン・メイヤー他)、出演者は100 組あまり。うち半
数はジョン・バトラーらオージーのアーティストといった案配かな。イース
ター・ウィーク、ようはあちらのゴールデン・ウィークにあわせて5日間も
のあいだ開催され、4つの大小ステージを持ち昼から11時すぎまで(平日で
ある初日のみ、夕方から)、パフォーマンスを楽しむことができる。ラグビ
ー場(というか、それなりの高低を持つ芝生地にしか、思えなかったが)を
利用した野外会場だが、各ステージはテントが組まれ、屋根つき。でかいテ
ントは幕張メッセの1区画ぶんぐらいあるかも。なんでまだ夏場なのに熱く
てたまらんだろと感じたが、それについてはずっとフェスに付き合うとその
必然性を鬼のように感じたわけで......。なお、ジャック・ジョンソンはバ
イロン・ベイに家を持っていてずっと家族たちと滞在しているとかで、AL
Oやウィル・コナーのライヴに出演するなど大車輪の活躍で観客を沸かせた
りも。他にも、オゾとフィッボーンのアンジェロの正義の共演とか、ハーパ
ーとレイットのハート・オブ・ブルースな共演とかもあり。詳細は、だいぶ
後にアップします。やること多すぎて。とともに、せっかく和んできたのに
、根を急につめると身体や頭に悪そうだしい....... 。公式ホームページは
http://www.bluesfest.com.au/index.html
と書いて、おいて1年以上なにも追記してなかったが、The Dig誌にフェスの
模様を書いていたので、それを転載する(→4月6日の項に)
豪州で開かれるバイロンベイ・ブルース・フェスという音楽フェスを、ご存じだろうか。正式名はバイロンベイ・イーストコースト・ブルース&ルーツ・フェスティヴァルというが、主催者側を含めみんなブルース・フェスと呼んだり表記したりしている。すでに今年で18回目を重ねる音楽フェスで、これに複数回パパ・グロウズ・ファンクで出演しているニューオーリンズ在住の山岸潤史の話によると、米国のアーシー傾向にあるミュージシャンの間ではよく知られるフェスであるという。
同フェスはゴールデンウィークたるイースターを利用した5日間に渡るもので、今年は4月5日から9日にかけて行われた。平日である初日は夕方から始まり、後の4日間はお昼から夜半まで4つのステージでパフォーマンスが悠々と繰り広げられる。動員はインフォーメションの人に聞いたら8万人ぐらいかなあ、との返事。肝心の出演者は百組ほどで、うち半数近くはジョン・バトラー・トリオをはじめとする豪州のバンドといった感じだろうか。
もう少し概要に触れておくと、バイロンベイは豪州最東端にあるサーフィン・リゾート地でブリスベンからゴールドコーストを越して車で2時間南下したところにある。ものすごーく緑が溢れる(それはバリ島のそれを思わせたりもする)、生理的にナチュラルかつ爽やかなまさにリゾートで、サーフィンをしないぼくでもフェス抜きでまた来たいと思わせられる土地ではあったな。不動産研究しちゃったりして。
そして、会場となるのはバイロンベイ高校(フェス期間中はここが駐車場として使われる)の前にある、ラグビー場がある草原。その大きさは、フジ・ロックのグリーン・ステージ強ほど(ゆえに、そこを横切っても5分ぐらいか。会場内の人口密度はかなり高い)。そこに、モージョー、クロスローズ、ジャンバラヤ、アプラと名付けられた4つテントが張られるわけだが、一番デカいテントは1万人ぐらいは入ろうかというもの。当初は環境がいいのになんで屋根付き会場にするのかなと思わせられたが、それは2日目からとても納得。とにかく天候が不安定なのだなあ。陽がさしているときも当然あるのだが、結構スコール的に雨が降る。おかげで綺麗な虹もしっかり見れたが、天候の不安定さには閉口させられました。ちなみに、同地はちょうど3月いっぱいでサマータイムが終了し、秋に向かいだす時期となる。
ところで、ベイロンベイは本来サーフィン好きのヒッピーが移り住んだという土地であるよう(車で1時間半ほどの所にニンビンとういう、もろにヒッピーの街もあった)なのだが、それは会場に来ている人達を見れば一目瞭然。老若男女(まさしく、いろんな層が混在)を問わず、そういうノリの人がけっこういたからナ。なお、会場内には観覧車が設置されるなど、お祭り/娯楽ムードは横溢。夜には、派手に着飾ったサンバ隊が場内を徘徊していたりもした。ま、ピースフルで緩〜い観客が多く、さらにはリゾートたる気持ちのいいヴァイヴが流れるフェスであったとは間違いなく言えると思う。
そうしたなか、印象に残った出演者を挙げていくと、リー・ペリー(妙に場の雰囲気にあっていた。照明もきれいだったなー)、ジョン・メイヤー(なんか、ブルース・フェスという名目に合わせてか、かなりブルージィかつソウルフルなパフォーマンスに終始)、ゴメス(俺たちはどこに行っても俺たちだよーん的マイペースさが素敵)、ボー・ディドリー(お茶目に、威風堂々)、ALO(理由は後述する)、フィッシュボーン(実は解散しかかったとか。オリジナル・メンバーは2人ながら心機一転、起爆力あり。ファンで良かった!)、オゾマトリ(相変わらず。で、高揚)、カーキ・キング(例によってソロ・パーマンスながら、開かれた態度をうまく出せるようになった)、タージ・マハール(余裕。出演者のなかではもっともブルースと繋がっている部分もあったか)、ブルー・キング・ブラウン(魅力的な褐色の女性シンガーをフロントに置くオーストラリアン・バンド)、ピエール・ファッチーニ(ジャック・ジョンソンとベン・ハーパーの応援を受ける自作自演派。薄口の渋さに、嬉しい含みアリ)、アッシュ・グランワルド(新機軸のオージー・ブルースマン。一人で、ボブ・ログ三世もびっくりのパフォーマンスを披露。引きつけられた)、ボニー・レイット(彼女を見れたのは、とにもかくにも嬉しかった。老けたが、演奏は文句なく質高し。キーボード奏者はニューオーンズに住むジョン・クリアリーだった)、ベン・ハーパー(ー誠心誠意、渾身)、等々。なお、トニー・ジョー・ホウイト(渋かった。フェスの良心を体現する一人だったか)、ジョス・ストーン(異常に受けてて、本人も鬼のように気張っていた)、ジギー・マーリー(日本で見たばかりだったので、殆ど見てない)、フロッギング・モリー(彼らは、その格好もあり楽屋でちょっと浮いていたかも)、ベン・クェイラー(甘ちゃん感覚に馴染めず)らは、このフェスの前後に日本に寄ってギグをやっていますね。
それから、バイロンベイがサーフィン縁の地であることは先に触れたが、同地に住むサーファー・ミュージシャンのウィル・コナー(ロング・ボードの世界チャンピオン、ボー・ヤングが一部加わった)やサーフィン界超スターの一人で近年音楽活動に力を注いでいる米国人ティミー・カラン(昨年、フー・ファイターズがツアー前座に起用している)などは場にあったアクトだったと言えるか。いい感じで、ステージをまっとうしていたナ。で、サーフィン系シンガー・ソングライターというとまずはジャック・ジョンソンの事を思い出す人も多いだろうが、実は彼はバイロンベイに別荘を持っていて家族とともに滞在中。そんな彼は友達のウィル・コナーやALO(4曲目から加わり、それは殆どジョンソン公演になっていた。実は、事前にスタジオに入ってちゃんとリハをしたそう)のステージに飛び入りし、今年の同フェスの影のV.I.P.だったかもしれない。
さらに開放的なフェスらしいハプニングはあって、それは中日にフィッシュボーンのアンジェロがオゾマトリ(フィッシュボーンは世界一売れなきゃならないバンドだと思う、と語っていたことあり)のステージに飛び入りし男気の交換を行ったことと、最終日の最後のベン・ハーパーのステージの冒頭にわざわざボニー・レイット(実は、別のステージのトリだった)が上がってブルースを愛でる者同志のデュオ共演をしたこと。ぼくにとっては、その二つが最大のフェスのハイライト。いやあ、ともに額面以上の感興を得て、ぼくは本当に舞い上がってしまった。
このバイロンベイの音楽フェス、ブルース・フェスと堂々と言ってわりには純ブルースマンの出演はない。でもって、さすが白豪主義をとっていた国だけあって、観客はマジ白人だけだ。でも、<ブルース=地に足を付けた、オーンガニックな人間的表現>と拡大解釈されたような出演者たちの多くは雄弁に自分を出し、これぞバイロンベイ・ブルース・フェスといった内実を作りあげていたと思う。端的に言えば、了見の広いロックっていいじゃん。ぼくはこの南半球で、変わらなくてもいい、嬉しいロック的な態度/情緒に触れたような気にもなったのだ。
○以上、ザ・ディグ誌に書いたものを転載
<追記>じつはフェスの帰りに、豪州ツアーに入るベン・ハーパーご一行のブリスベン空港行きの大型バスに、やはり同時刻発の飛行機に乗るぼくは便乗させてもらったりも。彼らは国内線ターミナルで降り、ぼくは国際線ターミナル。早朝だったので、彼ら(25人ぐらいいたかな。現マネージャーはかつてジャック・ジョンソンのそれをしていた人)もぼくもグーグー寝てましたが。
同フェスはゴールデンウィークたるイースターを利用した5日間に渡るもので、今年は4月5日から9日にかけて行われた。平日である初日は夕方から始まり、後の4日間はお昼から夜半まで4つのステージでパフォーマンスが悠々と繰り広げられる。動員はインフォーメションの人に聞いたら8万人ぐらいかなあ、との返事。肝心の出演者は百組ほどで、うち半数近くはジョン・バトラー・トリオをはじめとする豪州のバンドといった感じだろうか。
もう少し概要に触れておくと、バイロンベイは豪州最東端にあるサーフィン・リゾート地でブリスベンからゴールドコーストを越して車で2時間南下したところにある。ものすごーく緑が溢れる(それはバリ島のそれを思わせたりもする)、生理的にナチュラルかつ爽やかなまさにリゾートで、サーフィンをしないぼくでもフェス抜きでまた来たいと思わせられる土地ではあったな。不動産研究しちゃったりして。
そして、会場となるのはバイロンベイ高校(フェス期間中はここが駐車場として使われる)の前にある、ラグビー場がある草原。その大きさは、フジ・ロックのグリーン・ステージ強ほど(ゆえに、そこを横切っても5分ぐらいか。会場内の人口密度はかなり高い)。そこに、モージョー、クロスローズ、ジャンバラヤ、アプラと名付けられた4つテントが張られるわけだが、一番デカいテントは1万人ぐらいは入ろうかというもの。当初は環境がいいのになんで屋根付き会場にするのかなと思わせられたが、それは2日目からとても納得。とにかく天候が不安定なのだなあ。陽がさしているときも当然あるのだが、結構スコール的に雨が降る。おかげで綺麗な虹もしっかり見れたが、天候の不安定さには閉口させられました。ちなみに、同地はちょうど3月いっぱいでサマータイムが終了し、秋に向かいだす時期となる。
ところで、ベイロンベイは本来サーフィン好きのヒッピーが移り住んだという土地であるよう(車で1時間半ほどの所にニンビンとういう、もろにヒッピーの街もあった)なのだが、それは会場に来ている人達を見れば一目瞭然。老若男女(まさしく、いろんな層が混在)を問わず、そういうノリの人がけっこういたからナ。なお、会場内には観覧車が設置されるなど、お祭り/娯楽ムードは横溢。夜には、派手に着飾ったサンバ隊が場内を徘徊していたりもした。ま、ピースフルで緩〜い観客が多く、さらにはリゾートたる気持ちのいいヴァイヴが流れるフェスであったとは間違いなく言えると思う。
そうしたなか、印象に残った出演者を挙げていくと、リー・ペリー(妙に場の雰囲気にあっていた。照明もきれいだったなー)、ジョン・メイヤー(なんか、ブルース・フェスという名目に合わせてか、かなりブルージィかつソウルフルなパフォーマンスに終始)、ゴメス(俺たちはどこに行っても俺たちだよーん的マイペースさが素敵)、ボー・ディドリー(お茶目に、威風堂々)、ALO(理由は後述する)、フィッシュボーン(実は解散しかかったとか。オリジナル・メンバーは2人ながら心機一転、起爆力あり。ファンで良かった!)、オゾマトリ(相変わらず。で、高揚)、カーキ・キング(例によってソロ・パーマンスながら、開かれた態度をうまく出せるようになった)、タージ・マハール(余裕。出演者のなかではもっともブルースと繋がっている部分もあったか)、ブルー・キング・ブラウン(魅力的な褐色の女性シンガーをフロントに置くオーストラリアン・バンド)、ピエール・ファッチーニ(ジャック・ジョンソンとベン・ハーパーの応援を受ける自作自演派。薄口の渋さに、嬉しい含みアリ)、アッシュ・グランワルド(新機軸のオージー・ブルースマン。一人で、ボブ・ログ三世もびっくりのパフォーマンスを披露。引きつけられた)、ボニー・レイット(彼女を見れたのは、とにもかくにも嬉しかった。老けたが、演奏は文句なく質高し。キーボード奏者はニューオーンズに住むジョン・クリアリーだった)、ベン・ハーパー(ー誠心誠意、渾身)、等々。なお、トニー・ジョー・ホウイト(渋かった。フェスの良心を体現する一人だったか)、ジョス・ストーン(異常に受けてて、本人も鬼のように気張っていた)、ジギー・マーリー(日本で見たばかりだったので、殆ど見てない)、フロッギング・モリー(彼らは、その格好もあり楽屋でちょっと浮いていたかも)、ベン・クェイラー(甘ちゃん感覚に馴染めず)らは、このフェスの前後に日本に寄ってギグをやっていますね。
それから、バイロンベイがサーフィン縁の地であることは先に触れたが、同地に住むサーファー・ミュージシャンのウィル・コナー(ロング・ボードの世界チャンピオン、ボー・ヤングが一部加わった)やサーフィン界超スターの一人で近年音楽活動に力を注いでいる米国人ティミー・カラン(昨年、フー・ファイターズがツアー前座に起用している)などは場にあったアクトだったと言えるか。いい感じで、ステージをまっとうしていたナ。で、サーフィン系シンガー・ソングライターというとまずはジャック・ジョンソンの事を思い出す人も多いだろうが、実は彼はバイロンベイに別荘を持っていて家族とともに滞在中。そんな彼は友達のウィル・コナーやALO(4曲目から加わり、それは殆どジョンソン公演になっていた。実は、事前にスタジオに入ってちゃんとリハをしたそう)のステージに飛び入りし、今年の同フェスの影のV.I.P.だったかもしれない。
さらに開放的なフェスらしいハプニングはあって、それは中日にフィッシュボーンのアンジェロがオゾマトリ(フィッシュボーンは世界一売れなきゃならないバンドだと思う、と語っていたことあり)のステージに飛び入りし男気の交換を行ったことと、最終日の最後のベン・ハーパーのステージの冒頭にわざわざボニー・レイット(実は、別のステージのトリだった)が上がってブルースを愛でる者同志のデュオ共演をしたこと。ぼくにとっては、その二つが最大のフェスのハイライト。いやあ、ともに額面以上の感興を得て、ぼくは本当に舞い上がってしまった。
このバイロンベイの音楽フェス、ブルース・フェスと堂々と言ってわりには純ブルースマンの出演はない。でもって、さすが白豪主義をとっていた国だけあって、観客はマジ白人だけだ。でも、<ブルース=地に足を付けた、オーンガニックな人間的表現>と拡大解釈されたような出演者たちの多くは雄弁に自分を出し、これぞバイロンベイ・ブルース・フェスといった内実を作りあげていたと思う。端的に言えば、了見の広いロックっていいじゃん。ぼくはこの南半球で、変わらなくてもいい、嬉しいロック的な態度/情緒に触れたような気にもなったのだ。
○以上、ザ・ディグ誌に書いたものを転載
<追記>じつはフェスの帰りに、豪州ツアーに入るベン・ハーパーご一行のブリスベン空港行きの大型バスに、やはり同時刻発の飛行機に乗るぼくは便乗させてもらったりも。彼らは国内線ターミナルで降り、ぼくは国際線ターミナル。早朝だったので、彼ら(25人ぐらいいたかな。現マネージャーはかつてジャック・ジョンソンのそれをしていた人)もぼくもグーグー寝てましたが。
中村卓也+南博+ウィンチェスター・ニ・テテ+杉本智和
2007年4月12日 バイオを見ると関与ジャンルが多彩に散ってるトランペット(エフェクタ
ーをかけない、素の音だと少し辛い)/電気音を担当する中村を中央に、清
新日本ジャズ界中枢にいるピアニストの南(2001年10月29日、2005
年6月9日、2005年9月11日)とベース奏者の杉本(2002年9月22日、20
03年6月10日、2004年8月18日)、そしてガーナ出身の打楽器奏者のテ
テという組み合わせの実演。で、ダンスィングドール、という名前がつけら
れているようだ。前知識はほとんどなしで接する。エレクトロニクな一発セ
ッションぽいノリなのかと思ったら、けっこう中村の曲なのだろうか、それ
なりにメロディ感覚のある、ゆったりした演奏を披露。一部ジャズ的なソロ
を取るところもあったが、ライヴに触れながらマーク・アイシャムあたりが
彼は好きなのかなあと思ったら、ジョン・ハッセル大好きだそう。なるほど
。杉本は全体の表現を的確にまとめていて感心。代官山・晴れたら空に豆ま
いて。遠くないとはいえ、気候も悪くないのに、行き帰りにタクシー使用。
なんか、浪費しまくり。いかんな。
ーをかけない、素の音だと少し辛い)/電気音を担当する中村を中央に、清
新日本ジャズ界中枢にいるピアニストの南(2001年10月29日、2005
年6月9日、2005年9月11日)とベース奏者の杉本(2002年9月22日、20
03年6月10日、2004年8月18日)、そしてガーナ出身の打楽器奏者のテ
テという組み合わせの実演。で、ダンスィングドール、という名前がつけら
れているようだ。前知識はほとんどなしで接する。エレクトロニクな一発セ
ッションぽいノリなのかと思ったら、けっこう中村の曲なのだろうか、それ
なりにメロディ感覚のある、ゆったりした演奏を披露。一部ジャズ的なソロ
を取るところもあったが、ライヴに触れながらマーク・アイシャムあたりが
彼は好きなのかなあと思ったら、ジョン・ハッセル大好きだそう。なるほど
。杉本は全体の表現を的確にまとめていて感心。代官山・晴れたら空に豆ま
いて。遠くないとはいえ、気候も悪くないのに、行き帰りにタクシー使用。
なんか、浪費しまくり。いかんな。
PE’Z
2007年4月14日 2枚組新作をフォロウする6月まで続くツアーのなか、日比谷野外音楽堂。
オリジナル曲で固めた新作からの曲をつっぱって彼らは披露する。彼らは映
像作品リリースも多いバンドだが、この晩もいくつものカメラでパフォーマ
ンスを抑えていたようだ。そんな彼らのことはいろいろと見ているが、日比
谷野外音楽堂だと、2004年の春いらいとなるのか。なんか見ている途中で、
ふうっと覚醒して、自分がどこにいるんだっけかとあやふやになった。ちょ
っと、日本外にいるような気分でもあったか。また、暫くして、ステージ後
ろに見えるビル群がするりと消え、30年前の日比谷公演の風景がかさなって
きたりも。失われた、でも少しは手繰り寄せる事も可能な甘美な記憶.....
。なあんて、気候のいい(途中から、少し肌寒く感じたかな)野外会場だと
気分が良くて、いろんなことを感じたくなるナ。なんか夜空の星を追ってい
たら、ヘリコプターだか飛行機だかが何度も上空を飛ぶ。後ろに座っている
の人、ぼくのことを見てどこをみているのかと怪訝に感じたかも。でも、せ
っかくいろいろと身に受けられる開放的な場にいて、意欲を持つ音を聞いて
いるんだもの、回りをキョロキョロしたくなるじゃないか。
オリジナル曲で固めた新作からの曲をつっぱって彼らは披露する。彼らは映
像作品リリースも多いバンドだが、この晩もいくつものカメラでパフォーマ
ンスを抑えていたようだ。そんな彼らのことはいろいろと見ているが、日比
谷野外音楽堂だと、2004年の春いらいとなるのか。なんか見ている途中で、
ふうっと覚醒して、自分がどこにいるんだっけかとあやふやになった。ちょ
っと、日本外にいるような気分でもあったか。また、暫くして、ステージ後
ろに見えるビル群がするりと消え、30年前の日比谷公演の風景がかさなって
きたりも。失われた、でも少しは手繰り寄せる事も可能な甘美な記憶.....
。なあんて、気候のいい(途中から、少し肌寒く感じたかな)野外会場だと
気分が良くて、いろんなことを感じたくなるナ。なんか夜空の星を追ってい
たら、ヘリコプターだか飛行機だかが何度も上空を飛ぶ。後ろに座っている
の人、ぼくのことを見てどこをみているのかと怪訝に感じたかも。でも、せ
っかくいろいろと身に受けられる開放的な場にいて、意欲を持つ音を聞いて
いるんだもの、回りをキョロキョロしたくなるじゃないか。
リディア・ペンス&コールド・ブラッド
2007年4月15日「彼ら、海外で公演をやるの、日本が初めてなんだそうです。コールド・ブ
ラッドの事はご存じでした?」と、サーヴィスの青年がオーダーを取りなが
ら、気さくに話しかけてくる。有楽町・コットンクラブ、セカンド・ショウ。
コ─ルド・ブラッドはリディア・ペンスという女性シンガーをフロントに
置く、サンフランシスコをベースとする白人R&B/ファンク・バンド。タ
ワー・オブ・パワーと同様にデビュー作がサンフランシスコ・サウンドとい
うインディから発売され、同地在住プロデューサーのデイヴィッド・ルビン
ソン(タージ・マハール、エルビン・ビショップ、ハービー・ハンコック、
マロ、ザ・ポインター・シスターズ、他)が双方に関与していたこともあり
、70年代前半には同じくくりで日本でも紹介された。デビュー作のときか
らペンスの顔のアップをジャケットに出すなどソウルフルな喉を持つ可憐な
女性がフロントに立っていますよということを売りにしていたコ─ルド・ブ
ラッドに対し、より男っぽいノリで出ていたのがタワーだった。
全盛期はリプリーズと契約、その後活動を休止していたこともあったはず
だが、海外公演自体が初めてとは。そりゃ、生粋のローカル・バンドという
しかないな。ここのところ、ボンバ・レコードがかつての作品のリイシュー
をすすめているが、どういう経緯で来日公演が実現したんだろ?
バンドは全員中年白人、オリジナル・メンバーはもしかするとそのペンス
だけかもしれない。当のペンスはとっても小柄(間違いなく、140 センチ代
ですね)。で、50代半ばぐらいになっててもおかしくはないがそんなにいっ
ているようには見えないし、若いころはルックスでも注視を受けたんだろ
うと思わせる。トランペットとサックスの管楽器担当者はソロを取るといま
いちだがセクション音はまっとう。それがバンド・サウンドというものなん
だろう。そんな彼女たち、ハマった、ホワイト・ファンク/ホワイト・ソウ
ル表現を無理なく聞かせてくれた。
ラッドの事はご存じでした?」と、サーヴィスの青年がオーダーを取りなが
ら、気さくに話しかけてくる。有楽町・コットンクラブ、セカンド・ショウ。
コ─ルド・ブラッドはリディア・ペンスという女性シンガーをフロントに
置く、サンフランシスコをベースとする白人R&B/ファンク・バンド。タ
ワー・オブ・パワーと同様にデビュー作がサンフランシスコ・サウンドとい
うインディから発売され、同地在住プロデューサーのデイヴィッド・ルビン
ソン(タージ・マハール、エルビン・ビショップ、ハービー・ハンコック、
マロ、ザ・ポインター・シスターズ、他)が双方に関与していたこともあり
、70年代前半には同じくくりで日本でも紹介された。デビュー作のときか
らペンスの顔のアップをジャケットに出すなどソウルフルな喉を持つ可憐な
女性がフロントに立っていますよということを売りにしていたコ─ルド・ブ
ラッドに対し、より男っぽいノリで出ていたのがタワーだった。
全盛期はリプリーズと契約、その後活動を休止していたこともあったはず
だが、海外公演自体が初めてとは。そりゃ、生粋のローカル・バンドという
しかないな。ここのところ、ボンバ・レコードがかつての作品のリイシュー
をすすめているが、どういう経緯で来日公演が実現したんだろ?
バンドは全員中年白人、オリジナル・メンバーはもしかするとそのペンス
だけかもしれない。当のペンスはとっても小柄(間違いなく、140 センチ代
ですね)。で、50代半ばぐらいになっててもおかしくはないがそんなにいっ
ているようには見えないし、若いころはルックスでも注視を受けたんだろ
うと思わせる。トランペットとサックスの管楽器担当者はソロを取るといま
いちだがセクション音はまっとう。それがバンド・サウンドというものなん
だろう。そんな彼女たち、ハマった、ホワイト・ファンク/ホワイト・ソウ
ル表現を無理なく聞かせてくれた。
ニルス・ラン・ドーキー
2007年4月16日 終日雨、寒い。代官山・デンマーク大使館。ベックの公演をとらずに、大
使館公邸観察を選ぶ。ベーシストの弟クリス(坂本龍一やデイヴィッド・シ
ルヴィアンと付き合いを持ってもいますね)とともにドーキー・ブラザーズ
として米国ブルーノートと契約していたこともある、63年コペンハーゲン生
まれジャズ・ピアニストのショーケース・ライヴ。ロシアのクラシック作曲
家の楽曲をジャズ化しようとする新作曲を日本人ベーシスト(佐藤さんとい
う人のよう)のサポートを受けて披露。クラシック曲のジャズ化なるもの、
過去そうとうの試みがなされているはずだがあまり興味がもてなく、ほとん
ど積極的に聞いたこともないが(そういうのを有り難がるメンタリティが痛
い、とぼくは感じ、あまり通らないようにしてきた)、スカした感じもあま
りなく、随所に軽いジャズ的な歪みを配そうとするそれにはなんの疑問もな
く聞くことができた。ちょい、モダン・ジャズ・カルテットのことを思い浮
かべもしたか。そのMJQはリーダーのジョン・ルイスがオーネット・コー
ルマン(2006年3月27日)の応援団長をしたこともあり、そしてなにより
グループにおける洒脱な“悪魔の舌”の出し方により、かなりぼくは一目置
いている。一切雨に触れるのがイヤで車で行ったため(大使館前に停められ
てよかったあ)飲めず、あまり歓談せずにそそくさと帰る。名刺交換は1枚
、向こうから話かけてきた上品な金髪のご婦人と。PC印刷じゃなく、名刺
をちゃんと作るべきかな。
使館公邸観察を選ぶ。ベーシストの弟クリス(坂本龍一やデイヴィッド・シ
ルヴィアンと付き合いを持ってもいますね)とともにドーキー・ブラザーズ
として米国ブルーノートと契約していたこともある、63年コペンハーゲン生
まれジャズ・ピアニストのショーケース・ライヴ。ロシアのクラシック作曲
家の楽曲をジャズ化しようとする新作曲を日本人ベーシスト(佐藤さんとい
う人のよう)のサポートを受けて披露。クラシック曲のジャズ化なるもの、
過去そうとうの試みがなされているはずだがあまり興味がもてなく、ほとん
ど積極的に聞いたこともないが(そういうのを有り難がるメンタリティが痛
い、とぼくは感じ、あまり通らないようにしてきた)、スカした感じもあま
りなく、随所に軽いジャズ的な歪みを配そうとするそれにはなんの疑問もな
く聞くことができた。ちょい、モダン・ジャズ・カルテットのことを思い浮
かべもしたか。そのMJQはリーダーのジョン・ルイスがオーネット・コー
ルマン(2006年3月27日)の応援団長をしたこともあり、そしてなにより
グループにおける洒脱な“悪魔の舌”の出し方により、かなりぼくは一目置
いている。一切雨に触れるのがイヤで車で行ったため(大使館前に停められ
てよかったあ)飲めず、あまり歓談せずにそそくさと帰る。名刺交換は1枚
、向こうから話かけてきた上品な金髪のご婦人と。PC印刷じゃなく、名刺
をちゃんと作るべきかな。
丸の内・コットンクラブ。セカンド・ショウ。この日も終日雨。かなり、
寒い。
ドラムのジョン“ジャボ”スタークス(アラバマ州モービル在住。1938年生まれ、)、同じくドラムのクライド・スタブルフィールド(ウィスコンシン州マディソン在
住。1943年生まれ。2006年7月26日)、トロンボーンのフレッド・ウエズ
リー(アラバマ州モービル在住。1944年生まれ。2007年2月2日)..... 黄
金のJBズに在籍した、替えのきかないマスターたち3人がつるんだユニッ
ト。この三人(JBズ名義で、来日公演をやっていますね。1999年10月25
日)は同名名義ですでに2枚のアルバムを出していて、次作も準備中とか。
3人にプラスして、サックス、ギター、ベースというキーボード
レス編成。ギタリストだけ、白人だ(その彼はファンク・マスターズ作品に
も参加している)。で、JB表現の流儀を用いる、気さくなショウを繰り広
げる。「パス・ザ・ピース」、「コールド・スウェット」、「アイ・フィー
ル・グッド」、「パパのニュー・バッグ」らJB曲に、ファンクマスターズ作
でしている曲(アル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」も)を並
べる。ウェズリー曲の「ハウス・パーティ」はメイシオ・ポーカーもピー・
ウィ・エリスもそれぞれのリーダー作で取り上げているが、確かに一緒に掛
け声を上げてると非常に盛り上がる。主役の3人は肉声もばりばり出し、バ
ッキングの人達も烏合の衆的な声を出す。ジャボ・ストークスが歌った曲は
、「ストーミー・マンデー」他、ブルースのコード進行曲が2曲も。実はス
タブルフィールドはあんまりドラムを叩かず、カウベルを叩いていたり(2
度ほど、カウベルを手に場内をまわったりも)、踊っていたり。
翌日3人にインタヴューしたが、JBの死に対する気持ちは聞かず。通訳
の人が「3人は昨日ラジオ出演してコメントを求められたんですけど、あっ
さりしたもんですよ。ああ、死んじゃったね。でも、俺たちはまだまだ行く
ぜって、感じの答えでした」と言っていたので。確かに、「このビートはJ
Bではなく俺たちが作ったんだ」(スタブルフィールド)と言ってもいたし
。黄金時代たる60年代後半のJBのライヴはストークスとスタブルフィール
ドのツイン・ドラムで表現にあたり、その微妙なバラツキが未曾有なスケー
ルでかいファンク表現を生んでいたのだが、それについては「俺が入ったと
きはメルヴィン・パーカー(メイシオ・パーカーの年子の弟)が中心に叩いてい
たときで、そんときはドラマーが5人も6人もいてどうすりゃいいんだと思
った。でも、ジェイムズ・ブラウンからはいいから叩けと言ってさ.....
」とか、「ある晩のライヴでドラマーが喧嘩して帰ってしまったことがあっ
てその日の演奏は目茶目茶になり、それでジェイムズ・ブラウンは保険で二
人を揃えておくようになったんだ」というような事をスタークスが言っておりました。
それにしても、顔つきはいかついウェズリー(昨年はジャズ系のアルバム
を出している)はP−ファンクのホーン隊をしきっていた(フレッド・ウェ
ズリー&ザ・ホーニー・ホーンズ)こともあったわけで70年代後半にはロック・
バンドのキッスもびっくりの格好をしてたこともあったんだなと思うと、
なんか可笑しくてしょうがなかった。取材の帰り際、ウェズリーが「また、
ニューオーリンズで会おうナ」(2006年2月4日の項、参照)。「いえ、モ
ービルで!」とぼくが返すと、彼とジャボに大受け。
寒い。
ドラムのジョン“ジャボ”スタークス(アラバマ州モービル在住。1938年生まれ、)、同じくドラムのクライド・スタブルフィールド(ウィスコンシン州マディソン在
住。1943年生まれ。2006年7月26日)、トロンボーンのフレッド・ウエズ
リー(アラバマ州モービル在住。1944年生まれ。2007年2月2日)..... 黄
金のJBズに在籍した、替えのきかないマスターたち3人がつるんだユニッ
ト。この三人(JBズ名義で、来日公演をやっていますね。1999年10月25
日)は同名名義ですでに2枚のアルバムを出していて、次作も準備中とか。
3人にプラスして、サックス、ギター、ベースというキーボード
レス編成。ギタリストだけ、白人だ(その彼はファンク・マスターズ作品に
も参加している)。で、JB表現の流儀を用いる、気さくなショウを繰り広
げる。「パス・ザ・ピース」、「コールド・スウェット」、「アイ・フィー
ル・グッド」、「パパのニュー・バッグ」らJB曲に、ファンクマスターズ作
でしている曲(アル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」も)を並
べる。ウェズリー曲の「ハウス・パーティ」はメイシオ・ポーカーもピー・
ウィ・エリスもそれぞれのリーダー作で取り上げているが、確かに一緒に掛
け声を上げてると非常に盛り上がる。主役の3人は肉声もばりばり出し、バ
ッキングの人達も烏合の衆的な声を出す。ジャボ・ストークスが歌った曲は
、「ストーミー・マンデー」他、ブルースのコード進行曲が2曲も。実はス
タブルフィールドはあんまりドラムを叩かず、カウベルを叩いていたり(2
度ほど、カウベルを手に場内をまわったりも)、踊っていたり。
翌日3人にインタヴューしたが、JBの死に対する気持ちは聞かず。通訳
の人が「3人は昨日ラジオ出演してコメントを求められたんですけど、あっ
さりしたもんですよ。ああ、死んじゃったね。でも、俺たちはまだまだ行く
ぜって、感じの答えでした」と言っていたので。確かに、「このビートはJ
Bではなく俺たちが作ったんだ」(スタブルフィールド)と言ってもいたし
。黄金時代たる60年代後半のJBのライヴはストークスとスタブルフィール
ドのツイン・ドラムで表現にあたり、その微妙なバラツキが未曾有なスケー
ルでかいファンク表現を生んでいたのだが、それについては「俺が入ったと
きはメルヴィン・パーカー(メイシオ・パーカーの年子の弟)が中心に叩いてい
たときで、そんときはドラマーが5人も6人もいてどうすりゃいいんだと思
った。でも、ジェイムズ・ブラウンからはいいから叩けと言ってさ.....
」とか、「ある晩のライヴでドラマーが喧嘩して帰ってしまったことがあっ
てその日の演奏は目茶目茶になり、それでジェイムズ・ブラウンは保険で二
人を揃えておくようになったんだ」というような事をスタークスが言っておりました。
それにしても、顔つきはいかついウェズリー(昨年はジャズ系のアルバム
を出している)はP−ファンクのホーン隊をしきっていた(フレッド・ウェ
ズリー&ザ・ホーニー・ホーンズ)こともあったわけで70年代後半にはロック・
バンドのキッスもびっくりの格好をしてたこともあったんだなと思うと、
なんか可笑しくてしょうがなかった。取材の帰り際、ウェズリーが「また、
ニューオーリンズで会おうナ」(2006年2月4日の項、参照)。「いえ、モ
ービルで!」とぼくが返すと、彼とジャボに大受け。
ヴォアダムス、ソニック・ユース
2007年4月20日 新木場・スタジオコースト。凄い込み具合。ヴォアを見るのはたぶん01年
のフジ・ロック以来(7月27日)。3人のドラムにアイ。アイはギターのネ
ックを7つ付けたトゥリー型の装置を操り(スティックでネックを叩く)、
アクセント音を付けていく。根源にある人間的行為と酔狂なものを求め
るココロ持ちの綱引き..... 。
そして、だいぶ時間をおいて(その間に、なにげにいっぱい飲んじゃった
ナ。それを狙っている?)、ソニック・ユース(2001年2 月21日、他) 。ス
テージに5人が出てきて、やはり東京在住のジム・オルーク(2001年2 月21
日、2006年4月18日、2006年10月22日)入り。オルークはベースを弾き(
楽譜などは一切みてないのは偉い)、けっこうキム・ゴードンとのツイン・
ベース状態。彼女はベースを外し、シンガーに専念する場合も。ファンは嬉
しかったかな。やっぱり、リズムの平板さは致命的。10時半に都心にお座敷
のため戻らなくてはならなく、途中で退出。
のフジ・ロック以来(7月27日)。3人のドラムにアイ。アイはギターのネ
ックを7つ付けたトゥリー型の装置を操り(スティックでネックを叩く)、
アクセント音を付けていく。根源にある人間的行為と酔狂なものを求め
るココロ持ちの綱引き..... 。
そして、だいぶ時間をおいて(その間に、なにげにいっぱい飲んじゃった
ナ。それを狙っている?)、ソニック・ユース(2001年2 月21日、他) 。ス
テージに5人が出てきて、やはり東京在住のジム・オルーク(2001年2 月21
日、2006年4月18日、2006年10月22日)入り。オルークはベースを弾き(
楽譜などは一切みてないのは偉い)、けっこうキム・ゴードンとのツイン・
ベース状態。彼女はベースを外し、シンガーに専念する場合も。ファンは嬉
しかったかな。やっぱり、リズムの平板さは致命的。10時半に都心にお座敷
のため戻らなくてはならなく、途中で退出。
ナスノミツル、大友良英、中村達也+0ptrum(伊東篤宏、進場一郎)
2007年4月21日 南青山・月見ル君想フ。ナスノミツルをホストとする出し物。会場入り
すると、ちょうど、ナスノ・ミツル、大友良英、中村達也のトリオ演奏が始
まったところ。ロック・ビート基調のセッション。ちょいノー・ニューヨー
クふう、とも言えるか。こういうときの演奏の場合、大友は椅子に座らず立
って演奏してほしいな。入院明けのようだが、すで海外公演にも行っている
し、毎度座るというのが彼の流儀なんだろうけど。流動性の高い長めのを1
曲と、短めのを2曲やったけか。出演者紹介のとき、中村達也の声援が一番
大きい。その後、この3人の前にナスノと絡んだ0ptrumの二人が出てきて5
人で演奏。ツイン・ドラムなり。うち、中央に立つ伊東篤宏が操るオプトロ
ンという装置は不思議。眩しい光を発する蛍光管を横に持ち右手と足エフェ
クターでアクセント音を光効果とともに出していく(進場一郎のドラム・キ
ットも光を発する)。昨日のアイの楽器でも思ったが、アート・リンゼーの
12弦ギターみたい(一切チューニングせず、効果音的にビートに合わせカッ
ティングし、全体表現に異化作用をもたらす)なもんだと思う。
すると、ちょうど、ナスノ・ミツル、大友良英、中村達也のトリオ演奏が始
まったところ。ロック・ビート基調のセッション。ちょいノー・ニューヨー
クふう、とも言えるか。こういうときの演奏の場合、大友は椅子に座らず立
って演奏してほしいな。入院明けのようだが、すで海外公演にも行っている
し、毎度座るというのが彼の流儀なんだろうけど。流動性の高い長めのを1
曲と、短めのを2曲やったけか。出演者紹介のとき、中村達也の声援が一番
大きい。その後、この3人の前にナスノと絡んだ0ptrumの二人が出てきて5
人で演奏。ツイン・ドラムなり。うち、中央に立つ伊東篤宏が操るオプトロ
ンという装置は不思議。眩しい光を発する蛍光管を横に持ち右手と足エフェ
クターでアクセント音を光効果とともに出していく(進場一郎のドラム・キ
ットも光を発する)。昨日のアイの楽器でも思ったが、アート・リンゼーの
12弦ギターみたい(一切チューニングせず、効果音的にビートに合わせカッ
ティングし、全体表現に異化作用をもたらす)なもんだと思う。
チャーリー・ウィルソン
2007年4月24日 13人。こんなにコットンクラブのステージ上にパフォーマーがあがったの
は初めてでは。出たり入ったり(4回おめしかえ)するダンサーが四人で、
バック・コーラスが3人。そして、バンド....... 鍵盤2、振る舞いがいい
味してた電気パッド1、ギター、ドラムという編成。ばっちりな演奏。とく
にギターがうまく、それを聞くだけで、ぼくは高揚しちゃうところがあった
。バンドはちょい子供っぽいおそろいの格好で、若めの人が多いとはいえ、
少し可哀相と思ったか。
ギャップ・バンド(ロック・レーベルのシェルターが70年代中期に送りだ
したのだ)のフロント・マン(ミレニアム以降、ソロになっているという感
じなのかな)、ソウル芸人のまっとうな才と矜持あふれる素晴らしいソウル
・ショウ。イェ〜。歌もダンスも、振る舞いも、すべてが現役感覚に満ち、
高品質。もちろん、観客の反応も熱い。アタマから汗だくの御大を見てて若
々しいナとも思う。95年にギャプ・バンドで来日(日比谷野音の“レッツ・
グルーヴ”)したさいに公演後にホテルで慌ただしく取材をしたことがあっ
たけど、そんときより全然若く感じた。あのときは、絵にかいたようなオレ
様さんだったのがとても記憶にのこっている。いろんなビッグ・ネームが参
加したクインシー・ジョーンズの『Qズ・ジューク・ジョイント』(95年)
に彼も呼ばれていて、そのことを聞いたら「彼が三つ指ついて頼んできたか
ら歌ってやった、ハッハッハッ」みたな感じだったもんな。
また、かけがえのないソウル・ショウを堪能(こういうものが、いつまで
見れるのかなと、ふと思ったか。今も楽しめるんだからずっとと思いたい
)。この晩が初日で、土曜日まで。ソウルの決定的な何かに触れたい人は是
非に。
は初めてでは。出たり入ったり(4回おめしかえ)するダンサーが四人で、
バック・コーラスが3人。そして、バンド....... 鍵盤2、振る舞いがいい
味してた電気パッド1、ギター、ドラムという編成。ばっちりな演奏。とく
にギターがうまく、それを聞くだけで、ぼくは高揚しちゃうところがあった
。バンドはちょい子供っぽいおそろいの格好で、若めの人が多いとはいえ、
少し可哀相と思ったか。
ギャップ・バンド(ロック・レーベルのシェルターが70年代中期に送りだ
したのだ)のフロント・マン(ミレニアム以降、ソロになっているという感
じなのかな)、ソウル芸人のまっとうな才と矜持あふれる素晴らしいソウル
・ショウ。イェ〜。歌もダンスも、振る舞いも、すべてが現役感覚に満ち、
高品質。もちろん、観客の反応も熱い。アタマから汗だくの御大を見てて若
々しいナとも思う。95年にギャプ・バンドで来日(日比谷野音の“レッツ・
グルーヴ”)したさいに公演後にホテルで慌ただしく取材をしたことがあっ
たけど、そんときより全然若く感じた。あのときは、絵にかいたようなオレ
様さんだったのがとても記憶にのこっている。いろんなビッグ・ネームが参
加したクインシー・ジョーンズの『Qズ・ジューク・ジョイント』(95年)
に彼も呼ばれていて、そのことを聞いたら「彼が三つ指ついて頼んできたか
ら歌ってやった、ハッハッハッ」みたな感じだったもんな。
また、かけがえのないソウル・ショウを堪能(こういうものが、いつまで
見れるのかなと、ふと思ったか。今も楽しめるんだからずっとと思いたい
)。この晩が初日で、土曜日まで。ソウルの決定的な何かに触れたい人は是
非に。
ザ・バード&ビー
2007年4月25日 リトル・フィート(2000年12月8日)にいた故ロウエル・ジョージの娘イ
ナラ・ジョージ(05年に、リーダー作を出している)と、LAではキーボー
ド賢人として知る人ぞ知る存在だったグレッグ・カースティン(ルアカ・バ
ップが送っていた元ゲギィ・ター、元アクション・フィギュア・パーティ。
セッションはレッチリからベン・ハーパーまで。イナラ・ジョージのソロ作
にも関与)の二人による清新ポップ・ユニット、ショーケース・ライヴ。青
山・カイ。人がいっぱいで、例によって座ってパフォーマンスする二人の姿
は後ろからだとほとんど見えず。でも、聞こえている音はほばCDで聞ける
ものと同じ。やはり、もう一つの、素敵な現代ポップを送りだしていた。
終演後、ミート&グリート。多少酔っぱらっていたけど、ジョージと対し
たときはポっ。お父さんの大ファンなんですと言って、フィートの「コーリ
ド・コールド・コールド」や「ファトマン・イン・ザ・バスタブ」の一節を
歌っちゃった。バカ。ま、曲は知ってるだろうけど、お父さんが亡くなった
のは79年、彼女はきっと幼かったんだろうナ。美人とは思わぬが、いい娘。
で、お父さんと異なり、とても痩身。17年前に交換留学生かなんかで滞日し
て以来の日本らしい。一方の、カースティンは5度目の日本、ベック(2000
年5月29日、2001年8月18日、2003年4月1日)のバッキングで来日した
こともあるという。37歳という彼は若くみえるし、育ちも良さそうに見える
。一時はNYでジャッキー・バイアードに師事していたという経歴は同じブ
ルーノートに所属するジャズ・ピアニストのジャイソン・モラン(2007年
1月16、17日)と同じですね。彼はなぜかリリー・アレン(2007年1月1
2日)のプロデュースにも関与していたが、二人は日本に来る前にアレンと
一緒に米国を回っていたらしい。
二人はフジ・ロックで再来日する。いったい、どこのステージに出るのか
にゃ。
ナラ・ジョージ(05年に、リーダー作を出している)と、LAではキーボー
ド賢人として知る人ぞ知る存在だったグレッグ・カースティン(ルアカ・バ
ップが送っていた元ゲギィ・ター、元アクション・フィギュア・パーティ。
セッションはレッチリからベン・ハーパーまで。イナラ・ジョージのソロ作
にも関与)の二人による清新ポップ・ユニット、ショーケース・ライヴ。青
山・カイ。人がいっぱいで、例によって座ってパフォーマンスする二人の姿
は後ろからだとほとんど見えず。でも、聞こえている音はほばCDで聞ける
ものと同じ。やはり、もう一つの、素敵な現代ポップを送りだしていた。
終演後、ミート&グリート。多少酔っぱらっていたけど、ジョージと対し
たときはポっ。お父さんの大ファンなんですと言って、フィートの「コーリ
ド・コールド・コールド」や「ファトマン・イン・ザ・バスタブ」の一節を
歌っちゃった。バカ。ま、曲は知ってるだろうけど、お父さんが亡くなった
のは79年、彼女はきっと幼かったんだろうナ。美人とは思わぬが、いい娘。
で、お父さんと異なり、とても痩身。17年前に交換留学生かなんかで滞日し
て以来の日本らしい。一方の、カースティンは5度目の日本、ベック(2000
年5月29日、2001年8月18日、2003年4月1日)のバッキングで来日した
こともあるという。37歳という彼は若くみえるし、育ちも良さそうに見える
。一時はNYでジャッキー・バイアードに師事していたという経歴は同じブ
ルーノートに所属するジャズ・ピアニストのジャイソン・モラン(2007年
1月16、17日)と同じですね。彼はなぜかリリー・アレン(2007年1月1
2日)のプロデュースにも関与していたが、二人は日本に来る前にアレンと
一緒に米国を回っていたらしい。
二人はフジ・ロックで再来日する。いったい、どこのステージに出るのか
にゃ。