KIRIHITO、ディア・フーフ。アーマ・トーマス
2011年12月1日 音楽 サンフランシスコの生理のカっとびバンドであるディアフーフの前座は、日本人2人組のKIRIHITO(2003年12月8日)。叩き込み型・反応しまくりのギター/歌とドラム/装置の拮抗表現を聞かせる彼ら、相変わらず前線にいる感覚を持っているゾと頷く。とともに、1曲すごい明快なエレ・ポップ的曲も披露して、それもいい感じ。そうした実演に触れながら、海外で活動していたら、もっと多大な支持を集めるだろうにと、思わずにはいられず。
続くディアフーフはやはり個性的で、イっている。わーい。となれる。過去の記載(2004年3月18日、2009年2月1日)にプラスするなら、今回はプログ(レッシヴ)・ロック色を感じた部分もあった。なんか、なんかギターの音色がイエス/スティーヴ・ハウっぽい? 十分に手応えを得つつ、途中で六本木に移動。
そして、ビルボードライブ東京で見たのは、ニューオーリンズの重鎮女性R&B歌手である、アーマ・トーマス。バンドは、オルガン主体キーボード、ベース音を主に出すキーボード、2管、ギター、ドラムという編成。彼らがザ・JBズの「パス・ザ・ピース」を演奏したあと、トーマスが歌いながら出てくるのだが、声がけっこう若々しい。今年でちょうど70歳なはずだが、顔もツヤがあって60歳ちょいにしか見えないか。で、私なノリで、彼女は次々に歌っていく。それ、ニューオーリンズぽいおおらかさでソング・ブックを気ままにめくっていくという感じか。実は、バンドがシャキっとしない部分があったりもし、なんか普段の熟達ソウル勢実演ほどには乗り切れなかったワタシ……。だけど、みんな満足そうに聞いていた(最後のほうは、大勢の人が紙ナプキンやハンカチなどを振って、彼女に呼応する)し、本編最後のメドレーでは「アイコ・アイコ」〜「ヘイ・ポッカ・ウェイ」のセカンドライン・ビート曲を連発するのに触れて、まいっかとなってしまった。
<今日の、四国>
元々うどんはそれほど好きではないとはいえ、讃岐うどんを食べたことがない。けっこう前から、その手の店がいろいろ東京に出店しているというのに。香川県に行ったとしたら、そりゃ行くと思うが、ぼくは四国に行ったことがないんだよなー。お遍路さんに対する興味も間違いなくゼロ(体力もないよなあ)だし、このままだと四国には足を踏み入れず、死んじゃうのかなーとも思う。考えてみれば、ぼくは四国出身の近い知り合いをこれまで得たことがないとも気付いた。
続くディアフーフはやはり個性的で、イっている。わーい。となれる。過去の記載(2004年3月18日、2009年2月1日)にプラスするなら、今回はプログ(レッシヴ)・ロック色を感じた部分もあった。なんか、なんかギターの音色がイエス/スティーヴ・ハウっぽい? 十分に手応えを得つつ、途中で六本木に移動。
そして、ビルボードライブ東京で見たのは、ニューオーリンズの重鎮女性R&B歌手である、アーマ・トーマス。バンドは、オルガン主体キーボード、ベース音を主に出すキーボード、2管、ギター、ドラムという編成。彼らがザ・JBズの「パス・ザ・ピース」を演奏したあと、トーマスが歌いながら出てくるのだが、声がけっこう若々しい。今年でちょうど70歳なはずだが、顔もツヤがあって60歳ちょいにしか見えないか。で、私なノリで、彼女は次々に歌っていく。それ、ニューオーリンズぽいおおらかさでソング・ブックを気ままにめくっていくという感じか。実は、バンドがシャキっとしない部分があったりもし、なんか普段の熟達ソウル勢実演ほどには乗り切れなかったワタシ……。だけど、みんな満足そうに聞いていた(最後のほうは、大勢の人が紙ナプキンやハンカチなどを振って、彼女に呼応する)し、本編最後のメドレーでは「アイコ・アイコ」〜「ヘイ・ポッカ・ウェイ」のセカンドライン・ビート曲を連発するのに触れて、まいっかとなってしまった。
<今日の、四国>
元々うどんはそれほど好きではないとはいえ、讃岐うどんを食べたことがない。けっこう前から、その手の店がいろいろ東京に出店しているというのに。香川県に行ったとしたら、そりゃ行くと思うが、ぼくは四国に行ったことがないんだよなー。お遍路さんに対する興味も間違いなくゼロ(体力もないよなあ)だし、このままだと四国には足を踏み入れず、死んじゃうのかなーとも思う。考えてみれば、ぼくは四国出身の近い知り合いをこれまで得たことがないとも気付いた。
わあ、白い肌をした男女のセヴィアン・グローヴァー(2011年11月29日)が6人もいるじゃないか! 彼&彼女たちは一糸乱れず重なったり、思うまま即興性にも富むと思わされるソロのステップをふむ。そのステップ音はそれぞれに足につけたマイクで拾われる。ダンサーの中心となるピラツキ兄弟(2007年12月15日、他)は過去何度か来日していますね。
ザ・ステップクルーはカナダのアイリッシュ・ダンスの名人たちのダンス集団(うち、二人はフィドルもうまい)で、そこに5人編成のバンド(鍵盤、ギター、ベース、フィドル、ドラム)がついて、ケルト文化を下敷きにする踊りと音楽の一大絵巻のショウを披露する一座。2006年から組まれていて、いろんなところでパフォーマンスしているそうだが、それは2部構成にて行われる。山あり谷あり、視覚性やウィットにも富むそれは、タップダンス色の強い小規模のかったるくないリヴァーダンスなるものとも言えようか。とにかく、確かな芸と構成によるそれは興味津々、あっと言う間にみちゃうな。それから、ザ・チーフタンズのツアーに参加していて、やはりザ・チーフタンズのサポート・メンバーを勤めるハープ奏者のトリーナ・マーシャル(2007年6月8日、他)とデュオ・アルバムも出しているアリス・マコーマックも同行していて、ときに効果的な癖を持つ美声を披露。彼女の歌がまたいいんだよなー。とかなんとか、見所満載で感心した。焼津文化会館。
<今日の焼津>
焼津には初めて行く。運転していったのだが、沼津以西には車で行ったことがなかったので、これまでの最高記録となる←スケール、ちいせ〜。おー、清水市とはけっこう近いんだな。焼津インター降りて、そばのお魚センターみたいな、ものすごく沢山魚屋さんが入っているとこを探索(おばさんの客引きがなかなかきつい)、食事もする。沼津の中心地には高い建物が見当たらない。なんか、LAみたい。へえと、同行者たちとうなづく。
ザ・ステップクルーはカナダのアイリッシュ・ダンスの名人たちのダンス集団(うち、二人はフィドルもうまい)で、そこに5人編成のバンド(鍵盤、ギター、ベース、フィドル、ドラム)がついて、ケルト文化を下敷きにする踊りと音楽の一大絵巻のショウを披露する一座。2006年から組まれていて、いろんなところでパフォーマンスしているそうだが、それは2部構成にて行われる。山あり谷あり、視覚性やウィットにも富むそれは、タップダンス色の強い小規模のかったるくないリヴァーダンスなるものとも言えようか。とにかく、確かな芸と構成によるそれは興味津々、あっと言う間にみちゃうな。それから、ザ・チーフタンズのツアーに参加していて、やはりザ・チーフタンズのサポート・メンバーを勤めるハープ奏者のトリーナ・マーシャル(2007年6月8日、他)とデュオ・アルバムも出しているアリス・マコーマックも同行していて、ときに効果的な癖を持つ美声を披露。彼女の歌がまたいいんだよなー。とかなんとか、見所満載で感心した。焼津文化会館。
<今日の焼津>
焼津には初めて行く。運転していったのだが、沼津以西には車で行ったことがなかったので、これまでの最高記録となる←スケール、ちいせ〜。おー、清水市とはけっこう近いんだな。焼津インター降りて、そばのお魚センターみたいな、ものすごく沢山魚屋さんが入っているとこを探索(おばさんの客引きがなかなかきつい)、食事もする。沼津の中心地には高い建物が見当たらない。なんか、LAみたい。へえと、同行者たちとうなづく。
リアム・オメンリー、山口洋
2011年12月6日 音楽 アイルランド大使館主催の<東北復興応援コンサート アイルランドから歌の贈り物>と題された出し物の2/3、福島県浜通り地方の東京電力福島第一原子力発電所を挟んだ北と南にある相馬市といわき市の公演に同行する。ともに、40キロ強の位置にある。それには、在日アイルランド大使がすべて同行、彼は震災後に連絡の取れない同胞を慮って東北に出向いたりしていたという。
まず、この日は相馬市。宮城県に近い常磐線沿いの都市だが、地震や津波や原発事故のため、仙台からもいわきからも両方向から鉄道は不通になっている。原発があるため海側の陸路は封鎖されているため、東北道を北上し、福島市の方からぐるりと入る。
会場は相馬市総合福祉センターのはまなす館というホール。この市はHEATWAVEの山口洋(2011年6月5日、他)がボランティアで何度も訪れているところ(クールな彼は個人が広い地域を見るのは無理と判断し、ピンポイントで相馬市を支援している。彼は仲間たちと“MY LIFE IS MY MASSAGE”という催しを持っている)で、山口と彼の仲間たちが開催に尽力した。
ハンディキャップを持つ子供たちを招いてのもの。隣のより原発に近い南相馬市(一部は避難地域になっている)の施設の子供たちもやってくる。なかには他県に避難しているのにも関わらず、このために戻ってきた生徒もいるとか。会場には、アイルランドの小中学生が東北の仲間たちに描いた絵が飾られている。それは、子供以上に大人がグっときそうな魅力/訴求力を持つ。
大使の言葉に続いて、ホットハウス・フラワーズ(2001年7月28日)のリアム・オメンリー(2009年5月20日、他)がティン・ホイッスルのソロ。さらに、バーロンを叩きながら歌ったり、ピアノを弾きながら歌ったり。彼の歌には祈りや癒しがある。すうっと、空気がかわる。子供たちが息を飲んだり、目を輝かす様に触れるゆえに、よりそういう魔法が感じられるのだろうが。おかえしに、子供たちが歌や踊りを披露し、その最後のほうは山口やオメンリーもギターやピアノで混ざる。大使からは、ティン・ホイッスルのプレゼントもあり、場はより沸く。そして、その後は、一緒に記念撮影大会になったり、より密な邂逅の時間……。人は重なり合うもの。自分を、他者を思いやり合うもの。生きるには、ちゃんと足をつける心おきない土地が必要。柄にもない思いがいろいろと、わき上がってきて困った。
<今日の、リアム>
その後、案内され、津波で一切が洗われてしまった、海岸地域を見る。途中には津波による廃材が山積みされた広大な一角もあり。………………。そこにたたずむリアムは何を思ったか。
彼とは、昨日、今日とホテルの朝食を偶然一緒になって食べたが(今日は7時。子供いるし、普段、このぐらいには起きるよ、とのこと)、なんでもおいしそうにぱくぱく食べる人(ご飯よりはパン党、です)。もう、本当にスッコーンと抜けた、まさに自然児と言うにふさわしいマインド/佇まいの持ち主。今回は子供たちの前でやるけど、なんかプランはあるのと問えば、何もォ、と。でも、僕も子供いるし(5歳と15歳)、大丈夫だよ、と答える。実際、でたとこ勝負(?)のパフォーマンスは誰が接しようと、与えられるものたっぷり。やはりそこは、超然としたグローヴァリストたるオメンリーならではさりげないパワーがありまくり。そういえば、前夜に飲んだとき、俺はダブリンにいても疎外感を感じる、というような発言もしていました。一人ぼっちの裏返しで、彼にとっては誰もが対等なものであり、リスペクトする対象なんだろうな。彼、生ギターも持ってきていたが、今回の滞日中には手にしなかったはず。万が一、ピアノがないところでやるときのことを考えて、一応持参したかな。彼、ネイティヴ・アフリカンのことが書かれたペイパーバックを持ってきていて読んだり、オフには水性マジックで絵をささっと描いたりも。あと、ホテルの入り口横のPCで熱心にフェイスブックを見ていた。自然児は、PCは持ち歩きません。
まず、この日は相馬市。宮城県に近い常磐線沿いの都市だが、地震や津波や原発事故のため、仙台からもいわきからも両方向から鉄道は不通になっている。原発があるため海側の陸路は封鎖されているため、東北道を北上し、福島市の方からぐるりと入る。
会場は相馬市総合福祉センターのはまなす館というホール。この市はHEATWAVEの山口洋(2011年6月5日、他)がボランティアで何度も訪れているところ(クールな彼は個人が広い地域を見るのは無理と判断し、ピンポイントで相馬市を支援している。彼は仲間たちと“MY LIFE IS MY MASSAGE”という催しを持っている)で、山口と彼の仲間たちが開催に尽力した。
ハンディキャップを持つ子供たちを招いてのもの。隣のより原発に近い南相馬市(一部は避難地域になっている)の施設の子供たちもやってくる。なかには他県に避難しているのにも関わらず、このために戻ってきた生徒もいるとか。会場には、アイルランドの小中学生が東北の仲間たちに描いた絵が飾られている。それは、子供以上に大人がグっときそうな魅力/訴求力を持つ。
大使の言葉に続いて、ホットハウス・フラワーズ(2001年7月28日)のリアム・オメンリー(2009年5月20日、他)がティン・ホイッスルのソロ。さらに、バーロンを叩きながら歌ったり、ピアノを弾きながら歌ったり。彼の歌には祈りや癒しがある。すうっと、空気がかわる。子供たちが息を飲んだり、目を輝かす様に触れるゆえに、よりそういう魔法が感じられるのだろうが。おかえしに、子供たちが歌や踊りを披露し、その最後のほうは山口やオメンリーもギターやピアノで混ざる。大使からは、ティン・ホイッスルのプレゼントもあり、場はより沸く。そして、その後は、一緒に記念撮影大会になったり、より密な邂逅の時間……。人は重なり合うもの。自分を、他者を思いやり合うもの。生きるには、ちゃんと足をつける心おきない土地が必要。柄にもない思いがいろいろと、わき上がってきて困った。
<今日の、リアム>
その後、案内され、津波で一切が洗われてしまった、海岸地域を見る。途中には津波による廃材が山積みされた広大な一角もあり。………………。そこにたたずむリアムは何を思ったか。
彼とは、昨日、今日とホテルの朝食を偶然一緒になって食べたが(今日は7時。子供いるし、普段、このぐらいには起きるよ、とのこと)、なんでもおいしそうにぱくぱく食べる人(ご飯よりはパン党、です)。もう、本当にスッコーンと抜けた、まさに自然児と言うにふさわしいマインド/佇まいの持ち主。今回は子供たちの前でやるけど、なんかプランはあるのと問えば、何もォ、と。でも、僕も子供いるし(5歳と15歳)、大丈夫だよ、と答える。実際、でたとこ勝負(?)のパフォーマンスは誰が接しようと、与えられるものたっぷり。やはりそこは、超然としたグローヴァリストたるオメンリーならではさりげないパワーがありまくり。そういえば、前夜に飲んだとき、俺はダブリンにいても疎外感を感じる、というような発言もしていました。一人ぼっちの裏返しで、彼にとっては誰もが対等なものであり、リスペクトする対象なんだろうな。彼、生ギターも持ってきていたが、今回の滞日中には手にしなかったはず。万が一、ピアノがないところでやるときのことを考えて、一応持参したかな。彼、ネイティヴ・アフリカンのことが書かれたペイパーバックを持ってきていて読んだり、オフには水性マジックで絵をささっと描いたりも。あと、ホテルの入り口横のPCで熱心にフェイスブックを見ていた。自然児は、PCは持ち歩きません。
リアム・オメンリー、アヌーナ
2011年12月7日 音楽 <東北復興応援コンサート アイルランドから歌の贈り物>の一環、この日は、いわき市立小名浜第一中の体育館が会場。こちらは全校1〜6年生と、その親たちが対象。やはり、先に届けられていたアイルランドの子供たちの絵が飾られるとともに、それを受けてのここの小学生たちが描いた絵も沢山はられている。うえーん。それらの情報量は多すぎる。そして、かけがえがない。
前日と同じく、オメンリーはティン・ホイッスル演奏やボーランやピアノの弾き語り。続いては、アヌーナ(2009年12月12日)が例の感じで出てきて、生徒たちの度肝を抜く。女性陣の会場を歌いながら移動するパフォーマンスもあり。それ、リーダーのマイケル・マクグリンが会場の様を見て、ここではこうしようとディレクションを出す。それは、各会場も同様のよう。そして、最後のほうには、彼らにボウランを手にしたオメンリーも入って、一緒に合唱。より、両手を広げる感じが倍加。曲は、トラッドの「シドアモイ」。さっき、控え室の教室で一緒に練習していたんだよね。
アヌーナはアイルランドの小学生に日本の童謡「雪」を教えて、一緒に日本語で歌っている映像も持参。その映像が終わった際の、子供たちの拍手の大きかったこと。あなたたちは一人ではなく世界の仲間とちゃんと繋がっているんだよ、というアイルランド勢の気持ちが鮮やかに子供たちに伝わった瞬間ではなかったか。そして、今度は一緒に皆で「雪」を歌いましょうとなったら、沢山の生徒が前に出てきてアヌーナやオメンリーたちと並んで、歌う。わー。外で遊ぶのを制限されたりとか転校していった友達がいたりとか、よく原発崩壊の意味を理解していなくても、彼らは肌でいろんなストレスは感じてはいるはずで、それが少しでもまぎれたらいいのだが。
それから、オメンリーは3年生対象にティン・ホイッスル教室も行った。前説で、「僕は子供のときティンホッスルを吹くようになり、大会に出て、いろんな所に行くようになり、どんどん世界が広がった。そして、今はここに導かれました」というようなことを言ったっけか。音楽が、楽器が、歌が、子供たちの力にならんことを。
<今日の、黄色い首紐>
約2割ほどの生徒たちは、黄色い色の首紐で下げられた社員証のようなものを下げている。それ、実は放射線の線量計で、一ヶ月の体内累積の量をモニターするものとか。いわき市は希望者にたいして、それを配布しているという。ぼくは、黄色い紐が目に入るたびに胸がいたんで仕方がなかった。
驚愕せずにはいられないのは、数値は回収して調べるらしいが、その結果は親には知らせないのだとか。ありえねー。完全なモルモット。なら、希望する親は少なくなるのかとも思った。だが、そのいわきや相馬市は海沿いなためもあってか少しは低めで、福島市や郡山市などの離れた場所のほうが、線量はべらぼうに高いのだ。
前日と同じく、オメンリーはティン・ホイッスル演奏やボーランやピアノの弾き語り。続いては、アヌーナ(2009年12月12日)が例の感じで出てきて、生徒たちの度肝を抜く。女性陣の会場を歌いながら移動するパフォーマンスもあり。それ、リーダーのマイケル・マクグリンが会場の様を見て、ここではこうしようとディレクションを出す。それは、各会場も同様のよう。そして、最後のほうには、彼らにボウランを手にしたオメンリーも入って、一緒に合唱。より、両手を広げる感じが倍加。曲は、トラッドの「シドアモイ」。さっき、控え室の教室で一緒に練習していたんだよね。
アヌーナはアイルランドの小学生に日本の童謡「雪」を教えて、一緒に日本語で歌っている映像も持参。その映像が終わった際の、子供たちの拍手の大きかったこと。あなたたちは一人ではなく世界の仲間とちゃんと繋がっているんだよ、というアイルランド勢の気持ちが鮮やかに子供たちに伝わった瞬間ではなかったか。そして、今度は一緒に皆で「雪」を歌いましょうとなったら、沢山の生徒が前に出てきてアヌーナやオメンリーたちと並んで、歌う。わー。外で遊ぶのを制限されたりとか転校していった友達がいたりとか、よく原発崩壊の意味を理解していなくても、彼らは肌でいろんなストレスは感じてはいるはずで、それが少しでもまぎれたらいいのだが。
それから、オメンリーは3年生対象にティン・ホイッスル教室も行った。前説で、「僕は子供のときティンホッスルを吹くようになり、大会に出て、いろんな所に行くようになり、どんどん世界が広がった。そして、今はここに導かれました」というようなことを言ったっけか。音楽が、楽器が、歌が、子供たちの力にならんことを。
<今日の、黄色い首紐>
約2割ほどの生徒たちは、黄色い色の首紐で下げられた社員証のようなものを下げている。それ、実は放射線の線量計で、一ヶ月の体内累積の量をモニターするものとか。いわき市は希望者にたいして、それを配布しているという。ぼくは、黄色い紐が目に入るたびに胸がいたんで仕方がなかった。
驚愕せずにはいられないのは、数値は回収して調べるらしいが、その結果は親には知らせないのだとか。ありえねー。完全なモルモット。なら、希望する親は少なくなるのかとも思った。だが、そのいわきや相馬市は海沿いなためもあってか少しは低めで、福島市や郡山市などの離れた場所のほうが、線量はべらぼうに高いのだ。
NYのある種の不思議〜素敵を口惜しいぐらい体現するプロデューサー(2000年1月12日、2001年5月15日、2003年8月9日)の久しぶりの来日公演。ブルーノート東京、セカンド・ショウ。相変わらず、超党派と言いたくなる、顔ぶれは興味ひかれる。オラシオ“エル・ネグロ”・エルナンデス(2009年11月12日、他)とロビー・アミーンの決定的ツイン・ドラム・コンビ(2004年4月5日、他)、リッチー・フローレスとルイシート・キンテーロのツイン打楽器、チカーノ現代歌謡バンドのケッツェル(2000年8月3日)に入っていたこともあるジュニオール・テリー(縦)とルー・リードや故ロバート・クワインのバンドでおなじみのフェルナンド・ソーンダース(電気)のツイン・ベースを柱に、さらにはサックスのヨスバニー・テリー(2007年11月21日、2010年8月3日)、ギターのブランドン・ロス(2011年5月5日、他)、ピアノのジョン・ビーズリーや80年代からハンラハン表現に関与していたアルフレード・トリフ(ヴァイオリン)という演奏陣による。
とにかく、ツイン・ドラムとツイン・パーカッションの重なりは妙味ありすぎ。それに比すると、ツイン・ベースの絡みは面白味があまりないが、とのかく、ラテン的本能と閃きが自在に綱引きするそれだけでも90分は持つはず。ながら、強靭さだけでなく、華麗なパス・サッカーもやりたいハンラハン(笑い)は多少の仕掛けや展開や詩情を折り込み、非ラテン文脈にあるヴォーカルも多大に噛み合わせる。歌は、ロス、ソウンダース、そしてパリで活動する鋭敏現代ジャズ歌手のユン・サン・ナも同行するはずだったが、体調不良とかでマイア・バルー(2010年7月11日、他)が代わりに担当。彼女、自分の味を出しつつ健闘してたな。さすが。あと、打楽器奏者も一人歌ったっけ? 歌う人はそれぞれに自分の味を発揮、ロスとバルーはけっこうシアトリカルな面も前に出していた。それ、ハンラハンの意向によるべきものと思う。
ハンラハンはちゃんと頭から終わりまでステージ上にいて、ちゃんとバンド員紹介もする。いままで見たなかで一番人間的か。ではあっても、初めて見る人には、なんのためにあの太ったおじいちゃんはいるのと、やはり思えたそうだが。彼、今回は奥さん同伴で来日したようだ。
<2007年の、ハンラハン>
以下は、『ビューティフル・スカーズ』のプロモーションで来日にした際に行った、ハンラハン(1954年、ブロンクス生まれ)へのインタヴューである。2007年4月25日、イースト・ワークス社屋にて取材。媒体は、シンコー・ミュージックのThe Dig誌。話は、その際に編集者が見本誌として持参した号で特集されていたボブ・ディランやスライ・ストーンの話から始まった。
キップ・ハンラハン(以下、●)ディランとはインタヴューしたのかい?
◎いえ。
●ディランとはやらなかったんだ。スライ・ストーンは取材したかい?
◎やっていません。
●スライには誰も取材していないからね。たぶんスライ・ストーンはここ35年、取材を受けていないのではないかな。ディランはインタヴューを受けているし、素晴らしい取材を読んだこともある。最後にディランが来日したのはいつなの?
◎2001年ですかね。あなたは、ディランとかスライは聴いてきた人だったのですか?
●スライ・ストーンは、もうあちこちで流れていたからね〜、こちらが聴きたかろうがなかろうが。スライ・ストーンは誰もが聴いてきたみんなの(人生の)サウンドトラックのようなものだったから。ディランに関しては、僕はちゃんと聴いてきたよ。アメリカでは彼もインタヴューを受けているし、いつもツアーを行っている。彼の取材はちょっと捻くれた応答をしているものがあるので面白いよ。心の底から自分の気持ちを誠実に述べている瞬間があったかと思えば、意図的に嘘を言ったりするんだ。かと思えば、わざと屈折したようなことを言い出す。あまのじゃくなことを言いたくて、敢えて発言していることもある。
◎ディランは言葉でそういうことをするかもしれませんが、あなたは音楽で同じようなことをやっているのではないですか?
●僕もそういうふうに、わざと逆なことをやっているかなあ……まあ、案外あるのかも? 自分では分からないので、ちょっと考えてみないといけないね。そういうことがあったとしたら、それはディランから影響を受けているのかもな。
◎80年代初期にあなたのアメリカン・クラーヴェを知って、「もう、この人は何をしているんだ!」と思いましたよ。あなたは、“ニューヨークの不可解”の象徴でした。
●別に、僕は意図的に“ミステリアス”であろうとしていたわけではない。ディランがやっていることは、意識的な部分があるかもって思うがね。人生においてディランから学べることはたくさんあるが、“ポピュラー・ミュージックのヴォキャブラリーを起用しながら大変パーソナルかつディープなことがやれるのだ”ということも、彼から学べることの一つだね。彼の取材や本を読んでもらえれば分かると思うが、もの凄くクリアでもありつつ、その一方で屈折したことが読み取れる。彼は、それを意図的にやっているんだ。
◎ディランは言葉を使ってそれをやってのけたと思うのですが、あなたは不可解な音やミュージシャンを使うことで普遍的な美しい瞬間を作り出していると思います。
●僕の音楽が普遍的かどうかは分からないが、小さい頃から聴いてきたポピュラー・ミュージックのヴォキャブラリーを使うことが自分に大変しっくりくるんだ。だが、それが普遍的か否かは分からない。ディランの音楽の普遍性は、彼がアメリカのフォーク・ミュージック形態でやっていることにあると思う。シンプルなコード・チェンジにジャズ・ヴォイシングを組み合わせ、意図的にヴォイスのトーンを大変パーソナルなものにしている。薄っぺらなプロ意識でプロテクトすることなくヴォイスを曝け出しており、彼のヴォイスとリスナーの間には他の何も入り込む余地がないんだ。彼は極めてパーソナルなヴォイスの持ち主だ。そして、彼はそのヴォイスでパーソナルでディープなことを言ったり、時に屈折したことを表現している。余り直接的にならないように、敢えて捻くれたものの言い方をしたりするのだろうな。だが、彼の使っているコード・チェンジ自体は、特にアメリカにおいてはかなり普遍的なものだ。普遍的な音楽の最も根本的な図式とでも言おうか。僕の場合も自分が聴いて育った音楽を取り入れているが、それはブロンクスで聴いていたラテン・ミュージックであったりするので、余り普遍的な音楽ではなかったよ。それにニューヨークの音楽自体が、ニューヨーク以外の場所からすればかなり特殊なので、余り普遍的とは見なされないんだ。
◎アメリカ人に対する違和感……アメリカに住むことの違和感……アメリカ人であることの違和感みたいなことを、音楽を通して表現しようという意識を感じたりもしますが。
●第二次世界大戦後に世界は、資本主義社会の言語、アメリカ訛りの英語に支配されるようになった。そしてデモクラシーを破壊した資本主義のサウンドトラックがロックだった。それは西アフリカ、イエメン、ヴェネズエラ、ヴェトナムに至るまで聴かれるようになり、フェンダー・ギターを使い米国音楽流コード・チェンジ/リズムでプレイされた音楽が普遍的なものとして受け取られるようになった。だが、ここ15年間にちょっと変化があったね。世界中のデモクラシーを破壊した資本主義のサウンドトラックは〜言語部分はアメリカ訛りの英語であることに今も変わりはないけれど〜“音楽部分”はヒップホップになったと思う。だからアメリカが何でもかんでも破壊しているときのサウンドトラックは、今やヒップホップだと思うな。
ニューヨークに関してだけど……アメリカ人はニューヨークをアメリカの一部と見なしていないと思うんだよ。ニューヨークには独自の生活速度や言語がある。そして特殊な“言語”とでも言うべき音楽もある。だからアメリカ広しと言えども、ニューヨークのような場所は他に存在しないんだ。全てにおいて実に特殊だからね。ニューヨークを離れて初めて、如何にそこが違っていたか気付く人も多いし、ニューヨークに来て、そこが余りに違うので驚く人もたくさんいる。だから、僕は自分が聴いてプレイしてきた音楽も含め、あまり自分のことを“アメリカのミュージシャン”とは見なしていない部分がある。僕は自分が“ニューヨークのミュージシャン”だとは思っているし、ブロンクスのミュージシャンでもある。だが、“アメリカのミュージシャン”とは違うように感じている。ディランにしても、いわゆるアメリカのミュージシャンがプレイしているものに反したことをやっていると思うよ。ボブ・ディランが素晴らしく、そしてある意味屈折していると思うのは……アメリカのフォーク・ミュージックに深く根ざしベーシック・アメリカン・ミュージック・スタイルでプレイしていながらも、彼は僕と同じくユダヤ人であるが故に、そういう行為そのものすら屈折していて、ある意味騙しが入っていると言えるんだ。ほとんどのアメリカ人にとってユダヤ人はアメリカ人と見なされていないからね。実際、それは世界中でも言えることだが。表面的な扱いはともかくも、ユダヤ人は厳密に言えば……本当のアメリカ人だとは思われていないんだよ。ディランはそれを百も承知で、それに対抗しながらいつもプレイしているのだと思う。最もアメリカらしい音楽形態を用いながら、彼はそういう形でプレイしているんだ。
先に、僕の音楽に君がある種の緊張感を感じてくれた等のコメントをしてくれたが、僕が使っている音楽的言語〜そして音楽の中で自分が個人的にとても強い気持ちで言わんとしていること〜そういうものは、音楽の中に表現されて聴き手にも伝わるものなんだ。音楽を聴いていると、その背後にある意図や強い感情はしっかりと聴き手に伝わる。だから我々ミュージシャンとリスナーの両者は“音楽的言語を分かち合っている”と言える。だから、君は“アメリカ人”ではなくても“ニューヨーク”の音楽言語を理解/シェアして聴いてくれており、その背後に表現されている強烈な感情を分かってくれたのだと思う。
◎そうだと思います。
●80年代に僕の音楽にどうして興味を持ったのかな?
◎当時、ぼくはジェイムズ・ブラッド・ウルマーが好きだったり、デイヴィッド・マレイ(2003年8月9日、2004年6月6日)がレコーディングに入っているとか、アヴァンギャルドなジャズ・ミュージシャンが入っているため強い関心を持ってあなたのレコードを買ってみたんです。そしたら、そこにはもっと多方面のミュージシャンが収録されており……こんなにいろんな要素が入った音楽を作るキップ・ハンラハンとはどんな人なんだろうと思いました。そして、絶対にこういう音楽はNY以外では生まれないと思いました。
●デイヴィッド(・マレイ)のことは知っているかい? 彼とは1975~6年以来、とても付き合い辛い友情が続いているね(笑)。彼とは同じ年齢くらいなんだ。他の人たちと比べて、僕は自分のことをさほど“ミステリアス”だとは思っていないよ。もちろん僕は僕なりにダークなものがあるが、君も君なりにダークだったりするだろう? だが自分名義で作っている音楽は時に大変パーソナルなもの故に、それを表現するためには多くのヴォイスを必要とすることがある。そういう緊張感があるパーソナルな作品のときには、むしろ僕は自分自身を余り前面に押し出したくない。自分のイメージがグループの中にブレンドして薄れてしまうほうが良いんだよ。そもそもその“グループ”自体も、僕の内部にあるヴォイスを代弁しているんだ。だから自分のイメージをやたらと中央に持ってくることなく、グループのイメージに溶け込んでいることが望ましいんだ。
◎あなたはアメリカ人なのに珍しく大変熱心なサッカー・ファンであり、サッカーの監督が選手を動かすように自分の音楽を作っていると聞いたことがあります。
●それは本当にそうだよ。だから、僕はいつも11人編成でやっているんだよ(笑)。僕かゴールで、ドラマーがディフェンダーで、シンガーとサックス奏者がアタッカーだったりするのかな。だが、自分の音楽やバンド、特にジャック・ブルース等とやっているものは、それとは別物でちょっと難しいね。つまりそういう場合はチームでプレイして勝利することが目的ではなく、彼らのやるべきことは僕が明確な意図を持って書き上げたエモーションを分かち合い表現することにあるのだから。“コンジュア”や“ディープ・ルンバ”のときは僕もチームの一員であり、彼らもその(音楽の)枠の中でプレイするので、彼らはその音楽において“僕のこと”を表現する必要はないんだ。感情的な表現をするのはシンガーの役割だったりするからね。でも、君の言うことは正にその通りだよ。どこで聞いたの?
◎僕もサッカーが好きなので(笑)。
●そうなのかい? どのチームが好き?
◎今はテレビで見れるので、スペインのが一番好きなんですけど。プレミアも好きです。
●ほう、僕はイタリアのリーグが一番好きだったが、今はスペインとイギリスかな。でもスペイン・リーグを見ているともう頭がおかしくなってしまうよ! レアル・マドリードとバルセロナの対戦とかね。バレンシアやラコルーニャも健闘しているが、今は僕はセビージャを応援しているよ。やっと均衡関係が壊れてきたように思う。ところで君も、サッカーをプレイしていたの?
◎中学の頃ですね。あとは30歳の頃に二つのチームに所属していました。
●今30代じゃないの? 何歳なんだい?
◎もう、50が見えてますよ(笑い)。
●本当? じゃあ体を大切にね。僕は自分の体調管理を怠ってしまったので、今はそういう自分に怒りを覚えているよ。どこのポジションだったのかい?
◎若いときはフォワードをやっていたのですが、30過ぎてからは、自分がディフェンダーの方が得意なのが分かりました。それで、自分が受身な人間なのかなあと思ったり。
●受身な人はディフェンダーに合わないんじゃないか? 優れたディフェンダーは上手く騙してくるからね。僕もディフェンダーだったから分かるんだ。
◎監督は自分の考えのもと好みの選手を選び、ときにそれは賛否両論を呼んだりするわけですが、あなたがプレイヤーを選ぶときのポイントは?
●ケミストリーと同じことだね。実際に、僕は娘のサッカー・チームの監督を務めたことがあるよ。そのリーグ中、サッカーの知識を持っていたのは僕だけだったにも拘らず、結局全試合負けてしまった。だから、酷い監督だったのさ。ぐうぜん勝つこともあるかと思いきや、それすらなかった。女子のチームだったが彼女らはドリブルも出来たし技術もあったのに、どうして勝てないんだろう? と娘に尋ねたら「(チーム・メイトたちにとって)お父さんが怖くないからよ。お父さんが好きなんだもん」と言うんだ。音楽の場合は、僕のことを怖がっている男は長くバンドで続けていられないようだね。僕と同じ情熱を分かち合い、“勝ちにいく”人が自分のメンバーとして残っていると思う。プレイヤーを選ぶときのポイントだが、勝っているサッカー・チームを見てると、必ずしもスター・プレイヤーがいるところばかりではない。音楽にしても技術があるミュージシャンばかり集まれば良いというのでもない。何より大切なのはエモーショナルなケミストリーなんだ。チームとして同じように呼吸して、スムーズに音楽の流れをやることが出来て、そして緊張感をシェアすることが出来れば一緒にやれるんだよ。2音だけプレイするような音数少ないタイプと、やたらと音数が多いタイプのプレイヤーだって共存できるし、そういうことは問題ではない。技術のレヴェルが違うことも別に問題ではない。互いのエモーションにケミストリーがあるのかどうかが大事なんだ。
◎そもそもラテン・ミュージックとサッカーにハマったのはどちらが先だったのですか?
●サッカーだよ。僕はもうサッカーを夢みているからね。
◎最初はサッカー・プレイヤーになるのが夢だったのですか?
●そうなんだ。僕はセミ・プロになったよ。だが、もっと先に進もうと思った矢先に足首を痛めてしまった。
◎あなたが少年だった頃、アメリカにおいてサッカーはそれ程ポピュラーなスポーツではなかったと思いますが?
●ポピュラーではなかったね。
◎それも、アメリカに対する反感のようなもの?
●今思えばそうなのかもしれないが、当時は移民やその子供だけがサッカーをやっていたと思う。アメリカ人になりたくなかった人間がやっていたんだね。僕の祖父はボルシェビキでアメリカ人になりたくなかったので、(サッカー・)ゲームをやることによって僕も彼に認めて欲しかったのかもしれない。だがNYで僕がサッカーをプレイしていたときは――シカゴやセントルイスにもサッカーはあったと思うが――サッカーのプレイ・レベルが余りに低かったんだ。コーチも誰もいなかった時代だから、僕でも当時セミ・プロになることが出来たのさ。今だったら僕程度のスキルじゃ無理だと思うよ。
◎セミ・プロになったのは何歳頃ですか?
●断続的に、1971年~76年頃だね。
◎セミ・プロを辞めて、JCOA(ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ・アソシエーション。カーラ・ブレイ;2000年3月25日他、らが主体となった)で働き始めたのですか?
●同じ時期だよ。JCOAではかなりフレックス・タイムで仕事をすることが出来たんだ。
◎JCOAで働いていなければ、音楽作りに携わっていなかったですよね?
●関わっていたと思うよ、自分でもプレイしていたしね。僕はサッカーの方が(音楽よりも)好きだったが、大学に進みアート・スクールで勉強していた頃もサッカーをやりながら音楽をプレイしていたよ。とにかく、サッカーの方が好きだったけどね。サッカーはコーチをやっているときは別として、実際にサッカーをプレイしているときのみ“言葉”を一切考えずに体だけで勝負できる。イメージ的なことは考えたりもするけどね。だが、音楽をやっているときはハートで考え、ボディでも考えたりするんだ、ボディを通して音楽を聴くものだからね。あと、歌詞で考えたり、タイムで考えたりもする。だがサッカーをプレイしているときは、“その瞬間”のことしか考えないんだよ。まあ自分はどの道ミュージシャンになっていたと思うよ。70年代にジャズ・コンポーザーズ・オーケストラをやっていたときも暫くサッカーもやっていたものだ。サッカーが上手くなることはなかった僕だが、ずっと映画を作っていたね。アメリカン・クラーヴェを設立したのは映画より音楽を作るほうが安かったからなんだ。それはカール・グレイから教わったことだね。だからどちらにしても音楽をやるようになったと思う。
◎映像も作っていたこと(彼は、ゴーダルの助手を勤めたこともあったと伝えられる)は音楽作りにもかなり良い意味で影響があったのではないでしょうか。
●良いヘルプになったと思うよ。僕はマイケル・スノウやスタンバッカー、バルトフなど物語がある作品を好んでいる。ストーリーが良い感じに呼吸して構成や内容にフィットしているものだね。ストーリーが光を通して呼吸するんだ。視聴者と演者・被写体間の距離やタイム感などは、音楽も映画と変わらない点がある。曲をカットすることも映画をカットすることと同じだ。ドキュメンタリー映画のように受身な撮影方法ではなく、自らの手で組み立て、タイムにて彫像しながらストーリーを語るんだ。CD・レコードに関しても映画から学んだことは多かったよ。タイムで彫りだしていく行為はマイクと楽器の関係、ルームのサウンド〜アコースティックや倍音なども〜、曲と曲、あるいは曲中のパートによっても変わっていくものだ。映画の場合は照明やカメラ・アングル、クロースアップ等カメラと被写体間の距離や質により違ってくる。ストーリー内のムードは、カメラと俳優間のスペースで空気の流れも変わってくる。クロースアップに限らずね。だから光(照明)のクオリティやそれらの距離関係は大変重要だ。レコードの場合はムードや空気感もマイクや楽器の選択によって変わってくる。そしてそれらの距離によってサウンド自体も変わってくるんだ。サウンドの密度、美しさ、醜さもシンガーや楽器とマイクの距離に影響されることが多い。それはカメラのときと同じだね。
◎作曲も脚本を書くことに近いですか?
●もちろんだよ。曲をリライトしたり、歌詞やメロディを直したり、どの曲に取り組んでいるにせよ、それは以前録ったもの/やったことの再演みたいにはならず、新しいアイディアから始めるんだ。今回のレコードにしてもスティーヴ・スワロウと僕は自分たちがやりたいムードのトーン・イメージをはっきり持っていたので、まずは大まかな構成を考えて取り組み始めたよ。長年の活動を経た今、一緒にプレイして心地よく感じるミュージシャンが27人ほどいるが、取りあえず凄くラフな形からやってみるんだ。それに対してスティーヴが綺麗に曲を構成して持ち込んできたら、僕は意図的に〜スティーヴ曰く「君は靴の紐をほどいてしまう」ことを〜敢えてするんだ。とにかくそれを(ゆるめて)バラバラにしてしまう。何であれ、僕とスティーヴで最初に書き始めたにせよ、それを自分の感じるままに再構成するんだ、そして最後に歌詞やメロディをやったりするね。だが、まずは(映画と同様に)スクリプトから始まると言える。そういうラフなアイディアから始まり、如何にストーリーが気持ちよく呼吸できるかやってみる。だから僕はこれをスクリプトとして捉えているよ。曲中の人格(キャラクター)でシンガーが一人で歌っているのはモノローグのように聴こえるが、実はリスナーとのダイアローグであったりもする。映画で観客にほとんど居心地悪く感じるような近さが表現されていることもあるが、それも効果を狙ってのスクリプトなんだよ。
コンサートはまさにオーディエンスとの対話なので、ライヴ・ショウ用の台本もあるんだよ。コンサートではその前にやったショウを引用したって意味がない。自分たちが既にやってしまった音楽を再度引用したって仕方ないんだ。だからどの晩もオーディエンスとバンド間に新しい音楽が現れてこないといけないんだ。よってその台本も毎晩自由に形を変えていかないと駄目だ。
◎自己レーベルのアメリカン・クラーヴェを創設して四半世紀経ちますよね。
●ほとんど30年だよ。’79年創立だからね。
◎作ったときに、このように長く存続するとは思っていましたか?
●いいや。それに、実際本当に続いているのかすら分からない(笑)。音楽制作に対する自分たちの情熱があったからこそ続いていることだ。ミュージック・メイキングにとり憑かれているからね。それは(いちいち言葉で言わなくても、分かってもらえていると思う。だが金銭面では、作品を作るたびに経済的自殺行為を続けているよ。そういう経済的自殺行為を重ねつつ、まだ生きているなんて凄いなあ。それを31回も続けているけど、今もまだここにいるぞ!
◎’80年代後半にスティングが接近して、スティングのパンジア・レーベルがアメリカン・クラーヴェのディストリビューションをしたことがあったじゃないですか。あれは何だったんですか?
●スティングは我々のファンで、当時はちょっとした友達だったんだ。’87年頃アメリカン・クラーヴェは12,000~20,000枚ほどLPレコードのオーダーを受けておりディストリビューターは90日後に支払いをしていた。だが、僕はディストリビューターからの入金の前に、レコード製造工場に対し前金として2000~3000枚分の支払いをする必要があった。(話がちょっと脱線して)……おっと? 紅茶とコーヒーが混ざってしまったかな? “ティー・コーヒー”もオツじゃないか。面白いかもよ。大学時代、僕は“コーヒー・スープ”を飲んでいたものだよ。実際は普通のコーヒーなんだけど、わざと「コーヒー・スープでお腹がいっぱい」なんて言っていた。話は戻るが、その頃スティングが「君たちの音楽が好き」と言ってきたんだ。彼には資本と、より優れたディストリビューションのノウハウがあったのでパートナーシップを結ぶことになったよ。その際に、僕は完璧な契約を結んだと思っていた。だって、彼らからの支払い期間を明確に提示し、我々もパブリッシングを放棄することなく、彼らは契約内容を変更する権限を一切持たず、この契約は予算やマーケティングに関しても及んでおり、これを破ろうものなら即訴訟するぞって内容になっていたからね。だが、ご存知の通り、契約ってのはクソみたいなもんだ。この契約に署名した直後、スティングはツアーに出てしまった。すると彼のマネジャーや弁護士ら、ボビー・フラックスとマイルス・コープランドというイヤな連中が登場してきた。「どういう訳かスティングがあんたたちの音楽を気に入っているので彼のご機嫌を取るため契約に署名したけど、こんな契約には耐えられませんので。それに、あのチンケなイタリア人アコーディオン奏者(アストラ・ピアソラのことか?)とあんたが何故契約したのかも全く理解できない」とマイルス・コープランドが言ってきやがった。「ビタ一文お支払いしませんから」、だとさ。「もし訴えてくるのなら、そちらと8年は腰を据えて戦うし、その間君たちには1ペニーも支払いをしませんからね。我々は君たちより大手なので諦めたほうが良いですよ」と言われたね。弁護士からも「息の根を止めてやる。仕事は出来なくなるよ」と言ってきたので、本当に僕は怒り心頭だった。だから彼らと3年抗争して論理的には一応勝ったけど、うーん結局はどうなのかなあ。だがそういうエグい抗争期間中も、スティングはとても人間らしくこちらに接してきたよ。僕のレコードに参加したりツアーもオファーしてくれた。彼曰く、「ビジネスにおける自分の権力なんかはとうの昔に放棄してしまった」とのことだった。だから、こういう争いは彼が原因じゃなかったし、彼のことを悪く言うつもりは一切ないね。あの契約には本当に苦しめられたが。あのレコード会社は本当に一銭もこちらに支払いをしなかったけど、僕らはめげずに仕事をやり続けたんだ。例え金が入ってこなくても“ミュージシャンにとって音楽をやることこそが人生だ”と、周りのミュージシャンたちの要望もあったし、とにかく作り続けたよ。請求書はたまる一方だったが、スタジオやミュージシャンたちは何年も辛抱強く支払いを待ってくれた。そして仕事を続けたのさ。
◎新譜のことも訊きたいです。久々に今回作ったのですが、何か特別あなたを駆り立てるものがあったのでしょうか?
●確かに『アラビアン・ナイト』以来、12年振りだね。今作で一番問題だったのはファースト・ディスク『BEAUTIFUL SCARS』を制作するのに2年半も掛かったことだった。つまりやりたいことがあり過ぎて――音楽的にも歌詞的にも――言いたいことがあり過ぎたんだよね。大変緊張感のある内容になっているが、実はこれとは違うサウンドやトーンを持つ作品がもう1枚あるんだ。そのオリジナル・タイトルは『HOME IN ANGER』で、このレコードのトーンは……エモーションのピッチはそれほど怒りに満ちているものではなく、もっと哀愁を帯びた感じだ。いや、悲しいというよりも、より洗練された形で怒りが表現されている。こちらの1枚(『BEAUTIFUL SCARS』)では歯をむき出したようなストレートな怒りが押し出されていてドカンと怒っているノリだ。そして『BEAUTIFUL SCARS』は、ある意味、よりダークだと思う。『HOME IN ANGER』のほうが余りダークではないタイプの怒りに満ちている。だが、ユーモアも含まれているよ。こちらの最初の曲はキューバについて扱っているが、やはりちょっとしたユーモアが入っているね。「Busses From Heaven」は事実に基づいた曲なんだけど、オラシオらが話してくれたんだけど、最初は冗談かと思ったね。米国の経済制裁によりキューバの交通システムは崩壊しており、全てが滅茶苦茶になっていた。70年代~80年代頃、イギリスで公共交通機関の乗り物を製造していたブリティッシュ・レイルランドが、ボロボロに壊れた古いバスをキューバに廃棄した。キューバでそれを修理して使って良かったのだが、バスの目的地を表示したサインはそのままの状態で外されていなかった。それらのバスはもちろんサンティアゴ、ハバナなどキューバの町を走行していたが、サインは“ベニス行き”“ローマ行き”“マンチェスター行き”“マドリッド行き”と表示されたままだったので、当時キューバの貧困生活に苦しみそこを離れたいと思っていた人々は「ぜひ、マドリッドに連れて行ってくれ!」「そうだデートにはベニスに行こう!」みたいなノリで乗っていたらしい。もちろん、外へ出ることはなかったんだけどね。オラシオたちはそのことを笑い話にしていて、それがこの曲のポイントとなっている。これって凄くダークなユーモアなんだよね、例え“ベニス行き”に乗車しても、結局キューバからは出られないのだから。
◎この後はどんなことをやっていきたいですか?
●近未来? それとももっと先の未来?
◎両方お願いします。
●まあ近未来のことを語るためにここに来ているのだが、先程僕はサッカーを夢見ているって話をしたよね。僕は今も変わらずサッカーを夢見ているよ。もちろん音楽のことも夢見ているけどね。だが、この二つの夢は全く違う構造のものだ。音楽の夢はもっと長く複雑なもので、実現の可能性も信じている。世界と自分の音楽が交流したり、実際のリアル・ワールドに何らかの形で自分の音楽が関わっていったり影響があったりするかもしれない等々。一方サッカーに関しては、また自分の足が動くようになったら……というような恍惚の夢の中に存在するだけで、もはやこの世において自分とは関わりのない不可能なことなんだ。もう天国でのお話だね。だから音楽とサッカーの夢は全く性質が違うものだよ。
質問の応えに戻るけど、秋からツアーに戻ってブルーノート東京でもやりたいと思っている。このバンドと素材でアメリカ、ヨーロッパ、日本、南米など行きたいから是非実現させたい。今年は3枚レコードをやりたいんだ。シルヴァーナ・デルイギ(2004年にアメリカン・クラーヴェ盤あり)のレコードもまたやりたい。ピアソラ・バンドを再結成させたもの、そしてスティーヴ・スワロウとロミー・アミーンなどでやりたいね。僕の大好きなミュージシャン〜通常タンゴを書かない人たちだが〜に彼女のためにぜひタンゴを書いて欲しいと思っている。それと、「千夜一夜」~アラビアン・ナイトの話も進めたい。12作中まだ3作しかやっていないからね。ドン・プーレンが死にかけていたとき、彼は「早く録ろう!」と言い続けていたよ。彼は’95年に亡くなったが「明日は目が覚めないかもしれないので、とにかく出来るだけたくさん録っておこう」と言っていた。実際7~12時間プーレンがアラビアン・ナイトをプレイしたものがあるんだ。それに戻って取り組みたいと思っている。あと他にも、二つほどプロジェクトがあるね。ブロンクスのミュージシャンのプロジェクトで、“ブロンクスは実際存在せずあれはただの幻想で自分たちの中に持っているものだった”というテーマでビリー・バン(今は故人)、ジェリー・ゴンザレス等、ブロンクスのミュージシャンたちとやりたい。それとディープ・ルンバのレコードを更に発展させてやりたいと思っているがこちらは来年になると思う。
とにかく、ツイン・ドラムとツイン・パーカッションの重なりは妙味ありすぎ。それに比すると、ツイン・ベースの絡みは面白味があまりないが、とのかく、ラテン的本能と閃きが自在に綱引きするそれだけでも90分は持つはず。ながら、強靭さだけでなく、華麗なパス・サッカーもやりたいハンラハン(笑い)は多少の仕掛けや展開や詩情を折り込み、非ラテン文脈にあるヴォーカルも多大に噛み合わせる。歌は、ロス、ソウンダース、そしてパリで活動する鋭敏現代ジャズ歌手のユン・サン・ナも同行するはずだったが、体調不良とかでマイア・バルー(2010年7月11日、他)が代わりに担当。彼女、自分の味を出しつつ健闘してたな。さすが。あと、打楽器奏者も一人歌ったっけ? 歌う人はそれぞれに自分の味を発揮、ロスとバルーはけっこうシアトリカルな面も前に出していた。それ、ハンラハンの意向によるべきものと思う。
ハンラハンはちゃんと頭から終わりまでステージ上にいて、ちゃんとバンド員紹介もする。いままで見たなかで一番人間的か。ではあっても、初めて見る人には、なんのためにあの太ったおじいちゃんはいるのと、やはり思えたそうだが。彼、今回は奥さん同伴で来日したようだ。
<2007年の、ハンラハン>
以下は、『ビューティフル・スカーズ』のプロモーションで来日にした際に行った、ハンラハン(1954年、ブロンクス生まれ)へのインタヴューである。2007年4月25日、イースト・ワークス社屋にて取材。媒体は、シンコー・ミュージックのThe Dig誌。話は、その際に編集者が見本誌として持参した号で特集されていたボブ・ディランやスライ・ストーンの話から始まった。
キップ・ハンラハン(以下、●)ディランとはインタヴューしたのかい?
◎いえ。
●ディランとはやらなかったんだ。スライ・ストーンは取材したかい?
◎やっていません。
●スライには誰も取材していないからね。たぶんスライ・ストーンはここ35年、取材を受けていないのではないかな。ディランはインタヴューを受けているし、素晴らしい取材を読んだこともある。最後にディランが来日したのはいつなの?
◎2001年ですかね。あなたは、ディランとかスライは聴いてきた人だったのですか?
●スライ・ストーンは、もうあちこちで流れていたからね〜、こちらが聴きたかろうがなかろうが。スライ・ストーンは誰もが聴いてきたみんなの(人生の)サウンドトラックのようなものだったから。ディランに関しては、僕はちゃんと聴いてきたよ。アメリカでは彼もインタヴューを受けているし、いつもツアーを行っている。彼の取材はちょっと捻くれた応答をしているものがあるので面白いよ。心の底から自分の気持ちを誠実に述べている瞬間があったかと思えば、意図的に嘘を言ったりするんだ。かと思えば、わざと屈折したようなことを言い出す。あまのじゃくなことを言いたくて、敢えて発言していることもある。
◎ディランは言葉でそういうことをするかもしれませんが、あなたは音楽で同じようなことをやっているのではないですか?
●僕もそういうふうに、わざと逆なことをやっているかなあ……まあ、案外あるのかも? 自分では分からないので、ちょっと考えてみないといけないね。そういうことがあったとしたら、それはディランから影響を受けているのかもな。
◎80年代初期にあなたのアメリカン・クラーヴェを知って、「もう、この人は何をしているんだ!」と思いましたよ。あなたは、“ニューヨークの不可解”の象徴でした。
●別に、僕は意図的に“ミステリアス”であろうとしていたわけではない。ディランがやっていることは、意識的な部分があるかもって思うがね。人生においてディランから学べることはたくさんあるが、“ポピュラー・ミュージックのヴォキャブラリーを起用しながら大変パーソナルかつディープなことがやれるのだ”ということも、彼から学べることの一つだね。彼の取材や本を読んでもらえれば分かると思うが、もの凄くクリアでもありつつ、その一方で屈折したことが読み取れる。彼は、それを意図的にやっているんだ。
◎ディランは言葉を使ってそれをやってのけたと思うのですが、あなたは不可解な音やミュージシャンを使うことで普遍的な美しい瞬間を作り出していると思います。
●僕の音楽が普遍的かどうかは分からないが、小さい頃から聴いてきたポピュラー・ミュージックのヴォキャブラリーを使うことが自分に大変しっくりくるんだ。だが、それが普遍的か否かは分からない。ディランの音楽の普遍性は、彼がアメリカのフォーク・ミュージック形態でやっていることにあると思う。シンプルなコード・チェンジにジャズ・ヴォイシングを組み合わせ、意図的にヴォイスのトーンを大変パーソナルなものにしている。薄っぺらなプロ意識でプロテクトすることなくヴォイスを曝け出しており、彼のヴォイスとリスナーの間には他の何も入り込む余地がないんだ。彼は極めてパーソナルなヴォイスの持ち主だ。そして、彼はそのヴォイスでパーソナルでディープなことを言ったり、時に屈折したことを表現している。余り直接的にならないように、敢えて捻くれたものの言い方をしたりするのだろうな。だが、彼の使っているコード・チェンジ自体は、特にアメリカにおいてはかなり普遍的なものだ。普遍的な音楽の最も根本的な図式とでも言おうか。僕の場合も自分が聴いて育った音楽を取り入れているが、それはブロンクスで聴いていたラテン・ミュージックであったりするので、余り普遍的な音楽ではなかったよ。それにニューヨークの音楽自体が、ニューヨーク以外の場所からすればかなり特殊なので、余り普遍的とは見なされないんだ。
◎アメリカ人に対する違和感……アメリカに住むことの違和感……アメリカ人であることの違和感みたいなことを、音楽を通して表現しようという意識を感じたりもしますが。
●第二次世界大戦後に世界は、資本主義社会の言語、アメリカ訛りの英語に支配されるようになった。そしてデモクラシーを破壊した資本主義のサウンドトラックがロックだった。それは西アフリカ、イエメン、ヴェネズエラ、ヴェトナムに至るまで聴かれるようになり、フェンダー・ギターを使い米国音楽流コード・チェンジ/リズムでプレイされた音楽が普遍的なものとして受け取られるようになった。だが、ここ15年間にちょっと変化があったね。世界中のデモクラシーを破壊した資本主義のサウンドトラックは〜言語部分はアメリカ訛りの英語であることに今も変わりはないけれど〜“音楽部分”はヒップホップになったと思う。だからアメリカが何でもかんでも破壊しているときのサウンドトラックは、今やヒップホップだと思うな。
ニューヨークに関してだけど……アメリカ人はニューヨークをアメリカの一部と見なしていないと思うんだよ。ニューヨークには独自の生活速度や言語がある。そして特殊な“言語”とでも言うべき音楽もある。だからアメリカ広しと言えども、ニューヨークのような場所は他に存在しないんだ。全てにおいて実に特殊だからね。ニューヨークを離れて初めて、如何にそこが違っていたか気付く人も多いし、ニューヨークに来て、そこが余りに違うので驚く人もたくさんいる。だから、僕は自分が聴いてプレイしてきた音楽も含め、あまり自分のことを“アメリカのミュージシャン”とは見なしていない部分がある。僕は自分が“ニューヨークのミュージシャン”だとは思っているし、ブロンクスのミュージシャンでもある。だが、“アメリカのミュージシャン”とは違うように感じている。ディランにしても、いわゆるアメリカのミュージシャンがプレイしているものに反したことをやっていると思うよ。ボブ・ディランが素晴らしく、そしてある意味屈折していると思うのは……アメリカのフォーク・ミュージックに深く根ざしベーシック・アメリカン・ミュージック・スタイルでプレイしていながらも、彼は僕と同じくユダヤ人であるが故に、そういう行為そのものすら屈折していて、ある意味騙しが入っていると言えるんだ。ほとんどのアメリカ人にとってユダヤ人はアメリカ人と見なされていないからね。実際、それは世界中でも言えることだが。表面的な扱いはともかくも、ユダヤ人は厳密に言えば……本当のアメリカ人だとは思われていないんだよ。ディランはそれを百も承知で、それに対抗しながらいつもプレイしているのだと思う。最もアメリカらしい音楽形態を用いながら、彼はそういう形でプレイしているんだ。
先に、僕の音楽に君がある種の緊張感を感じてくれた等のコメントをしてくれたが、僕が使っている音楽的言語〜そして音楽の中で自分が個人的にとても強い気持ちで言わんとしていること〜そういうものは、音楽の中に表現されて聴き手にも伝わるものなんだ。音楽を聴いていると、その背後にある意図や強い感情はしっかりと聴き手に伝わる。だから我々ミュージシャンとリスナーの両者は“音楽的言語を分かち合っている”と言える。だから、君は“アメリカ人”ではなくても“ニューヨーク”の音楽言語を理解/シェアして聴いてくれており、その背後に表現されている強烈な感情を分かってくれたのだと思う。
◎そうだと思います。
●80年代に僕の音楽にどうして興味を持ったのかな?
◎当時、ぼくはジェイムズ・ブラッド・ウルマーが好きだったり、デイヴィッド・マレイ(2003年8月9日、2004年6月6日)がレコーディングに入っているとか、アヴァンギャルドなジャズ・ミュージシャンが入っているため強い関心を持ってあなたのレコードを買ってみたんです。そしたら、そこにはもっと多方面のミュージシャンが収録されており……こんなにいろんな要素が入った音楽を作るキップ・ハンラハンとはどんな人なんだろうと思いました。そして、絶対にこういう音楽はNY以外では生まれないと思いました。
●デイヴィッド(・マレイ)のことは知っているかい? 彼とは1975~6年以来、とても付き合い辛い友情が続いているね(笑)。彼とは同じ年齢くらいなんだ。他の人たちと比べて、僕は自分のことをさほど“ミステリアス”だとは思っていないよ。もちろん僕は僕なりにダークなものがあるが、君も君なりにダークだったりするだろう? だが自分名義で作っている音楽は時に大変パーソナルなもの故に、それを表現するためには多くのヴォイスを必要とすることがある。そういう緊張感があるパーソナルな作品のときには、むしろ僕は自分自身を余り前面に押し出したくない。自分のイメージがグループの中にブレンドして薄れてしまうほうが良いんだよ。そもそもその“グループ”自体も、僕の内部にあるヴォイスを代弁しているんだ。だから自分のイメージをやたらと中央に持ってくることなく、グループのイメージに溶け込んでいることが望ましいんだ。
◎あなたはアメリカ人なのに珍しく大変熱心なサッカー・ファンであり、サッカーの監督が選手を動かすように自分の音楽を作っていると聞いたことがあります。
●それは本当にそうだよ。だから、僕はいつも11人編成でやっているんだよ(笑)。僕かゴールで、ドラマーがディフェンダーで、シンガーとサックス奏者がアタッカーだったりするのかな。だが、自分の音楽やバンド、特にジャック・ブルース等とやっているものは、それとは別物でちょっと難しいね。つまりそういう場合はチームでプレイして勝利することが目的ではなく、彼らのやるべきことは僕が明確な意図を持って書き上げたエモーションを分かち合い表現することにあるのだから。“コンジュア”や“ディープ・ルンバ”のときは僕もチームの一員であり、彼らもその(音楽の)枠の中でプレイするので、彼らはその音楽において“僕のこと”を表現する必要はないんだ。感情的な表現をするのはシンガーの役割だったりするからね。でも、君の言うことは正にその通りだよ。どこで聞いたの?
◎僕もサッカーが好きなので(笑)。
●そうなのかい? どのチームが好き?
◎今はテレビで見れるので、スペインのが一番好きなんですけど。プレミアも好きです。
●ほう、僕はイタリアのリーグが一番好きだったが、今はスペインとイギリスかな。でもスペイン・リーグを見ているともう頭がおかしくなってしまうよ! レアル・マドリードとバルセロナの対戦とかね。バレンシアやラコルーニャも健闘しているが、今は僕はセビージャを応援しているよ。やっと均衡関係が壊れてきたように思う。ところで君も、サッカーをプレイしていたの?
◎中学の頃ですね。あとは30歳の頃に二つのチームに所属していました。
●今30代じゃないの? 何歳なんだい?
◎もう、50が見えてますよ(笑い)。
●本当? じゃあ体を大切にね。僕は自分の体調管理を怠ってしまったので、今はそういう自分に怒りを覚えているよ。どこのポジションだったのかい?
◎若いときはフォワードをやっていたのですが、30過ぎてからは、自分がディフェンダーの方が得意なのが分かりました。それで、自分が受身な人間なのかなあと思ったり。
●受身な人はディフェンダーに合わないんじゃないか? 優れたディフェンダーは上手く騙してくるからね。僕もディフェンダーだったから分かるんだ。
◎監督は自分の考えのもと好みの選手を選び、ときにそれは賛否両論を呼んだりするわけですが、あなたがプレイヤーを選ぶときのポイントは?
●ケミストリーと同じことだね。実際に、僕は娘のサッカー・チームの監督を務めたことがあるよ。そのリーグ中、サッカーの知識を持っていたのは僕だけだったにも拘らず、結局全試合負けてしまった。だから、酷い監督だったのさ。ぐうぜん勝つこともあるかと思いきや、それすらなかった。女子のチームだったが彼女らはドリブルも出来たし技術もあったのに、どうして勝てないんだろう? と娘に尋ねたら「(チーム・メイトたちにとって)お父さんが怖くないからよ。お父さんが好きなんだもん」と言うんだ。音楽の場合は、僕のことを怖がっている男は長くバンドで続けていられないようだね。僕と同じ情熱を分かち合い、“勝ちにいく”人が自分のメンバーとして残っていると思う。プレイヤーを選ぶときのポイントだが、勝っているサッカー・チームを見てると、必ずしもスター・プレイヤーがいるところばかりではない。音楽にしても技術があるミュージシャンばかり集まれば良いというのでもない。何より大切なのはエモーショナルなケミストリーなんだ。チームとして同じように呼吸して、スムーズに音楽の流れをやることが出来て、そして緊張感をシェアすることが出来れば一緒にやれるんだよ。2音だけプレイするような音数少ないタイプと、やたらと音数が多いタイプのプレイヤーだって共存できるし、そういうことは問題ではない。技術のレヴェルが違うことも別に問題ではない。互いのエモーションにケミストリーがあるのかどうかが大事なんだ。
◎そもそもラテン・ミュージックとサッカーにハマったのはどちらが先だったのですか?
●サッカーだよ。僕はもうサッカーを夢みているからね。
◎最初はサッカー・プレイヤーになるのが夢だったのですか?
●そうなんだ。僕はセミ・プロになったよ。だが、もっと先に進もうと思った矢先に足首を痛めてしまった。
◎あなたが少年だった頃、アメリカにおいてサッカーはそれ程ポピュラーなスポーツではなかったと思いますが?
●ポピュラーではなかったね。
◎それも、アメリカに対する反感のようなもの?
●今思えばそうなのかもしれないが、当時は移民やその子供だけがサッカーをやっていたと思う。アメリカ人になりたくなかった人間がやっていたんだね。僕の祖父はボルシェビキでアメリカ人になりたくなかったので、(サッカー・)ゲームをやることによって僕も彼に認めて欲しかったのかもしれない。だがNYで僕がサッカーをプレイしていたときは――シカゴやセントルイスにもサッカーはあったと思うが――サッカーのプレイ・レベルが余りに低かったんだ。コーチも誰もいなかった時代だから、僕でも当時セミ・プロになることが出来たのさ。今だったら僕程度のスキルじゃ無理だと思うよ。
◎セミ・プロになったのは何歳頃ですか?
●断続的に、1971年~76年頃だね。
◎セミ・プロを辞めて、JCOA(ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ・アソシエーション。カーラ・ブレイ;2000年3月25日他、らが主体となった)で働き始めたのですか?
●同じ時期だよ。JCOAではかなりフレックス・タイムで仕事をすることが出来たんだ。
◎JCOAで働いていなければ、音楽作りに携わっていなかったですよね?
●関わっていたと思うよ、自分でもプレイしていたしね。僕はサッカーの方が(音楽よりも)好きだったが、大学に進みアート・スクールで勉強していた頃もサッカーをやりながら音楽をプレイしていたよ。とにかく、サッカーの方が好きだったけどね。サッカーはコーチをやっているときは別として、実際にサッカーをプレイしているときのみ“言葉”を一切考えずに体だけで勝負できる。イメージ的なことは考えたりもするけどね。だが、音楽をやっているときはハートで考え、ボディでも考えたりするんだ、ボディを通して音楽を聴くものだからね。あと、歌詞で考えたり、タイムで考えたりもする。だがサッカーをプレイしているときは、“その瞬間”のことしか考えないんだよ。まあ自分はどの道ミュージシャンになっていたと思うよ。70年代にジャズ・コンポーザーズ・オーケストラをやっていたときも暫くサッカーもやっていたものだ。サッカーが上手くなることはなかった僕だが、ずっと映画を作っていたね。アメリカン・クラーヴェを設立したのは映画より音楽を作るほうが安かったからなんだ。それはカール・グレイから教わったことだね。だからどちらにしても音楽をやるようになったと思う。
◎映像も作っていたこと(彼は、ゴーダルの助手を勤めたこともあったと伝えられる)は音楽作りにもかなり良い意味で影響があったのではないでしょうか。
●良いヘルプになったと思うよ。僕はマイケル・スノウやスタンバッカー、バルトフなど物語がある作品を好んでいる。ストーリーが良い感じに呼吸して構成や内容にフィットしているものだね。ストーリーが光を通して呼吸するんだ。視聴者と演者・被写体間の距離やタイム感などは、音楽も映画と変わらない点がある。曲をカットすることも映画をカットすることと同じだ。ドキュメンタリー映画のように受身な撮影方法ではなく、自らの手で組み立て、タイムにて彫像しながらストーリーを語るんだ。CD・レコードに関しても映画から学んだことは多かったよ。タイムで彫りだしていく行為はマイクと楽器の関係、ルームのサウンド〜アコースティックや倍音なども〜、曲と曲、あるいは曲中のパートによっても変わっていくものだ。映画の場合は照明やカメラ・アングル、クロースアップ等カメラと被写体間の距離や質により違ってくる。ストーリー内のムードは、カメラと俳優間のスペースで空気の流れも変わってくる。クロースアップに限らずね。だから光(照明)のクオリティやそれらの距離関係は大変重要だ。レコードの場合はムードや空気感もマイクや楽器の選択によって変わってくる。そしてそれらの距離によってサウンド自体も変わってくるんだ。サウンドの密度、美しさ、醜さもシンガーや楽器とマイクの距離に影響されることが多い。それはカメラのときと同じだね。
◎作曲も脚本を書くことに近いですか?
●もちろんだよ。曲をリライトしたり、歌詞やメロディを直したり、どの曲に取り組んでいるにせよ、それは以前録ったもの/やったことの再演みたいにはならず、新しいアイディアから始めるんだ。今回のレコードにしてもスティーヴ・スワロウと僕は自分たちがやりたいムードのトーン・イメージをはっきり持っていたので、まずは大まかな構成を考えて取り組み始めたよ。長年の活動を経た今、一緒にプレイして心地よく感じるミュージシャンが27人ほどいるが、取りあえず凄くラフな形からやってみるんだ。それに対してスティーヴが綺麗に曲を構成して持ち込んできたら、僕は意図的に〜スティーヴ曰く「君は靴の紐をほどいてしまう」ことを〜敢えてするんだ。とにかくそれを(ゆるめて)バラバラにしてしまう。何であれ、僕とスティーヴで最初に書き始めたにせよ、それを自分の感じるままに再構成するんだ、そして最後に歌詞やメロディをやったりするね。だが、まずは(映画と同様に)スクリプトから始まると言える。そういうラフなアイディアから始まり、如何にストーリーが気持ちよく呼吸できるかやってみる。だから僕はこれをスクリプトとして捉えているよ。曲中の人格(キャラクター)でシンガーが一人で歌っているのはモノローグのように聴こえるが、実はリスナーとのダイアローグであったりもする。映画で観客にほとんど居心地悪く感じるような近さが表現されていることもあるが、それも効果を狙ってのスクリプトなんだよ。
コンサートはまさにオーディエンスとの対話なので、ライヴ・ショウ用の台本もあるんだよ。コンサートではその前にやったショウを引用したって意味がない。自分たちが既にやってしまった音楽を再度引用したって仕方ないんだ。だからどの晩もオーディエンスとバンド間に新しい音楽が現れてこないといけないんだ。よってその台本も毎晩自由に形を変えていかないと駄目だ。
◎自己レーベルのアメリカン・クラーヴェを創設して四半世紀経ちますよね。
●ほとんど30年だよ。’79年創立だからね。
◎作ったときに、このように長く存続するとは思っていましたか?
●いいや。それに、実際本当に続いているのかすら分からない(笑)。音楽制作に対する自分たちの情熱があったからこそ続いていることだ。ミュージック・メイキングにとり憑かれているからね。それは(いちいち言葉で言わなくても、分かってもらえていると思う。だが金銭面では、作品を作るたびに経済的自殺行為を続けているよ。そういう経済的自殺行為を重ねつつ、まだ生きているなんて凄いなあ。それを31回も続けているけど、今もまだここにいるぞ!
◎’80年代後半にスティングが接近して、スティングのパンジア・レーベルがアメリカン・クラーヴェのディストリビューションをしたことがあったじゃないですか。あれは何だったんですか?
●スティングは我々のファンで、当時はちょっとした友達だったんだ。’87年頃アメリカン・クラーヴェは12,000~20,000枚ほどLPレコードのオーダーを受けておりディストリビューターは90日後に支払いをしていた。だが、僕はディストリビューターからの入金の前に、レコード製造工場に対し前金として2000~3000枚分の支払いをする必要があった。(話がちょっと脱線して)……おっと? 紅茶とコーヒーが混ざってしまったかな? “ティー・コーヒー”もオツじゃないか。面白いかもよ。大学時代、僕は“コーヒー・スープ”を飲んでいたものだよ。実際は普通のコーヒーなんだけど、わざと「コーヒー・スープでお腹がいっぱい」なんて言っていた。話は戻るが、その頃スティングが「君たちの音楽が好き」と言ってきたんだ。彼には資本と、より優れたディストリビューションのノウハウがあったのでパートナーシップを結ぶことになったよ。その際に、僕は完璧な契約を結んだと思っていた。だって、彼らからの支払い期間を明確に提示し、我々もパブリッシングを放棄することなく、彼らは契約内容を変更する権限を一切持たず、この契約は予算やマーケティングに関しても及んでおり、これを破ろうものなら即訴訟するぞって内容になっていたからね。だが、ご存知の通り、契約ってのはクソみたいなもんだ。この契約に署名した直後、スティングはツアーに出てしまった。すると彼のマネジャーや弁護士ら、ボビー・フラックスとマイルス・コープランドというイヤな連中が登場してきた。「どういう訳かスティングがあんたたちの音楽を気に入っているので彼のご機嫌を取るため契約に署名したけど、こんな契約には耐えられませんので。それに、あのチンケなイタリア人アコーディオン奏者(アストラ・ピアソラのことか?)とあんたが何故契約したのかも全く理解できない」とマイルス・コープランドが言ってきやがった。「ビタ一文お支払いしませんから」、だとさ。「もし訴えてくるのなら、そちらと8年は腰を据えて戦うし、その間君たちには1ペニーも支払いをしませんからね。我々は君たちより大手なので諦めたほうが良いですよ」と言われたね。弁護士からも「息の根を止めてやる。仕事は出来なくなるよ」と言ってきたので、本当に僕は怒り心頭だった。だから彼らと3年抗争して論理的には一応勝ったけど、うーん結局はどうなのかなあ。だがそういうエグい抗争期間中も、スティングはとても人間らしくこちらに接してきたよ。僕のレコードに参加したりツアーもオファーしてくれた。彼曰く、「ビジネスにおける自分の権力なんかはとうの昔に放棄してしまった」とのことだった。だから、こういう争いは彼が原因じゃなかったし、彼のことを悪く言うつもりは一切ないね。あの契約には本当に苦しめられたが。あのレコード会社は本当に一銭もこちらに支払いをしなかったけど、僕らはめげずに仕事をやり続けたんだ。例え金が入ってこなくても“ミュージシャンにとって音楽をやることこそが人生だ”と、周りのミュージシャンたちの要望もあったし、とにかく作り続けたよ。請求書はたまる一方だったが、スタジオやミュージシャンたちは何年も辛抱強く支払いを待ってくれた。そして仕事を続けたのさ。
◎新譜のことも訊きたいです。久々に今回作ったのですが、何か特別あなたを駆り立てるものがあったのでしょうか?
●確かに『アラビアン・ナイト』以来、12年振りだね。今作で一番問題だったのはファースト・ディスク『BEAUTIFUL SCARS』を制作するのに2年半も掛かったことだった。つまりやりたいことがあり過ぎて――音楽的にも歌詞的にも――言いたいことがあり過ぎたんだよね。大変緊張感のある内容になっているが、実はこれとは違うサウンドやトーンを持つ作品がもう1枚あるんだ。そのオリジナル・タイトルは『HOME IN ANGER』で、このレコードのトーンは……エモーションのピッチはそれほど怒りに満ちているものではなく、もっと哀愁を帯びた感じだ。いや、悲しいというよりも、より洗練された形で怒りが表現されている。こちらの1枚(『BEAUTIFUL SCARS』)では歯をむき出したようなストレートな怒りが押し出されていてドカンと怒っているノリだ。そして『BEAUTIFUL SCARS』は、ある意味、よりダークだと思う。『HOME IN ANGER』のほうが余りダークではないタイプの怒りに満ちている。だが、ユーモアも含まれているよ。こちらの最初の曲はキューバについて扱っているが、やはりちょっとしたユーモアが入っているね。「Busses From Heaven」は事実に基づいた曲なんだけど、オラシオらが話してくれたんだけど、最初は冗談かと思ったね。米国の経済制裁によりキューバの交通システムは崩壊しており、全てが滅茶苦茶になっていた。70年代~80年代頃、イギリスで公共交通機関の乗り物を製造していたブリティッシュ・レイルランドが、ボロボロに壊れた古いバスをキューバに廃棄した。キューバでそれを修理して使って良かったのだが、バスの目的地を表示したサインはそのままの状態で外されていなかった。それらのバスはもちろんサンティアゴ、ハバナなどキューバの町を走行していたが、サインは“ベニス行き”“ローマ行き”“マンチェスター行き”“マドリッド行き”と表示されたままだったので、当時キューバの貧困生活に苦しみそこを離れたいと思っていた人々は「ぜひ、マドリッドに連れて行ってくれ!」「そうだデートにはベニスに行こう!」みたいなノリで乗っていたらしい。もちろん、外へ出ることはなかったんだけどね。オラシオたちはそのことを笑い話にしていて、それがこの曲のポイントとなっている。これって凄くダークなユーモアなんだよね、例え“ベニス行き”に乗車しても、結局キューバからは出られないのだから。
◎この後はどんなことをやっていきたいですか?
●近未来? それとももっと先の未来?
◎両方お願いします。
●まあ近未来のことを語るためにここに来ているのだが、先程僕はサッカーを夢見ているって話をしたよね。僕は今も変わらずサッカーを夢見ているよ。もちろん音楽のことも夢見ているけどね。だが、この二つの夢は全く違う構造のものだ。音楽の夢はもっと長く複雑なもので、実現の可能性も信じている。世界と自分の音楽が交流したり、実際のリアル・ワールドに何らかの形で自分の音楽が関わっていったり影響があったりするかもしれない等々。一方サッカーに関しては、また自分の足が動くようになったら……というような恍惚の夢の中に存在するだけで、もはやこの世において自分とは関わりのない不可能なことなんだ。もう天国でのお話だね。だから音楽とサッカーの夢は全く性質が違うものだよ。
質問の応えに戻るけど、秋からツアーに戻ってブルーノート東京でもやりたいと思っている。このバンドと素材でアメリカ、ヨーロッパ、日本、南米など行きたいから是非実現させたい。今年は3枚レコードをやりたいんだ。シルヴァーナ・デルイギ(2004年にアメリカン・クラーヴェ盤あり)のレコードもまたやりたい。ピアソラ・バンドを再結成させたもの、そしてスティーヴ・スワロウとロミー・アミーンなどでやりたいね。僕の大好きなミュージシャン〜通常タンゴを書かない人たちだが〜に彼女のためにぜひタンゴを書いて欲しいと思っている。それと、「千夜一夜」~アラビアン・ナイトの話も進めたい。12作中まだ3作しかやっていないからね。ドン・プーレンが死にかけていたとき、彼は「早く録ろう!」と言い続けていたよ。彼は’95年に亡くなったが「明日は目が覚めないかもしれないので、とにかく出来るだけたくさん録っておこう」と言っていた。実際7~12時間プーレンがアラビアン・ナイトをプレイしたものがあるんだ。それに戻って取り組みたいと思っている。あと他にも、二つほどプロジェクトがあるね。ブロンクスのミュージシャンのプロジェクトで、“ブロンクスは実際存在せずあれはただの幻想で自分たちの中に持っているものだった”というテーマでビリー・バン(今は故人)、ジェリー・ゴンザレス等、ブロンクスのミュージシャンたちとやりたい。それとディープ・ルンバのレコードを更に発展させてやりたいと思っているがこちらは来年になると思う。
ON-U SOUND 30th SPECIAL
2011年12月9日 音楽 英国と米国の先鋭ロックの違い。いろいろあるだろうけど、その最たるところは、レゲエ/ダブと結びついているか否か、ではないか。大雑把に括っちゃうと。同じ<持たざる者の抵抗の音楽>としてパンク・ロック期に両者が接近して以来、ジャマイカ発の揺れや響きはUK発の同時代ロックに多大なインスピレーションや隠し味を与えてきた。そして、エイドリアン・シャーウッド(1958 年生まれ。ポール・ウェラーと同い年)はそんなUKダブ表現の第一人者。79年に自己レーベル“ON-U”を立ち上げるとともに、マーク・スチュアート、ミニストリー、プライマル・スクリーム、ザ・スリッツ他の様々なロッカーたちとも彼は絡んでいる。
渋谷・SOUND MUSEUM VISION。同レーベル30周年を祝うパーディが開かれ、彼は深夜1時近くにあらわれ、2時間にわたるDJを悠々と披露。とてもレゲエ愛にあふれたそれは、音をオペレートしながらおおらかに受け手に働きかける彼の所作もあって、低音は効いているものの、妙に人なつこく、生理的に笑顔に満ちていたのではないか。と、前説からは、離れることを書いているが、実際ロック度は低目だったよな。彼は昨年亡くなってしまったザ・スリッツのアリ・アップのTシャツを着用。彼が今年出したニュー・エイジ・ステッパーズの新作はアリ・アップを大フィーチャーしている。
彼に続いて、メイン・ルームには日本のダブ・サウンドの第一人者の内田直之(2007年1月26日、他)+ドライ&ヘヴィにいたリクル・マイのパフォーマンス。うわー、なんかいいなあ。さらには、ON-Uからアルバムを出していたAUDIO ACTIVEの久しぶりの実演があって、そちらの卓を内田ではなくシャーウッドが担当。なんか、レゲエ〜ダブが世界を救うという人情のようなものが場内にはぽっかり浮かび上がっていた?
<今日の、道玄坂>
今年最初の忘年会+α流れを経て、会場入り。わーい、道玄坂を登ったところにある新しいハコ。昔、ヤマハの渋谷店があった所の隣(もしくは、同じビルの地下?)となるのかな。その渋谷店は、入り口の横に小さなステージがあって、70年代中期には昼さがりに無料のライヴを毎日やっていた。ぼくは、大木トオルとか、東京に遊びにきたときにそこで何の気無しに見たことがある。それにしても、日付がかわっていたのに、道玄坂はなかなかに人であふれていたな。
会場入り前に、びっくりするぐらい念入りにボディ・チェックされる。同性にあんなに身体を触られたのは初めてかも。場内は暗くて&混んでいて、いまいち全貌がつかみにくい感じはあったが、けっこう広い。3つの部屋があり、バーもあちこちにあり、メイン・ルームは一部レンガをうまくつかっていたりとか、外国に行った際に入ったら、良いじゃんと思えるような作りだと思った。意外に音がしょぼいと言っていた人がいたが、この晩はとうぜん低音の充実のためシステムを追加してるのだろう、ぼくは気持ちよく音の波に乗れた。店を出た後、クールダウンしたくなり、そこからほど近いバーに。そしたら、店主と某誌編集長が、ダニエラ・メルクリの2010〜11年のコパカパーナの年越し巨大浜辺ライヴDVDを見ていて、寛ぎつつもまた高揚。一杯だけにするつもりが、また調子こいてゴクゴク。さんざん知っているくせに、店主からペース早いですねと言われちゃう。
渋谷・SOUND MUSEUM VISION。同レーベル30周年を祝うパーディが開かれ、彼は深夜1時近くにあらわれ、2時間にわたるDJを悠々と披露。とてもレゲエ愛にあふれたそれは、音をオペレートしながらおおらかに受け手に働きかける彼の所作もあって、低音は効いているものの、妙に人なつこく、生理的に笑顔に満ちていたのではないか。と、前説からは、離れることを書いているが、実際ロック度は低目だったよな。彼は昨年亡くなってしまったザ・スリッツのアリ・アップのTシャツを着用。彼が今年出したニュー・エイジ・ステッパーズの新作はアリ・アップを大フィーチャーしている。
彼に続いて、メイン・ルームには日本のダブ・サウンドの第一人者の内田直之(2007年1月26日、他)+ドライ&ヘヴィにいたリクル・マイのパフォーマンス。うわー、なんかいいなあ。さらには、ON-Uからアルバムを出していたAUDIO ACTIVEの久しぶりの実演があって、そちらの卓を内田ではなくシャーウッドが担当。なんか、レゲエ〜ダブが世界を救うという人情のようなものが場内にはぽっかり浮かび上がっていた?
<今日の、道玄坂>
今年最初の忘年会+α流れを経て、会場入り。わーい、道玄坂を登ったところにある新しいハコ。昔、ヤマハの渋谷店があった所の隣(もしくは、同じビルの地下?)となるのかな。その渋谷店は、入り口の横に小さなステージがあって、70年代中期には昼さがりに無料のライヴを毎日やっていた。ぼくは、大木トオルとか、東京に遊びにきたときにそこで何の気無しに見たことがある。それにしても、日付がかわっていたのに、道玄坂はなかなかに人であふれていたな。
会場入り前に、びっくりするぐらい念入りにボディ・チェックされる。同性にあんなに身体を触られたのは初めてかも。場内は暗くて&混んでいて、いまいち全貌がつかみにくい感じはあったが、けっこう広い。3つの部屋があり、バーもあちこちにあり、メイン・ルームは一部レンガをうまくつかっていたりとか、外国に行った際に入ったら、良いじゃんと思えるような作りだと思った。意外に音がしょぼいと言っていた人がいたが、この晩はとうぜん低音の充実のためシステムを追加してるのだろう、ぼくは気持ちよく音の波に乗れた。店を出た後、クールダウンしたくなり、そこからほど近いバーに。そしたら、店主と某誌編集長が、ダニエラ・メルクリの2010〜11年のコパカパーナの年越し巨大浜辺ライヴDVDを見ていて、寛ぎつつもまた高揚。一杯だけにするつもりが、また調子こいてゴクゴク。さんざん知っているくせに、店主からペース早いですねと言われちゃう。
ケルティック・クリスマス
2011年12月10日 音楽 出演者は、リアム・オメンリー(2011年12月6日、7日、他)、アヌーナ、ザ・ステップクルー。毎年末恒例のケルト系アーティストが出演する出し物、今年はよりヴァリエイション豊かで、楽しめた。錦糸町・墨田トリフォニーホール。
オメンリー(2011年12月6日、7日、他)は5曲をソロでやる。うち、後半3曲はピアノを弾きながら歌ったが、いいグランド・ピアノを前にして、うれしそうに弾いていたなー。後で聞いたら、お母さんがピアノを弾いていて、少しはクラシック・ピアノの心得もあるという。ピアノ弾き語りのうち、2曲はなんとカヴァーで、それはボブ・ディランとヴァン・モリソン曲。とくに後者は、モリソン流れの線がくっきりと見えるもので、たいそう味わい深い。
続いては、マイケル・マクグリンが率いるアヌーナ(2011年12月7日、他)の登場。今回は女性6人男性5人、計11人。うち、二人は米国人だそう。もちろん、荘厳で静謐な、美意識たっぷりの神秘的コーラスが繰り広げられたのだが、なんと途中にはオメンリーが加わり、クリスマス曲「ジングル・ベル」を披露。そのとき、オメンリーは足に鈴をつけ、お茶目にシャンシャンならし場をおおいに和ませる。また、さらにはアヌーナ単体で「グリーン・スリーヴス」や「スカボロ・フェアー」や「ダニー・ボーイ」といった英国/アイルランド発著名メロディ曲をアヌーナ流で披露もする。おおなんなんだ、自分の美意識や流儀を徹底的に求めようとするマクグリン(ゆえに、通常披露されるのは、彼のオリジナル曲だ)らしからぬ、この聞き手に大きく両手を広げた選曲は! 彼はこの日の前に東北2カ所で慰問公演を行っている(冒頭、マクグリンは通訳を呼んで、東北の被災に対する思いを語った)が、そこで得た心持ちがその演目に反映されたのではないか。今回のアヌーナは人を柔らか圧倒し誘うだけでなく、楽しませ&もてなし路線を間違いなくとっていた。
休憩を挟んでは、それこそ娯楽性にたけたザ・ステップクルーのショウ。やっぱ凄いすごい、多くの子供に見せたいなあ。ぼくが先に見た(2011年12月3日)のは、日本での初演で、その後数カ所で公演をやっているだけに、さらにまとまり、より歓びに満ちたパフォーマンスとなっていた。なるほど。また、ダンサーたちは体力あると、思うことしきり。
そして、アンコール部もまた白眉。トラッド曲「シ・ド・マモイ」を、アヌーナ、オメンリー、ザ・ステップクルーが仲良く一緒に歌う。とってもいい光景、ちゃんと同じ立脚点を持つ人たちが無理なく重なり合える楽曲があることにうらやましくもなる。とともに、オメンリーなんかはトラッドを歌っても全然かったるくなく、なんか彼の持ち味を効果的に倍加させるところがあるのだが、日本のトラディッショナルで無理なくロック/R&B的な行き方と重なれる曲ってあるだろうか? ぼくはそういう曲や成功例をあまり知らない。
<今日は、皆既月食>
終演後、飲んでいたら、ぴたり皆既月食なんですよと言う者あり。みんなで、店を一時出て、空をぽかーんと見上げる。なんか、淡い雲が月にかかったように見えた。あれが、皆既月食なのか。ところで、飲んでいた一人が、来年2月にヴァン・モリソンを見に行くことに決めた、と言う。ベルファストやダブリンの公演チケットはもう押さえたという。いいなー。そういえば、先のキップ・ハンラハン公演後に一緒に流れた知人は、やはり2月にリオに行くという。こっちは、カーニヴァルかあ。来年2月には、かなり時間を割かれる原稿案件があったりもして、それがゴーとなったら、年明けての1、5ヶ月は半分自由な遊びを制限されることを覚悟しなければならない。うーむ、うーむ。やめにしません、とか、担当者に言いだしそうだ。関係ないけど、アンダーワールド(2011年8月12日、他)が今年夏のロンドン・オリンピック開会式の音楽監督をつとめるというニュースが流された。まあ、話は裏で進んでいたのだろうけど、ずいぶん近くなってから発表するのだな。
オメンリー(2011年12月6日、7日、他)は5曲をソロでやる。うち、後半3曲はピアノを弾きながら歌ったが、いいグランド・ピアノを前にして、うれしそうに弾いていたなー。後で聞いたら、お母さんがピアノを弾いていて、少しはクラシック・ピアノの心得もあるという。ピアノ弾き語りのうち、2曲はなんとカヴァーで、それはボブ・ディランとヴァン・モリソン曲。とくに後者は、モリソン流れの線がくっきりと見えるもので、たいそう味わい深い。
続いては、マイケル・マクグリンが率いるアヌーナ(2011年12月7日、他)の登場。今回は女性6人男性5人、計11人。うち、二人は米国人だそう。もちろん、荘厳で静謐な、美意識たっぷりの神秘的コーラスが繰り広げられたのだが、なんと途中にはオメンリーが加わり、クリスマス曲「ジングル・ベル」を披露。そのとき、オメンリーは足に鈴をつけ、お茶目にシャンシャンならし場をおおいに和ませる。また、さらにはアヌーナ単体で「グリーン・スリーヴス」や「スカボロ・フェアー」や「ダニー・ボーイ」といった英国/アイルランド発著名メロディ曲をアヌーナ流で披露もする。おおなんなんだ、自分の美意識や流儀を徹底的に求めようとするマクグリン(ゆえに、通常披露されるのは、彼のオリジナル曲だ)らしからぬ、この聞き手に大きく両手を広げた選曲は! 彼はこの日の前に東北2カ所で慰問公演を行っている(冒頭、マクグリンは通訳を呼んで、東北の被災に対する思いを語った)が、そこで得た心持ちがその演目に反映されたのではないか。今回のアヌーナは人を柔らか圧倒し誘うだけでなく、楽しませ&もてなし路線を間違いなくとっていた。
休憩を挟んでは、それこそ娯楽性にたけたザ・ステップクルーのショウ。やっぱ凄いすごい、多くの子供に見せたいなあ。ぼくが先に見た(2011年12月3日)のは、日本での初演で、その後数カ所で公演をやっているだけに、さらにまとまり、より歓びに満ちたパフォーマンスとなっていた。なるほど。また、ダンサーたちは体力あると、思うことしきり。
そして、アンコール部もまた白眉。トラッド曲「シ・ド・マモイ」を、アヌーナ、オメンリー、ザ・ステップクルーが仲良く一緒に歌う。とってもいい光景、ちゃんと同じ立脚点を持つ人たちが無理なく重なり合える楽曲があることにうらやましくもなる。とともに、オメンリーなんかはトラッドを歌っても全然かったるくなく、なんか彼の持ち味を効果的に倍加させるところがあるのだが、日本のトラディッショナルで無理なくロック/R&B的な行き方と重なれる曲ってあるだろうか? ぼくはそういう曲や成功例をあまり知らない。
<今日は、皆既月食>
終演後、飲んでいたら、ぴたり皆既月食なんですよと言う者あり。みんなで、店を一時出て、空をぽかーんと見上げる。なんか、淡い雲が月にかかったように見えた。あれが、皆既月食なのか。ところで、飲んでいた一人が、来年2月にヴァン・モリソンを見に行くことに決めた、と言う。ベルファストやダブリンの公演チケットはもう押さえたという。いいなー。そういえば、先のキップ・ハンラハン公演後に一緒に流れた知人は、やはり2月にリオに行くという。こっちは、カーニヴァルかあ。来年2月には、かなり時間を割かれる原稿案件があったりもして、それがゴーとなったら、年明けての1、5ヶ月は半分自由な遊びを制限されることを覚悟しなければならない。うーむ、うーむ。やめにしません、とか、担当者に言いだしそうだ。関係ないけど、アンダーワールド(2011年8月12日、他)が今年夏のロンドン・オリンピック開会式の音楽監督をつとめるというニュースが流された。まあ、話は裏で進んでいたのだろうけど、ずいぶん近くなってから発表するのだな。
矢野顕子×上原ひろみ
2011年12月11日 音楽 矢野顕子が毎年開いている<さとがえるツアー>の2011年度版は、共演作リリースを受けての、矢野と上原のデュオ。3ヶ月前(2011年9月9日)にレコーディング目的の共演公演を見たばかりであるが、この創意と技と機智に満ちた二人なら、また異なる所感を受けるはずと思いでかけ、まったくもってその通り(また変化を出して行こうという気持ちがしっかりあったのでは。演目も異なっていたし)という満足感を得る。NHKホール。
ほうと思ったのは、ステージ後方に3枚の反射板を配置していたこと。それで、二人の鍵盤を押さえる様がよく分かる。もちろん、映り方は鏡と同様に逆転しており、実際の見え方と重ねようとすると違和感も出てくるわけだが、どんなことをやっているかは如実にわかり、とってもありがたい。でもって、送り手側はもっとステージ上でのアーティストの所作を観客に分かりやすく見せる努力をすべきだろうと、思うことしきり。
<今日のミリバール>
渋谷の東急百貨店本店前にある音楽フレドリーなバー(音楽業界関係者の客比率高し)”ミリバール”の、開店15周年のパーティが青山・カイで開かれた。途中で、NHKホールを抜け出して、かけつける。で、1時間半ほどいたら、急に来日アーティストにコメントを取らなくてはならなくなり、渋谷にトンボ帰り。←こんな急なことって、フリー歴25年で初めてのことではあるなあ。知人のi-フォンを借りて録音し事なきを得たが、やはりこういうことがあることを考慮にいれ、スマート・フォン系に換えるべきなのか。フツーのシンプルな携帯に録音機能/mp-3移設機能がついているのないかな? それをなんなく終え、またCAYに戻ったら豪華顔ぶれによるライヴはまだやっていそうだったが、そのまま渋谷でまったり飲む。ともあれ、清野さん、おめでとうございます! これからも、居心地のいい場を提供してください。
ほうと思ったのは、ステージ後方に3枚の反射板を配置していたこと。それで、二人の鍵盤を押さえる様がよく分かる。もちろん、映り方は鏡と同様に逆転しており、実際の見え方と重ねようとすると違和感も出てくるわけだが、どんなことをやっているかは如実にわかり、とってもありがたい。でもって、送り手側はもっとステージ上でのアーティストの所作を観客に分かりやすく見せる努力をすべきだろうと、思うことしきり。
<今日のミリバール>
渋谷の東急百貨店本店前にある音楽フレドリーなバー(音楽業界関係者の客比率高し)”ミリバール”の、開店15周年のパーティが青山・カイで開かれた。途中で、NHKホールを抜け出して、かけつける。で、1時間半ほどいたら、急に来日アーティストにコメントを取らなくてはならなくなり、渋谷にトンボ帰り。←こんな急なことって、フリー歴25年で初めてのことではあるなあ。知人のi-フォンを借りて録音し事なきを得たが、やはりこういうことがあることを考慮にいれ、スマート・フォン系に換えるべきなのか。フツーのシンプルな携帯に録音機能/mp-3移設機能がついているのないかな? それをなんなく終え、またCAYに戻ったら豪華顔ぶれによるライヴはまだやっていそうだったが、そのまま渋谷でまったり飲む。ともあれ、清野さん、おめでとうございます! これからも、居心地のいい場を提供してください。
山口洋、リアム・オメンリー。
2011年12月12日 音楽 <アイルランドから歌の贈り物>(2011年12月6、7日)の東京編、青山・CAY。
まず、HEATWAVEの山口洋が生ギターの、生理的にまっすぐな弾き語り。30分強? 間奏部になると、リズム・ギター音をループさせ、そこにエフェクトをかけてギター・ソロを取ったりもする。相馬市でおじいちゃんやおばあちゃんの前でライヴをやったりもし、喜んでもらうために美空ひばりの曲をやるようになったそう(相馬では演歌歌手の山口です、てなMCもあり)で、彼は「リンゴ追分」も堂々披露。それ、なんかニール・ヤングの曲みたいだった。もちろん、彼が作った「満月の夕」も披露する。
そして、リアム・オメンリーが登場。ティン・ホイッスルやボーランも手にするが、約90分のパフォーマンス中、80パーセントはピアノの弾き語り、たっぷり。かつてのホットハウス・フラワーズの曲もいろいろやったようだ。途中からは、山口洋もギターで加わる。二人とも“ミュージシャン”、とっても曖昧模糊とした言い回しになるが、そういうかけがえのない存在感や重みがぽっかり浮き上がる。あと、オメンリーは時に足につけていた鈴で、ほのかにアクセント音を入れる曲もあった。
<今日のコブシ>
この12 月10日の最後のほうで書いてもいるが、この1週間ほどオメンリー、そしてオメンリーとアヌーナのまさかの共演というパフォーマンスに触れて、日本人には今様ポップ感覚と同化できる、同胞同士で気持ちを解け合わせることができる日本の伝統的音楽マテリアルはあるかということを、漠然と考えてしまう。
そんななか、コブシを効かせてもロックだった、山口洋による「リンゴ追分」には多大な感慨を得た。そういえば、昨日の矢野×上原公演でも、矢野は「エヴォキュエーション・プラン」をまるで演歌ヴァージョンと言いたくなるぐらいに、コブシを効かせて歌っていて、それにもにっこりできた。うぬ、やはりコブシはその突破口になるだろうか。話は飛ぶが、ぼくは山下達郎が得意ではない。メロディやサウンド、音楽が形になるまでの筋道/哲学はもうすばらしいと思う。でも、ぼくは彼の歌唱がどうも苦手なのだ。朗々とした鼻声の歌にある微妙な濁りや演歌的コブシを連想させるアクセントの付け方(なんか、ぼくはそれに触れると、都はるみが拳を握ってふんぎゃと気張る様を想起してしまう)に、なんか過剰にドメスティックな泥臭さを感じてしまって、違和感を覚えてしまう。やはり、ぼくは山下達郎には舶来文化経由の純ハイカラなものを求めたいから。でも、上出の理由から、今あらためて聞くと、地に足をつけた輝かしい日本のポップスとして山下達郎を聞けるかもしれないと、淡い期待を持ちたくなる。
まず、HEATWAVEの山口洋が生ギターの、生理的にまっすぐな弾き語り。30分強? 間奏部になると、リズム・ギター音をループさせ、そこにエフェクトをかけてギター・ソロを取ったりもする。相馬市でおじいちゃんやおばあちゃんの前でライヴをやったりもし、喜んでもらうために美空ひばりの曲をやるようになったそう(相馬では演歌歌手の山口です、てなMCもあり)で、彼は「リンゴ追分」も堂々披露。それ、なんかニール・ヤングの曲みたいだった。もちろん、彼が作った「満月の夕」も披露する。
そして、リアム・オメンリーが登場。ティン・ホイッスルやボーランも手にするが、約90分のパフォーマンス中、80パーセントはピアノの弾き語り、たっぷり。かつてのホットハウス・フラワーズの曲もいろいろやったようだ。途中からは、山口洋もギターで加わる。二人とも“ミュージシャン”、とっても曖昧模糊とした言い回しになるが、そういうかけがえのない存在感や重みがぽっかり浮き上がる。あと、オメンリーは時に足につけていた鈴で、ほのかにアクセント音を入れる曲もあった。
<今日のコブシ>
この12 月10日の最後のほうで書いてもいるが、この1週間ほどオメンリー、そしてオメンリーとアヌーナのまさかの共演というパフォーマンスに触れて、日本人には今様ポップ感覚と同化できる、同胞同士で気持ちを解け合わせることができる日本の伝統的音楽マテリアルはあるかということを、漠然と考えてしまう。
そんななか、コブシを効かせてもロックだった、山口洋による「リンゴ追分」には多大な感慨を得た。そういえば、昨日の矢野×上原公演でも、矢野は「エヴォキュエーション・プラン」をまるで演歌ヴァージョンと言いたくなるぐらいに、コブシを効かせて歌っていて、それにもにっこりできた。うぬ、やはりコブシはその突破口になるだろうか。話は飛ぶが、ぼくは山下達郎が得意ではない。メロディやサウンド、音楽が形になるまでの筋道/哲学はもうすばらしいと思う。でも、ぼくは彼の歌唱がどうも苦手なのだ。朗々とした鼻声の歌にある微妙な濁りや演歌的コブシを連想させるアクセントの付け方(なんか、ぼくはそれに触れると、都はるみが拳を握ってふんぎゃと気張る様を想起してしまう)に、なんか過剰にドメスティックな泥臭さを感じてしまって、違和感を覚えてしまう。やはり、ぼくは山下達郎には舶来文化経由の純ハイカラなものを求めたいから。でも、上出の理由から、今あらためて聞くと、地に足をつけた輝かしい日本のポップスとして山下達郎を聞けるかもしれないと、淡い期待を持ちたくなる。
マイケル・ジャクソン・トリビュート・ライヴ
2011年12月13日 音楽 おー。マイケル・ジャクソンは誰も真似できない、やっぱしすごい。……いやみにではなく、出演者の切な思いとともに、さわやかにそういうことを伝えるイヴェントではなかったか。
会場は原宿駅に近い、代々木競技場第一体育館。<ダンス・ステージ>、<ソング・ステージ>、<ジャクソンズ・ステージ>と題されたブロックの3部構成ナリ。セット・チェンジのための二つの休憩時間は長過ぎるとは誰もが感じたろうが、3時間ちょいにわたって、すごい数の出演者とともに開かれた。
一部は、ジャクソン絡みの曲にあわせて、いろんなダンサーたちが次々に出てきて、いろんな設定で踊る。ディレクターはマドンナやジャクソンの覚えがめでたかったという日本人ダンサーのケント・モリ。子供もいろいろ出てきたが、彼らを含めて、多くの出演者はオーディションで選ばれたという。また、ジャクソンのツアーに参加していたという米国人ダンサー3人も登場する。ムーン・ウォークをする人はいなかったような。
2部は、日米のいろんなシンガー9人が、1曲づつ歌う。共通のバンドは在日米国人が中心となっているよう。男性で下手な歌い手もいたが、まあご愛嬌。めっぽう感心したのは、メイシー・グレイ(2003年7月28日、2011年2月22日)と久保田利伸。きっちり、ジャクソン曲を自分の世界に持ってきて、聞き手に再度返していた。一番最後に出てきた久保田はさすがと言うしかなく、千両役者という言葉をぼくは浮かべた。
そして、3部は兄弟バンドであるザ・ジャクソンズの肩肺編成によるリユニオンのショウ。ジャッキー・ジャクソンとティト・ジャクソンとマーロン・ジャクソンが歌と踊りを担当し、リード・ヴォーカルはJ-ソウル歌手のAIが勤める。彼女とマイケル・ジャクソンの兄たちとのかみ合いはなかなか。近年、単独で来日公演をしていてブルース・マンぶりを見せているティト・ジャクソン(2010年7月15日)はギターも手にする。9人編成(うち、女性コーラス二人)のバンドはよく整備されていて、AIたちを無理なくバックアップし、けっこうリハも重ねたんだろうなーと思わせた。
<今日の、代々木球技場第一体育館>
ここに来るのは、いつ以来か。エリック・クラプトン、キング・サニー・アデ(!)、ボズ・スキャッグスあたりは、確かここで見ているよな。米軍施設あとに、東京オリンピックの水泳会場のために突貫工事で作られた、丹下健三の設計による気張った建築ブツ。ものすごーく久しぶりに行ったが、場内がかなり広いので驚いた。へえ。とともに、45年強前の建物としては画期的だったんだろうなーとも思う。そのぶん、寒かったり(2階席に座っていたが、かなり!)、音響が悪かったりもするが。また、トイレの場所を係員に尋ねたら入り口を出た先、外にあるトイレを使えと言われた。トホホ。帰りに袋を手渡される。そしたら、中に入っていたのはアムウェイの缶ドリンクが1本。それで、ほんわかしていた気持ちが少し冷める。ぼくはアムウェイを、悪しきマルチ商法の米国企業という認識を持っているので。
会場は原宿駅に近い、代々木競技場第一体育館。<ダンス・ステージ>、<ソング・ステージ>、<ジャクソンズ・ステージ>と題されたブロックの3部構成ナリ。セット・チェンジのための二つの休憩時間は長過ぎるとは誰もが感じたろうが、3時間ちょいにわたって、すごい数の出演者とともに開かれた。
一部は、ジャクソン絡みの曲にあわせて、いろんなダンサーたちが次々に出てきて、いろんな設定で踊る。ディレクターはマドンナやジャクソンの覚えがめでたかったという日本人ダンサーのケント・モリ。子供もいろいろ出てきたが、彼らを含めて、多くの出演者はオーディションで選ばれたという。また、ジャクソンのツアーに参加していたという米国人ダンサー3人も登場する。ムーン・ウォークをする人はいなかったような。
2部は、日米のいろんなシンガー9人が、1曲づつ歌う。共通のバンドは在日米国人が中心となっているよう。男性で下手な歌い手もいたが、まあご愛嬌。めっぽう感心したのは、メイシー・グレイ(2003年7月28日、2011年2月22日)と久保田利伸。きっちり、ジャクソン曲を自分の世界に持ってきて、聞き手に再度返していた。一番最後に出てきた久保田はさすがと言うしかなく、千両役者という言葉をぼくは浮かべた。
そして、3部は兄弟バンドであるザ・ジャクソンズの肩肺編成によるリユニオンのショウ。ジャッキー・ジャクソンとティト・ジャクソンとマーロン・ジャクソンが歌と踊りを担当し、リード・ヴォーカルはJ-ソウル歌手のAIが勤める。彼女とマイケル・ジャクソンの兄たちとのかみ合いはなかなか。近年、単独で来日公演をしていてブルース・マンぶりを見せているティト・ジャクソン(2010年7月15日)はギターも手にする。9人編成(うち、女性コーラス二人)のバンドはよく整備されていて、AIたちを無理なくバックアップし、けっこうリハも重ねたんだろうなーと思わせた。
<今日の、代々木球技場第一体育館>
ここに来るのは、いつ以来か。エリック・クラプトン、キング・サニー・アデ(!)、ボズ・スキャッグスあたりは、確かここで見ているよな。米軍施設あとに、東京オリンピックの水泳会場のために突貫工事で作られた、丹下健三の設計による気張った建築ブツ。ものすごーく久しぶりに行ったが、場内がかなり広いので驚いた。へえ。とともに、45年強前の建物としては画期的だったんだろうなーとも思う。そのぶん、寒かったり(2階席に座っていたが、かなり!)、音響が悪かったりもするが。また、トイレの場所を係員に尋ねたら入り口を出た先、外にあるトイレを使えと言われた。トホホ。帰りに袋を手渡される。そしたら、中に入っていたのはアムウェイの缶ドリンクが1本。それで、ほんわかしていた気持ちが少し冷める。ぼくはアムウェイを、悪しきマルチ商法の米国企業という認識を持っているので。
ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ。ブランドン・ロス
2011年12月14日 音楽 まず、六本木・ビルボードライブ東京(ファースト・ショウ)で、ヴァンガード・ジャズ・オーケストラを見る。NYのジャズ・クラブ“ヴィレッジ・ヴァンガード”の月曜のレギュラー出演をしている同楽団はサド・ジョーンズ/メル・ルイス・ジャズ・オーケストラを前身に持つ、前向き集団。いくつかの米国有名楽団はダンス・フロア流れの出自を持っているのに対し、彼らは結成年度の新しさ(前身は66年結成)もあり、娯楽性ももちろん考えたろうが、もう少し前面にジャズ・マンのエゴを抱えようとした部分はあったはずだ。まあ、時がたった今では、出来上がったものをなぞるという感触は出てきてしまうものの。
全16人、端のほうにいる管楽器奏者は、ソロを取るとき、ステージを降りて客席側を歩いて再度ステージ中央にあがるがおかしい。ブルース曲はかなり才気走った解体/構成があってニコっ。また、最後にやったスティーヴィ・ワンダー曲はうれしかったな。そんな彼らはここ2年間毎年来日しているが、この日も入りは良好。実は、この12月は他にもエリントン楽団(コットンクラブ)やクレイトン/ハミルトン楽団(ブルーノート)も来日することになっていて、ビッグ・バンド愛好人口が増えているという話にもうなずける。とともに、見た目も音も華やかなビッグ・バンド・ジャズ表現の公演は師走向きなのだろうか。
その後、南青山・月見ル君思フに移動し、先週(2011年12月8日)のキップ・ハンラハン公演に同行していたブランドン・ロスの自己名義公演(2004年9月7日、2005年6月8日、2005年6月9日、2006 年9月2日)を見る。ロス、今年はカサンドラ・ウィルソン公演(2011年)に続いて2度目の来日なり。
相手役は過去の来日単独公演にも同行しているツトム・タケイシ(2004年、2005年6月8日、2005年6月9日、2006 年9月2日)。お互いの信頼関係が核にある、息を合わせ合う、隙間を意識する静的パフォーマンスが展開される。そして、ときにロスは歌ものせる。ふむ、タテイシの特殊電気ベースは下手なウッド・ベースより、それっぽい音を出す(←あ、誇張ですね)。部分的に、ドラムの外山明(2004年1月27日、2004年8月20日、2005 年12月20日、2006年10月25日、2007年1月27日2011年6月23日、他)が出てきてとても控え目に音を加えもした。
<今日のブランドン・ロス>
ロスはアフリカン・アメリカンのミュージシャンのなかで一番おしゃれな人、という印象を、ぼくは持っている。他にすぐに思い浮かぶのはジェイソン・モラン(2008年4月6日、他)、髪型が過激だったころの昔のロニー・プラキシコ(2008年8月11日、他)も格好良かったか。あと、ジャズ系ではソニー・ロリンズ(2005年11月11日)は別格。そして、フィッシュボーン(2011年8月8日、他)のアンジェロ・ムーア(2009年11月25日)もぼくのなかではイケてる最たる人物だな……。ではあったのだが、今回会ったら、すこし着ているものが粗末になっていた。前はブランドから衣服の提供を受けていたため、格好良すぎたという人もいるが。それだと、合点はいく。それでも、十分に格好はいいし、風情も持つ。そんな彼は、外国人には珍しく血液型に敏感な人。血液型別の食事の摂り方を提唱している人がいて、彼はそれに倣っているという。だが、ベジタリアンではないそう。
全16人、端のほうにいる管楽器奏者は、ソロを取るとき、ステージを降りて客席側を歩いて再度ステージ中央にあがるがおかしい。ブルース曲はかなり才気走った解体/構成があってニコっ。また、最後にやったスティーヴィ・ワンダー曲はうれしかったな。そんな彼らはここ2年間毎年来日しているが、この日も入りは良好。実は、この12月は他にもエリントン楽団(コットンクラブ)やクレイトン/ハミルトン楽団(ブルーノート)も来日することになっていて、ビッグ・バンド愛好人口が増えているという話にもうなずける。とともに、見た目も音も華やかなビッグ・バンド・ジャズ表現の公演は師走向きなのだろうか。
その後、南青山・月見ル君思フに移動し、先週(2011年12月8日)のキップ・ハンラハン公演に同行していたブランドン・ロスの自己名義公演(2004年9月7日、2005年6月8日、2005年6月9日、2006 年9月2日)を見る。ロス、今年はカサンドラ・ウィルソン公演(2011年)に続いて2度目の来日なり。
相手役は過去の来日単独公演にも同行しているツトム・タケイシ(2004年、2005年6月8日、2005年6月9日、2006 年9月2日)。お互いの信頼関係が核にある、息を合わせ合う、隙間を意識する静的パフォーマンスが展開される。そして、ときにロスは歌ものせる。ふむ、タテイシの特殊電気ベースは下手なウッド・ベースより、それっぽい音を出す(←あ、誇張ですね)。部分的に、ドラムの外山明(2004年1月27日、2004年8月20日、2005 年12月20日、2006年10月25日、2007年1月27日2011年6月23日、他)が出てきてとても控え目に音を加えもした。
<今日のブランドン・ロス>
ロスはアフリカン・アメリカンのミュージシャンのなかで一番おしゃれな人、という印象を、ぼくは持っている。他にすぐに思い浮かぶのはジェイソン・モラン(2008年4月6日、他)、髪型が過激だったころの昔のロニー・プラキシコ(2008年8月11日、他)も格好良かったか。あと、ジャズ系ではソニー・ロリンズ(2005年11月11日)は別格。そして、フィッシュボーン(2011年8月8日、他)のアンジェロ・ムーア(2009年11月25日)もぼくのなかではイケてる最たる人物だな……。ではあったのだが、今回会ったら、すこし着ているものが粗末になっていた。前はブランドから衣服の提供を受けていたため、格好良すぎたという人もいるが。それだと、合点はいく。それでも、十分に格好はいいし、風情も持つ。そんな彼は、外国人には珍しく血液型に敏感な人。血液型別の食事の摂り方を提唱している人がいて、彼はそれに倣っているという。だが、ベジタリアンではないそう。
ステフォン・ハリス、ダヴィッド・サンチェス&クリスチャン・スコット
2011年12月17日 音楽 ヴァイブラフォン俊英(2010年5月30日)、プエルトリコ出身の生真面目テナー・サックス奏者(2003年8月1〜2日、2010年1月27日)、ニューオーリンズ育ちの俺様トランペッター(2008年7月23日、2008年9月10日、2009年1月31日、2009年9月15日、2010年9月3日)、という組み合わせの共通点は、皆NY在住であることとコンコードと契約していることか。そんな3人はハバナに出向き、そっちのリズム隊を交えてレコーディングして、3人の連名で『ナインティ・マイルズ』というアルバムを今年出している。そのタイトルは、合衆国とキューバの距離を示すとか。
その3人に加え、(米国在住の)ピアノ、ベース、ドラム、打楽器の4人がつく。ピアノとベースはスコット人脈で、ドラマーはサンチェスのバンドの人。で、そうした7人による演奏はアルバムよりもずっと良かった。ここまでの記述でラテン・ジャズをやっているのネと判断する人がいるかもしれないが、硬派なジャズにラテン・パーカッションが入ったことを面々は標榜。締まりある即興流儀にのり、各人のソロは長目。1曲目なんて、25分ぐらいあったはず。とはいえ、それが閃きや勢いにまかせたセッション的演奏でなく、ちゃんと構成が練られているのには感心。こりゃちゃんとリハをやっているなというか、あちらでけっこうギグを重ねていると思わせる。とくに、サウンドやバッキングの付け方の変化を促すドラマーの多彩にして細心なドラミングにはほほうとなる。
MCはフロントの3人が平等に担当。ハリスは単純ながらも、日本語でやって喝采を受ける。いろんな観点において、いい感じのジャズ・ライヴでした。南青山・ブルーノート東京。
<今日の、わあ>
ちょい買い物とかあり渋谷をうろいついたら、ものすごい人出。ほんとうに、びっくりびっくりびっくり。販売店のレジもものすごい列。そして、ブルーノート東京に行くために表参道駅におりたら、週末なのにやはり人がとても多い。そして、ブルーノートも盛況。その後、某所にけっこう大人数の忘年会に行くが、次から次へと食べ物、お酒が出てきて、それには感心する。もてなしの気持ちは、確かに出るナ。日付が変わると、皆のいたずら心がバクハツ。犠牲者、約1名。死ぬほど、笑った。今年一番、お腹がよじれた。
その3人に加え、(米国在住の)ピアノ、ベース、ドラム、打楽器の4人がつく。ピアノとベースはスコット人脈で、ドラマーはサンチェスのバンドの人。で、そうした7人による演奏はアルバムよりもずっと良かった。ここまでの記述でラテン・ジャズをやっているのネと判断する人がいるかもしれないが、硬派なジャズにラテン・パーカッションが入ったことを面々は標榜。締まりある即興流儀にのり、各人のソロは長目。1曲目なんて、25分ぐらいあったはず。とはいえ、それが閃きや勢いにまかせたセッション的演奏でなく、ちゃんと構成が練られているのには感心。こりゃちゃんとリハをやっているなというか、あちらでけっこうギグを重ねていると思わせる。とくに、サウンドやバッキングの付け方の変化を促すドラマーの多彩にして細心なドラミングにはほほうとなる。
MCはフロントの3人が平等に担当。ハリスは単純ながらも、日本語でやって喝采を受ける。いろんな観点において、いい感じのジャズ・ライヴでした。南青山・ブルーノート東京。
<今日の、わあ>
ちょい買い物とかあり渋谷をうろいついたら、ものすごい人出。ほんとうに、びっくりびっくりびっくり。販売店のレジもものすごい列。そして、ブルーノート東京に行くために表参道駅におりたら、週末なのにやはり人がとても多い。そして、ブルーノートも盛況。その後、某所にけっこう大人数の忘年会に行くが、次から次へと食べ物、お酒が出てきて、それには感心する。もてなしの気持ちは、確かに出るナ。日付が変わると、皆のいたずら心がバクハツ。犠牲者、約1名。死ぬほど、笑った。今年一番、お腹がよじれた。
ジョーンズは、ミドルティーンでアポロ劇場(2004年9月15 日)のタレント・ショウで優勝しプロ入り、20歳のときには(当時の)米国ジャズ権威誌であるダンビート誌で有望新人賞を受けたりしたものの、差別をきらって65年に欧州にわたり、ずっと英国に拠点を置いている、1944年ヴァージニア州生まれの歌手だ。80年前後から日本に毎年来るようになり、基本リーダー作は日本のレコード会社を通して出しているんだっけか。ながら、ぼくは初めて、彼女の歌に触れる。なお、彼女の今の旦那は、ロイ・ハーパー、トム・ジョーンズ、ザ・ボシー・バンド、メイナード・ファーガソン他の制作や編曲に関与してきた英国人キース・マンスフィールドなんだそう。
森下滋(ピアノ)や納浩一(ベース、2010 年9月1日、他)や村田陽一(2010年3月9日、他)ほか、日本人のジャズ/スタジオ奏者を従えての実演。年齢より若く見える彼女は違和感なく、白いドレスを着ている。題材はポップ・ソングやスタンダード。そんな選曲どおりに、ジャズとR&Bを穏健に重ねたようなヴォーカル表現を悠々と聞かせる。無理な歌い方をしないためもあり、喉はそんなに劣化していると感じさせませんね。曲によってはあまり黒っぽくない行き方を取り、それにはちょい痒さを覚えるが、それもまた彼女の求めるものなのだろうとも思わせる。なんにせよ、米国黒人ヴォーカル表現がR&BならR&B、ジャズならジャズときっちり分化していないころのおおらかな妙味を感じさせるという言い方もできるか。ステージのマナーも堂に入ったものだし、円満げに歌うのもいいし、ふふふと見れました。控えている飲み会があり、ファースト・ショウのみ見る。この晩の模様はアルバム化される予定と聞く。六本木・スイートベイジル139。
<今日の、中吊り広告>
週刊誌はほとんど買わないが、電車にある中吊り広告は好んで見る。今日も車内の退屈しのぎで、いろいろと見る。おもしろかったのは、木曜発売の週刊新潮と文春のそれの対比。昨日、北の“将軍さま”の死去報道がなされたが、新潮のほうはちゃんと先を見越して準備していたのか、だーっと死亡関連記事の見出しが並んでいる。よくぞ、広告印刷を間に合わせたなー。それについて、文春はぎたぎたに完敗。ま、ゲンブツを手にするとたいしたことがないのかもしれないが。ぼくが<ライヴ三昧>で金正日のことを韓国映画に絡めて揶揄したのは、1999年11 月16日の項。あんときは、死ぬときのことなんて、当然のことながら考えもしなかった。
森下滋(ピアノ)や納浩一(ベース、2010 年9月1日、他)や村田陽一(2010年3月9日、他)ほか、日本人のジャズ/スタジオ奏者を従えての実演。年齢より若く見える彼女は違和感なく、白いドレスを着ている。題材はポップ・ソングやスタンダード。そんな選曲どおりに、ジャズとR&Bを穏健に重ねたようなヴォーカル表現を悠々と聞かせる。無理な歌い方をしないためもあり、喉はそんなに劣化していると感じさせませんね。曲によってはあまり黒っぽくない行き方を取り、それにはちょい痒さを覚えるが、それもまた彼女の求めるものなのだろうとも思わせる。なんにせよ、米国黒人ヴォーカル表現がR&BならR&B、ジャズならジャズときっちり分化していないころのおおらかな妙味を感じさせるという言い方もできるか。ステージのマナーも堂に入ったものだし、円満げに歌うのもいいし、ふふふと見れました。控えている飲み会があり、ファースト・ショウのみ見る。この晩の模様はアルバム化される予定と聞く。六本木・スイートベイジル139。
<今日の、中吊り広告>
週刊誌はほとんど買わないが、電車にある中吊り広告は好んで見る。今日も車内の退屈しのぎで、いろいろと見る。おもしろかったのは、木曜発売の週刊新潮と文春のそれの対比。昨日、北の“将軍さま”の死去報道がなされたが、新潮のほうはちゃんと先を見越して準備していたのか、だーっと死亡関連記事の見出しが並んでいる。よくぞ、広告印刷を間に合わせたなー。それについて、文春はぎたぎたに完敗。ま、ゲンブツを手にするとたいしたことがないのかもしれないが。ぼくが<ライヴ三昧>で金正日のことを韓国映画に絡めて揶揄したのは、1999年11 月16日の項。あんときは、死ぬときのことなんて、当然のことながら考えもしなかった。
ザ・クレイトン-ハミルトン・ジャズ・オーケストラ。Chie Umezawa
2011年12月21日 音楽 バンドと真正面から向き合う指揮者、サックス5人、トロンボーン4人、トランペット5人、ピアノ、ギター、ベース、ドラム。そこにシンガーも加わり、総勢20人。多くのビッグ・バンドは管楽器奏者がソロを取るときに前に出てきてソロを取るが、彼らの場合はその場で立つだけ。ステージの広さの問題かもしれないが、ときにその様式踏襲に不毛な滑稽さを覚えるぼくは、コレデイイノダと頷くことしきり。リズム・セクションは白人で固め、管楽器奏者はアフリカ系の人が多い。
といった彼らは、ベーシストのジョン・クレイトン(息子はジェラルド・クレイトン;2011年10月6日他)、弟のサックス奏者のジェフ・クレイトン(兄貴とあんまし似ていない)、ドラマーのジェフ・ハミルトンの3人が主宰するビッグ・バンドだが、切れと重厚さ、あふれる。ぼくがこれまで生で聞いたジャズのビッグ・バンドのなかで(って、そんなに触れているわけではないけど)、一番力があったと言いたくなるかも。実力者ぞろいで、まとまりがいい。はい、力ありました。MCによれば、多くの編曲はジョン・クレイトンがやっているようだ。
面白いのは、ベイシー楽団あたりを根っこに起きつつ真摯に今様集団ジャズ表現を求め、一方では楽しむことや娯楽感覚も目一杯押し出そうとしていること。指揮はジョン・クレイトンがやる(彼は客席側におりて、それをしていた。ステージの広さの都合だろうが)が、これがとんでもなくうれしそうに、大仰にする。その様は、映画『ザ・ブルース・ブラザーズ』の湖畔のボールルームでのライヴのシーンでのキャブ・キャロウェイのよう! ぼく、それだけでもウヒヒヒと盛り上がってしまったな。長身&エスタブリッシュ感あふれる彼は基本指揮者であることをまっとうし、ときに弓弾きでのコントラバス・ソロ(だけ)を取る。
後半は、オランダのジャズ歌手であるトレインチャが出てきて歌う。彼女のブルーノート発2011年オリジナル作はジョン・クレイトンの制作で、同楽団が参加している関係か。←そのアルバムには、フランク・マッコム(2011年3月4日、他)とデュエットする曲もある。ま、ぼくは演奏陣だけでステージが完結してもいいとしっかり思ったが、まあ女性シンガーが華を添えるというのも、ビッグ・バンド実演のならわしではあるわけで。。。。彼女、純ジャズ調よりもブルージーだったりソウルっぽい行き方の曲を歌うほうが魅力的ではありました。ラストは、サム・クックの「アナザー・サタデイ・ナイト」。キャット・スティーヴンスやルー・ロウルズのヴァージョンだとちょいレゲエぽく開かれてもいる曲だが、ここでは少しラテン的色彩を持つ感じで披露される。とても、俗な親しみやすさアリ。トレインチャが少しあおったこともあり、フロアのお客が次々に立ち上がる。わあ。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。
そのあとは、青山・プラッサオンゼで、ブラジル的な感触をうまく介する女性歌手(2010年10月23日)を聞く。笹子重治(2011年3月25日、他)が生ギターでバッキング。なんでも、海外に住んじゃうために(当面)日本での最後のライヴと案内されていたようで、ブルーノートもほぼ満員だったが、こちらも立ち見が出る盛況。ブラジル曲を題材とする、歌とギターのシンプルな、でもそれ以上何もいらないでしょうという、たおやかなパフォーマンスが披露される。Umezawaの歌が描く放物線がやはりとってもきれい、印象に残る歌い手という感想を改めて強く持った。MCによれば、引っ越す先の第一希望はバリ島とか。
1曲だけ英語でクリスマス・ソングも披露。先のクレイトンたちもトレインチャをフィーチャーする形で1曲やった。ああ、今年ももう少し……。
<今年の、疑問>
ずっと、不可解に思っていること。震源地が近い分だけ揺れが大きく、地形的にも津波の規模も大きかったはずの東北電力女川原子力発電所が無事だったのに、どうして東京電力の福島第一原子力発電所は壊れたのか。
といった彼らは、ベーシストのジョン・クレイトン(息子はジェラルド・クレイトン;2011年10月6日他)、弟のサックス奏者のジェフ・クレイトン(兄貴とあんまし似ていない)、ドラマーのジェフ・ハミルトンの3人が主宰するビッグ・バンドだが、切れと重厚さ、あふれる。ぼくがこれまで生で聞いたジャズのビッグ・バンドのなかで(って、そんなに触れているわけではないけど)、一番力があったと言いたくなるかも。実力者ぞろいで、まとまりがいい。はい、力ありました。MCによれば、多くの編曲はジョン・クレイトンがやっているようだ。
面白いのは、ベイシー楽団あたりを根っこに起きつつ真摯に今様集団ジャズ表現を求め、一方では楽しむことや娯楽感覚も目一杯押し出そうとしていること。指揮はジョン・クレイトンがやる(彼は客席側におりて、それをしていた。ステージの広さの都合だろうが)が、これがとんでもなくうれしそうに、大仰にする。その様は、映画『ザ・ブルース・ブラザーズ』の湖畔のボールルームでのライヴのシーンでのキャブ・キャロウェイのよう! ぼく、それだけでもウヒヒヒと盛り上がってしまったな。長身&エスタブリッシュ感あふれる彼は基本指揮者であることをまっとうし、ときに弓弾きでのコントラバス・ソロ(だけ)を取る。
後半は、オランダのジャズ歌手であるトレインチャが出てきて歌う。彼女のブルーノート発2011年オリジナル作はジョン・クレイトンの制作で、同楽団が参加している関係か。←そのアルバムには、フランク・マッコム(2011年3月4日、他)とデュエットする曲もある。ま、ぼくは演奏陣だけでステージが完結してもいいとしっかり思ったが、まあ女性シンガーが華を添えるというのも、ビッグ・バンド実演のならわしではあるわけで。。。。彼女、純ジャズ調よりもブルージーだったりソウルっぽい行き方の曲を歌うほうが魅力的ではありました。ラストは、サム・クックの「アナザー・サタデイ・ナイト」。キャット・スティーヴンスやルー・ロウルズのヴァージョンだとちょいレゲエぽく開かれてもいる曲だが、ここでは少しラテン的色彩を持つ感じで披露される。とても、俗な親しみやすさアリ。トレインチャが少しあおったこともあり、フロアのお客が次々に立ち上がる。わあ。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。
そのあとは、青山・プラッサオンゼで、ブラジル的な感触をうまく介する女性歌手(2010年10月23日)を聞く。笹子重治(2011年3月25日、他)が生ギターでバッキング。なんでも、海外に住んじゃうために(当面)日本での最後のライヴと案内されていたようで、ブルーノートもほぼ満員だったが、こちらも立ち見が出る盛況。ブラジル曲を題材とする、歌とギターのシンプルな、でもそれ以上何もいらないでしょうという、たおやかなパフォーマンスが披露される。Umezawaの歌が描く放物線がやはりとってもきれい、印象に残る歌い手という感想を改めて強く持った。MCによれば、引っ越す先の第一希望はバリ島とか。
1曲だけ英語でクリスマス・ソングも披露。先のクレイトンたちもトレインチャをフィーチャーする形で1曲やった。ああ、今年ももう少し……。
<今年の、疑問>
ずっと、不可解に思っていること。震源地が近い分だけ揺れが大きく、地形的にも津波の規模も大きかったはずの東北電力女川原子力発電所が無事だったのに、どうして東京電力の福島第一原子力発電所は壊れたのか。
午後、ラジオの特番の収録。そのまま、プチ忘年会。で、年明け早々の仕事にあったほうがなにかといいんではないかと思われるブツを、渋谷にてほろ酔いで探す。番組でかけたCDを持っていて、それに加えてヴァイナルを抱えるのはイヤなので、素直(?)にCDを購入。来年、レコード・プレイヤーの針を変えたいなあ。今年のライヴは21日で打ち止めと思っていたんだけど、最後に近くのBar Issheeに行っちゃう。出演者は、OKIDOKI(2009年7月29日、他)。まだ、ファースト・ショウが始まっていなくて、ラッキー。
前回見たときときと異なり、関島岳郎がチューバをたっぷり吹いてくれてニッコリ。セカンド・ショウでは、笙(ピャーっていう音の、邦楽楽器)の奏者が加わる。ほう。随時、音の出口のほうを、携帯電気コンロに当てている。暖めないといけない楽器なのだそう。
セカンドの途中で失礼し、新宿でやっている若い人たちの忘年会に顔を出そうと思っていたら、駅の近所で懐かしい顔と遭遇し拉致される。最後の最後まで、行き当たりばったりの、流され人生なり〜。
<来年の、スペースワン>
2010年12月13日の項で触れているが、この晩の出演者の臼井康浩(2010年12月28日、他)らが立ち上げた自律派自由音楽家団体「spaceone」が2012年7月に自分たちが自由に実演を開けるスペース開店を目指して具体的に動き出す。以下は、同団体がリリースした文章だ。賛同される方がいれば、幸いだが。
ミュージシャンとリスナーのための自由な音楽スペースを自分たちの手で運営していこうと藤井郷子、田村夏樹、松本健一、臼井康浩、が発起人となり立ち上げた団体「spaceone」は、その夢のスペースの2012年7月オープンをめざし、現在、その場所を東京都内に探し始めました。実際に不動産屋さんをまわり、数軒内見もしてみましたが、初期費用で最低でも300万円程度(※)が必要です。
会員だけでの資金力では追いつきません。
そこで、みなさんのお力を貸して頂けないでしょうか?
(※)…賃貸料坪単価1万円 × 20坪 × 9ヶ月=180万円、開店諸費用120万円とした場合
1. 物件
50平米以上で音だし可能、できれば交通の便が良い所で安価で借りられる物件を探しています。情報をお持ちの方は是非ご一報下さい。
2.寄付
寄附は1000円から受付けます。支障のない限り寄付者名リストをHP上に公開させて頂きます。また、開店後、スペース内に掲示させて頂きます。
このプロジェクトは初期費用全額が集まらなくては、開始が困難です。
2012年5月31日付けで初期費用全額が集まらない場合は、プランの延期あるいは中止等の決定を致します。やむなく中止の際には寄付金全額を返金致します。
送金方法/寄付窓口
paypalまたは振込で受け付けます。送金時にお名前、メールアドレス、お電話番号をお知らせ下さい。ご連絡先が不明な場合、返金ができなくなってしまいます。
Paypal
suika-spaceone@memoad.jp
振込先
みずほ銀行 新横浜支店 店番号356
(普)1594235 spaceone
前回見たときときと異なり、関島岳郎がチューバをたっぷり吹いてくれてニッコリ。セカンド・ショウでは、笙(ピャーっていう音の、邦楽楽器)の奏者が加わる。ほう。随時、音の出口のほうを、携帯電気コンロに当てている。暖めないといけない楽器なのだそう。
セカンドの途中で失礼し、新宿でやっている若い人たちの忘年会に顔を出そうと思っていたら、駅の近所で懐かしい顔と遭遇し拉致される。最後の最後まで、行き当たりばったりの、流され人生なり〜。
<来年の、スペースワン>
2010年12月13日の項で触れているが、この晩の出演者の臼井康浩(2010年12月28日、他)らが立ち上げた自律派自由音楽家団体「spaceone」が2012年7月に自分たちが自由に実演を開けるスペース開店を目指して具体的に動き出す。以下は、同団体がリリースした文章だ。賛同される方がいれば、幸いだが。
ミュージシャンとリスナーのための自由な音楽スペースを自分たちの手で運営していこうと藤井郷子、田村夏樹、松本健一、臼井康浩、が発起人となり立ち上げた団体「spaceone」は、その夢のスペースの2012年7月オープンをめざし、現在、その場所を東京都内に探し始めました。実際に不動産屋さんをまわり、数軒内見もしてみましたが、初期費用で最低でも300万円程度(※)が必要です。
会員だけでの資金力では追いつきません。
そこで、みなさんのお力を貸して頂けないでしょうか?
(※)…賃貸料坪単価1万円 × 20坪 × 9ヶ月=180万円、開店諸費用120万円とした場合
1. 物件
50平米以上で音だし可能、できれば交通の便が良い所で安価で借りられる物件を探しています。情報をお持ちの方は是非ご一報下さい。
2.寄付
寄附は1000円から受付けます。支障のない限り寄付者名リストをHP上に公開させて頂きます。また、開店後、スペース内に掲示させて頂きます。
このプロジェクトは初期費用全額が集まらなくては、開始が困難です。
2012年5月31日付けで初期費用全額が集まらない場合は、プランの延期あるいは中止等の決定を致します。やむなく中止の際には寄付金全額を返金致します。
送金方法/寄付窓口
paypalまたは振込で受け付けます。送金時にお名前、メールアドレス、お電話番号をお知らせ下さい。ご連絡先が不明な場合、返金ができなくなってしまいます。
Paypal
suika-spaceone@memoad.jp
振込先
みずほ銀行 新横浜支店 店番号356
(普)1594235 spaceone