<アイルランドから歌の贈り物>(2011年12月6、7日)の東京編、青山・CAY。

 まず、HEATWAVEの山口洋が生ギターの、生理的にまっすぐな弾き語り。30分強? 間奏部になると、リズム・ギター音をループさせ、そこにエフェクトをかけてギター・ソロを取ったりもする。相馬市でおじいちゃんやおばあちゃんの前でライヴをやったりもし、喜んでもらうために美空ひばりの曲をやるようになったそう(相馬では演歌歌手の山口です、てなMCもあり)で、彼は「リンゴ追分」も堂々披露。それ、なんかニール・ヤングの曲みたいだった。もちろん、彼が作った「満月の夕」も披露する。

 そして、リアム・オメンリーが登場。ティン・ホイッスルやボーランも手にするが、約90分のパフォーマンス中、80パーセントはピアノの弾き語り、たっぷり。かつてのホットハウス・フラワーズの曲もいろいろやったようだ。途中からは、山口洋もギターで加わる。二人とも“ミュージシャン”、とっても曖昧模糊とした言い回しになるが、そういうかけがえのない存在感や重みがぽっかり浮き上がる。あと、オメンリーは時に足につけていた鈴で、ほのかにアクセント音を入れる曲もあった。


<今日のコブシ>
 この12 月10日の最後のほうで書いてもいるが、この1週間ほどオメンリー、そしてオメンリーとアヌーナのまさかの共演というパフォーマンスに触れて、日本人には今様ポップ感覚と同化できる、同胞同士で気持ちを解け合わせることができる日本の伝統的音楽マテリアルはあるかということを、漠然と考えてしまう。
 そんななか、コブシを効かせてもロックだった、山口洋による「リンゴ追分」には多大な感慨を得た。そういえば、昨日の矢野×上原公演でも、矢野は「エヴォキュエーション・プラン」をまるで演歌ヴァージョンと言いたくなるぐらいに、コブシを効かせて歌っていて、それにもにっこりできた。うぬ、やはりコブシはその突破口になるだろうか。話は飛ぶが、ぼくは山下達郎が得意ではない。メロディやサウンド、音楽が形になるまでの筋道/哲学はもうすばらしいと思う。でも、ぼくは彼の歌唱がどうも苦手なのだ。朗々とした鼻声の歌にある微妙な濁りや演歌的コブシを連想させるアクセントの付け方(なんか、ぼくはそれに触れると、都はるみが拳を握ってふんぎゃと気張る様を想起してしまう)に、なんか過剰にドメスティックな泥臭さを感じてしまって、違和感を覚えてしまう。やはり、ぼくは山下達郎には舶来文化経由の純ハイカラなものを求めたいから。でも、上出の理由から、今あらためて聞くと、地に足をつけた輝かしい日本のポップスとして山下達郎を聞けるかもしれないと、淡い期待を持ちたくなる。