去年は2回(2月22日、12月11日)もやってきている、個性派R&Bシンガー。直近の12月11日のほうはたった1曲カヴァー曲を歌うために来ているわけで……。
というのはともかく、すばらしい実演だったと思う。なんか、いい新年の幕開けじゃないかと思えてならなかったもの。客も本当に熱烈な人が多くて、それもショウの濃さ、価値を存分におそあげていた。
最初から出てきて歌った本人に加え、女性バックグラウンド・シンガー2人、キーボード、ギター、ベース、ドラムという陣容。彼女たちはチーム・ワークよく、R&Bの良さとメイシー・グレイの個性(それは、純R&Bの真価を抱えつつ、そこから離れようとする意欲も抱える)が拮抗しあうショウを堂々披露する。ストーリー性と訴求力、たっぷり。満足まんぞく。
南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。お、例年になく、今年はライヴ行きの開始日が早いかも。すでに昨日、新年会もやってるしなー。当面、ずうっと、夜の予定はほぼ詰まっている。どーなることやら。
<今日の、>
2011年あけてからひょんな思いつきで、おまけで<今日の〜>というのを書くようになった。ネタにも困らず(まあ、思ったことや気付いたことを記すだけだからな)、フツーに続いたナ。今年もやることにしよう。
というのはともかく、すばらしい実演だったと思う。なんか、いい新年の幕開けじゃないかと思えてならなかったもの。客も本当に熱烈な人が多くて、それもショウの濃さ、価値を存分におそあげていた。
最初から出てきて歌った本人に加え、女性バックグラウンド・シンガー2人、キーボード、ギター、ベース、ドラムという陣容。彼女たちはチーム・ワークよく、R&Bの良さとメイシー・グレイの個性(それは、純R&Bの真価を抱えつつ、そこから離れようとする意欲も抱える)が拮抗しあうショウを堂々披露する。ストーリー性と訴求力、たっぷり。満足まんぞく。
南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。お、例年になく、今年はライヴ行きの開始日が早いかも。すでに昨日、新年会もやってるしなー。当面、ずうっと、夜の予定はほぼ詰まっている。どーなることやら。
<今日の、>
2011年あけてからひょんな思いつきで、おまけで<今日の〜>というのを書くようになった。ネタにも困らず(まあ、思ったことや気付いたことを記すだけだからな)、フツーに続いたナ。今年もやることにしよう。
南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。キーボード、ギター、ベース、ドラム、男女のコーラスという布陣にて。で、すぐに、へーえ、と感じる。バンドがファミリアというか、彼らが持つヴァイブが温かいというか。で、それはレイラ・ハサウェイ(2010年7月13日、他)の人間性が導くものなのだろうけど、ひいてはあの偉大なオーガニック・ソウル・マンの血を弾く人物と一緒に音楽を作れる事にバンド・メンバーたちが歓びを覚え、自負をおおいに抱えているぞと感じちゃうのだ。当然、それ、悪い感じはない。いや、なんかうれしくなる。
レイラ・ハサウェイは過去、ジーンズ+Tシャツ+スタジアム・ジャンパーみたいなかなりカジュアルな格好でステージに出てきていたこともあると記憶するが、今回はワンピースのスカートで一応ステージ仕様の出で立ち。変わらず、低目の流麗声を余裕で披露する。そして、それは広がりや滋味をすうっと聞き手にもたらす。彼女は昨年秋に新作『ホエア・イット・オール・ビギンズ』(スタックス)を出し、このツアーはその盤タイトル名を冠しているはずだが、鷹揚にカヴァーをやるのは過去のとおり。
それから書いておきたいのは、中盤に電気キーボード奏者(『ホエア・イット・オール・ビギンズ』にも参加しているマイク・アーバーグによる)による延々のソロが相当にすばらしかった。なんか、グっとこさせるもの横溢。今年、あらゆるジャンルを含めて最良の鍵盤ソロになるのではと思えるほど、ぼくは感じいってしまった。
<今日のアルバム>
一昨年の彼女の項で触れているが、彼女はダニー・ハサウェイの娘であることを健やかに肯定している人物。そんなこともあり、新作のジャケット・カヴァーにおいては父親のアルバム群のパロディ・イラストをコラージュする方向に出た。わー。表Ⅳには、新たにハサウェイ・エンターテインメントというマークが入っていたりもする。それ、彼女のトレードマークである(?)たらこ唇が父親の象徴であるハンチング帽をかぶっているというもの。アルバム・タイトルも意味深げではあるよなー。真摯&根クラというイメージもある父だが、娘は陽性&天真爛漫。ぼくは、彼女に触れると、あの人の実像は……とか、いろいろ想像を巡らしてしまう。
レイラ・ハサウェイは過去、ジーンズ+Tシャツ+スタジアム・ジャンパーみたいなかなりカジュアルな格好でステージに出てきていたこともあると記憶するが、今回はワンピースのスカートで一応ステージ仕様の出で立ち。変わらず、低目の流麗声を余裕で披露する。そして、それは広がりや滋味をすうっと聞き手にもたらす。彼女は昨年秋に新作『ホエア・イット・オール・ビギンズ』(スタックス)を出し、このツアーはその盤タイトル名を冠しているはずだが、鷹揚にカヴァーをやるのは過去のとおり。
それから書いておきたいのは、中盤に電気キーボード奏者(『ホエア・イット・オール・ビギンズ』にも参加しているマイク・アーバーグによる)による延々のソロが相当にすばらしかった。なんか、グっとこさせるもの横溢。今年、あらゆるジャンルを含めて最良の鍵盤ソロになるのではと思えるほど、ぼくは感じいってしまった。
<今日のアルバム>
一昨年の彼女の項で触れているが、彼女はダニー・ハサウェイの娘であることを健やかに肯定している人物。そんなこともあり、新作のジャケット・カヴァーにおいては父親のアルバム群のパロディ・イラストをコラージュする方向に出た。わー。表Ⅳには、新たにハサウェイ・エンターテインメントというマークが入っていたりもする。それ、彼女のトレードマークである(?)たらこ唇が父親の象徴であるハンチング帽をかぶっているというもの。アルバム・タイトルも意味深げではあるよなー。真摯&根クラというイメージもある父だが、娘は陽性&天真爛漫。ぼくは、彼女に触れると、あの人の実像は……とか、いろいろ想像を巡らしてしまう。
クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー
2012年1月6日 音楽 2000年代中期の米国インディ・ロック界の星てな感じもあった5人組(2006年1月24日)だが、NYブルックリン発だし、けっこうトーキング・ヘッズの影響を伺わせるところもあるわけで、ある意味ロック界で言うところの“ブルックリン派”の駆け出し的存在とも指摘できる? ま、サウンド的な混沌はあまり持たない〜だが、それが颯爽としたキブンとつながりもするか〜彼らではあるが。
渋谷・O-イースト。学生風情はなく、多少ヤレてきた外見のもと、なんかしなやかと思わせる曲を重ねる。また、狭いロック語句を使ってしまうが、ちょい音響派的な手触りを感じたりもしたか。45分見て、新年会に向かわさせてもらいました。
<今日のワイン>
個人宅での新年会ゆえ、みやげを持参。コンサート前の六本木での打ち合わせから、ハダカ同然のワインのボトルを持ち歩く。ふう。
渋谷・O-イースト。学生風情はなく、多少ヤレてきた外見のもと、なんかしなやかと思わせる曲を重ねる。また、狭いロック語句を使ってしまうが、ちょい音響派的な手触りを感じたりもしたか。45分見て、新年会に向かわさせてもらいました。
<今日のワイン>
個人宅での新年会ゆえ、みやげを持参。コンサート前の六本木での打ち合わせから、ハダカ同然のワインのボトルを持ち歩く。ふう。
マシュー・スウィート
2012年1月7日 音楽 このシンガー・ソングライター(2010年4月3日)の3作目となる91年作『ガールフレンド』をまんまやっちゃいますよという、実演。マシュー・スウィートのアルバムで1枚選べと言われたらいい感じのジャケットを持つ同作をぼくも迷わず選ぶが、この企画はどこから生まれたのか。米国アルバム・チャートではちょうど100位の作品であるのだが(記録より記憶に残るアルバムということか)、米国でもやっているのかな。ここんとこ、他のアーティストでもそういうノリのライヴがあるとか聞いたりするものな。それとも、日本オンリーの企画? 少し前はカヴァー・アルバムを連発していたので、こういうことをやっても少しも不思議には思わないが、彼は昨年秋にまっとうな新作(『Modern Art』というタイトル)を出しているのに、昔の名前で出ています的実演を笑顔でやってしまうのか……。
六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。けっこう、オトコがおおい。とともに、普段よりお一人サマな客が多かったかも。前回公演にも同行したヴェルベット・クラッシュのポール・チャスティン(ベース)を含む3人(先に触れた新作関与のドラマーのリック・メンクもヴェルヴェット・クラッシュの人)が、ギターを弾きながら歌う、ロック界トップ級に外見劣化度数の高い(?)スウィートをサポート。やっぱ、すがりつきがいのあるいい曲が多いと、それを聞きながら実感。ながら、あのスケール練習のようなスリルのないソロを取るギタリストはないだろう。あれじゃ、ただの馬鹿ロックになっちゃう。なるほど、マテリアル(2005年8月20日、他)やスクリッティ・ポリテッィ(2006年8月12日)のドラマーでもあったNYボーダーレス音楽界出身のフレッド・マーが共同プロデュースをした『ガールフレンド』は彼がもたらすちょっとオルタナティヴな風や刺や陰影があってこその名盤であったのだと思わずにはいられず。そこでギターを弾いていたのは、やはりNY地下シーンのリチャード・ロイドやロバート・クワインだった。マーは長年のルー・リード作品の制作者でもありますね。
<今日の、名盤>
ぼくにとって、アルバムまんまやってくれたら、一番発情しちゃうのは何か、と少し考える。やっぱり、多感な時期に飽きるほどアタマから終わりまで聞いた“私のアルバム”というのは各々にあるはずで、そういう作品を生で追体験できたら、あーあのころはとか若い自分の所作や思いがぞろぞろと浮かび上がってきて、やはりえも言われぬ気持ちになっちゃうだろう。現存する人だと、ジョー・ウォルッシュ(2011年3月5日)の“ミラー・ボール”(76年のライヴ盤)はその最たる作品かな。
六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。けっこう、オトコがおおい。とともに、普段よりお一人サマな客が多かったかも。前回公演にも同行したヴェルベット・クラッシュのポール・チャスティン(ベース)を含む3人(先に触れた新作関与のドラマーのリック・メンクもヴェルヴェット・クラッシュの人)が、ギターを弾きながら歌う、ロック界トップ級に外見劣化度数の高い(?)スウィートをサポート。やっぱ、すがりつきがいのあるいい曲が多いと、それを聞きながら実感。ながら、あのスケール練習のようなスリルのないソロを取るギタリストはないだろう。あれじゃ、ただの馬鹿ロックになっちゃう。なるほど、マテリアル(2005年8月20日、他)やスクリッティ・ポリテッィ(2006年8月12日)のドラマーでもあったNYボーダーレス音楽界出身のフレッド・マーが共同プロデュースをした『ガールフレンド』は彼がもたらすちょっとオルタナティヴな風や刺や陰影があってこその名盤であったのだと思わずにはいられず。そこでギターを弾いていたのは、やはりNY地下シーンのリチャード・ロイドやロバート・クワインだった。マーは長年のルー・リード作品の制作者でもありますね。
<今日の、名盤>
ぼくにとって、アルバムまんまやってくれたら、一番発情しちゃうのは何か、と少し考える。やっぱり、多感な時期に飽きるほどアタマから終わりまで聞いた“私のアルバム”というのは各々にあるはずで、そういう作品を生で追体験できたら、あーあのころはとか若い自分の所作や思いがぞろぞろと浮かび上がってきて、やはりえも言われぬ気持ちになっちゃうだろう。現存する人だと、ジョー・ウォルッシュ(2011年3月5日)の“ミラー・ボール”(76年のライヴ盤)はその最たる作品かな。
ここのところ毎年来ているはずの、いまだ後続歌手に影響度ありまくりの大の女傑R&Bシンガーである彼女(2008年6月5日)は、より今はライヴに燃えている。というのも、7年間続いていたワーキング・バンドを一新したから。その二人のギタリストを擁するバンドとともに前に進むぞと、彼女は張り切っている。そして、それに伴い、演目も変えた。また同じ曲をやってもねと言う感じで、著名当たり曲を少なくしている。あと、プリンスと同様、彼女は昔からジョニ・ミッチェル好きを表明しているが、彼女の古い曲も歌った。
六本木・ビルボードライブ東京、セカンド・ショウ。爆発した髪型は変わらず立派、少しやせた感じもあり、少し若くなったとは間違いなく言える。が、最初は少しアレレ。押さえ気味に歌うと少し声が不安定。ながら時空をかっとぶと言いたくなる思いっきり声を張り上げる箇所はすばらしい。マイクもけっこう離しているいるし、これぞチャカと頷き、浸り、高揚する。とかなんとか、やはり彼女は唯一無二の歌手。大好き、だ〜。
<今日のチャカ>
本来シャカ・カーンと発音するが、本人は日本ではチャカと呼ばれていることを知っていて、それでいいのよと言っているので、ぼくはずっとチャカと表記してきているが、そんなチャカ・カーン姉御に楽屋でインタヴュー。ある媒体からできることになったらお願いしますと言われていたのだが、できることになりましたと連絡があったのは当日。ぼくの長い音楽仕事歴のなかでこんな事は初めて。2011年12月11日で書いている出来事をのぞいては。
過去、彼女への取材は波長が合うというか、ほんとうにいい感じで進むという好印象はあったが、会ったとたん、ぼくのことを覚えてて親身に接してくれて、とても光栄。前回取材したのは96年、ちょうど15年も前にもかかわらず。新年そうそう世間をにぎわせたアレサ・フランクリン(今年はニューオーリンズのアーバン音楽を扱う大フェスティヴァルの”エッセンス”に久しぶりに出演するという。行きてー)の結婚ニュースは知らず。親友なのに連絡もらってなーいとかなり悲しがった。彼女、07年いらいアルバムを出していないが、今年中に某メジャーから、有名制作者が仕切った特別仕様アルバムが出そう。うーん、待ち遠しい。
六本木・ビルボードライブ東京、セカンド・ショウ。爆発した髪型は変わらず立派、少しやせた感じもあり、少し若くなったとは間違いなく言える。が、最初は少しアレレ。押さえ気味に歌うと少し声が不安定。ながら時空をかっとぶと言いたくなる思いっきり声を張り上げる箇所はすばらしい。マイクもけっこう離しているいるし、これぞチャカと頷き、浸り、高揚する。とかなんとか、やはり彼女は唯一無二の歌手。大好き、だ〜。
<今日のチャカ>
本来シャカ・カーンと発音するが、本人は日本ではチャカと呼ばれていることを知っていて、それでいいのよと言っているので、ぼくはずっとチャカと表記してきているが、そんなチャカ・カーン姉御に楽屋でインタヴュー。ある媒体からできることになったらお願いしますと言われていたのだが、できることになりましたと連絡があったのは当日。ぼくの長い音楽仕事歴のなかでこんな事は初めて。2011年12月11日で書いている出来事をのぞいては。
過去、彼女への取材は波長が合うというか、ほんとうにいい感じで進むという好印象はあったが、会ったとたん、ぼくのことを覚えてて親身に接してくれて、とても光栄。前回取材したのは96年、ちょうど15年も前にもかかわらず。新年そうそう世間をにぎわせたアレサ・フランクリン(今年はニューオーリンズのアーバン音楽を扱う大フェスティヴァルの”エッセンス”に久しぶりに出演するという。行きてー)の結婚ニュースは知らず。親友なのに連絡もらってなーいとかなり悲しがった。彼女、07年いらいアルバムを出していないが、今年中に某メジャーから、有名制作者が仕切った特別仕様アルバムが出そう。うーん、待ち遠しい。
マヌ・カチェ。ジェフ・テイン・ワッツ
2012年1月13日 音楽 ドラマーがリーダーとなる公演をハシゴする。
まずは(80年代半ばいこう)熟練系ロック表現のファースト・コールのドラマーとなり、2006年以降はユーロ重鎮ジャズ・レーベルのECMからドラマー&作曲家としてリーダー作を出している1958年生まれのフランス人ドラマーのカルテットを見る。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。
アルフィオ・オリリオ(ピアノ)、トーレ・ブルンボルグ(リード)、ローラン・ヴェルヌレー(電気ベース、4弦でフレット付き)という顔ぶれは昨年のカチェ公演(2011年1月28日)と同じよう。オリリオとヴェルヌレーはフランス人で、日本でも多少のファンを持つジャズ・ピアニストのオリリオの2006年リーダー作にはヴェルヌレーが参加している。そのヴェルヌレーはなんでも対応できる仏音楽界の売れっ子セッション奏者で、アシャ(2011年10月10日、他)の最新作でも弾いている。そして、もう一人のブリュンボルグはノルウェイ人でECM関連者とよく絡んだり、ブッゲ・ベッセルトフト(2010年1月24日、他)とも仲良し。昨年(2011年9月3日)はトルド・グスタフセン・アンサンブルでも来日している。
ちょいとした事で人の良さをびんびん感じさせるカチェは最初に中央に出てきてMCをし、客にフィンガー・スナップを促す。そして、その音に合わせて演奏が開始された今回公演は、けっこう1年の来日公演とは異なる印象を与えたと書きたくなる。まず、曲がよりコンパクトにまとまっていると思えたが、実際曲数も多く、1曲5分強ぐらいの曲が多かったのではないか。で、より明快さや具象性を持つ、もう一つのジャズという感想を聞き手にもっと与えるものになっていたと思う。電気ベースの採用も、こういう指針なら分からなくもない。ながら、フュージョンという感じを(少なくてもぼくは)受けないのは、奏者たちの純度の高さゆえではなかったか。
あと、印象が異なったのは、音の聞こえ方による部分も小さくないか。やはり、ブルーノート東京は音がいいと思う。カチェのドラム音なんて、各音がくっきり立体的に聞こえて、やはり前回受けた所感とはけっこう異なったもの。音楽の流れを大切にしつつしなやかかつヴァイタルに音を鳴らせるな彼の美点をばっちり了解。音がいいと言えば、テナーとソプラノ・サックスを吹いたブリュンボルグもいい楽器音を出していた。ながら、一部は足下のエフェクターを用いてリード音を自ら加工したりもしていたな。オリリオも電気ピアノを併用した。
この晩の演奏がアルバム化されたとして、ジャズ入門アルバム30選を挙げる機会があったとしたら、それを挙げてもいいかもしれない。
続いては、有楽町・コットンクラブ。働き世代の米国ジャズ・ドラマー最たる人物であるジェフ・ワッツ(こちらは、1960年生まれ)のリーダー・バンドの出演。ワッツにプラスして、マーカス・ストリックランド(リード)、デイヴィッド・キコウスキ(ピアノ、電気ピアノ。昨年はロイ・ヘインズ公演;11月29日で来ていた)、ジェイムズ・ジナス(ベース)という布陣。それ、ワッツの昨年リーダー作『Family』に基づくもの(アルバムではスティーヴ・ウィルソンが吹いていた)だ。またワッツの2007年(12月18日)公演のカルテットの顔ぶれからベース奏者が変わった(クリスチャン・マクブライド→ジナス)とも言える。ま、なんにせよ、勝手知ったる“鉄板”の陣容ですね。
オールスター編成だったワッツの前回のリーダー公演(2010年10月21日)は多分にセッション的色彩が強かったゆえ、それもあって、とっても整備された阿吽の呼吸に満ち満ちた演奏を受けたとたっぷり思えた。緩急自在に曲中のテンポやムードが変わるあたりはこのクインテットの面目躍如。まったくもって、確かな、覇気あるジャズをやっている。総体としては、ジョン・コルトレーンのしっぽをなでつつ、深刻にならずに陽性に突っ走るパワー・ジャズという感じか。やっぱ、ワッツのドラミングは音がでかく、鼓舞力に満ちる。
で、そんな冴えたドラミングが支える演奏を聞きながら、ジャズの変遷〜進歩って、まずはドラミング奏法の広がり〜発展で語られるべきではないか、なんて思えてきたりもしたような。
<今日の、気候>
天気は晴れゆえ日中室内にいる場合はそれなりの温室状態でそんなに寒さは感じないのだが、日暮れとともにさあーと気温が下がるような感じになり、外出するとかなり寒い。マジ冬だァとヘコむ。昨日が一番、夜の寒さを感じたかな。が、今日はライヴにでかけるため外に出たら、そんなに寒さを覚えない。風があまりないせいもある? それだけで、すこし幸せというか、円満なキブンを得ます。
まずは(80年代半ばいこう)熟練系ロック表現のファースト・コールのドラマーとなり、2006年以降はユーロ重鎮ジャズ・レーベルのECMからドラマー&作曲家としてリーダー作を出している1958年生まれのフランス人ドラマーのカルテットを見る。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。
アルフィオ・オリリオ(ピアノ)、トーレ・ブルンボルグ(リード)、ローラン・ヴェルヌレー(電気ベース、4弦でフレット付き)という顔ぶれは昨年のカチェ公演(2011年1月28日)と同じよう。オリリオとヴェルヌレーはフランス人で、日本でも多少のファンを持つジャズ・ピアニストのオリリオの2006年リーダー作にはヴェルヌレーが参加している。そのヴェルヌレーはなんでも対応できる仏音楽界の売れっ子セッション奏者で、アシャ(2011年10月10日、他)の最新作でも弾いている。そして、もう一人のブリュンボルグはノルウェイ人でECM関連者とよく絡んだり、ブッゲ・ベッセルトフト(2010年1月24日、他)とも仲良し。昨年(2011年9月3日)はトルド・グスタフセン・アンサンブルでも来日している。
ちょいとした事で人の良さをびんびん感じさせるカチェは最初に中央に出てきてMCをし、客にフィンガー・スナップを促す。そして、その音に合わせて演奏が開始された今回公演は、けっこう1年の来日公演とは異なる印象を与えたと書きたくなる。まず、曲がよりコンパクトにまとまっていると思えたが、実際曲数も多く、1曲5分強ぐらいの曲が多かったのではないか。で、より明快さや具象性を持つ、もう一つのジャズという感想を聞き手にもっと与えるものになっていたと思う。電気ベースの採用も、こういう指針なら分からなくもない。ながら、フュージョンという感じを(少なくてもぼくは)受けないのは、奏者たちの純度の高さゆえではなかったか。
あと、印象が異なったのは、音の聞こえ方による部分も小さくないか。やはり、ブルーノート東京は音がいいと思う。カチェのドラム音なんて、各音がくっきり立体的に聞こえて、やはり前回受けた所感とはけっこう異なったもの。音楽の流れを大切にしつつしなやかかつヴァイタルに音を鳴らせるな彼の美点をばっちり了解。音がいいと言えば、テナーとソプラノ・サックスを吹いたブリュンボルグもいい楽器音を出していた。ながら、一部は足下のエフェクターを用いてリード音を自ら加工したりもしていたな。オリリオも電気ピアノを併用した。
この晩の演奏がアルバム化されたとして、ジャズ入門アルバム30選を挙げる機会があったとしたら、それを挙げてもいいかもしれない。
続いては、有楽町・コットンクラブ。働き世代の米国ジャズ・ドラマー最たる人物であるジェフ・ワッツ(こちらは、1960年生まれ)のリーダー・バンドの出演。ワッツにプラスして、マーカス・ストリックランド(リード)、デイヴィッド・キコウスキ(ピアノ、電気ピアノ。昨年はロイ・ヘインズ公演;11月29日で来ていた)、ジェイムズ・ジナス(ベース)という布陣。それ、ワッツの昨年リーダー作『Family』に基づくもの(アルバムではスティーヴ・ウィルソンが吹いていた)だ。またワッツの2007年(12月18日)公演のカルテットの顔ぶれからベース奏者が変わった(クリスチャン・マクブライド→ジナス)とも言える。ま、なんにせよ、勝手知ったる“鉄板”の陣容ですね。
オールスター編成だったワッツの前回のリーダー公演(2010年10月21日)は多分にセッション的色彩が強かったゆえ、それもあって、とっても整備された阿吽の呼吸に満ち満ちた演奏を受けたとたっぷり思えた。緩急自在に曲中のテンポやムードが変わるあたりはこのクインテットの面目躍如。まったくもって、確かな、覇気あるジャズをやっている。総体としては、ジョン・コルトレーンのしっぽをなでつつ、深刻にならずに陽性に突っ走るパワー・ジャズという感じか。やっぱ、ワッツのドラミングは音がでかく、鼓舞力に満ちる。
で、そんな冴えたドラミングが支える演奏を聞きながら、ジャズの変遷〜進歩って、まずはドラミング奏法の広がり〜発展で語られるべきではないか、なんて思えてきたりもしたような。
<今日の、気候>
天気は晴れゆえ日中室内にいる場合はそれなりの温室状態でそんなに寒さは感じないのだが、日暮れとともにさあーと気温が下がるような感じになり、外出するとかなり寒い。マジ冬だァとヘコむ。昨日が一番、夜の寒さを感じたかな。が、今日はライヴにでかけるため外に出たら、そんなに寒さを覚えない。風があまりないせいもある? それだけで、すこし幸せというか、円満なキブンを得ます。
サマソニやフジ・ロックに複数出演もしている、ブラジル出身のはじけた女男混合バンド。ぼくは初めて見る。会場は、新木場・スタジオコースト。2階席は解放していなかったようだが、都内のスタンディング級ヴェニューとしては(たぶん)一番大きい場所なはずで、着実に支持層を増やしているのだな。
「みんな、元気? サンパウロからァ来ました」。フロントの女性リード歌手はちょっとした日本語を巧みに英語MCに交える。ほんと、それでツカミはばっちりという感じ。ぼくはなんとなくシザー・シスターズ(2007年1月25日)のブラジル版といったイメージを持っていたのが、スッコーンと抜けたな感覚など重なる部分もあるが、米国の彼らより、CSSは単純で、磨かれた娯楽感覚もなく、ギミックも少ない。バンドを始めたときほとんど楽器を出きる人がいなかったというのも納得の、天然感覚あふれるパワー・ポップ曲を屈託なく1時間強にわたって送り出した。
とうわけで、楽曲や歌唱や演奏においてはびっくりするぐらい新奇さがないが、和気あいあいはじけたパーティ感覚こそは彼女たちが持つ生命線で、それだけで彼らは光り輝き、聞き手の支持を集めていると了解。別な言い方をすれば、音楽的な部分外でアピールできるというのもまたポップ・ミュージックなのでR。良き隣人の、くだけ、はじけたポップス。なお、ブラジルっぽい所、音楽的にはありません。
もう5年はブラジル外志向で活動している彼女たちは、鬼のようにライヴをやっているとも伝え聞くが、あんまりうまくなっていない、もとい初々しさを残しているのは奇跡的。ぼくが一番にっこりしっくりいったのは、終盤に1分ぐらいやった、セットリストには「ラップ」と記されていた唯一のラップ調曲。これもまた特別に芸はないが、屈託なくはじける彼女たちのノリにはぴったりで、もっとこういう方向に行けばいいと思えた。
<今日の、マンガ>
ひょんなことから「ジャイアント・キリング」というサッカー漫画を知り、そのTVアニメ26話を光通信チャンネルで、一気ぎみ見。ふうっ。昨年は「ヒカルの碁」を知って、そうしたことがあった。なんか無為に時間を過ごしたような気にほんの少しなり、自分の狭〜い生真面目さを自覚し、少しヤだなと思ってしまう。無駄なことなどそんなにあるわけないし、自分がしたかったり興味を持ったことには、無条件に、快楽的に流れていったらいいのだ。他人に迷惑をかけないかぎりは。問題は、1日24時間しかないこと也。
「みんな、元気? サンパウロからァ来ました」。フロントの女性リード歌手はちょっとした日本語を巧みに英語MCに交える。ほんと、それでツカミはばっちりという感じ。ぼくはなんとなくシザー・シスターズ(2007年1月25日)のブラジル版といったイメージを持っていたのが、スッコーンと抜けたな感覚など重なる部分もあるが、米国の彼らより、CSSは単純で、磨かれた娯楽感覚もなく、ギミックも少ない。バンドを始めたときほとんど楽器を出きる人がいなかったというのも納得の、天然感覚あふれるパワー・ポップ曲を屈託なく1時間強にわたって送り出した。
とうわけで、楽曲や歌唱や演奏においてはびっくりするぐらい新奇さがないが、和気あいあいはじけたパーティ感覚こそは彼女たちが持つ生命線で、それだけで彼らは光り輝き、聞き手の支持を集めていると了解。別な言い方をすれば、音楽的な部分外でアピールできるというのもまたポップ・ミュージックなのでR。良き隣人の、くだけ、はじけたポップス。なお、ブラジルっぽい所、音楽的にはありません。
もう5年はブラジル外志向で活動している彼女たちは、鬼のようにライヴをやっているとも伝え聞くが、あんまりうまくなっていない、もとい初々しさを残しているのは奇跡的。ぼくが一番にっこりしっくりいったのは、終盤に1分ぐらいやった、セットリストには「ラップ」と記されていた唯一のラップ調曲。これもまた特別に芸はないが、屈託なくはじける彼女たちのノリにはぴったりで、もっとこういう方向に行けばいいと思えた。
<今日の、マンガ>
ひょんなことから「ジャイアント・キリング」というサッカー漫画を知り、そのTVアニメ26話を光通信チャンネルで、一気ぎみ見。ふうっ。昨年は「ヒカルの碁」を知って、そうしたことがあった。なんか無為に時間を過ごしたような気にほんの少しなり、自分の狭〜い生真面目さを自覚し、少しヤだなと思ってしまう。無駄なことなどそんなにあるわけないし、自分がしたかったり興味を持ったことには、無条件に、快楽的に流れていったらいいのだ。他人に迷惑をかけないかぎりは。問題は、1日24時間しかないこと也。
映画「フラメンコ・フラメンコ」。映画「オレンジと太陽」。ダニエル・ラノワ
2012年1月16日 音楽 まず午後一、京橋テアトル試写室で、2010年スペイン映画を見る。監督は大御所のカルロス・サウラ(1932年生まれ)、スペインの文化や風土と結びついた映画をいろいろ録っている彼は95年にフラメンコを扱ったその名も「フラメンコ」という映画を作っているらしく、今作はその続編にあたるものだという。
フラメンコ・ダンスの足ステップ音(やはり、アイリッシュ・ダンス〜タップ・ダンスともつながりますね)とタブラ音が重なる間(ま)を抱えたビート音に導かれる現代建築美を映したオープニング映像に何気にふふふ。そして、以下は、シンガー、演奏者、ダンサーなどによるスタジオ内パフォーマンス(観客なし)映像が23組並べられる。ほんと、それのみ。演奏者の名前や楽曲は出てくるが、いっさいナレーションやテロップなどの情報は入らない。おお、潔い。それだけ、音楽やパフォーマーの質や訴求力に自信あり、ということか。
23組は、それぞれ別の担い手による。編成もまったくいろいろ、様々な組み合わせの出し物が出てきて、それは一人から大集団まで。ダンサーだけの場合もある。資料には<生命の旅と光>をテーマにしていると書かれてあり、それについてぼくはよく理解しかねるが、とにかく、いろんな編成や形式を持つフラメンコのパフォーマンスを幅広く集め(この映画のための、特別編成もあるのかな)ているのはよく分かる。野卑なほうのパターンはほぼ出てこないが、それは映画がフラメンコの持つ芸術性みたいなのに焦点をあて、提示しようとしているからではあるだろう。音楽監督はイシドロ・ムニョスという人がやっている。トマティート(2011年11月10日)やロシオ・モリーナ(2005年5月17日)ら、ぼくが日本で見たことがある人も登場。1曲目に出てくるダンサーはトマティートの娘だという。オーチャード・ホールでだいぶ前に見た事があるホアキン・コルテスもこの映画にはぴったり合いそうだが、出てこなかった。
なんか自己陶酔の極み、人間力全開みたいな表現群がてんこ盛り。最初は映像撮影の設定が“白い”なあなぞと、ちょっと退いた感じで見ていたのだが、そんなぼくを引き込んだのは、今を生きるフラメンコの様々な表現をきっちりと伝えてくれたからだと思う。もう、見ていて、足踏みしたくなったり、かけ声をかけたくなったり。音楽に興味を持つ人なら、たいがいの人はそうなるに違いない。が、映画ファンだとどーなのか。本当にこれ、純音楽映画だもん。隣に座っていた女性はずっと寝ていた。
映画の最後は、演奏しているスタジオからカメラがその模様をおさえつつどんどん退いていき、スタジオが設置されていた近代的造形を持つ建物をなめていき(冒頭映像は、それだったのですね)、さらに屋外に出て行き、建物の前にある大きなパラボラ・アンテナを映す。フラメンコは今とともにある表現であり、それはユニヴァーサルに発信されるものという意図が、見事に具視化されていると思った。
そして、続き東銀座・松竹試写室で、「オレンジと太陽」という映画を見る。英国人ケン・ローチ監督(1999年5月10日、参照)の息子、トム・ローチが監督する一作。事実をもとにする映画だ。
施設にいた子供たちが、親にも知らせられず、4世紀にわたって慈善の名のもと、海外に集団移住させられていた。そして、子供たちは移住先で、過酷な労働や性的暴行をしいられるなど酷い環境にもおかれた。1970年まで続いたそれで、非人間的に扱われた児童数は13万人にものぼるという。とくに、白豪主義をとり白人の数を増やすことを是としたオーストラリアに連れていかれた数は多かった……。そうした事実を1987年に知った英国ノッティンガムのソーシャル・ワーカーを勤める女性の英国と豪州を行き来する真心の活動を扱った映画(その原作は「からのゆりかご」という翻訳本となっているよう)。これを見ると、その事実は本国でも本当に知られておらず、葬られていたみたい。ながら、この映画が完成した2010年に、英/豪の両首相から児童移住についての公式謝罪がリリースされたという。
え、そんなことが実際にあったなんて、という重いテーマを丁寧に(ながら、孕む要件は膨大なため、少し駆け足的とアタマのほうは感じた。テンポがいいとも、言えるのかも知れないが)、説得力たっぷりに映像化する。真摯にして、力を持つ映画だな。
映画でけっこうハマった(ときに既知感を持つ)映画音楽音をつけているのは、4ADからポスト・ロック的表現を送り続けたデッド・カン・ダンスの2分の1であるリサ・ジェラルド。ぼくは知らなかったが、けっこう彼女は映画音楽の売れっ子みたい。資料にはNHKの大河ドラマのテーマ曲も作っている、なんても書いてあった。基本、映画は彼女が作った散文的なインストが終止用いられるが、目立つ感じで車から流れる音楽として使われるのは英国人シンガー・ソングライターであるキャット・スティーヴンスの71年ヒット曲「ワイルド・ワールド」。ジミー・クリフ(2004年9月5日、2006年8月19日)の名カヴァーでも知られる同曲はクロージングでも流される。映画中には児童移民に深く絡んだキリスト教会や慈善団体側の活動妨害の様も描かれるが、スティーヴンスは90年代中期にイスラム教に傾倒し(ユスフ・イスラムと改名もする)モスリム活動家となった人物であるのは単なる偶然か。そんなキャリアを持つゆえ、9.11があったとき、スティーヴンスは少しバッシングを受けたとも記憶するが。
話は戻るが、ディレクションが的確なのかもしれないが、皆さん演技がうまい。とっても、そう感じさせる映画でもあるな。実は、この日はワケあって早朝4時に起きちゃって睡眠不足気味。これで、暗がりの場にいたら寝ちゃうんじゃないかと思ったりもし、行くかどうかお昼近くまで迷っていた。が、両方の映画ともに、ぼくは引きつけられ、その危惧は杞憂だった。
ちょいと銀座をふらつき、その後はダニエル・ラノワの公演に向かう。80 年代前半にブライアン・イーノと懇意になりエンジニアとして名前を出すとともに、同中期以降はU2(2006年12月4日)やザ・ネヴィル・ブラザーズ(2004年9月18日)他の印象的な音像を持つ大物のリーダー作のプロデューサーとして一躍名前が知られるようになり、同後半からは渋味シンガー・ソングライターとしても何作もリーダー作を出している人物。ギターを弾いて歌う彼に加えて、ベース奏者とドラマーによる出し物だ。
六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。ビルボードライブのある六本木ミッドタンにはスケートリンクがあるが、冒頭MCでラノワは、カナダ人なのでスケートリンクがあると安心する、みたいなことを言っていた。そう、彼はカナダ人、ジージャンに帽子をかぶった(前から光を当てないので、顔はあんましよく分からない)風体は田舎のただのひげ面のおっさん(多少、ごぎれい)という感じ。で、カナダ人らしく、開演前(閉演後も)にはザ・バンド(メンバー5人中4人がカナダ人ですね)を流すが、パフォーマンスが始まると、ザ・バンド大好き人間なんだなというのがよく分かる。ほとんどの曲でベース奏者が寄り添うように全面的にハーモニー・ヴォーカルをつけるが、それも複数の人間が歌っていたザ・バンドを想起させるし、頭のほうのブライアン・ブレイド(2011年5月11日、他)のドラミングもザ・バンドの含みあるツイン・ドラムのあり様を一人でやっているような感じもあった。あ。こじつけかなー。
アーシー&訥々路線を、1時間15分。それにしても、ラノワは勘所をつかみ、悠々にして堂々。歌もCDで聞くよりちゃんと声が出ているような気がしたし、ギター演奏も妙味を持ちつつ雄弁。中盤では、スティール・ギターでインスト曲をやったりもした。後半はよりギター・パートを長く取り、ニール・ヤング(2001年7月28日。彼もカナダ人ですね)濃度が高くなったと思わせたか。そんな彼は親指でギュンギュン弾く場合がおおい。ま、なんにしてもエンジニア/プロデューサーがミュージシャン活動も始めたというよりは、ミュージシャンが裏方もやっていたらそっちで有名になってしまったと捉えたほうが適切なんだろうな。
そういえば、ベース奏者のジム・ウィルソンもサム・ピックでぐりぐり演奏。彼はミレニアム前後からヘンリー・ロリンズと活動をともにするようになった米国西海岸トリオ・バンドのマザー・スーペリアーのメンバーであると告知されているが、ザ・スパークス(2009年4月23、24日)のレコーディング/ツアーに参加もしているとされる同バンドのジム・ウィルソンはギター奏者だし、あまりの音楽性の差異を認めるにつけ、同名異人ではないかとぼくは感じてしまったが。日本で言うなら、山田太郎みたいな名前だしなー。
<今日の、ウヒヒ>
映画「フラメンコ・フラメンコ」についての追記。高尚目パフォーマンスを納める映画中にはその様は写し取られていないが、フラメンコにある送り手と受け手の阿吽の呼吸の関係は、日本の歌舞伎のそれと同質のものではないかと思う。やっぱ、芸術ではなく芸能、ですね。映画日本版には歌詞訳が字幕で入れられるが、目に入ってきたそれを見て、大笑いの一幕も。字幕のうろ覚えで正確ではないが、ある曲は……。
<人は俺のことを“いかれポンチ”と呼ぶ/人は俺のことを“いかれポンチ”と呼ぶ/それは、俺が無口だからだ/でも、これからはこう呼んでほしい/危ない”いかれポンチ”と>。なんだこりゃ、ですね。また、別な曲では、さんざん<君の髪は絹のよう。君の口は、君の瞳は○○のよう。君に魅了されない人間がいようか>とか、もう歯がうきまくりの甘〜い讃え文句を並べていると思ったら、急に<命令だ命令だ命令だ命令だ/これはお上のお達しと同じなんだ/小さな家を借り、おまえは一緒に住め>という内容の歌詞が続く。このアメとムチの使い分けは、ヤクザなヒモ獲得のための方策そのものではないか。
フラメンコ・ダンスの足ステップ音(やはり、アイリッシュ・ダンス〜タップ・ダンスともつながりますね)とタブラ音が重なる間(ま)を抱えたビート音に導かれる現代建築美を映したオープニング映像に何気にふふふ。そして、以下は、シンガー、演奏者、ダンサーなどによるスタジオ内パフォーマンス(観客なし)映像が23組並べられる。ほんと、それのみ。演奏者の名前や楽曲は出てくるが、いっさいナレーションやテロップなどの情報は入らない。おお、潔い。それだけ、音楽やパフォーマーの質や訴求力に自信あり、ということか。
23組は、それぞれ別の担い手による。編成もまったくいろいろ、様々な組み合わせの出し物が出てきて、それは一人から大集団まで。ダンサーだけの場合もある。資料には<生命の旅と光>をテーマにしていると書かれてあり、それについてぼくはよく理解しかねるが、とにかく、いろんな編成や形式を持つフラメンコのパフォーマンスを幅広く集め(この映画のための、特別編成もあるのかな)ているのはよく分かる。野卑なほうのパターンはほぼ出てこないが、それは映画がフラメンコの持つ芸術性みたいなのに焦点をあて、提示しようとしているからではあるだろう。音楽監督はイシドロ・ムニョスという人がやっている。トマティート(2011年11月10日)やロシオ・モリーナ(2005年5月17日)ら、ぼくが日本で見たことがある人も登場。1曲目に出てくるダンサーはトマティートの娘だという。オーチャード・ホールでだいぶ前に見た事があるホアキン・コルテスもこの映画にはぴったり合いそうだが、出てこなかった。
なんか自己陶酔の極み、人間力全開みたいな表現群がてんこ盛り。最初は映像撮影の設定が“白い”なあなぞと、ちょっと退いた感じで見ていたのだが、そんなぼくを引き込んだのは、今を生きるフラメンコの様々な表現をきっちりと伝えてくれたからだと思う。もう、見ていて、足踏みしたくなったり、かけ声をかけたくなったり。音楽に興味を持つ人なら、たいがいの人はそうなるに違いない。が、映画ファンだとどーなのか。本当にこれ、純音楽映画だもん。隣に座っていた女性はずっと寝ていた。
映画の最後は、演奏しているスタジオからカメラがその模様をおさえつつどんどん退いていき、スタジオが設置されていた近代的造形を持つ建物をなめていき(冒頭映像は、それだったのですね)、さらに屋外に出て行き、建物の前にある大きなパラボラ・アンテナを映す。フラメンコは今とともにある表現であり、それはユニヴァーサルに発信されるものという意図が、見事に具視化されていると思った。
そして、続き東銀座・松竹試写室で、「オレンジと太陽」という映画を見る。英国人ケン・ローチ監督(1999年5月10日、参照)の息子、トム・ローチが監督する一作。事実をもとにする映画だ。
施設にいた子供たちが、親にも知らせられず、4世紀にわたって慈善の名のもと、海外に集団移住させられていた。そして、子供たちは移住先で、過酷な労働や性的暴行をしいられるなど酷い環境にもおかれた。1970年まで続いたそれで、非人間的に扱われた児童数は13万人にものぼるという。とくに、白豪主義をとり白人の数を増やすことを是としたオーストラリアに連れていかれた数は多かった……。そうした事実を1987年に知った英国ノッティンガムのソーシャル・ワーカーを勤める女性の英国と豪州を行き来する真心の活動を扱った映画(その原作は「からのゆりかご」という翻訳本となっているよう)。これを見ると、その事実は本国でも本当に知られておらず、葬られていたみたい。ながら、この映画が完成した2010年に、英/豪の両首相から児童移住についての公式謝罪がリリースされたという。
え、そんなことが実際にあったなんて、という重いテーマを丁寧に(ながら、孕む要件は膨大なため、少し駆け足的とアタマのほうは感じた。テンポがいいとも、言えるのかも知れないが)、説得力たっぷりに映像化する。真摯にして、力を持つ映画だな。
映画でけっこうハマった(ときに既知感を持つ)映画音楽音をつけているのは、4ADからポスト・ロック的表現を送り続けたデッド・カン・ダンスの2分の1であるリサ・ジェラルド。ぼくは知らなかったが、けっこう彼女は映画音楽の売れっ子みたい。資料にはNHKの大河ドラマのテーマ曲も作っている、なんても書いてあった。基本、映画は彼女が作った散文的なインストが終止用いられるが、目立つ感じで車から流れる音楽として使われるのは英国人シンガー・ソングライターであるキャット・スティーヴンスの71年ヒット曲「ワイルド・ワールド」。ジミー・クリフ(2004年9月5日、2006年8月19日)の名カヴァーでも知られる同曲はクロージングでも流される。映画中には児童移民に深く絡んだキリスト教会や慈善団体側の活動妨害の様も描かれるが、スティーヴンスは90年代中期にイスラム教に傾倒し(ユスフ・イスラムと改名もする)モスリム活動家となった人物であるのは単なる偶然か。そんなキャリアを持つゆえ、9.11があったとき、スティーヴンスは少しバッシングを受けたとも記憶するが。
話は戻るが、ディレクションが的確なのかもしれないが、皆さん演技がうまい。とっても、そう感じさせる映画でもあるな。実は、この日はワケあって早朝4時に起きちゃって睡眠不足気味。これで、暗がりの場にいたら寝ちゃうんじゃないかと思ったりもし、行くかどうかお昼近くまで迷っていた。が、両方の映画ともに、ぼくは引きつけられ、その危惧は杞憂だった。
ちょいと銀座をふらつき、その後はダニエル・ラノワの公演に向かう。80 年代前半にブライアン・イーノと懇意になりエンジニアとして名前を出すとともに、同中期以降はU2(2006年12月4日)やザ・ネヴィル・ブラザーズ(2004年9月18日)他の印象的な音像を持つ大物のリーダー作のプロデューサーとして一躍名前が知られるようになり、同後半からは渋味シンガー・ソングライターとしても何作もリーダー作を出している人物。ギターを弾いて歌う彼に加えて、ベース奏者とドラマーによる出し物だ。
六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。ビルボードライブのある六本木ミッドタンにはスケートリンクがあるが、冒頭MCでラノワは、カナダ人なのでスケートリンクがあると安心する、みたいなことを言っていた。そう、彼はカナダ人、ジージャンに帽子をかぶった(前から光を当てないので、顔はあんましよく分からない)風体は田舎のただのひげ面のおっさん(多少、ごぎれい)という感じ。で、カナダ人らしく、開演前(閉演後も)にはザ・バンド(メンバー5人中4人がカナダ人ですね)を流すが、パフォーマンスが始まると、ザ・バンド大好き人間なんだなというのがよく分かる。ほとんどの曲でベース奏者が寄り添うように全面的にハーモニー・ヴォーカルをつけるが、それも複数の人間が歌っていたザ・バンドを想起させるし、頭のほうのブライアン・ブレイド(2011年5月11日、他)のドラミングもザ・バンドの含みあるツイン・ドラムのあり様を一人でやっているような感じもあった。あ。こじつけかなー。
アーシー&訥々路線を、1時間15分。それにしても、ラノワは勘所をつかみ、悠々にして堂々。歌もCDで聞くよりちゃんと声が出ているような気がしたし、ギター演奏も妙味を持ちつつ雄弁。中盤では、スティール・ギターでインスト曲をやったりもした。後半はよりギター・パートを長く取り、ニール・ヤング(2001年7月28日。彼もカナダ人ですね)濃度が高くなったと思わせたか。そんな彼は親指でギュンギュン弾く場合がおおい。ま、なんにしてもエンジニア/プロデューサーがミュージシャン活動も始めたというよりは、ミュージシャンが裏方もやっていたらそっちで有名になってしまったと捉えたほうが適切なんだろうな。
そういえば、ベース奏者のジム・ウィルソンもサム・ピックでぐりぐり演奏。彼はミレニアム前後からヘンリー・ロリンズと活動をともにするようになった米国西海岸トリオ・バンドのマザー・スーペリアーのメンバーであると告知されているが、ザ・スパークス(2009年4月23、24日)のレコーディング/ツアーに参加もしているとされる同バンドのジム・ウィルソンはギター奏者だし、あまりの音楽性の差異を認めるにつけ、同名異人ではないかとぼくは感じてしまったが。日本で言うなら、山田太郎みたいな名前だしなー。
<今日の、ウヒヒ>
映画「フラメンコ・フラメンコ」についての追記。高尚目パフォーマンスを納める映画中にはその様は写し取られていないが、フラメンコにある送り手と受け手の阿吽の呼吸の関係は、日本の歌舞伎のそれと同質のものではないかと思う。やっぱ、芸術ではなく芸能、ですね。映画日本版には歌詞訳が字幕で入れられるが、目に入ってきたそれを見て、大笑いの一幕も。字幕のうろ覚えで正確ではないが、ある曲は……。
<人は俺のことを“いかれポンチ”と呼ぶ/人は俺のことを“いかれポンチ”と呼ぶ/それは、俺が無口だからだ/でも、これからはこう呼んでほしい/危ない”いかれポンチ”と>。なんだこりゃ、ですね。また、別な曲では、さんざん<君の髪は絹のよう。君の口は、君の瞳は○○のよう。君に魅了されない人間がいようか>とか、もう歯がうきまくりの甘〜い讃え文句を並べていると思ったら、急に<命令だ命令だ命令だ命令だ/これはお上のお達しと同じなんだ/小さな家を借り、おまえは一緒に住め>という内容の歌詞が続く。このアメとムチの使い分けは、ヤクザなヒモ獲得のための方策そのものではないか。
ドミンゲスはスペインのカディス生まれ(1960 年)生まれのジャズ・ピアニスト。昨日の項で触れている映画「フラメンコ・フラメンコ」の一演奏において、ピアニスト二人のデュオ演奏(うち、一人は歌も歌う)も出てきてピアノによるフラメンコというものもあるのだろうと実感できたが、彼はフラメンコを多大に持ち込んだジャズをいろいろとやってきているらしい。スペインのEMI/ブルーノート発の2011年作もそういう指針にある。
ドミンゲスに加えてウッド・ベースとドラム、さらにはパルマ(手拍子)とカンテ(歌)の担当者も率いてのもので、当然そういう感じのものを聞かせてくれると思ったら……。あれれ、まずは闊達なジャズ・ピアニスト、我が道を行くジャズ・アレンジャーとしての姿を強くアピールするものであったか。オープナーはウェザー・リポート/ジャコ・パストリアスの有名メロディをだまし絵的に用いつつ、粒だった指さばきを聞かせようとする曲だった。いや、技ありのカヴァーと取ったほうがいいのか。そして、その後は続々マイルス・デイヴィス有名曲を取り入れた曲が続々と。それも、凝ったカヴァーとしたほうがいいのかしら。
それら、「ソー・ホワット」とか「フレディ・フリーローダー」とか「オール・ブルース」とか、実は皆『カインド・オブ・ブルー』の収録曲? もちろん、部分的にパルマやカンテが入る場合もあるのだが、それはあくまで一部分(でも、それを担う奏者は終止楽しそうにステージ上にいた)であり、普通のジャズ表現との差別化を計るためのほんの一材料といった感じで、フラメンコ・ジャズとは言いがたい。そういうのをぼくは求めたのでどこか拍子抜けしちゃった部分もあるけど、仕掛け/編曲技量と確かなジャズ観が綱引きする、スペイン人としての属性が活きた私のジャズ・ピアノ表現であったのは間違いないし、やはりジャズと言うにはいい意味での珍妙さが存分にあったのは間違いない。
こういう人、こういうジャズ・ピアノ弾きがいていい。南青山・ブルーノート東京。この日は1日1ショウなので、1時間45分ほど演奏した。
<今日の、議員>
午後、取材のため虎ノ門に向かうため地下鉄銀座線に乗っていると、溜池山王駅から見覚えのある顔の方が乗車してくる。自由民主党のなかでは珍しく、きっちり原子力発電に反対の姿勢を表明している議員。かつて彼が会長職をつとめたこともあった湘南ベルマーレのスタジアム・コートを着ていたので、本人に間違いないだろう。何年も前に関与していたサッカー・チームのチープ気味防寒衣料を当然といった感じでまとう様にはへ〜え。ぼく、ベルマーレの試合は生で見たことがないなあ。
ドミンゲスに加えてウッド・ベースとドラム、さらにはパルマ(手拍子)とカンテ(歌)の担当者も率いてのもので、当然そういう感じのものを聞かせてくれると思ったら……。あれれ、まずは闊達なジャズ・ピアニスト、我が道を行くジャズ・アレンジャーとしての姿を強くアピールするものであったか。オープナーはウェザー・リポート/ジャコ・パストリアスの有名メロディをだまし絵的に用いつつ、粒だった指さばきを聞かせようとする曲だった。いや、技ありのカヴァーと取ったほうがいいのか。そして、その後は続々マイルス・デイヴィス有名曲を取り入れた曲が続々と。それも、凝ったカヴァーとしたほうがいいのかしら。
それら、「ソー・ホワット」とか「フレディ・フリーローダー」とか「オール・ブルース」とか、実は皆『カインド・オブ・ブルー』の収録曲? もちろん、部分的にパルマやカンテが入る場合もあるのだが、それはあくまで一部分(でも、それを担う奏者は終止楽しそうにステージ上にいた)であり、普通のジャズ表現との差別化を計るためのほんの一材料といった感じで、フラメンコ・ジャズとは言いがたい。そういうのをぼくは求めたのでどこか拍子抜けしちゃった部分もあるけど、仕掛け/編曲技量と確かなジャズ観が綱引きする、スペイン人としての属性が活きた私のジャズ・ピアノ表現であったのは間違いないし、やはりジャズと言うにはいい意味での珍妙さが存分にあったのは間違いない。
こういう人、こういうジャズ・ピアノ弾きがいていい。南青山・ブルーノート東京。この日は1日1ショウなので、1時間45分ほど演奏した。
<今日の、議員>
午後、取材のため虎ノ門に向かうため地下鉄銀座線に乗っていると、溜池山王駅から見覚えのある顔の方が乗車してくる。自由民主党のなかでは珍しく、きっちり原子力発電に反対の姿勢を表明している議員。かつて彼が会長職をつとめたこともあった湘南ベルマーレのスタジアム・コートを着ていたので、本人に間違いないだろう。何年も前に関与していたサッカー・チームのチープ気味防寒衣料を当然といった感じでまとう様にはへ〜え。ぼく、ベルマーレの試合は生で見たことがないなあ。
フリート・フォクシーズ
2012年1月20日 音楽 シアトルの大人志向の6人組フォーク・ロック・バンド、初来日公演。新木場・スタジオコースト。既発の2枚のアルバムにあった幻想的な手触り(それは、クリエイティヴィティと言う項目とも重なる)/ある種のうれしい捉えどころのなさもあってか、<彼らは何をやるのか。すべてを見逃すまい>みたいな張りつめた構えが聞き手側にはあったような。で、結果的には、アルバムを上回る潤いや奥行きをちゃんと表出していたわけで、大きく頷かされた。
2作目となる『ヘルプレスネス・ブルース』(サブ・ポップ。全米4位まで、のぼった)の名を冠した世界ツアーの最終公演だそうであり、ドラマーはこれにて脱退とか。そのドラマー、公演が終わると、お客に演奏していたシンバルを手渡していたな。メンバーの半数は楽器を持ち替える。持ち楽器をいろいろ換えるバンドに駄目な連中はいない。またしても、そのテーゼは肯定されましたね。曲によってはウッド・ベースやフルートやサックスなども、巧みに彼らは用いていた。
豊かな手作り米国ロックという系譜の中にちゃんと位置しつつ、今を生きるバンドである事を伝える機微(それはリズム設定であったり、映像効果であったり)を巧みに散りばめ、得難い訴求力やスケール感やスートリー性を鮮やかに浮き上がらせう。見れて良かった、と思わせる公演だった。
<今日の、電話>
知人との電話で以下のようなやりとりあり。なんか、ここのところ、眼鏡をかけたまま寝るようになってしまった、と。実は、年末に飲んでいたとき、同様のことを言う者がいたな。で、よせばいいのに、でまかせで、それは寝ているときに災害が来る事を本能で感じているんじゃない?と戯れ言を言ったら、とっても相手は納得していた。んなの、信用すんなよ。くるときは来るし、そんなことを考えてもしょうがないし、面倒くせえ。ぼくはそういうことに無頓着で、楽観的というのとは少し違うが成り行き主義だ。どーにか、なるサ。おこってしまったら、腹をくくれ。でも、動く原発(なのかどうかはしらないが)、原子力空母や原子力潜水艦は現在どれぐらい稼働しているんだろう? 気になる。原子力の事故については、腹をくくれない。
2作目となる『ヘルプレスネス・ブルース』(サブ・ポップ。全米4位まで、のぼった)の名を冠した世界ツアーの最終公演だそうであり、ドラマーはこれにて脱退とか。そのドラマー、公演が終わると、お客に演奏していたシンバルを手渡していたな。メンバーの半数は楽器を持ち替える。持ち楽器をいろいろ換えるバンドに駄目な連中はいない。またしても、そのテーゼは肯定されましたね。曲によってはウッド・ベースやフルートやサックスなども、巧みに彼らは用いていた。
豊かな手作り米国ロックという系譜の中にちゃんと位置しつつ、今を生きるバンドである事を伝える機微(それはリズム設定であったり、映像効果であったり)を巧みに散りばめ、得難い訴求力やスケール感やスートリー性を鮮やかに浮き上がらせう。見れて良かった、と思わせる公演だった。
<今日の、電話>
知人との電話で以下のようなやりとりあり。なんか、ここのところ、眼鏡をかけたまま寝るようになってしまった、と。実は、年末に飲んでいたとき、同様のことを言う者がいたな。で、よせばいいのに、でまかせで、それは寝ているときに災害が来る事を本能で感じているんじゃない?と戯れ言を言ったら、とっても相手は納得していた。んなの、信用すんなよ。くるときは来るし、そんなことを考えてもしょうがないし、面倒くせえ。ぼくはそういうことに無頓着で、楽観的というのとは少し違うが成り行き主義だ。どーにか、なるサ。おこってしまったら、腹をくくれ。でも、動く原発(なのかどうかはしらないが)、原子力空母や原子力潜水艦は現在どれぐらい稼働しているんだろう? 気になる。原子力の事故については、腹をくくれない。
ニューヨーク生まれ/育ちのシンガー・ソングライター(2008年1月24日)の公演、今回はギタリストとのデュオによる。2010年には3種類のアコースティック傾向のセルフ・カヴァー集を出しているので、無理なく新旧曲がすらすらと送り出される。ヴェガはギターを弾きながら歌ったり、完全に演奏はサポートのギタリストにゆだねたり。そのおじさんギタリスト、巧みにいろんな奏法で対処していたが、なんか生理的に荒いというか、主役を持ち上げるフォースが弱い。そのジェリー・レナードはヴェガの旧新作はもちろん、デイヴィッド・ボウイやルーファス・ウェインライト作とかいろんな人のアルバム録音に参加している実力者ではあるわけだが。そういえば、ロック・ギタリストに厳しいですねと、少し前に飲んだときに知り合いから言われたが、そうかなあ。
簡素な仕立てによるパフォーマンスであるため、ヴェガの歌声の肌触りがいいことを、再認識する。その良さに触れ、ノラ・ジョーンズとはまったく異なるものながらある意味ブルー・ノート(・レコード)的とも感じ、どうしてブルーノートは『ビューティ&クライム』(2007年)1作限りで彼女を切ってしまったのかと残念に思う。全米アルバム・チャート129位というのは、話にならない成績なのか。なんでも同作、同年度グラミー賞のエンジニアリング部門を獲ったらしが。そういえば、黒のパンツスーツ姿のヴェガはジャケットの下に白いシャツを着ていたが、その背中には“獲ったどー”とマジックで手書き(かな?)されているのを受け狙いで見せたりも。MCも妙にお茶目なところがあって、そういう部分を見せてくれたりしたのは、くだけたクラブ公演であることが幸いしていたか。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。
<今日の、夜の天候>
公演後、知人と流れたら、21時ぐらいから、大粒といいたくなる雪がふってくる。一時は風も強くて、ガラス越しに、皆でほうと模様を見る。帰宅時にはJR武蔵野線が止まっていたようだが、普通に帰宅。だが、最寄り駅から家まではけっこう滑るは、なんか足が重いはで、一苦労。えーん、雪国では暮らせないよー。
簡素な仕立てによるパフォーマンスであるため、ヴェガの歌声の肌触りがいいことを、再認識する。その良さに触れ、ノラ・ジョーンズとはまったく異なるものながらある意味ブルー・ノート(・レコード)的とも感じ、どうしてブルーノートは『ビューティ&クライム』(2007年)1作限りで彼女を切ってしまったのかと残念に思う。全米アルバム・チャート129位というのは、話にならない成績なのか。なんでも同作、同年度グラミー賞のエンジニアリング部門を獲ったらしが。そういえば、黒のパンツスーツ姿のヴェガはジャケットの下に白いシャツを着ていたが、その背中には“獲ったどー”とマジックで手書き(かな?)されているのを受け狙いで見せたりも。MCも妙にお茶目なところがあって、そういう部分を見せてくれたりしたのは、くだけたクラブ公演であることが幸いしていたか。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。
<今日の、夜の天候>
公演後、知人と流れたら、21時ぐらいから、大粒といいたくなる雪がふってくる。一時は風も強くて、ガラス越しに、皆でほうと模様を見る。帰宅時にはJR武蔵野線が止まっていたようだが、普通に帰宅。だが、最寄り駅から家まではけっこう滑るは、なんか足が重いはで、一苦労。えーん、雪国では暮らせないよー。
ウォッシュト・アウト
2012年1月24日 音楽 インキュバス(2004年3月3日)に行こうか、ウォッシュト・アウトにしようか、少し迷った末、まだ未見の新進の後者を選ぶ。恵比寿・リキッドルーム。EP2枚とアルバム1枚しか出していないので、本編で約1時間のパフォーマンス。
米国南部ジョージア州出身の青年、アーネスト・グリーンのソロ・プロジェクトである。どこか閉じた草食的感覚とエレクトロ装飾とクラブ音楽のビートなんかが重なった茫洋系表現をチルウェイヴと言ったりしていて、ウォッシュド・アウトはその中枢にいる存在とされてきた。基本、卓録淡々ダンス・ポップの担い手だが、実演においてはプリセットの音に合わせて、3人の鍵盤奏者とドラマーが音を出すカタチで進められる。キーボードの一人はリード・ヴォーカルをとり(彼がグリーンだろう)、もう一人は曲によってはエレクトリック・ベースを弾き、もう一人は女性だった。なんか、遠目には、皆いい人そう。大学のサークル乗りをそのまま引き継ぐと書きたくなる感じもあったか。
その総体は、叙情的なシンセ・ポップに四つ打ちビートが重なる、と書けるか。で、それらの諸要素は突出してはいないのだが、なんか手触り良く、キーボード音の設定/重なりなんかは吟味されている。けっこう冒頭の方の楽曲だと、英国ぽいというか、プログ(レッシヴ)・ロック的とも感じる。暗い寒々しい雲の下、なんの変哲もない日常を淡々と綴ったようなそれらには。だから、ちょっとでも、明るい、両手を聞き手に差し伸べるような曲をやると俄然開放感や誘いを表出、観客からは歓声があがる。確信犯?
しかし、先日のフリート・フォクシーズもそうだが、ウォッシュト・アウトも今シアトルのサブ・ポップ・レーベルに所属するアーティスト。同レーベルは、90年前後はグランジ・ロックの先鋒レーベルとして注目を浴びたこともあったわけで、うーむ、時代の移り変わりを感じずにはいられない。
ところで、アーネスト・グリーンは作曲家活動にも力を入れようとしているよう(ま、僕の曲を使いませんかと、自作トラックを出版社から業界に流していると思われる)で、なんとレイラ・ハサウェイ(2012年1月5日、他)の新作『ホエア・イット・オール・ビギンズ』で2曲に作曲家/制作者/演奏者として関わっている。最初は同名異人かとも思ったけど、そのトラックは覚醒感あるシンセ基調曲なので、おそらくウォッシュト・アウトのグリーンが仕切ったブツとしていいのではないだろうか。こういうクロスオーヴァーな人の結びつきも、かつてはなかったことかもしれない。
<今日の、ゴミ>
ライヴに向かうために駅のホームに降りたら、マクドナルドの紙袋とか、遺棄されゴミが、なぜかこの日は目につく。そのぐらい持って帰ればいいのにと思うとともに、ちゃんとゴミ箱を設置してほしいとも思う。昔は駅やホームにしっかり置いてあった。それが、オウムのサリン事件があって、危険物放置をさけるためという名目のもと、すべて撤去された。一段落ついたらまた設置されるかと思ったら、その後ずっとそのまま。それにより、鉄道会社はそれなりの経費の削減ができてにっこりなはずだが、ゴミ箱を置くのは最低限のサーヴィスであると思ってしまうぼくは尊大なのか。それから、街を歩いていても、ゴミ箱がなくて困ることがたまにある。コンビニが店外にゴミ箱を設置しているので往々にしてなんとかなるが(コンビニの人々へのサーヴィス度は凄いと思う)、どうして日本の大きな通り(細い通りに置いてとは言わない)にはあまりゴミ箱がないのか。それは海外の主要都市の様と比較すると本当に日本の様は奇異に感じる。なのに、日本の道には捨てられたゴミやタバコの吸い殻は少ない。それについては、本当に日本はいいなと思えます。
米国南部ジョージア州出身の青年、アーネスト・グリーンのソロ・プロジェクトである。どこか閉じた草食的感覚とエレクトロ装飾とクラブ音楽のビートなんかが重なった茫洋系表現をチルウェイヴと言ったりしていて、ウォッシュド・アウトはその中枢にいる存在とされてきた。基本、卓録淡々ダンス・ポップの担い手だが、実演においてはプリセットの音に合わせて、3人の鍵盤奏者とドラマーが音を出すカタチで進められる。キーボードの一人はリード・ヴォーカルをとり(彼がグリーンだろう)、もう一人は曲によってはエレクトリック・ベースを弾き、もう一人は女性だった。なんか、遠目には、皆いい人そう。大学のサークル乗りをそのまま引き継ぐと書きたくなる感じもあったか。
その総体は、叙情的なシンセ・ポップに四つ打ちビートが重なる、と書けるか。で、それらの諸要素は突出してはいないのだが、なんか手触り良く、キーボード音の設定/重なりなんかは吟味されている。けっこう冒頭の方の楽曲だと、英国ぽいというか、プログ(レッシヴ)・ロック的とも感じる。暗い寒々しい雲の下、なんの変哲もない日常を淡々と綴ったようなそれらには。だから、ちょっとでも、明るい、両手を聞き手に差し伸べるような曲をやると俄然開放感や誘いを表出、観客からは歓声があがる。確信犯?
しかし、先日のフリート・フォクシーズもそうだが、ウォッシュト・アウトも今シアトルのサブ・ポップ・レーベルに所属するアーティスト。同レーベルは、90年前後はグランジ・ロックの先鋒レーベルとして注目を浴びたこともあったわけで、うーむ、時代の移り変わりを感じずにはいられない。
ところで、アーネスト・グリーンは作曲家活動にも力を入れようとしているよう(ま、僕の曲を使いませんかと、自作トラックを出版社から業界に流していると思われる)で、なんとレイラ・ハサウェイ(2012年1月5日、他)の新作『ホエア・イット・オール・ビギンズ』で2曲に作曲家/制作者/演奏者として関わっている。最初は同名異人かとも思ったけど、そのトラックは覚醒感あるシンセ基調曲なので、おそらくウォッシュト・アウトのグリーンが仕切ったブツとしていいのではないだろうか。こういうクロスオーヴァーな人の結びつきも、かつてはなかったことかもしれない。
<今日の、ゴミ>
ライヴに向かうために駅のホームに降りたら、マクドナルドの紙袋とか、遺棄されゴミが、なぜかこの日は目につく。そのぐらい持って帰ればいいのにと思うとともに、ちゃんとゴミ箱を設置してほしいとも思う。昔は駅やホームにしっかり置いてあった。それが、オウムのサリン事件があって、危険物放置をさけるためという名目のもと、すべて撤去された。一段落ついたらまた設置されるかと思ったら、その後ずっとそのまま。それにより、鉄道会社はそれなりの経費の削減ができてにっこりなはずだが、ゴミ箱を置くのは最低限のサーヴィスであると思ってしまうぼくは尊大なのか。それから、街を歩いていても、ゴミ箱がなくて困ることがたまにある。コンビニが店外にゴミ箱を設置しているので往々にしてなんとかなるが(コンビニの人々へのサーヴィス度は凄いと思う)、どうして日本の大きな通り(細い通りに置いてとは言わない)にはあまりゴミ箱がないのか。それは海外の主要都市の様と比較すると本当に日本の様は奇異に感じる。なのに、日本の道には捨てられたゴミやタバコの吸い殻は少ない。それについては、本当に日本はいいなと思えます。
パット・メセニー・ウィズ・ラリー・グレナディア
2012年1月25日 音楽 ジャズ系ギターの現代巨匠(2010年6月12日、他)の今回の来日公演は、ウッド・ベーシストのラリー・グレナディア(2009年3月1日、他)とのデュオによるもの。南青山・ブルーノート東京、8日間にわたって彼は出演。休日となる日を1日おいての、後半の初日の最初の回(ファースト・ショウ)を、ぼくは見た。
冒頭、ピカソ・ギターのソロ演奏。アンプリファイドされた音が生理的に汚い。とともに、なんかルーティン化しているというか、決まりきったことをやっているナとの感想を持つ。
その後は、グレナディアが出てきて、デュオにてパフォーマンス。メセニーはセミ・アコを主に弾いていたか。最初のスタンダードっぽい2曲はスリルねえなあ、二人の楽器の音色が固くて、味わい薄いなあなぞと聞いていた。が、デュオになってからの3曲目、いかにもメセニーぽいなだらかな草原の広がりを想起させるような曲から、かなり印象が変わる。絶妙の噛み合いのもと、ジャズを根に起きつつもいろんな音楽を受けている二人のイマジネイションと歌心がすうっと舞い上がっていく様を実感できて……。その次のブルージィな感じで始まった曲の中間のベース・ソロの部分において、メセニーはバンジョーのような感覚で刻み伴奏をしていたな。ふふふ。
ときに、両者はほんとうに隣り合うような密な位置関係で音を出し合う。背景には貧乏くさい黒の煙幕が張られていてどうしてかなと思っていたら、後半あっと驚くサプライズが。二人で演奏を始めたと思ったら、鳴り物系の音やベース・ドラムの音が入ってくる。??? そしたら、黒のカーテンがあけられて、背後にどーんと鎮座していたのは、オーケストリオン! わあ。前回のトリフォニーホール公演のものと比べれば小型だが、まさかこのお化けの玩具のような酔狂きわまりない自動演奏装置をまた持ってきているなんて。なんか、その事実だけで、ぼくは彼とブルーノートとの信頼関係を見たりもしちゃった。
アンコールは生ギターを単独で弾く。昨年リリースのソロ・ギターによる新作のクローザーだったレノン/マッカートニーの「アンド・アイ・ラヴ・ハー」。ほんと口ずさむように弾かれるそれはとってもいいんだけど、音質が電気的すぎるとまた感じる。これじゃ、全部同じギターでまかなえるじゃん。ともかく、なんだかんだ言って、非グループでできる事は一通り出したとも言える“品揃え”、メセニーは誠心に気張っていたと感じた。
<今日の、グレナディア>
今回、クレナディアの力量の高さについて、ほうと頷く。曲種にそっていろんな情報を持つフレイジングを的確に出していて、感心した。ときには、わざと音程を微妙に外し濁りの感覚を出すようなこともしていたか? で、そんな手だれの様に触れながら、半年前ぐらいにインタヴューの場で、誰かとグラナディアのことで意見の交換をしたナと、おぼろげな記憶にむずむずとなっちゃう。この後、業界の新年会に回った際、それはジャズ・ピアニストの山中千尋(2011年8月6日、他)だったとふと思い出す。彼女、去年のアルバムで部分的に、グレナディアとグルーヴ・マスターのバーナード・パーディにリズム隊コンビを組ませていた。で、大胆なことするねえとか話をふったら、「何言ってんですか。グレナディアはぁ〜」と反駁されたんだよなー。
冒頭、ピカソ・ギターのソロ演奏。アンプリファイドされた音が生理的に汚い。とともに、なんかルーティン化しているというか、決まりきったことをやっているナとの感想を持つ。
その後は、グレナディアが出てきて、デュオにてパフォーマンス。メセニーはセミ・アコを主に弾いていたか。最初のスタンダードっぽい2曲はスリルねえなあ、二人の楽器の音色が固くて、味わい薄いなあなぞと聞いていた。が、デュオになってからの3曲目、いかにもメセニーぽいなだらかな草原の広がりを想起させるような曲から、かなり印象が変わる。絶妙の噛み合いのもと、ジャズを根に起きつつもいろんな音楽を受けている二人のイマジネイションと歌心がすうっと舞い上がっていく様を実感できて……。その次のブルージィな感じで始まった曲の中間のベース・ソロの部分において、メセニーはバンジョーのような感覚で刻み伴奏をしていたな。ふふふ。
ときに、両者はほんとうに隣り合うような密な位置関係で音を出し合う。背景には貧乏くさい黒の煙幕が張られていてどうしてかなと思っていたら、後半あっと驚くサプライズが。二人で演奏を始めたと思ったら、鳴り物系の音やベース・ドラムの音が入ってくる。??? そしたら、黒のカーテンがあけられて、背後にどーんと鎮座していたのは、オーケストリオン! わあ。前回のトリフォニーホール公演のものと比べれば小型だが、まさかこのお化けの玩具のような酔狂きわまりない自動演奏装置をまた持ってきているなんて。なんか、その事実だけで、ぼくは彼とブルーノートとの信頼関係を見たりもしちゃった。
アンコールは生ギターを単独で弾く。昨年リリースのソロ・ギターによる新作のクローザーだったレノン/マッカートニーの「アンド・アイ・ラヴ・ハー」。ほんと口ずさむように弾かれるそれはとってもいいんだけど、音質が電気的すぎるとまた感じる。これじゃ、全部同じギターでまかなえるじゃん。ともかく、なんだかんだ言って、非グループでできる事は一通り出したとも言える“品揃え”、メセニーは誠心に気張っていたと感じた。
<今日の、グレナディア>
今回、クレナディアの力量の高さについて、ほうと頷く。曲種にそっていろんな情報を持つフレイジングを的確に出していて、感心した。ときには、わざと音程を微妙に外し濁りの感覚を出すようなこともしていたか? で、そんな手だれの様に触れながら、半年前ぐらいにインタヴューの場で、誰かとグラナディアのことで意見の交換をしたナと、おぼろげな記憶にむずむずとなっちゃう。この後、業界の新年会に回った際、それはジャズ・ピアニストの山中千尋(2011年8月6日、他)だったとふと思い出す。彼女、去年のアルバムで部分的に、グレナディアとグルーヴ・マスターのバーナード・パーディにリズム隊コンビを組ませていた。で、大胆なことするねえとか話をふったら、「何言ってんですか。グレナディアはぁ〜」と反駁されたんだよなー。
キウイとパパイヤ、サカキマンゴーズ
2012年1月28日 音楽 なんと出し物の名前にあるように、キウイとパパイヤ、マンゴーズ(2010年12月27日)とサカキマンゴー(2011年10月2日、他)が一緒のユニットになってしまったという特別編成での公演。南青山・月見ル君想フ。
視野の広い、酔狂でもある、ゆえに日本人的スタンダードを超えの混合音楽を作り出す賑やかし男女混合バンドとぶっとい芯を持つ親指ピアノ/歌の担い手の噛み合いはかなり良い。なんでも、この日の14時に両者は初めて顔合わせをしたそうで、その事実にはちょいびっくりさせられる。双方が持つ、日本人である自負とお茶目に枠を超えようとする自由さを謳歌する様が無理なく重なっていた。やった曲はたぶんサカキ曲8曲でマンゴーズ曲7曲(うち、5曲はマンゴーズ単体で披露)、このユニットでもっとやってエ。
サカキのバンドはベースとドラムとのトリオなので、そこにカラフル厚みが加わると、訴求力も感興も新た。マンゴーズの打楽器の悠子ちゃんはリオに行ってしまったので、カンタス村田とサンバマシーンズ(2011年5月8日)のドラマーが新たに加わっていた。前よりも和の感覚やレゲエ/ダブ味が減って、ブラジル色が増していると感じた所もあったかな。なんにせよ、両者にとって、おいしい、有意義な重なりと思う。詳しくは、ラティーナ誌の2月下旬発売号にてリポート。
<今日の、ヤベっ>
その後、会場で落ち合った外国人たちと流れる。で、飲み屋をハシゴするさい坂道で、なんか競争みたいな感じになって(バカだねえ〜)、おりゃあ負けねえゾと一気にトップ・ギアで全力疾走しかけたら、ピっとふくろはぎに違和感が走る。すぐに走るのやめ、肉離れ寸前でセーフ。ああ、悲しすぎる。こんなワタシに誰がした? もう10年以上、スキーもやってないよなー。
視野の広い、酔狂でもある、ゆえに日本人的スタンダードを超えの混合音楽を作り出す賑やかし男女混合バンドとぶっとい芯を持つ親指ピアノ/歌の担い手の噛み合いはかなり良い。なんでも、この日の14時に両者は初めて顔合わせをしたそうで、その事実にはちょいびっくりさせられる。双方が持つ、日本人である自負とお茶目に枠を超えようとする自由さを謳歌する様が無理なく重なっていた。やった曲はたぶんサカキ曲8曲でマンゴーズ曲7曲(うち、5曲はマンゴーズ単体で披露)、このユニットでもっとやってエ。
サカキのバンドはベースとドラムとのトリオなので、そこにカラフル厚みが加わると、訴求力も感興も新た。マンゴーズの打楽器の悠子ちゃんはリオに行ってしまったので、カンタス村田とサンバマシーンズ(2011年5月8日)のドラマーが新たに加わっていた。前よりも和の感覚やレゲエ/ダブ味が減って、ブラジル色が増していると感じた所もあったかな。なんにせよ、両者にとって、おいしい、有意義な重なりと思う。詳しくは、ラティーナ誌の2月下旬発売号にてリポート。
<今日の、ヤベっ>
その後、会場で落ち合った外国人たちと流れる。で、飲み屋をハシゴするさい坂道で、なんか競争みたいな感じになって(バカだねえ〜)、おりゃあ負けねえゾと一気にトップ・ギアで全力疾走しかけたら、ピっとふくろはぎに違和感が走る。すぐに走るのやめ、肉離れ寸前でセーフ。ああ、悲しすぎる。こんなワタシに誰がした? もう10年以上、スキーもやってないよなー。
ピーボ・ブライソン・ウィズ・デボラ・コックス
2012年1月30日 音楽 ブライソンのパフォーマンスの基本のノリは過去の来日公演(2010年1月28日、他)と同様。やっぱ、喉の力が秀でていている。でもって、マナーがプロプロプロ。本当にそのファン・サーヴィスの様には、毎度のことながら頭がさがる。彼の朗々とした歌い口は純R&Bというよりは、多分にMOR/ポピュラー・ヴォーカル的な穏健さを持っていたりするわけだが、実演に触れると、それも彼の意にそってのものと思わずにはいられない。(先達サム・クックに倣い?)ブライソンはそういう指針で、エスタブリッシュされることを求めている。彼はロック曲をカヴァーする場合も少なくないわけだが(今回は毎度のスティングや、リオン・ラッセル、など)、それもまた広い一般性を持ちたいという、彼の意図からだろう。なんにせよ、その誠心誠意な実演に触れると、いいもの見させてもらいましたアという気持ちになってしまうのは間違いない。それから、今回感じたのは、御大ちょい痩せたかも。あと、今回はギターをあまり弾かなかった。
後半にアリスタ〜Jからアルバムを出していたデボラ・コックスが出てきて、3曲歌う。セリーヌ・ディオンのサポートから独り立ちの機会を得たようだが、なるほど、彼女もポピュラー・ヴォーカル的な広がりをどこか持つかも。もちろん二人のデュエットもあり。そのさいはまさに熱唱の嵐、ネ。南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。
<かつての、コックスさん>
ニっと、コックスと並んで笑っている写真を持っている。オレ、なかなかに凄い髪型しているなー。ヒヒヒ。90年代中期の写真かな。コックスがプロモーションでやってきたことがあり、その際にレコード会社が開いたパーティで一緒に撮ったものだと思う。彼女は1974年生まれだから(今回、カナダ生まれであることを初めて知りました)、まだハタチちょいだったのかー。
後半にアリスタ〜Jからアルバムを出していたデボラ・コックスが出てきて、3曲歌う。セリーヌ・ディオンのサポートから独り立ちの機会を得たようだが、なるほど、彼女もポピュラー・ヴォーカル的な広がりをどこか持つかも。もちろん二人のデュエットもあり。そのさいはまさに熱唱の嵐、ネ。南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。
<かつての、コックスさん>
ニっと、コックスと並んで笑っている写真を持っている。オレ、なかなかに凄い髪型しているなー。ヒヒヒ。90年代中期の写真かな。コックスがプロモーションでやってきたことがあり、その際にレコード会社が開いたパーティで一緒に撮ったものだと思う。彼女は1974年生まれだから(今回、カナダ生まれであることを初めて知りました)、まだハタチちょいだったのかー。