渋谷・クラブ・クアトロで、日本リアル・ロック界の特別銘柄たる、重要バンド(2008年5月2日、2010年5月19日)を見る。もちろん現在は、歌/ベースのレックとドラムの中村達也(2007年4月21日、他)の2人による。適度に乱暴な感じで、刺と塊感が絡まるような音が疾走していく。途中、1時間ぐらいやって、休憩と言って、2人は突然引っ込む。が、5分たたないぐらいですぐに出てきて、何もなかったようにまた気合いのパフォーマンス。つかの間の、汗吹きタイムだったのかな。それとも、なんか確認事項があった?
 
 途中で会場をでて、はす向かいにあるバー・イッシーへ。例によってノーPAによる生音勝負の投げ銭制のギグだが、この晩の顔合わせは豪華で、坂田明(2010年4月15日、他)と梅津和時(2010年3月20日、他)のリード奏者に、打楽器(小さなドラム・キットからビリンバウまで、いろいろ持ち込んでいた)の仙波清彦(2010年3月20日)という顔合わせ。思うままの、気持ちの重ね合い……、肉声も彼らは武器にしますね。品性ある大人の、明日は明日の風が吹く的な、お茶目な狼藉の重ね合い。

<今日の芸者さん>
 バー・イッシーでのセカンド・ショウの中盤に、着物を着た3人の綺麗なおねえさんたちが入ってくる。渋谷円山町の数少ない芸者さんたちで、お座敷が終わって(意外と早く終わるのね)、やってきたそう。さすが、邦楽囃子仙波流家元が出るライヴだけある。彼女達はお囃子を習っているよう。で、終わったあと、師匠やおねえさんたちが和気あいあいと飲み始めたんだんだが、誘われてぼくも一緒に。おねえさんたちに両側を挟まれるという幸せな位置で会話とお酒を楽しむ。ふふふ。そういえば、彼女達は爪は短く整え、マニュキアも付けず。それが芸者の流儀なのか。

 入り口で募金をつのっていて、募金をすると、バーキンの写真が印刷された名刺大のカードを手渡された。Together For Japan、というバーキンの書いた字と署名も印刷されている。今回の催しに際し、日本の受け入れ側が急いで作ったようだ。

 ……思い立ったが、吉日。フランスの著名女優/シンガー(2007年11月20日)が自費でほいっとやってきて、チャリティーの無料コンサートを行なう。という、今回の公演に関する話を聞いたときは、クールと頷いたなあ。サルコジ大統領の原発ゴリ押し訪日に肩身が狭い思いをした人も、これにはニッコリできたようだ。まあ、彼女はもともとは英国人ではあるけれど。会場後方にはTVカメラがすらり、10台ほど並んでいた。やはりセレブ、ニュース・ヴァリューは高かったようだ。

 渋谷・クラブクアトロ。日本人もいろいろ出たが、それはバーキンや関係機関と繋がりがある人たちだったのだろうか。幕間のDJは松浦俊夫がやっていたよう。最初にバーキンが出てきて軽く挨拶したあと、鶴田真由(ポエトリー・リーディング)、篠原ともえ(歌。高田漣〜2009年10月31日、他〜らがサポート)、渡邊琢磨(ピアノ、2006年4月18日、他。東北在住なのか、避難所にいると紹介されていた)、原田郁子(歌、楽器。2009年11月1日、他)と黒田育代(ダンス)と渡邊琢磨、寺島しのぶ(ポエトリー・リーディング)などが、短めに声や歌や演奏を披露。その後、日本人ミュージシャンとともに、バーキンは7曲ほど、歌を聞かせる。

 その際のサポート陣は、金子飛鳥(ヴァイオリン)、中島ノブユキ(ピアノ。2005年10月21日、他)、坂口修一郎(トランペット、トロンボーン)、栗原務(ドラム)。ちゃんとリハをつんだそうで、彼らが出す音は無理なく、主役をもり立てる。本人は白いゆるめのシャツと黒のパンツ、黒いルーズな巻き方のネクタイという出で立ちだったか。

 
 アンジェリーク・キジョー(2007年12月12日、他)も取り上げた、かつての夫セルジュ・ゲンズブール(二人の娘が、シャルロット・ゲンズブール)が作った「ささいなこと」をはじめ多くはゲンズブール曲(ジャック・ブレル曲も一つやった)で、それらはどれも過去にCDで発表しているもの。だが、それらは日本演奏陣の気のきいたサウンドと、気持ちのはいったバーキンの歌/振る舞いのため、どれもオリジナルを凌駕する輝きと訴求力を持っていたのではないだろうか。



<昨日の災難>
 昨日地元で、財布をおとした。スーパーで買い物しお金を払い、レジ袋を持って、隣のドラッグストアでヴィタミン剤を買おうとしたら、ジーンズのポケットに入れた(普段バッグなどは一切携帯しないぼくは、いつもそうしています)はずのサイフがない。がーん。すぐに戻って、スーパーや歩道を探すものの、見当たらない。え、え、え? こんな狭い範囲で、短い間なのに、一体どうして……? すぐに、近くの交番に届けを出したあとが大変にして、またへこむ。運転免許証、キャッシュカード、複数のクレジットカード、健康保険証など、まじ一式はいっている。大急ぎでカードのたぐいをとめる。銀行に行ったあとでけっこうお金を入れていたが、カード/証明証のたぐいだけでも戻ってくればと願う。が、その後どこからも連絡はなし。電気屋のポイントやパスモなんて、どーでもいい。IDが悪用されないことを祈る。
 そして、一夜あけた今日、10時前から近くの銀行に行って、キャッシュカードの再発行の手続きしたり(届け出印が見当たらず、新たに登録しなければならなかった)。また、鮫洲の運転試験場に行って、免許証を即日再発行してもらったり。痛いのは、印鑑を変えたので、登録が済むまで通帳でもお金を下ろすことも出来ないこと。えーん。もー、すごい手間と時間のロス。あーなんてぼかぁ杜撰なんだと、痛感しまくり。でも、変わろうと思っても変われないはずで(と、いいつつ、財布を落とすことはなかったんだけどねー)、そうなったとき一番楽な対応が可能なようにしておくべきか。とともに、やっぱ、3.11以降、どこか自分の中にほころびがでてきているのかとも思い、弱気になる。
 とはいえ、そういう災難にあったからこそ、人の情にも触れる。まず、鮫洲に向かう電車のなかで偶然知己と会い、事の顛末を伝えると、彼は財布のなかにあった1万強のお札をすべて当座の入り用に使ってとさっと差し出てくれた。涙。そのなかの一部は今日の募金にまわさせていただきました。そして、クアトロ内で会った先輩は、実演終了後にたんまり飲ませてくれる。ありがたやー。周りの人に、改めて感謝……。

 元ドクター・フィールグッド、英国パブ・ロックの名物ギタリスト/シンガー(2000年11月20日)の公演は、心意気で当初の予定どおりに行なわれた。昨日につづいて、渋谷・クラブクアトロ。会場入りしたら、あれれ昨日より混んでいるじゃん。ライヴが始まる前に、ドクター・フィールグッドの映画(「オイル・シティ・コンフィデンシャル」。監督はジュリアン・テンプル、4月9日より、渋谷で公開)の編集版を会場横に設けたスクリーンに映していて、そのためもあり後ろのほうに人がたまっていたよう。

 実演が始まると人がステージ前方にオーディエンスがつめたせいもあり、楽には見れないが、まあ過剰にストレスを感じないぐらいの混み方になる。でも、やっぱり混んではいますね。おやじ中心のお客の反応も熱く、ロックの生に飢えている人が少なくないんだなーとも軽く実感。外国人のロック系が一番公演キャンセルになっているかもしれないから。

 トリオでぐいぐい。音もけっこうデカかったナ。イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズをずうっと支えたノーマン・ワット-ロイ(ベース)の勇士もうれしかった。

<今日のサクラ>
 家の近くの桜の名所、目黒川は満開。毎年のように提灯は川沿いに付けられているが、夜の点灯は自粛しているようだ。それはいい。だが、花見はがんがんやるべき。といいいつつ、ぼくの場合、今年は一つに顔を出すだけで、結果大自粛となってしまうが。日曜がいろいろあるので、本日都知事選挙の不在者投票をすませる。ベビーカーを押す母さんと赤ちゃんの図を見ると、本当に胸が痛む。痛すぎる。

 場所は南青山・月見ル君想フ。管楽器付きのバンドがいろいろ出る催しの最後に出てきたバンドを見る。総勢19人の女性だけ(けっこう、みんな若い)のビッグ・バンドで、華やか。結成して2年ほどのようだが、よくもまあこれだけ集まって、活動を維持しているな。アレンジも自前でやっているようだし。この晩はみんな黒基調のドレスを来ていた。そんな彼女たちはグループ名に表れているように、ラテン味を上手く介した、エンターテインメント性たっぷりの笑顔のビッグ・バンド表現をきかせる。

 情熱とともに、ちゃんと洒落というか、おもしろがり&にぎやかしの精神を存分に持っていることに少し驚きつつ、感心。多くの曲では女性シンガーもくわわり、歌謡曲っぽい曲もやったりするが、違和感なし。この日は美空ひばりトリビュートのイヴェント用にアレンジしたという美空曲メドレーも披露したが、うまく処理していたのではないか。技量的に特筆すべきところはそんなにないし、オリジナリティに溢れるわけでもないが、洒落の分るサバけたスウィング・ガールズなるものとして、これはおおいにアリ。何より皆楽しそうにやっているのが花マルだし、リーダーのアルト・サックスのMCもこなれていて、客あしらいもうまい。こりゃうまくプレゼーテーションすれば、海外のフェスの引きもあるんじゃないかとも、ぼくは思った。あと、オーガスト・ダーネル関連の音(ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンド、キッド・クリーオール&ザ・ココナッツ)をちょい研究したら表現は洋楽的にはクールになるかも……。あ、ダーネル関連音はカンタス村田(2010年12月27日、2011年2月11日)にもすすめたいか。そういえば、あのプリンスもダーネル表現には感化を受けたようでキッド・クリーオール&ザ・ココナッツの90年コロムビア盤に曲を提供したことがあった。まあ、あれは駄作気味だったけど。やっぱ、彼は76年から10年弱の間が白眉、ね。

<今日の飲み>
 会場入りする前に、古い知人と飲む。少ししんみりしつつ、話もはずむ。やはり、友達はいい。

 イケメンのジャズ・ピアニスト(2011年2月19日)のワーキング・バンド(2010年11月26日)のCDリリースをフォロウする公演。というわけで、90分を超えるパフォーマンスは全部、セルフ・タイトルのグループ・デビュー作からだったのかな。やっぱり、三者の綺麗な絡みっともに、ほつれた領域に何気に入って行く様が美しい。決して、ジャズ・ビギナーに優しい表現ではない。オーネット・コールマンのカヴァーもあり。うーぬ、ライヴ・リポートはどのように書くと、その演奏の核心に踏み込んだものとなるか。すこし、思案しよう。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。


<今日は>
 午前中から、車でいろいろ動く。やはり、交通量は少なめだな。昼過ぎ、高円寺で知人らとお昼ご飯を食べる。飲み屋だらけ、すんごく久しぶりに行ったが、ある意味ファンキーな街ね。やはり、話題は原発関連となる。19年東京に住んでいるフランス人は本国に戻ろうとも思わなかったそう。人、それぞれ。フランスの原発事情について、知識を得る。で、一緒に反原発デモの集合場所となっている公園に行く。わー、人がいっぱい。なんか、フジ・ロックのフィールド・オブ・ヘヴンがちょい入った、お祭りみたいだと思った。福島県を気遣うカードを持った人も散見される。福島県人としてありがたい。が、その喧噪を少し味わっただけで、六本木へ。その後は、花見会に合流。日が落ちると、少し肌寒い。東京は、今日までが見頃か。けっきょく、今年の花見は2度ほど。来年は5回ぐらいはしたいけど。

 プレイズ“ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア”という副題がつき、フィリー・ソウル曲に望むという出し物。ぼくは未聴だが、10年に同名のアルバムを出している。ギターを弾く本人(2007年9月19日、2009年10月6日)に加え、トロンボーン、テナー・サックス、キーボード2、ベース、ドラムという編成にてパフォーマンスする。多くの奏者たちはリフレインで少しコーラスを取ったりも。2曲では70年代後期にはワーナー・ブラザーズと契約していたAOR系自作派歌手のビル・ラバウンティ(2009年10月6日)がキーボードを弾きながらリード・ヴォーカル(そんなに上手ではない)を取る。彼はカールトンの10年作にも入っていたよう。彼は終盤、自作ヒット曲「ディス・ナイト・ウォント・ラスト・フォーエヴァー」も歌った。

 「アイル・ビー・アラウンド」他、10曲ほど演奏されたフィリー・ソウル・ナンバー群には素直に誘われる。過剰な色気や仕掛けを排して、素直に<西海岸><白人>という属性であっさり紐解き直していた、という説明ができるか。カールトンの演奏は、オクターヴ奏法によるテーマ部を演奏する曲がマル。“みんな、フィリー・ソウルが好きだった”……、そう言える出しものであったのかな。

 最後に、自身の代表曲「ルーム335」を短めに演奏。78年のメジャー・デビュー作のオープナー(あ、ラバウンティとは同じ時期、ワーナー・ブラザーズのレーベル・メイトであったのか)。ふと大学のころを思い出す。ぼくが入っていたのはどロック系のバンド・サークルだったが、1年先輩のフュージョン大好きギタリストがやっていたので、この曲はよく知っている。改めて聞いて、伸びやかで外にひろがる力を持つワザあり曲だと感心。とともに、そのころが彼の創造性のピークであったのか、てな残酷な事実も思い浮かべてしまった。ギター演奏はカールトンが好きだけど、曲やサウンドはリトナー(2009年9月5日、他)のほうが好き、と件の先輩は言っていたっけ。そんな彼に、ジャイムズ・ブラッド・ウルマーを聞かんかいっ、とは一度も言ったことはなかったなあ。あまりにも趣味が違いすぎて。

<今日の財布>
 落として、8日目。午前中に、届いてますと、警察から電話がある。一つ隣の駅で発見されたという。入っていたお札はすべて抜かれているが(どうせなら、硬貨もとってほしかった。そのほうがすっきりするのに)、カードのたぐいは残されていた。でも、どれも新しいものに換える手続きをすませちゃっている。ほえほえ〜。

 青海・ゼップ東京。3日間連続でやる初日、満員。こりゃ、素晴らしい動員。これまで来日していなかった大御所とはいえ、すげえな。もちろん、客の年齢層は高めだが、ブルース・ファンはどれぐらいいたのだろうか。

 ギター、ベース(サム・ピッキング主体で弾く)、ドラムからなる非アフリカ系の人たちによるバック・バンドに、当人。44年生まれの彼は猫背&よちよち歩き気味でステージ中央にやってきて、椅子に座って演奏。でも、演奏は確か、バンド音がとてもデカいせいもあり、けっこう疾走感があり、足腰が衰えているわりには望外に元気という印象を受けた。彼はアルピノ(弟のエドガー・ウィンターも同様)で長生きできないので演奏が鬼気迫るものになる、なんて言われ方も大昔はされていたので、何よりだ。まあ、ガチンコなぶん、繊細さやコクはなかったが、ぼくは疑問を持たずに見れた。驚いたのは、ピックを用いず、フィンガー・ピンキングでギターを弾いていた(ようにしか、遠目には見えませんでした)こと。彼、昔はピック弾きだったよな? けっこう、ソロのパートは長かった。歌も良く聞こえたが、アンプリファイドし過ぎで、うまいのかヘタなのか、よく分らず。バンドはずっとやっている人たちか、関係は危なげなく。

 フレディ・キングの「ハイダウェイ」から始まったショウはアンコールを含めて15曲ほどで、90分ぐらいだったかな。多くは素直なブルース・コード進行曲(「ストーミー・マンデイ」型のブルースや、あたまで“あがる”ブルース曲もなし。分らない人には全然??な記述だろうが、分る人には分るはず)、それをいろんなヴァリエーションのもとがしっと開いて行く。あ、でもチャック・ベリーのロックンロール曲「ジョニー・B・グッド」もやったし、本編最後はストーンズやロッド・スチュワートらのカヴァーで良く知られるボビー・ウォマック曲「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」。それ、ハードなパブ・ロックみたいだった。それから、ザ・フーのカヴァーで何より知られるエディ・コクランの「サマータイム・ブルース」の原形曲なんても言われるらしい(隣に座っていた増淵英紀さんが教えてくれた)ラリー・ウィリアムズが書いた「ボニー・マロニー」(ジョン・レノンも『ロックンロール』で取り上げている)もそういう感じ。というか、やはり、彼が鳴りもの入りでCBSコロムビアからデビューした60年代後半は(当時のキャッチは、「100万ドルのギタリスト」)、ブルース〜ブルージィ高濃度表現はロックの重要ヴァリエーションだったのだ。

 アンコールはオープン・チューニング(と思われる)のギターをもってスライド・バーを手にしつつ、エルモア・ジェイムズの「ダスト・マイ・ブルーム」とボブ・ディランの「追憶のハイウェイ61」を披露。

<今日の飲み話>
 会場であった方々と、例によって流れる。そこで、ちょっといい話を耳にしたので、書き留めておく。
 3月27日に、新百合ケ丘の川崎市アートセンターというパブリックの場所で<東北関東大震災チャリティーJAZZライヴ>という催しがあったのだという。同地に住むサックス奏者の岡淳の呼びかけで急遽実現し、3月最後の日曜日の午後になされた。出演者は、竹内直、江藤良人、中村健吾、大阪昌彦、多田誠司、古野光明、近藤和彦、TOKU(3月16日、他)をはじめ、そうそうたる面々。ブルーノート東京で行なわれた同様の公演(3月28日)は大々的に報じられたが、こんな催しもあったのですね。不明を恥じる。でも、気持ちを持つ音楽家たちが集う公演は草の根的にあちこちでなされているんだろう。
 40人近くのミュージシャンが集まり、入れ替わりやったとか。ヴェテラン歌手の酒井俊はソウル・フラワー・ユニオン(2011年3月26日、他)の関西淡路大震災を引き金とする「満月の夕」を歌い(持ち歌としているよう)、それは聞き手の涙を誘っていたという。そして、この催しは110万円もの義援金を集めたんだとか。素晴らしい。


 アルゼンチンの変幻自在ギタリスト(2002年9月7日、2002年9月15日、2006年7月7日)と、自分だけの小宇宙を持つ個性派シンガー・ソングライター(2011年1月8日)。今日はじめて会ったという、そんな二人が完全四つに組んでのパフォーマンス。結論として、実のあるやりとりを楽しめた。この手の即興協調モノのなかではかなり上にあるものだったのではないのか。代官山・晴れたら空に豆まいて。

 七尾の漂うギター弾き語り表現に、カブサッキが干渉音や発展のきっかけをいれて、どんどん積み木を重ねて行くようなものもあれば(それで、30分強やった塊も)、カブサッキの思いつきギター演奏に合わせて、七尾が思いつきで肉声を乗せていく場合もあり。お互いの出方で、進み方はごんごん変わって行く。七尾の歌は即興で日本語の言葉を乗せる場合もあれば、スキャット/擬音で進むときもある。カブサッキのギター音はキーボードからベルまで本当にいろんな音を出すし、ときには暴力的な音色をかましたりも。両者は自分のギター音に(七尾は歌声にも)機を見て敏にエフェクターをかけたり、サンプリングしたりもするが、その発想回路が似ているような気も。ジャズ的言語を直接的な根としない(かつて、インタヴューした際、ジャズは嫌いだとカブサッキは言っていたよな)、閃き/飛躍の感覚が重なるところがあったんだと思う。びっくりするぐらい、上手くはまったパフォーマンスという感想をぼくはもった。実際、七尾のカブサッキへの賞讃は即興の歌の言葉(結婚してもいいだか抱かれてもいいだか、そういうことも歌っていた)やMCを聞いてもよく判るし、カブサッキもうれしそうだった。七尾は歌詞に福島とか福島県という言葉もまぜる。今、多くの人の思いは同じだよなあ。。。。

 単身やってきたカブサッキの、初日となる公演。彼はこの後、日本各所で12回公演が予定され、場所ごとに異なる人たちと絡むようだ。


<今日の電話>
 24日は、区議会議員選挙日。昼下がり、立候補者の事務所から、投票依頼の電話がある。やーな、感じ。第一、電話がかかってきたから、入れることにしようなんていう人がいるのか。よく知らないが、そういう所作は選挙違反にはならないのかあ。電話番号の出所を聞いたら、町内会の名簿を見て、かけているという。そんなのあるのか、マンションの居住者名簿が流れているのだろうか。なんにせよ、町内会名簿があるとして、それを選挙運動に我が者顔で流用するって??  電話をかけてきたおばさんに抗議する。責任者はと問うと、立候補者自身の名前を挙げた。


 お、シックではなく、今はナイル・ロジャース&シックと名乗っているのか。そのヒット・メイカー/敏腕プロデューサー率いるNYのダンサブルなバンド(2010年4月30日、他)は毎年のようにやってきているが、いつも4月に来ているとうのは、今回はじめて知った。でも、唯一メンバーとしてサヴァイヴしているナイル・ロジャースの心持ちを知ると、納得だな。なんでも、相棒のバーナード・エドワーズ(ベース、プロデュース)の命日(4/18)の前後には東京にいて、心の同士を弔いたい……。そう、96年にシックはスティーヴ・ウィンウッド(2003年7月27日)やガンズ&ローセズのスラッシュやディラン・ディランのサイモン・ル・ボンらをゲストに迎えて日本武道館で公演をやったのだが、エドワーズはショウ遂行後に急死してしまったのだ。あの晩、公演が終わったあとにヴェルファーレのVIPルームでアフター・パーティがあったが、そこにもエドワーズは姿を見せていた。だけど、ソファーにぐたあとなっていて、とても声をかけるような感じでなかったことはよく覚えている。

 しかし、今年もちゃんとやってくるとは……。というのも、原発事故後なだけでなく、この1年の間に当のロジャースは癌をわずらい、闘病生活を送ってきたから。だが、彼は、4月の来日は当然のことと言わんかのように、馴染みのメンバーたちと胸をはって南青山・ブルーノート東京のステージに立った。

 最終日の最終セット。曲目や進め方はここ数年のそれを踏襲するもの。だが、エドワーズに対する思いとともに、被災を受けた日本人に対する思い、そして自らの生を噛みしめる思いなどが幾つも重なり、ここのところ一番と言いたくなる質を持つ、訴求する力の強いパフォーマンスになっていたのではないか。ちゃんとロジャースの姿を確認できればいいと思って行ったのだが、彼は本当に気持ちの入った振る舞いに終始し(見ただけだと、癌を煩ったとは思わないだろう。やっかいな後遺症はあるらしいが)、その総体はなんとも感動的なものになっていた。見ることができて良かったと、ぼくは心底思わずにはいられなかった。

 非の打ち所なし。ロバート・ワイアットのカヴァーでも知られるスロウ名曲「アット・ラスト・アイム・フリー」をやらなかった以外は(かつては、やっていたんだけどなあ)。途中MCで、ドラマーの誕生日が5月29日で、その日はまたブルーノート東京でそれを祝うショウをやると言っていたが、なんと本当に1日だけやるようだ。

<今日の場内>
 ナイル・ロジャースたちが出て来ると、最初から多くのお客は立ち上がる。そして、終始、マジに熱い気持ちの交歓がつづく。一見さんがその様に接すると、こんなに心温かい、熱い音楽クラブがあったのかと、大感激してしまうのではないか。なんて、思ってしまったな。
 それから、面々は始まりと終わりの楽屋とステージの間を、管楽器音と鳴りもの音を出しながらルンルンと練り歩く。それには、初めて接しました。


 60年代後期にジェイムズ・ブラウン/JBズ関連アレンジャーに抜擢され、一手にそれを担ったという、燦然と輝くキャリアを持つ、42年ニューヨーク州生まれのアレンジャーであるデイヴィッド・マシューズ率いるビッグ・バンドの公演。さすがにこの時期、来日を拒否った構成員もいたようで、全17人中4人は日本で加えたミュージシャンだ。うち、中川英二郎とエリック宮城の二人は、この3月28日の同所公演に出演していた奏者。ドラマーの波多江健は普段エグザイルやリップ・スライムといった系統で叩いている人らしい。で、ぼくの目当てはフレンチ・ホルン奏者のヴィンセント・チャンシー。この楽団のなかでは唯一のアフリカ系で、彼はサン・ラー・アーケストラ(2000年8月14日、2002年9月7日)やレスター・ボウイ・ブラス・ファンタジーやカーラ・ブレイ(1999年4月13日、2000年3月25日)・バンドといった曲者集団に関与してきている人物。ソロをぶいぶい吹くリーダー作も出しているが、ここではセクション音をならすだけで、残念ながらその持ち味を感じることはできなかった。ながら、その紳士然としたルックスや物腰はなかなかカッコ良く、ほのかに満足感を覚える。

 南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。有名曲を自らの明解なアレンジをほどこして、娯楽性に富んだビッグ・バンド表現として送り出す。なるほど、基本アレンジャーだけあってマシューズはピアノはあまり弾かず、指揮/進行役に徹する。NYのベルリッツで日本語を習っているそうで、けっこう達者な日本語MCをして、客をなごませたりも。そういえば、2週間前に作ったという「プレイ(祈り、のほう)・フォー・ジャパン」という、静謐なアンサンブルからどんどん発展を見せるオリジナル曲も披露した。


<今日の付録>
 以下はデイヴィッド・マシューズが語る、ジェイムズ・ブラウンとの絡みの抜粋である。09年にとったものだ。

——ターニング・ポイントは?
「まずは、1969年にジェイムズ・ブラウンのアレンジャーに抜擢されたこと。これで、人生が変わったよね。ジェイムズ・ブラウンとの5年間の実績があったから、その後すんなりCTIのアレンジャーにもなれたしねえ。ほんと、ジェイムズ・ブラウンの名声はすごくて、僕は営業をする必用がなかった(笑い)」
――どういう感じで、JBと知り合ったの?
「27歳の時だった。大学を出たあと、2~3年は欧州に住んでいて、その後に米国に戻って(JBが本拠にしていた)シンシナティで地味にジャズ活動をしていたんだ。そしたら、声をかけられたんだ」
——どうして、欧州に住んだりしたんですか。
「60年代、米国の若者は欧州に憧れたものさ。63年かな、まだ学生のおり、オランダの客船に学生バンドの職を見つけて乗って、それでロッテルダムに行ったのが最初。それから、テントを抱えながらバスに乗っていろいろ旅をした。それで、一度は帰国したんだけど、改めて将校クラブで演奏する職を見つけて、また渡った」
――ところで、JBのアレンジはすらすらできたのでしょうか?
「実は、それまでファンクは知らなかった。だから、最初のほうは大変だったよね。でも、勉強して、モノにしていったわけさ。どうしたら、音楽がファンキーになるかをね。まあ、ジャズ・ファンだったから、それまでもジミー・スミス(2001年1月31日)とかの、ファンキー・ジャズは好きだった。また、ブルージィなフィーリングも分かっていたわけだけど、ジェイムズ・ブラウンのもとで、ベース、ギター、ドラムが噛み合う決定的フィーリングは叩き込まれた。そういえば、ニュージャージーでの仕事がはいったことがあったんだけど、その際はいつもとは違うバンドとやることになってね。それで、ジェイムズ・ブラウンから、新しいバンドのために全部譜面に書けと言われたことがあった。それで、そのときクライド・スタブルフィール(2006年7月26日、2007年4月18日)のドラム演奏を吟味分析し、フル・スコアを書いたという経験はとても勉強になった。そのころ、バンドには3人もドラマーがいて、同時に叩いたりしてたよね」
−−あなたは白人です。そのため、ジェイムズ・ブラウンやJBズと行動をともにしていて、逆に差別のようなものを受けたことはないでしょうか。当然、そのころあなたは若造だったわけですし。
「それは、ないね(きっぱりと)。あ、でも、アポロ・シアターのとき、ちょいあったかな(笑い)」

 なお、彼が一番うまくアレンジできたと自画自賛できるのは、ビリー・ジョエルの83年全米1位曲「テル・ハー・アバウト・イット」だそう。


 ダーティ・プロジェクターズ(2010年3月16日)やヴァンパイア・ウィークエンドなど、“ブルックリン派”と呼ばれる創意ある新進ロックの一派とも繋がりを持つ、NYの男女混合バンドの公演。昨年は日本のアジアン・カンフー・ジェネレイションの招きでやってきて、今回が2度目の来日であるそう。代官山・ユニット。キーボードを弾くときもあるヴォーカル、ギター、ベース、ドラムという男性4人のバンド単位に、チェロとヴァオリンを担当する女性2人が入る編成を彼らは取る。

 瀟酒な弦音を巧みに使うロック表現のことをチェンバー・ロックなんて言ったりもするが、彼らの見据える地平は別のものであるのを、悠々と示したパフォーマンスであったな。その我が道を行く感覚は、アルバムで出していたものを超える。リード・ヴォーカル君はかなり高めの声質(そこに、巧みにファルセットを混ぜる)でそれだけで洒脱なひねり表現にむいていると言えるし、楽曲もワザありのコード進行/構成を持つ(ゆえに、一緒にはなかなか口ずさみにくい。で、それがいい)。もちろん、弦音も優美かつ非日常的な誘いを有する。そして、そこにかなり押し出しの強い&参照する表現が広いリズム・セクション音が付けられ、その総体は鮮やかに疾走したり、弾ける感覚をおおいに抱える。とともに、それは、自分たちだけの前を見た表現を我々はやりたいのだという意欲やつっぱりを望外に表出してもいたか。うぬ、存在感&存在意義、あり。

 大学の同級生同士で組まれたバンドというが、そんな和気あいあいなノリは横溢。また、見た目が初々しい。なんか、みんな独身ぽい感じで、それがいい感じとも思えたかな。余分な澱がついていないというか、余計な責任やしがらみを抱えておらず、スカっと自分たちの表現に向かっている感じがあって、それが良い。いろんな面で、新風を感じました。

 実は、海外アーティスト公演のキャンセルはいまだ相次いでいる。まあ、東電の原発がぜんぜん落ち着いていない&漏れ続けているのだから、それもしょうがない。もちろん、そうしたなか、思いを持って来日し公演をやってくれる音楽家には生理的な親近感を持つが、キャンセルしたミュージュシャンを根性なしと責めようようとは、ぼくは毛頭思わない。で、今回の場合、彼らが来日をちゃんと果たしたことには少し驚いた。だって、ロック、アーバン(ブラック)、ジャズと大まかに分けて見た場合、一番キャンセル率が高いのはロック系であるから。それなのに、ラ・ラ・ライオットの面々は来日し、涼しい顔をして心のこもったショウを遂行。なるほど、それはインディ(ペンデント)感覚が売りの彼らが大きなマネージメント会社に所属していない証左になるような気がしたし(実際はどうか知らないが。なお、やはり、カチっとしたマネイジメントのほうが訪日を取りやめようとするだろう)、もし彼らが配偶者や子供のいない独身だったとしたなら日本行きを止める身内の数も少ないよなあ、などと思った次第……。

 そして、渋谷に移動し、wwwという、昨年11月にできたハコへ。手頃な大きさ、だが人が沢山入っていて(けっこう黄色い声も飛ぶ)、会場の感じがつかみにくい。上下の高低差をけっこう持つ会場で、後ろからだとかなりステージを見下ろす感じになる。こちらの出演者は、クラブ・ミュージック系視点の差し込みをいろいろ持つ日本人ジャズ・コンボのquasimode。メンバーの4人(打楽器+ピアノ・トリオ。打楽器の音はもうすこし低めでもいいと思った)に、基本4管(トロンボーン、2トランペット、テナー・サックス)が加わり、部分的にソロ・パートも与えられたりもする。また時に、ソイル&ピンプ・セッションズのトランペット奏者のタブゾンビ(2011年1月30日、他)、テナー・サックスの菊地成孔(2010年3月26日、他)、歌手のHanaH、ヒューマン・ビートボックスのAFRAらその新作にゲスト入りしていた人たちが加わりもする。豪華仕立て、ね。ゲスト陣はそれぞれ1曲づつの関与。タブゾンビの際は、ストーンズ(2003年3月15日)の「悪を戯むる歌」のカヴァー。その曲のカヴァーだと、ぼくはエル・ネグロ&ロビー(2004年4月5日、他)のヴァージョンを思い出すが、それとはまた別の感じでヒップにアダプトしていたな。AFRAはさすが。それから、ドラマーのばしばし決まる叩き口になぜかプージー・ベル(2007年12月13日、他)を思い出した。


<今日の困惑>
 半年前ぐらいに調子が悪くなって修理に出したのに、また、携帯電話が壊れる。画面ディスプレイの光が落ちてしまい、アドレス帳は見れないし、とうぜんメールも読めない。通話は可能だが、着信しても誰だか声をきくまでわからない。電池を差し込み直すと復活するが、また操作をすると画面が真っ暗に。あーあ。たかだか(と、ぼくは言いたい)携帯の故障で、他者とのコミュニケーション手段が大幅に狭まされちゃうのが、ものすごく悲しい。文明の機器に頼りっぱなし(でも、面倒くさがりで機械に強くないから、普通の人から較べたら依存度は低いはずだけど)であることを否が応でも痛感させられちゃう。ドコモショップに飛び込み、出費が安く済む、新品交換を選ぶ。使用期間が3年を超えると、修理代が割高になるって、一体? NTTのバカっ。でも、考えてみれば、一機種をこんなに長く使っているのは初めてかも。

 まず、六本木・ビルボードライブ(ファースト・ショウ)で、ザップを見る。久しぶりに来日した昨年公演(2010年2月11日)を見て、2010年の来日ライヴの白眉じゃあとぼくを驚嘆させたファンク集団ですね。で、今回もただただ素晴らしかった。基本的な構成/ノリは前回と同じだが、用意された衣服は変わっていたし、ちゃんと練り込まれていたし、なによりやっていることが、尊すぎる。よくもまあ次から次へと、いろんな事をやるものだ。今回も女傑シャーリー・マードックは頭2曲で面々の演奏で歌い、皆で一度は引っ込み、1曲流した後に、再び男性陣が出てきて山あり谷ありのショウを延々と繰り広げた。そこには、ゴスペル(マードック)と世俗娯楽表現(ザップ)の間にはちゃんと線を引きたいという、彼らの気持ちが投影されているのだろうか。

 故ロジャー・トラウトマン(1999年5月6日、参照)が率いていたときよりいいかも、という、前回公演のぼくの記載を見て、それはないんではないのと言う、知り合いのロジャー・ファンのもいた。確かに、ロジャーは不世出の凄くクールなファンカー/ショウ・マンである。91年作『ブリッジング・ザ・ギャップ』(ワーナー・ブラザーズ)を出す際には取材もできたが、その秀でた受け答えと愛嬌ある笑顔には本当にポっとなった。とうぜん、彼の真価は判っているつもりだ。だから、こう言い換えよう。以前はロジャー(50ポイント)とバック・バンド(各30ポイント)の総合体だったのに対し、今はかつての指揮官/主役の穴を埋めようと張り切るミュージシャン(各41ポイント)の有機的集合体である、と。そして、皆が主役だと頑張る現在のザップのほうが、ポイント総計は高いとぼくは思うのだが。

 ともあれ、今回もぼくは楽しみ、ヤラレまくった。今、ファンク〜黒人芸能感覚/流儀の積み重ねを受けようとするなら、何をおいてもザップが一番。もしかして。プリンス(2002年11月19日)はそれ以上かもしれないが、彼の場合はチケット入手も困難だし、何よりこんな近くでは見るのは叶わないだろう。とか、いろいろ考慮すると、ぼくはザップを推したくなる?

 そして、上野へ。上野公演の水上音楽堂(今は場所が変わったが、かつてはステージが不忍池の上にあり;2002年1月20 日の項参照、名称は引き継がれている)で、アコースティック系パフォーマンスのフェス。終盤のほうだけを見る。立派な半透明の屋根が、会場上部に新たについていた。

 オーヴァー・ザ・ラインから見る。90年代はIRSやヴァージン/ナラダからアルバムを出していたこともあった、男女フォーキィ・ユニット。かつては、バンドでやっていたはずだが、今は簡素な構成になっているのね。その新作『ザ・ロング・サレンダー』はジョー・ヘンリー(2010年4月2日、4月4日)のプロデュースで、その話題があって、今回の来日につながったのかな。

 先のザップはオハイオ州のデイトン拠点で、こちらはオハイオ州のシンシナティ。オハイオ州はいろんなファンク・バンドを輩出するファンク・ステイトとしても知られ、JBで知られるキング・レコードもシンシナティにあった。でも……、シンシナティには89年にザ・ローリング・ストーンズ(2003年3月15日)の公演を見に行ったことがあったんだけど、少なくても中心部は白人しかいない整備された感じのある街だったので、オーヴァー・ザ・ラインのような担い手を輩出しているのもよく判る。

 基本、男性はキーボードを弾き、女性は生ギターを弾きながら歌う。思慮のある楽曲に、適度なひんやり感を持つ清楚な歌声。もう少し伴奏音が多いほうが魅力的になるとは思うが、アメリカの大人の歌やなあ、と感ずる。

 その後、先にそれぞれパフォーマンスしたはずのアン・サリーとおおはた雄一(2009年11月一日、他)がデュオで3曲、パフォーマンスした。

<今日も転々>
 とても天気のいい日。投票所に行った後に、芝公園、六本木、上野と移動し、最後は知人の手引きにより、アメ横の側にある肉屋さんがやっている食堂/飲み屋へ。一部の人には、有名らしい。ウォッチング・ザ・スカイは本来、大ヴェテランのフォーク・シンガーのランブリン・ジャック・エリオット(彼も、ジョー・ヘンリーが関与して、話題を呼んだ)が出演するはずだったが、それはキャンセルに。主催者はかなりねばったようだが、かなわなかった。それにともない、新聞原稿用にとるはずだった彼への電話インタヴューもとんだ。そういえば、先日ぐうぜん飲み屋で一緒になった招聘業務に携わる人は訪日に難色を示す相手に、エンペラーもちゃんと東京にいるんだから大丈夫と説得する、と言っていたな。