マンハッタン・ジャズ・オーケストラ
2011年4月21日 音楽 60年代後期にジェイムズ・ブラウン/JBズ関連アレンジャーに抜擢され、一手にそれを担ったという、燦然と輝くキャリアを持つ、42年ニューヨーク州生まれのアレンジャーであるデイヴィッド・マシューズ率いるビッグ・バンドの公演。さすがにこの時期、来日を拒否った構成員もいたようで、全17人中4人は日本で加えたミュージシャンだ。うち、中川英二郎とエリック宮城の二人は、この3月28日の同所公演に出演していた奏者。ドラマーの波多江健は普段エグザイルやリップ・スライムといった系統で叩いている人らしい。で、ぼくの目当てはフレンチ・ホルン奏者のヴィンセント・チャンシー。この楽団のなかでは唯一のアフリカ系で、彼はサン・ラー・アーケストラ(2000年8月14日、2002年9月7日)やレスター・ボウイ・ブラス・ファンタジーやカーラ・ブレイ(1999年4月13日、2000年3月25日)・バンドといった曲者集団に関与してきている人物。ソロをぶいぶい吹くリーダー作も出しているが、ここではセクション音をならすだけで、残念ながらその持ち味を感じることはできなかった。ながら、その紳士然としたルックスや物腰はなかなかカッコ良く、ほのかに満足感を覚える。
南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。有名曲を自らの明解なアレンジをほどこして、娯楽性に富んだビッグ・バンド表現として送り出す。なるほど、基本アレンジャーだけあってマシューズはピアノはあまり弾かず、指揮/進行役に徹する。NYのベルリッツで日本語を習っているそうで、けっこう達者な日本語MCをして、客をなごませたりも。そういえば、2週間前に作ったという「プレイ(祈り、のほう)・フォー・ジャパン」という、静謐なアンサンブルからどんどん発展を見せるオリジナル曲も披露した。
<今日の付録>
以下はデイヴィッド・マシューズが語る、ジェイムズ・ブラウンとの絡みの抜粋である。09年にとったものだ。
——ターニング・ポイントは?
「まずは、1969年にジェイムズ・ブラウンのアレンジャーに抜擢されたこと。これで、人生が変わったよね。ジェイムズ・ブラウンとの5年間の実績があったから、その後すんなりCTIのアレンジャーにもなれたしねえ。ほんと、ジェイムズ・ブラウンの名声はすごくて、僕は営業をする必用がなかった(笑い)」
――どういう感じで、JBと知り合ったの?
「27歳の時だった。大学を出たあと、2~3年は欧州に住んでいて、その後に米国に戻って(JBが本拠にしていた)シンシナティで地味にジャズ活動をしていたんだ。そしたら、声をかけられたんだ」
——どうして、欧州に住んだりしたんですか。
「60年代、米国の若者は欧州に憧れたものさ。63年かな、まだ学生のおり、オランダの客船に学生バンドの職を見つけて乗って、それでロッテルダムに行ったのが最初。それから、テントを抱えながらバスに乗っていろいろ旅をした。それで、一度は帰国したんだけど、改めて将校クラブで演奏する職を見つけて、また渡った」
――ところで、JBのアレンジはすらすらできたのでしょうか?
「実は、それまでファンクは知らなかった。だから、最初のほうは大変だったよね。でも、勉強して、モノにしていったわけさ。どうしたら、音楽がファンキーになるかをね。まあ、ジャズ・ファンだったから、それまでもジミー・スミス(2001年1月31日)とかの、ファンキー・ジャズは好きだった。また、ブルージィなフィーリングも分かっていたわけだけど、ジェイムズ・ブラウンのもとで、ベース、ギター、ドラムが噛み合う決定的フィーリングは叩き込まれた。そういえば、ニュージャージーでの仕事がはいったことがあったんだけど、その際はいつもとは違うバンドとやることになってね。それで、ジェイムズ・ブラウンから、新しいバンドのために全部譜面に書けと言われたことがあった。それで、そのときクライド・スタブルフィール(2006年7月26日、2007年4月18日)のドラム演奏を吟味分析し、フル・スコアを書いたという経験はとても勉強になった。そのころ、バンドには3人もドラマーがいて、同時に叩いたりしてたよね」
−−あなたは白人です。そのため、ジェイムズ・ブラウンやJBズと行動をともにしていて、逆に差別のようなものを受けたことはないでしょうか。当然、そのころあなたは若造だったわけですし。
「それは、ないね(きっぱりと)。あ、でも、アポロ・シアターのとき、ちょいあったかな(笑い)」
なお、彼が一番うまくアレンジできたと自画自賛できるのは、ビリー・ジョエルの83年全米1位曲「テル・ハー・アバウト・イット」だそう。
南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。有名曲を自らの明解なアレンジをほどこして、娯楽性に富んだビッグ・バンド表現として送り出す。なるほど、基本アレンジャーだけあってマシューズはピアノはあまり弾かず、指揮/進行役に徹する。NYのベルリッツで日本語を習っているそうで、けっこう達者な日本語MCをして、客をなごませたりも。そういえば、2週間前に作ったという「プレイ(祈り、のほう)・フォー・ジャパン」という、静謐なアンサンブルからどんどん発展を見せるオリジナル曲も披露した。
<今日の付録>
以下はデイヴィッド・マシューズが語る、ジェイムズ・ブラウンとの絡みの抜粋である。09年にとったものだ。
——ターニング・ポイントは?
「まずは、1969年にジェイムズ・ブラウンのアレンジャーに抜擢されたこと。これで、人生が変わったよね。ジェイムズ・ブラウンとの5年間の実績があったから、その後すんなりCTIのアレンジャーにもなれたしねえ。ほんと、ジェイムズ・ブラウンの名声はすごくて、僕は営業をする必用がなかった(笑い)」
――どういう感じで、JBと知り合ったの?
「27歳の時だった。大学を出たあと、2~3年は欧州に住んでいて、その後に米国に戻って(JBが本拠にしていた)シンシナティで地味にジャズ活動をしていたんだ。そしたら、声をかけられたんだ」
——どうして、欧州に住んだりしたんですか。
「60年代、米国の若者は欧州に憧れたものさ。63年かな、まだ学生のおり、オランダの客船に学生バンドの職を見つけて乗って、それでロッテルダムに行ったのが最初。それから、テントを抱えながらバスに乗っていろいろ旅をした。それで、一度は帰国したんだけど、改めて将校クラブで演奏する職を見つけて、また渡った」
――ところで、JBのアレンジはすらすらできたのでしょうか?
「実は、それまでファンクは知らなかった。だから、最初のほうは大変だったよね。でも、勉強して、モノにしていったわけさ。どうしたら、音楽がファンキーになるかをね。まあ、ジャズ・ファンだったから、それまでもジミー・スミス(2001年1月31日)とかの、ファンキー・ジャズは好きだった。また、ブルージィなフィーリングも分かっていたわけだけど、ジェイムズ・ブラウンのもとで、ベース、ギター、ドラムが噛み合う決定的フィーリングは叩き込まれた。そういえば、ニュージャージーでの仕事がはいったことがあったんだけど、その際はいつもとは違うバンドとやることになってね。それで、ジェイムズ・ブラウンから、新しいバンドのために全部譜面に書けと言われたことがあった。それで、そのときクライド・スタブルフィール(2006年7月26日、2007年4月18日)のドラム演奏を吟味分析し、フル・スコアを書いたという経験はとても勉強になった。そのころ、バンドには3人もドラマーがいて、同時に叩いたりしてたよね」
−−あなたは白人です。そのため、ジェイムズ・ブラウンやJBズと行動をともにしていて、逆に差別のようなものを受けたことはないでしょうか。当然、そのころあなたは若造だったわけですし。
「それは、ないね(きっぱりと)。あ、でも、アポロ・シアターのとき、ちょいあったかな(笑い)」
なお、彼が一番うまくアレンジできたと自画自賛できるのは、ビリー・ジョエルの83年全米1位曲「テル・ハー・アバウト・イット」だそう。