1. Someday My Prince Will Come (Alternate Take)/Miles Davis Sextet 『Someday My Prince Will Come』(Columbia,1956年)
2. She’s Leaving Home / McCoy Tyner 『A GRP Artists’ Of The Songs Of The Beatles』(GRP,1995年)
3. Spain(I Can Recall) / Al Jarreau 『This Time』(Warner Bros.1980年)
4. It Don’t Mean A Thing / Tony Bennett & Lady Gaga 『Cheek To Cheak』(Clumbia,2014年)
5. A Child Is Born / Thad Jones & Mel Lewis 『Thad Jones / Mel Lewis』(Blue Note,1975年)
6. Sentimental Journey / Beegie Adair 『My Piano Journey』(Green Hill,2010年)
7. Girl Talk / Ramsey Lewis 『The Movie Album』(Cadet,1966年)
8. Smile / Jacky Terrason 『Smile』(Blue Note,2002年)
9. Misty / Erroll Garner 『Plays Misty』(Mercury,1961年)
10. From This Place / Pat Metheny 『From This Place』(Nonesuch,2020年)
2. She’s Leaving Home / McCoy Tyner 『A GRP Artists’ Of The Songs Of The Beatles』(GRP,1995年)
3. Spain(I Can Recall) / Al Jarreau 『This Time』(Warner Bros.1980年)
4. It Don’t Mean A Thing / Tony Bennett & Lady Gaga 『Cheek To Cheak』(Clumbia,2014年)
5. A Child Is Born / Thad Jones & Mel Lewis 『Thad Jones / Mel Lewis』(Blue Note,1975年)
6. Sentimental Journey / Beegie Adair 『My Piano Journey』(Green Hill,2010年)
7. Girl Talk / Ramsey Lewis 『The Movie Album』(Cadet,1966年)
8. Smile / Jacky Terrason 『Smile』(Blue Note,2002年)
9. Misty / Erroll Garner 『Plays Misty』(Mercury,1961年)
10. From This Place / Pat Metheny 『From This Place』(Nonesuch,2020年)
桑原あい「響楽-KYOGAKU-2021」
2021年1月6日 音楽 初台・東京オペラシティのリサイタルホール。いちおう駅直結の地下1階にあるが、かなり奥の方にあり分かりづらい。だいぶ前にここの楽屋でピアニストの加古隆にインタヴューしたことがあって、なんとなく勘が働きすんなり行けたが、着くまでこれでいいんだっけと疑心暗鬼であった。
すごいものものしい公演名が付けられているが、ようはソロ・ピアノよる公演だ。桑原あい(2013年9月8日、2016年12月7日、2017年7月8日、2017年9月29日、2018年12月21日、2019年1月21日、2019年4月26日、2019年4月27日、2019年4月28日)の4月に出る『Opera』(ユニバーサル)はソロ・ピアノ作で、その音はぐうぜん今日の昼間にデーターが届いた。自作曲は一つで、あとは他人曲を演奏する。クラシック素養を出すなどアートな志向も持つそこで忌野清志郎(2004年10月19日、2005年7月29日)の「デイドリーム・ビリーヴァー」(好きな曲なんだそうだ)をクローザーとして置いており、録音は昨年11月にこの会場で、ここにあるスタンウェイ&サンズのピアノを使い録音されたのだという。
ある種の覚悟(と、書くと大げさになってしまうが)のもと、指を動かす。新作は仕事場で流れるものを、居間で別作業をしながらぼんやり1度聞いたが、選曲をはじめアルバムの内容とそれほど重ならない方向だとぼくは聞いた。それは、即興音楽演奏家として正しい。MCで、取材で好きなピアニストはと問われるとミシェル・ペトルチアーニとアート・テイタムとリチャード・ティーの3人の名を挙げると言う。何度か彼女にはインタヴューしているが、それは知らなかった。そういう質問を、ぼくはあまりしないからな。似たスタンスの人はという問いはするものの。新作には入っていない彼女のグルーヴィな自作曲「Somehow It’s Been a Rough Day」も演奏しその際は左手が大胆に効いていて、なるほどティー好きの片鱗を感じたか。
ジャズ・ピアニストにとって、ピアノ・ソロによるアルバムを作るというのは覚悟のいることだろう。2018年にECMに移籍したシャイ・マエストロ(2012年3月12日、2016年1月4日、2016年6月11日、2016年6月11日、2017年9月3日、2017年9月6日、2018年11月12日)も一瞬移籍作はピアノ・ソロ作にしようかとも思ったが、もう少し機が熟すまでとトリオで録音することにした、というようなことを言っていた。上の大学には進まず音楽高校を出て現場で勝負とピアニスト活動を始めた桑原にとって新作は10作目となり、20代最後のアルバムになるようだが、どんな心持ちのもとピアノ・ソロ作を出すことにしたのだろう。
ところで、ステージに現れた桑原は、「こんな時期にコンサートをやっていいのか迷った」というようなことをまず話す。すると、大きな拍手が湧き、彼女は涙ぐむ。……。ああ、昨年夏季のようにまたコンサートがとっても貴重なものになるんだなあと思わずにはいられなかった。
▶︎過去の、桑原あい
http://43142.diarynote.jp/?day=20130908
http://43142.diarynote.jp/201612100926461885/
http://43142.diarynote.jp/201707101243147840/
https://43142.diarynote.jp/201710011917499392/
https://43142.diarynote.jp/201812220840383594/
https://43142.diarynote.jp/201901231045028294/
https://43142.diarynote.jp/201904271153238361/
https://43142.diarynote.jp/201904281151232549/
https://43142.diarynote.jp/201904291825347224/
▶過去の、忌野清志郎
http://43142.diarynote.jp/200410240628530000/
http://43142.diarynote.jp/200508042335560000/
https://43142.diarynote.jp/200905101005501321/ 訃報に接し、、
▶︎過去の、ミシェル・ペトルチアーニ関連
https://43142.diarynote.jp/201208091509447159/ 映画
https://43142.diarynote.jp/201604190912403018/ パリでの追悼公演
▶︎過去の、シャイ・マエストロ
http://43142.diarynote.jp/201203131840477844/
http://43142.diarynote.jp/201601050914043127/
http://43142.diarynote.jp/201606121230202174/
https://43142.diarynote.jp/201702021523283237/
http://43142.diarynote.jp/201709101639096076/
https://43142.diarynote.jp/201709110842026988/
https://43142.diarynote.jp/201811141355524842/
<今年の、始まり>
新型コロナ・ウィルス感染者、東京で1500人越え。昨年4〜5月にビビりながらこもっていた時期(マスクも消毒液も購入しづらかったしなー)だって感染者200人を超えた日はほぼなかったはずで、うううむ。この6日はいくつか興味深い公演があり、どれかには行こうと思っていたのだが、さすがこの人数だと少し躊躇するところはある。12月中旬に濃厚感染者もどきになり、保健所の指導でPCR検査を受け〜https://43142.diarynote.jp/202012241152462589/〜、本当にどこで接触者になる分からないということを身を以て体験している者としては。とはいえ、明日には首都圏には緊急事態宣言が発令されるというので、そうすると去年の3月下旬のときのようにライヴは軒並みキャンセルになってしまうわけで、今日は注意を払いつつ行っておくべきと判断した。本日から始まる昨年から続く上原ひろみのブルーノート東京公演は今日から中止になったという。知り合いのバーは午後2時〜午後8時という枠で営業するようになるようだ。
ということもあり、一番密になりそうにない天井が高く、広い会場のライヴを選ぶ。家からは片道5キロ、さすが寒空のなか歩く根性はなく(風邪をひいたら本末転倒だ)、今年初めて電車に乗る。一応すいてそうなルートを選んだら、行きも帰りも座ることができた。それは同じ私鉄を乗り継ぐので値段も安い。会場入場時は装置に手をかざして、体温が計られる。35.7度。やはり非接触型のそれは、体温が低めに出るよなー。ま、自分なりに誠実に、わがままに行きます。
すごいものものしい公演名が付けられているが、ようはソロ・ピアノよる公演だ。桑原あい(2013年9月8日、2016年12月7日、2017年7月8日、2017年9月29日、2018年12月21日、2019年1月21日、2019年4月26日、2019年4月27日、2019年4月28日)の4月に出る『Opera』(ユニバーサル)はソロ・ピアノ作で、その音はぐうぜん今日の昼間にデーターが届いた。自作曲は一つで、あとは他人曲を演奏する。クラシック素養を出すなどアートな志向も持つそこで忌野清志郎(2004年10月19日、2005年7月29日)の「デイドリーム・ビリーヴァー」(好きな曲なんだそうだ)をクローザーとして置いており、録音は昨年11月にこの会場で、ここにあるスタンウェイ&サンズのピアノを使い録音されたのだという。
ある種の覚悟(と、書くと大げさになってしまうが)のもと、指を動かす。新作は仕事場で流れるものを、居間で別作業をしながらぼんやり1度聞いたが、選曲をはじめアルバムの内容とそれほど重ならない方向だとぼくは聞いた。それは、即興音楽演奏家として正しい。MCで、取材で好きなピアニストはと問われるとミシェル・ペトルチアーニとアート・テイタムとリチャード・ティーの3人の名を挙げると言う。何度か彼女にはインタヴューしているが、それは知らなかった。そういう質問を、ぼくはあまりしないからな。似たスタンスの人はという問いはするものの。新作には入っていない彼女のグルーヴィな自作曲「Somehow It’s Been a Rough Day」も演奏しその際は左手が大胆に効いていて、なるほどティー好きの片鱗を感じたか。
ジャズ・ピアニストにとって、ピアノ・ソロによるアルバムを作るというのは覚悟のいることだろう。2018年にECMに移籍したシャイ・マエストロ(2012年3月12日、2016年1月4日、2016年6月11日、2016年6月11日、2017年9月3日、2017年9月6日、2018年11月12日)も一瞬移籍作はピアノ・ソロ作にしようかとも思ったが、もう少し機が熟すまでとトリオで録音することにした、というようなことを言っていた。上の大学には進まず音楽高校を出て現場で勝負とピアニスト活動を始めた桑原にとって新作は10作目となり、20代最後のアルバムになるようだが、どんな心持ちのもとピアノ・ソロ作を出すことにしたのだろう。
ところで、ステージに現れた桑原は、「こんな時期にコンサートをやっていいのか迷った」というようなことをまず話す。すると、大きな拍手が湧き、彼女は涙ぐむ。……。ああ、昨年夏季のようにまたコンサートがとっても貴重なものになるんだなあと思わずにはいられなかった。
▶︎過去の、桑原あい
http://43142.diarynote.jp/?day=20130908
http://43142.diarynote.jp/201612100926461885/
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https://43142.diarynote.jp/201710011917499392/
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▶過去の、忌野清志郎
http://43142.diarynote.jp/200410240628530000/
http://43142.diarynote.jp/200508042335560000/
https://43142.diarynote.jp/200905101005501321/ 訃報に接し、、
▶︎過去の、ミシェル・ペトルチアーニ関連
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▶︎過去の、シャイ・マエストロ
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<今年の、始まり>
新型コロナ・ウィルス感染者、東京で1500人越え。昨年4〜5月にビビりながらこもっていた時期(マスクも消毒液も購入しづらかったしなー)だって感染者200人を超えた日はほぼなかったはずで、うううむ。この6日はいくつか興味深い公演があり、どれかには行こうと思っていたのだが、さすがこの人数だと少し躊躇するところはある。12月中旬に濃厚感染者もどきになり、保健所の指導でPCR検査を受け〜https://43142.diarynote.jp/202012241152462589/〜、本当にどこで接触者になる分からないということを身を以て体験している者としては。とはいえ、明日には首都圏には緊急事態宣言が発令されるというので、そうすると去年の3月下旬のときのようにライヴは軒並みキャンセルになってしまうわけで、今日は注意を払いつつ行っておくべきと判断した。本日から始まる昨年から続く上原ひろみのブルーノート東京公演は今日から中止になったという。知り合いのバーは午後2時〜午後8時という枠で営業するようになるようだ。
ということもあり、一番密になりそうにない天井が高く、広い会場のライヴを選ぶ。家からは片道5キロ、さすが寒空のなか歩く根性はなく(風邪をひいたら本末転倒だ)、今年初めて電車に乗る。一応すいてそうなルートを選んだら、行きも帰りも座ることができた。それは同じ私鉄を乗り継ぐので値段も安い。会場入場時は装置に手をかざして、体温が計られる。35.7度。やはり非接触型のそれは、体温が低めに出るよなー。ま、自分なりに誠実に、わがままに行きます。
R.I.P.ハワード・ジョンソン(1941年8月7日〜2021年2月11日)
2021年1月12日 音楽 ボブ・スチュワート(1945年生まれ)と並んでチューバという低音の管楽器を巧みに演奏する最たるジャズ・ミュージシャンである、ハワード・ジョンソンがお亡くなりになった。オハイオ州の中学校でまずバリトン・サックスを吹き、同じ低音楽楽器ということで見よう見まねでチューバも上手に吹くようになり、マーチング・バンドでも活動。高校卒業後に海軍に入りボストンに居住、その際に当時天才と呼ばれていた14歳のトニー・ウィリアムズと知り合い、またバークリー音大の学生たちとも付き合いを持った。除隊後、2年のシカゴ居住を経て、ニューヨークに彼は向かった。ニューヨークに住むまで、彼はちゃんとチューバを所有したことはなかったという。ここのところ、ずっと闘病中であったそうだ。
1960年代上半期から、いろんな人たちのレコーディング・セッションに関わる。アーチー・シェップ、チャールズ・ミンガス、ハンク・クロフォード、ゲイリー・バートン(2005年8月21日、2011年7月20日)、フレディ・ハバード、マッコイ・タイナー(2003年7月9日、2008年9月10日、2011年1月12日)、タージ・マハール(2000年10月12日、2007年4月6日。彼と近い関係にいたころはロサンゼルスに居住したこともあった)、ラサーン・ローランド・カーク、ギル・エヴァンス(ハワードは彼をメンターであると言っている)・オーケストラ、メルヴィン・ヴァン・ビープルズ、ファラオ・サンダース(2006年8月23日、2009年7月8日、2003年4月22日)、サド/メル・オーケストラ、チャーリー・ヘイデン(2001年11月20日、2005年3月16日、2009年9月10日)・リベレーション・オーケストラらは、1970年代初頭までに関与した人たち。その後も、いろんな人たちの表現を人間味のある低音で助けた。意外なところでは、ジョンソンはウッドストックに住んでいたこともありザ・バンドの『ロック・オブ・エイジズ』や『ラスト・ワルツ』というライヴ・アルバムに菅セクションの一員として入った(リヴォン・ヘルムのRCOオールスターズにも参画。同バンドの1978年来日公演にも同行している)り、ジャック・ディジョネット(2001年4月30日、2003年8月23日、2007年5月8日、2014年5月22日、2015年9月5日)のスペシャル・エディションの『アルバム、アルバム』(ECM、1984年)にも管楽器/管アレンジャーとして関与している。
彼はハワード・ジョンソン&ザ・ヌビアというリーダー・グループを組み、『Arrival: A Pharoah Sanders Tribute』 (Verve)を1994年にリリース。続いて、よりチューバ音の効用/ソロ能力に目を向けたハワード・ジョンソン&ザ・グラヴィティ名義で『Gravity!!! 』(Verve、1995年)と『Right Now』(同、1998年)を発表した。その95作にはボブ・スチュアートら当人以外の5人のチューバ奏者を呼び(オープナーはドン・プーレンのセカンド・ライン調も少し入るファンキー名曲「ビッグ・アリス」だった)、98年作には朋友タージ・マハールをフィーチャーする曲もあった。もともとチューバ奏者の重なりを求めたザ・グラヴィティのアイデアはかなり前から持っていたらしい。遺作は、やはりザ・グラヴィティによる『Testimony』 (Tuscarora、2017年)だった。
ジョンソンはジョン・レノンとも付き合いを持った。彼はレノンの『ウォールズ&ブリッジズ』(キャピトル、1974年)のレコーディングに何曲も関わり、「スケアード」では彼のバリトン・サックスのソロが入れられている。レノンはハワードの才覚に感服し、“Hornspiration”という言葉を贈ったという。また、彼とオノ・ヨーコ(2018年9月11日)の『ダブル・ファンタジー』(キャピトル、1980年)にもジョンソンは参加している。
「私は低音の肝を知っているんだ。——私たちの教会の聖歌隊の低音の声、私の叔父の家の床から聞こえた音。彼はジューク・ジョイントの上に住んでいて、私が夜に床で寝ると、ベース・ラインがとてもよく聞こえてきた。そして、それはとっても満足感を与えたんだ」(ロール・オンラインのケイ・コーツによる、2017年のインタヴューより)。とっても、円満な顔つきの人でした。
▶︎過去の、ゲイリー・バートン
https://43142.diarynote.jp/200508230545510000/
https://43142.diarynote.jp/201107230819362417/
▶過去の、マッコイ・タイナー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm
http://43142.diarynote.jp/200809111754413101/
http://43142.diarynote.jp/201101131336421886/
▶︎過去の、タージ・マハール
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-10.htm
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶︎過去の、ファラオ・サンダース
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-4.htm 4月22日
https://43142.diarynote.jp/200608271341340000/
https://43142.diarynote.jp/200907131200224908/
▶過去の、チャーリー・ヘイデン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm
http://43142.diarynote.jp/200503240453290000/
http://43142.diarynote.jp/200909120650273142/
▶︎過去の、ザ・バンド関連の記載
https://43142.diarynote.jp/201204221307297965/ 下の方の<>内
https://43142.diarynote.jp/201308110826574632/ ハドソン夫妻
https://43142.diarynote.jp/201909011034527807/ ザ・ウェイト・バンド
https://43142.diarynote.jp/202010311315187907/ 映画
▶過去の、ジャック・ディジョネット
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-4.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-8.htm
http://43142.diarynote.jp/200705181807060000/
http://43142.diarynote.jp/201405231458349566/
http://43142.diarynote.jp/201509211331298145/
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/201105282358273180/ ショーン・レノンの、両親を語るインタヴュー付き
https://43142.diarynote.jp/202010081306571190/ 「DOUBLE FANTASY John &Yoko」展
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
https://43142.diarynote.jp/201809121745334226/ 新作
<今日は、いちだんと冬だ>
寒いーー。曇天で陽が差ささないと、余計にそう。雪が降るとも言われていたが、それはないかな。そういえば、寒さと関係ないだろうけど、昨日は夕刊が未配だったなー。窓越しに外を見ると、少し先に川に蓋をした遊歩道があるのだが、早朝というのにジョギングをしている人が見える。なんか、別の惑星にいる住人を見る思い……。と、大げさに書いておこう。とか言いつつ、アイスクリームを食べる。昨年の夏頃から、けっこう消費量が多い。カロリー/健康的にはよくないんだろなー。
1960年代上半期から、いろんな人たちのレコーディング・セッションに関わる。アーチー・シェップ、チャールズ・ミンガス、ハンク・クロフォード、ゲイリー・バートン(2005年8月21日、2011年7月20日)、フレディ・ハバード、マッコイ・タイナー(2003年7月9日、2008年9月10日、2011年1月12日)、タージ・マハール(2000年10月12日、2007年4月6日。彼と近い関係にいたころはロサンゼルスに居住したこともあった)、ラサーン・ローランド・カーク、ギル・エヴァンス(ハワードは彼をメンターであると言っている)・オーケストラ、メルヴィン・ヴァン・ビープルズ、ファラオ・サンダース(2006年8月23日、2009年7月8日、2003年4月22日)、サド/メル・オーケストラ、チャーリー・ヘイデン(2001年11月20日、2005年3月16日、2009年9月10日)・リベレーション・オーケストラらは、1970年代初頭までに関与した人たち。その後も、いろんな人たちの表現を人間味のある低音で助けた。意外なところでは、ジョンソンはウッドストックに住んでいたこともありザ・バンドの『ロック・オブ・エイジズ』や『ラスト・ワルツ』というライヴ・アルバムに菅セクションの一員として入った(リヴォン・ヘルムのRCOオールスターズにも参画。同バンドの1978年来日公演にも同行している)り、ジャック・ディジョネット(2001年4月30日、2003年8月23日、2007年5月8日、2014年5月22日、2015年9月5日)のスペシャル・エディションの『アルバム、アルバム』(ECM、1984年)にも管楽器/管アレンジャーとして関与している。
彼はハワード・ジョンソン&ザ・ヌビアというリーダー・グループを組み、『Arrival: A Pharoah Sanders Tribute』 (Verve)を1994年にリリース。続いて、よりチューバ音の効用/ソロ能力に目を向けたハワード・ジョンソン&ザ・グラヴィティ名義で『Gravity!!! 』(Verve、1995年)と『Right Now』(同、1998年)を発表した。その95作にはボブ・スチュアートら当人以外の5人のチューバ奏者を呼び(オープナーはドン・プーレンのセカンド・ライン調も少し入るファンキー名曲「ビッグ・アリス」だった)、98年作には朋友タージ・マハールをフィーチャーする曲もあった。もともとチューバ奏者の重なりを求めたザ・グラヴィティのアイデアはかなり前から持っていたらしい。遺作は、やはりザ・グラヴィティによる『Testimony』 (Tuscarora、2017年)だった。
ジョンソンはジョン・レノンとも付き合いを持った。彼はレノンの『ウォールズ&ブリッジズ』(キャピトル、1974年)のレコーディングに何曲も関わり、「スケアード」では彼のバリトン・サックスのソロが入れられている。レノンはハワードの才覚に感服し、“Hornspiration”という言葉を贈ったという。また、彼とオノ・ヨーコ(2018年9月11日)の『ダブル・ファンタジー』(キャピトル、1980年)にもジョンソンは参加している。
「私は低音の肝を知っているんだ。——私たちの教会の聖歌隊の低音の声、私の叔父の家の床から聞こえた音。彼はジューク・ジョイントの上に住んでいて、私が夜に床で寝ると、ベース・ラインがとてもよく聞こえてきた。そして、それはとっても満足感を与えたんだ」(ロール・オンラインのケイ・コーツによる、2017年のインタヴューより)。とっても、円満な顔つきの人でした。
▶︎過去の、ゲイリー・バートン
https://43142.diarynote.jp/200508230545510000/
https://43142.diarynote.jp/201107230819362417/
▶過去の、マッコイ・タイナー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-7.htm
http://43142.diarynote.jp/200809111754413101/
http://43142.diarynote.jp/201101131336421886/
▶︎過去の、タージ・マハール
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-10.htm
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶︎過去の、ファラオ・サンダース
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-4.htm 4月22日
https://43142.diarynote.jp/200608271341340000/
https://43142.diarynote.jp/200907131200224908/
▶過去の、チャーリー・ヘイデン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm
http://43142.diarynote.jp/200503240453290000/
http://43142.diarynote.jp/200909120650273142/
▶︎過去の、ザ・バンド関連の記載
https://43142.diarynote.jp/201204221307297965/ 下の方の<>内
https://43142.diarynote.jp/201308110826574632/ ハドソン夫妻
https://43142.diarynote.jp/201909011034527807/ ザ・ウェイト・バンド
https://43142.diarynote.jp/202010311315187907/ 映画
▶過去の、ジャック・ディジョネット
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-4.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-8.htm
http://43142.diarynote.jp/200705181807060000/
http://43142.diarynote.jp/201405231458349566/
http://43142.diarynote.jp/201509211331298145/
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/201105282358273180/ ショーン・レノンの、両親を語るインタヴュー付き
https://43142.diarynote.jp/202010081306571190/ 「DOUBLE FANTASY John &Yoko」展
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
https://43142.diarynote.jp/201809121745334226/ 新作
<今日は、いちだんと冬だ>
寒いーー。曇天で陽が差ささないと、余計にそう。雪が降るとも言われていたが、それはないかな。そういえば、寒さと関係ないだろうけど、昨日は夕刊が未配だったなー。窓越しに外を見ると、少し先に川に蓋をした遊歩道があるのだが、早朝というのにジョギングをしている人が見える。なんか、別の惑星にいる住人を見る思い……。と、大げさに書いておこう。とか言いつつ、アイスクリームを食べる。昨年の夏頃から、けっこう消費量が多い。カロリー/健康的にはよくないんだろなー。
R.I.P. ティム・ボガート(1944年8月27日〜2021年1月13日)
2021年1月14日 音楽 ヴァニラ・ファッジ(1967〜1969年)、カクタス(1970〜1972年)、ベック・ボガード&アピス(1973〜1974年)……。ベック・ボガード&アピスのベックとは、ジェフ・ベック(2009年2月6日、2015年9月27日)のこと。それは、彼がボガートとアピスの米国人リズム隊に惚れ込み、切望して組まれたトリオだった。といったように、不滅のという形容もしたくなる錚々たるロック・バンドのベーシストを務めたティム・ボガートが癌で亡くなった。先に触れた単位でしっかりとリズム・セクションを組んだドラマーのカーマイン・アピスがFacebookで公にしたという。晩年は妻や娘とホノルルに住んでいたよう。なお、アピスとの関係は50年を超える。
ボガートというと、ハード・ロック・バンド畑ながら〜相棒のアピスはそれに似合うワイルドな風貌をしていた〜、けっこう文化系/草食系のルックスの持ち主であったことが思い出される。なんでも元々は管楽器をやっており、ロックではそちらの楽器の需要はあまりないためにエレクトリック・ベースに転向したという経歴を持つそうな。まだ、管楽器の方が合うルックスの人だったかもしれない。だが、どう猛なアピスのドラムと噛み合う雄弁なベースは讃えらえてしかるべきものだ。
とともに、ぼくがボガートというと思い出すが、カーマイン・アピスも歌ったが、朗々めで少し高音のヴォーカルも担当したこと。彼はベースを弾きながら、歌う人だった。個人的は、ベック・ボガート&アピスでのそれは印象深いな。同トリオは日本公演がレズリー・ウェストが率いたマウンテンとともに、1873年大阪厚生年金会館におけるそれぞれの公演がCBSソニー主導で録音され、2枚組アルバムとしてリリースされた。それは、当時のロック小僧としては誇らしい気持ちを与えた事象であった。
ボガートとアピスはロッド・スチュアート(2009年3月11日)の1980年作『フーリッシュ・ビヘイヴィアー』(リヴァ/ワーナー・ブラザース)にもコンビで部分参加。1990年代に入るとヴァニラ・ファッジは再結成され、それにもアピスと参画したはず。1999年にはヴァニラ・ファッジが来日しているが、それに入っていたかはとんと記憶がない。悪くないライヴであったと記憶するが。アピスとのコンビで、リック・デリンジャーやChar (2002年3月12日、2008年4月20日、2008年6月12日、2008年10月5日、2009年7月25日、2017年7月31日、2018年4月6日)やスペイン人ギタリストのハビエル・バルガスとのトリオを持つこともした。
2014年には、ボガート・アピス&フレンズによるセルフ・タイトル作(Purple Pyramid)をリリース。いろんな人が入るなか、TMスティーヴンス(2001年10月31日、2011年8月12日、2012年5月31日)もベースで1曲参加。ボガートは2010年のバイク事故のため、ベースを巧く弾けなくなったという話もある。同作にはアリシア・キーズ(2008年8月10日)のデビュー作に入っていたブルージー曲「フォーリン」のカヴァーも収められていた。
▶︎過去の、ジェフ・ベック
http://43142.diarynote.jp/200902080200527638/
http://43142.diarynote.jp/201510021129591335/
▶︎過去の、レスリー・ウェスト
https://43142.diarynote.jp/202012250918014751/ 訃報
▶︎過去の、チャー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm マイク・クラーク・バンド
http://43142.diarynote.jp/200804220006510000/
http://43142.diarynote.jp/200806180850060000/
http://43142.diarynote.jp/200810061857413394/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725
http://43142.diarynote.jp/201708081443281390/
https://43142.diarynote.jp/?day=20180406
▶︎過去の、T.M.スティーヴンス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-10.htm
http://43142.diarynote.jp/201108131129381378/
http://43142.diarynote.jp/?day=20120531
▶過去の、アリシア・キーズ
http://43142.diarynote.jp/?day=20080810
<今日の、晴れのち雨>
昨日、今日と、昼間は暖かい日。運動不足も気になるし、やはり外出したくなる。バーをやっている知人と話したが、こじんまりとした業務体系でしている場合は1日6万円の援助はアカにならないそう。あ、そうなの? 別な店では日経新聞朝刊の元旦スペシャル・イッシューに書いた原稿がよかったと褒められる。ふふ、すぐに木に登るぼく……。前回の緊急事態宣言がされたときと同じくライヴはなくなるのかと思ったら、時間を早めに前倒ししてするハコも少なくないようで、それはうれしい。あさって土曜は20度近くまで気温が上がるとも言われていて人出指数が上がりそうだが、おとなしく粛々と室内作業をしようか。しかし、いいかげん五輪中止がアナウンスされないものか。そっちに向ける力を国民の生活のほうに向けなきゃ。私欲とメンツにかられたくそじじいども、アホか。米国や英国などではすでに予防接種が始まっていることが伝えられており、本当に確かな効力を持つのかとか副反応はないのかとか疑念はなくはないが、もし五輪やるとしたらどんな国よりも先に日本は広くワクチンの注射を始めなきゃウソだ。PCR検査さえ楽にできない国としては、それも当たり前といえば当たり前だが。なんか、変すぎる。
ボガートというと、ハード・ロック・バンド畑ながら〜相棒のアピスはそれに似合うワイルドな風貌をしていた〜、けっこう文化系/草食系のルックスの持ち主であったことが思い出される。なんでも元々は管楽器をやっており、ロックではそちらの楽器の需要はあまりないためにエレクトリック・ベースに転向したという経歴を持つそうな。まだ、管楽器の方が合うルックスの人だったかもしれない。だが、どう猛なアピスのドラムと噛み合う雄弁なベースは讃えらえてしかるべきものだ。
とともに、ぼくがボガートというと思い出すが、カーマイン・アピスも歌ったが、朗々めで少し高音のヴォーカルも担当したこと。彼はベースを弾きながら、歌う人だった。個人的は、ベック・ボガート&アピスでのそれは印象深いな。同トリオは日本公演がレズリー・ウェストが率いたマウンテンとともに、1873年大阪厚生年金会館におけるそれぞれの公演がCBSソニー主導で録音され、2枚組アルバムとしてリリースされた。それは、当時のロック小僧としては誇らしい気持ちを与えた事象であった。
ボガートとアピスはロッド・スチュアート(2009年3月11日)の1980年作『フーリッシュ・ビヘイヴィアー』(リヴァ/ワーナー・ブラザース)にもコンビで部分参加。1990年代に入るとヴァニラ・ファッジは再結成され、それにもアピスと参画したはず。1999年にはヴァニラ・ファッジが来日しているが、それに入っていたかはとんと記憶がない。悪くないライヴであったと記憶するが。アピスとのコンビで、リック・デリンジャーやChar (2002年3月12日、2008年4月20日、2008年6月12日、2008年10月5日、2009年7月25日、2017年7月31日、2018年4月6日)やスペイン人ギタリストのハビエル・バルガスとのトリオを持つこともした。
2014年には、ボガート・アピス&フレンズによるセルフ・タイトル作(Purple Pyramid)をリリース。いろんな人が入るなか、TMスティーヴンス(2001年10月31日、2011年8月12日、2012年5月31日)もベースで1曲参加。ボガートは2010年のバイク事故のため、ベースを巧く弾けなくなったという話もある。同作にはアリシア・キーズ(2008年8月10日)のデビュー作に入っていたブルージー曲「フォーリン」のカヴァーも収められていた。
▶︎過去の、ジェフ・ベック
http://43142.diarynote.jp/200902080200527638/
http://43142.diarynote.jp/201510021129591335/
▶︎過去の、レスリー・ウェスト
https://43142.diarynote.jp/202012250918014751/ 訃報
▶︎過去の、チャー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm マイク・クラーク・バンド
http://43142.diarynote.jp/200804220006510000/
http://43142.diarynote.jp/200806180850060000/
http://43142.diarynote.jp/200810061857413394/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725
http://43142.diarynote.jp/201708081443281390/
https://43142.diarynote.jp/?day=20180406
▶︎過去の、T.M.スティーヴンス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-10.htm
http://43142.diarynote.jp/201108131129381378/
http://43142.diarynote.jp/?day=20120531
▶過去の、アリシア・キーズ
http://43142.diarynote.jp/?day=20080810
<今日の、晴れのち雨>
昨日、今日と、昼間は暖かい日。運動不足も気になるし、やはり外出したくなる。バーをやっている知人と話したが、こじんまりとした業務体系でしている場合は1日6万円の援助はアカにならないそう。あ、そうなの? 別な店では日経新聞朝刊の元旦スペシャル・イッシューに書いた原稿がよかったと褒められる。ふふ、すぐに木に登るぼく……。前回の緊急事態宣言がされたときと同じくライヴはなくなるのかと思ったら、時間を早めに前倒ししてするハコも少なくないようで、それはうれしい。あさって土曜は20度近くまで気温が上がるとも言われていて人出指数が上がりそうだが、おとなしく粛々と室内作業をしようか。しかし、いいかげん五輪中止がアナウンスされないものか。そっちに向ける力を国民の生活のほうに向けなきゃ。私欲とメンツにかられたくそじじいども、アホか。米国や英国などではすでに予防接種が始まっていることが伝えられており、本当に確かな効力を持つのかとか副反応はないのかとか疑念はなくはないが、もし五輪やるとしたらどんな国よりも先に日本は広くワクチンの注射を始めなきゃウソだ。PCR検査さえ楽にできない国としては、それも当たり前といえば当たり前だが。なんか、変すぎる。
R.I.P.シルヴェイン・シルヴェイン(1951年2月14日〜2020年1月13日)
2021年1月15日 音楽 ロックはバカものの、心意気の音楽である。そんなことを示し続けてきたギタリスト/シンガー(ピアノも少し弾いた)であるシルヴェイン・シルヴェインが癌で亡くなった。晩年はナッシュヴィルに住んでいたという。1970年代初頭、日本ではグラム・ロックの流れで紹介されたニューヨーク・ドールズのケヴァいギタリストとして世に出て、同僚のデイヴィッド・ヨハンセンやジョニー・サンダース(1991年死去)らとともに気を吐いた。1979年以降は、何作も何気にポップな自己R&R作を出している。ある意味、米国的な好ましい破茶滅茶さを出していたいた人(と書くと語弊があるかな)ではあったが、彼は移民の子だった。本名はシルヴァン・ミズラヒ。小さい時期にユダヤ系エジプト人の両親とともにカイロを出て、フランスを経てニューヨークに定住した。彼の心地やふまいにはそういう移民の国たる合衆国の襞が見え隠れしていると考えると、もう一つの余白が見えてくるかもしれない。
<今日の、そうだったのか>
マックPCにおいて二つの指でクリックする使い方があるのを初めて知った。それ、itunes/アップル・ミュージックのプレイリストを送る必要性にかられて、ははは。
<今日の、そうだったのか>
マックPCにおいて二つの指でクリックする使い方があるのを初めて知った。それ、itunes/アップル・ミュージックのプレイリストを送る必要性にかられて、ははは。
R.I.P. フィル・スペクター(1939年12月26日〜2021年1月16日)
2021年1月18日 音楽 現代米国ポピュラー音楽界の音楽的基礎の一つを作った才人であり、負となるものも多大に出していた不明の人の訃報が届いた。殺人罪により刑務所のリハブ施設に収監されていたが、堀の外の病院で死んだという。当局は自然死の可能性が強いと発表したが、彼の娘は新型コロナ・ウィルスに感染しての合併症が死因であると公にした。
山ほどの栄誉と、底なし沼のごときどうして? を抱えた御仁。ルーツは、ロシア系ユダヤ人。彼はブロンクスで生まれたが、父親が自殺したあと、母親とともに1953年にロサンゼルスに引っ越した。その後、スペクターはギター奏者/ソングライターとしてバンドを始め、ザ・テディ・ベアースで全米トップ10ヒットも獲得。彼はジェリー・リーヴァーとマイク・ストーラーという名ソングライター・チームの事務所に入り浸ったこともあった。そんなこんなで10代にしていろいろなレコード産業中枢とのコネを得たスペクターは裏方業に転身、1960年にレイ・ピータソンの「コリンナ・コリンナ」という曲で全米10ヒットを出し、1961年には自分のレコード会社のフィレスも作ってしまう。そこらあたりの発想、割り切りの良さはすごいな。
ザ・ロネッツ、ザ・クリスタルズ、ダーレン・ラヴ、アイク&ティナ・ターナー、ザ・ライチャス・ブラザーズ他のヒット・シングルを次々に手がけ、またいろな曲も作り、彼は押しも押されぬ音楽名士となる。確かなスタジオ技術と弦楽器や管楽器音も用いての“ウォール・オブ・サウンド”は彼のトレード・マークとなった。モノラル録音のもと重厚さに留意したサウンドはモータウンとともに、当時のラジオ映えする華と洗練を持つポップ・ソングの最たるものであった。
ロック全盛期になる前のアメリカン・ポップスにあまり触れていないぼくが、フィル・スペクターの名前をちゃんと認知したのは、ザ・ビートルズの“レット・イット・ビー”セッションをプロデューサーとしてまとめあげたことによる。ポール・マッカートニー(2018年10月31日)はそのまったりした大人処理を嫌ったと言われ、その意見もロックンローラーとしてのマッカートニーの確かな感性の在り処を示すものとも思う。ジョン・レノンの大名盤『イマジン』もスペクターの制作だ。その前後もがっつり絡んでいるし、レノンはロック・ミュージシャンの中では一番スペクターの手腕を信頼していた人かもしれない。
薬と奇行あり。1970年代に入るとスタジオで発砲したり、彼に銃でおどされる人が出てきて、1980年代初頭に彼のプロデュースは途絶える。ラモーンズやオノ・ヨーコ(2018年9月11日)作がその最後か。だが、印税はしっかり入っていたのだろう、ロサンセルスの邸宅でふしだらな生活を維持。その延長に、2003年の自宅における女優殺しによる判決19年の投獄があったわけだ。
2番目の妻だったザ・ロネッツにいたロニー・スペクター(ベロニカ・ロニー・ベネッツ)は彼の死に際し、「音楽にとっても、私にとっても悲しい日です。彼の生前から何度も言っていましたが、彼は素晴らしいプロデューサーではあったものの、お粗末な夫だった。残念なことに、彼はスタジオの外で生活に適応することができなかった。暗闇があり、多くの人の命が奪われた。一緒に作った音楽を聞くと、いつも笑顔になる。音楽は永遠に続く」とインスタグラムに投稿した。
▶︎過去の、フィル・スペクターの米ドキュメンタリー番組
https://43142.diarynote.jp/201304111323591230/
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/201105282358273180/ ショーン・レノンの、両親を語るインタヴュー付き
https://43142.diarynote.jp/202010081306571190/ 「DOUBLE FANTASY John &Yoko」展
▶︎過去の、ポール・マッカートニー
https://43142.diarynote.jp/201811011655349966/
▶︎過去の、入国できなったアイク・ターナー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-5.htm 2003年5月25日
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
https://43142.diarynote.jp/201809121745334226/ 新作
<今日の、連鎖>
ちょっと寝坊して、10時に起床。何気な日差しを感じて、さあっとカーテンを開ける。陽光が注ぐ。微笑み、体内に広がる。冬場のぼくを殺すには銃はいらない、曇天にすればいい。なんて、言いたくなっちゃう。一時曇り気味となりテンションが下がるが、また燦々と陽がさす。なんか、自然にジョージ・ハリソンのザ・ビートルズ時代の「ヒア・カムズ・ザ・サン」をうろ覚えで口ずさむ。メロディと歌詞と歌声がうまくマッチしたいい曲だな。なんか、自分でも驚くほどジーンときちゃった。コロナ期が過ぎたときに聞いたらとか、考えたせいもあったか。ハリソンのその有名曲が出てきたのは、フィル・スペクターの死を知ったこともあったろう。ハリソンもザ・ビートルズ解散後のソロ2作品を彼に共同プロデュースを依頼した。ハリソンはのちに「ヒア・カムズ・ザ・ムーン」という曲も発表したが、どんな曲だったっけか? スペクター関与のハリソンの『リヴィング・イン・ア・マテリアル・ワールド』(アップル、1973年)に収録された「トライ・サム・バイ・サム」は、元ザ・ロネッツのロニ-・スペクターのためにハリソンが1971年に送った曲をセルフカヴァーしたものだ。
追記)
沖縄民謡の大歌手、大城美佐子(2012年12月4日)さんの訃報も届く。17日、心筋梗塞で、那覇の自宅でお亡くなりになった。大阪生まれで、辺野古育ちであったのか。享年、84。僕が彼女の実演を見たのは、登川誠仁との公演だったが、登川さんのほうは、80歳で2013年3月にお亡くなりになった。
▶︎過去の、大城美佐子
https://43142.diarynote.jp/201212131100492609/
山ほどの栄誉と、底なし沼のごときどうして? を抱えた御仁。ルーツは、ロシア系ユダヤ人。彼はブロンクスで生まれたが、父親が自殺したあと、母親とともに1953年にロサンゼルスに引っ越した。その後、スペクターはギター奏者/ソングライターとしてバンドを始め、ザ・テディ・ベアースで全米トップ10ヒットも獲得。彼はジェリー・リーヴァーとマイク・ストーラーという名ソングライター・チームの事務所に入り浸ったこともあった。そんなこんなで10代にしていろいろなレコード産業中枢とのコネを得たスペクターは裏方業に転身、1960年にレイ・ピータソンの「コリンナ・コリンナ」という曲で全米10ヒットを出し、1961年には自分のレコード会社のフィレスも作ってしまう。そこらあたりの発想、割り切りの良さはすごいな。
ザ・ロネッツ、ザ・クリスタルズ、ダーレン・ラヴ、アイク&ティナ・ターナー、ザ・ライチャス・ブラザーズ他のヒット・シングルを次々に手がけ、またいろな曲も作り、彼は押しも押されぬ音楽名士となる。確かなスタジオ技術と弦楽器や管楽器音も用いての“ウォール・オブ・サウンド”は彼のトレード・マークとなった。モノラル録音のもと重厚さに留意したサウンドはモータウンとともに、当時のラジオ映えする華と洗練を持つポップ・ソングの最たるものであった。
ロック全盛期になる前のアメリカン・ポップスにあまり触れていないぼくが、フィル・スペクターの名前をちゃんと認知したのは、ザ・ビートルズの“レット・イット・ビー”セッションをプロデューサーとしてまとめあげたことによる。ポール・マッカートニー(2018年10月31日)はそのまったりした大人処理を嫌ったと言われ、その意見もロックンローラーとしてのマッカートニーの確かな感性の在り処を示すものとも思う。ジョン・レノンの大名盤『イマジン』もスペクターの制作だ。その前後もがっつり絡んでいるし、レノンはロック・ミュージシャンの中では一番スペクターの手腕を信頼していた人かもしれない。
薬と奇行あり。1970年代に入るとスタジオで発砲したり、彼に銃でおどされる人が出てきて、1980年代初頭に彼のプロデュースは途絶える。ラモーンズやオノ・ヨーコ(2018年9月11日)作がその最後か。だが、印税はしっかり入っていたのだろう、ロサンセルスの邸宅でふしだらな生活を維持。その延長に、2003年の自宅における女優殺しによる判決19年の投獄があったわけだ。
2番目の妻だったザ・ロネッツにいたロニー・スペクター(ベロニカ・ロニー・ベネッツ)は彼の死に際し、「音楽にとっても、私にとっても悲しい日です。彼の生前から何度も言っていましたが、彼は素晴らしいプロデューサーではあったものの、お粗末な夫だった。残念なことに、彼はスタジオの外で生活に適応することができなかった。暗闇があり、多くの人の命が奪われた。一緒に作った音楽を聞くと、いつも笑顔になる。音楽は永遠に続く」とインスタグラムに投稿した。
▶︎過去の、フィル・スペクターの米ドキュメンタリー番組
https://43142.diarynote.jp/201304111323591230/
▶︎過去の、ジョンとヨーコを扱う映画
https://43142.diarynote.jp/201105282358273180/ ショーン・レノンの、両親を語るインタヴュー付き
https://43142.diarynote.jp/202010081306571190/ 「DOUBLE FANTASY John &Yoko」展
▶︎過去の、ポール・マッカートニー
https://43142.diarynote.jp/201811011655349966/
▶︎過去の、入国できなったアイク・ターナー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-5.htm 2003年5月25日
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
https://43142.diarynote.jp/201809121745334226/ 新作
<今日の、連鎖>
ちょっと寝坊して、10時に起床。何気な日差しを感じて、さあっとカーテンを開ける。陽光が注ぐ。微笑み、体内に広がる。冬場のぼくを殺すには銃はいらない、曇天にすればいい。なんて、言いたくなっちゃう。一時曇り気味となりテンションが下がるが、また燦々と陽がさす。なんか、自然にジョージ・ハリソンのザ・ビートルズ時代の「ヒア・カムズ・ザ・サン」をうろ覚えで口ずさむ。メロディと歌詞と歌声がうまくマッチしたいい曲だな。なんか、自分でも驚くほどジーンときちゃった。コロナ期が過ぎたときに聞いたらとか、考えたせいもあったか。ハリソンのその有名曲が出てきたのは、フィル・スペクターの死を知ったこともあったろう。ハリソンもザ・ビートルズ解散後のソロ2作品を彼に共同プロデュースを依頼した。ハリソンはのちに「ヒア・カムズ・ザ・ムーン」という曲も発表したが、どんな曲だったっけか? スペクター関与のハリソンの『リヴィング・イン・ア・マテリアル・ワールド』(アップル、1973年)に収録された「トライ・サム・バイ・サム」は、元ザ・ロネッツのロニ-・スペクターのためにハリソンが1971年に送った曲をセルフカヴァーしたものだ。
追記)
沖縄民謡の大歌手、大城美佐子(2012年12月4日)さんの訃報も届く。17日、心筋梗塞で、那覇の自宅でお亡くなりになった。大阪生まれで、辺野古育ちであったのか。享年、84。僕が彼女の実演を見たのは、登川誠仁との公演だったが、登川さんのほうは、80歳で2013年3月にお亡くなりになった。
▶︎過去の、大城美佐子
https://43142.diarynote.jp/201212131100492609/
R.I.P.サミー・ネスティコ(1924年2月6日 - 2021年1月17日)
2021年1月19日 音楽 96歳、大往生ですね。好ジャズ・アレンジャーにトロンボーン奏者は多いと言われるが、彼もそうであったか。1960年代後期からの10何年かのカウント・ベイシー・オーケストラ(2010年12月28日、2011年9月3日、2014年12月22日)の編曲をはじめ、ジャズのビッグ・バンドのアレンジャーとして大活躍した御仁。彼は作曲もした。ぼくはやるほうはロック経験しかないが、ジャズのフルバン(ビッグ・バンド)経験者であると、この訃報は身に沁みるのだろう。彼が亡くなった土地や死因は明らかにされていない。
ペンシルヴァニア州ピッツバーグで生まれ、少年期から地元の高校や放送局のビッグ・バンドにトロンボーン奏者として入った。音楽を大学で学んだあと、彼はトミー・ドーシー、ウディ・ハーマン、ジーン・クルーパ楽団などにトロンボーン奏者として入ったという。10代半ばにして初編曲を書いたというので、当初からその才には恵まれていたと思われる。彼はベイシー・バンド編曲とともに、米国空軍バンドの編曲も大々的にしたそうだ。また、彼は大学や高校の音楽プログラムにもいろいろ関わってきた。さらに彼は、NDRビッグ・バンド(2016年3月9日)など欧州の大所帯組織の編曲や指揮もしたという。
もちろん、TVや映画音楽にも関わり、フランク・シナトラ他のジャズ/ポピュラー系シンガーにアレンジもいろいろ提供している。円満な顔つきの方だが、その活動をちょい見すると、本当にそうだったんだろうなと思えてくるな。
▶過去の、カウント・ベイシー・オーケストラ
http://43142.diarynote.jp/201101061048518045/
http://43142.diarynote.jp/201109121452527893/
https://43142.diarynote.jp/201412281018298837/
▶︎過去の、NDRビッグ・バンド
https://43142.diarynote.jp/201603111218495183/
<今日の、ふとした疑問>
彼の訃報に接して、編曲のギャラというのは一般的にどうなっているのかとふと考えた。作詞や作曲に関しては印税という項目がすぐに出てくるが、編曲もそうなっていなきゃ嘘だよな。そう思ってしまうのは、作編曲より編曲家の名前は前に出てきていない→いまいちスポットが当たりにくい担い手であるという認識があるためか。とくに、メロディが行き詰まり傾向にあり、いろんな楽器/装置音やリズムやムードの選択肢が広がっている今はよりアレンジャーの活躍する幅は広がってきている。あと、小さな編成と大きな編成では当然求められる労力は異なるわけで……。今更ながら、著作権に疎いことを自覚した。なお、ネスティコは後続の人たちのことを考え、自分の600近いスコアを公開しているという。
ペンシルヴァニア州ピッツバーグで生まれ、少年期から地元の高校や放送局のビッグ・バンドにトロンボーン奏者として入った。音楽を大学で学んだあと、彼はトミー・ドーシー、ウディ・ハーマン、ジーン・クルーパ楽団などにトロンボーン奏者として入ったという。10代半ばにして初編曲を書いたというので、当初からその才には恵まれていたと思われる。彼はベイシー・バンド編曲とともに、米国空軍バンドの編曲も大々的にしたそうだ。また、彼は大学や高校の音楽プログラムにもいろいろ関わってきた。さらに彼は、NDRビッグ・バンド(2016年3月9日)など欧州の大所帯組織の編曲や指揮もしたという。
もちろん、TVや映画音楽にも関わり、フランク・シナトラ他のジャズ/ポピュラー系シンガーにアレンジもいろいろ提供している。円満な顔つきの方だが、その活動をちょい見すると、本当にそうだったんだろうなと思えてくるな。
▶過去の、カウント・ベイシー・オーケストラ
http://43142.diarynote.jp/201101061048518045/
http://43142.diarynote.jp/201109121452527893/
https://43142.diarynote.jp/201412281018298837/
▶︎過去の、NDRビッグ・バンド
https://43142.diarynote.jp/201603111218495183/
<今日の、ふとした疑問>
彼の訃報に接して、編曲のギャラというのは一般的にどうなっているのかとふと考えた。作詞や作曲に関しては印税という項目がすぐに出てくるが、編曲もそうなっていなきゃ嘘だよな。そう思ってしまうのは、作編曲より編曲家の名前は前に出てきていない→いまいちスポットが当たりにくい担い手であるという認識があるためか。とくに、メロディが行き詰まり傾向にあり、いろんな楽器/装置音やリズムやムードの選択肢が広がっている今はよりアレンジャーの活躍する幅は広がってきている。あと、小さな編成と大きな編成では当然求められる労力は異なるわけで……。今更ながら、著作権に疎いことを自覚した。なお、ネスティコは後続の人たちのことを考え、自分の600近いスコアを公開しているという。
R.I.P.ペリー・ボトキンJr.(1933年4月16日〜2021年1月18日)
2021年1月20日 音楽 ギターやバンジョー奏者だったペリー・ボトキン・シニア(1907〜73年)はジャズ畑を歩み、ビング・クロスビーの音楽監督を17年務めたことでも知られる。また、ホーギー・カーマイケルの「香港ブルース」のギターは彼が弾いているそうだ。当然ジュニアは恵まれた環境で育ったと推測されるが、30代半ば近くになって西海岸のアレンジャー(オーケストレーションもでき、それでグラミー賞も受けている)/プロデューサーとして頭角を顕した。ハーパース・ビザール、ザ・エヴァリー・ブラザーズ、ホセ・フェリシアーノ(2014年11月11日)、ポール・ウィリアムズ、カーペンターズ、メラニー、カーリー・サイモン、ハリー・ニルソン……などなど。作曲家としても好評で、いろんな人に提供している。もちろん、映画やTV番組にもいろいろ絡んでいる。
1977年リーダー作『Ports』(A&M)は、ボトキンJr.の初となる単独リーダー作となるのかな。内容は平たく言ってしまえば、イージー・リスニング・ミュージック。自作曲にまじえ、ハーブ・アルパート、ミルトン・ナシメント(2003年9月23日)、エリック・サティの曲も取り上げている。ベーシストはアンソニー・ジャクソン(2004年1月27日、2010年10月26日、2011年9月3日、2012年12月9日、2016年11月16日、2014年9月7日 )とマックス・ベネットとウィルトン・フェルダー(2005年3月8日)の3人で、ドラムはハーヴィー・メイソン(2002年8月11日、2010年7月9日、2011年6月21日、2014年5月28日、2016年4月5日、2017年9月1日、2019年10月17日)とジム・ケルトナー。さらには、ウェスト・コースト・ジャズ界を代表するアルト・サックス/フルート奏者のバド・シャンクも参加していた。
そんな彼のレレレ〜というところは、1990年代に入ると一般音楽作りから離れて実験的でもあるエレクトロ・ミュージックの作り手となったこと。『Ports』でも自らシンセサイザーを弾く電子音楽傾向曲も収められていて、その転向もいろいろ積み重ねた結果のものであることが分かる。
ネットにはあまり彼の死亡記事が出ておらず、死因や亡くなった場所は分からなかった。
▶︎過去の、ホセ・フェリシアーノ
https://43142.diarynote.jp/201411120950032345/
▶過去の、ミルトン・ナシメント
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-9.htm
▶︎過去の、アンソニー・ジャクソン
https://43142.diarynote.jp/200402051855170000/
https://43142.diarynote.jp/201109121452527893/
https://43142.diarynote.jp/201212140959573710/
https://43142.diarynote.jp/201409100930206205/
https://43142.diarynote.jp/201611171021419374/
▶︎過去の、ウィルトン・フェルダー
https://43142.diarynote.jp/200503120546520000/
▶過去の、ハーヴィー・メイソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-8.htm 8月11日、トム・スコット
http://43142.diarynote.jp/201007110625087085/
http://43142.diarynote.jp/?day=20110621
http://43142.diarynote.jp/?day=20140528
http://43142.diarynote.jp/201604060850393487/
https://43142.diarynote.jp/201709071307037021/
https://43142.diarynote.jp/201910180828345862/
<今日の、久しぶり>
iTunesのプレイリストにCDから入れた曲が不明(少し前の商品で明細クレジットがなく、トラック2とだけ表示される)で、シャザムで調べる。収録アルバムまで分かり、やっぱり便利だな。でも、普段は使わないなあ。ほぼ1週間ぶりに外出。複数の用事をこなそうと思ったら、一つを見事に忘れる。いかんいかん。だけど、まいっか。このおり、外出し帰宅した後はすぐにシャワーを浴びるが、1ヶ月半伸ばしっぱなしにしていた髭をついでに剃る。やっぱ、だいぶ見かけが変わるナ。それについては、マル。地上波TV放送は映らないようにしているがネットで見れるみたいなので、深夜バイデンの就任式の中継を深夜にチラ見しようか。→→光ファイバーTVのプログラグラムにBBCチャンネルがあった(就任式を延々と放映していたよう)ので、そちらで見る。解説者がかなり反トランプ/共和党の態度をとっていたような。大統領付きのアメリカ海兵隊の楽団の様には音楽流れで、ちょい目を向ける。若く見える指揮者は軍服にたくさん飾りをつけていたが、階級が上なのだろうか。そういえば音大卒業後の道として、自衛隊の楽団入りがあると聞いたことがあるナ。
1977年リーダー作『Ports』(A&M)は、ボトキンJr.の初となる単独リーダー作となるのかな。内容は平たく言ってしまえば、イージー・リスニング・ミュージック。自作曲にまじえ、ハーブ・アルパート、ミルトン・ナシメント(2003年9月23日)、エリック・サティの曲も取り上げている。ベーシストはアンソニー・ジャクソン(2004年1月27日、2010年10月26日、2011年9月3日、2012年12月9日、2016年11月16日、2014年9月7日 )とマックス・ベネットとウィルトン・フェルダー(2005年3月8日)の3人で、ドラムはハーヴィー・メイソン(2002年8月11日、2010年7月9日、2011年6月21日、2014年5月28日、2016年4月5日、2017年9月1日、2019年10月17日)とジム・ケルトナー。さらには、ウェスト・コースト・ジャズ界を代表するアルト・サックス/フルート奏者のバド・シャンクも参加していた。
そんな彼のレレレ〜というところは、1990年代に入ると一般音楽作りから離れて実験的でもあるエレクトロ・ミュージックの作り手となったこと。『Ports』でも自らシンセサイザーを弾く電子音楽傾向曲も収められていて、その転向もいろいろ積み重ねた結果のものであることが分かる。
ネットにはあまり彼の死亡記事が出ておらず、死因や亡くなった場所は分からなかった。
▶︎過去の、ホセ・フェリシアーノ
https://43142.diarynote.jp/201411120950032345/
▶過去の、ミルトン・ナシメント
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-9.htm
▶︎過去の、アンソニー・ジャクソン
https://43142.diarynote.jp/200402051855170000/
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https://43142.diarynote.jp/201611171021419374/
▶︎過去の、ウィルトン・フェルダー
https://43142.diarynote.jp/200503120546520000/
▶過去の、ハーヴィー・メイソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-8.htm 8月11日、トム・スコット
http://43142.diarynote.jp/201007110625087085/
http://43142.diarynote.jp/?day=20110621
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http://43142.diarynote.jp/201604060850393487/
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https://43142.diarynote.jp/201910180828345862/
<今日の、久しぶり>
iTunesのプレイリストにCDから入れた曲が不明(少し前の商品で明細クレジットがなく、トラック2とだけ表示される)で、シャザムで調べる。収録アルバムまで分かり、やっぱり便利だな。でも、普段は使わないなあ。ほぼ1週間ぶりに外出。複数の用事をこなそうと思ったら、一つを見事に忘れる。いかんいかん。だけど、まいっか。このおり、外出し帰宅した後はすぐにシャワーを浴びるが、1ヶ月半伸ばしっぱなしにしていた髭をついでに剃る。やっぱ、だいぶ見かけが変わるナ。それについては、マル。地上波TV放送は映らないようにしているがネットで見れるみたいなので、深夜バイデンの就任式の中継を深夜にチラ見しようか。→→光ファイバーTVのプログラグラムにBBCチャンネルがあった(就任式を延々と放映していたよう)ので、そちらで見る。解説者がかなり反トランプ/共和党の態度をとっていたような。大統領付きのアメリカ海兵隊の楽団の様には音楽流れで、ちょい目を向ける。若く見える指揮者は軍服にたくさん飾りをつけていたが、階級が上なのだろうか。そういえば音大卒業後の道として、自衛隊の楽団入りがあると聞いたことがあるナ。
R.I.P. ジュニア・マンス(1928年10月10日〜2021年1月17日)
2021年1月21日 音楽 ジャズ・ピアニストのジュニア・マンス(2009年6月7日)がNY で亡くなった。享年、92。イリノイ州エヴァンストンの生まれ。シカゴ圏となり、有名なノースウェスタン大学を擁する同市はリベラルで、民主党がやたら強いところとして知られているよう。5歳からピアノを弾き始め、早くから才能を発揮し、シカゴのルーズベルト大学にも通い(スティーヴ・コールマンやマーヴィン・スーウェル〜1999年8月27日、1999年9月2日、 2001年2月12日、2008年8月11日、2010年6月13日、2011年5月5日〜の先輩となる)、2年間兵役にもついた人。朝鮮戦争にも出兵したという。除隊後の彼をシカゴからニューヨークに出るように勧めたのは、チャーリー・パーカーだったらしい。
ミュージシャンズ・ミュージシャン。ディジー・ガレスピー、クリフォード・ブラウン、キャノンボール・アダリー、ダイナ・ワシントンらの伴奏者として知られ、1959年以降ヴァーヴ、ジャズランド、リヴァーサイド、キャピトル、アトランティック、その他から、様々なアルバムをリリース。とにもかくにも、ブルースをおさえつつも、とても趣味の良い、上品な弾き口を持つ名手だった。彼はアレサ・フランクリンのジャズ・アルバム『アレサ’69』(アトランティック、1969年)にも大々的に参加している。
また、ザ・ニュー・スクール大で教鞭をとった彼はジャズ教育者として知られる。ラリー・ゴールディングス(1999年4月13日、2000年3月2日、2012年11月12日。2013年5月10日、2016年6月4日)やブラッド・メルドー(2002年3月19日、2003年2月15日、2005年2月20日、2015年3月13日、2019年5月31日、2019年6月3日)やジャズメイア・ホーン(2019年12月6日)らは、彼の教え子となる。
▶︎過去の、ジュニア・マンス
https://43142.diarynote.jp/200906091637138003/
▶過去の、マーヴィン・スーウェル
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/september1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm
http://43142.diarynote.jp/200808121357410000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20100613
http://43142.diarynote.jp/201105101010399933/
▶過去の、ラリー・ゴールディングス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live1.htm 1999年4月13日(カーラ・ブレイ)
http://www.myagent.ne.jp/%7Enewswave/live-2000-3.htm
http://43142.diarynote.jp/201211170928285333/
http://43142.diarynote.jp/201305131335092387/
http://43142.diarynote.jp/201606121224129353/
▶過去の、ブラッド・メルドー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
http://www.myagent.ne.jp/%7Enewswave/live-2003-2.htm
http://43142.diarynote.jp/200502232041270000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20150313 メリアナ
https://43142.diarynote.jp/201906050929394234/
https://43142.diarynote.jp/201906050931369228/
▶︎過去の、ジャズメイア・ホーン
https://43142.diarynote.jp/201912070741544808/
<今日の、追記>
マンスは2015年に脳卒中で倒れ、認知症に陥っていた。マネイジャーを務めていた妻のグロリア・クレイボーン・マンス(年齢は少し離れている。1番目の妻はフィラデルフィアに住んでいるよう)との晩年の日々が映し出される、ジリアン・ガンサーによる映画「Sunset and the Mockingbird」は今年中に公開になるという。https://www.sunsetandthemockingbird.com
ミュージシャンズ・ミュージシャン。ディジー・ガレスピー、クリフォード・ブラウン、キャノンボール・アダリー、ダイナ・ワシントンらの伴奏者として知られ、1959年以降ヴァーヴ、ジャズランド、リヴァーサイド、キャピトル、アトランティック、その他から、様々なアルバムをリリース。とにもかくにも、ブルースをおさえつつも、とても趣味の良い、上品な弾き口を持つ名手だった。彼はアレサ・フランクリンのジャズ・アルバム『アレサ’69』(アトランティック、1969年)にも大々的に参加している。
また、ザ・ニュー・スクール大で教鞭をとった彼はジャズ教育者として知られる。ラリー・ゴールディングス(1999年4月13日、2000年3月2日、2012年11月12日。2013年5月10日、2016年6月4日)やブラッド・メルドー(2002年3月19日、2003年2月15日、2005年2月20日、2015年3月13日、2019年5月31日、2019年6月3日)やジャズメイア・ホーン(2019年12月6日)らは、彼の教え子となる。
▶︎過去の、ジュニア・マンス
https://43142.diarynote.jp/200906091637138003/
▶過去の、マーヴィン・スーウェル
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/september1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-2.htm
http://43142.diarynote.jp/200808121357410000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20100613
http://43142.diarynote.jp/201105101010399933/
▶過去の、ラリー・ゴールディングス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live1.htm 1999年4月13日(カーラ・ブレイ)
http://www.myagent.ne.jp/%7Enewswave/live-2000-3.htm
http://43142.diarynote.jp/201211170928285333/
http://43142.diarynote.jp/201305131335092387/
http://43142.diarynote.jp/201606121224129353/
▶過去の、ブラッド・メルドー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
http://www.myagent.ne.jp/%7Enewswave/live-2003-2.htm
http://43142.diarynote.jp/200502232041270000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20150313 メリアナ
https://43142.diarynote.jp/201906050929394234/
https://43142.diarynote.jp/201906050931369228/
▶︎過去の、ジャズメイア・ホーン
https://43142.diarynote.jp/201912070741544808/
<今日の、追記>
マンスは2015年に脳卒中で倒れ、認知症に陥っていた。マネイジャーを務めていた妻のグロリア・クレイボーン・マンス(年齢は少し離れている。1番目の妻はフィラデルフィアに住んでいるよう)との晩年の日々が映し出される、ジリアン・ガンサーによる映画「Sunset and the Mockingbird」は今年中に公開になるという。https://www.sunsetandthemockingbird.com
初期ニューヨーク・ヒップホップ界のキーボード奏者/ラッパーであるデューク・ブーティーがうっ血性心不全で亡くなっていた。本名、エドワード・G・フレッチャー。彼はグランドマスター・フラッシュのヒップホップ金字塔曲「ザ・メッセージ」をメリー・メルと共作したことで何より語られるか。
もともとはシュガーヒル・ギャング(2017年12月30日)のハウス・ミュージシャン。彼の『Bust Me Out』(Mercury,1984年)はそのダグ・ウィンブッシュ(2000年4月9日、2001年7月27日)とスキップ・マクドナルドの力量を最大限に借りたアルバムだった。ヴァーノン・リードが参加もしていた同作はリアル・タイムで日本盤もリリースされた。ウィブッシュは英国ON-Uのハウス・バンドを経て、リヴィング・カラーに入る。2001年のモス・デフのフジ・ロック公演は生バンド使用で、リヴィング・カラーのリズム隊が担っていた。
その後、なんと彼は音楽をやめて資格を取り、1990年代に教鞭をとる道に進んだ。ニュージャージー州の高校や大学で教え、2007年にはジョージア州サバンナに移り、サバンナ州立大学で批判的思考とコミュニケーションの講師を務め、2019年に引退していたという。
▶︎過去の、シュガーヒルギャング
https://43142.diarynote.jp/201801011139253615/
▶︎過去の、ダグ・ウィンブッシュ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-4.htm ポーラ・コール・バンド
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-7.htm 27日 フジ・ロックのモス・デフ
▶︎過去の、ヴァーノン・リード
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm 8/13
http://43142.diarynote.jp/?day=20081216
http://43142.diarynote.jp/201510290732352521/
また、英国ハウス・ミュージック界に大きな功績を残すDJ/クリエイターのフィル・アッシャーが、50歳で亡くなった。それほどクラブ・ミュージックを聞いてきていないぼくでも、<西ロンドン>とか<ブロークン・ビーツ>という言葉とも重なりもし、彼の関与するプロダクツは耳に入ってきた。生粋のロンドンっ子で、父親にならってレコード屋で働き、いろいろと音楽見聞を広げ……。という、キャリアは甘酸っぱい。彼はレコード・コレクターでもあったという。(ちょい復活しつつあるが)レコードがまだ存在感を放ち、配信が活発でなかったからこその、輝かしいと言うことも可能な歩みを持つ人。だが、そういう時代を過ぎてもダンス・フロアの音楽は存在する。……クラブ営業ができないコロナ禍にあって、その傾向は変わってきているのだろうか。レストレス・ソウルというユニットやプロダクションも持ち、ラジオ番組のホストやクラブの運営もしていた。イカした折衷感のなかに息づく肉感性やいなたさが好きでした。“彷徨うソウル”よ、永遠なれ。
<今日の、発想>
なんかオレのなかで、フィル・アッシャーの端正な彼の顔つきって、イスラエル人ジャズ・ピアニストのシャイ・マエストロ(2012年3月12日、2016年1月4日、2016年6月11日、2016年6月11日、2017年9月3日、2017年9月6日、2018年11月12日)とつながる。アッシャーって、ユダヤ系の苗字なんだっけ?
▶︎過去の、シャイ・マエストロ
http://43142.diarynote.jp/201203131840477844/
http://43142.diarynote.jp/201601050914043127/
http://43142.diarynote.jp/201606121230202174/
https://43142.diarynote.jp/201702021523283237/
http://43142.diarynote.jp/201709101639096076/
https://43142.diarynote.jp/201709110842026988/
https://43142.diarynote.jp/201811141355524842/
もともとはシュガーヒル・ギャング(2017年12月30日)のハウス・ミュージシャン。彼の『Bust Me Out』(Mercury,1984年)はそのダグ・ウィンブッシュ(2000年4月9日、2001年7月27日)とスキップ・マクドナルドの力量を最大限に借りたアルバムだった。ヴァーノン・リードが参加もしていた同作はリアル・タイムで日本盤もリリースされた。ウィブッシュは英国ON-Uのハウス・バンドを経て、リヴィング・カラーに入る。2001年のモス・デフのフジ・ロック公演は生バンド使用で、リヴィング・カラーのリズム隊が担っていた。
その後、なんと彼は音楽をやめて資格を取り、1990年代に教鞭をとる道に進んだ。ニュージャージー州の高校や大学で教え、2007年にはジョージア州サバンナに移り、サバンナ州立大学で批判的思考とコミュニケーションの講師を務め、2019年に引退していたという。
▶︎過去の、シュガーヒルギャング
https://43142.diarynote.jp/201801011139253615/
▶︎過去の、ダグ・ウィンブッシュ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-4.htm ポーラ・コール・バンド
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-7.htm 27日 フジ・ロックのモス・デフ
▶︎過去の、ヴァーノン・リード
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm 8/13
http://43142.diarynote.jp/?day=20081216
http://43142.diarynote.jp/201510290732352521/
また、英国ハウス・ミュージック界に大きな功績を残すDJ/クリエイターのフィル・アッシャーが、50歳で亡くなった。それほどクラブ・ミュージックを聞いてきていないぼくでも、<西ロンドン>とか<ブロークン・ビーツ>という言葉とも重なりもし、彼の関与するプロダクツは耳に入ってきた。生粋のロンドンっ子で、父親にならってレコード屋で働き、いろいろと音楽見聞を広げ……。という、キャリアは甘酸っぱい。彼はレコード・コレクターでもあったという。(ちょい復活しつつあるが)レコードがまだ存在感を放ち、配信が活発でなかったからこその、輝かしいと言うことも可能な歩みを持つ人。だが、そういう時代を過ぎてもダンス・フロアの音楽は存在する。……クラブ営業ができないコロナ禍にあって、その傾向は変わってきているのだろうか。レストレス・ソウルというユニットやプロダクションも持ち、ラジオ番組のホストやクラブの運営もしていた。イカした折衷感のなかに息づく肉感性やいなたさが好きでした。“彷徨うソウル”よ、永遠なれ。
<今日の、発想>
なんかオレのなかで、フィル・アッシャーの端正な彼の顔つきって、イスラエル人ジャズ・ピアニストのシャイ・マエストロ(2012年3月12日、2016年1月4日、2016年6月11日、2016年6月11日、2017年9月3日、2017年9月6日、2018年11月12日)とつながる。アッシャーって、ユダヤ系の苗字なんだっけ?
▶︎過去の、シャイ・マエストロ
http://43142.diarynote.jp/201203131840477844/
http://43142.diarynote.jp/201601050914043127/
http://43142.diarynote.jp/201606121230202174/
https://43142.diarynote.jp/201702021523283237/
http://43142.diarynote.jp/201709101639096076/
https://43142.diarynote.jp/201709110842026988/
https://43142.diarynote.jp/201811141355524842/
R.I.P. ボビー・ピュリファイ(1944年5月12日〜2020年1月22日)
2021年1月24日 音楽 サム・クック流れの優しい突き抜け感や弾力をもったソウル歌手のボビー・ピュリファイが亡くなった。軍港があり保養地としても知られるフロリダ州ペンサコーラ生まれで、亡くなったのも同地。Covid19の合併症が死因だという。ギタリストだったいとこのロバート・リー・ディッキー(1939〜2011年)とジェイムズ&ボビー・ピュリファイを組み、1966年に「イッル・ユア・パペット」という曲で大ヒットを飛ばす。それでグラミー賞にもノミネートされ、同じツイン・ヴォーカルということでサム&デイヴの好敵手という言われ方をされた。
サム&デイヴはメンフィスのスタックスであったが、マイアミ州拠点のこちらはニューヨークのベル・レコード(アリスタの前身)と契約。<ミュージック・フォー・ザ・ミリオンズ>などというキャッチを掲げていた同社はザ・パートリッジ・ファミリーとかデイヴィッド・キャシディとかベイシティ・ローラーズ(ベルUKの契約)とか、お茶の間系アイドルが在籍したという印象があるが、サブ・レーベルも持っていて、デル・シャノンやニューオーリンズのリー・ドーシーやソウルのクライド・マクファターやスカのプリンス・バスターらを送り出したエイミーやサザン・ロックのブラウンズヴィル・ステイションを出したビッグ・トゥリー他、サブ・レーベルも複数持っていた。彼らの「イッル・ユア・パペット」はダン・ペン(2010年8月25日)とスプーナー・オールダムの曲で、アラバマ州マッスル・ショールズのフェイム・スタジオで録られた。
ベルからは2枚のアルバムを出したあと、彼は70年前後に健康上の理由で引退。その後、1974年にアトランタ在住のスタックスとも関係を持っていたベン・ムーア(1941年生まれ)を新しい相手役とし、彼がジェイムス・プリファイを名乗ることで同じデュオ名のもと活動を再開。その新ジェイムズ&ボビー・ピュリファイは、1970年代中期にカサブランカとマーキュリーから2枚のアルバムをリリースした。
▶︎過去の、ダン・ペン
https://43142.diarynote.jp/201008270912512078/
▶︎過去の、マッスル・ショールズ+を扱った映画
https://43142.diarynote.jp/201406270933515875/ 2013年米国映画「黄金のメロディ マッスル・ショールズ」
https://43142.diarynote.jp/201707141126579276/ 2014年米国映画「約束の地、メンフィス〜テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」
<今日の、驚き>
ボビー・ピュリファイの名前をググったら、米国の性犯罪者ファイルみたいなサイトが出てきてびっくり。顔写真や身長などのデーターとともに、1989年のそっちのほうの前科を伝えている。生年月日が同じ、だ。ううむ。いろんな観点で困惑。。。
サム&デイヴはメンフィスのスタックスであったが、マイアミ州拠点のこちらはニューヨークのベル・レコード(アリスタの前身)と契約。<ミュージック・フォー・ザ・ミリオンズ>などというキャッチを掲げていた同社はザ・パートリッジ・ファミリーとかデイヴィッド・キャシディとかベイシティ・ローラーズ(ベルUKの契約)とか、お茶の間系アイドルが在籍したという印象があるが、サブ・レーベルも持っていて、デル・シャノンやニューオーリンズのリー・ドーシーやソウルのクライド・マクファターやスカのプリンス・バスターらを送り出したエイミーやサザン・ロックのブラウンズヴィル・ステイションを出したビッグ・トゥリー他、サブ・レーベルも複数持っていた。彼らの「イッル・ユア・パペット」はダン・ペン(2010年8月25日)とスプーナー・オールダムの曲で、アラバマ州マッスル・ショールズのフェイム・スタジオで録られた。
ベルからは2枚のアルバムを出したあと、彼は70年前後に健康上の理由で引退。その後、1974年にアトランタ在住のスタックスとも関係を持っていたベン・ムーア(1941年生まれ)を新しい相手役とし、彼がジェイムス・プリファイを名乗ることで同じデュオ名のもと活動を再開。その新ジェイムズ&ボビー・ピュリファイは、1970年代中期にカサブランカとマーキュリーから2枚のアルバムをリリースした。
▶︎過去の、ダン・ペン
https://43142.diarynote.jp/201008270912512078/
▶︎過去の、マッスル・ショールズ+を扱った映画
https://43142.diarynote.jp/201406270933515875/ 2013年米国映画「黄金のメロディ マッスル・ショールズ」
https://43142.diarynote.jp/201707141126579276/ 2014年米国映画「約束の地、メンフィス〜テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」
<今日の、驚き>
ボビー・ピュリファイの名前をググったら、米国の性犯罪者ファイルみたいなサイトが出てきてびっくり。顔写真や身長などのデーターとともに、1989年のそっちのほうの前科を伝えている。生年月日が同じ、だ。ううむ。いろんな観点で困惑。。。
R.I.P. ジョナス・グワングワ(1937年10月19日〜2021年1月23日)
2021年1月25日 音楽 ジャズ・トロンボーン奏者/シンガーであり、反アパルトヘイト活動家であった、ジョナス・グワングワがお亡くなりになった。南アフリカの大統領のシリエウ・ラマポーザ(1994年に就任したネルソン・マンデーラ以降、アフリカ民族会議所属の黒人が就いている)が発表したとのこと。南アフリカの黒人押し込め居住区ソウェトで生まれ育ち、アブドゥーラ・イブラヒム(2011年8月7日)やヒュー・マセケラ(2005年7 月20日)らとジャズを研鑽。そして、彼らと同様に1960年代に入ると(1970年という話もある)、国外に亡命した。1965年にはミリアム・マケバ、ヒュー・マセケラ、レッタ・ムブールらとカーネギーホールで<サウンド・オブ・アフリカ>という公演も行い、面々はその後も仲良くお互いのアルバムに参加しあいもした。
彼は他の同国の亡命音楽家と異なり、南アの隣国で英国連邦に属しながら人種融和路線を取っていたボツワナに住み気骨と活力ある活動を標榜したよう。亡命期、彼はアフリカ民族会議下にある文化的組織であるアマンドラのリーダーも務めた。アマンドラは様々な国で反アパルトヘイトをアピールする音楽公演を行っていたようだ。また、解放活動家のスティーヴ・ビコを題材においた英国映画「遠い夜明け」(1987年、デンゼル・ワシントン主役)の主題歌にも関与。南アに戻ったのは、1991年であったという。
根にあるアフリカとジャズを重ねる過程で、ポップ・ミュージック側につながるような華やジャズを超えたビート・ミュージックの親しみやすさを抱えたのは魔法のようであり、素晴らしいとしかいいようがない。そして、ソロを取れば、トロンボーン特有の暖かさや人間ぽさを存分に活かした演奏をした。彼はソリストとしてもなかなかの実力者であった。
▶︎過去の、アブドゥーラ・イブラヒム
https://43142.diarynote.jp/201108101635051749/
https://43142.diarynote.jp/202007062026356557/ インタヴュー
▶過去の、ヒュー・マセケラ
http://43142.diarynote.jp/200507220552110000/
<今日の、……>
寒く暗かった土日から、一転して晴天。昼さがり、買い物を兼ねて近所を散歩。そしたら、改めて徒歩圏内に歯科医院があちこちにあるなあと実感。確かにかつて、商売不振でヘコんでいる旦那にならばと親から引き継いだ医院を廃業させたと知人から聞いたことあったよなー。そして、米国グリーン・カードのくじに当たったこともあり、ハワイに移住。でも、離婚しちゃったNちゃん元気ですかあ。話は戻るが、徒歩圏のガラス張り外観の歯科医院の待合室にアンディ・ウォーホルの作品がいろいろ飾っているのを認知。思わず入店し、受付のお姉さんにこれはオリジナル・プリントですかとか聞こうと思ったが、万が一レプリカですと言われたら←ということはないと思うが、どう身を処せばいいのかという思いが頭をかずめ、やめた。
彼は他の同国の亡命音楽家と異なり、南アの隣国で英国連邦に属しながら人種融和路線を取っていたボツワナに住み気骨と活力ある活動を標榜したよう。亡命期、彼はアフリカ民族会議下にある文化的組織であるアマンドラのリーダーも務めた。アマンドラは様々な国で反アパルトヘイトをアピールする音楽公演を行っていたようだ。また、解放活動家のスティーヴ・ビコを題材においた英国映画「遠い夜明け」(1987年、デンゼル・ワシントン主役)の主題歌にも関与。南アに戻ったのは、1991年であったという。
根にあるアフリカとジャズを重ねる過程で、ポップ・ミュージック側につながるような華やジャズを超えたビート・ミュージックの親しみやすさを抱えたのは魔法のようであり、素晴らしいとしかいいようがない。そして、ソロを取れば、トロンボーン特有の暖かさや人間ぽさを存分に活かした演奏をした。彼はソリストとしてもなかなかの実力者であった。
▶︎過去の、アブドゥーラ・イブラヒム
https://43142.diarynote.jp/201108101635051749/
https://43142.diarynote.jp/202007062026356557/ インタヴュー
▶過去の、ヒュー・マセケラ
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<今日の、……>
寒く暗かった土日から、一転して晴天。昼さがり、買い物を兼ねて近所を散歩。そしたら、改めて徒歩圏内に歯科医院があちこちにあるなあと実感。確かにかつて、商売不振でヘコんでいる旦那にならばと親から引き継いだ医院を廃業させたと知人から聞いたことあったよなー。そして、米国グリーン・カードのくじに当たったこともあり、ハワイに移住。でも、離婚しちゃったNちゃん元気ですかあ。話は戻るが、徒歩圏のガラス張り外観の歯科医院の待合室にアンディ・ウォーホルの作品がいろいろ飾っているのを認知。思わず入店し、受付のお姉さんにこれはオリジナル・プリントですかとか聞こうと思ったが、万が一レプリカですと言われたら←ということはないと思うが、どう身を処せばいいのかという思いが頭をかずめ、やめた。
「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展
2021年1月26日 音楽 清澄白河・東京現代美術館で開かれている、アート・ディレクター/デザイナーの石岡瑛子(1938年7月12日〜2012年1月21日)の様々なプロダクツをまとめる展覧会をお昼に見に行った。展示はだいたい年代順、平面から映像も含めた立体のプロダクツに仕事が移っていったことが分かった。会期終盤でもないし、平日かつこういう折ではあったものの、それなりの客入り。これが平時だったら、かなりの混みようであったのか。
音楽好き(というか、他のことには多々疎い)ぼくが彼女の名前を初めて見たのは、日本フォノグラムが1970年代半ばに設立、日本人のジャズの担い手と米国人ジャズ・アーティストを同じ目線で録音し、鋭意送り出したイースト・ウィンド・レーベルの一連のジャケット・カヴァー群のディレクション/デザインだった。なかには、妹の石岡玲子のイラストレーションを使ったアルバムもあったはずだ。芸大を出て資生堂に入り、1970年に彼女は独立したようだが、当時のCBSソニーはその頃からゲイリー・ピーコック(2007年5月8日)やウェザー・リポートの日本録音盤などのジャケのデザインに彼女を起用していた。後のロナルド・シャノン・ジャクソンのアンティルズ盤やアクシオム盤(ともに、親はアイランド・レコード)などもてがけていたな。パット・メセニー(1999年12月15日、2002年9月19日、2010年6月12日、2012年1月25日、2012年3月3日、2013年5月21日、2015年9月27日、2019年1月7日、2019年1月11日、2019年1月16日)のレイザー・ディスクの映像作品を彼女は監督したこともあったと記憶する。
基本、素晴らしく本質を掴んでの、人の興味を射抜く仕事をしてきたのだなと、おおいに頷く。数々のポスター、海苔やコーヒーの商品パッケージ・デザイン、装丁……。また、版下や校正や、仕事の手紙(達筆)、ラフのデザイン画などもいろいろ展示されている。すごい、オリジナリティと才能にあふれると思わずにはいられず。そして、その奥には行動力や好奇心が渦巻いていたことも。1970年代のブツは、パルコと角川書店のもが多く展示されている。本が好きじゃないし、カドカワはまがい物のような気がして一切注意を向けたことがなかったが、本当に同社のいろいろな仕事をしていたのだな。パルコもそうだが、角川書店は一時本当にぶいぶい言わせていたという記憶があるが、彼女をアート・ディレクターに起用しなかったら、その栄華もなかったのではないか。そう思わせる個性とパワーを彼女は持つ。
音楽方面では、グラミー賞のデザイン部門を取ったというマイルズ・デイヴィスの『TUTU』(ワーナー・ブラザーズ、1986年)とビューク(2001年12月5日、2008年2月22日)のPV「コクーン」(2002年)は大々的に一画を用い紹介される。デイヴィスの作品はアナログ時代が終わりに近づいてきた時期の仕事だが、これはレコード・ジャケットのサイズがなければいけないものだろう。と思ったら、そのコーナーでは、しょぼい卓上プレイヤーで『TUTU』のレコードをかけていた。
彼女が美術を担当した、三島由紀夫を題材とした1985年日米映画「Mishima: A Life In Four Chapters」(ポール・シュレイダー監督。フランシス・フォード・コッポラ/ジョージ・ルーカス制作総指揮)にも大きく場所が割かれる。これ、遺族の反対にあい、日本では未公開なのか。熱烈な三島ファンの知人がいて、昔あちらで出たVHSを見せてもらったことがあり、よく分からないながらシャープなアート施工がなされた映画という所感を持つが、あらそれにも彼女は絡んでいたのか。「日本公開が叶わなかったこの映画に関わったことで、彼女は日本の狭量さがいやになり、海外に拠点を移した」、というような説明書きもそこには出ていたか。
そして、その後の彼女は映画や舞台やオペラ、大きなイヴェントなどの衣装デザインを柱に活動していったことが示される。グレイス・ジョーンズの2009年ツアーの奇抜な衣装、シルク・ド・ソレイユのそれ、デサント流れのソルトレイク五輪のスイスやカナダの選手やコーチの服、北京オリンピックの閉会式の衣装、などなど。もし、彼女がもっと早くからファッション・デザイナーを志していたらと一瞬考えたが、いろいろな要求や要素を束ね、そこからから圧倒的なアイデアを形にするのに長けていたのかもしれない。
結構、ヴォリュームあり。ぼくは1977年以降に東京に住んでいるが、ある意味、自分の東京史とつながるような部分もあって、時間をかけて見た。そして、視覚〜働きかけの美学の粋に圧倒された。
▶︎過去の、ゲイリー・ピーコック
https://43142.diarynote.jp/200705181807060000/
▶︎過去の、ロナルド・シャノン・ジャクソンの訃報
https://43142.diarynote.jp/201310210730403296/
▶過去の、パット・メセニー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/december1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
http://43142.diarynote.jp/201006181520054406/
http://43142.diarynote.jp/201201271245417497/
http://43142.diarynote.jp/201203062005542291/
http://43142.diarynote.jp/201305260927026044/
http://43142.diarynote.jp/201510021129591335/
https://43142.diarynote.jp/201901090933013218/
https://43142.diarynote.jp/201901121341307532/
https://43142.diarynote.jp/201901180819479701/
▶過去の、ビューク
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm
http://43142.diarynote.jp/200802230934310000/
<今日の、あるある>
帰り、最寄りの清澄白河駅の途中にある店で、深川めしを食す。初体験、いっぱいあさりが入っていた。小さめのお椀だと思ったら、けっこう量があったな。店で背後から、知人から声をかけられる。やはり、現代美術館の帰りだという。この後、ギンザ・グラフィック・ギャラリーで開かれている無料の「SURVIVE - EIKO ISHIOKA /石岡瑛子 グラフィックデザインはサバイブできるか」展に一緒に行くことに。銀座着、そしたらこちらの方は前期と後期の狭間の期間で休館なり。残念。近くの7丁目のライオンに寄る。戦前の建物とのこと、天井が高い。その後、友人の意向に添い山野楽器の手間まで行きあんぱんを買う。それ、柔らかくなく(今日のものではないような)、まずかった。
音楽好き(というか、他のことには多々疎い)ぼくが彼女の名前を初めて見たのは、日本フォノグラムが1970年代半ばに設立、日本人のジャズの担い手と米国人ジャズ・アーティストを同じ目線で録音し、鋭意送り出したイースト・ウィンド・レーベルの一連のジャケット・カヴァー群のディレクション/デザインだった。なかには、妹の石岡玲子のイラストレーションを使ったアルバムもあったはずだ。芸大を出て資生堂に入り、1970年に彼女は独立したようだが、当時のCBSソニーはその頃からゲイリー・ピーコック(2007年5月8日)やウェザー・リポートの日本録音盤などのジャケのデザインに彼女を起用していた。後のロナルド・シャノン・ジャクソンのアンティルズ盤やアクシオム盤(ともに、親はアイランド・レコード)などもてがけていたな。パット・メセニー(1999年12月15日、2002年9月19日、2010年6月12日、2012年1月25日、2012年3月3日、2013年5月21日、2015年9月27日、2019年1月7日、2019年1月11日、2019年1月16日)のレイザー・ディスクの映像作品を彼女は監督したこともあったと記憶する。
基本、素晴らしく本質を掴んでの、人の興味を射抜く仕事をしてきたのだなと、おおいに頷く。数々のポスター、海苔やコーヒーの商品パッケージ・デザイン、装丁……。また、版下や校正や、仕事の手紙(達筆)、ラフのデザイン画などもいろいろ展示されている。すごい、オリジナリティと才能にあふれると思わずにはいられず。そして、その奥には行動力や好奇心が渦巻いていたことも。1970年代のブツは、パルコと角川書店のもが多く展示されている。本が好きじゃないし、カドカワはまがい物のような気がして一切注意を向けたことがなかったが、本当に同社のいろいろな仕事をしていたのだな。パルコもそうだが、角川書店は一時本当にぶいぶい言わせていたという記憶があるが、彼女をアート・ディレクターに起用しなかったら、その栄華もなかったのではないか。そう思わせる個性とパワーを彼女は持つ。
音楽方面では、グラミー賞のデザイン部門を取ったというマイルズ・デイヴィスの『TUTU』(ワーナー・ブラザーズ、1986年)とビューク(2001年12月5日、2008年2月22日)のPV「コクーン」(2002年)は大々的に一画を用い紹介される。デイヴィスの作品はアナログ時代が終わりに近づいてきた時期の仕事だが、これはレコード・ジャケットのサイズがなければいけないものだろう。と思ったら、そのコーナーでは、しょぼい卓上プレイヤーで『TUTU』のレコードをかけていた。
彼女が美術を担当した、三島由紀夫を題材とした1985年日米映画「Mishima: A Life In Four Chapters」(ポール・シュレイダー監督。フランシス・フォード・コッポラ/ジョージ・ルーカス制作総指揮)にも大きく場所が割かれる。これ、遺族の反対にあい、日本では未公開なのか。熱烈な三島ファンの知人がいて、昔あちらで出たVHSを見せてもらったことがあり、よく分からないながらシャープなアート施工がなされた映画という所感を持つが、あらそれにも彼女は絡んでいたのか。「日本公開が叶わなかったこの映画に関わったことで、彼女は日本の狭量さがいやになり、海外に拠点を移した」、というような説明書きもそこには出ていたか。
そして、その後の彼女は映画や舞台やオペラ、大きなイヴェントなどの衣装デザインを柱に活動していったことが示される。グレイス・ジョーンズの2009年ツアーの奇抜な衣装、シルク・ド・ソレイユのそれ、デサント流れのソルトレイク五輪のスイスやカナダの選手やコーチの服、北京オリンピックの閉会式の衣装、などなど。もし、彼女がもっと早くからファッション・デザイナーを志していたらと一瞬考えたが、いろいろな要求や要素を束ね、そこからから圧倒的なアイデアを形にするのに長けていたのかもしれない。
結構、ヴォリュームあり。ぼくは1977年以降に東京に住んでいるが、ある意味、自分の東京史とつながるような部分もあって、時間をかけて見た。そして、視覚〜働きかけの美学の粋に圧倒された。
▶︎過去の、ゲイリー・ピーコック
https://43142.diarynote.jp/200705181807060000/
▶︎過去の、ロナルド・シャノン・ジャクソンの訃報
https://43142.diarynote.jp/201310210730403296/
▶過去の、パット・メセニー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/december1999live.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
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https://43142.diarynote.jp/201901121341307532/
https://43142.diarynote.jp/201901180819479701/
▶過去の、ビューク
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-12.htm
http://43142.diarynote.jp/200802230934310000/
<今日の、あるある>
帰り、最寄りの清澄白河駅の途中にある店で、深川めしを食す。初体験、いっぱいあさりが入っていた。小さめのお椀だと思ったら、けっこう量があったな。店で背後から、知人から声をかけられる。やはり、現代美術館の帰りだという。この後、ギンザ・グラフィック・ギャラリーで開かれている無料の「SURVIVE - EIKO ISHIOKA /石岡瑛子 グラフィックデザインはサバイブできるか」展に一緒に行くことに。銀座着、そしたらこちらの方は前期と後期の狭間の期間で休館なり。残念。近くの7丁目のライオンに寄る。戦前の建物とのこと、天井が高い。その後、友人の意向に添い山野楽器の手間まで行きあんぱんを買う。それ、柔らかくなく(今日のものではないような)、まずかった。
R.I.P.シシリー・タイソン(1924年12月18日年〜2021年1月28日)
2021年1月29日 音楽 96歳、女優のシシリー・タイソンが自然死なさった。あのマイルズ・デイヴィスの『ソーサラー』(コロムビア、1967年)のジャケット・カヴァーのモデルとなり、当時デイヴィスは二股(か、それ以上?)をかけていて、若いベティ・メイブリーと短いながら結婚。その後、再び関係が再燃し、だいたい1981年から88年にかけて、デイヴィスと彼女は結婚していた。音楽家としては普通の人になってしまってはいたが、一応ちゃんと御大が音楽活動をしていた時期に、横にいたことになるのだな。彼女はデイヴィスのコカイン好きを改めさせようと力を尽くしたとも言われる。
ぼくが知るタイソンはデイヴィスさんと重なる項目だけだが、改めて記事をあたると女優としてのキャリアもしっかり持つというか、スターだった。アンティル諸島出身の両親を持ち、高校卒業後は赤十字社で働いたという記載もある。17歳のときに娘を産み、18歳で結婚もした。ファッション・モデルとして芸能界に入りし、エボニー誌などを飾る。その後、役者としてTV、舞台、映画などに出るようになり、1970年代にアカデミー賞の女優助演賞ノミネートやエミー賞を受けるなどキャリアのピークを迎えたよう。
彼女はブラックスプロイテーション映画への出演を拒み、売春婦など黒人女性を蔑む役につくのも拒否したという。そんな彼女は、1973年設立のThe Black Filmmakers Hall of Fameに1977年に殿堂入りもしている。そんな彼女は歳をとっても活動、2013年には舞台でトニー賞を受賞。2016年にはthe Presidential Medal of Freedom賞をオバマ大統領から受け、また、2018年にはアフリカ系女性初のオスカー名誉賞も受賞した。2020年のネットフリックス映画にも出演、自叙伝「Just As I Am」は1月26日に出版されたそう。
<ここのところの、混濁>
1月だという意識はばっちりあったものの、なぜか今月は28日までだから、受けた仕事はその日程に合わせてちゃんと仕上げなきゃと、この数日間すこし気がせいていた。しかし、1月だもん当然31日まであるから、もうスケジュール的には安泰ぢゃんとなった。過剰に入っているわけではないが、少し締め切りがたて込むと、小心者なのでそうなってしまった? このおり、万が一で床に伏せても問題ないように、平常時以上に早めに原稿を仕上げているというところはあるものの。
この10ヶ月、ここには訃報ばかり書いている。ライヴに行けなくなっており、しょうがないのでミュージシャンたちの訃報はできる限り書きとめようとずうっとしているわけだが、さすが飽きた。というか、そればかりだと、悲しすぎる。
ぼくが知るタイソンはデイヴィスさんと重なる項目だけだが、改めて記事をあたると女優としてのキャリアもしっかり持つというか、スターだった。アンティル諸島出身の両親を持ち、高校卒業後は赤十字社で働いたという記載もある。17歳のときに娘を産み、18歳で結婚もした。ファッション・モデルとして芸能界に入りし、エボニー誌などを飾る。その後、役者としてTV、舞台、映画などに出るようになり、1970年代にアカデミー賞の女優助演賞ノミネートやエミー賞を受けるなどキャリアのピークを迎えたよう。
彼女はブラックスプロイテーション映画への出演を拒み、売春婦など黒人女性を蔑む役につくのも拒否したという。そんな彼女は、1973年設立のThe Black Filmmakers Hall of Fameに1977年に殿堂入りもしている。そんな彼女は歳をとっても活動、2013年には舞台でトニー賞を受賞。2016年にはthe Presidential Medal of Freedom賞をオバマ大統領から受け、また、2018年にはアフリカ系女性初のオスカー名誉賞も受賞した。2020年のネットフリックス映画にも出演、自叙伝「Just As I Am」は1月26日に出版されたそう。
<ここのところの、混濁>
1月だという意識はばっちりあったものの、なぜか今月は28日までだから、受けた仕事はその日程に合わせてちゃんと仕上げなきゃと、この数日間すこし気がせいていた。しかし、1月だもん当然31日まであるから、もうスケジュール的には安泰ぢゃんとなった。過剰に入っているわけではないが、少し締め切りがたて込むと、小心者なのでそうなってしまった? このおり、万が一で床に伏せても問題ないように、平常時以上に早めに原稿を仕上げているというところはあるものの。
この10ヶ月、ここには訃報ばかり書いている。ライヴに行けなくなっており、しょうがないのでミュージシャンたちの訃報はできる限り書きとめようとずうっとしているわけだが、さすが飽きた。というか、そればかりだと、悲しすぎる。