プラッサオンゼ

2019年11月30日 音楽
 ブラジル音楽/料理を日本に広く知らせた、北青山にある、1981年開店のリジェンダリーなお店の最終日。関係者が集うパーティが、通常営業日終えて行われた。夕方から、延々。ゆかりの出演者が次々に演奏し、歌う。その筋の方々、大集合。すごいな。ステージの流れ、スムースで驚く。ともあれ、こんなことからも、あんなことからも、この店の積み重ねてきたものの大きさを本当に感じずにいられなかった。おつかれさまでした。

 以下は、閉店に際して編まれた冊子に寄せた、ぼくの文章なり。

 1986年からフリーランスで文章を書いているが、多分ここに出てくる人の中で一番ブラジル音楽についての造詣が浅いのではないか。朝日新聞の浅田英了さんの旅先機中の逝去を報じる社会面記事を見て、ぼくはちゃんとプラッサオンゼのことを認知したのではないか。当然、英了さんとはお会いしたことはない。プラッサオンゼに顔を出すようになったのは、ここ10年強のこと。それは、いつのまにかクラウジアさんと花梨ちゃんの知遇を得たからだった。そう、ぼくは音楽という項目を超えたところで、プラッサオンゼとの付き合いを持ち始めた。たとえば記憶に残っているのは、311の直後のこと。多くのライヴ・ハウスが休むなか、プラッサオンゼは自然体で営業をしていた。そんなおりサクっとお店に出向き、クラウジアと会話を交わしたときの安堵感は忘れられない。結局、ぼくはお2人の大きい人間的な思いやりの持ちように触れ、遠回しにブラジルの機微を受けていたのではないかな。バカみたいにライヴに行っているぼくだが、音楽以上に人に会いに行く唯一のライヴの場がプラッサオンゼだった。階段を降りた先にある暖色の壁を持つインティメイトな空間のありがたさは、ずっとぼくのなかに宿り続ける。

(注:浅田英了さんはプラッサオンゼ設立者で、売れっ子のカメラマンだった。奥様のクラウジアさんと娘の花梨ちゃんが、後を引き継いでいた)