スペインでは、レストランは遅めのランチ営業のあと、夜は8時半にならないと店があかない。確実に東京より2時間は遅く、この国の夜時間は進められる。「今日はスペシャル・デイだからレストランはやっているよ」とホテルの人は言っていたとおり、夕方近くにもレストランはやっていて、ホテル・マンおすすめのお店で魚介モノと白ワインを注文。もう、お店じゅう(それは、街中も同様)、子供を連れた家族だらけ。スペインには少子化の心配はないはずと、ぼくには思えた。そして、これぞセビーリャといった思いを抱かせる迷路のようなサンタクルス街をバール堪能込みでたっぷり探索。その後、ホテルに戻りさらに一枚着込み、20時15分ぐらいに地元サッカー・チームのレアル・ベティスのホーム・スタジアムに向かう。タクシーの運ちゃんに、「レアル・ベティス」とだけ言ったら(だって、試合やスタジアムのスペイン語を知らなかったから)、ウィンクを返し、問題なく連れていってくれる。ホテルから、チップ込みで7ユーロ。少し、はずんだ。

 セビーリャは二つのリーガ・エスパニョーラのチームを持つ。同リーグの上位にいるセビーリャと、05〜06年シーズン(UEFAチャンピオンズ・リーグの出場権を得て、グループ・リーグを突破した)以後は下位に低迷しているレアル・ベティス(昨年で設立100年となった)。前者は洗練されてて、労働者に人気のレアル・ベティスのカラーは粗野などと、両チームは対比的に語られたりもする。

 5万人強収容のスタジアム(マヌエル・ルイス・デ・ロペーラというのが、正式名称)は大通りに面した整った住宅地の一角にある。試合開始は21時。まずは、チケット売り場の場所を探す。チケットと英語で言っても通じないが、チケットの形を両手で作ると分ってもらえる。正面側と反対の所に、オフィシャル・グッズ売り場と並んでチケット売り場はあった。まずチケットを入手せねばと列に並ぼうとすると、おじいちゃんがスペイン語で話かけてくる。何を言っているかまったく分らないが、チケットを斡旋しようとしているのはすぐに了解。彼はクレジット・カード大の“ベティス・カード”を見せてきて、それはどうやら年間シートの会員証のよう。携帯電話に数字を打ち込ませると、40ユーロの席を30ユーロでいいと言ってきているようだ。席の位置にもよるが、高いわけではないと判断するものの、ぼくは20と打ち込みかえす。少しやりとり(と言えるものかどうか、疑わしいが)したあとに交渉成立。こういう、入場の仕方も面白い。人ごみのなか、ついておいでと言っているだろう彼と一緒に該当のゲートに向かう。ありゃ、グッズ・ショップを覗こうと思ったのに……。

 持ち物検査などは一切ないが、チケットのチェックはけっこう厳重。じいさんは件の磁気カードをぼくにも渡し、それを見せて最初の入り口チェックを入る。で、次のチェックの所ではそのカードを機械に差してゲートを通り(けっこう、モダンだなと思う。紙のチケットも差し込んでバーコードを読み取っていたようだ。それだけ、かつては不正入場者がいたのだろう)階段を上ると、すぐに客席があり、その先には綺麗なピッチが広がっている。で、そこでは両チームがのんびりアップをしている。じいさんはカード返却を求めてきて、この辺どこでもいいからと言って(いたのではないか?)、じゃあねといった感じで去る。一瞬、あれれと思うが、じいさんの隣で見るよりは気が楽だし、気兼ねせず自由に動けるのでそのほうがOK。

 スタジアム(ピッチと観客席はとても隣接)はそこそこは新しく、明るく、昨年行ったFCバルセロナのカンプノウ(2007年10月28日)よりもぼくは好印象を持つ。とはいえ、椅子は小振りで汚れ気味、席と席の列配置もミニマムで、人の行き来が大変そう。その点については大バツ。一階席(他の階には行けないようになっていた)の後ろの柵に立ち寄りかかって見ようとしている人もいるので、ぼくもそれに倣う。試合を俯瞰的に捉えることはかなわないが、見やすい。ピッチを挟んだ反対側のメイン・スタンドはけっこう空席があったが、横側とこちら側の見える部分は相当な入りだ。

 昨年のカンプノウと同様にアウェイ席はなし。全面的にレアル・ベティスのサポーターがピッチを囲むという感じ。驚いたのは、一階部の前の席はもろにグラウンド・レヴェルにあり、しかもピッチと客席側の仕切りがとっても低いこと。ピッチに乱入しようとすれば、誰でも即できちゃうぞ。で、レアル・ベティスのサポーターは過激でその暴走によりペナルティで無観客試合を命じられたなんてニュースが届いたりもするが、その手の熱いエンスージアストは片側のゴール裏に集合している(さすが、そこにはビッチとの境に網のようなものがあった)。そこでは、旗群が揺られされるとともに、爆発音が聞こえたり、発煙筒が焚かれ煙がもうもうとなっていたり赤い閃光が発されていたりする。おー、その様は本場のスタジアムに来ているという気になれるゾ。だが、その一角いがいはみんな穏健に、暖かく応援するという感じ(それは終始、感じた)。いいサポーターたちじゃないか&地方のチームはいいナ。試合開始前にはクラブの曲が流され、そのときはみんな立って、クラブの横長のフラッグだかマフラーだか(レアル・ベティスのカラーはブライトな緑色)を両手で広げて宙にかざす。支持者であることを誇り、チームを祝う。うわー、とても素敵な光景。

 対戦相手は、リーグ順位の中位にいるデポルティーボ・ラ・コルーニャ。両チームともぼくが注目する選手はいない(いや、そんなに詳しくないんですけどね)が、それなりには楽しめる試合。ホームのレアル・ベティスが押し気味に進めたが、前半はO対0で終了する。

 ハーフタイムのとき、英語で話しかけてきた青年と少し話す。大学生だそうな彼は、せっかく見にきてくれたのに今はレアル・ベティスが調子悪くて申し訳ない、みたいなことを言う。日本のプロ・リーグのことも聞いてきたが、安永や城や大久保らスペインのチームに入ったことがある日本人選手のことは知らなかった。そういえば、前々日にはフランスのナイーヴ・レーベルの青年とサッカーの話をしたな。彼はリヨン出身で、リヨンの熱心な応援者とか。サンテティエンヌとはホームが近くて、その対戦のときは盛り上がるなんて事もいっていたが、今年からサンテティエンヌに所属する松井大輔のことは知らなかった。ま、なんにせよ、あまりお互いの事を知らなくてもサッカーや音楽の話題はコミュニケーションを多分に円滑にする。

 後半も15分までは0対0。その時点で、後ろ髪はひかれたが、退出する事とする。試合後はタクシーは拾えないし、バスも運行が終わっていて、旅行者は大変な思いをするという話を聞いていて、疲れも感じていたので、ヘタレになりました。ちょうど外に出たとき、嬌声がゴワーンと聞こえてきて、点が入ったとわかる。そのトーンが明るくないので、デポルティーボ・ラ・コル−ニャの得点であることも。

 道に出ると、なるほどタクシーは1台もとまっていないし、通りもしない。こりゃ、どうしたものか。とりあえず、バス停の前まで行き、思案していると、空のバスが来る。始発のようだが、行き先が分らない。運転手にホテルでもらった地図を見せると、近くのバス・ターミナルには行くようなのでホっ。1,5ユーロ。偶然、ホテル横のバス停で下車できてまたラッキー。

 深夜にサッカーTV番組を見たらびっくり。その後、レアル・ベティスは2点も入れられ、0-3でぼろ負けしちゃっている。あのゴール裏の熱心なサポーターたちはどうなったのか。ぼくが好印象を持った普通のファンたちはそのまま穏健だったのか。ちょっと確認したかったかも。3点目を入れられた時点で帰路につく人は少なくなかったんじゃないだろうか。

 代官山・ユニット。英ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌が推しているそうな、スウェーデンの新進5人組女性(まだ10代という触れ込みだが、遠目にはそうは見えなかったので、ガールズという言葉を使わないでおく)バンド。とても笑顔で、中庸なポップ・ロックを送り出す。が、演奏、楽曲、歌(誰かに歌い方が似ていると感じたが、その名前が思い出せない)、すべてが程々というか、何かが欠けているというか、少しお粗末。女性がやっているからこそ、なりたつバンド。まあ、バングルスの「ウォーク・ライク・アン・エジプシャン」のようなくだらなくも楽しいヒット曲が出れば、あれれと人気を獲得する可能性もなくはないだろうけど。でも、世には他にもっとたくさん素敵なガールズ・バンドがいることを祈りたい。




 デュオ・アルバムを作り来日公演をしてもいる(2005年2月1日)、フィドルのクリス・スタウトとスコィッシュ・ハープのカトリオーナ・マッケイもメンバーである7人組。今回が2度目の来日となるが、ぼくは初めて見る。渋谷・クラブクアトロ。

 ほう、こりゃこりゃ。フロントにフィドル奏者がずらり4人。そして、適切なバッキング音にのって、彼らは嬉々としてフィドル音を重ね合う。なんでも、彼らが生まれ育ったスコットランドに属するシェトランド諸島はフィドル奏者人口比率がやたら高く、それを背景とするグループのようだが、なんか日常発という風情がうれしいなあ。とともに、その“日常”はあんましフィドル奏者が回りにおらずケルト文化も身近じゃない所にいるぼくにとってはフレッシュな誘いを持つものでもあるのだ。

 2部構成にて、たっぷりパフォーマンス。今回、一緒にレコーディングするという日本人デュオのハンバート・ハンバートが1部(最初に単独でパフォーム)、2部、アンコールに少しづつ出てきて、無理なく表現を重ねる。現在、フローという別ユニットにより尖ったニュー・トラッド・ミュージックを鋭意作ろうとしているマッケイ(彼女とラップトップ/電気効果担当者アリステイアー・マクドナルドとのデュオ・ユニットであるストレンジ・レインボウの08年アルバム『invisible from land and sea』はメロディなしのアヴァンギャルド作品)はハープより、キーボードやピアノを演奏。伴奏陣は他に、ギターと電気ベース。マッケイにもしモグワイ(2006年11月11日、他)のレコーディングに参加してくれと言われたらと問うと、ニコっと「うれしいっ」。

 今日からとっても冬、、、、、、、。(水曜まで)


ルーファス

2008年11月10日 音楽
 ルーファスは70年ごろシカゴで組まれたファンキー・バンドで、17歳の不良娘チャカ・カーン(2008年6月5日)がリード・ヴォーカルで入り、彼女の喉力で人気を得て、ルーファス・フューチャリング・チャカ・カーン、チャカ・カーン&ルーファスと改名していき、83年にカーンは完全にルーファスを離れている。

 今回のルーファス名義の公演はトニー・メイデン(ギター、ヴォーカル。2008年6月5日)とケヴィン・マーフィー(キーボード)という重鎮メンバーに、いろんな実力者たちを噛み合わせた編成によるもの。女性ヴォーカル4人、キーボード3人、ギター2人、ベース、ドラム、パーカッションという大掛かり(?)な編成で、面々はパフォーマンスした。が、これがけっこう謎。キーボードやギターの人数こんなにいらないだろ、というサウンド(別に、それが悪いわけではない)だったから。ソロをとったりすると、みんな上手い。リズム隊もいい感じ(それほど目立たなかった打楽器は西海岸のファースト・コールのルイス・コンテ)だし、日本人らしい女性サイド・キーボーディストはウェイン・ショーターの『アトランティス』(コロムビア、86年)で弾いていたりするらしい。で、謎をより増幅させるのは、キーボードやいい感じのトロンボーン、そしてベース(一曲だけ手にして、その時はツイン・ベースとなる。それ、まったく意味がなかった)を手にし、いっぱい嬉しそうにアクションを取ったりもする白人青年ブライアン・カルバートソンの存在。じつは彼、アトランティックやGRPからリーダー作(基本、スムース・ジャズ系だと思う)を10枚ぐらい出しているエスタブリッシュされた人物(一番新しいのは、ブーツィ・コリンズやレデシーやラリー・グラハムやミュージック・ソウルチャイルドらをフィーチャーしている)。……でも、そうした定石から外れるステージ運びはルーファスがロック・バンド派生の型にはまらない、ある意味オルタナティヴな成り立ちやスタンスを持つ白人主体ではじまったソウル・グループであること示唆していた? なーんて。

 ショウはトニー・メイデンが中心になって進められ、曲により3人のビッグ・ママ体型のシンガーたちが一人づつフィーチャーされる。彼女たちは常にステージにいて、バック・コーラスも取る。うち、一人はソロ・キャリアも持つ(インコグニートの花形シンガーだったこともありますね)メイサ・リーク。また、数曲では若いシンガーもステージに出てきてリードをとったが、それはメイデンの娘さん。やっぱ、一緒にリフレインを口ずさみたくなる曲も少なくないな。もりだくさん。結局、初日にもかかわらず、彼らは2時間近く実演したはずだ。ルーファス表現をネタとする、楽しめる、お得な末広がりなソウル・ショウでした。南青山・ブルーノート東京。




 カナダ音楽業界代表団アジアミッション2008という名目のもと、カナダのインディ・レコード会社関連者が大挙来日し大使館も絡んだ商談会をもよおしており、その一環としてのショーケース・ライヴ。4組が出演(みんな30分強ぐらいのパフォーマンスだったか)、渋谷・デュオ。

 まず、最初に登場したのは、在トロントのウッドハンズ。主に歌うキーボード担当者(据え置きとショルダーを使い分ける)とプリセット音にうまく合わせるドラマー(一部、ファルセットで歌ったりもする)によるエレクトロ・ポップ・ユニット。新しさは何もないがいい奴らぽく(それは、彼らに限った事ではないが)、親しみやすい。ドラマーがけっこう上手なので安心して聞いていられる。

 2番目は、オンタリオ州バーリントン出身の6人組パンク・ポップ・バンドのザ・セイント・アルヴィア・カーテル。メンバーのなかにはきっとがジョー・ストラマー(2001年11月2日、他)を好きなんだろうなと思わす髪型の人もいるが、リード・ヴォーカルの風体にはうひゃ。お腹ぷっくりの髭小太り君でそれが目立つニットのベストにハンチングという出で立ち。まだ30才ぐらいかもしれないが、愛想良くもおっさんぽい。ま、それもバンドの個性には繋がるか。和気あいあい、僕たちの意気を出せるビート・ポップを。チームワーク良さそう。

 続いては、79年米国生まれでカナダ育ちのパトリック・ワトソン(ヴォーカル、キーボード)率いる、モントリオールをベースとする4人組(バンド名もパトリック・ワトソン)が登場。ちょっと期待だなと事前に思っていたのだが、こちらの想像をはるかに超える好逸材/好パフォーマンスでおおいにびっくり。単独の公演だったら、間違いなく08年のベスト5に入る公演になったろうと、ぼくは信じる。好きな人はニック・ドレイク、フィリップ・グラス、ジェフ・バックリー、ビョーク、ピンク・フロイド、ジョン・コルトレーン、デイヴィッド・リンチ等だそうだが、なるほど。間違いなく言えるのは、ワトソンはストーリーテリングに長けたひっかかりのある秀でたピアノ弾き語りのシンガー・ソングライターであり、それを適切な回路で出し切れる能力を持っていること。サポートの3人もワトソンの世界を汲み取り、刺激と味を併せ持つサウンド(ギター奏者のあっち側をなぞるような演奏もとても魅力的だった)をだしていて、その事にも多大に感心。やるじゃないか、凄いじゃないか! ちょい斜に構えた情緒も持つのだが、一方ではオーディエンスとまっすぐに向き合おうとしたりもし、最後の曲では生ギターを持つギター奏者とステージを降り、フロア中央でアンプラグドでパフォーマンスしたりも。才と技量と心意気、重なる。あ、それと一部、ピアノを基調とする場合のプラッシュ(2002年6月23日)のような暖簾に腕押し的現代性もぼくは覚えたかな。とにかく、パトリック・ワトソンはA級、本物だ! 

 そして、最後はすっかり日本でもおなじみの存在になりつつあるだろう、トロントのベドウィン・サウンド・クラッシュ。ぼくはこの夏の来日パフォーマンス(2008年8月10日)を見てその成長ぶりにおおきく頷いたのだが、最初の来日時(2007年1月19日)のときからみると、本当に存在感や娯楽性を持つようになったよな。3曲目では、先に出たザ・セイント・アルヴィア・カーテルのメンバーたちがでてきて、コーラスをつける。おいら大きなファミリー、みんなで日本の聞き手を魅了したいのサ、という気持ちがあふれた。最後はちと尻切れトンボのような終わり方で、ずっこけた感じを得た。

 会場には、やってきたカナダ人業界人もたくさん。なんと先のセビーリャのWOMEXでブラック・ロック調からブラジル的なのりまでをトリオで横切るパフォーマンスを見て気にいったアレックス・キューバもいて(頭がアフロなんで目立つ)、各パフォーマンスを熱心に見ていた。なんでキューバからカナダに移ったのと問うと、「女の子を見つけたかったから」。キューバは同行していたマネイジャーを紹介してくれたが、彼は片仮名の名刺を持っていた。実のある、商談がまとまりますように。



 


 ノルウェイ発の電気効果経由の現代ジャズ表現がとんでもなくイケてることを、このノルウェイ人トランペット奏者(2001年9月28日、2005年8月20日)がECM発の『クメール』(97年)で鮮やかに宣言したのはもう10年以上も前のこと。その後、ブッゲ・ベッセルトフト(2008年8月21日)のジャズランド勢の動き+その他もろもろが紹介され、人口500万人にも満たない同国は今もっとも信頼するべきに足る現代ジャズ創出国であることを強く印象づけているわけだ。もちろん、モルヴェルも自分の求める“電化ジャズ”を飄々と世に送り続けている。

 自己グループとしては久しぶりとなる来日公演はギター、電気ベース、ドラムを擁してのもの。うち、ギタリストは昔から絡んでいるアイヴィン・オールセット(2003年6月28日)で、彼はギターとともにPCを前にする。PCを扱うのはモルヴィルも同様(彼が主となるPC音を扱っていたはず)で、トランペット音は電気エフェクトを通してのもの。静かに吹いているはずなのに、2曲目には彼、そうとう汗をかいていた。やっぱ、細心の心配りのもと、身体つかって吹いているんだな。

 音の感じ、方向性としては新味があるわけではないが、同じ共通意識を持つ奏者たちの演奏〜インタープレイはかなり質があるもので、にんまり。いい感じだ。演奏時間はきっちり60分、アンコールはなし。すぐに場内は明るくならなかったし、アンコールに出る準備はあったのだが、拍手が地味で出そびれたといった感じかも。もう一曲、ライヴならではのトランシーなというか、ヴァイタルに丁々発止する曲を聞きたかったと、ぼくは思った。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト。


 ブルース/ブルース・ギター愛を糧に、ハネたキャラクターとともに、いろいろと広がりを持つヒューマンなオーガニック表現を聞かせる女性シンガー/ギタリスト(2007年7月23日)。なんて、淡々と書いているけど、相当に笑いつつ、感激したなあ。音楽としてかけがえのない何かにぼくはアワワとなった。よって、週明けに出すCB誌の年間ベスト・ソングに彼女の曲を入れることに決める。

 渋谷・クラブクアトロ。この晩だけ、品揃えが貧しいバーは日本酒と焼酎も販売(が、途中で売り切れ。しくしく)。2部構成にて、ゲストをまじえ百花繚乱。彼女、一部のアタマでギターのネックを折ってしまい当初はヘコんでいたようだが、それもブルーズ……。ブルース・ハープのコテツが入ったときは比較的ストレートにブルースをやり、ハナレグミとは姉妹(?)のように仲がいいんだな。ホーンは四管でうち梅津和時(2001年9月21日、他)と片山広明(2007年6月13日、他)を含む。って、それは忌野清志郎(2005年7月29日、他)のサポートの顔ぶれと重なるか。そのせいもあるかもしれないが、長見が米国黒人音楽への耽溺をもとに独自の見事に味わい深いキャラクター・ミュージックをばっさり作り上げる様はまさしく忌野の“美しい回路”と重ねていいものではないか。で、マダムはもっと大きな支持を得てもいいじゃんと思わずにはいられず。フジ・ロックにもちゃんとした扱いで出なきゃ嘘だア。また、さらには、この晩の編成なら夏の欧州サマー・フェス・サーキットに出ても大受けするはずとも、ぼくは思わずにはいられなかった。



 丸の内・コットンクラブ(ファースト・ショウ)。ウェスト・コースト在住の、通受けシンガー/キーボード奏者(2007年12月28日、他)の約1年ぶりの来日公演。本人、一体どこで購入したのと思ってしまう白地に派手な模様の入ったパーカーとTシャツを身につけていたが、ありゃ音楽性とは合わないナ。と、感じた人は少なくないはず。そろそろ、そういうほうまで留意したパフォーマンスを心がけてもいいんじゃないか。サポートは電気ベースとドラマー。二人は昨年と同じ人なのかな。ただ、今回は曲によっては鍵盤ベースをひいたり、ドラマーはマックとつながったパッドを指でちまちま叩いたり(けっこう、ドラムっぽい音をそれで出していた)も。

 マッコムの回りには、グランド・ピアノとフェンダー・ローズとウーリッツァーの三種の鍵盤が置かれる。オープナーはグランド・ピアノの前に座って、インスト曲をうれしそうにかます。ピアノ・ソロなんか延々取らずもっと歌えというのは、彼についての衆目の一致した意見だが、その様に触れて、ピアノ・ソロは日本に来ると余計にとってしまうんだろうなーと、ハタと気付く。だって、ちゃんと状態のいいピアノを用意してもらえる事はそんなに多くないだろう。そりゃ、目の前に普段あまり弾く機会のない立派なピアノがあったら、プレイヤーの性として弾きたくなるよな。「俺たちが回るようなクラブはどこに行っても、まっとうなピアノを置いていない。だから仕方なく、俺は持ち運べるキーボードを弾くようになったわけだ。それが、俺たちがピアノ・トリオからキーボード・トリオに移行した理由だね」という、MMWのジョン・メデスキー(2007年6月13日、他)の大昔の発言を思い出したりして。

 2曲目以降はグランド・ピアノに触ることもなく、全曲ヴォーカル・ナンバーを披露。もちろんソロも取るが、もしかして、これまでで一番歌が占める割合が高いショウだったかも。やっぱり、ファンの声は届いているんでしょうか。やはり、基本の味は抜群に良い。親しみやすいカヴァーとかあると、もっと良かったかも。

 続いて、南青山・ブルーノートで、イタリアの30代半ばぐらいの(わりかし、みんなルックスは整っているか)奏者たちが集まったハイ・ファイヴ・クインテットを見る。新作はブルーノート発で、まっとうなハード・バップを展開。とくにトランペットのファブリッツィオ・ボッソはピカ一の欧州若手トランぺッターとして評価が高いわけだが(彼は今様クラブ系ジャズにも関与)、なるほど早めの曲でのプレイはとくに引き込まれるナ。ただ、アレっと思ったのは音色が少し鼻づまり気味のそれだったこと。もっと、ブライトな音色だったら、ぼくはもっと感心したろう。トータルな行き方としてはもう少し破綻やエッジィな局面を埋め込んでほしいと思わなくはないが、ジャズ愛は溢れていたし、ジャズ研の学生が見たらジャズはやっぱ二管の正調クインテットにとどめを指す、なんて思いを新たにしたのではないか。


ザ・フー

2008年11月17日 音楽
 ふはあ。過剰に期待してはいなかったが、良かったなー。九段下・日本武道館。

 ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ(2003年3月15日)に続く存在という形容もそれほど外れてはいないだろう、このヴェテランUKロック・バンドは何年か前の通称ウドー・フェスで初来日を果たしたが、単独の日本ツアーが組まれるのは初めてとなる。60年代〜70年代(82年に解散。その後、何度も再結成ツアーをし、06年に24年ぶりの新作をリリース。そのときには、オリジナル・メンバー四人中二人が亡くなっていた)には人気が低くて来日の話がとんとなかった孤高の(?)バンドでありますね。ふーむ、月日の流れとは興味深い。洋楽界不況と言われて久しいが、大御所には優しい時代なのかもしれない。入り口で数年ぶりに会った業界重鎮と話す。「いやー、この前の彼らの映画(「アメイジング・ストーリー」;2008年9月29日)が良かったでしょ。あれを見たら、来なきゃと思った」、そう。洋楽界が一番伸び盛りのころを経験し、美味しい目にも多数あっているはずだが、彼も全盛期のザ・フーは見た事がないそうだ。他にも、普段会わない同業者をいろいろ見かける。
 
 ともに太めになった、ロジャー・ダルトリー(「フー・アー・ユー」他、何曲かではギターも持った)とピート・タウンゼント(なんか、黒いスーツや帽子、サングラスという出で立ちのためだろう、最初エルヴィス・コステロみたいに見えた)は二人とも威風堂々。ぼくはダルトリーの歌を上手いと思ったことがない(心意気、気持ちはありあまるほど評価する)が、十二分に声は出ていた。あの喉に負担になりそうな歌い方で二時間近くちゃんと歌ったのだから、凄い。連日見ている人によると、この日は調子が良かったらしい。あまり単音弾きやブルーノートに頼らない卓越したギター奏法(腕をぐるぐる回す、カッティングを含めて)を見せるタウンゼントの個性にもため息。現役感もあったし、やっぱこの人たちすげえと素直に思っちゃったナ。とともに、彼らの出す声や音を聞きながら、かつて本欄で書いた事があったが、他の英国ビート・バンド勢と違い米国黒人流れの持ち味がとても低い、珍しい人たちであることにも頷く。その事実は、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズに嵌まり、その奥にあるものとして黒人音楽も愛好するようになったという話はザラでも、<ザ・フー大好き→黒人音楽も聞くように>という話はあまり聞かない事でも明らかだ。

 二人をサポートするのは、ピートの弟のサイモン・タウンゼント(補助ギター)、百戦錬磨の技巧派ピノ・パラディーノ(ベース。2006年12月22日)、ハマった叩き口がうれしいザック・スターキー(ドラム。もち、リンゴ・スターの息子)、後期フリーにも在籍していたジョン“ラビット”バンドリック(70年代前半の英国ロック界のファースト・コールのキーボード奏者。スキンヘッドになっていた)の面々。その総体サウンドの聞き味は良質、まさにちゃんと張りと輝きあるバンドの音になっていて、にっこり。<等身大のリアル感>〜おおバンドが演奏しているゾという感触にかけては、アリーナ・クラスのバンドとしてはまこと上位に位置するものではないだろうか。

 だからこそ、残念だと思ったのは、ステージ後ろのヴィジョン(ステージ美術はいたって簡素なものでした)に終始映し出された映像。曲趣に合わせてと言えるのかもしれないが、昔の関連映像なども映しだされたのには閉口。そりゃ、ノスタルジックで甘酸っぱい思いを誘発する。それ、40年を超えるキャリアをもつ彼らには許される方策かもしれない。だが、現役感のある彼らのパフォーマンスには過去の関連映像は余計なものではなかったか。それよりも、映すなら目の前にいる今の彼らの勇士ではなかったろうか。ぼく、途中で彼らの姿を追うのに夢中になって、映像の存在を忘れかけたりもしていたのだけど。

 楽曲はほとんど、解散前の曲から。マニアの間では本編最後に「ネイキッド・アイ」を本来の最終曲「マイ・ジェネレーション」に続けて披露したのがレアでうひゃひゃとなっているようだ。アンコールは映画「トミー」収録曲を4〜5曲続け、最後はデュオで客と向かい合い(二人で、06年作のクローザー「ティー&シアター」を披露)、幕。……彼らはその名声になんら負けない、立派なショウを見せてくれたとは間違いなく言える。かなり高まっていた(と、思われる。この晩はもう満員でした)プレミア感、なんら裏切らず。いやー、純ロックってやっぱいいナとも素直に思えました。


 


 丸の内・コットンクラブ。ファースト・ショウ、見事にフル・ハウス。

 テレンス・ブランチャード(2002年7月3日、2005年8月21日)やエリック・ハーランド(2005年5月11日、2007年10月3日、2008年4月6日)のグループに関与してきた、25歳になった西海岸生まれ在NYのジャズ・ピアニスト(2002年7月3日、2005年8月21日)。子供のころの家族旅行を含め、5度目の来日とか。14歳で飛び級で大学に入った事に示される(音楽だけでなく、そのころは数学やコンピューターも専攻していたそうな)ように、かつては神童でならした御仁のよう。今年、ブルーノートからリーダー作『インビジブル・シネマ』を出したが、それ以前にも自主制作的に4枚もアルバムを出している。が、それらはないものとして地中の奥深くに埋めたいそうだが。と言いつつ、そういうことも素直にインタヴューしたらしゃべる。音楽を聞くとどこか屈折してそうだが、実際に接すると普通のいい奴だ。

 管付き表現も好きとのことだが、そのブルーノート盤と同じ、ギター付きカルテットにてパフォーマンス。パット・メセニーっぽいとも思わせるギタリストのマイク・モレーノはヒューストン出身で、ジェイソン・モラン(2007年1月16、17日)やロバート・グラスパー(2007年10月3日)や前出のエリック・ハーランドやビヨンセ(2001年6月25日、2006年9月4日)と同じ芸術高校の出身。ベースのマット・ペンマン(2005年5月10日)はマデリン・ペルー他のサポートで来た事がある。ドラムのヨッケン・リュッカートはテキサス育ちのノラ・ジョーンズがNYに出て最初に入ったバンドであるワックス・ポエティクスで叩いていた奏者。同行していないハーランド以外はCDと同様の顔ぶれ、彼らはパークスの多分にセンチなストーリー性を持つ曲に粛々と対応する。

 レディオヘッド(2001年10月4日、2004年4月18日、2008年10月4日)大好きトランペッターであるクリスチャン・スコット(2008年7月23日、同9月10日)のレコーディングにも関与するパークスはハイティーンになるまであまりポップ・ミュージックに親しむことはなかったというが、現在は良く聞いていて、とくにレディオヘッドやブロンド・レッドヘッド(2002年1月27日)は大のお気に入りであるそう。面々はプログレッシヴ・ロックならぬプログレッシヴ・ジャズとも少し言いたくなる構成に凝ったパークス曲をけっこう長目(平均15分近く?)にやっていた。アンコールはモンクの「ラウンド・ミットナイト」を取り上げる。本編でも、1曲、スタンダードをやったかな。

 年齢よりも少し老けて見えるパークス君はマモル・コバヤカワという年配の日本人カメラマンとアパートをシェアしていて(パークスのそれなりに雰囲気のあるCDカヴァー写真は、その日本人が撮っている)、日本についての知識や興味もけっこう持っているよう(日本酒や焼酎も嗜むみたい)。公演終了後に、彼は2週間ばかり滞日し、仙台とか地方にも行くようだ。

<付録>
「ブルーノートから話が持ちかけられたときは、そりゃうれしかった。ブルーノートのレコードを聞いて育ったし、それで演奏できるようになったから。でも、レコーディング中はブルーノートから出ることは考えないようにした。だって、僕のもそのカタログに加わると思うと怖くなっちゃうから」とも言うパークスの、”僕の大好きなブルーノート作品三選”である。とても、共通性のあるセレクションなり……。

○ハービー・ハンコック/エンピリアン・アイルズ(65年)
○サム・リヴァース/コントアーズ(66年)
○マッコイ・タイナー/ザ・リアル・マッコイ(67年)


 昼間、ホテルでブッカー・T&ザ・MGズのドナルド・ダック・ダン(この日、彼は67歳の誕生日。みんなでハッピー・バースデイの歌を歌ってあげる)にインタヴュー。興味深い話をいろいろ聞く。99年以降はフロリダ州在住で、彼はフツーに右利きのベースの持ち方をするが、実は左利き、だそう。文字も左手で書く。左耳には補聴器、左の小指と右手の中指は少し曲がっていて動かない。叩いても、なんら感じないそう。足の一部の指もそうなってしまっていたりもし、本人は年齢のせいかと思っていたら、なんとか症とかいうアイリッシュ系の人が生まれつき持ちがちな病症であるのだとか。そういうのも、包み隠さずすらすら話してくれる。

 と、書くとなんかボロボロのようだが、円満で可愛らしく、ビールをぐびり。腕にはロレックス。好漢で、お調子者のところも。クロッパーやブッカー・Tは奥さん同伴だそうだが、彼は単身で来日とか。夫婦仲は円満のようでもあり、一人で来て羽を伸ばしているといった感じかな。やっぱり、リジェンド。久しぶりに、一緒に写真を撮りたくなったが、プロ意識で自重する。

 そして、家に戻り車をおき、美味しい食べ物と飲み物を補給した後に、“Soul Revew〜魂のゆくえ”という出し物をやっている渋谷・アックスに行く。会場入りすると、多和田えみという小柄な歌手が管付きの男女混合バンドを率いてパフォーマンスしている。R&Bプラスαな日本語の曲を丁寧に歌う。とっても素直、健やかそうな人。「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」(スライ)と「ジョイ・トゥ・ザ・ワールド」(スリー・ドッグ・ナイト)のメドレーにはニコっ。

 続いて、お目当ての、ライアン・ショウが登場。前回のライヴ時(2008年3月1日)と同様にギター、ベース、ドラムという簡素な編成をバックにしてのもの。ギタリストはラテン系とおぼしき人に変わっていた。伴奏陣のインストをオープナーに置き、本人が出てきて名レゲエ歌手のジミー・クリフの「メニー・リヴァー・トゥ・クロス」を歌い上げる。よく伸びる声が映える。続くは、ボビー・ウーマックの「ルッキン・フォー・ア・ラヴ」。ぼくは最初、J・ガイルズ・バンドのライヴ曲で親しんだ曲だが、少し一緒に口ずさむ。うれしい。観客は若く、主に日本人出演者が目当ての人が多いように思われたが(会場は椅子が並べられていて、入りはあまり良くない)、けっこう反応は熱く、ライアン・ショウは楽しそう。やはり歌え、聞き手をノックできる、勘所をつかんだソウル・シンガー。ながら、数曲で時間切れ、次の場所に移動。

 南青山・ブルーノート(セカンド・ショウ)。帯出演の最終日。満員、当人たち登場前から熱気渦巻く。忌野清志郎(この日はでなかったが、けっこう他のセットには飛び入りし、元気に2曲歌ったという)のバッキングでは来ているが、ザ・MGズとしては初めての来日公演。オーティス・レディング的な持ち味を持つライアン・ショウに触れたあとに、レディング表現を支えたザ・MGズを見るなんてイカしていると、少し自画自賛……。

 75年に亡くなったドラマーのアル・ジャクソンJr.の代わりは、彼の従兄弟かなんかだそう。で、やっぱし、黒人ふたり、白人ふたりというラインアップ。「グリーン・オニオンズ」他、代表曲を中心に、悠々とインスト・ナンバーを送り出す。南部ソウルのどすこいバッキングを確立させた偉人バンドと構えて接すると拍子抜けしちゃう軽妙さも味か。以下は、The Dig誌のライヴ・リポートに譲る。


 リーズ出身の5人組、うわー外国人(けっこう、年齢がいった人も)がいっぱい。UK国民的ロック・バンドと言っても語弊がない(本国だったら。この広さの会場では見れないはず)存在だけに、彼らはみんな英国人なんだろうな。3作目をだして間もないが、曲はとにかく分かりやすいフック満載、ライヴでも観客とのコール&レスポンスや合唱合戦のしやすい曲をいっぱい持つバンドなんだなと再確認。しかも、ヴォーカリスト君ははてはフロアにダイヴしたりと、もう汗だくで客と向き合おうとするしな。そういうのを目の当たりにすると、悪い気はぜず、アルバムよりもずっと好印象。もちろん、前回みたとき(2005年7月29日)よりも。まっすぐな英国娯楽ロック・バンドの面目躍如、でした。場所は、赤坂・ブリッツ。昨年新装なったが、ぼくは今回初めて来る。基本は前と似た感じね



 まず、丸の内・コットンクラブ(ファースト・ショウ)。60年代シスコ・ロックの流れを汲むジェファーソン・エアプレイン派生グループであるジェファーソン・スターシップを見る。ステージに上がったのは、5人。そのうち、一人はジェファ−ソン・エアプレイン時代からリーダーシップを取るポール・カントナー。さらに、もう一人のおじいさんはクイックシルヴァー・メッセンジャーズやジェファーソン・スターシップのメンバーだったデイヴィッド・フリーバーグ。そして、そこに個人でもシンガーソングライター活動をやっているキャシィ・リチャードソンという女性、さらにベース音も弾くキーボード奏者やドラマー(英国出身で1曲ギター・ソロを取ったら味あり。その際は、リチャードソンがドラムを叩いた)が重なりショウはすすめられる。

ぶっちゃけ、産業ロック的な指針を取っただろうジェファーソン・スターシップをほとんど聞いたことはない。が、この日の実演はまったく別物だったのではないか。だって、カントナーにせよフリーバーグにせよリチャードソンにせよ、手にしたのはアコースティック・ギター。見事に古くさいフォーク・ロックをやっていたもの。それ、ぼくの口には合うものではなかったが、絶対的な歌の力があり(歌ったリチャードソンとカントナーはちゃんと能力がありました)、過去の表現/芸風に頼らず今の自分たちを自然体で出そうという潔さが望外にあったのは間違いない。とは言いつつ、本編最後にやったのはジェファ−ソン・エアプレインのヒット曲「サムワン・トゥ・ラヴ」。さすが、この臭みある曲は知っている。

 驚いたのは、アンコール曲。なんとジョン・レノン「イマジン」とボブ・マーリー「リデンプション・ソング」のマッシュ・アップを披露。巧みに重ねられていたそれはメドレーではなく、見事にマッシュ・アップというべきもの。なんかそこからは朽ちぬシスコ精神を引き継ぐリベラル主義が横溢しているような気がして、ぼくはほおおおおうと頷いてしまったのだった。

 続いて、南青山・ブルーノートで、ボサノヴァ期に登場したブラジル人熟達シンガー・ソングライターのカルロス・リラを見る。ギターを弾きながら歌う本人に加え、トランペットとサックス/フルートの管楽器担当の2人、ベースとドラムという布陣。へえ、二管を擁する編成とは意表をつかれる。その二管の瀟酒にして柔和な絡みはリラのしなやか表現にいい距離感で重なり、ふんわかと上質な世界を浮かび上がらせる。曲はショーロとかボレロ傾向曲も悠々ととりあげる。70歳ぐらいになるはずだが、彼のなかに息づいているいろんな音楽語彙をさらりと出してみしたという感じか。手触りよく、雅ね。MCはたどたどしくも日本語で。けっこう曲(かなりの数をやったはず)の説明などもしたが、ズレてはなかったので、事前にちゃんと曲をかため、日本語の出来る人にMCを考えてもらったんじゃないかな。ほのぼの、そして気持ちもこもっていた。

 その後、某会に乱入したりもして、楽しい晩でした。