ニューオーリンズ・ソウルの系譜に入るヒット歌手の訃報が届いた。ニューオーリンズ近郊に生まれ、同地の名作編曲家/制作者であるデイヴ・バーソロミュー(1918年12月24日〜2019年6月23日。うわあ、長生きしたんだなー)に認められ「ロウディ・ミス・クロウディ」をレコーディングし、大ヒットさせたのときはまだ10代だった。その自作曲を歌うとってもハリのあるプライスの歌声とスーダラしたサウンドのマリアージュはまさに同地の美点をいまだ喧伝すると書きたくなるか。兵役を経て、他にも「スタッガ・リー」や「アム・ゴナ・ゲット・マリード」らをヒットさせた彼は1962年に自己レーベルの“ダブル・L”を設立。ウィルソン・ピケットはそこから巣立っている。その後も、彼は複数のレーベルを持った。

 そして、シンガーとしての活動からは離れることに繋がったが、彼の興味深いキャリアはここからが真骨頂となる。1960年代後期にはニューヨークのブロードウェイにクラブを持つなどした彼は興行の道にも進み、懇意にしたのがボクシングのそれで知られるドン・キングだった。キングというと1974年10月にザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサで行われたモハメド・アリとジョージ・フォアマンの世界戦のプロモーターとしても知られるが、その実現にプライスもまた尽力、その頃彼はアフリカに住んでいたという。そのキンシャサでの試合を盛り上げるために同地で9月に企画されたJBやB.B.キングやビル・ウィザース、ミリアム・マケバやOKジャズ、ザ・ファニア・オールスターズらが出演した3日間の音楽フェス“ザイール74”(その模様は、2008年にドキュメンタリー映画「ソウルパワー」としてまとめられた)も持たれたが、それにもプライスは関わったろう。
 
 そんなプライスはブロンクスとスタッテン島に二つの住宅建設会社を持つとともに、“グローバル・アイコン・ブランド”という缶詰からクッキーまでを扱う食品会社もかかえた。2009年には、「Lawdy Miss Clawdy: The True King of the 50’s: the Lloyd Price Story」をロイド・プライス出版から出してもいるようだ。かように実業家として成功をおさめていた彼はニューヨーク州のウェストチェスター(デイヴィッド・サンボーンは同地の豪邸に住んでいる)にずっと住み、亡くなったのも自宅か病院かは分からないが、ウェストチェスター群だった。死因は、糖尿病による合併症であるという。

<今日の、自己暗示>
 飲食店で飲めないのは流石にきつい。えーん。15年は基本やめていた家飲み、復活させちゃおーかな……。4日前には、インタヴューがてら黄色いシートの空いている特急に乗って秩父に行く。あら、東京と違い、お店で飲めるぢゃん。世界的な評価を受けるモルト・ウィスキーの酒造があり、レアなそれを扱うバーが複数あるというのは初めて知った。遊びの予定を入れるのをやめたゴールデンウィーク期間中、母親訪問をした以外は唯一の公共交通機関乗車なり。いい気分転換になりました。さーあ、心機一転し、すいすいとGO!

 デュボアというミドル・ネームを持ち、両親はジャマイカ系。ミシガン州デトロイト生まれ、孤児院で育ったという。軍隊(その時代、アダリー兄弟と演奏したという)除隊後、まずはユセフ・ラティーフのグループで演奏し、1957年にニューヨークに移っている。ハード・バップ全盛期に出てきたトロンボーン奏者であるフラーであり、それなりに齢を重ねてからは人格者と言いたくなるような風貌を持っていた。

 どこか湿り気をかかえた彼のトロンボーン音は哀愁を含んだ曲調に合うとともに、サックス奏者やトランペッターとの2管の重なりにオールマイティな強みを発揮。そんな彼のプレスティッジ発の1957年デビュー作は、その名も『ニュー・トロンボーン』。そのアート・ディレクションはブルーノートのそれで知られる、マイルス・リードが担当。そういうば、そのカヴァーは少しブルーノートっぽいところがあるか。

 その後、ブルーノート、サヴォイ、エピック、インパルス!他からリーダー作を30枚ほどリリース。また、ソニー・クラーク、ジョン・コルトレーン、リー・モーガン、ベニー・ゴルソンら様々な奏者からその味を好まれ、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズに1961年から約5年入るとともに、1960年年代後期からはカウント・ベイシー楽団に在籍。1988年にニューヨーク州に住む高校生を対象とする州立サマー・スクール・オブ・アーツがジャズ・プログラムを設けられてからは、そこで教えることもした。

 死去した土地や死因は不明。2018年最終作は、2012年ニューオーリンズでの録音であり、そのころまでは演奏活動をしていたと推測される。今聞くと、雅なんて言葉も用いたくなる吹き手でした。

<今日の、夕刊>
 記事によれば、新型コロナ感染者の後遺症はいろいろあるそうだが、うち倦怠感(もう、起床時からそう)、息切れ(体力なしで、外に出たときそうなるナ)、不眠(寝つきが悪い)、気分の落ち込み(為政者に対する苛立ちがそれを増幅させる)などは、怠惰なぼくに当てはまるよなー。発熱や味覚障害の二つがそこに加わったら、覚悟を決めろということか。気が緩んで来ているとはいえ、人一倍気を遣っているつもりだけど。1月にやった健康診断の血液数値は、びっくりするほど優秀と言わたよなーー。明日は5度ほど気温が低いという。ちゃんと布団をかけて寝よう。

 先輩の吉成伸幸さんのベン・シドラン著のトミー・リピューマ本の訳書刊行にあたり、トーク・イヴェントを渋谷・Li-Poで行います。こういうおりですが、かなり余裕のある設定にて挙行します。5月22日(土)15時から、お酒抜きでオトナにじっくりと。吉成さんのことがとっても分かるようなものになれば、との目論見です。自粛疲れの一助にもなれば、幸いです。もし、よろしければ。
http://li-po.jp/?p=6779

大まかですが、

1部確かな英語力や音楽観を下敷きにする、吉成伸幸の仕事と流儀を追う

1)サンフランシスコの学生時代
2)シンコー・ミュージック(出版社)時代
3)大洋音楽(音楽出版社)時代
4)ポリスター(レコード会社)時代
5)その後の、お仕事
6)長きにわたるベン・シトランとの友情。ベン・シドランという知性溢れる音楽家/研究家/著作家について。


2部「トミー・リピューマのバラード」を訳者が語る

1)(協同翻訳者のアンジェロさんも登壇)同様に渡米経験を持つキャリアと、吉成さんとの付き合いも尋ねる
2)それぞれの、翻訳観を聞く。過去の訳書についても語る。
3) シドランはどのように、この本の執筆に着手し、その訳書に至ったのか。
4)この本の原書の美点について。訳で留意したこと。苦労したことなど。シドランの文体についても語る。
共訳となっているが、文章は一貫。二人の中で実際にどういうように分担したり、翻訳作業はすすめられたのか?
5)出来上がってみての、現在の心持ちなり。
6)訳者二人が、改めてトミー・リピューマの人生を考える。また、彼の歩みを介し、米国ポップ・ミュージック黄金期の形而上を考察。


という方向で、行くか行かないか、、、。

 ゴスペル・コーラス・グループからソウル・ミュージックのフィールドに移っていき、無理のないゴスペル力を度量大きくアピールした、名門ファミリー・グループのオリジナル・メンバーがお亡くなりになった。

 南部ミシシッピ州ドリューの生まれながら、生まれて間もなく職を求めた家族とともにイリノイ州シカゴに移住。家長のローバック“ポップス”ステイプルズ(1915年12月28日〜2000年12月19日)を中心に、1940年代後期に子供たちが集ったゴスペル・ブループであるザ・ステイプル・シンガーズは結成された。娘のクレオサ (1934年4月11日〜2013年2月21日)、パーヴィス、妹のメイヴィス (1939年7月10日〜 )が当初のメンバーだった。

 教会が活動の場だった彼らは1953年以降レコードを出すようになり、地元のヴィージェイ、リヴァーサイド、エピックなどと契約。1960年代に入ると、時流もあり、ザ・ステイプル・シンガーズは非ゴスペル要素を巧みに入れるようになるが、それはパーヴィスの意図が大きく反映されたという。より親しみやすさを抱えるようになった彼らは、それと当時に社会的なメッセージを掲げる方向に出たとことは強調されていい。

 1968年には南部の名門ソウル・レーベルのスタックスと契約。アルバムが大々的にチャートに入るようになったのは、その時期からとなる。だが、パーヴィスは徴兵され、1970年にグループから離れてしまう。彼の代わりには妹のイボンヌ(1937年10月23日〜2018年4月10日)が加入。パーヴィスは除隊後もグループには戻らず、ソロの活動したりもする。また、シカゴでクラブを持ったり、後続のゴスペル派生コーラス・グループであるザ・エモーションズ(2006年10月30日)の売り出しに関わったようだ。

 イリノイ州ドルトンの自宅で死去。享年85。死因は不明だが、6人の子供、7人の孫、7人のひ孫に恵まれたという。葬儀は、シカゴで17日に行われる。

▶︎過去の、ザ・ステイプル・シンガーズが出てくる映画に言及した項
https://43142.diarynote.jp/201009111624281899/
▶︎過去の、ザ・エモーションズ
https://43142.diarynote.jp/200611020837020000/
 
<ステイプル家族、ばんざい>
 ザ・ステイプル・シンガーズはスタックスが潰れたあと、カーティス・メイフィールドのカートムに迎えられたこともあった。シカゴという南部黒人労働力の最大の受け皿となった中西部都市シカゴのうれしい形而上を直裁に伝えたファミリー・グループの構成員のなか、存命なのはメイヴィスだけ。1969年のセルフ・タイトルのアルバム以降、グループ活動とソロ活動の両方で活動してきている喉自慢の彼女だが、2010年代以降よりヴァーサタイルな姿を見せるようになってもいて本当に感動させられる。新作となる2019年作は、ベン・ハーパー(2001年6月18日、2004年3月4日、2006年6月3日、2007年4月5日)の制作。かつてはプリンス(2002年11月19日)に乞われ、彼のペイズリー・パークから1989年と93年にアルバムを出したこともあった。なお、ポップス・ステイプルズはアーシーなギターのとんでもない名手。ゴスペルやブルースやソウルの感覚が渾然一体となったギター演奏を聞きたいのなら、ザ・ステイプル・シンガーズを聞けばいい。
▶︎過去の、ベン・ハーパー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2001-6.htm
https://43142.diarynote.jp/200403041444130000/
https://43142.diarynote.jp/200407290730290000/ フジ・ロック 触れてないが出演し、ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマのショウにもとびいり 
https://43142.diarynote.jp/200606111735540000/
https://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
https://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶過去の、プリンス
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm

 天才と思わされたことがあった、イタリア人音楽家がお亡くなりになった。ぼくはプログ・ロック好きではないので、イタリアのロックにほとんど触れてきていない。例外となる大好物の音楽家は、ズッケロ(2017年5月29日)とジョヴァノッティ(2002年6月1日)の二人だけ。本当だったら、彼の名前も挙げているところなのだが……。

 その1970年代、もうオールマイティで、何をやよろうと高い音楽性と訴求力を持つことを、バッティアートはやっていた。その得体の知れないスケールの大きな創造性のあり方に、ぼくはフランク・ザッパを例にあげたいと思ったか。

 管弦楽を使ったもの、素直な歌心が現れるフォーキーなもの、またエレクトロ傾向にあったり、ピアノ主体のミニマルものまで、変幻自在。鮮やかな閃きや佇まいを持ち、メロディアスな方向も彼は抱えた。日本に入ってきているものは多くないし、価格も安くもなく、他の聞きたい人もたくさんいて、ぼくはほどほどにこの才人の表現に触れていた。

 それが一気にバッティアートの作品群に触れ、汚い言葉を使わせてもらうなら、その変節を目の当たりにし、彼に対する興味が一気に失せたのは1990年ごろのこと。ローマに初めて行き、立派なレコード屋に入り、彼のアルバムをいろいろ買い漁った。いや、多すぎて、すべては購入しなかった。そのとき驚いたのは、イタリアのミュージシャンに限らず、U2とかの英米のスターたちもエサ箱に全然知らないアルバム(ライヴ盤が多かったのかな?)が置かれていたこと。それって、同国のマフィアがらみでフツーな感じで流通していると聞いたこともあるが……、真相は知らん。

 というのはともかく、帰国してバッティアートのアルバム群を聞いてびっくり。ちょうど1980年からガラリと音楽性が変わり、ただのポップス作を出す人に彼は変身していたのだ。当初はニュー・ウェイヴ・ポップへのイタリアからの返答みたいな意味合いもあったかも知れないが、あまりに中庸すぎる。メロディも歌もサウンドも……。それらのアルバム、捨ててはいないけどどこにいったのかな。

 死を受けてそのウィキペディアを引いてみたら、本国では多大な人気を得たとある。それは、1980年以降の傾向になってからではないだろうか。また、彼は映画を作ったり、画家でもあったという。ローマやミラノに住んだこともあったようだが、シチリアに生まれ、同島の自宅で死す。神経変性疾患で、享年76。

▶︎過去の、ズッケロ
https://43142.diarynote.jp/201705301638029304/
▶︎過去の、ジョヴァノッティ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-6.htm

<ちょうど1週間前の、水曜日>
 基本外出を避ける方向にあり、帰宅した際は手洗いやうがいとともに、即シャワーを浴びずにはいられない神経質なぼく。ケータイや財布もすぐに消毒液で拭く。というのはともかく、可燃ゴミを出すために、21時半ごろマンションのゴミ置場まで出る。普通散歩は昼間にするのだが、なぜかその日は夜なのについでに少し散歩してみたら、おおう。薬局跡のそれなりの面積を持つビル1階にバーができていて、営業をしている。かなり、人が入っているようで、入るには少し憚られる感じ。また、歩道橋から見えるガラスばりの洋風のお店も店内客がワイン飲酒していて、楽しそう。夜でも飲めるお店もあるとは聞いていた(少し前には某ミュージシャンの誘いで、奥渋谷のバーに行ったな)が、自宅5分圏内をちょい歩いただけで飲み営業店をすぐに発見できるとは思わなかった。極め付きは、暗渠の大通りからの入り口にそれなりのスペースがありベンチがいくつも設置されているのだが、そこも外飲みの方々で埋まっていた。←そこは、ぼくも友人が最寄駅に来た際に外飲みで使ったことがあったが、休日なので人はあまりいず、平日にあんなに混んでいるとは思わなんだ。ぼくはファンキー・タウンに住んでいるのだと、初めて認知したわけだが、今日は雨天なので外飲み者たちはいないんだろうな。

 南部ソウル/土着ロックのレコーディングを多数になった、アラバマ州シェフィールドの名ユニットの質実剛健ドラマーであるロジャー・ホウキンスが亡くなった。
 
 ホーキンスはインディアナ州ミシャウォカで生まれ、子供の頃から打楽器に親しみ、ミドルティーンにしてドラマー稼業に入ったという。そして、回り回ってアラバマ州に辿りついた際も、まだ10代だった。1960年代中期にはリック・ホールが設立した同州マッスル・ショールズにあるフェイム・スタジオのハウス・ドラマーとなり、様々なソウル歌手のレコーディングをサポートするようになる。フェイムでの初レコーディング曲はパーシー・スレッジの有名曲「男が女を愛するとき」だったそうで、アリサ・フランクリンからエタ・ジャイムス、ウィルソン・ピケット、ザ・ステイプル・シンガーズ/メイヴィス・ステイプルズまで、いろいろな人たちに自然な重力とアクセントを与えた。

 その後、リック・ホールと喧嘩してフェイム・スタジオ潰しを画策したアトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーの資金提供により、ホウキンス、ベースのデイヴィッド・フッド、鍵盤のバリー・ベケット、ギターのジミー・ジョンソンらはフェイムから独立し、1969年に同州シェフィールドにマッスル・シュールズ・サウンド・スタジオを設立する。シェールの『3614ジャクソン・ハイウェイ』(アトコ)は同スタジオで録られ、同スタジオの住所を表題に持ってきた。1970年代入ると、ザ・スワンパーズと呼ばれたマッスル・ショールズの腕利きミュージシャンたちは土着的好サウンドを創出するユニットとしてロック側のミュージシャンたちからもいろいろと起用されるようにもなる。ポール・サイモン、ボブ・シーガー、リオン・ラッセル、ロッド・スチュワート、トニー・ジョー・ホワイト、キャット・スティーヴンス、ジュリアン・レノン、他。

 ああ、一度ホウキンスの生のドラミングに接したかった。彼は、レギュラー・グリップで叩く人だった。ブラス・バンドのスネアを担当したこともあったのかな。スネアを身体の左側にかけて歩きながら叩くため左手はリストを横に回転させるようにスナップする。それが、レギューラー・グリップにつながる。ぼくも小学生のとき鼓笛隊でスネアをやったことがあるので、それについてはすごく分かる。デイヴィッド・フッドが突然に英国のザ・ウォーターボーイズ(マイク・スコット)のサポートで来日した(2015年4月6日)ことがあったが、こういう訃報に接すると奇跡のような。そういえば、ホウキンスとフッドとバリー・ベケットが参加した、トラフィックの欧州ツアーのライヴ盤『オン・ザ・ロード』(アイランド、1973年。オリジナルは、アナログ2枚組。10分を超える曲がばんばん入り、20分や17分の曲もあった)というアルバムがある。それはザ・スワンパーズが初めて国外に出たときのもので、素の彼らの非ソウル系の演奏を知るには適と、ぼくは思っている。っていうか、高校のころ、その荒くもある長尺演奏を聞き、なんかヤラれたあと思った好印象がずっとぼくのなかで生きている。そんな彼らの様を効果的に伝える、実際に出てきて演奏もするドキュメンタリー映画が「黄金のメロディ マッスル・ショールズ」(2014年6月26日)だ。

 ホウキンスはここ数年、慢性閉塞性肺疾患をはじめ複数の病をかかえており、シェフィールドで息を引き取った。

▶︎過去の、映画「黄金のメロディ マッスル・ショールズ」
▶︎ https://43142.diarynote.jp/201406270933515875/

<今日の、追記>
 先に触れたシェールの1969年作は、ウェクスラー、トム・ダウド、アリフ・マーディンというアトランティックきっての3プロデューサーがついてのもの。1969年4月に録られたそれは同スタジオの1号レコーディング作らしいが、セールスは芳しくなく、それは当面の同スタジオの経営難につながったとも指摘される。ときに、エリック・クラプトンはマイアミのクライテリア・スタジオ録音のアルバムに『461オーシャン・ブールヴァード』(RSO、1974年)と名付けた。それは、レコーディング期に住んだ家の住所で、同作のプロデューサーはフリーランスになったトム・ダウド。ダウドは当時クライテリア・スタジオに出資していたんだっけ?
 ところで、新旧の好音楽映画を集め上映する<ピーター・バラカンズ・ミュージック・フィルム・フェスティヴァル>がこの7月2日(金)から15日(木)かけて、角川シネマ有楽町で催される。ビリー・ホリデイを扱うドキュメンタリー「Billy」や写真家ユージン・スミスがセロニアス・モンク他1950年代後期のNYのジャズ・シーンの音声込みの記録をまとめた「The Jazz Loft According to W. Eugene Smith 」のような日本未公開作品から、評判を取った「AMY エイミー」(2016年6月15日)や「ノーザン・ソウル」(2019年1月11日)や「ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち
」(2020年3月26日 )まで、14作品が上映される。わあ、ザ・ファニア・オールスターズのぼくの誕生日と同日に持たれたザ・チータにおけるライヴを撮った「アワ・ラテン・シング」もあるゾ。うーん、映画「黄金のメロディ マッスル・ショールズ」もそこに急遽入れてくれないかな。←とうぜん、当初から候補作にはなったようだが、使用料の部分で断念せざるを得なかったよう。

▶︎過去の、映画「エイミー」
https://43142.diarynote.jp/201606161722265703/
▶︎過去の、映画「ノーザン・ソウル」
https://43142.diarynote.jp/201901121341307532/
▶︎過去の、映画「ランブル」
https://43142.diarynote.jp/202003271634082075/

 <日本の伝統音楽祭>と表題された公演で、2組の女性出演者を擁する。王子・北トピア、つつじホール。

 まず出てきたのは、津軽三味線を基に置く、女性三味線奏者二人による輝&輝。Kikiと読むらしい。似ているものの違う柄の着物を着ており、お二人は兵庫県と愛知県の出身で東京で活動している、と言っていたか。MCでは、言葉の最後が“まーす”と音引きが入る場合が多い。お年頃? ま、ぼくも簡便なメールではよくそうしているナ。お茶目さや柔らかさを出すために。10年ものキャリアを持つと言っていたが、20代に見える。そして、その世代性を全面に出したユニットと言えるだろう。

 全インストゥルメンタル、けっこうオリジナルをやったりもしている。二人の三味線の出音の違いに、留意している感じもあり。ユニゾンで弾いたり、アンサンブルを奏でたり、それこそサイド・ギターとリード・ギターという関係のように演奏してみたり。ギター・デュオの形を三味線デュオに置き換えた、という説明もできなくはないだろう。民謡曲の場合は、掛け声を入れたりもした。

 休憩を置いて、松田美緒(2005年7月11日、2010年4月19日、2010年10月16日、2012年6月13日、2014年2月9日、2014年6月16日、2015年11月18日、2018年9月21日)が出てくる。ギタリストの渥美幸裕とのデュオにてのもの。ポルトガル語圏の音楽的誘いをしなやかに自分化することで異彩を放ってきた彼女だが、2014年発表の移民などにより日本の種が国外で芽を出した楽曲を探求するCDブック『クレオール・ニッポン うたの記憶を旅する』(アルテス、2014年)以降は<旅する日本の歌>にも目を向ける活動も行なっていて、世界的フリー・ジャズ・ドラマーでもあり、ずっと地に足をつけた日本人としての生きた音楽を標榜する土取利行とのブラジル移民の歌を探求するプロジェクトを持ったり、大分県の民謡化される前の伝承曲を探した『おおいたのうた』(エンカント、2019年)をリリースなど、彼女はより自らの属性を見直す活動にも鋭意着手している。10年前だったらこんな表題の公演に出るなんて思わなかった、みたいなことを、彼女は冒頭のNCで言ったりもしましたね。

 そして、松田は日本語で歌い出す。おお、無敵。一発で、そう思ってしまった。我々のどこかに眠っている歌心や情緒を見つけて、それを彼女の才気を介して、今のものとして会場に満ち渡らせる。その所作の堂々さ、味わい深さと言ったなら。ポルトガルと関係のあった長崎に眠る2曲と、大分県の同様に埋もれつつある民謡を2曲づつ、など。気と実のある質量感と確かな着眼点が溢れる。今まで接した彼女のライヴのなかで一番、その喉力をぼくは感じた。とともに、ホールに似合う人でもあると思った。女性に用いる言葉ではないかもしれないが、やはり正真正銘の“大人”ですね。

 2014年作に収録された人気曲という、日本に統治されていた時代のミクロネシア諸島のパラオで日本人の男性と恋に落ちた現地の女性によって作られ、1950年代に小笠原の父島に伝えられたという「レモングラス」はイントロだけ聞くと、そのままザ・ビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ア・ダイモンド」を歌いたくなる? また、日本魚船の遠洋漁業の中継地となり、日本人との私生児も珍しくない(byセザリオ・エヴォラ。島民は日本人に悪い感情は持っていないそう)カーボ・ヴェルデの“最高だよ”という日本語が入ったアフリカでは有名であるという軽快曲も披露した。その曲、エヴォラも歌っている。

 ところで、2014作にせよ2019年作にせよ、ピアノの伴奏が主となるものであったが、この日はアコースティック・ギターが十全に寄り添う。ガット・ギターぽい形ながら、スティール弦が張られていたのではないか。高尚ぽくも倍音が綺麗で、かといって場合によってはパーカッシヴだったり棘っぽい弾き方をする彼、いい奏者だな。ピアノ伴奏の場合はどこか唱歌っぽいスクエアさが出てしまう場合があったが、それも皆無でとてもいい組み合わせではないかと思った。

 アンコールの2曲めは、先発の輝&輝も出てきて、一緒にやった。

▶過去の、松田美緒
http://43142.diarynote.jp/200507161355250000/
http://43142.diarynote.jp/201004211621084144/
http://43142.diarynote.jp/201010191403189326/
http://43142.diarynote.jp/201206141343402196/
http://43142.diarynote.jp/?day=20140209
http://43142.diarynote.jp/?day=20140616
https://43142.diarynote.jp/201809221638262424/

<今日の、あれれ>
 気持ちのいい日。梅雨前の快適さを味わう。やだなー、今年は梅雨入りが早く、長引く、なんてことも言われているナ。でも、家にいることが多いはずで、まいっかと考えるのがヘルシーかな。昼上がりに目黒で知人とランチ、そこからだと、地下鉄一本で王子まで行ける。もしかして、お酒飲めるかとドリンク・メニューを見たら、擬似ビール、擬似赤ワインなどのアイテムが並ぶ。真面目なお店だった。視界に入る、ワイン・セラーがなやましい。しょうがねえ、初めてノンアルコール・ビールを飲んだ。感想は言わずもがな。
 目黒から南北線に乗るのは、サッカーの日韓ワールドカップの埼玉スタジアムでの準決勝を見に行っていらい。そういうことは忘れないんだな。行きの車中のことも、いまだ頭に浮かぶ。前回は都電を使って向かった王子の北トピアはほぼ2年ぶり。だが、場内のことはすでにしっかり忘れていて、つつじホールに行くはずが、当初間違って、さくらホールの方に入ってしまった。あらあ。ホワイエに子供たちとその親が山ほどいる。好奇心からステージを一瞥したら、綺麗な照明とともに中央にオブジェが置かれていたが、あれはなんの催しであったのか。それって、開演前だったのか、開演後であったのか。てへへと、横にあるつつじホールに入り直す。万が一のために、座ったシート番号と連絡先の記入シートの提出を退出時に求められました。

 一つ目の会場は六本木・ビルボードライブ東京、15時からのファースト・ショウを見る。ヴォーカルとエレクトリック・ピアノ(フェンダー・ローズ)の猪野秀史のほか、鳴り物とバックグラウンド・ヴォーカルとメロトロンの小森宏子、ベースの伊賀航、ドラムとコーラスをたまに入れる北山ゆう子による。

 いつだったか、ぬぼーとした歌が入る彼の曲を聴いて、どこか細野晴臣(2009年10月12日、2010年4月15日、2010年11月21日、2011年8月7日ち2012年8月12日、2012年9月5日、2013年1月29日、2013年8月7日、2013年8月11日、2014年10月25日、2017年11月13日)を思い浮かべたことがあったが、今回やはり落ち着いてはいるものの、その歌声を聞いて御大を思い浮かべるところはなかった。しかし、フェンダー・ローズの音色を介する大人のいいシンガー・ソングライターであるという思いをしっかり得る。淡々としたそれはどこかエヴァーグリーンな落ち着いた誘いも与えてくれるのだが、一方でどこか今様な手触りも持つ部分もある。とくに、伊賀が鍵盤ベースを弾く場合はそういう味を強めた。

 大昔のアナログ時代の夢のハイテック楽器(?)たるメロトロンがステージ上に置いてあるのを見るのは初めてに近いか。音が入ったテープ群を音源にすることで、ストリングス他いろんな音色を出すことを可能にした1960年代に発明された鍵盤楽器と言っていいのかな。ステージにあったのは銀色のボディを持つ2オクターヴ分ぐらいしかないような小さなものできっと後期型なのだろうが、Mellotronという商標名がボディに印刷されるとともに、それとは別に“M ”という文字が煌々と赤く輝いている。いろいろ権利が移り、今も作っているという話も聞いたことがあるような気もするが、その小さなメロトロンは見た目は古くない。音の方はいえば、柔らかさがあるような気もしたが、シンセサイザーでも代用できるでしょと言う感じのものではあった。あ、ギターみたいな音を加えるときもあったな。

 だが、そのメロトロンの威力(?)を感じた曲が一つ。それはなんと、10cc(2010年5月23日、2015年1月23日)の有名美曲「アイム・ノット・イン・ラヴ」のカヴァーだった。ピアノのフレイズもテンポも代えているのだが、印象的な中間部はわりと原曲に近くなり、そこでメロトロン音が活きる(ような気がした)。とにかく嬉しいカヴァー。思わず、帰宅して、その曲が入っていた『オリジナル・サウンドトラック』(マーキュリー、1975年)を聞き返してしまった。こんど、アナログを回すときに息抜き曲として使うおうかな。

 途中で、ゲストの高野寛(2006年6月27日、2007年8月11日、2014年11月27日)が出てきて、2曲歌う。新型コロナ禍ゆえの配信で共演したことが縁となっているようだ。また、アンコールの最後の曲でも高野は出てくる。そして、一緒にやったのは、ザ・ピートルズの曲中、もっともスタンダード・ソング的な風雅さに満ち満ちた子守歌「グッド・ナイト」。これもだいぶアレンジを変えていたが、INOはリリースされたばかりの『In Dreams』(Innocent)のクローザーにこの曲を置いている。ザ・ビートルズは『ホウイト・アルバム』(アップル、1968年)の最後にこの浮世離れした曲を置いた。

▶過去の、細野晴臣
http://43142.diarynote.jp/200910141731349364/
http://43142.diarynote.jp/201004180836405961/
http://43142.diarynote.jp/201011250550109951/
http://43142.diarynote.jp/201208201258419318/
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▶過去の、10cc
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▶過去の、10ccにいたロル・クリーム
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▶過去の、高野寛
http://43142.diarynote.jp/200607041834300000/
http://43142.diarynote.jp/200708161531410000 GANGA ZUMBA
https://43142.diarynote.jp/201412011305372891/

 その後、南青山・ZIMAGINEに行き、三線と竪琴を弾きながら歌う里アンナ(2015年6月3日、2015年10月24日、2018年11月21日)とドラムの佐々木俊之のデュオ・ユニットの実演を見る。里が生まれ育った奄美の島唄をそのオリジナルな持ち味を損なわずに今に持ってこようとするこのユニットは、すでに2作のアルバムを出している。

 1曲めは、里は無伴奏で歌う。うわ、地声デカく、通り過ぎ。その後、演奏部にも留意するデュオ・パフォーマンスを二人は繰り広げるのだが、この晩は比較的臨機応変に、インプロヴィゼーショナルな行き方を取ったと言う。里は大きさの異なる竪琴(弦数は20弦ちかいか?)を用いるがチューニングは変えてある。一方、なんら奄美のフォークロアのワープをなんら違和感なく助ける佐々木はスネアを二つ起き、小さなシンバルも二つセッティング。それは、いつもの設定ではなく、今回はそうしてみたとのこと。二人で共演を重ねていき、その都度その都度、表現は育っているのだと思う。日経新聞電子版にライヴ評を書くので、このへんにしておく。

▶里アンナ
http://43142.diarynote.jp/201506070801066234/
https://43142.diarynote.jp/201510251330372218/
https://43142.diarynote.jp/201811220902106520/

<今日の、いろいろ>
 ビルボードライブ東京に行くのは、まじ久しぶり。お店のあるミッドタウンが(ぼくの触れた限り)店舗枠が空いたりもしておらず、営業がなされていることに安堵を覚える。しかし緊急事態宣言のおり、ファースト・ショウが15時開演というのは、ぼくはまるっきり構わないが、テレワークの勤め人を見込んでのものなのだろうか? もうすぐ退社する広報の佐藤くん、お世話になりました。
 次のライヴまで時間があったので、西麻布にオフィスを置く知人がやっているインディ・レコード会社に寄る。テレワークなぞは一切していない、というので。メールでやりとりはあったが、会うのは久しぶり。よもやま話に花が咲く。彼から、知人がコロナになったことを教えられる。文化的にはラディカルだが、人間的には真面目で穏健な人とぼくは思っていたので、驚いた。入院もしたそう。感染源を特定はできないものの、しいてあげるなら地元の飲み屋かと言っているとか。
 その後、また歩いて、南青山のZIMAGINEというお初の店にいったのが、おお。ブルーノート東京に何度か行ったことがある人なら認知している人がけっこういると思うのだが、そこのセカンド・ショウが終わった時間でも営業をしている女性靴の安売り路面販売店(どうやら、今は閉店したよう)と同じ白いビルの地下にそのヴェニューはあった。ステージには小さいグランド・ピアノやフェンダー・ローズも置いてあった。
 そこそこ歩いたつもりだったが、1万歩はいかず。ちぇ。スーパームーンも見えんかった。外で携帯見ないようにしているためもあるが、今月0.4ギガしか使っていない。