長年テキサス州オースティンで活動したギタリストのデニー・フリーマンの訃報が届いた。死の数週間前に、腹部癌と診断されていたという。マイアミ州オーランド生まれで、テキサス州ダラスやロサンゼルスに住んだ後、20代半ばからオースティンに拠点を置いた。そんな彼のキャリアでもっとも語られるのが、やはり同地に住むジミー・ヴォーンやスティーヴィー・レイ・ヴォーンと付き合いを持ったことか。そんな事実に顕れているように、ブルース・コード主体のアーシーなロック伴奏に長けた人物で、彼はスライド・バーも用いた。また、キーボードやハーモニカを扱う場合もあった。ジェイムズ・コットン(2004年8月10日)やスヌーキー・プライヤーら純ブルース・マンのアルバムではピアノを弾いている。

 1980年代からインストゥメンタルのリーダー作を何作も出してもいて、『Diggin’ On Dylan』(V8、2012年)はボブ・ディラン曲集でなかなかの味わい。彼は2006年から何年かボブ・ディランのバンドに入り、レコーディングもしていた。一方、やはり2000年代にはタージ・マハール(2000年10月12日、2007年4月6日)、ダン・ヒックス(2009年5月27日、2010年6月18日)、ドイル・ブラムホール(父親のほう)らのアルバムにも入っており、それは彼の業界評価を物語るものだろう。

▶︎過去の、ジェイムズ・コットン
https://43142.diarynote.jp/200408100058160000/
▶︎過去の、タージ・マハール
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-10.htm
http://43142.diarynote.jp/200704112101130000/
http://43142.diarynote.jp/200806121400260000/
▶︎過去の、ダン・ヒックス
https://43142.diarynote.jp/200906051613277417/
https://43142.diarynote.jp/201006200650338483/

 また、米国きってのレコード・エンジニアと言っても過言ではないアル・シュミットもお亡くなりになった。享年91、死因は明らかにされていない。ジェントルな風貌を持っていた彼には、5人の子供、8人の孫、5人のひ孫がいたという。

 海軍除隊後、19歳でニューヨークのエイペックス・レコーディング・スタジオに勤務。そこでエンジニアをしていたのが、後にアトランティックに入りR&Bものを録り、同退社後に人気ロック・プロデューサーとなったトム・ダウド。シュミットはダウドの補助についた。同スタジオが潰れるまで2年間そこで作法を学び、その後複数のスタジオを経て、1958年にLAのレイディオ・レコーダーに入社。さらには、1963年にはRCAスタジオに移り、ヘンリー・マンシーニ、ジ・アストロノーツ、ローズマリー・クルーニー、サム・クック(『アット・ザ・コパ』、プロデュース・クレジットも得た)らの様々な人のレコーディングに関与。そのころには、大きな編成を録る術を会得しており、映画音楽の録音にも冴えを見せていた。

 業界で名を売っていたシュミットは1966年に独立、ちょうどロック・ムーヴメントがのしてきたころで、彼はジェファーソン・エアプレインを皮切りに、1970年代中期にかけてジャクソン・ブラウンやニール・ヤング他のレコードに関与し、アルバムによってはプロデューサー・クレジットも得ている。シュミットというと、まず西海岸のロック系作品を思い浮かべる人は少なくないか。また、その頃からフィル・アップチャーチ、アル・ジャロウ、ジョージ・ベンソン、スタッフ、ドクター・ジョン、ベン・シドラン、ダイアアナ・クラールといったトミー・リミューマ物件に関わっており、彼はリピューマを業界でもっとも近しい人間としてあげている。彼とのその頃の仕事も、制作クレジットを得ることが多かった。リピューマが扱ったYMOの米国向けミックスもシュミットの仕事だ。

 スティーリー・ダンのサイコ作『エイジャ』(ABC、1977年)も技術関与した作品だが、ロジャー・ニコルズ、エリオット・シャイナー、ビル・シニーらもまたエンジニアとして名前を連ねる。そして、1980年代に入るとエンジニアだけのクレジット作が増えるが、仕事量は変わらず。ジャズ/フュージョン系のアルバムが少し増えた感じもあったか。フランク・シナトラの『デュエッツ』(キャピトル、1993年)、クインシー・ジョーンズの『Qズ・ジューク・ジョイント』(クエスト、1995年)、レイ・チャールスの『ジニアス・ラヴズ・カンパニー』(コンコード・ジャズ、2004年)といったスター満載企画盤に絡んでいるのは偶然だろうか。

 当然のことながら、ヘンリー・マンシーニの1962年サントラ作から、2012年と2013年のポール・マッカートニー作までグラミー受賞作は20部門ほど。また、2015年には、ハリウッド商工会議所の働きかけに議会のメンバーとロサンゼルス市長が賛同し、8月13日をアル・シュミットの日と定めたよう。そのような偉業を受けた人、エンジニアとしては彼だけのようだ。

<今日の、苦手な作業>
 苦手のもの〜たくさんあるんだけど〜の一つが、原稿書きとは関係のない、書類仕事。原稿を書くのは苦にならないが、そっちの作業はストレスを覚える。大昔、会社員していたころ、面倒臭くて交通費の請求さえ経理にしなかったのだから、これは相当なものだろう。そういうのを避けるためにフリーランスになったという側面もあるか。確かに、フリーランスの物書きはその手の作業は少ないと思う。ぼくの場合税金の申告は税理士に丸投げ出しているし、あるとすれば原稿料の請求書を書くことぐらいか。今日2つ請求書をレコード会社に郵送したのだが、それについては時代に逆行して、ここ15年ほど請求書を書くのを求める会社が増えているように思える。印鑑を押すのさえも面倒くせえ。かつてはシャチハタの簡易ハンコを使っていたが、それを嫌がるところがあって、今は手元にある実印をきっちり押して提出している。しかし、それなりに立派なその実印は大学生時代に作ったものだ。車をもらえることになり、その名義変更登録のため実印が必要となり、3万円だかでちゃんと印鑑屋で作ったんだよなー。ケースともども、全然朽ちていない。しかし、ペーパーレスが言われる昨今、ぼくはいつまで押印した請求書を切手を貼って送るのだろう?