R.I.P.フランコ・バッティアート(1945年3月23日〜2021年5月18日)
2021年5月19日 音楽 天才と思わされたことがあった、イタリア人音楽家がお亡くなりになった。ぼくはプログ・ロック好きではないので、イタリアのロックにほとんど触れてきていない。例外となる大好物の音楽家は、ズッケロ(2017年5月29日)とジョヴァノッティ(2002年6月1日)の二人だけ。本当だったら、彼の名前も挙げているところなのだが……。
その1970年代、もうオールマイティで、何をやよろうと高い音楽性と訴求力を持つことを、バッティアートはやっていた。その得体の知れないスケールの大きな創造性のあり方に、ぼくはフランク・ザッパを例にあげたいと思ったか。
管弦楽を使ったもの、素直な歌心が現れるフォーキーなもの、またエレクトロ傾向にあったり、ピアノ主体のミニマルものまで、変幻自在。鮮やかな閃きや佇まいを持ち、メロディアスな方向も彼は抱えた。日本に入ってきているものは多くないし、価格も安くもなく、他の聞きたい人もたくさんいて、ぼくはほどほどにこの才人の表現に触れていた。
それが一気にバッティアートの作品群に触れ、汚い言葉を使わせてもらうなら、その変節を目の当たりにし、彼に対する興味が一気に失せたのは1990年ごろのこと。ローマに初めて行き、立派なレコード屋に入り、彼のアルバムをいろいろ買い漁った。いや、多すぎて、すべては購入しなかった。そのとき驚いたのは、イタリアのミュージシャンに限らず、U2とかの英米のスターたちもエサ箱に全然知らないアルバム(ライヴ盤が多かったのかな?)が置かれていたこと。それって、同国のマフィアがらみでフツーな感じで流通していると聞いたこともあるが……、真相は知らん。
というのはともかく、帰国してバッティアートのアルバム群を聞いてびっくり。ちょうど1980年からガラリと音楽性が変わり、ただのポップス作を出す人に彼は変身していたのだ。当初はニュー・ウェイヴ・ポップへのイタリアからの返答みたいな意味合いもあったかも知れないが、あまりに中庸すぎる。メロディも歌もサウンドも……。それらのアルバム、捨ててはいないけどどこにいったのかな。
死を受けてそのウィキペディアを引いてみたら、本国では多大な人気を得たとある。それは、1980年以降の傾向になってからではないだろうか。また、彼は映画を作ったり、画家でもあったという。ローマやミラノに住んだこともあったようだが、シチリアに生まれ、同島の自宅で死す。神経変性疾患で、享年76。
▶︎過去の、ズッケロ
https://43142.diarynote.jp/201705301638029304/
▶︎過去の、ジョヴァノッティ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-6.htm
<ちょうど1週間前の、水曜日>
基本外出を避ける方向にあり、帰宅した際は手洗いやうがいとともに、即シャワーを浴びずにはいられない神経質なぼく。ケータイや財布もすぐに消毒液で拭く。というのはともかく、可燃ゴミを出すために、21時半ごろマンションのゴミ置場まで出る。普通散歩は昼間にするのだが、なぜかその日は夜なのについでに少し散歩してみたら、おおう。薬局跡のそれなりの面積を持つビル1階にバーができていて、営業をしている。かなり、人が入っているようで、入るには少し憚られる感じ。また、歩道橋から見えるガラスばりの洋風のお店も店内客がワイン飲酒していて、楽しそう。夜でも飲めるお店もあるとは聞いていた(少し前には某ミュージシャンの誘いで、奥渋谷のバーに行ったな)が、自宅5分圏内をちょい歩いただけで飲み営業店をすぐに発見できるとは思わなかった。極め付きは、暗渠の大通りからの入り口にそれなりのスペースがありベンチがいくつも設置されているのだが、そこも外飲みの方々で埋まっていた。←そこは、ぼくも友人が最寄駅に来た際に外飲みで使ったことがあったが、休日なので人はあまりいず、平日にあんなに混んでいるとは思わなんだ。ぼくはファンキー・タウンに住んでいるのだと、初めて認知したわけだが、今日は雨天なので外飲み者たちはいないんだろうな。
その1970年代、もうオールマイティで、何をやよろうと高い音楽性と訴求力を持つことを、バッティアートはやっていた。その得体の知れないスケールの大きな創造性のあり方に、ぼくはフランク・ザッパを例にあげたいと思ったか。
管弦楽を使ったもの、素直な歌心が現れるフォーキーなもの、またエレクトロ傾向にあったり、ピアノ主体のミニマルものまで、変幻自在。鮮やかな閃きや佇まいを持ち、メロディアスな方向も彼は抱えた。日本に入ってきているものは多くないし、価格も安くもなく、他の聞きたい人もたくさんいて、ぼくはほどほどにこの才人の表現に触れていた。
それが一気にバッティアートの作品群に触れ、汚い言葉を使わせてもらうなら、その変節を目の当たりにし、彼に対する興味が一気に失せたのは1990年ごろのこと。ローマに初めて行き、立派なレコード屋に入り、彼のアルバムをいろいろ買い漁った。いや、多すぎて、すべては購入しなかった。そのとき驚いたのは、イタリアのミュージシャンに限らず、U2とかの英米のスターたちもエサ箱に全然知らないアルバム(ライヴ盤が多かったのかな?)が置かれていたこと。それって、同国のマフィアがらみでフツーな感じで流通していると聞いたこともあるが……、真相は知らん。
というのはともかく、帰国してバッティアートのアルバム群を聞いてびっくり。ちょうど1980年からガラリと音楽性が変わり、ただのポップス作を出す人に彼は変身していたのだ。当初はニュー・ウェイヴ・ポップへのイタリアからの返答みたいな意味合いもあったかも知れないが、あまりに中庸すぎる。メロディも歌もサウンドも……。それらのアルバム、捨ててはいないけどどこにいったのかな。
死を受けてそのウィキペディアを引いてみたら、本国では多大な人気を得たとある。それは、1980年以降の傾向になってからではないだろうか。また、彼は映画を作ったり、画家でもあったという。ローマやミラノに住んだこともあったようだが、シチリアに生まれ、同島の自宅で死す。神経変性疾患で、享年76。
▶︎過去の、ズッケロ
https://43142.diarynote.jp/201705301638029304/
▶︎過去の、ジョヴァノッティ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-6.htm
<ちょうど1週間前の、水曜日>
基本外出を避ける方向にあり、帰宅した際は手洗いやうがいとともに、即シャワーを浴びずにはいられない神経質なぼく。ケータイや財布もすぐに消毒液で拭く。というのはともかく、可燃ゴミを出すために、21時半ごろマンションのゴミ置場まで出る。普通散歩は昼間にするのだが、なぜかその日は夜なのについでに少し散歩してみたら、おおう。薬局跡のそれなりの面積を持つビル1階にバーができていて、営業をしている。かなり、人が入っているようで、入るには少し憚られる感じ。また、歩道橋から見えるガラスばりの洋風のお店も店内客がワイン飲酒していて、楽しそう。夜でも飲めるお店もあるとは聞いていた(少し前には某ミュージシャンの誘いで、奥渋谷のバーに行ったな)が、自宅5分圏内をちょい歩いただけで飲み営業店をすぐに発見できるとは思わなかった。極め付きは、暗渠の大通りからの入り口にそれなりのスペースがありベンチがいくつも設置されているのだが、そこも外飲みの方々で埋まっていた。←そこは、ぼくも友人が最寄駅に来た際に外飲みで使ったことがあったが、休日なので人はあまりいず、平日にあんなに混んでいるとは思わなんだ。ぼくはファンキー・タウンに住んでいるのだと、初めて認知したわけだが、今日は雨天なので外飲み者たちはいないんだろうな。