南米の日。って、なんと乱暴な書き方。まー、ゴールデン・ウィーク中ゆえ、ボケてるということで。

 まず、六本木・ビルボードライブ東京で、洒脱ブラジリアン・ポップ(2008年2月7日、他)大家の実演。ファースト・ショウ。キーボードと歌(コーラス時の彼の歌声が良く聞こえたな)の当人に加え、女房を含む2人の女性ヴォーカル、一部で加わるラッパー、ギター、ベース、キーボード&サックス、ドラム、打楽器という編成でパフォーマンスする。基本のノリは過去と変わらないが、ブラジル66時代から現在のハイパー路線までの代表曲を余裕たっぷりに披露。中盤にはインストを披露するかたまりもあり。曲構成などは見事に磨かれ、きっちりいろんな表情を限られたパフォーマンス時間のなか見せていた。ブラジルの様々な滋養とジャズ的鷹揚さと洒落たポップ流儀の、彼らならではの重ね合わせ表現をかなり堪能す。やはり、とんでもないものを築いた人だよなとも思う。話はとぶけど、スティーヴィー・ワンダー(2012年3月3日、他)がときに見せるブラジル風味って、メンデスからの影響を受けてのものだと、ぼくは思っています。両者って、アルバムで共演もしているよな?

 そして、南青山・ブルーノート東京に移動、キューバの至宝的女性シンガー(2002年8月25日、他)の実演を見る。今回は一緒に共演アルバムを出している、キューバ人ピアニストのチューチョ・バルデス(2010年3月25日、他)のカルテット(彼に加え、ベース、ドラム、打楽器。チームワーク、良し)との共演。1曲カルテットだけで演奏したのち、小柄なポルトゥオンドさんが出てくる。基本、ぼくはミュージシャンの名を敬称略で記すが、やはり彼女の場合は“さん”をつけたくなります。80歳をすぎているが、年齢よりは若く、とても元気に見える。で、あまり衰えておらず確かで、声量もある。そんな彼女の歌唱の後には、山ほどの磁力が舞う。ありがたやー。いや、まったく。

 おおおと思ったのは、曲を重ねるうちに、より若くなっていくような感じがしたこと。気さくな人で、客をステージに上げて踊らせもした。ラテン様式に沿ったものから、けっこうジャジーな開き方をするものまで、自在。ブエナ・ビスタ(2001年2月9日)関連曲は客の拍手がでかい。彼女はジャズ・スタンダードの「サマー・タイム」を英語で歌ったりもしたが、それも良かった。とともに、もし彼女が米国やフランスで生まれていたなら、彼女はとんでもなく知名度を持つ存在になっていたかも、なーんて思った。

 面白いのは、彼女がステージに登場した後でも、ヴォーカル曲の間に1曲づつ、計2度ヴァルデスたちはインスト曲をやったこと。そのとき、彼女はステージ袖に引っ込まず、ステージ中央に置かれた椅子にちょこんと座り、うれしそうに演奏を聞いている。なんか、その悠々の振る舞いも絵になる。とかなんとか、やはり、希代の歌い手であることを思い知らされた、うれしい実演でありました。


<その後の、ええん>
 例によって、酩酊ご機嫌で深夜に帰宅し、起きてェ。うおおー飛行機、乗り遅れた。。。。。。。。寝坊というよりは、なぜか時間を間違って頭に刻んでいた。←こんごこーゆーことはふえていくのだろうな、ヤだけど。遊びの予定、かなりリセット。どっちにしろ、珍しく仕事が片付かずPC持って出なきゃと思っていたので、良しとしとこう。ぐすん。

 日本人女性カズ・マキノ(歌、ギター)とイタリア人男性双生児(ギターとドラム)からなる、NYをベースとする“考え、感じる”ことのできる3人組ロック・バンドがブロンド・レッドヘッドだ。ブロンドの赤髪さん、なんか文字の並びはしっくりくるのだが、その意味合いを考えると落ち着かなくなる? ←それは、彼女たちの音楽性もそういうところがあるかな。昨年も来ているはずだが、ぼくは10年ぶりに拝見。恵比寿・リキッドルーム。観客の反応に接し、いいファンがついているとも思う。

 ギター2とドラムという変則編成。前から機材もうまく用いキーボード音やベース音を生サウンドに加味する実演を見せていた彼女たちだが、今はもっとプリセットのトラックを下敷きにするようになっている。とともに、2人のギター奏者の前にはキーボードなり装置が置かれるようになっていて、よりギター・バンドという音からは離れるようになっているのが確認できた。なかにはエレ・ポップ調と言える曲もあって、淵を歩む感覚を持ちつつ、聞きやすくなっているところもあるか。でも、それは加齢を経ての成熟とつながったものであると、ぼくは思った。カズ嬢は全体の4分の1ほどは楽器を扱わずマイクを持って歌った。一方、もう一人のギタリストがファルセットで歌う比率は6分の1ほど?

 なんにせよ、まっとうな視点経由の美意識あるロックの担い手であることをあっさり、でもきっぱりと示す。10年前(2002年1月27日)にはインタヴューもし身近に感じたはずなのに、彼女たちがある意味遠い存在に感じられたのも、感心すべき独自性/飛躍制をちゃんと表出していたからだろう。本編は1時間10分ほどだったが、その後2度のアンコールにたっぷり(計30分近かった?)3人は応えた。


<昨日の、NOLA>
 いろんな意味で、なんか今年のゴールデン・ウィークはバタバタ。ニューオーリンズのジャズ&ヘリテッジ・フェスのネット中継も4~6日にがっつりやったらしいが(おお、この前のコーチェラといい、フェスもどんどんネット対応しているのだな)、見れず。昨日、その短い保存映像をいくつか見る。ザ・ネヴィル・ブラザーズ(2004年9月18日)を見たら、アーロン・ネヴィルは元気そう。今月の来日公演が楽しみ。その際はチャールズ・ネヴィル(2000年1月12日)も同行するんだよな。そういえば、シリル・ネヴィル(2010年3月29日、他)やザ・オールマン・ブラザーズのグレッグ・オールマンの息子デヴォンらが組んだロイヤル・サザン・ブラザーフッドというバンドのデビュー作のディスク評をゴールデン・ウィーク中に書いた。あー、アイヴァン・ネヴィルのバンドを見てえ〜。

 <スタックス!>は南部ソウルのアイコン、スタックス・レコード絡みの音楽をゆかりの人たちを介して、送り出そうという出し物。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。スティーヴ・クロッパー(ギター)とドナルド・ダック・ダン(ベース)らのザ・MGズ(2008年11月24日)流れのバンドに、スタックスを代表するシンガーのエディ・フロイド(2007年7月18日)が入るという布陣。あ、フロイドはクロッパーやダッグ・ダンがいたザ・ブルース・ブラザーズ・バンド(2009年7月14日)のフィーチャーリング歌手だったこともありますね。

 まずは、バンドが出て来て40分と少し演奏する。ダック・ダンは段差があると手を引いてもらわないと歩行が困難なよう。彼ら白人2人に加え、ドラムのスティーヴ・ポッツ(2012年3月9日、他)と、アイザック・ヘイズ(2007年7月18日)の70年ごろの録音セッションを皮切りにいろんな南部産録音に関与しているオルガン奏者のレスター・スネルという2人のアフリカ系プレイヤーによる布陣。「メルティング・ポット」、「ソウル・リンボー」、「ヒップ・ハグ・ハー」、「グリーン・オニオンズ」、「タイム・イズ・タイト」など、ザ・MGズの代表曲を無理なく演奏。スタンダード「サマータイム」のなるほどォなザ・MGズ味横溢ヴァージョンも披露した。

 その後のアンコールを含めて40分はエディ・フロイド(1937年生まれ)が登場、おお矍鑠、元気。で、次々にスタックス・スタンダードを朗々と歌っていく。「ソウル・マン」(サム&デイヴ)、「634-5789(ソウルヴィル・U.S.A.)」(ヒットさせたのはウィルソン・ピケットだが、作者はフロイドとクロッパー)、「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」(オーティス・レディング)など、そしてもちろんフロイドの当たり歌「ノック・オン・ウッド」(66年R&Bチャート1位)もいさましく。発汗。うれしい。さすが。若い観客が多い事にフロイドは感激したようで、何度もなんども彼女たちを指して「ニュー・ジェネレイション!」を連発する。いやあ、次はフロイドのメインのショウを所望したい。ステージ・マナーを含めて、まだまだ見る価値、山のように持っていた。

 六本木・ビルボードライブ東京(セカンド・ショウ)に移動。かなりな、入り。日本における集客力をちゃんと持つミシェル・カミロ(2011年11月10日、他)のショウを見る。彼が昨年出した『マロ・ア・マロ』(ユニヴァーサル)はドラムではなくパーカッション奏者を起用したトリオ作だが、それは毎度の弾けるカミロではなく、きめ細やかなラテン・ビートの流れとともに退いたスタンスで詩情を愛でんとする内容を持っていて味アリ。ライナーノーツ担当盤ということを抜きにして、新たなカミロの顔を出した秀逸盤とぼくは思っている。そして、半年ぶりとなる今回の来日公演はそのアルバムをフォロウする設定。ようは、ウッド・ベーシストと打楽器奏者を従えてのものになる。

 パーカッションはその新作に入っていた、プエルトリコ出身の名手として名高いジョヴァンニ・イダルゴ。彼はラテン系セッションだけでなく、ポール・サイモン作やグレイトフル・デッド出身のミッキー・ハートの録音にもよく呼ばれている。ベース奏者はアルバム参加のチャールズ・フローレスではなくリンカーン・ゴーインズ。そのゴーインズは80年代以降フュージョン界で活動するようになった奏者でエレクトリック・ベース演奏のほうが良く知られるが、今回はすべて縦で通す。NY居住者であったはずだが、MCではLAに住んでいると紹介されていた。カミロとフローレスは一切譜面を置いてなかったが、ゴーインズは譜面を前に演奏。

 その新作ほど退いたり枯れたりしておらず、快楽的なところをカミロは出してパフォーマンス。それはこのセットだけのことかどうかは察しがつかないが、ライヴだとやはりサーヴィス精神の裏返しで、イケイケ傾向になってはしまうのだろう。そして、パッション溢れる彼の演奏を求めるファンにはそのほうが良かったのかもしれないが。

 ともあれ、やはりイダルゴの一挙一動になにかと注視してしまったワタシ。彼はコンガ6つ、ティンバレス(もちろん、つがい)、シンバル2、カウベル2、金属すだれをセッティングし、思うまま演奏。彼がコンガ音で作る音の波〜ベールのようなものはたいそう気持ちよい。その他、小物も複数おいていたが、あまり使わなかったはず。彼は複数ソロ・パートを与えられ、ときにはカミロも横に来て、鳴りモノをならしたりもする局面もあった。とにもかくにも、やはり興味深く、ありがたや〜。


<1941年11月24日〜2012年5月13 日。ドナルド・ダック・ダン、R.I.P.>
 来日ライヴ最終日(12日)を終えた後の港区のホテルで、ドナルド・ダック・ダンが亡くなってしまった。就寝中のことで、日曜朝に確認されたようだ。ダック・ダンが障害を抱えていたのは知っていたので上に書いたように歩行が少し困難でも驚かなかったのだが(お腹はまた立派になったナとは思ったけど。パイプはだいぶ前にやめていた)、そんなに衰弱しているとは感じなかったし、演奏も普通にしていたはずだ。以下のものは、3年半前にブッカーT(2011年9月11日、他)&ザ・MGズで来たときにした質疑応答。彼はビールを飲みながら対応、ベース・マガジンのためにやったものである(通訳をやってくれた中山美樹さんが雑誌記事用におこした)。ちょうど彼の誕生日の取材で、さすがベース・マガジンの編集者はそれを認知していて花を持っていったと記憶する。取材陣でハッピ・バースデイを歌ってあげたっけ。彼はぼくの歌を聞いている数少ないミュージシャンであるのだな。『ソウル・リンボー』と『アップタイト』のことを半端に聞いているのは、ちょうど再発ライナーノーツを頼まれていたから。いろいろと、ありがとうございます。ご冥福をお祈りします。


●現在はどちらにお住まいですか?
◎フロリダ州だよ。タンパとサラソタのちょうど中間にある小さな町パルメットーに住んでいる。メキシコ湾に面した所さ。AC/DCのブライアン・ジョンソンと友達になったんだ。
●いつ頃まで、メンフィスには住んでいたのでしょう?
◎1990年だ。フロリダに引っ越してからもう10数年になるね。あの頃は息子に会う時間もほとんどなくて……ザ・ブルース・ブラザーズや他のバンドと一緒にツアーすることが多くて、夏を楽しめる場所というのがフロリダしかなかった。メンフィスは年中夏じゃないからね。
●スティーヴ・クロッパーとは幼なじみですが、あなたたちが子供の頃のメンフィスはどんな街でしたか?
◎スティーヴとは6年生の時からの友達だ。他の地域と同じで、ロックンロールが始まったばかりだった。リトル・リチャード、チャック・ベリー、エルヴィスなどが出てきて、俺は彼らの心を奪われたね。子供の頃、鏡を見てはエルヴィスの真似をしていたものさ。みんなやってたから(笑)。10年生の頃までは成績が良かったんだけど、音楽と出会ってからはダメ生徒に成り下がった、あはは(笑)。
●最初はギターを弾いていたけど、スティーヴ・クロッパーの方が上手かったのでベースに転向したという話がありますが……。
◎それは違うよ。実は最初の楽器は子供の頃に始めたウクレレだった。俺は左利きなんだけど、同じ通りに住んでいた友達が右利き用のウクレレを持っていて、俺に貸してくれたから、そのウクレレを弾き始めたのが最初さ。それが右利きでプレイするきっかけとなった。その後ギターにも挑戦したんだけど、ウクレレは弦が4本で、ベースも4本だろう? 俺は4本の方が上手く扱えるのさ(笑)。
●左利き用のベースに変えなかったんですか?
◎うん、変えなかった。俺はポール・マッカートニーとは違うから(笑)。左利き用の楽器は高価だし、俺は左利きに変えられるほど利口じゃなかった。
●左利きが自分のベース・プレイに影響したことが何かあると思いますか?
◎あるかもしれないね。これは良い質問だ。俺の左手はとてもアグレッシヴで、ここでとてもハードに引っ張るんだ。これまで一度もこんな質問をされたことがなかったなぁ。俺は左手がアグレッシヴだと思っていたけど、実は右手も同じくらいアグレッシブなのさ。ほら見てごらん(右手を見せる)。俺はこんな病気になっちまったんだよ。これはデュプリーズ・シンドロームと言って、北アイルランド出身の男の家系で出る遺伝子の病なんだ。俺の親父もこの病気だった。この病気の影響で昔ほどのプレイができなくなってしまった。ブッカー・Tの曲とか、今でも弾くのはできるけど、この病気が演奏に影響するようになっちゃってね。ま、普段は気にしちゃいないよ。専門医に見せたら、もし手術したら治るまで6ヶ月かかるし、ベースが弾けなくなる可能性もあると言われてね。それじゃいいやって手術しないで放っておくことにしたんだ。今日で67歳になったんだけど、こうやっても何も感じない(と右手を強く叩く)。足も同じなんだ。
●家系はアイルランド系ということですか?
◎そう、アイルランド系アメリカ人だね。この病気になった時、最初はベースを弾くせいだと思ったんだ。でも医者に見せたら「これは遺伝ですよ」って言われた。
●ザ・MG’ズで演奏していた頃に使っていたベースは何ですか?
◎もちろんフェンダーだよ。最初のベースはケイだったが。ある日、楽器屋の前を通ったらフェンダーのプレシジョン・ベースがショー・ウィンドウに飾ってあってね。当時の俺にとって最高の車を見たのと同じ感動があったんだ。これを弾いたら絶対にカッコいいって思ったね。だけど、俺は貧乏で買えなかった。でも、兄のチャールズが俺のために買ってくれたんだ。後から兄にお金を返したけど、今でもこのベースは持っているよ。58年のプレシジョンさ。
●当時、いくらしたか覚えていますか?
◎うん、ケース付きで400ドルだった。
●ジャズ・ベースにしなかった理由は?
◎たしかジャズ・ベースはまだ発売されていなかったと思うな。このプレシジョンを5弦ベースと交換しちゃったんだけど、ボブ・タッカーという男がいて……これはかなり面白い話だよ。あるとき、彼が「ダック、あんたのベースを見つけたよ。取り戻したい?」って言ってきた。「いくらだ?」って聞いたら、「250ドルだ」って。だが、あれから値上がりして、一度50,000ドルで売ってくれって言われたことがあった。妻には「俺が死んだら、このプレシジョンを売ってメルセデス(・ベンツ)でも買いな。絶対に俺と一緒に埋葬しちゃダメだ」って言ってあるんだ、あはは(笑)。
●これまで使用したベースの数はどれくらいでしょう?
◎2本くらいだと思うけど……本数は覚えていないけど、全部フェンダーだ。レイクランドもしばらく使っていて、彼らはシカゴのメーカーなんだけど、これもとてもいい。最近は飛行機の機内持ち込みに制限があって、上のキャビネに入るものじゃないといけない。昔のように大きなものを座席の下に置くってことをしてくれないんだ。SKJの新しいケースを手に入れたんだけど、俺はそれにフェンダーを入れて、航空会社に任せるなんてことは絶対にしたくない。他人に任せるには高価なもの過ぎるのさ。だからツアーではレイクランドを使っているというわけだ。もちろん楽器自体も素晴らしいよ。本当にいい仕事だと思う。ニール・ヤングとツアーする時には古いフェンダーを持って行くんだ。(プライベート・ジェットだから)彼のツアーでは安心して楽器を運べることが分かっているからね。でも、いわゆる航空会社の飛行機で移動する時には絶対にフェンダーは持ち歩かない。
●レイクランドのシグネチャー・モデルを作る時に特別にリクエストしたことは何かありますか?
◎フェンダーのプレシジョンのボディにジャズ・ネックを付けてある。これはアッシュウッドで、とても軽量なんだ。俺はもう年寄りだから軽い方がいい。ラベロの弦を張っていて、実はフェンダーが最初のプレシジョンで使っていたのと同じ弦なんだ。ジェイムス・ジェマーソン・モデルと呼ばれていて、フラット・ワンド・ストリングだった。俺もフラット・ワンドを使うんだよ。ハードなプレイをするから、ラウンド・ワンドじゃすぐに切れてしまう。
●60年代のスタックスでのあなたの音を聞くととてもアーシーな音なのですが、最初からあのような音を出していたのですか?
◎俺のアグレッシヴでテンダーで愛情に溢れたサウンドは天性のものだと思う。人生と同じだね。ほら、アグレッシブに生きなきゃいけない時もあれば、優しく生きなきゃいけない時もあるし、愛を与えないといけない時もあるだろう? プレイしている曲によって出る音が変わるのさ。俺はとても感情豊かな男で、それこそブッカー・Tの曲で泣くこともある。オーティス・レディングの曲でもそう。ほんと、何て言ったらいいのか……俺は恵まれているって思う、本当に。さっきアグレッシヴって言ったけど、俺はどんな人にも怒りをぶつけることができるんだ。これが奏を功することもあるんだよ。本当に、状況によりけりってやつだね。これ以上ないくらい愛情豊かになることもある。音楽が俺をそうさせるんだよ。
●あなたの演奏を聞くと、周りの人の音をよく聞いて、流れに乗って、他の楽器と会話しているような印象を受けます。
◎そうだな、俺がバンドでプレイする時はちょっとばかり複雑なのさ。音楽を聞く時、(下から上へ)ドラム、ベース、ギター、キーボード、ストリングス、ホーンと色んな楽器が重なってくる中での自分の立ち位置を音楽としてブレンドする所に置くんだ。だから強めにプレイしなきゃいけない瞬間もあるし、ソフトにプレイしなきゃいけない時もあるし、その中間のプレイを求められることもある。自分のことをチーム・プレイヤーだって捉えているね。チームの一員としてプレイしようと努力しているのさ。もし間違ったプレイをしてしまったら、それが奏功することもあれば、明らかな間違いになることもある。
●今のお話を聞くと、プレイヤーでありながらもアレンジャーの感覚も持ち合わせていたように思いますが……。
◎う〜ん、俺はあまりプロデュースはしなけど、プロデュースする時にはアレンジャーになるように努力するね。でも、アレンジャーとしての能力はないと思うな。ブッカー・Tみたいなって意味でね。俺は曲を作らないから。でも音楽を愛しているし、どんな音が合うのかが(本能的に)分かる。それが他人よりも秀でている点だと思うな。
●若い頃に他のベーシストにこれは負けないゾと思ったことは何かありますか?
◎そうだな、みんなのケツを蹴ることかな(笑)。それが上手くいけば仕事になるけど、失敗すればクビになる。
●最も影響を受けたベーシストは誰でしょう?
◎最初に影響を受けたのがB.B.キングのベーシストで名前を覚えていないんだ。「スウィート・シックスティ−ン」をプレイしたベーシストさ。その後がラムゼイ・ルイス・トリオのエルディー・ヤングで、彼はスタンダップ・ベースとチェロを弾く。俺はちょっとだけスタンダップ・ベースをやったことがあるけど、話にならないくらいひどいんだ。あとレイ・チャールズ・バンドとか、ハンク・バラッドとか、とにかく自分が聞いたレコード全部から影響を受けたよ。俺はみんなと同じでヒット曲が好きだったし、ヒット曲を聞いて感動もした。誰がプレイしていても関係ないのさ。(エルヴィスの)「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」とか、ジェイムス・ブラウンの『ライヴ・アット・ザ・アポロ』とか。俺は単純に音楽が大好きってことなのさ。
●60年代のスタックスでは、レコーディングは一発撮りだったと思うのですが、それによって能力が向上したと思いますか?
◎あの頃は……最初にあったのが1トラックのマシンだった。その後2トラックが出てきて、最終的に4トラックが出てきてやっとオーバーダブが出来るようになったんだ。その段になって初めて間違ったらオーバーダブできるって環境になった。そのおかげで間違いを直せるようになったけど、アクシデントでプレイしてしまった間違いが最高のプレイだったりするんだよ。自分でもそんなに凄いプレイしたなんて気付かないでね(笑)。どんなに良いプレイをしようと努力しても、アクシデントでやったプレイに負けることがある。(ザ・MGズのドラマー故人)アル・ジャクソンが今の俺を作ったんだ。彼こそが俺が今まで一緒に仕事をした人の中で最高の人間だ。もちろんそれ以外にも数々の素晴らしいドラマーたちと共演したけど、アルがビートの上にいることを教えてくれたのさ。みんながアルと共演する機会に恵まれたらいいって本当に思うくらい彼と一緒にプレイすることは価値があるんだよ。
●やはりベーシストにとって最も重要なのがドラマーということでしょうか?
◎これは何度も言っていることだが、アル・ジャクソンはスタックスのジェイムス・ジェマ−ソンなんだ。本当に彼は最高で、俺にベースのいろはを教えてくた。ジェマーソンはモータウンの秘密兵器だったろう? スタックスの秘密兵器がアル・ジャクソンってこと(笑)。
●では、ジェマーソンについても一言を。
◎ザ・ベストだね。彼の音楽はよく聞いたし、すごく驚いたけど、彼のプレイをコピーすることができなかった。彼のプレイを少し拝借することはあっても、俺はコピー・キャット系のプレイヤーにはなれない。彼が奏でる音符じゃなくて、彼独特のフィールを拝借したかな。
●スタックス時代の演奏で今でも心に残っているものは何かありますか?
◎オーティス・レディングとの全ての演奏だね。スタックスのアーティストは全員素晴らしかったけど、オーティスは別格のヒーロー的存在だった。それこそエルヴィスやフランク・シナトラやバーブラ・ストライザンドみたいなスターだったのさ。
●ずっとオーティスのサポートをやっていましたが、67年くらいからライヴではザ・バーケーズがバック・バンドを務めるようになりましたよね。
◎当時の状況は、ブッカーT&ザ・MG’sがレコードで演奏していたんだ。でも俺たちはオーティス以外にサム&デイヴ、ジョニー・テイラー等のレコーディングもしないといけなかった。そこでツアー・バンドとしてザ・バーケーズを雇ったわけだ。
●同年暮れに、オーティスが飛行機事故で他界した時、同行していたザ・バーケーズのメンバーの多くも犠牲になってしまったわけですが、ザ・MGズのメンバーがもし一緒にツアーをしていたら……
◎俺たちも死んでいたね。あれはウィスコンシンでの事故だった。
●あの事故の知らせを聞いた時はどんな気持ちでしたか?
◎なるべく短く説明するけど……実は、あの時ザ・MGズはオハイオでプレイしていたんだ。たしかクリーヴランドだったと思う。当時は携帯電話がなかったから、俺は公衆電話から妻に電話をかけたんだ。そしたら妻が「さっきオーティス・レディングと彼のバンドが事故で死んだってニュースを聞いたの」って言った。彼女はオーティスのバンドがザ・MGズだと思っていたらしいんだよ。だから「俺たちじゃないよ。ザ・バーケーズだよ」って彼女に教えたんだけど、俺たちはザ・バーケーズの連中が大好きだったのさ。彼らは若かったけど、本当に素晴らしいミュージシャンだったし、スタックスの次世代のスターになるべき連中だった。
●オーティスらのシンガーのサポートで演奏するときとザ・MGズとしてプレイする時では、多少は弾き方を変えたりしたのですか?
◎演奏は変えなかったよ。たしかにアティチュードやフィーリングは少し変えたけどね。「グリーン・オニオンズ」と(オーティスの)「愛しすぎて」では状況がまったく異なるから。
●オーティスの死後にアトランティックはスタックスとの関係を切ってしまい、それによりスタックスの雰囲気はかなり変わったようですが。
◎俺の部分ではビジネス面での関わりがまったくなかったし、すべての決断はジム・スチュアートやジェリー・ウエイクスラーに委ねられていた。最近ジェリーのお葬式に行ったけど、彼は本当に最高の人間だったよ。とにかく、俺はビジネス面のことはまったく知らなかったし、音楽を演奏していただけなんだ。
●ロブ・ボウマンのスタックス本(「スタックス・レコード物語」シンコー・ミュージック刊)では、あなたはアトランティックが離れる前の同社の”ビッグ6”の一人だったと書かれていますけど……。
◎(後ろから「実はナンバー1だったんだよ」と声がする)いやいや、そんなことは絶対にないよ!(笑) マジで……俺は……6番目さ、がはは(爆笑)。
●アトランティックと切れた後の新生スタックスの1枚目が『ソウル・リンボー』だったのですが、これはどんなアルバムだと思っていますか?
◎お気に入りのレコードだ。『ソウル・リンボー』はお気に入りの曲で、どれだけ好きか、何故好きかは俺のライブを見たら分かるよ。理由の一つを教えると、「ソウル・リンボー」はどんな曲よりもステージで楽しくプレイできる曲なんだ。これは俺の個人的な意見で、きっとブッカー・Tやスティーヴは違う意見だと思うけどね。俺はこの曲が大好きなのさ。
●次に出た『アップタイト』はどうですか?
◎「ソウル・リンボー」ほどの楽しさはないかもしれないな。アルバム全部大好きだけど、とにかく「ソウル・リンボー」をプレイするとオーディエンスの腰が動き出す。それが楽しいんだよ。
●ザ・MGズは68年頃が単独のバンドとしては一番熱気があったように思うのですが、どう思いますか?
◎68年ねぇ。あの時はオーティスとヨーロッパ・ツアーを終えた後で、それまで、自分たちが世界的に有名になっていたことなんてまったく知らなかったのさ。それで、俺は「俺たち、かなりイケてる」って思ったんだな(笑)。
●後年、ボブ・ディランやニール・ヤングなどと一緒にやっているわけですが、現在でも「スタックスの」とか「ザ・MGズの」という形容詞が付くことをあなたはどんなふうに感じています?
◎俺にとっては名誉なことだし、誇らしいよ。それに共演したアーティストたちからも尊敬されている。ニール・ヤングやエリック・クラプトンやボブ・ディランはみんな良い友達だし、彼らから尊敬されるなんて本当に嬉しいことなんだ。喜んでみんなと演奏するよ。ロックの殿堂にブッカーT&ザ・MGズが入った時、「これ以上何を望めるっていうんだい?」って思ったもの。
●もしメンフィス生まれでなく、ベースも弾いていなかったとしたら、今あなたは何をやっていたと思いますか?
◎ゴミ収集人だね(笑)。子供の頃に学校の先生に「ドン、お前はゴミ収集人になるぞ」って脅かされたもの、あはは。
●生まれ変わってもベーシストになりたいですか?
◎これも面白い質問だ。今まで聞かれたことがなかったな。う〜ん、(しばらく考えて)、うん、ベーシストだね。それももっと上手い奴。
●スタックスのサウンドを言葉で表すとしたらどう表現できるでしょう?
◎(しばらく考え込む)ミシシッピ川があるから生まれた音だとか、南部特有の音があるから出来上がった音とか言う人がいるけど、俺には言葉で表すことはできないな。ブッカーT&ザ・MGズに関して一つだけ言えることは、音楽の中に特別な色というのが一切ないってことだね。すべて俺たちの心から生まれたものなんだ。みんなお互いが大好きだし、一緒にプレイするのが大好きで、それこそが俺たちのやっていることなのさ。音楽とかミュージシャンの本質ってそういうことだと思うよ。
●最後に、若いベース奏者へのアドヴァイスをお願いします。
◎俺のアドヴァイスは……音楽を愛せってこと。そして音楽をしっかりと聞くこと。俺がジェマーソンのフィーリングを拝借したように他のプレイヤーからプレイを借りることもOKだけど、絶対自分を失わないようにしろ!

 毎年日本にやってきていろんな顔を出してくれる在NYカメルーン人のボナ(2011年1月25日、他)だが、今回はこれまでになく、変化ありと書けるか。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。

 トロンボーンとトランペットの2管楽器(サックスが一角を占めることもあるがここのところの来日はずっと2管でことにあたっている)、ピアノ、2人の打楽器、そして、歌と電気ベースのボナという布陣。電気ギターとドラム奏者がいないというのは初めてのことで、鍵盤奏者も電気キーボードは使わずアコースティック・ピアノに専念するというのも初めてのこと。で、そんな編成で何がやりたかったかと言えば、ラテン・ミュージックだったんですね。一時、ブラジル音楽色を強めたボナは徐々にラテン濃度の強いことをやるようになってきたのは事実なのだが、ここまで徹底して中南米志向をとった実演するのは初。それが如実に表れているのが、ドラムレスという編成なのですね。

 過去のアフリカ色を持つボナ自作曲もラテン調で披露。打楽器を担う2人のキンテーロさんはベネズエラ出身の従兄弟とか。ホーン音のリフもはまり、ピアニストのオスマニー・バレーデスはラテン流儀に沿いつつ、ときどきジャズ的にはみ出すフレーズを突飛に出したりする。それソロをとる時間の短さからくるイビツさであると判断したが、事情通によるとヨスバニー・テリー(2010年8月22日)とも仲良しらしい彼のリーダー作は不埒とカっとびが共存するラテン・ジャズ盤だそうだ。彼とボナは1曲、デュオで静かな曲も披露。その際、なぜかぼく、咳が止まらなくなって超困った。

 過去の公演、ボナは大好きなジャコ・パストリアス/ウェザー・リポート曲のカヴァーを必ず演奏してきたが、今回それはやらず。後半は、タップダンサーの熊谷和徳(2010年9月3日)が出て来て2曲お手合わせ。ちょっととってつけたような顔合わせだとは思ったが、噛み合いと妙味はなかなか。しかし、やっている姿が見えなきゃ、タップダンスは音のヴァリエーションが狭い只の打楽器音になってしまうわけで(この記述を見て、おこるタップ・ダンス愛好者がいるか)、ただでさえパーカッション音が目立つサウンドの中に入る熊谷は大変だったろうし、健闘していたと思う。

 次は、アーロン・ネヴィル(2004年9月18日)の出る、六本木・ビルボードライブ東京に。

 サポートは弟のチャールズ・ネヴィル(2000年1月12日、他)や前回のザ・ネヴィル・ブラザーズの来日公演(ぼくはスペイン行きと前後して見ることを断念した)にも同行した日本人ギタリストの福田眞國、アーロン・ネヴィルの近年のリーダー作に参加しているキーボードのマイケル・グッズらがサポート。ベーシストとドラマーはそれほど著名な人ではないと思うが、コーラスも巧みにつけつつ、間違いない演奏を披露。ようは、無理のない、いいバンドでした。

 ダック・ダンさんより1歳年上らしいアーロンさんはかなり元気な感じで、何より歌声がまったく衰えていない。もう、滑らかなファルセット・ヴォーカルが会場内にある余白をすうっと埋めていくかのように満ちる様には言葉を失う。顔つきも体躯も、なにもかもしっかり。良い良い、良すぎます。

 サム・クックの「グッド・タイムス」で始まったショウはヴァン・モリソンの「クレイジー・ラヴ」やホール&オーツの「サラ・スマイル」など意外なカヴァー選曲のもと、ゆうゆうと遂行されていく。ネヴィルズの「イエロー・ムーン」も歌ったけか? 終盤にはボブ・マーリィのメドレーもやった。どれも味わい深く、曲自体の良さと彼の妙味が解け合い……、あー夢心地という以外、何もいえないじゃないか! なお、MCで次のアルバムはドゥーワップ曲を歌ったアルバムであることを告げ、それ風のものもやった。その新作はブルーノート発でキース・リチャーズが制作関与という話もあるが。

 そして、露骨にニューオーリンズっぽいことはやらないのに、じわわーんとその味が横溢している様に降参。ぼくはかつてニューオーリンズに行った際、言葉を超えた“ゆらぎ”ともいうべき情緒を覚えたのだが、そのゆらぎをもっとも歌を通して出せる人物がアーロン・ネヴィルなのではないのか。あまりにいい感じのショウに接しながら、ぼくはそう思わずにはいられなかった。実はバンド音の出音はかなり大きかった。だが、アーロンの歌声はメロウきわまりなく、そしてどの楽器音にも負けていなかった。

<翌日の、わわ>
 朝の3時すぎまで飲んでいた。金曜にやはり同時刻まで飲んでいたときと、ほぼ同じ顔ぶれ。よく、ライヴで会うねー。よく、飽きないねー。ながら、例によって9時には自然に起きる。目覚まし時計をちゃんとセットするのは、年に10回もないかなー。普通、2度寝はしない(あまり、できない)のだが、J1の土曜にあった磐田と鹿島の試合放映を見ながら、またZZZ。で、次に起きたら17時すぎ。うわー。少なくても、ここ5日間はなんら根がつまること、疲れることは一切していないはずなのに。どーして、こんなに寝れる? 

 まず、渋谷・クラブクアトロで、実直系UKロックバンド(2010年10月27日)を見る。再結成後に加入したギタリストが抜けてトリオ編成になったようだが、もともとの3人だし、別に問題なし。骨太な感じはこのほうが出やすいかもしれぬ。がっつり堂々、地に足つけた感覚と疾走する感覚をうまく掛け合わせるバンドであると再確認。ブリティッシュ的濁りのないアーシーさ(って、変な書き方だが)があるとも感じた? あと、彼らがけっこうルックスのいいバンドであるのも今回認知できた。

 そして、この日も公演をハシゴ。青山・プラッサオンゼで、ブラジル音楽と繋がりを持つ曲者奏者のインプロ系ライヴを見る。ショーロ・クラブ(2002年3月24日)の沢田譲治(電気ベース、生ギター、歌。2011年7月24日、他)とパーカッショニストの渡辺亮のお手合わせ。なんでもあり、創意と茶目っ気と歓びと、はちゃ滅茶と。やりたいことを思いつきで笑顔のもとやりまくるということで、“ぼくらはパラダイス”というユニット名にしたのだろうか。また、フルート奏者の緒方ミツルが後半くわわる。最後は、とくに沢田が無礼講状態なり。

<今日の、ジュリエッタ>
 終演後、ひょんな流れで、沢田さんが乗っている、古い最高にイケてる時代のアルファ・ジュリエッタの写真を見せてもらう。この頃はまだ車幅が狭いので、とってもヘッドライトが大きく見える。奇麗、アート。うらやまし〜。

 赤坂・草月ホールでの、南米のオルタナティヴな何かを持つ担い手が複数出るイヴェント。

 1部は、アルゼンチン勢の巻。まず、ギタリストのキケ・シネシが出て来て、複数のギター系楽器(7弦生ギター、チャンゴなど)を演奏する。フォークロアからクラシックやジャズまでを超然とした俯瞰するような演奏。シネシはアルゼンチン人バンドネオン奏者のディノ・サルーシのECM盤なんかにも入っている。ピッキングやフィンガリングとか、彼は妙なひっかかりや抑揚を持っていたりもする。数曲やったあとは、やはり同様のジャンル超越性を持つピアニスト(部分的には詠唱も入れる)のカルロス・アギーレ(2010年10月16日)が加わり、ほんわか協調。さあっと控え目ながら美味しい誘いがさらに場内に舞う。

 そして2部には、ブラジル人男女デュオのヘナート・モタ&パトリシア・ロバートの登場。ブラジル的柔和さとインドのマントラの間をしなやかに行き来する、不思議の国の彼らのアコースティック・ポップ表現もまた聞き手を別の地平へと導く。こちらには、ハーモニウム他を演奏する外国人男性(ちらしには、Mayaとある)とコントラバスの沢田譲治(2012 年5月15日、他)が格調高く寄り添う。しかし、昨日は電気ベースをぺにゃぺにゃ弾いて奇声を上げていた人と同一人物とは思えない。それゆえ、ぼくは彼の深い才とスタンスをより実感するものだが。

 そして、最後はみんな一緒にアギーレの優美曲を和気あいあいパフォーマンスする。ほんと自然で、いい感じ。国籍も言葉もバックグラウンドも違うながら、今のある種の南米のミュージシャンたちのボーダーレスな持ち味や姿勢の親和性が興味深かった。あと、やっぱ、サッカーの強い国は音楽もおもしろい。と、ふと思った? なお、いつもより音量は低い公演なはずなのに、なぜか横を通る地下鉄の音が聞こえるというこのホールの欠点があまり気にならなかったのは不思議。やはり確固とした静寂は騒音を駆逐するのか? なあんて、ね。


<今日の、Jリーグ>
 プロ・スポーツ(ま、マチュアも含めてか)ではサッカーが一番好きであるのだが、久しぶりに今年はJ・リーグをわりとマメにチェックしている。理由は、スポーツ・チャンネルでイングランドのプレミア・リーグ(やロシアやオランダやフランスのリーグも一部は見れるナ)だけじゃなく、かなり多くのJ1とJ2の試合を放映していることをやっと認知し、今年はけっこうその番組を見ているのだ。Jリーグより海外リーグのほうが面白いとし、あまりJリーグを相手にしない人もいるが、とにかく今年はいっぱしのJウォッチャーでいたいと思っている。そして、できるなら、すこしでもスタジアムに足を運びたいとも。←それはあまり実現できなかなー。だが、そう心がけると、試合の組み方の不備が気になる。首都圏に住んでいれば一試合ぐらいは週末に試合が見れて然るべきである(地方の人には申し訳ないが、それは人口の多い所に住んでいるものの特権だ)のに、すべて地方の試合になってしまっているときがあるのだ。それじゃ、人も入らなくなるよな。そのぐらいのやりくり、PCでできないのか。ともあれ、やっぱり足元のリーグを大切にしたい。……耳に入るものは拒否してはこなかったけど、基本はずっと洋楽を主に聞いてきているぼく。それ、サッカー享受に置き換えるなら、Jリーグをないがしろにし、リーガ・エスパニョーラやプレミアを熱心に追っている人となるのだろうか。うーむ。
 最初、どーなることかと思った。メンバー(オリジナルの3人を含め総勢12人だったか)が出て来てショウが始まったと思ったら、音が小さい。押し出しが弱く、バンドの質が低いのかと思ってしまったじゃないか。徐々に音は大きくなり、そうした所感は散ったが。

 これまでで、一番有名曲満載のショウ。というか、それのみで固めたパフォーマンス。40周年を祝う公演(正確には41年か42年)と謳っていた。まあ、それならば、もう少しステージ美術に凝ってもいいのではないかという話に、知人と流れた先でなったけど。リタイアした兄のモーリスと違い、弟のヴァーディンは体躯もスマートなままで元気、ベースをぶいぶい弾く様はお金が取れる。フィリップ・ベイリー(2011年10月19日、他)は今までで一番ファルセットに頼らず。他の人が歌ったりもしていた。ただ、ときに力まかせに出すファルセットの声量はそうとうデカそう。かなり、マイクを離していた。それから、前回時のライヴのとき(2006年1月19日)にフロントに立つ人たちがけっこうパーカションを叩いていて<彼らはラテン・ファンク・バンドでもあったのだ>と書いたが、この晩はラテン度はそなに高くなかった。尺は1時間40分ぐらい。

 有楽町・東京国際フォーラム/ホールA。満員だったが、その観客の発情のし具合と言ったなら。まじ、ハンパねえ。今、米国のファンク系バンドで、日本でこのぐらいの規模のライヴをできるのは彼らしかないわけだし、今回のオーディエンスの様を見てEW&Fの人気のすごさを実感したか。一番最後の曲は、「イン・ザ・ストーン」。まだ、モーリスが元気だった95年のころ(日本で、『ライヴ・イン・ヴェルファーレ』が作られたとき)は公演のオープナーだった曲だよなー。

<ここのところの、悲報>
 この16日にワシントン・ゴー・ゴーの巨人、チャック・ブラウンが病気で亡くなった。一昨年の公演(2010年3月18日)のさい、まだ元気だと思えたが、75歳だとそれほど早死ではないよな。今その悲報に接して思うのは、ライヴを見ておいて良かった! 見てなかったら、かなり後悔を覚えたのは間違いないわけで。レコードは後追いできるが、ライヴ・パフォーマンスは基本それが不可能。それゆえ、実演の場に熱心に足を運ぶワタシではあるが、今後アーティストの年齢によってはもう一度その勇士を脳裏に刻んでおくためにライヴを見にいかなきゃと、と思うようになることが多くなるのかもしれない。
 ところで、どうしてこのところミュージシャンの悲報が多いのかとか嘆く人がいるが、そういうナイーヴな捉え方はぼくにはできない。R&Bにせよロックにせよ、かなり長い歴史を持つようになってきていて、それだけ高齢になる人が増えており、必然的に鬼籍入りする担い手が相次ぐのはしょうがないと、ぼくは思っているから。悲しさや寂しさは覚えるものの、それ以上のセンチな受け取り方はぼくはナシ。異常に好きとかやりとりがあったとか訳ありのミュージシャンをのぞいては……それとも、皆そんなにワケありの人が多いのか。とか、人に言ったら、それはもっと長い歴史を持つジャズも聞いていて、とっくに死んじゃった偉人をいろいろと知っているからじゃないの、と指摘された。ジャズはともかく、ブルース好きだったりすると、過酷な状況に生きた人が多いために早死比率はもっと高いので、確かに免疫はつくかもしれない。

 まず、南青山・ブルーノート東京で、名ドラマーのリーダー・グループ公演(2010年11月11日、他)を見る。2サックスのクインテット編成、構成員に変化はないようだ。やはり素晴らしい、グループ表現としての好感度ジャズを送り出す。それを聞いて息を飲む、と書くと大げさか。

 今年のジャズの実演だとロイ・ハーグローヴの公演(2012年3月23日)はベタ褒めしているが、ハーグローヴのほうは王道で基本穏健なのに対し、ブレイドのほうは純ジャズの真価を見つつより新しい窓を見ようとするという言い方もありだろう。ただし、そうであっても過激&饒舌にならずに、そうしたツっぱった行き方を取れるのだから舌を巻く。とともに、そんな甘いも酸いも知っている人が一方ではフォーキーな歌モノのブループ(2009年7月20日)をやったりするのだからうなる。いや、そういうことをできる人だからこそ、起承転結/ストーリー性のある清新なジャズ表現をモノにできるとも言えるか。彼はジャズ側で活動しつつも、ボブ・ディラン他ポップ側作品に参加することで知名度を得て、ジャズ・マンとしてのリーダー契約を得るに至った御仁(として、いいはず)。やはり、ブレイドのような逸材に接すると、様々なことに臨機応変に関われるのはきょうび善であると言わざるを得ない。

 その後は六本木・ビルボードライブ東京に移動して、往年の米国化け物グルーヴ・ロック・バンドのリトル・フィート(2000年12月8日)を見る。満員。オリジナル4人+2人。打楽器のサム・クレイトンが一番老けていなかった。2012年4月21日の項で彼らについてのぼせたことを書いているが、ふふふと楽しむ。とうぜん、故ロウエル・ジョージのリード・ヴォーカル曲もまんべんなく。楽器ソロはとるべきところは取っていたが、やはり垂れ流しではなかった。非オリジナル・メンバーながら付き合いは超長いフレッド・タケット(ギター、『ディキシー・チキン』のころから関与)が上手ではないトランペットを吹かなくてよかったア。一応、ステージにはおいてあったからな。で、やはりザ・バンド曲のカヴァーもやったが、曲は「ザ・ウェイト」。不満はきっちり70分のパフォーマンス時間であった事、あと10分やってくれたなら。客は少しガラが悪い感じで大盛り上がり。なんか往年のブルース公演のごとし。あれだけ受けたんだから、また来るでしょう。

<昨日の、日食>
 金還日食が次にあるのは23年後(うぬー、生きているかなあ)とか。そりゃ張り切って見るのが普通だと思うが、ぐうぐう寝てました。朝が明るくなりかける頃までは飲んでいて、起きてるのもアリとは思ったんだが、幸せに沈没。ま、目を痛めるのを本能で避けた、ということにしておきましょうか。でも、そのときの写真を見ると、見る価値はぞんぶんにあったと思わせられます。

 まずは六本木・ビルボードライブ東京で、レイチェル・ヤマガタ(2009月2月16日)のショウを見る。入り口で、ツアーの合間のエミ・マイヤー(2012年6月5日、他)から声をかけられる。次の彼女のアルバムはヤマガタのバンドのギタリスト(いろんな弾き方ができるロック・ギタリストだな)が関与しているそう。すでに、マイヤーとヤマガタは顔を合わせていたらしく、ヤマガタはMCで彼女が今日来ていると言っていた。

 ギターやキーボードを弾きながら歌う本人に、ギター、ベース、チェロ、ドラム奏者がつく。というのは、ほぼ前回と同じ設定。ながら、前回時(2009年2月16日)ほどグっと来る訴求力は感じる事ができなかった〜とともに、楽曲に前ほどの輝きを覚えなかった〜のはなぜだろう? いいソング・ライター/パフォーマーであるのは間違いないわけだが。前回のライヴの項にも書いているが、彼女は鍵盤を弾きながら歌うほうが味がいいと思えるのだが、ギターを持って歌ったときのほうが多かった。この会場には生ピアノがあるにも関わらず、電気ピアノの音が出る電気キーボード(布をかけて隠していてメイカーが分からないようにしていたが、ノード・エレクトロを使っていたのかな)を使っていたのは、観客と向かい合って歌を歌いたい(アコースティック・ピアノだとそうはいかない)という意思が働いてのものと感じたが。ギターを持ちたがるのも、その理由から?

 その後は、飯田橋・日仏学院のラ・ブラッセリーで、トリオ・バンドのムスタングを見る。彼らは今年のグリーンルーム・フェスティヴァルにも出演したはず。基本は、フレンチ・ロカビリー。ベース奏者はスタンダップではなくエレクトリック・ベースを弾いていたが、まあ今っぽい心意気の迸りと少しレトロな気取りやこだわりが気安く送り出されていた。

<今日の、神楽坂>
 日仏学院から飯田橋のほうに歩いていったら、神楽坂がけっこうなにぎわい。わー、と同行者とはしゃぐ。で、ビルボードライブの前から1軒寄ったりしていたのだが、つられてするする坂を上る。で、1本開栓。楽しいな〜。その後、もう一つバーをハシゴしたりして。ここのところ、電車で帰る日が本当に少なくなっていて、ちょびっと反省。してないか。でも、まじ、ブログ原稿を書く時間がな〜い。

 NYベースのオルガン・ジャズ・ファンク・トリオ(2010年5月28日、他。うち2人は、2011年11月22日にもセッションで来日)の今度の公演はアルト・サックス奏者のカール・デンソン(2001年4月4日、2001年8月3〜5日、2002年7月28日)を伴ってのもの。両者ともジャム・バンド・ミュージックのムーヴメント隆盛でファンを拡大した経緯を持ち、同じボウルの中にいると言えるかもしれない。ただしインタヴューをすると前者はジャム・バンドと言われることを嫌い、後者はそれを肯定する。

 デンソンの来日は久しぶりだが、彼のバンドであるタイニー・ユニヴァースは2000年代前半にフェラ・クティ流れのアフロ・ビートをやらせたら一番巧いなんて言われたこともあり(その後、ザ・オールマン・ブラザーズ・バンドのツアーに入ったこともあった。デンソンが入ったオールマンズの簡便ライヴ盤はいろいろ出ている)、そっちのノリが入るかと思ったら、残念ながらそれはなし。また、デンソンはリーダー作においてはシンガーとしての姿を出すことも心がけているが、歌うこともなし。基本ソウライヴにサックス奏者が普通に入ったというノリでライヴは続いていく。大きな驚きがないのは残念だが、安定した手堅いパフォーマンスを披露。なんか、近くにいた若い女性がサイコーと同行者に言いながらぎんぎんに身体を揺らしていたのが印象的。そういうのに触れると、なんかこっちもうれしくなる。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。

 そして、南青山・ブルーノート東京に移動して、リジェンダリーな個性派歌手/ピアニストのモーズ・アリソンのショウを見る。84歳、初来日になるのか? 2010年秋だかに来日が予定されたことがあったが、そのときは健康の問題かなんかで中止になった。50年代からジャズとブルースその他がほつれたようなマイ・ペースのピアノ弾き語り表現を志向し、我が道を歩んで来ている人。真性モッズのジージィ・フェイム(2009年9月2日、他)も米国粋人ベン・シドラン(2010年7月28日、他)ももちろん彼の影響からは逃れられない。他にも、同業の信奉者/フォロワーは山ほどいるはずだ。

 けっこう元気そうにステージに登場したアリソンは、見事なほどに無勝手流。へーえ。気ままに鍵盤に指をはわせ、のんきな声をのせる。曲選びもまったく気分一発なようだ。なんでも、メンバーには曲目ではなく、番号でやりたい曲を伝えていたという。縦ベース奏者とドラマーもかなり年長の方々で、すっと一緒にやっているのだろう、そんなアリソンに無理なくついていく。細心のサポートを見せるドラマーにヤラれた人も少なかったようだ。

 どこか米国の深層ともつながるシンプルな歌を音痴気味の歌で紡ぐ、ということで、ぼくは望外にランディ・ニューマンのことを思い出したりもした。ま、どっちにしろ、無形の物言い〜気の遠くなるような滋味や奥行きあるストーリー・テリングがあったということです。あ、それから、彼の新作は2年前に出た『ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド』(アンタイ)はジョー・ヘンリー(2010年4月2日、同4日)のプロデュース作だが、この日のさりがない自然体実演に触れると、うまく質感が立った商品に昇華されているんだなと思った。
 
<今日の、ライヴ後>
 さすが巨匠、こんなに知り合いと顔を合わせた公演は初めてかな。ぼくが座ったテーブルに続々一人で来ていた知人たちが座っていき、大笑い。そして、そうじゃない人とも終演後には流れて、延々酒宴。ぽんぽん、ワインのボトルが開いていった。お開きになり、久しぶりに飲んだ中川五郎さん(2005年6月17日、他)とタクシーに乗ったはいいが、飲み足りなくて、一人で途中下車するぼく……。夜中でも山手線って貨物列車が通るのを初めて知った。

 フィンランドの楽器マエストロ、3人が出演する公演。その道の好事家だと、こりゃスペシャルだあと膝を打つのだろう。大御所トラッド・グループであるJPPのお二人、ヴァイオリン奏者のアルト・ヤルヴェラとピアニストのティッモ・アラコティッラ。そして、インターナショナルな知名度を誇るアコーディオン奏者のマリア・カラニエミが寛いで重なり合う。3人でやるときもあれば、ソロ演奏のときも、デュオでやるときもあり。自在。そしてカラニエミは歌を披露するときもあったし、フリッグ(2012年4月10日)の面々が住むヤルヴェラ村の先輩であるアルト・ヤルヴェラは同地の伝統楽器なのかトンコリみたいな弦楽器を弾いたりもした。また、なぜかタンゴを演奏したりもした。何をやるにも、澄んだ情緒、柔らかな上品な姿勢のようなものが宙に舞う。富ヶ谷・白寿ホール。

<今日の、夜景>
 休日の渋谷を久しぶりに徘徊したあと、そのままのんきに歩いて、会場へ向かう。とちゅう中古盤屋によったら、 客の外国人比率がけっこう高くておどろいた。白寿ホールは同名の会社社屋の上階にあるホール。基本、クラシック用途だろう整った、奇麗な会場だ。同社はサプリや安楽椅子を販売する医療関連アイテム販売の会社らしいが、はぶりがいいのだな。で、その上階は展望テラスのようになっていて、眺望がとても良い。会場で売っていたビールを片手に行ったら、もう最高。すぐ下には代々木公園があり、その他メトロポリス東京の夜景が見目麗しく広がる。東京スカイツリーも見えた。いやあ、ちょっとした、リゾート的息抜きをした気分……。

 気持ちよ〜い。さわやか晴天、野外公演には最良の1日。日比谷野外音楽堂。もう、公園内に入ったとたん、のんびりした雰囲気と緑が身体をなで、ニコっとなる。毎年のことだが、会場外の近辺にはこぼれてくるパフォーマンス音に耳をかたむける人たちの姿が。それ、本当にいい光景なり〜。場内は立ち見がかなり出てもいた。

 冒頭の2組は日本人アクト。毎年楽器セッティング変換の間を漫談歌唱演奏でつなぐゴトウゆうぞう(歌、ハープ、カリンバ、三線)とカメリア・マキ(ギター)たちがまずバンド編成で前説的なよびこみパフォーマンス。沖縄出身アーシーなジャズ歌手の安富祖貴子も3曲ぐらい豪快な喉を披露したか。そして、近藤房之助(2011年6月16日、他)バンドの演奏。御大、遠目に格好いいなあ。ハープはKOTEZ(2010年1月12日、他)。

 その後の、サニー・ランドレス(2003年5月25日)は自己バンド(トリオ)でのパフォーマンス。なるほど、ギターはうまい。驚いたのは、スライド・バーを小指にはめ、単音系の音はすべてスライド奏法で出していたこと。アルバム聞いて普通の指弾きで弾く場合もあるのかと思っていたのだが、それは過剰に秀でた技巧ゆえ。例えるなら、フランク・ザッパが絶妙な運指で表出するよがりまくる単音弾きソロ音と同じようなものを彼はさらりとスライドで出してしまう。だったら、別にスライド使う必要ないじゃんとも一瞬思わなくもないが、その正確な小指さばきが導くテクニシャンぶりはすごい。とても高い位置にギター構える彼は、けっこう曲ごとにギターをかえていた。ときに味のない軽量級の歌も披露するが、基本はどこかにブルース愛好を根に置く流動性の高いインスト表現者。その音楽は、米国プログ・ロックとも言いたくなるか。そういえば、来日記念盤となった彼の『エレメンタル・ジャーニー』(ソニー)はストリングスも用いて描くスケールの大きな絵巻的表現作だ。

 最後は、2年連続で来日する、ホワイト・ブルースの巨匠である、ジョニー・ウィンター。ギター、ベース、ドラムからなるワーキング・バンドを伴ってのもの。その時点で、6時半すぎ。まだ、空は明るい。陽の長さを実感する。よちよち出て来た御大は1曲目を演奏を立ったままする。それ以降は座ってやったが、まだ矍鑠なよう。元気といえば、採用するテンポがそう思わせる。本当にBPMの高いがちんこなサウンドをバンドに出させ、そこに力任せのギター演奏と歌をのせていく。総じては、昨年のパフォーマンス(2011年4月13日)と同じような感じ。

 ランドレスの演奏時もそうだが、満場のお客さん(例によって、男性比率が高い)の反応が暖かくも熱烈。もうやっている側は光栄至極だったのではないだろうか。お客さんにも拍手を。ウィンターの「モージョー・ワーキング」や「ジョニー・B・グッド」とかでは、リフレイン時にかなりコール&レスポンス状態となった。


<今日の中吊り>
 会場に向かうため電車に乗ると、車両まるごとドイツ観光局のPRがなされている。ドイツ流れで、メルセデスやワーゲンの広告もあり。そういえば、六本木のミッドタウン前のメルセデスのショールームは贅沢。作りもそうだが、周囲のビルに囲まれて、その建物だけ二階建てなのだ。それを見ると、車両価格に過剰に利益が上乗せされているのをほのかに感じることができる。輸入車は車両価格もそうだが、車検/修理代をもう少し下げないか。今年秋の車検はいくらかかるかなー。
 追記;昨年できたこのショールームは今年暮れまでの期間限定の施設であるという。情報、いただきました。
 この<根暗さ>はすげえな。と、書くと、否定的なニュアンスも出る? いや〜、昼間に快楽的なことにかけては70年ごろのUKロック・バンドのなかでもトップ級であると言わざるを得ないフェイシズの長目の原稿(シンコーから出るスモール・フェイシズ特集ムック用)を書いていて、その音を聞きまくった後にクリス・ポッターたちの音に接したので、余計にヒィ〜とはなった部分はあると思う。けど、今ここまで真摯に尖りを含む暗さを出せる人がどれだけいると言うのだ。それこそは、タイトなビートや電気系楽器も採用し、一歩間違うとハード・フュージョン的な印象を与えることになるかもしれないポッターのグループ表現の生命線であり、リアル・ジャズであらんとする彼の強い意志の発露であると思う。

 技巧と現代感覚を天秤にかけることに自覚的な通受けリード奏者のリーダー・グループの公演は、丸の内・コットンクラブ(ファースト・ショウ)にて。彼はパット・メセニー(2012年3月3〜4日、他)のこの夏の欧州ジャズ・フェス・サーキットに、ベン・ウィリアムズ(2012年3月3〜4日、他)とアントニオ・サンチェス(2011年7月20日、他)とともに同行することにもなっている。なんでも、その新カルテットでレコーディングもすませていて、ツアーに合わせてリリースされるという情報もある。

 テナーとベース・クラリネットを吹く当人(1971 年生まれというデーターよりけっこう年長に見える)に加え、アダム・ロジャースとフィマ・エフロン、ネイト・スミスという布陣にて。ノラ・ジョーンズのデビュー作他いろんなアルバムに参加するロジャースは浮遊感ある響きのギター演奏を志向し、デイヴィッド・トーン(2000年8月16日)やデイヴィッド・フュージンスキ(2012年2月10日)らギタリストから評価の高いエフロンは電気ベースに専念。そして、デイヴ・ホーランドのグループにも在籍するスミスの叩き口(マッチドとレギュラー・グリップを使い分け、シンプルなキットを身を乗り出して叩く)にはけっこう驚く。クリス・デイヴ(2010年12月16日、他)ほどほころびてはいないが、十二分に今っぽい立ちと気持ちよいズレの感覚を持つビートをごんごん送り出していく様にはイエイ。が、一方、コンビを組むエフロンには少し否定的な感想を得る。自分でもジャズは縦ベースじゃなきゃというこだわりが強すぎるのは自覚するが、やはりこの晩もベーシストがウッド・ベースを弾いていたならどんなにもっと入り込めたかと思ってしまったからな。悪い奏者ではないはずだが、グルーヴをそれほど前に出さない技巧的エレクトリック・ベース演奏をぼくは好きじゃないんだろう。そういう場合、“ペラ男奏法”なんて揶揄したりするワタシであります。

 アンコール曲は2006年作で披露していた、レディオヘッド(2008年10月4日、他)の「モーニング・ベル」。ポッターはオリジナル志向のジャズ・マンながら、ときにロック曲を取り上げている。

<ここのところの、妙>
 いい気候だが、陽が暮れるとけっこう涼しさを覚え、過去もこの時期はこんな感じだったけかと思う。寝る時なんて、ちゃんと行儀よく布団にくるまって寝ているものなあ。海外に出向くと昼夜の寒暖の差が大きくおおおとなる場合が往々にしてあるが、今年はそういう経験を思い出したりたりも。それから、気候で妙といえば、ここのところ天候の急変も多い。晴天と思っていたら、急に暗くなって雷がなったり、雨がザーっと降ったり……。今日もライヴを見に出たら、晴れだったはずなのにほんの少し雨がちらつき、傘を持つ。
 昨年に続いて来日、今回は六本木・ビルボードライブ東京(ファースト・ショウ)。TM・スティーヴンス(2001年10月31日、他。日本語のかけ声、ベース、歌)らを含むパフォーマンス、前回(2011年8月12 日)のノリを引き継ぐ感じ、と言えそう。ステージ上には、総勢15人ぐらいいたのか。無駄にいる感じのあるスタッフも含め、ご一行は何人でやってきたのだろう。御大はドバっとやってはステージから下がり、その他の人たちにステージをまかせ、そしてまたお召替えして奥さん(派手な持ち上げ役)と出て来てまたやって、またまたひっこんで、さらにピカピカ服を着替えて出て来て……という、様式はこれまでどおり。サウンドは前より、ちょいまとまっている感じはあったか。それは、近くでやっている姿を見ることができたからか。やはり、それだと情報量はより直接的、かつもっと濃く膨大なものになる。

 そう、すぐ側で見れた幸福につきる。そして、ブーツィのちょっとした声の張り上げでも、滅茶苦茶なベースの一撃でも、ちょっとした仕草でも、この人はブラック・ミュージック街道を彩るファンク異才/偉人なのだと感激できる。でもって、その様が手に取るような感じで見れるというほは、何ものでもない幸せじゃあという感激を引き出すのだ。ああ、僥倖。

 主役がいないとき、TMはフィーチャーされもするが、歌うのがスライ・ストーンの「アイ・ワナ・テイク・ユー・ハイアー」ってのは??? 昨年も、それを歌ったけか? P-ファンクの曲をやらないんだったら、TMのオリジナルをやってほしかった。いいぢゃん、それぐらい。でなきゃ、ロック派たる彼にあわせて、ファンカデリックの「フー・セズ・ア・ファンク・バンド・キャント・プレイ・ロック?!」を! ブラックバード・マックナイト(ハービー・ハンコックのヘッドハンターズに入っていたことあり。cf.ライヴ盤『洪水』)をフィーチャーするヘヴィなギター・インスト「コズミック・スロップ」もやっていたわけだし。バンド員はみんな黄色いT-シャツを着用。TMもそれに従っていたが、お洒落な彼、本当はそれには抵抗があるのではないか。

 最後のほう、ブーツィはフロアにおり、ときに客席の椅子の上に立ったりし、客をあおる。だけでけでなく、動き、沢山の人と厚い包容をかわし続ける。それ、女性だけなく、男性ともきっちり。うわー、すんごい<ファンク博愛主義者>! その様に接すると、それをすること、求められることがなんらおかしくないリジェンダリーな男性であるともスカっと痛感させられる。その様、上階横の客席から俯瞰していたら、すごい光景だったろうな。

 そして、南青山・ブルーノート東京に移り、リーダー作をそれぞれに出す名手/個性派たちが集まったカルテット、ジェイムズ・ファームを見る。テナー・サックスやソプラノ・サックスのジョシュア・レッドマン(2010年9月5日、他)、ピアノのアーロン・パークス(2008年11月22日、2009年2月3日)、ウッド・ベースのマット・ペンマン(2011 年7月4日、他)、ドラムのエリック・ハーランド(2008年4月6日、他)という内訳で、昨年1枚リーダー作を出している。そこには、各人が思いとワザを凝らした、それぞれの単独オリジナル曲が10曲収められていたが、この日演奏した曲もそうだったろう。ファースト・シィウとセカンド・ショウは完全に曲を変えているという。

 詩的だったり美的だったりする仕掛けや構成をこらした“器”のもと、それぞれが趣向をこらしたソロを開く。けっこう抑制の美学をいつも出すレッドマンだが、この晩の演奏はこれまで見たなかで一番熱を放つ局面もあったか。とにかく、我々は大志と能力と広い視野を持つ現代ジャズ・マンであり、我々はそれをすべからく行使したいという気持ち渦巻く演奏が繰り広げられたのは間違いない。


<今日のブーツィ、来月のプー>
 そういえば、日本人で一番神憑った才を持つジャズ・マン〜その『ススト』(CBSコロムビア、81年)はプリンスの調子いいときの表現とまったく同じレヴェルに達した逸品であった〜である、菊地雅章(2004年11月3日、他。愛称は、プーさん)はブーツィ・コリンズのことをありゃ天才と言っていたことがある。彼の駄作『ドリーマシン』(パイオニアLDC、91年)は制作者であったビル・ラズウェル(2011年3月7日、他)流れでブーツィやバーニー・ウォレル(2007年8月3日、他)が入っており、そのセッションを受けての発言だった。その前から、ラズウェルは菊地に接近していたが、彼は「あいつは好きじゃない」とインタヴュー時に言っていたことがある。なのに『ドリーマシン』で絡んだので、それを指摘したら、「事情があんだよ」と一言。そんなプーさんをぼくは大好き。今年、新作(2009年録音)がついにECMからリリース。彼はここのところ体調を崩しているとも言われているが、なんと来月下旬にブルーノート東京での公演予定が発表されている。トリオだが、いつものピアノ、ベース、ドラムではなく、ベースとギターを伴う編成でのショウ。彼、アコースティック・セットでギターを入れるというのはとても珍しい。ECM盤も当然、普通のピアノ・トリオによるものだ。でも、そこでも叩いていた長年の相棒であるドラマーのポール・モーシャンが亡くなってしまったから、もうドラマーはいい、ギターでも入れておくかとなったのか。話はとぶが、今年の東京ジャズにはオーネット・コールマン(2006年3月27日)が出演、今年の東京ジャズは何かと興味ひかれる出演者が少なくない。ジャガ・ジャジストが無料ステージにでたりもするし。ルーファスとシガスカオとタワー・オブ・パワーのホーン隊が一緒にやっちゃうって?