文字通りの才人の訃報を見逃していた。本名、DeWayne Julius Rogers。ずっと彼の存在を忘れていたけど、1970年代上半期の彼のアルバムは本当に大好きだった。
スライ・ストーンが天下をとった時代に表舞台に出てきた、マルチ型のソウル・マン。ゴスペル活動を経た末の、彼の20代半ばのデビュー作『D.J.Rogers』はなんとロック・レーベルのシェルター発であったことは、彼の抱えていたハイブリットな才覚を示唆はしまいか。なお、彼はシェルターの看板アーティストであるリオン・ラッセル(2005年11月24日)のバンドでピアノを弾いていたアフリカ系のパトリック・ヘンダーソン牧師と懇意にしていたという話もある。
シェルター盤で彼はキーボードを弾きながら歌うだけでなく、ソング・ライティング、アレンジ、プロデュースも担当。そして、デイヴィッド・T・ウォーカー(2007年12月18日、2010年12月11日、2011年6月21日、2013年10月17日、2015年8月3日、2018年1月5日)やボビー・ワトソン(2012年6月21日)らがレコーディング参加していた同作は“スライ・ストーン以後”の聞き味にあふれていた! もう少し説明すると、1970年ごろのスライのファンキー&メロディアス曲の流れを汲む表現を志向、さらにファーストはなんとなくビリ-・プレストンの影響がにじむところもあった。って、もう言うことないじゃん!
2作目以降はRCAに移籍。彼は正統な喉の持ち主ゆえ、より王道的、バラーディアー的な行き方をレコード会社は求めたかもしれない。3作目『On The Road Again』(1976年)あたりになるとベースのフレイズ以外にスライを想起させる部分はなくなる方向にあったが、それでもねっとりしたなかに風をいろいろ抱えていたのは間違いない。うーん、本当にほんとうにアンダーレイテッドだった御仁と言うしかない。
通算5作目『Love Brought Me Back』(1978年)はコロムビア発で、その後の2作品はモーリス・ホワイト(EW&F:2006年1月19日、2012年5月17 日)とコロムビアのヴェンチャー・レーベルであるARCからのリリース。その2作は少しまた広がりとファンキー路線を見せた。その後、インディから1作品出しりした後は、先細り。彼はゴスペルの世界に戻りで活動していたようだ。彼の死因などの記事は今のところ、ぼくは発見できていない。だが、彼のリーダー作群はもう一度光を当てられるべきであると思う。
▶過去の、リオン・ラッセル
http://43142.diarynote.jp/200511281322500000/
▶過去の、デイヴィッド・T・ウォーカー
http://43142.diarynote.jp/200712190953140000/
http://43142.diarynote.jp/201012131713443911/
http://43142.diarynote.jp/201106270438075311/
http://43142.diarynote.jp/201310181020496675/
http://43142.diarynote.jp/201508091203108498/
https://43142.diarynote.jp/201801061716036258/
▶︎過去の、ボビー・ワトソン
https://43142.diarynote.jp/201207031311348277/
▶過去の、E.W.&.F.
http://43142.diarynote.jp/200601271855390000/
http://43142.diarynote.jp/201205301252113538/
また、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(2002年7月28日、2002年11月2日、2007年6月5日)のギタリストだったジャック・シャーマンの訃報も届いた。オリジナルのギタリストのヒレル・スロバク(1962年4月13日〜1988年6月25日)の脱退〜復帰の間にペッパーズに加入し、1984年のセルフ・タイトルのファースト作のレコーディングのみに全面参加。ペッパーズはギタリストが曲のもととなるギター・リフを出すことを要求され、また曲作りはジャムることで完成を見たので、彼の名前はペッパーズのいくつもの曲に共作者としてクレジットされている。さらに、『マザーズ・ミルク』(ワーナー、1989年)にコーラスで入ってもいる。とはいえ、高校時代の仲間である他のメンバー(みんな1962年生まれだった)より年長だったこともあり、外様感があったことは否めない。ペッパーズの活動もあってか、その後、ボブ・ディラン、トニオ・K、ピーター・ケイスらのレコーディングに、彼は参加もした。訃報はペッパーズのツイッターで報告されたが、死因などは不明だ。
▶︎過去の、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
http://43142.diarynote.jp/200706061354020000/
<今日の、え>
ぼくの住んでいる@@*丁目が、東京23区凶悪犯罪地ベスト15タイに入っていてびっくり。歌舞伎町2丁目や道玄坂2丁目や六本木3丁目や銀座6丁目らが上位に入るなか、普通の住宅地だよー。あぶないと感じたことは一度もないし、変な話も聞いたこともない。オレ、今住んでいるところ気に入っていて、眺めもいいし緑も見えるし、安全であるとも思っていた。ふむうーーーー。
スライ・ストーンが天下をとった時代に表舞台に出てきた、マルチ型のソウル・マン。ゴスペル活動を経た末の、彼の20代半ばのデビュー作『D.J.Rogers』はなんとロック・レーベルのシェルター発であったことは、彼の抱えていたハイブリットな才覚を示唆はしまいか。なお、彼はシェルターの看板アーティストであるリオン・ラッセル(2005年11月24日)のバンドでピアノを弾いていたアフリカ系のパトリック・ヘンダーソン牧師と懇意にしていたという話もある。
シェルター盤で彼はキーボードを弾きながら歌うだけでなく、ソング・ライティング、アレンジ、プロデュースも担当。そして、デイヴィッド・T・ウォーカー(2007年12月18日、2010年12月11日、2011年6月21日、2013年10月17日、2015年8月3日、2018年1月5日)やボビー・ワトソン(2012年6月21日)らがレコーディング参加していた同作は“スライ・ストーン以後”の聞き味にあふれていた! もう少し説明すると、1970年ごろのスライのファンキー&メロディアス曲の流れを汲む表現を志向、さらにファーストはなんとなくビリ-・プレストンの影響がにじむところもあった。って、もう言うことないじゃん!
2作目以降はRCAに移籍。彼は正統な喉の持ち主ゆえ、より王道的、バラーディアー的な行き方をレコード会社は求めたかもしれない。3作目『On The Road Again』(1976年)あたりになるとベースのフレイズ以外にスライを想起させる部分はなくなる方向にあったが、それでもねっとりしたなかに風をいろいろ抱えていたのは間違いない。うーん、本当にほんとうにアンダーレイテッドだった御仁と言うしかない。
通算5作目『Love Brought Me Back』(1978年)はコロムビア発で、その後の2作品はモーリス・ホワイト(EW&F:2006年1月19日、2012年5月17 日)とコロムビアのヴェンチャー・レーベルであるARCからのリリース。その2作は少しまた広がりとファンキー路線を見せた。その後、インディから1作品出しりした後は、先細り。彼はゴスペルの世界に戻りで活動していたようだ。彼の死因などの記事は今のところ、ぼくは発見できていない。だが、彼のリーダー作群はもう一度光を当てられるべきであると思う。
▶過去の、リオン・ラッセル
http://43142.diarynote.jp/200511281322500000/
▶過去の、デイヴィッド・T・ウォーカー
http://43142.diarynote.jp/200712190953140000/
http://43142.diarynote.jp/201012131713443911/
http://43142.diarynote.jp/201106270438075311/
http://43142.diarynote.jp/201310181020496675/
http://43142.diarynote.jp/201508091203108498/
https://43142.diarynote.jp/201801061716036258/
▶︎過去の、ボビー・ワトソン
https://43142.diarynote.jp/201207031311348277/
▶過去の、E.W.&.F.
http://43142.diarynote.jp/200601271855390000/
http://43142.diarynote.jp/201205301252113538/
また、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(2002年7月28日、2002年11月2日、2007年6月5日)のギタリストだったジャック・シャーマンの訃報も届いた。オリジナルのギタリストのヒレル・スロバク(1962年4月13日〜1988年6月25日)の脱退〜復帰の間にペッパーズに加入し、1984年のセルフ・タイトルのファースト作のレコーディングのみに全面参加。ペッパーズはギタリストが曲のもととなるギター・リフを出すことを要求され、また曲作りはジャムることで完成を見たので、彼の名前はペッパーズのいくつもの曲に共作者としてクレジットされている。さらに、『マザーズ・ミルク』(ワーナー、1989年)にコーラスで入ってもいる。とはいえ、高校時代の仲間である他のメンバー(みんな1962年生まれだった)より年長だったこともあり、外様感があったことは否めない。ペッパーズの活動もあってか、その後、ボブ・ディラン、トニオ・K、ピーター・ケイスらのレコーディングに、彼は参加もした。訃報はペッパーズのツイッターで報告されたが、死因などは不明だ。
▶︎過去の、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm フジ・ロック
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
http://43142.diarynote.jp/200706061354020000/
<今日の、え>
ぼくの住んでいる@@*丁目が、東京23区凶悪犯罪地ベスト15タイに入っていてびっくり。歌舞伎町2丁目や道玄坂2丁目や六本木3丁目や銀座6丁目らが上位に入るなか、普通の住宅地だよー。あぶないと感じたことは一度もないし、変な話も聞いたこともない。オレ、今住んでいるところ気に入っていて、眺めもいいし緑も見えるし、安全であるとも思っていた。ふむうーーーー。