仲井戸”CHABO”麗市67th Birthday LIVE
2017年10月9日 音楽 【雨あがりの夜空に 2017】というサブ・タイトルがつけられたショウで、日比谷野外大音楽堂でがっつり持たれる。晴天、気持ちいい〜、観客席は満員だあ〜。MCで「オレと山下達郎のライヴは長いんだ」みたいなことを言っていたが、実際3時間ごえ。17時開演、アンコールでRCの「雨あがりの夜空に」が終わったのが19時59分。おお、野音のタイム・リミットは20時なのかあ、これはプロだなあと思っていたら、それからまた出てきてリーディングをやったり、ザ・ビートルズの「ロング・アンド・ワインディング・ロード」を日本語詞で公演の趣旨とつながるように歌ったり。しかし、音程はシャープではないものの歌声はよく出ていて(かつ、やはり歌詞はちゃんと耳に入ってくる)、この長丁場をシンガーとしてもまっとうしたのは大きく頷く。MCの喋りは、歌以上に忌野清志郎とつながるものがあったような。やはり、同志だったんだろう。彼は、MCで彼との思い出もいくつか語った。
CHABO BANDと名付けられたバンドは、ベースの早川岳晴、ドラムは河村"カースケ"智康、キーボードのDr.kyOn。そして、そこにアルト・サックスと梅津和時とテナーの片山広明が入る。実は昨年、CHABOには麗蘭の新作リリース時にインタヴューをし、若々しい外見とブルース/R&B好きとつながるナイス・ガイぶりにポッとなったのだが、ある種の日本のロック〜ブラック・ミュージックの受容の様、R&Rというスピリットの有効性というようなものが、ここには大きく横たわっていたのではないか。11月2日の毎日新聞夕刊にライヴ評が出ます。
<今日の、会場>
なんか。いい会場だなーと、思うことしきり。ここに来るのは、ずぶ濡れになった渡辺貞夫と山下洋輔の2013 年ジョイント・ライヴ(http://43142.diarynote.jp/201307291053021427/)以来か。それに先立ち、日比谷野音に集まった両氏(会場内で撮影するため)にここの楽屋で話をきいたんだよなあ。以下は、その抜粋。毎日新聞とジャズ・ジャパン誌に書き分けた。文中にあるダブル・レインボウがかかった2009年山下40周年公演は、http://43142.diarynote.jp/200907221011377741/。また、文中にある山下NYトリオ(http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm 、11月10日)は、この11月に日本ツアーを行う。
——ところで、日比谷野音というと、どんな思い出をお持ちでしょうか。
渡辺「最初出たのは何だったかなあ? ずいぶん昔だから、90周年だもんねえ」
山下「その90年のなかのいつ頃からかは分らないけど、とにかくジャズ・フェスティヴァルをやろうという企画がありましたよね」
渡辺「あれも、大変だったよね。2年か、3年やったでしょ。お金持ち逃げされちゃって、俺らが一人30万円だか払わされたんだよね。ポスター代とか」
山下「わー、それは、僕は知らなかったなあ」
渡辺「まず、ジャズ協会だかを始めるという話がっ……」
山下「ああ、ありましたよねえ」
渡辺「僕と八代和男さんとで、僕はその前にミュージシャン・ユニオンというのを(米国から)帰ってきて立ち上げたんだけど、皆乗り気じゃなくて、それは終わっていた。その後、沢田俊吾さんとかと、毎月ピットインでミーティングを始めた。それで、その打ち上げを毎年やったんですよ。70年代始めぐらいじゃないかな」
山下「そうですよね。僕は、フリー・ジャズ・トリオで、それに出ていましたから。1969年以降であるのは間違いないです」
——そのころって、それほど大きな会場もなかったろうし、何か大きな事をやろうとすると、まず野音だ、みたいな感じはあったんでしょうか?
渡辺「大きな事ねえ。どうなんでしょうねえ」
山下「夏に、野外であんなことをやれたとうのは、少なくても僕らにとっては初めての経験でしたね」
渡辺「結構、お客さんは来てくれたんだよね」
山下「満員でしたよねえ」
渡辺「立ち見も出ていた。いろんな形でやったと思います」
山下「僕らは普段、たとえばピットインで沢山入ったとしても、何十人か、下手をすれば数人を前にライヴをしていた時期だったから、出て行ったら何千人という観客がいるわけでしょう、これは興奮しましたよね。そういう事で、日比谷野音というのはビシっと記憶に残りましたね」
——個人でお出になることはなかったんですよね?
渡辺「僕にとって一番の野音の思い出というと……。(ネルソン・)マンデラさんが来日して、ここで南アフリカ支援の集まりがあったんです(1990年)。釈放されてすぐだったんじゃなかったかな。それで、声をかけられて「コシシケレリ・アフリカ」の譜面をもらって、後に国歌になるその曲を暗譜して、マンデラさんと2人やったんです。僕が吹いてマンデラさんが歌って、支援者が何百人か客席にいて、それが一番の思い出ですね。そのときの、マンデラさんと僕の写真というのは、大切にとってあって、アフリカに行く時は持って行くんです(笑い)」
——そういえば、ソイル&ピンプ・セッションズが南アに行ったときには、貞夫さんの名前をかけられまくったそうです。
山下「それはそうだろう(笑い)」
渡辺「アフリカでは、けっこう有名なんだよね(笑い)。マンデラさんはにこやかにしていらっしゃって、その後、90年代にうちのバンドとアフリカ・ツアーをやって、訪問地にケニアと南アがあって、そのときは大統領になってました。そのとき、マンデラさんはソウェトの貧しい地区の中に新居を建築中で、それでプールまでできていたな。ついでに寄ったら彼はいなかったけど、そんな思い出があります」
——一方、山下さんにとっての野音というと。
山下「先ほど言った、ジャズ・フェスですね。いきなり出て行ったら、何千人の人がいて、それは初めての経験。ドイツ・ツアーとかの前だったんですよ。それで、こっちはヤメローと言っていて、別な方では洋輔イケーとか言っている。そういう時代だったんですね(笑い)。面白かったなあ。それと、日比谷というと、えーっとねえ、他にも何かあるような気もするんだけど、最近ではそのトリオ40周年ですね。それで、歴代トリオのメンバーを全員集めても、9人ぐらいにしかならない。こういうのは、珍しいと思っている。皆、とっかえひっかえ変えるでしょう? 」
渡辺「(笑い)ああ、それは僕だ。」
山下「だから、いっぱい集めようと思ったって、できない。最低でも4、5年は同じ顔ぶれだから」
——そうですね、NYトリオも長いですもんね。
山下「NYトリオは25年ですもんね。変えちゃうのが、イヤなんですね。だから、一緒にずっとやるので、そういう事ができた」
——それで、その際、空には二重の虹も出て、40周年を祝福しましたものね。
山下「そうそう、虹が出たんですよ。ダブル・レインボウが出まして。それが、DVDのジャケットにもなったんです。初代中村から始まって、それで坂田、そして(小山)彰太……、全員を集めたわけです。それで、それぞれの代表曲ができるんです。」
——山下さんも、昔はちょっと貞夫さんのグループにお入りになったことがあるんですよね。
山下「そうなんですよ。もう、うれしくて。まだ、国立音大生の頃でしたから。今、国立音大生で貞夫さんの所に呼ばれたのが2人もいるんです。兼松と小田切(ドラム)。兼松もうまいピアノで、FMの番組で使われた。当時、僕は遅れて遅れて入学して、5年生のときにようやく呼んでいただいた。その時、回りは皆ショックを受けて、貞夫さんの所に音大生が呼ばれたぞ、と。今、貞夫さんは招聘教授で……」
渡辺「去年からやっているんだよね」
山下「それをやっていていいことは、才能ある若手とで出会える事」
渡辺「それは、本当に楽しみだよね」
山下「そしたら、生徒の中から2人をばっと選んで、それが間違いない」
——洋輔さんは、どんな感じで入ったんでしょう。
渡辺「(渡辺)文雄と一緒だったんだよな。それで、これは楽しみだなと思った」
山下「多分、文雄ちゃんがいいように言ってくれたんだと思う」
渡辺「いやいやいや。帰ってきてすぐ(渡辺グループでピアノを弾いていたの)は、前田憲男さんだった。それで、若いサイドメンがほしくて、声をかけたんだと思う。今と同じなんだけどね」
山下「貞夫さんは、1965年にバークリーに帰ってきて、その数日後にサックスを持って、我々若者がやっていたジャズ・ギャラリーに来て、毎日サックスを吹きまくった。すごいでしょう。それで、それがNY流というか」
渡辺「まあ、あの当時は試行錯誤の時代だった。系統立てて教えてくれるところもなかったし。だいたい、僕たちはGIの後を追いかけて、なんかを得ようとしたり。たぶん、こんなもんだろうというところで、アメリカに行ったんです」
山下「いや、こんなふうじゃないんですよ。そのときは、ばりばりにチャーリ・パーカーを吹いていた。だから、行ったとたんにたちまち一番になって、バンド・リーダーになって、アルバムを録ったりした」
渡辺「そういうのは、載せないで(笑い)」
山下「つまり、日本人がああやって想像でやっていたことが間違っていなかった、ということを、貞夫さんが証明してくれた。それが凄いんですよ。そしてそれを系統立てて、これはこういうふうに記号で言うんだよということを、教えてくれた。英語のノートを何冊も作って持って帰ってこられて、それを僕たちに教えてくれたんです」
渡辺「曲集には記号は書いてあったけど、俺らが音楽理論を勉強しようとすると、下総皖一の和声とか、(諸井 )三郎さんの対位法とか見てもなんか違う」
山下「ジャズの音楽理論というのは、それとは全然違う。それが、日本には全然なかった。ところが、バークリーだけが早いうちに、すごく分りやすくそれをやってしまっていた」
——そうして、貞夫さんのまいた種が育って、この野音でもいろいろ花開いたと思います。
山下「そう、まさしく、先駆者なんですよ」
渡辺「ここではいろんなステージにあがったと思うんだけど、洋輔が40周年でやったのは珍しいと思うけど、一つのブループというよりは、なんかジャズ・フェスという感じで、いろんなグループがお祭りみたいな感じで演奏するという感じ。だから、日比谷の思い出としては、明確に俺のなかでまとまらない」
山下「皆で、楽屋でわあわあやっていましたもんね。それはオール・スターですからね。みんな貞夫さんに寄って行く」
——それで、今回、お二人は俗な言い方をすると対バンで出演しますが。
山下「うちの事務所の情報だと、すごい売れ行きがいいんだって」
渡辺「フライヤーを見ると、山下洋輔と渡辺貞夫の共演と書いてあるから。ただ、洋輔の所にもホーン・プレイヤーが参加しているし」
山下「エレナと成孔が我々のほうにいます。貞夫さんの方は?」
渡辺「こっちは、僕だけ。だから、フロントは3人いるんだよな。うちのバンドにはギターもいるし、」
山下「珠也は、重なっているんだよね」
渡辺「うちのレギュラーグループは小野塚が他の仕事なので、その日は塩谷」
山下「ああ、ソルトはもちろんいいですよ。でも、どうして、他の仕事が入っているとはいえ、コレを断るかな(笑い)」
渡辺「いや、今の若い奴はみんな忙しいの(笑い)」
山下「忙しいと言っても、日比谷で、貞夫さんだよ!」
——山下さんは、特別編成と言ってもいいんですよね。
山下「珠也とは最近よくやっていて、いいんだ」
渡辺「珠也は腕を上げたよね」
山下「上げましたよね。それで、ベースが紅介。そして、エレナちゃん。貞夫さんが自分の楽器を贈ったという逸材(笑い)」
渡辺「いやいやいや。貸してあげたの」
山下「僕も彼女を見て、貞夫さんと同じように、これは凄いっと思っちゃった」
渡辺「彼女が13歳のときに知り、いいなと思って。それで、札幌に行くたびに、アンコールのときに呼ぶようになって。今、バークリー・スクールで頑張っていると思います」
山下「彼女はサマー・クスクールなんかにも通っていて、すべて奨学金でしょ?」
渡辺「プレジデントというやつで、旅費、学費、寄宿舎もただ。何からなにまで面倒見てくれて、6000人のなかから3人選ばれたらしい。甘えちゃいけないよと言っています」
山下「そういう奴が、僕の方には登場します。それと、成孔。成孔は成孔でまた、変な存在でありまして」
渡辺「聞いた事ないので、彼の演奏は楽しみなんだよね。NHKでマイルスのことを語っているのは見た」
山下「面白いです。弁もたつ、筆もたつ。自分のバンドでは指揮をしたり、CDJをばーっとやったり、普通のジャズとは違うんですね」
——それで、ご一緒にもやるんですよね。
渡辺「これは、やらなきゃしょうがないよね(笑い)」
山下「よろしくお願いします。どうやりましょうか? デュオでします?」
渡辺「ステージで皆一緒にやればいいじゃん。お前と2人でやってもおもしろくないよ(笑い)」
——2年前の正月に軽井沢で一緒にやっていますよね。
渡辺「そんなことがあった。洋輔グループに参加してもらったよね。スタンダードをやったと思いますけど。」
山下「そうですね。じゃあ、考えてください。三管でいいんですか」
渡辺「え、もっと増やしたいの?」
山下「いやいや。では、双方がやって、一緒にアンコールでしょうね。全員いるという感じですか。」
渡辺「それがいいんじゃない」
——こうやって。お話をきいていると、お二人って波長が合うんですね。
山下「そりゃ、もちろん! それは、そもそも僕が憧れているからで。貞夫さんのお人柄がこうだから」
渡辺「いやいや、やっぱりそこはミュージシャン同士だから。これが学者とお話とかだったら、困っちゃうけど(笑い)」
CHABO BANDと名付けられたバンドは、ベースの早川岳晴、ドラムは河村"カースケ"智康、キーボードのDr.kyOn。そして、そこにアルト・サックスと梅津和時とテナーの片山広明が入る。実は昨年、CHABOには麗蘭の新作リリース時にインタヴューをし、若々しい外見とブルース/R&B好きとつながるナイス・ガイぶりにポッとなったのだが、ある種の日本のロック〜ブラック・ミュージックの受容の様、R&Rというスピリットの有効性というようなものが、ここには大きく横たわっていたのではないか。11月2日の毎日新聞夕刊にライヴ評が出ます。
<今日の、会場>
なんか。いい会場だなーと、思うことしきり。ここに来るのは、ずぶ濡れになった渡辺貞夫と山下洋輔の2013 年ジョイント・ライヴ(http://43142.diarynote.jp/201307291053021427/)以来か。それに先立ち、日比谷野音に集まった両氏(会場内で撮影するため)にここの楽屋で話をきいたんだよなあ。以下は、その抜粋。毎日新聞とジャズ・ジャパン誌に書き分けた。文中にあるダブル・レインボウがかかった2009年山下40周年公演は、http://43142.diarynote.jp/200907221011377741/。また、文中にある山下NYトリオ(http://www.myagent.ne.jp/~newswave/movember1999live.htm 、11月10日)は、この11月に日本ツアーを行う。
——ところで、日比谷野音というと、どんな思い出をお持ちでしょうか。
渡辺「最初出たのは何だったかなあ? ずいぶん昔だから、90周年だもんねえ」
山下「その90年のなかのいつ頃からかは分らないけど、とにかくジャズ・フェスティヴァルをやろうという企画がありましたよね」
渡辺「あれも、大変だったよね。2年か、3年やったでしょ。お金持ち逃げされちゃって、俺らが一人30万円だか払わされたんだよね。ポスター代とか」
山下「わー、それは、僕は知らなかったなあ」
渡辺「まず、ジャズ協会だかを始めるという話がっ……」
山下「ああ、ありましたよねえ」
渡辺「僕と八代和男さんとで、僕はその前にミュージシャン・ユニオンというのを(米国から)帰ってきて立ち上げたんだけど、皆乗り気じゃなくて、それは終わっていた。その後、沢田俊吾さんとかと、毎月ピットインでミーティングを始めた。それで、その打ち上げを毎年やったんですよ。70年代始めぐらいじゃないかな」
山下「そうですよね。僕は、フリー・ジャズ・トリオで、それに出ていましたから。1969年以降であるのは間違いないです」
——そのころって、それほど大きな会場もなかったろうし、何か大きな事をやろうとすると、まず野音だ、みたいな感じはあったんでしょうか?
渡辺「大きな事ねえ。どうなんでしょうねえ」
山下「夏に、野外であんなことをやれたとうのは、少なくても僕らにとっては初めての経験でしたね」
渡辺「結構、お客さんは来てくれたんだよね」
山下「満員でしたよねえ」
渡辺「立ち見も出ていた。いろんな形でやったと思います」
山下「僕らは普段、たとえばピットインで沢山入ったとしても、何十人か、下手をすれば数人を前にライヴをしていた時期だったから、出て行ったら何千人という観客がいるわけでしょう、これは興奮しましたよね。そういう事で、日比谷野音というのはビシっと記憶に残りましたね」
——個人でお出になることはなかったんですよね?
渡辺「僕にとって一番の野音の思い出というと……。(ネルソン・)マンデラさんが来日して、ここで南アフリカ支援の集まりがあったんです(1990年)。釈放されてすぐだったんじゃなかったかな。それで、声をかけられて「コシシケレリ・アフリカ」の譜面をもらって、後に国歌になるその曲を暗譜して、マンデラさんと2人やったんです。僕が吹いてマンデラさんが歌って、支援者が何百人か客席にいて、それが一番の思い出ですね。そのときの、マンデラさんと僕の写真というのは、大切にとってあって、アフリカに行く時は持って行くんです(笑い)」
——そういえば、ソイル&ピンプ・セッションズが南アに行ったときには、貞夫さんの名前をかけられまくったそうです。
山下「それはそうだろう(笑い)」
渡辺「アフリカでは、けっこう有名なんだよね(笑い)。マンデラさんはにこやかにしていらっしゃって、その後、90年代にうちのバンドとアフリカ・ツアーをやって、訪問地にケニアと南アがあって、そのときは大統領になってました。そのとき、マンデラさんはソウェトの貧しい地区の中に新居を建築中で、それでプールまでできていたな。ついでに寄ったら彼はいなかったけど、そんな思い出があります」
——一方、山下さんにとっての野音というと。
山下「先ほど言った、ジャズ・フェスですね。いきなり出て行ったら、何千人の人がいて、それは初めての経験。ドイツ・ツアーとかの前だったんですよ。それで、こっちはヤメローと言っていて、別な方では洋輔イケーとか言っている。そういう時代だったんですね(笑い)。面白かったなあ。それと、日比谷というと、えーっとねえ、他にも何かあるような気もするんだけど、最近ではそのトリオ40周年ですね。それで、歴代トリオのメンバーを全員集めても、9人ぐらいにしかならない。こういうのは、珍しいと思っている。皆、とっかえひっかえ変えるでしょう? 」
渡辺「(笑い)ああ、それは僕だ。」
山下「だから、いっぱい集めようと思ったって、できない。最低でも4、5年は同じ顔ぶれだから」
——そうですね、NYトリオも長いですもんね。
山下「NYトリオは25年ですもんね。変えちゃうのが、イヤなんですね。だから、一緒にずっとやるので、そういう事ができた」
——それで、その際、空には二重の虹も出て、40周年を祝福しましたものね。
山下「そうそう、虹が出たんですよ。ダブル・レインボウが出まして。それが、DVDのジャケットにもなったんです。初代中村から始まって、それで坂田、そして(小山)彰太……、全員を集めたわけです。それで、それぞれの代表曲ができるんです。」
——山下さんも、昔はちょっと貞夫さんのグループにお入りになったことがあるんですよね。
山下「そうなんですよ。もう、うれしくて。まだ、国立音大生の頃でしたから。今、国立音大生で貞夫さんの所に呼ばれたのが2人もいるんです。兼松と小田切(ドラム)。兼松もうまいピアノで、FMの番組で使われた。当時、僕は遅れて遅れて入学して、5年生のときにようやく呼んでいただいた。その時、回りは皆ショックを受けて、貞夫さんの所に音大生が呼ばれたぞ、と。今、貞夫さんは招聘教授で……」
渡辺「去年からやっているんだよね」
山下「それをやっていていいことは、才能ある若手とで出会える事」
渡辺「それは、本当に楽しみだよね」
山下「そしたら、生徒の中から2人をばっと選んで、それが間違いない」
——洋輔さんは、どんな感じで入ったんでしょう。
渡辺「(渡辺)文雄と一緒だったんだよな。それで、これは楽しみだなと思った」
山下「多分、文雄ちゃんがいいように言ってくれたんだと思う」
渡辺「いやいやいや。帰ってきてすぐ(渡辺グループでピアノを弾いていたの)は、前田憲男さんだった。それで、若いサイドメンがほしくて、声をかけたんだと思う。今と同じなんだけどね」
山下「貞夫さんは、1965年にバークリーに帰ってきて、その数日後にサックスを持って、我々若者がやっていたジャズ・ギャラリーに来て、毎日サックスを吹きまくった。すごいでしょう。それで、それがNY流というか」
渡辺「まあ、あの当時は試行錯誤の時代だった。系統立てて教えてくれるところもなかったし。だいたい、僕たちはGIの後を追いかけて、なんかを得ようとしたり。たぶん、こんなもんだろうというところで、アメリカに行ったんです」
山下「いや、こんなふうじゃないんですよ。そのときは、ばりばりにチャーリ・パーカーを吹いていた。だから、行ったとたんにたちまち一番になって、バンド・リーダーになって、アルバムを録ったりした」
渡辺「そういうのは、載せないで(笑い)」
山下「つまり、日本人がああやって想像でやっていたことが間違っていなかった、ということを、貞夫さんが証明してくれた。それが凄いんですよ。そしてそれを系統立てて、これはこういうふうに記号で言うんだよということを、教えてくれた。英語のノートを何冊も作って持って帰ってこられて、それを僕たちに教えてくれたんです」
渡辺「曲集には記号は書いてあったけど、俺らが音楽理論を勉強しようとすると、下総皖一の和声とか、(諸井 )三郎さんの対位法とか見てもなんか違う」
山下「ジャズの音楽理論というのは、それとは全然違う。それが、日本には全然なかった。ところが、バークリーだけが早いうちに、すごく分りやすくそれをやってしまっていた」
——そうして、貞夫さんのまいた種が育って、この野音でもいろいろ花開いたと思います。
山下「そう、まさしく、先駆者なんですよ」
渡辺「ここではいろんなステージにあがったと思うんだけど、洋輔が40周年でやったのは珍しいと思うけど、一つのブループというよりは、なんかジャズ・フェスという感じで、いろんなグループがお祭りみたいな感じで演奏するという感じ。だから、日比谷の思い出としては、明確に俺のなかでまとまらない」
山下「皆で、楽屋でわあわあやっていましたもんね。それはオール・スターですからね。みんな貞夫さんに寄って行く」
——それで、今回、お二人は俗な言い方をすると対バンで出演しますが。
山下「うちの事務所の情報だと、すごい売れ行きがいいんだって」
渡辺「フライヤーを見ると、山下洋輔と渡辺貞夫の共演と書いてあるから。ただ、洋輔の所にもホーン・プレイヤーが参加しているし」
山下「エレナと成孔が我々のほうにいます。貞夫さんの方は?」
渡辺「こっちは、僕だけ。だから、フロントは3人いるんだよな。うちのバンドにはギターもいるし、」
山下「珠也は、重なっているんだよね」
渡辺「うちのレギュラーグループは小野塚が他の仕事なので、その日は塩谷」
山下「ああ、ソルトはもちろんいいですよ。でも、どうして、他の仕事が入っているとはいえ、コレを断るかな(笑い)」
渡辺「いや、今の若い奴はみんな忙しいの(笑い)」
山下「忙しいと言っても、日比谷で、貞夫さんだよ!」
——山下さんは、特別編成と言ってもいいんですよね。
山下「珠也とは最近よくやっていて、いいんだ」
渡辺「珠也は腕を上げたよね」
山下「上げましたよね。それで、ベースが紅介。そして、エレナちゃん。貞夫さんが自分の楽器を贈ったという逸材(笑い)」
渡辺「いやいやいや。貸してあげたの」
山下「僕も彼女を見て、貞夫さんと同じように、これは凄いっと思っちゃった」
渡辺「彼女が13歳のときに知り、いいなと思って。それで、札幌に行くたびに、アンコールのときに呼ぶようになって。今、バークリー・スクールで頑張っていると思います」
山下「彼女はサマー・クスクールなんかにも通っていて、すべて奨学金でしょ?」
渡辺「プレジデントというやつで、旅費、学費、寄宿舎もただ。何からなにまで面倒見てくれて、6000人のなかから3人選ばれたらしい。甘えちゃいけないよと言っています」
山下「そういう奴が、僕の方には登場します。それと、成孔。成孔は成孔でまた、変な存在でありまして」
渡辺「聞いた事ないので、彼の演奏は楽しみなんだよね。NHKでマイルスのことを語っているのは見た」
山下「面白いです。弁もたつ、筆もたつ。自分のバンドでは指揮をしたり、CDJをばーっとやったり、普通のジャズとは違うんですね」
——それで、ご一緒にもやるんですよね。
渡辺「これは、やらなきゃしょうがないよね(笑い)」
山下「よろしくお願いします。どうやりましょうか? デュオでします?」
渡辺「ステージで皆一緒にやればいいじゃん。お前と2人でやってもおもしろくないよ(笑い)」
——2年前の正月に軽井沢で一緒にやっていますよね。
渡辺「そんなことがあった。洋輔グループに参加してもらったよね。スタンダードをやったと思いますけど。」
山下「そうですね。じゃあ、考えてください。三管でいいんですか」
渡辺「え、もっと増やしたいの?」
山下「いやいや。では、双方がやって、一緒にアンコールでしょうね。全員いるという感じですか。」
渡辺「それがいいんじゃない」
——こうやって。お話をきいていると、お二人って波長が合うんですね。
山下「そりゃ、もちろん! それは、そもそも僕が憧れているからで。貞夫さんのお人柄がこうだから」
渡辺「いやいや、やっぱりそこはミュージシャン同士だから。これが学者とお話とかだったら、困っちゃうけど(笑い)」