プーさんが亡くなった。残念だ。でも、彼が残した珠玉のアルバムは永久に輝き続ける。
2012年6月26日、新宿のホテルで行ったインタヴューを以下に載せます。彼にインタヴューするのは3度目(他は、ブギー・バンドの2枚組ライヴ盤を出しただしたときと、『ドリーマシン』をリリースしたときだった)で、ジャズ・ジャパン誌用にとったもの。けっこう、若い語り口を持つ人でした。
@まず、聞きたい事が一つ。ポール・モチアンと日本では表記されたりもしますが、あれはモーシャンと読むべきなんでしょう?
モーシャンだね。英語読みさせている。トルコ系なんだよな。
@ところで、なぜ疎開先が会津若松だったんですか? ぼくは住んだことはないんですが、本籍が近くの喜多方なんですよ。
両親が会津若松なの。(疎開していた際、)喜多方の病院の院長の奥さんの、ピアノの愛弟子だったんだ。女学校の音楽の先生をしていた。会津若松には若松女子高と会津女子高と女子高が二つあって、若女のほうの音楽の先生だった。それで、ピアノを習っていたの。小学校はいってない頃だよね。ずいぶん古い話しているなあ(笑い)。
@そのころは、クラシックを習っていたんですよね。
うん。その前、(東京で)最初についた先生はすごい、いい先生だったよ。
@では、スタートラインは恵まれていたんですね。
いやあ、家がうるさかったからね。親父がうるさかった。最初はピアノじゃなく、音感から入った。聴音から。ピアノはその後。ヴァイオリンもやったよ。最初の(聴音の)先生が進歩的な人だったから、すごいためになっているよね。その後、(疎開先で)若女の先生にちゃんとピアノを習った。彼女はいい人だったんだけど、あまり面白くはなかったよね。でも、俺、家をでるとき、その人から金をかりたんだよ。18か19歳のころかな。
@じゃ、ちょうど芸大の付属高校をでたあたり。
俺、大学に入学拒否にあったんだ。付属だから本来は入れるはずなのに、行けなくてさあ。寒いので、俺が教室でたき火をしたのがいけなかったのかな。芸大の付属高校の二期生なんだけど、兄貴は一期生だし、弟は四期生か五期生だったのかな。寒かったから、たまたまそこにあった下級生の答案用紙を少しづつ燃やして、暖をとったの。そしたら、答案用紙だったから大問題になった。そういうことが続いていたからなあ。当時の芸大の作曲科というのは、ドイツ学派とフランス学派というのがあって、フランス学派のほうは池内友次郎(1906〜1991年)という、高浜虚子の息子だった。ドイツ派のほうは下総皖一(1898〜1962年)という人で、その弟子の松本民之助(1914〜2004年)っていう人が、俺たち高校の作曲家の先生だったの。当時、高校の同期の作曲科は3人で渋谷(毅)は同期で、俺は入学拒否にあっちゃった。最後の三次試験で落とされちゃったんだけど、俺がベスト・スコアだったんじゃないかな。でも、一番評判よかったのは渋谷だったのかな。
あのころ、芸大の洋画の主任教授が俺たちの高校の美術の先生として週一で来ていた。俺の親父は日本画の絵描きじゃない、だから子供のころから徹底的にデッサンをやらされていたから、授業で接した俺に才能あると思ったらしく、その先生が洋画のほうに試験なしでいいから来いと言ってきた。当時洋画のほうは競争率700倍だったから、それはうれしかったけどねえ。だけど、音楽に興味を持っていたじゃない、それで1週間まってもらって、結局ありがたいんだけど音楽に進みたいと断った。そしたら、音楽の方からは大学落とされちゃって、不良だっていうので。
@その後、もう絵筆は握らないんですか。
やっぱり、絵は見ていたほうが楽しいよね。だから、良く見に行っている。俺、シャガールにすごい影響を受けたの。というのは、耳に限界が来ているから、別な音が聞こえないのかなと、どうすればそれは可能なのかと、ずっと何年か悩んでいたわけ。それで、ソロ(演奏)を始めて、ちょうど4年前ぐらい前かな、シャガールの絵にすごいショックを受けた。それから、シャガールの絵をたくさん見始めたんだけど、俺が影響を受けたのは、例えば、あの人の描いている腕があるじゃない、それ途中でねじれているの。本来の腕じゃないわけ。で、俺はそれを見て、突然これでいいんだと思ってさ。既成概念にとらわれる理由はどこにもないんだと思い、それで俺は開眼した。それが、4、5年前だよね。それからだよ、俺が自由になったのは。うれしかったねえ。
@『サンライズ』(ECM、2012年。録音は2009年で、今のところ遺作となる)はそれを経ての録音になりますよね。
そう。シャガールにはほんと啓発されたよね。あれを見なかったら、もうちょっと違っているはず。
@シャガールの絵って、NYにいろいろあったりするんですか。
ところがさあ、それで全集とか集めると、作品数は多いの。ところが、あっちこっち探したんだけど、ないんだよね。確か、アメリカですごい売れたのは15年か20年前。最初メトロポリタンに原画を見たくて行ったんだけど、1点か2点しか飾ってない。それで物足りないから、そのうちロシアでもなんでもいいんだけど、シャガールの絵を集めているところに行って、できるだけ沢山見たいなと思っている。シャガールの絵を見て、ああコレでいいんだと思って、ホントそれからだよね。
@意外な話です。ぼくは、最初から既成概念取っ払った所で、プーさんは音楽し続けているように思っていますから。
やっぱり音楽っていうのは、倍音の構成を基本にしているじゃない? だから、それにずっと俺は囚われてきたわけ。それを、どう自分なりに踏まえて、超えるか。それができる感覚/方法みたいなものが、シャガールを見て分ったわけ。それからだよ、俺が徹底的に(ピアノを?)さわりだしたの。
@今回、ぼくは日曜と月曜のセカンド・セットを見ましたが。倍音のえも言われぬ新鮮な響きで場内が満たされるようなときがあって、息を飲みました。
それは、シャガールの影響だね。それ以降、倍音関係の音の処し方が分ったから。それを乗り越えられた。シャガールの影響はすごいと思うね。自分で確信できる、見えだしたと。だから、俺は今すごい自由よ。
@基本は完全にインプロヴィゼーションで事にあたる今は、曲を書いたりしなくなったんですよね。
書かない。昔は書いていたけどね。だから、楽よ。
@話はもどるんですが、本人の意には反したかもしれませんが、大学に行かず高校を出た後、わりとすぐにジャズ界で頭角を著したという印象があるんですが。
最初の仕事は、厚木の将校クラブの演奏。そういうのは、長いよ。
@10代のうちに、すでにレコーディングもやっていませんでした?
武満(徹。1930〜1996年)さんのが最初。なんて言ったけか、篠田(正浩、1931年生まれ)の最初のほうの映画の仕事で「乾いた湖」(寺山修司脚本、1960年)で、音楽を担当する武満さんが音楽を担当したやつ。武満さんは八木(正夫。1931〜1992年)ちゃんを使うつもりで作ったんだけど、ちょうど八木ちゃんがヘロインで捕まって、それは必要だと正当付けするため東大医学部に入院しちゃったの。それで演奏できなくなって、多分八木ちゃんが俺を推薦したと思うんだけど、武満さんから電話があった。俺20か21歳かな、それで武満さんとはけっこうつきあったの。
@武満さんの理想って、作曲家ではなく、ジャズ演奏家だったらしいですね。
らしいよね。彼がNYに来ても一緒にハンバーガー屋に行ったりして、楽しかったんだけどね。彼はイエール(大学)に出入りするようになってから、名誉欲が出てきて、おかしくなっちゃった。昔は、あの人のこと大好きだったな。
@もともと、ジャズにはいつ頃から興味を持ちだしたんですか?
芸大の付属にいるころだよね。1年か2年、渋谷とクラリネットの橋本とかと、水道橋にあったジャズ喫茶に行ってねえ。そこにはマイルスが出て来たころのレコードが入っていたりして、俺と渋谷と橋本と3人でよく授業をさぼって、行っていた。それからだよ、ジャズにひかれたのは。いやあ、あれは不思議な音楽だったよね。それで、ああいうふうに弾きたいなあと思ってね。ちょうどモンクの何が出た頃かな。モンクもあったし、あの印象は強烈だからねえ。
@同じようなことを、ぼくはプーさんの『バット・ノット・フォー・ミー』(1978年)を聞いて感じたような。あれを聞いて、わーなんでこうなるのと思い、感激しまくり、俺はジャズを聞くべきなんだと思いましたからね。
あー、あれはある種の失敗作だよ。
@えー、ぼくは大好きです。嫌いですか?
いや、ゲイリー(・ピーコック)がなんか違うんだよね。それがミス・キャストだよね。ドラムはアル・フォスターでしょ。サックスはいなかったよな?
@ええ。バーダル・ロイとか打楽器は複数いましたが。
あれ、まあまあのアルバムじゃない?
@では、プーさんをして、これはいいというアルバムは?
『ススト』(1981年)は良くできているよね。
@だって、あれは一番調子のいいときのプリンスを凌駕するような出来ですから。
いやいや、プリンスは凄いよ。まあ、『ススト』は時間がかかっているからねー。
@やっぱり、『ススト』はお好きですか。
あれは凄いと思う。あのリハーサルを始めたとき、なんかのセット・アップを川崎僚に頼んだんだけど、あいつがそれをやらなかったから、エレヴェイターのなかでアイツを殴っちゃったんだ。そしたら、俺が手を折っちゃった。それで、1ヶ月以上レコーディングが延期になったりもした。
@あれ、レコーディング参加のミュージシャンの数が多いですよね。
だから、鯉沼がよくお金を使わせてくれたよね。
@あれは、後から相当編集しているんですよね。
うん、ずいぶん。それには俺もたちあっている。あれ、伊藤潔がやっている。
@『ススト』って、日野さんの『ダブル・レインボウ』なんかとわりと平行して録っているんですか。
いや、『ダブル・レインボウ』は少し後だな。あれは100%、俺がコントロール持っていないから。ハービー(・ハンコック)を入れてLAと同時録音したじゃない? ああいうの、俺はあんまり好きじゃない。ドラムが2ドラムだよね。
@『ススト』のテープはソニーのどこかにあるんですかね。まとめて、編集前のものやアウト・テイクを出さないかなと。
あると思うよ。でも、今レコード業界がないに等しいじゃない。(それを実現させるのは)大変だよね。
@60 年代後半に一時バークリーに行ったり、その前後、ギルとか、ジョー・ヘンダーソンやエルヴィンとか向こうにちゃんと住む前にも米国人とは絡んだりしているんですが、やはり日本にいちゃいけないな、住めないなとか感じていたりしたんですか。もう、来年で40 年になりますよね。
あ、そうなんだ。移住は1974年じゃなかったかな。俺も思い切って行っちゃったよね。
@行く人は少なくないけど、大抵は戻ってきてしまうじゃないですか。
いや、最初のころ鯉沼がお金だしてくれていたからだな。
@行ったら行ったで、居心地がいいという感じだったんですか。
居心地いいというか、音楽がやりやすいよね。いいミュージシャンが簡単に手に入るもの。
@そういえば、今回のライヴにおけるギタリスト、トッド・ニューフェルドはどうやって見つけたんですか。だって、アコースティックな路線でギターなんか入れたことないですよね。どうなるのかなと思ってショウを見たら、ああいう(デレク・ベイリーみたいな感覚派の)ギタリストを見つけたから、このトリオ編成でやる気になったのだと思いました。
最初はベースを探していたの。なんかポール(・モーシャン)がいいベースがいると言ってきて、それで(ベースの)トーマスに電話して、一緒にやったんだけど、2回目まではハプニングしなかった。それで、3回目でもハプニングしなかったらあきらめようと思ってやったら、そしたらあいつすごいんだよ。それで一緒にやることを決めて、それがもう3年以上前かな。それで、そこに(ギターの)トッドも加わってやったら、最初のレコーディングからすごいのが1トラックできてさ。あ、これでやろうと思ったね。それで、そのトラックをポールに送った。そしたら、電話がかかってきて、プー、ヴァンガードに連絡してすぐに仕事とれ。そのトリオに俺が入るからって。でも、俺が断っちゃったの。だって、それだとポールと俺のカルテットになるんだろ? と。俺、それはいやだ、と。けっこう、ポールは腹黒い所がある(笑い)。
@じゃ、ポール・モーシャンが亡くなっていない時期に、ギタリストのトッド・ニューフェルドとはもうやっていたんですね。
うん。俺は今、これにアンドリュー・シリルを入れようと思っているもん。あの人、いいドラムだよね。
@そもそも、ニューフェルドとはどうやって知り合ったんでしょう?
たまたまだよね。若い連中が俺のロフトに出入りしだして、それでセッションしたりして。それでレコーディングしたら、最初のトラックを聞いて、こいつにしようと思った。トーマスもそのときから比べるとすごいよね、あいつ売れてしまったもん。急速に伸びたよね。トーマスとはデュオでもずいぶんレコーディングしているんだけど、1枚のアルバムにしようと思って、けっこうすごいアルバムになった。それと、この3月16日に(今回のライヴのトリオの)3人でレコーディングしたものがあって、それも凄いのよ。
@一時、昔は電気キーボードとか沢山おいていた時代もあったと思うんですが、現在はぜんぜん持っていないんですか。
コーグのオルガンがあるよ。あそこの会長がすごい俺に良くしてくれた。俺が電通のためにいろいろ作ったとき(1980年代中期、ポリスターからシンセサイザーによるアルバムを7作品出した)、あのときコーグが俺に山ほどシンセザイザーを提供してくれて、それでブルックリンのスタジオを借りたんだよな。
@そのころ録ったエレクトリックものって、沢山音は眠っているんですよね。
いや、録ったものはほぼ出ているよ。
@1990年代に入って、ハウスぽいものも作っていたりもしたと思うんですが。
そのあたりの音もないよね。一時そういのに興味を持って、やり始めたことはあるけど。やったんだけど、なかなかいいDJが見つからなくねえ。ワレス・ルーニーと来た時あったじゃない(2004年11月、ブルーノート東京)、あのときはDJロジックが一緒に来たけど、あの人もどうやっていいか分らないんだ。ワレス・ルーニーがディレクションできなくてね。彼の女房のジェリ・アレンもいて一緒にやったけど、2キーボードだと難しいよね。
@でも、あのライヴを見て、ぼくは器用にプーさんの音だけを抜いて聞いて、ブギー・バンドの音みたいだと喜んで聞いてましたよ。あのときの、ルーニーの田舎ヤクザのような格好は凄かったですね。
あの人は、なんでもマイルスだから。
@去年、震災のすぐあとにピットインで、病に倒れたプーさん支援のコンサートが行われたりもしましたが、こうやって会っていると、元気そうですよね。あのときは、どんだけ具合が悪いのかと思ってしまいました。
いや、まだ具合が悪いよ。
@だって、食欲もあるみたいじゃないですか。(←取材中、これはうまいよと言って、パンを食べていた。一緒に食べないと、すすめてもくれた)
だって、お腹はすくもの。良く生きているなという感じ。
@ぼくは今回のブルーノート東京でのライヴを見て、うなり声もいっぱい出るし、椅子から腰を上げてピアノを弾いたりもしたし、わあ元気だと思いました。とともに、これからもいろんなプロダクツを受けることができると、確信しましたね。
とにかく、肺だからね。今、生きているのが不思議なくらい。だから、怖いものがないよ。いや、俺ほんとよく生き延びたと思うよ。でも、俺は生きているかぎりは音楽をやるから。
2012年6月26日、新宿のホテルで行ったインタヴューを以下に載せます。彼にインタヴューするのは3度目(他は、ブギー・バンドの2枚組ライヴ盤を出しただしたときと、『ドリーマシン』をリリースしたときだった)で、ジャズ・ジャパン誌用にとったもの。けっこう、若い語り口を持つ人でした。
@まず、聞きたい事が一つ。ポール・モチアンと日本では表記されたりもしますが、あれはモーシャンと読むべきなんでしょう?
モーシャンだね。英語読みさせている。トルコ系なんだよな。
@ところで、なぜ疎開先が会津若松だったんですか? ぼくは住んだことはないんですが、本籍が近くの喜多方なんですよ。
両親が会津若松なの。(疎開していた際、)喜多方の病院の院長の奥さんの、ピアノの愛弟子だったんだ。女学校の音楽の先生をしていた。会津若松には若松女子高と会津女子高と女子高が二つあって、若女のほうの音楽の先生だった。それで、ピアノを習っていたの。小学校はいってない頃だよね。ずいぶん古い話しているなあ(笑い)。
@そのころは、クラシックを習っていたんですよね。
うん。その前、(東京で)最初についた先生はすごい、いい先生だったよ。
@では、スタートラインは恵まれていたんですね。
いやあ、家がうるさかったからね。親父がうるさかった。最初はピアノじゃなく、音感から入った。聴音から。ピアノはその後。ヴァイオリンもやったよ。最初の(聴音の)先生が進歩的な人だったから、すごいためになっているよね。その後、(疎開先で)若女の先生にちゃんとピアノを習った。彼女はいい人だったんだけど、あまり面白くはなかったよね。でも、俺、家をでるとき、その人から金をかりたんだよ。18か19歳のころかな。
@じゃ、ちょうど芸大の付属高校をでたあたり。
俺、大学に入学拒否にあったんだ。付属だから本来は入れるはずなのに、行けなくてさあ。寒いので、俺が教室でたき火をしたのがいけなかったのかな。芸大の付属高校の二期生なんだけど、兄貴は一期生だし、弟は四期生か五期生だったのかな。寒かったから、たまたまそこにあった下級生の答案用紙を少しづつ燃やして、暖をとったの。そしたら、答案用紙だったから大問題になった。そういうことが続いていたからなあ。当時の芸大の作曲科というのは、ドイツ学派とフランス学派というのがあって、フランス学派のほうは池内友次郎(1906〜1991年)という、高浜虚子の息子だった。ドイツ派のほうは下総皖一(1898〜1962年)という人で、その弟子の松本民之助(1914〜2004年)っていう人が、俺たち高校の作曲家の先生だったの。当時、高校の同期の作曲科は3人で渋谷(毅)は同期で、俺は入学拒否にあっちゃった。最後の三次試験で落とされちゃったんだけど、俺がベスト・スコアだったんじゃないかな。でも、一番評判よかったのは渋谷だったのかな。
あのころ、芸大の洋画の主任教授が俺たちの高校の美術の先生として週一で来ていた。俺の親父は日本画の絵描きじゃない、だから子供のころから徹底的にデッサンをやらされていたから、授業で接した俺に才能あると思ったらしく、その先生が洋画のほうに試験なしでいいから来いと言ってきた。当時洋画のほうは競争率700倍だったから、それはうれしかったけどねえ。だけど、音楽に興味を持っていたじゃない、それで1週間まってもらって、結局ありがたいんだけど音楽に進みたいと断った。そしたら、音楽の方からは大学落とされちゃって、不良だっていうので。
@その後、もう絵筆は握らないんですか。
やっぱり、絵は見ていたほうが楽しいよね。だから、良く見に行っている。俺、シャガールにすごい影響を受けたの。というのは、耳に限界が来ているから、別な音が聞こえないのかなと、どうすればそれは可能なのかと、ずっと何年か悩んでいたわけ。それで、ソロ(演奏)を始めて、ちょうど4年前ぐらい前かな、シャガールの絵にすごいショックを受けた。それから、シャガールの絵をたくさん見始めたんだけど、俺が影響を受けたのは、例えば、あの人の描いている腕があるじゃない、それ途中でねじれているの。本来の腕じゃないわけ。で、俺はそれを見て、突然これでいいんだと思ってさ。既成概念にとらわれる理由はどこにもないんだと思い、それで俺は開眼した。それが、4、5年前だよね。それからだよ、俺が自由になったのは。うれしかったねえ。
@『サンライズ』(ECM、2012年。録音は2009年で、今のところ遺作となる)はそれを経ての録音になりますよね。
そう。シャガールにはほんと啓発されたよね。あれを見なかったら、もうちょっと違っているはず。
@シャガールの絵って、NYにいろいろあったりするんですか。
ところがさあ、それで全集とか集めると、作品数は多いの。ところが、あっちこっち探したんだけど、ないんだよね。確か、アメリカですごい売れたのは15年か20年前。最初メトロポリタンに原画を見たくて行ったんだけど、1点か2点しか飾ってない。それで物足りないから、そのうちロシアでもなんでもいいんだけど、シャガールの絵を集めているところに行って、できるだけ沢山見たいなと思っている。シャガールの絵を見て、ああコレでいいんだと思って、ホントそれからだよね。
@意外な話です。ぼくは、最初から既成概念取っ払った所で、プーさんは音楽し続けているように思っていますから。
やっぱり音楽っていうのは、倍音の構成を基本にしているじゃない? だから、それにずっと俺は囚われてきたわけ。それを、どう自分なりに踏まえて、超えるか。それができる感覚/方法みたいなものが、シャガールを見て分ったわけ。それからだよ、俺が徹底的に(ピアノを?)さわりだしたの。
@今回、ぼくは日曜と月曜のセカンド・セットを見ましたが。倍音のえも言われぬ新鮮な響きで場内が満たされるようなときがあって、息を飲みました。
それは、シャガールの影響だね。それ以降、倍音関係の音の処し方が分ったから。それを乗り越えられた。シャガールの影響はすごいと思うね。自分で確信できる、見えだしたと。だから、俺は今すごい自由よ。
@基本は完全にインプロヴィゼーションで事にあたる今は、曲を書いたりしなくなったんですよね。
書かない。昔は書いていたけどね。だから、楽よ。
@話はもどるんですが、本人の意には反したかもしれませんが、大学に行かず高校を出た後、わりとすぐにジャズ界で頭角を著したという印象があるんですが。
最初の仕事は、厚木の将校クラブの演奏。そういうのは、長いよ。
@10代のうちに、すでにレコーディングもやっていませんでした?
武満(徹。1930〜1996年)さんのが最初。なんて言ったけか、篠田(正浩、1931年生まれ)の最初のほうの映画の仕事で「乾いた湖」(寺山修司脚本、1960年)で、音楽を担当する武満さんが音楽を担当したやつ。武満さんは八木(正夫。1931〜1992年)ちゃんを使うつもりで作ったんだけど、ちょうど八木ちゃんがヘロインで捕まって、それは必要だと正当付けするため東大医学部に入院しちゃったの。それで演奏できなくなって、多分八木ちゃんが俺を推薦したと思うんだけど、武満さんから電話があった。俺20か21歳かな、それで武満さんとはけっこうつきあったの。
@武満さんの理想って、作曲家ではなく、ジャズ演奏家だったらしいですね。
らしいよね。彼がNYに来ても一緒にハンバーガー屋に行ったりして、楽しかったんだけどね。彼はイエール(大学)に出入りするようになってから、名誉欲が出てきて、おかしくなっちゃった。昔は、あの人のこと大好きだったな。
@もともと、ジャズにはいつ頃から興味を持ちだしたんですか?
芸大の付属にいるころだよね。1年か2年、渋谷とクラリネットの橋本とかと、水道橋にあったジャズ喫茶に行ってねえ。そこにはマイルスが出て来たころのレコードが入っていたりして、俺と渋谷と橋本と3人でよく授業をさぼって、行っていた。それからだよ、ジャズにひかれたのは。いやあ、あれは不思議な音楽だったよね。それで、ああいうふうに弾きたいなあと思ってね。ちょうどモンクの何が出た頃かな。モンクもあったし、あの印象は強烈だからねえ。
@同じようなことを、ぼくはプーさんの『バット・ノット・フォー・ミー』(1978年)を聞いて感じたような。あれを聞いて、わーなんでこうなるのと思い、感激しまくり、俺はジャズを聞くべきなんだと思いましたからね。
あー、あれはある種の失敗作だよ。
@えー、ぼくは大好きです。嫌いですか?
いや、ゲイリー(・ピーコック)がなんか違うんだよね。それがミス・キャストだよね。ドラムはアル・フォスターでしょ。サックスはいなかったよな?
@ええ。バーダル・ロイとか打楽器は複数いましたが。
あれ、まあまあのアルバムじゃない?
@では、プーさんをして、これはいいというアルバムは?
『ススト』(1981年)は良くできているよね。
@だって、あれは一番調子のいいときのプリンスを凌駕するような出来ですから。
いやいや、プリンスは凄いよ。まあ、『ススト』は時間がかかっているからねー。
@やっぱり、『ススト』はお好きですか。
あれは凄いと思う。あのリハーサルを始めたとき、なんかのセット・アップを川崎僚に頼んだんだけど、あいつがそれをやらなかったから、エレヴェイターのなかでアイツを殴っちゃったんだ。そしたら、俺が手を折っちゃった。それで、1ヶ月以上レコーディングが延期になったりもした。
@あれ、レコーディング参加のミュージシャンの数が多いですよね。
だから、鯉沼がよくお金を使わせてくれたよね。
@あれは、後から相当編集しているんですよね。
うん、ずいぶん。それには俺もたちあっている。あれ、伊藤潔がやっている。
@『ススト』って、日野さんの『ダブル・レインボウ』なんかとわりと平行して録っているんですか。
いや、『ダブル・レインボウ』は少し後だな。あれは100%、俺がコントロール持っていないから。ハービー(・ハンコック)を入れてLAと同時録音したじゃない? ああいうの、俺はあんまり好きじゃない。ドラムが2ドラムだよね。
@『ススト』のテープはソニーのどこかにあるんですかね。まとめて、編集前のものやアウト・テイクを出さないかなと。
あると思うよ。でも、今レコード業界がないに等しいじゃない。(それを実現させるのは)大変だよね。
@60 年代後半に一時バークリーに行ったり、その前後、ギルとか、ジョー・ヘンダーソンやエルヴィンとか向こうにちゃんと住む前にも米国人とは絡んだりしているんですが、やはり日本にいちゃいけないな、住めないなとか感じていたりしたんですか。もう、来年で40 年になりますよね。
あ、そうなんだ。移住は1974年じゃなかったかな。俺も思い切って行っちゃったよね。
@行く人は少なくないけど、大抵は戻ってきてしまうじゃないですか。
いや、最初のころ鯉沼がお金だしてくれていたからだな。
@行ったら行ったで、居心地がいいという感じだったんですか。
居心地いいというか、音楽がやりやすいよね。いいミュージシャンが簡単に手に入るもの。
@そういえば、今回のライヴにおけるギタリスト、トッド・ニューフェルドはどうやって見つけたんですか。だって、アコースティックな路線でギターなんか入れたことないですよね。どうなるのかなと思ってショウを見たら、ああいう(デレク・ベイリーみたいな感覚派の)ギタリストを見つけたから、このトリオ編成でやる気になったのだと思いました。
最初はベースを探していたの。なんかポール(・モーシャン)がいいベースがいると言ってきて、それで(ベースの)トーマスに電話して、一緒にやったんだけど、2回目まではハプニングしなかった。それで、3回目でもハプニングしなかったらあきらめようと思ってやったら、そしたらあいつすごいんだよ。それで一緒にやることを決めて、それがもう3年以上前かな。それで、そこに(ギターの)トッドも加わってやったら、最初のレコーディングからすごいのが1トラックできてさ。あ、これでやろうと思ったね。それで、そのトラックをポールに送った。そしたら、電話がかかってきて、プー、ヴァンガードに連絡してすぐに仕事とれ。そのトリオに俺が入るからって。でも、俺が断っちゃったの。だって、それだとポールと俺のカルテットになるんだろ? と。俺、それはいやだ、と。けっこう、ポールは腹黒い所がある(笑い)。
@じゃ、ポール・モーシャンが亡くなっていない時期に、ギタリストのトッド・ニューフェルドとはもうやっていたんですね。
うん。俺は今、これにアンドリュー・シリルを入れようと思っているもん。あの人、いいドラムだよね。
@そもそも、ニューフェルドとはどうやって知り合ったんでしょう?
たまたまだよね。若い連中が俺のロフトに出入りしだして、それでセッションしたりして。それでレコーディングしたら、最初のトラックを聞いて、こいつにしようと思った。トーマスもそのときから比べるとすごいよね、あいつ売れてしまったもん。急速に伸びたよね。トーマスとはデュオでもずいぶんレコーディングしているんだけど、1枚のアルバムにしようと思って、けっこうすごいアルバムになった。それと、この3月16日に(今回のライヴのトリオの)3人でレコーディングしたものがあって、それも凄いのよ。
@一時、昔は電気キーボードとか沢山おいていた時代もあったと思うんですが、現在はぜんぜん持っていないんですか。
コーグのオルガンがあるよ。あそこの会長がすごい俺に良くしてくれた。俺が電通のためにいろいろ作ったとき(1980年代中期、ポリスターからシンセサイザーによるアルバムを7作品出した)、あのときコーグが俺に山ほどシンセザイザーを提供してくれて、それでブルックリンのスタジオを借りたんだよな。
@そのころ録ったエレクトリックものって、沢山音は眠っているんですよね。
いや、録ったものはほぼ出ているよ。
@1990年代に入って、ハウスぽいものも作っていたりもしたと思うんですが。
そのあたりの音もないよね。一時そういのに興味を持って、やり始めたことはあるけど。やったんだけど、なかなかいいDJが見つからなくねえ。ワレス・ルーニーと来た時あったじゃない(2004年11月、ブルーノート東京)、あのときはDJロジックが一緒に来たけど、あの人もどうやっていいか分らないんだ。ワレス・ルーニーがディレクションできなくてね。彼の女房のジェリ・アレンもいて一緒にやったけど、2キーボードだと難しいよね。
@でも、あのライヴを見て、ぼくは器用にプーさんの音だけを抜いて聞いて、ブギー・バンドの音みたいだと喜んで聞いてましたよ。あのときの、ルーニーの田舎ヤクザのような格好は凄かったですね。
あの人は、なんでもマイルスだから。
@去年、震災のすぐあとにピットインで、病に倒れたプーさん支援のコンサートが行われたりもしましたが、こうやって会っていると、元気そうですよね。あのときは、どんだけ具合が悪いのかと思ってしまいました。
いや、まだ具合が悪いよ。
@だって、食欲もあるみたいじゃないですか。(←取材中、これはうまいよと言って、パンを食べていた。一緒に食べないと、すすめてもくれた)
だって、お腹はすくもの。良く生きているなという感じ。
@ぼくは今回のブルーノート東京でのライヴを見て、うなり声もいっぱい出るし、椅子から腰を上げてピアノを弾いたりもしたし、わあ元気だと思いました。とともに、これからもいろんなプロダクツを受けることができると、確信しましたね。
とにかく、肺だからね。今、生きているのが不思議なくらい。だから、怖いものがないよ。いや、俺ほんとよく生き延びたと思うよ。でも、俺は生きているかぎりは音楽をやるから。