メイシオ・パーカー・ウィズ・フレッド・ウェズリー&ピー・ウィー・エリス
2007年9月13日 六本木・ビルボードライヴ東京、セカンド・ショウ。東京ミッドタウン
(初めて行く)内の商業施設棟にあって、まず最初の所感はテナント料高
そう。
メイシオ(アルト)、フレッド(トロンボーン)、ピー・ウィー(テナー
)のJBズ時代の名ホーン隊同僚(メイシオとフレッドはP−ファンク=ホ
ーニー・ホーンズの同僚でもある。かつてメイシオにJBとジョージ・クリ
ントンの違いを聞いたところ、パーティがあるとしてちゃんと正装でいらっ
しゃいというのがJBだとしたら、ジョージのほうは普段着で騒ごうゼとい
う感じだ、とコメント)たちは90年前半に一緒にJ.B.ホーンズとして活動、
そのいっぽうメイシオはヴァーヴと契約したソロ路線(そこには、フレッド
とピー・ウィーも当初は助力)が受けて徐々にメイシオが単独での仕事(19
99年8月6〜8日、1999年10月28日、2001年4月17日、2005年9月6日)
が繁盛し、現在にいたるわけだ(彼はプリンスの来日公演にも同行:2002年
11月19日)。フレッドはJBズと名乗りジャボ・ストークス(2007年4
月18日)やクライド・スタブルフィールド(2007年4月18日)らを交えて来
日したこと(1999年10月25日)もあった。ピー・ウィーには90年代に渋谷
の東武ホテルでインタヴューした記憶があるが、彼はそのときなんで来てた
んだろう。彼はオマール・ソーサ(2006年10月28日、他)のバンド客演で
やってきたこと(2005年9月24日)もあった。
バンドはいつものメイシオのバンド(あんなに、P-ファンク出身のロドニ
ー・カーティスって太っていたっけか)。同バンドのトロンボーン奏者(フ
レッドの後釜でP−ファンク入りしたグレッグ・ボイジャー)とトランペッ
ト奏者(JB表現にも係わったことがあるらしく、またジャコ・パストリア
スとも親交を持ったロン・トゥーリー)を抜いて、代わりにフレッドとピー
・ウィーが加わるという感じ。それから、ずっとメオシオ・バンドにいた
白人ウィル・ブールウェア(現在は日本主導で、ジャズ・ピアノのアルバム
を出したりも。なんかローランドをしょぼい音色で弾いていたけど、ハモン
ドB−3をちゃんとつかってほしかったな)がバンドに出戻っている。
演目もJB財産を根っこに持ちつつ鷹揚に広がるメイシオ毎度のレパート
リーが中心。流儀も同様。実はフレッドは名ソングライターでもあり、JB
ズ時代にいくつもJBと曲を共作していることを、「ソウル・パワー」のリ
フを聞きながら思いだしたりも。また、ジャコ・パストリアスがカヴァーし
てより知られる曲になった「チキン」はピー・ウィがJBズ時代に書いた曲
で、彼を立てるかようにこの曲もやったが、それはジャコ・ヴァージョンに
寄った演奏だった。また、メイシオが旧作で取り上げているポール・マッカ
トニー曲「マイ・ラヴ」では3人でソロ回しをしたりもしたが、基本的には
二人は付け足しのホーン・セクションという感じで重なっていて少し残念に
思うところもあったな。とにかく、それはメイシオが「これは俺の名前で興
行している、俺のショウなんだ」と言わんばかりにずっと中央に君臨してい
たからよりそう感じたのかもしれない。それもまた、ショウビズの掟かな。
終演後、誘われて楽屋に行ったのだが、今年会うのが3度目となるフレッ
ド(2007年2月2日、3日。2007年4月18日)はぼくを見るなり「おう、入
れ入れ」。さすが覚えているのかと思ったら、「キミはミューシジャンなの
?」。ありゃりゃ、「いえ、音楽ジャーナリストで……」。「そうか、そうだ
った。ニューオーリンズのティピティナズで会ったんだよなあ」。そして、
嬉しそうに繰り返し、横にいたバック・シンガーのマーサ・ハイにも「コイ
ツとはなんとティピティナズで出会ったんだよ」と紹介してくれる。JBファ
ミリー・ディーヴァの一人である金髪ブレイズのマーサさんはお歳はめして
いたがかなり綺麗な人だった。「ショウはどうだった? 楽しめた?」と話
かけてくる彼女はとっても気立てが良さそう。彼らに12日に亡くなってしま
ったボビー・バードの話を振ろうと思ったら、そのときなぜかバードの名前
が出てこなくて(ああ、歳はとりたくない)、まいっかとあっさり諦める。
テーブル(メイシオ曲の「オフ・ザ・フック」の楽譜が置いてあった。それ
、フレッドとピー・ウィーの確認用?) の向かいではコーラス/ラッパーの
コリー・パーカーが紅色スペシャル・メイドのi-ブックとにらめっこ。そし
て、メイシオは頼まれたサインを一生懸命やってたな。ピー・ウィーはジュ
ースを3本袋に詰めてたと思ったら、いなくなる。それぞれの楽屋、ショウ
は続く。
(初めて行く)内の商業施設棟にあって、まず最初の所感はテナント料高
そう。
メイシオ(アルト)、フレッド(トロンボーン)、ピー・ウィー(テナー
)のJBズ時代の名ホーン隊同僚(メイシオとフレッドはP−ファンク=ホ
ーニー・ホーンズの同僚でもある。かつてメイシオにJBとジョージ・クリ
ントンの違いを聞いたところ、パーティがあるとしてちゃんと正装でいらっ
しゃいというのがJBだとしたら、ジョージのほうは普段着で騒ごうゼとい
う感じだ、とコメント)たちは90年前半に一緒にJ.B.ホーンズとして活動、
そのいっぽうメイシオはヴァーヴと契約したソロ路線(そこには、フレッド
とピー・ウィーも当初は助力)が受けて徐々にメイシオが単独での仕事(19
99年8月6〜8日、1999年10月28日、2001年4月17日、2005年9月6日)
が繁盛し、現在にいたるわけだ(彼はプリンスの来日公演にも同行:2002年
11月19日)。フレッドはJBズと名乗りジャボ・ストークス(2007年4
月18日)やクライド・スタブルフィールド(2007年4月18日)らを交えて来
日したこと(1999年10月25日)もあった。ピー・ウィーには90年代に渋谷
の東武ホテルでインタヴューした記憶があるが、彼はそのときなんで来てた
んだろう。彼はオマール・ソーサ(2006年10月28日、他)のバンド客演で
やってきたこと(2005年9月24日)もあった。
バンドはいつものメイシオのバンド(あんなに、P-ファンク出身のロドニ
ー・カーティスって太っていたっけか)。同バンドのトロンボーン奏者(フ
レッドの後釜でP−ファンク入りしたグレッグ・ボイジャー)とトランペッ
ト奏者(JB表現にも係わったことがあるらしく、またジャコ・パストリア
スとも親交を持ったロン・トゥーリー)を抜いて、代わりにフレッドとピー
・ウィーが加わるという感じ。それから、ずっとメオシオ・バンドにいた
白人ウィル・ブールウェア(現在は日本主導で、ジャズ・ピアノのアルバム
を出したりも。なんかローランドをしょぼい音色で弾いていたけど、ハモン
ドB−3をちゃんとつかってほしかったな)がバンドに出戻っている。
演目もJB財産を根っこに持ちつつ鷹揚に広がるメイシオ毎度のレパート
リーが中心。流儀も同様。実はフレッドは名ソングライターでもあり、JB
ズ時代にいくつもJBと曲を共作していることを、「ソウル・パワー」のリ
フを聞きながら思いだしたりも。また、ジャコ・パストリアスがカヴァーし
てより知られる曲になった「チキン」はピー・ウィがJBズ時代に書いた曲
で、彼を立てるかようにこの曲もやったが、それはジャコ・ヴァージョンに
寄った演奏だった。また、メイシオが旧作で取り上げているポール・マッカ
トニー曲「マイ・ラヴ」では3人でソロ回しをしたりもしたが、基本的には
二人は付け足しのホーン・セクションという感じで重なっていて少し残念に
思うところもあったな。とにかく、それはメイシオが「これは俺の名前で興
行している、俺のショウなんだ」と言わんばかりにずっと中央に君臨してい
たからよりそう感じたのかもしれない。それもまた、ショウビズの掟かな。
終演後、誘われて楽屋に行ったのだが、今年会うのが3度目となるフレッ
ド(2007年2月2日、3日。2007年4月18日)はぼくを見るなり「おう、入
れ入れ」。さすが覚えているのかと思ったら、「キミはミューシジャンなの
?」。ありゃりゃ、「いえ、音楽ジャーナリストで……」。「そうか、そうだ
った。ニューオーリンズのティピティナズで会ったんだよなあ」。そして、
嬉しそうに繰り返し、横にいたバック・シンガーのマーサ・ハイにも「コイ
ツとはなんとティピティナズで出会ったんだよ」と紹介してくれる。JBファ
ミリー・ディーヴァの一人である金髪ブレイズのマーサさんはお歳はめして
いたがかなり綺麗な人だった。「ショウはどうだった? 楽しめた?」と話
かけてくる彼女はとっても気立てが良さそう。彼らに12日に亡くなってしま
ったボビー・バードの話を振ろうと思ったら、そのときなぜかバードの名前
が出てこなくて(ああ、歳はとりたくない)、まいっかとあっさり諦める。
テーブル(メイシオ曲の「オフ・ザ・フック」の楽譜が置いてあった。それ
、フレッドとピー・ウィーの確認用?) の向かいではコーラス/ラッパーの
コリー・パーカーが紅色スペシャル・メイドのi-ブックとにらめっこ。そし
て、メイシオは頼まれたサインを一生懸命やってたな。ピー・ウィーはジュ
ースを3本袋に詰めてたと思ったら、いなくなる。それぞれの楽屋、ショウ
は続く。