福岡ユタカ+。仙波清彦+さがゆき+泉邦宏
2012年4月21日 音楽 代官山・晴れたら空に豆まいて で、大昔ピンクという広角型ロック・バンドのシンガーで表舞台のスタートをきり、その後は変幻自在のヴォーカリゼイションとサウンドの我が道を行く拮抗表現をつきつめんとしているシンガー/クリエイターを中心とする、セッションを見る。PC2人、ギター、ベース、ヴァイオリン奏者なども臨機応変に絡み、ゆったりとした即興を展開。1時間半見たのだが、退出するときはPC2人によるパフォーマンスが続いていた。福岡が求めるインプロヴィセイションはミュージシャン間の会話というよりも、自分の世界との対話、場(の響き)との対話を重用しする肉声の使い手だと、この日のギグ(声には自分でけっこうエフェクトをかけていた)を見て思った。そういえば、彼の曲がニュースステーションで使われていた昔、川の近くにあった彼の自宅でインタヴューしたことがあったな。
そして、渋谷・Bar Issheeで、即興強者の3人による、諧謔性の高い完全インプロパフォーマンスを楽しむ。打楽器(サンプラー・パッドを用いていてびっくり)の仙波清彦(2011年4月1日、他)、いろんな歌声や小物のさがゆき、各種リードや笛や肉声の泉邦宏(2011年7月10日、他)による自由自在丁々発止が延々。この3人によるパフォーマンスは初めてのよう。演奏が一応終了したあとも、さがと泉は一緒に肉声の饗宴を続けまくる。すごーく意気投合、これからは、トリトリトリオという名前で活動するとかしないとか。その後、学会が作ったウェイン・ショーターの短編映像作品を見せてもらう。わー。入会したら娘も奥さんも死んじゃったけど、それにめげず先生の教えとともに生きてます、という内容?
<一昨日の、悲報。今日の、晴耕雨読>
今日はまがりくねった、奇妙な1日? 東京(と、ぼくが書くときは、FC東京のことであり、断じてヴェルディではありません)とJ1首位の仙台の試合を調布で見ようと思ったら、それはなんと仙台での試合であった。この週末は、東京も川崎も横浜も柏も、すべてアウェイの試合じゃないか。見に行こうと誘ってきた友人から、ごめんなさい勘違いしてましたと連絡があったのは、お昼少し前。雨天だったら見るのやだから当日券で行きましょう、と話し合っていた。一瞬がっかりしたが、サッカー試合の間違いに関しては免疫がある。1997年、クリスタル・パレスがプレミアにあがっている時期があって、出張中にそれを見ようとタクシーに小1時間のって、ロンドン郊外にあるそのホーム・スタジアムにかけつけたら、アウェイの試合だったということがあったのだ。現地のレコード会社の人にこの試合なら見れると言われて、行ったんだけどね。そのときは、その人がぼくのカードでチケットも予約してくれた。女性だったので、サッカーの試合には不慣れだったのか。その後、カードの引き落としはキャンセルがきいた。クリスタル・パレスのスタジアムは大きなスーパーの真横にあったんだけど、がらーん誰もいねー。でも、スタジアムを一瞥できただけでも、落胆しつつ少しうれしかったか。そんとき、一緒に行ったSくん元気ですかあ。と、忘却の彼方にあったことを、思い出しちゃった。てなわけで、まいっかと昼間からのんきに飲みはじめ、予定外の人と会い、なんか想定外に高価なご飯を食べ、気持ちよくできあがったあと気分の向くままライヴをはしごし……。やはり、世の中、どうなろうとどうにもなるもんだア。特に、都会は。そういう融通のきき具合を、“都会型晴耕雨読”とぼくは呼んでいる。なーんて、いま思いつきました。最後は、なじみの店の開店4周年のパーティに店主から来てネと数日前に脅されたので顔を出す。サッカー見ていたら、別の流れになっていて行けなかったかな。なんだかんだ、半日以上アルコールの入ったグラスを持ち続けていた1日。てな、気ままな、生理的に元気でもある生活、あとどのぐらい、ぼくはできるのかなー。
ザ・バンドの唯一の米国人であった、リヴォン・ヘルムが死んじゃった。
享年、71。ここのところ亡くなってしまったミュージシャンのなかではトップに悲しさを覚えたか。やっぱ、ザ・バンドが大好きなんだよなー。彼らは聞くシチュエーションを選ばないし、近年は飲むと猛烈に聞きたくなったりもする。とともに、やはりちゃんと取材の機会を持てて、強い印象を得ている人物だと、より思いは湧くのだと思う。
ヘルムにインタヴューしたのは、Jリーグが始まった翌年の1994年、ザ・バンドで来日したとき。あのころ、チームに入っててサッカーをそれなりにやっていて、彼らの新宿厚生年金会館公演があるので、前半だけ杉並での試合(そのとき、バカみたいに調子が良かったんだよなー)に出て後ろ髪ひかれる思いでコンサートに向かったのを良く覚えている。実は取材のさい、ヘルムは少し“明後日”の感じがあって、クスリをやっているのかと思えたりもした。でも、別れ際のとってもココロある対応/発言が鮮やかに記憶にのこっている。その質疑応答で、やはりロビー・ロバートソンとは相当に仲が良くないことも分かり、印象の良さもあり非ロバートソン組を応援するゾと、単純なオレは心に決めた。あのとき一緒に取材に応えたリック・ダンコも99年に亡くなっているし、リチャード・マニュエルは86年にこの世を去っているし。これで、ザ・バンドの人間度の高いロックを支えた3人の歌担当者は全員いなくなってしまった。
ちなみに、再結成してのザ・バンドの初来日公演(すでに、ロバートソンとは袂を分かつ、という形態になっていた)は1983年で、そのときの冠はケンタッキー・フライド・チキン。大ファンだったので記者会見にも行ったら、山盛りセットのフリー・チケットを複数枚もらった。父親ともよく絡んだ娘のエイミーがいた趣味性の高いバンドであるオラベル(2004年9月19日)を見たのももう懐かしい思い出。彼女は父親をちゃんと看取ったらしい。
さて、来月にはザ・バンドと同様、ぼくが途方もなく愛してやまなかったリトル・フィート(2000年12月8日)の来日公演がある。少し前に70年代上半期のライヴが無料配信され、それはうれしく拝聴した。彼らの2000年の来日ライヴはジャム・バンド的流れにのり各人の楽器ソロ・パートを延々と垂れ流してて幻滅した記憶があるが、そんなのものともせず、見に行きたい。ビルボードライブでの公演だったら、演奏時間が限られるので、そうはならないのではないか。現在、リトル・フィートのホームページに行くと、今年1月にジャマイカでやったライヴの模様を公表しているが、それがザ・バンド曲の「アップ・オン・クリップル・クリーク」の映像(ビル・ペインのオルガンがけっこうガース・ハドソンぽい。なぜか、ステージ上には11人いる)と同「ラグ・ママ・ラグ」のオーディオ。ともに(いずれも、”チョコレート”とか”ブラウン・アルバム”とか一部で呼ばれるセカンド作収録曲だな)、素晴らしい! 日本でもザ・バンド曲をやってくれるか? そこでは、故ロウエル・ジョージの1979年ソロ作に入っていた「オネスト・マン」カヴァーのライヴ曲も聞けるが、それはアラン・トゥーサン(2011年1月10日、他)曲みたいに聞こえる。
話は飛ぶが、ボニー・レイット(2007年4月7、8日)のジョー・ヘンリー(2010 年4月2、4日)制作新作『ストップストーム』(これも、全曲無料配信されていた。日本盤は5月下旬にビクターエンタテインメントから発売)は間違いなく、今年No.1の米国ロック作だ。聞き惚れる。ヘンリーはこの秋にもまた来日する予定もあるようだが、レイットについてはとんと来日から縁遠い。単独ではギャラとの折り合いが駄目でも、ジョン・フォガティ(2010年7月31日)のようにフェスに呼ばれるとかないのだろうか。
だらだら書いたついでに、もう一つ思い出を書いちゃおう。好きな人に影響を受けたバンドをやりたいというのは、とても自然な流れではありますね。でも、大学時代、リトル・フィートにもろに影響を受けたビートをやろうとしても、ザ・バンドみたいなことをやろうとは思わなかった。やはり、あれをやるには困難すぎると最初からあきらめていたのか。そのかわり、ザ・バンドが「(アイ・ドント・ウォント・トゥ・)ドント・ハング・アップ・マイ・ロックロール・シューズ」という1958年チャック・ウィリス曲(原盤は、アトランティック)をライヴ盤『ロック・オブ・エイジズ』でカヴァーしていたのにならい(?)、「(ドント・ハング・アップ・)マイ・ロックンロール・ブーツ」というR&R曲を作り、バンドでやったことがあった。<ぼくのロックンロール・ブーツは世界中を飛び回り、興奮するとかかとが伸びる>、という内容の歌だった。ハハハ。あのころ、ぼくがいた音楽サークルは“SAシューズ”(←店名。わかる人には分かる)にお世話になっていた人が少なくなかった。
あ、なんかマンドリン、ほしくなっちゃった。
そして、渋谷・Bar Issheeで、即興強者の3人による、諧謔性の高い完全インプロパフォーマンスを楽しむ。打楽器(サンプラー・パッドを用いていてびっくり)の仙波清彦(2011年4月1日、他)、いろんな歌声や小物のさがゆき、各種リードや笛や肉声の泉邦宏(2011年7月10日、他)による自由自在丁々発止が延々。この3人によるパフォーマンスは初めてのよう。演奏が一応終了したあとも、さがと泉は一緒に肉声の饗宴を続けまくる。すごーく意気投合、これからは、トリトリトリオという名前で活動するとかしないとか。その後、学会が作ったウェイン・ショーターの短編映像作品を見せてもらう。わー。入会したら娘も奥さんも死んじゃったけど、それにめげず先生の教えとともに生きてます、という内容?
<一昨日の、悲報。今日の、晴耕雨読>
今日はまがりくねった、奇妙な1日? 東京(と、ぼくが書くときは、FC東京のことであり、断じてヴェルディではありません)とJ1首位の仙台の試合を調布で見ようと思ったら、それはなんと仙台での試合であった。この週末は、東京も川崎も横浜も柏も、すべてアウェイの試合じゃないか。見に行こうと誘ってきた友人から、ごめんなさい勘違いしてましたと連絡があったのは、お昼少し前。雨天だったら見るのやだから当日券で行きましょう、と話し合っていた。一瞬がっかりしたが、サッカー試合の間違いに関しては免疫がある。1997年、クリスタル・パレスがプレミアにあがっている時期があって、出張中にそれを見ようとタクシーに小1時間のって、ロンドン郊外にあるそのホーム・スタジアムにかけつけたら、アウェイの試合だったということがあったのだ。現地のレコード会社の人にこの試合なら見れると言われて、行ったんだけどね。そのときは、その人がぼくのカードでチケットも予約してくれた。女性だったので、サッカーの試合には不慣れだったのか。その後、カードの引き落としはキャンセルがきいた。クリスタル・パレスのスタジアムは大きなスーパーの真横にあったんだけど、がらーん誰もいねー。でも、スタジアムを一瞥できただけでも、落胆しつつ少しうれしかったか。そんとき、一緒に行ったSくん元気ですかあ。と、忘却の彼方にあったことを、思い出しちゃった。てなわけで、まいっかと昼間からのんきに飲みはじめ、予定外の人と会い、なんか想定外に高価なご飯を食べ、気持ちよくできあがったあと気分の向くままライヴをはしごし……。やはり、世の中、どうなろうとどうにもなるもんだア。特に、都会は。そういう融通のきき具合を、“都会型晴耕雨読”とぼくは呼んでいる。なーんて、いま思いつきました。最後は、なじみの店の開店4周年のパーティに店主から来てネと数日前に脅されたので顔を出す。サッカー見ていたら、別の流れになっていて行けなかったかな。なんだかんだ、半日以上アルコールの入ったグラスを持ち続けていた1日。てな、気ままな、生理的に元気でもある生活、あとどのぐらい、ぼくはできるのかなー。
ザ・バンドの唯一の米国人であった、リヴォン・ヘルムが死んじゃった。
享年、71。ここのところ亡くなってしまったミュージシャンのなかではトップに悲しさを覚えたか。やっぱ、ザ・バンドが大好きなんだよなー。彼らは聞くシチュエーションを選ばないし、近年は飲むと猛烈に聞きたくなったりもする。とともに、やはりちゃんと取材の機会を持てて、強い印象を得ている人物だと、より思いは湧くのだと思う。
ヘルムにインタヴューしたのは、Jリーグが始まった翌年の1994年、ザ・バンドで来日したとき。あのころ、チームに入っててサッカーをそれなりにやっていて、彼らの新宿厚生年金会館公演があるので、前半だけ杉並での試合(そのとき、バカみたいに調子が良かったんだよなー)に出て後ろ髪ひかれる思いでコンサートに向かったのを良く覚えている。実は取材のさい、ヘルムは少し“明後日”の感じがあって、クスリをやっているのかと思えたりもした。でも、別れ際のとってもココロある対応/発言が鮮やかに記憶にのこっている。その質疑応答で、やはりロビー・ロバートソンとは相当に仲が良くないことも分かり、印象の良さもあり非ロバートソン組を応援するゾと、単純なオレは心に決めた。あのとき一緒に取材に応えたリック・ダンコも99年に亡くなっているし、リチャード・マニュエルは86年にこの世を去っているし。これで、ザ・バンドの人間度の高いロックを支えた3人の歌担当者は全員いなくなってしまった。
ちなみに、再結成してのザ・バンドの初来日公演(すでに、ロバートソンとは袂を分かつ、という形態になっていた)は1983年で、そのときの冠はケンタッキー・フライド・チキン。大ファンだったので記者会見にも行ったら、山盛りセットのフリー・チケットを複数枚もらった。父親ともよく絡んだ娘のエイミーがいた趣味性の高いバンドであるオラベル(2004年9月19日)を見たのももう懐かしい思い出。彼女は父親をちゃんと看取ったらしい。
さて、来月にはザ・バンドと同様、ぼくが途方もなく愛してやまなかったリトル・フィート(2000年12月8日)の来日公演がある。少し前に70年代上半期のライヴが無料配信され、それはうれしく拝聴した。彼らの2000年の来日ライヴはジャム・バンド的流れにのり各人の楽器ソロ・パートを延々と垂れ流してて幻滅した記憶があるが、そんなのものともせず、見に行きたい。ビルボードライブでの公演だったら、演奏時間が限られるので、そうはならないのではないか。現在、リトル・フィートのホームページに行くと、今年1月にジャマイカでやったライヴの模様を公表しているが、それがザ・バンド曲の「アップ・オン・クリップル・クリーク」の映像(ビル・ペインのオルガンがけっこうガース・ハドソンぽい。なぜか、ステージ上には11人いる)と同「ラグ・ママ・ラグ」のオーディオ。ともに(いずれも、”チョコレート”とか”ブラウン・アルバム”とか一部で呼ばれるセカンド作収録曲だな)、素晴らしい! 日本でもザ・バンド曲をやってくれるか? そこでは、故ロウエル・ジョージの1979年ソロ作に入っていた「オネスト・マン」カヴァーのライヴ曲も聞けるが、それはアラン・トゥーサン(2011年1月10日、他)曲みたいに聞こえる。
話は飛ぶが、ボニー・レイット(2007年4月7、8日)のジョー・ヘンリー(2010 年4月2、4日)制作新作『ストップストーム』(これも、全曲無料配信されていた。日本盤は5月下旬にビクターエンタテインメントから発売)は間違いなく、今年No.1の米国ロック作だ。聞き惚れる。ヘンリーはこの秋にもまた来日する予定もあるようだが、レイットについてはとんと来日から縁遠い。単独ではギャラとの折り合いが駄目でも、ジョン・フォガティ(2010年7月31日)のようにフェスに呼ばれるとかないのだろうか。
だらだら書いたついでに、もう一つ思い出を書いちゃおう。好きな人に影響を受けたバンドをやりたいというのは、とても自然な流れではありますね。でも、大学時代、リトル・フィートにもろに影響を受けたビートをやろうとしても、ザ・バンドみたいなことをやろうとは思わなかった。やはり、あれをやるには困難すぎると最初からあきらめていたのか。そのかわり、ザ・バンドが「(アイ・ドント・ウォント・トゥ・)ドント・ハング・アップ・マイ・ロックロール・シューズ」という1958年チャック・ウィリス曲(原盤は、アトランティック)をライヴ盤『ロック・オブ・エイジズ』でカヴァーしていたのにならい(?)、「(ドント・ハング・アップ・)マイ・ロックンロール・ブーツ」というR&R曲を作り、バンドでやったことがあった。<ぼくのロックンロール・ブーツは世界中を飛び回り、興奮するとかかとが伸びる>、という内容の歌だった。ハハハ。あのころ、ぼくがいた音楽サークルは“SAシューズ”(←店名。わかる人には分かる)にお世話になっていた人が少なくなかった。
あ、なんかマンドリン、ほしくなっちゃった。