8月から日本公開になる米国映画を、渋谷・relatinsデジタル試写室で見る。まさか、ここにきて、ジョン・レノンを扱ったドキュメンタリー映画を見るとは思わなかった。まだ映像マテリアル、残っているんですかー、という意味で……。監督はマイケル・エプスタインという人で、ずっとドキュメンタリー映像畑を歩んできている在NYの人物のよう。表題にあるように、71年9月から射殺された80年12月まで暮らしたNY時代のジョン・レノンを追ったものだ。また、73年秋からの、“失われた週末”=LA放蕩時代もふくむ。

 出だしの、ドロウイングっぽい線を用いた映像が格好良く、いい流れ。なるほど、その処理はミレニアム後に出てきた映像作品なのだと思わせるか。既発と思われるかつて撮られたジョン絡みの写真や映像、発言音声、発表楽曲などに加え、エレファンツ・メモリーのメンバーやアール・スリックやアンディ・ニューマークら彼のレコーディングに関わったミュージシャン、仲良しだったカメラマンのボブ・グルーエン、遺作『ダブル・ファンタジー』をプロデュースしたジャック・ダグラス、ジョンとヨーコの復縁のきっかけを与えたエルトン・ジョン(彼がいなかったら、ショーンは生まれていなかった?)、市民権獲得のため尽力した弁護士、当時共闘した社会活動家、家政婦/愛人だったメイ・パンなどに新たに行なった取材映像、そしてもちろんオノ・ヨーコによる現在の回想話を実に巧みに噛み合わせて、死後30年を経ての“ジョン・レノンの終盤1/4の人生”〜それは取りも直さず、人間的でドラマティックな時期であった〜の総括を行なう。120分の作品で、途中で冗長とふと感じなくもないが、崇高さと駄目男の部分を併せ持つ不世出のロッカーの像をうまく描いていると思った。そして、この時代のジョンを扱うことで、70年代のNY/米国の状況を切りとっている部分もあるんじゃないか。

 オノ・ヨーコが協力しているというが、それは使用マテリアルに触れると痛感させられる。レコーディング・スタジオ内でのやりとりを収めた音声(ジョンという人が何気に伝わる)やアウトテイク/デモ風のジョン曲がとても効果的につかわれているもの。後者は発表済みなのかもしれないが、前者は今回出されたようだ。なるほど、だよなあ。ぼくは大好きなジョン・レノンの射殺を卒論の大きなテーマに据えた人間(一応、社会学マスコミュニケーションが専攻でした)だが、改めて提出される話に触れて、そうかと頷くところも多々。ジョンは『ダブル・ファンタジー』録音のとき、コンソール内の左右のモニター・スピーカーの間に幼いショーン(75年生まれ。誕生日は父親と同じ)の写真をはってから作業を始めたとのことで、感じていた以上に息子のことを溺愛していたのには驚いた。

 それから、やっぱり彼の音楽は味わい深すぎる。その音楽を知ることができたことに、深く感謝。……試写の間、そう痛感し続けていた私であったが、一方ではココロに嵐が舞いまくり。試写中約40分にわたり、鬼のような轟音いびきを垂れ流す糞オヤジがいて辟易。なんなんだア、ありゃあ。



<今日の付録>
 以下は、ショーン・レノン(2010年1月21日)にしたインタヴューのなか、両親に関わる部分を抜粋したものだ。もともとは毎日新聞の記事用にとったものだが、使っていない部分もおおいので、ここにだしておく。彼はジョンのことを、「ダッド」と言っていた。


○お父さんの大ファンですので、お会いできて本当に光栄です。そう言う人は多いと思うけど、それってぶっちゃけどう感じるんでしょう?
「よく言われるんだけど、それについては、毎回ちがったことを言うんだ。言ってる人の感じによって返事を変えるんだよね。違う反応をして、楽しんでいる」
○お母さんとは今も仲がいいですよね。
「僕はやはりラッキーだと思う。2人とも音楽やアートをやっている。そういうところで繋がることが出来るから。音楽やアートというコネクションがなかったら、やっぱり仲良くなれないと思うよ」
○そういう両親だからこそ、生まれたときから何にでも触れることはできたし、いろんな人とも知り合うことができましたよね。
「もし父親がずっと生きていたら、おそらくそういう環境になったかもしれない。でも、お母さんとの2人の環境においては、彼女は一匹狼的なので、ザ・ビートルズの人たちが来て、ジャムをやる環境ではなかったよ。だから、僕は音楽を独学したと思っている。まあ、アンディ・ウォーホルとかデイヴィッド・ボウイなんかはよく知っていたけど」
○ぼくたちが特別視するほどの環境ではなかった、と。
「さあ、普通だったかどうかというのは分らないけど、皆が考えるようなことは想像のものなんじゃないかな?」
○子供のころから、音楽が一番の存在だったんですか。
「いろんなものに興味があった。ただ、音楽と絵に関しては一番才能があったんじゃないか。ただ、虫も好きだったし、化学も好きだったし、天体も好きだったし、本を読むのも好きだった。ただ、唯一、歴史には興味が持てなかった。でも、今は歴史に興味がある。それを知る事によって、いろんなことが学べるし、小説よりもおもしろい。歴史についての本を書きたいけど、できるかどうかは分らない」
○子供のころ、どんな音楽が好きでした?
「うーん、クラシックとロック」
○最初に作った曲は覚えています?
「覚えているよ。いい曲じゃなかった。僕は取っておくのが得意じゃないので、残っていないけどね。母さんは整理が得意なんだけど、それは母から学びたい」
○日本は小さいころから何度もやってきていますよね。日本はどういう存在と言えます?
「僕は半分、日本人……そのことは、強く意識している。自分の心もそうだし、お腹もそう。自分が子供のときは玄米とお味噌汁みたいな感じで、ご飯の記憶は日本食ばかりなんだ。だから、日本に来るのは、特別な国にきたという気持ちを持つ。子供のころ、ホテルオークラに暫く住んでいた事もあるし、軽井沢にも滞在したこともあったし。そのときのことは、いい思い出として残っている」




○お母さんを(ギタリストとして)サポートをする際、あなたの演奏は自分のときよりもファンキーな感じになりますよね。
「母に引っぱられてそうなるというよりは、そこには僕の意思が込められている。自分の夢としては、プラスティック・オノ・バンドをマイルス・デイヴィスの『オン・ザ・コーナー』や『ライヴ・イヴィル』の方向にもっていけたらと思っているんだ」
注;そういえば、70年発表の『ヨーコ・オノ/プラスティック・オノ・バンド』(アップル。ジャケットは『ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド;邦題は、ジョンの魂』と対。そして、それを聞き較べれば、ときに聞く者の困惑も誘うヨーコの翔びっぷりが分る)にはオーネット・コールマン、デイヴィッド・アイゼンゾン、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェルといったコールマン系フリー・ジャズ一派が参加していた。関係ないけど、彼女はヘヴィ・スモーカーだったんだな。映画に出て来る昔の写真、みんなタバコを持っている。



○「ちょうどいい ほん」という絵本をだしましたが、それは最近描いたものなんですか。
「(2009年)10月に描いたのかな。父さんとはよく一緒に絵を描いたんだ。ゲームみたいなことをしたよね。父さんが滅茶苦茶に描いたのを、ぼくがそのあと引き受けて仕上げたり。と思えば、ぼくが最初に描いた絵を父が仕上げたり。そういうゲームを朝から晩までやっていた」
○父との関わりで、一番印象に残っているのは?
「記憶とは不思議なもので、断片的に覚えているんだ。音とか匂い……父さんが着ていた浴衣の匂いとか、タバコ臭とか。そういうものが、フラッシュバックするように僕のなかにはあります。声のトーンだとか、そのときに感じた気持ちとかが、断片的にしっかり残っているんだ」




○音楽で何かを変えたいとか、思いますか。あなたの両親がそうであったように。
「いや、考えていない。両親の音楽のことを考えた場合……、「ギヴ・ピース・ア・チャンス」はどういう観点で素晴らしかったかと言えば、確かに政治的な部分においてだった。でも、作曲という観点で見て素晴らしかったのは、別の曲だよね。僕はアートというのは政治的な要素を含まなければならないとは思わない。でも、両親は音楽というパワーを使って、政治的にもすばらしくポジティブな活動をしたのは賞讃に値する。政治的なパワーと音楽的な芸術性が最高の合致を見せた例はそうはない。(父親の)「ハッピー・クリスマス」やボブ・ディランの「マスターズ・オブ・ウォー」や「時代は変わる」とかは、それに到達した。でも、ぼくが目指しているのは、素晴らしいアーティストでありたいということで、政治的なアーティストであろうということではない。物事には正しいタイミングというのがあると思う。ジョンとヨーコが音楽を使って政治的なメッセージを送ったというのは、その時に世界が2人に凄い注目していたからだ。それを敏感に感じて、そのタイミングを2人は上手に用いて、政治的メッセージの表出を巧みに行った。たとえば、僕がすごい世界的なヒットを出して、世界的に注目されるとして、そのときに世界に広く発したいメッセージがあれば、ぼくもそれをするかもしれない。ただ、自分はそういう時期にいないと思う。僕は今、アーティストとして自分を確立したいし、素晴らしいアートを作りたい。ファンに答えられるものを作るのが、今ぼくがやるべきことだ」