バラケ・シソコ&ヴァンサン・セガール
2011年6月6日 音楽 マリのコラ奏者とフランスのチェロ奏者、まったく出自の異なるミュージシャンと楽器がナチュラルに重なり合う、デュオのグループ。偶然出会い、ウマがあって、余暇に一緒に家でお手合わせするようになったのが発端であるというが、まさに肩の凝らない、寛いだ繊細表現を聞かせたな。表参道・カイ。
まずは、セガールの視野の広い、技に富んだチェロ演奏にびっくり。こんなに豊かに幅広いチェロ演奏する人がいるんだァ。なんでも出来そう、マイラ・アンドラーテ(2007年10月25日)、ヴァネッサ・パラディ、レイ・レマらパリに拠点を置く人から、カルリーニョス・ブラウン(2000年4月30 日)、スティング(2000年10月16日)、セザリア・エヴォラ、ブラッカリシャス、エルヴィス・コステロ(2011年3月1日、他)まで、いろんなレコーディングに参加しているのにも納得。それに較べると、シソコのコラ演奏は楽器自体のプリミティヴな構造もあって幅の狭さを感じるが、やはりコラ奏者としては破格に洗練されている人と言えるだろう。やる曲はソシコ作のほうが多い。
繰り返しのフレーズ音(コラが基調になる場合がおおいか)を基本において、無理なく音を重ねあって行く、と書けるだろうパフォーマンス。うーぬ。それは軽やかで、俗っぽくなく多分にノーブルで、ときに機微に富んでいる。ふむふむ、コレはあまり聞いたことのないタイプの音楽であり、存在していい、クロスオーヴァーした洗練和みの音楽だと思った。2人のリーダー作は『チェンバー・ミュージック』(米国ではシックス・ディグリーズからだされている)とタイトル付けされているが、なるほど、それはもう一つの室内音楽たりえている。MCはセガールが担当。それによれば、サイモン・ジェフスのペンギン・カフェ・オーケストラを参照したところはあったようで、それにも納得。80年代初頭に日本のポリドールでそれを売って社内実績をあげた人物が現在ユニヴァーサル・ミュージュックの日本CEOを務めていますね。
後半2曲とアンコール1曲で、清水靖晃(2000年12月16日、2006年9月26日、2010年2月27日)がくわわり、さすがの協調、個性発揮を見せる。本当にテナー・サックスの技量自体もそうだけど、彼もしなやかに枠超えしちゃう名人、なり。一緒に録音しても面白そうと思った。
<このところのSNS>
まるっきりその手のものに弱く、自ら動いたことはないが、知人の誘いにより(そういうのを受けるのは腰が軽い)、ミクシーも、トゥイッターも、フェイスブックも入っている。うち、頭の二つは休業状態。ミクシーなんてパスワードを忘れちゃってて自分でここ3年ぐらい開いてもいない。ま、フェイスブックもそうなるはずだったんだが、ここ1ヶ月強ほど友達希望がけっこう来ていてビックリ。ある先輩に写真ぐらい入れなよと言われ、ならとクラーク志織さんが描いてくれた絵を載せたら、それ以降、そこそこ賑やかなことになっている。目に訴える力ってすごいんだな。かといって、自分から書き込むとかはしないので(その仕方も良くわからない)、自分から友達希望を出す事は今のところはしていないが。一つびっくりするのは、<友達かも>という本部からの情報に、かつて付き合いがあった人の名前があること。で、その案内で、今は海外に住んでいるんだと知ったりもするのだが、どういう回路でその人とぼくが知り合いであると推測するのか。友達がダブっているならもちろん理解できるのだが、一切友達の重なりがないのに、ひょっこりそういう案内が来るとビビります。
まずは、セガールの視野の広い、技に富んだチェロ演奏にびっくり。こんなに豊かに幅広いチェロ演奏する人がいるんだァ。なんでも出来そう、マイラ・アンドラーテ(2007年10月25日)、ヴァネッサ・パラディ、レイ・レマらパリに拠点を置く人から、カルリーニョス・ブラウン(2000年4月30 日)、スティング(2000年10月16日)、セザリア・エヴォラ、ブラッカリシャス、エルヴィス・コステロ(2011年3月1日、他)まで、いろんなレコーディングに参加しているのにも納得。それに較べると、シソコのコラ演奏は楽器自体のプリミティヴな構造もあって幅の狭さを感じるが、やはりコラ奏者としては破格に洗練されている人と言えるだろう。やる曲はソシコ作のほうが多い。
繰り返しのフレーズ音(コラが基調になる場合がおおいか)を基本において、無理なく音を重ねあって行く、と書けるだろうパフォーマンス。うーぬ。それは軽やかで、俗っぽくなく多分にノーブルで、ときに機微に富んでいる。ふむふむ、コレはあまり聞いたことのないタイプの音楽であり、存在していい、クロスオーヴァーした洗練和みの音楽だと思った。2人のリーダー作は『チェンバー・ミュージック』(米国ではシックス・ディグリーズからだされている)とタイトル付けされているが、なるほど、それはもう一つの室内音楽たりえている。MCはセガールが担当。それによれば、サイモン・ジェフスのペンギン・カフェ・オーケストラを参照したところはあったようで、それにも納得。80年代初頭に日本のポリドールでそれを売って社内実績をあげた人物が現在ユニヴァーサル・ミュージュックの日本CEOを務めていますね。
後半2曲とアンコール1曲で、清水靖晃(2000年12月16日、2006年9月26日、2010年2月27日)がくわわり、さすがの協調、個性発揮を見せる。本当にテナー・サックスの技量自体もそうだけど、彼もしなやかに枠超えしちゃう名人、なり。一緒に録音しても面白そうと思った。
<このところのSNS>
まるっきりその手のものに弱く、自ら動いたことはないが、知人の誘いにより(そういうのを受けるのは腰が軽い)、ミクシーも、トゥイッターも、フェイスブックも入っている。うち、頭の二つは休業状態。ミクシーなんてパスワードを忘れちゃってて自分でここ3年ぐらい開いてもいない。ま、フェイスブックもそうなるはずだったんだが、ここ1ヶ月強ほど友達希望がけっこう来ていてビックリ。ある先輩に写真ぐらい入れなよと言われ、ならとクラーク志織さんが描いてくれた絵を載せたら、それ以降、そこそこ賑やかなことになっている。目に訴える力ってすごいんだな。かといって、自分から書き込むとかはしないので(その仕方も良くわからない)、自分から友達希望を出す事は今のところはしていないが。一つびっくりするのは、<友達かも>という本部からの情報に、かつて付き合いがあった人の名前があること。で、その案内で、今は海外に住んでいるんだと知ったりもするのだが、どういう回路でその人とぼくが知り合いであると推測するのか。友達がダブっているならもちろん理解できるのだが、一切友達の重なりがないのに、ひょっこりそういう案内が来るとビビります。
エミ・マイヤー。SNO
2011年6月5日 音楽 この前のグリーンルーム・フェスティヴァル(5月21日)のときも綺麗な服をきていたが、この晩もそれは同様。友達がつくったものらしい。スラっとした体躯なので、映えますね。
ウッド・ベース奏者とドラマーを従えての、パフォーマンス。途中、一部はピアノから離れて、中央でマイクを持って歌ったりもした。そして、最後のほうにはヒートウェイヴの山口洋(2006年9月24日)がギターでくわわる。彼、マイヤーの表現に沿った伴奏を上手につけていてビックリ。入って2曲目となる曲の伴奏はコラの音みたいに聞こえた? わあ。山口というとロケンロール&ボブ・ディランな佇まいをイメージするが、その頑なノリはいろんな見聞や経験を経た末にフォーカスしたものであるというのを実感できて、ぼくは高揚した。本人はあまり上手く絡めなかったと少しヘコんでいたようだが。
アンコール(の2度目だったか)は、山口と中川敬(2011年3月26日、他)が作った「満月の夕」(2011年4月13日、参照)を一緒にやる。なんでも、エミ・マイヤーは今回のツアーにおける焼津で山口とダブル・ビル公演をし、その際に彼が歌った「満月の夕」に魅了され、自分でも歌いたいと思うようになったという。この曲ではそれまでギター弾きに専念していた山口も控え目に歌う。やっぱ、なかなかウルっとこさせる曲……。渋谷・クラブクアトロ。
そして、すぐ近くのbar issheeにいって、装置の庄司広光、ドラムの沼直也(2009年10月18日、他)、ギターその他の大島輝之(2006年10月19日、2010年9月11日)のトリオ・ギグを見る。けっこう場数をこなしているはずのインプロ・ユニットなはずで、三者がそれぞれの持ち味や発想傾向を自在に重ね合う。うまく書き留められないが、書き留めようとも思わない、そんな音が舞う。
<今日のアフター>
その後、近くでやっていた打ち上げに合流。エミちゃんの両親もライヴに合わせてシアトルからやってきていて、少しお話しする。なるほど、この素敵な両親にして、この娘ありなのか。二作目をだしたばかりで変わらず話題を呼ぶフリート・フォクシーズはシアトルのバンドで彼女よりちょい年上か。もしかして知っているかもと思い彼女に聞いたら、直接的な面識はないそう。
ウッド・ベース奏者とドラマーを従えての、パフォーマンス。途中、一部はピアノから離れて、中央でマイクを持って歌ったりもした。そして、最後のほうにはヒートウェイヴの山口洋(2006年9月24日)がギターでくわわる。彼、マイヤーの表現に沿った伴奏を上手につけていてビックリ。入って2曲目となる曲の伴奏はコラの音みたいに聞こえた? わあ。山口というとロケンロール&ボブ・ディランな佇まいをイメージするが、その頑なノリはいろんな見聞や経験を経た末にフォーカスしたものであるというのを実感できて、ぼくは高揚した。本人はあまり上手く絡めなかったと少しヘコんでいたようだが。
アンコール(の2度目だったか)は、山口と中川敬(2011年3月26日、他)が作った「満月の夕」(2011年4月13日、参照)を一緒にやる。なんでも、エミ・マイヤーは今回のツアーにおける焼津で山口とダブル・ビル公演をし、その際に彼が歌った「満月の夕」に魅了され、自分でも歌いたいと思うようになったという。この曲ではそれまでギター弾きに専念していた山口も控え目に歌う。やっぱ、なかなかウルっとこさせる曲……。渋谷・クラブクアトロ。
そして、すぐ近くのbar issheeにいって、装置の庄司広光、ドラムの沼直也(2009年10月18日、他)、ギターその他の大島輝之(2006年10月19日、2010年9月11日)のトリオ・ギグを見る。けっこう場数をこなしているはずのインプロ・ユニットなはずで、三者がそれぞれの持ち味や発想傾向を自在に重ね合う。うまく書き留められないが、書き留めようとも思わない、そんな音が舞う。
<今日のアフター>
その後、近くでやっていた打ち上げに合流。エミちゃんの両親もライヴに合わせてシアトルからやってきていて、少しお話しする。なるほど、この素敵な両親にして、この娘ありなのか。二作目をだしたばかりで変わらず話題を呼ぶフリート・フォクシーズはシアトルのバンドで彼女よりちょい年上か。もしかして知っているかもと思い彼女に聞いたら、直接的な面識はないそう。
テリエ・イースングセット
2011年5月27日 音楽 ノルウェイの、枠をぬけた打楽器奏者のソロ実演を見る。本国ではいろんな分野の人とやっていているようで、ECMやジャズランドからのリーダー作も持つシゼル・アンデルセンとのアルバムをはじめ、ブツもいろいろ出しているようだ。代官山・山羊に、聞く?
ステージ部には口径はでっかいながら深さは浅めのバスドラ、タンバリンや鳴りものをハイハットのスタンドにつけたもの、スネア、タム、シンバル、そして横の方にはいろんな鳴りモノや石琴のかけらみたいなのとか、いろいろ置いている。また、管や変なものを口にくわえて声を出したりもする。といった、発想の自由を感じさせる様々な音のでるものを介して、次々に音の像を連ねて行く。グルーヴやパルスを届けるというよりは、音響的形而上を様々な手口で発して行くという演奏。その順列組み合わせは気分のところもあるだろうが、部分部分の音の出し方はかなり吟味された末のものと思わせられる。
当人は長身でなるほどスカンジナヴィアンと思わせられるし、音の端々にオローラに近い地域から出るものという気分はあったか。ただ、ニコニコしながら進めるパフォーマンスの様は非常に人間味があふれるものであり、温かさを感じさせるものではあった。実は、パフォーマンスで一番ぼくがフフフとなれたのは彼が発する形容不能の肉声の数々。それはぼくが感じるノルウェイ的属性から離れるものだったんだけど、おいしい酔狂がありました。
<今日の空>
雨天の予報であったが、かろうじて傘なしで歩ける。今、家にロクな傘がないので、ちゃんとしたの一本買いたいナ。どうせ、何処かにすぐに忘れてしまうだろうけど。首都圏も、今日から梅雨いり。天気予報には当面、傘マークが並ぶ。そして、沖縄のほうには明日、早々に台風がやってくるようだ。今日見た打楽器奏者は明日、茨城県でやるフェス“センス・オブ・ワンダー”に出演するよう。また、宮古島でも音楽フェスがあるみたい(水曜に取材したミュージシャンが出演すると言っていた)だが、行こうと思っている人や主催者は天候が気になってしょうがないだろう。せっかく、公演/イヴェントが普通に行なわれるようになっているのだから、お日様にはなるたけ微笑んでほしいよー。
ステージ部には口径はでっかいながら深さは浅めのバスドラ、タンバリンや鳴りものをハイハットのスタンドにつけたもの、スネア、タム、シンバル、そして横の方にはいろんな鳴りモノや石琴のかけらみたいなのとか、いろいろ置いている。また、管や変なものを口にくわえて声を出したりもする。といった、発想の自由を感じさせる様々な音のでるものを介して、次々に音の像を連ねて行く。グルーヴやパルスを届けるというよりは、音響的形而上を様々な手口で発して行くという演奏。その順列組み合わせは気分のところもあるだろうが、部分部分の音の出し方はかなり吟味された末のものと思わせられる。
当人は長身でなるほどスカンジナヴィアンと思わせられるし、音の端々にオローラに近い地域から出るものという気分はあったか。ただ、ニコニコしながら進めるパフォーマンスの様は非常に人間味があふれるものであり、温かさを感じさせるものではあった。実は、パフォーマンスで一番ぼくがフフフとなれたのは彼が発する形容不能の肉声の数々。それはぼくが感じるノルウェイ的属性から離れるものだったんだけど、おいしい酔狂がありました。
<今日の空>
雨天の予報であったが、かろうじて傘なしで歩ける。今、家にロクな傘がないので、ちゃんとしたの一本買いたいナ。どうせ、何処かにすぐに忘れてしまうだろうけど。首都圏も、今日から梅雨いり。天気予報には当面、傘マークが並ぶ。そして、沖縄のほうには明日、早々に台風がやってくるようだ。今日見た打楽器奏者は明日、茨城県でやるフェス“センス・オブ・ワンダー”に出演するよう。また、宮古島でも音楽フェスがあるみたい(水曜に取材したミュージシャンが出演すると言っていた)だが、行こうと思っている人や主催者は天候が気になってしょうがないだろう。せっかく、公演/イヴェントが普通に行なわれるようになっているのだから、お日様にはなるたけ微笑んでほしいよー。
映画『ジョン・レノン、ニューヨーク』
2011年5月26日 音楽 8月から日本公開になる米国映画を、渋谷・relatinsデジタル試写室で見る。まさか、ここにきて、ジョン・レノンを扱ったドキュメンタリー映画を見るとは思わなかった。まだ映像マテリアル、残っているんですかー、という意味で……。監督はマイケル・エプスタインという人で、ずっとドキュメンタリー映像畑を歩んできている在NYの人物のよう。表題にあるように、71年9月から射殺された80年12月まで暮らしたNY時代のジョン・レノンを追ったものだ。また、73年秋からの、“失われた週末”=LA放蕩時代もふくむ。
出だしの、ドロウイングっぽい線を用いた映像が格好良く、いい流れ。なるほど、その処理はミレニアム後に出てきた映像作品なのだと思わせるか。既発と思われるかつて撮られたジョン絡みの写真や映像、発言音声、発表楽曲などに加え、エレファンツ・メモリーのメンバーやアール・スリックやアンディ・ニューマークら彼のレコーディングに関わったミュージシャン、仲良しだったカメラマンのボブ・グルーエン、遺作『ダブル・ファンタジー』をプロデュースしたジャック・ダグラス、ジョンとヨーコの復縁のきっかけを与えたエルトン・ジョン(彼がいなかったら、ショーンは生まれていなかった?)、市民権獲得のため尽力した弁護士、当時共闘した社会活動家、家政婦/愛人だったメイ・パンなどに新たに行なった取材映像、そしてもちろんオノ・ヨーコによる現在の回想話を実に巧みに噛み合わせて、死後30年を経ての“ジョン・レノンの終盤1/4の人生”〜それは取りも直さず、人間的でドラマティックな時期であった〜の総括を行なう。120分の作品で、途中で冗長とふと感じなくもないが、崇高さと駄目男の部分を併せ持つ不世出のロッカーの像をうまく描いていると思った。そして、この時代のジョンを扱うことで、70年代のNY/米国の状況を切りとっている部分もあるんじゃないか。
オノ・ヨーコが協力しているというが、それは使用マテリアルに触れると痛感させられる。レコーディング・スタジオ内でのやりとりを収めた音声(ジョンという人が何気に伝わる)やアウトテイク/デモ風のジョン曲がとても効果的につかわれているもの。後者は発表済みなのかもしれないが、前者は今回出されたようだ。なるほど、だよなあ。ぼくは大好きなジョン・レノンの射殺を卒論の大きなテーマに据えた人間(一応、社会学マスコミュニケーションが専攻でした)だが、改めて提出される話に触れて、そうかと頷くところも多々。ジョンは『ダブル・ファンタジー』録音のとき、コンソール内の左右のモニター・スピーカーの間に幼いショーン(75年生まれ。誕生日は父親と同じ)の写真をはってから作業を始めたとのことで、感じていた以上に息子のことを溺愛していたのには驚いた。
それから、やっぱり彼の音楽は味わい深すぎる。その音楽を知ることができたことに、深く感謝。……試写の間、そう痛感し続けていた私であったが、一方ではココロに嵐が舞いまくり。試写中約40分にわたり、鬼のような轟音いびきを垂れ流す糞オヤジがいて辟易。なんなんだア、ありゃあ。
<今日の付録>
以下は、ショーン・レノン(2010年1月21日)にしたインタヴューのなか、両親に関わる部分を抜粋したものだ。もともとは毎日新聞の記事用にとったものだが、使っていない部分もおおいので、ここにだしておく。彼はジョンのことを、「ダッド」と言っていた。
○お父さんの大ファンですので、お会いできて本当に光栄です。そう言う人は多いと思うけど、それってぶっちゃけどう感じるんでしょう?
「よく言われるんだけど、それについては、毎回ちがったことを言うんだ。言ってる人の感じによって返事を変えるんだよね。違う反応をして、楽しんでいる」
○お母さんとは今も仲がいいですよね。
「僕はやはりラッキーだと思う。2人とも音楽やアートをやっている。そういうところで繋がることが出来るから。音楽やアートというコネクションがなかったら、やっぱり仲良くなれないと思うよ」
○そういう両親だからこそ、生まれたときから何にでも触れることはできたし、いろんな人とも知り合うことができましたよね。
「もし父親がずっと生きていたら、おそらくそういう環境になったかもしれない。でも、お母さんとの2人の環境においては、彼女は一匹狼的なので、ザ・ビートルズの人たちが来て、ジャムをやる環境ではなかったよ。だから、僕は音楽を独学したと思っている。まあ、アンディ・ウォーホルとかデイヴィッド・ボウイなんかはよく知っていたけど」
○ぼくたちが特別視するほどの環境ではなかった、と。
「さあ、普通だったかどうかというのは分らないけど、皆が考えるようなことは想像のものなんじゃないかな?」
○子供のころから、音楽が一番の存在だったんですか。
「いろんなものに興味があった。ただ、音楽と絵に関しては一番才能があったんじゃないか。ただ、虫も好きだったし、化学も好きだったし、天体も好きだったし、本を読むのも好きだった。ただ、唯一、歴史には興味が持てなかった。でも、今は歴史に興味がある。それを知る事によって、いろんなことが学べるし、小説よりもおもしろい。歴史についての本を書きたいけど、できるかどうかは分らない」
○子供のころ、どんな音楽が好きでした?
「うーん、クラシックとロック」
○最初に作った曲は覚えています?
「覚えているよ。いい曲じゃなかった。僕は取っておくのが得意じゃないので、残っていないけどね。母さんは整理が得意なんだけど、それは母から学びたい」
○日本は小さいころから何度もやってきていますよね。日本はどういう存在と言えます?
「僕は半分、日本人……そのことは、強く意識している。自分の心もそうだし、お腹もそう。自分が子供のときは玄米とお味噌汁みたいな感じで、ご飯の記憶は日本食ばかりなんだ。だから、日本に来るのは、特別な国にきたという気持ちを持つ。子供のころ、ホテルオークラに暫く住んでいた事もあるし、軽井沢にも滞在したこともあったし。そのときのことは、いい思い出として残っている」
○お母さんを(ギタリストとして)サポートをする際、あなたの演奏は自分のときよりもファンキーな感じになりますよね。
「母に引っぱられてそうなるというよりは、そこには僕の意思が込められている。自分の夢としては、プラスティック・オノ・バンドをマイルス・デイヴィスの『オン・ザ・コーナー』や『ライヴ・イヴィル』の方向にもっていけたらと思っているんだ」
注;そういえば、70年発表の『ヨーコ・オノ/プラスティック・オノ・バンド』(アップル。ジャケットは『ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド;邦題は、ジョンの魂』と対。そして、それを聞き較べれば、ときに聞く者の困惑も誘うヨーコの翔びっぷりが分る)にはオーネット・コールマン、デイヴィッド・アイゼンゾン、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェルといったコールマン系フリー・ジャズ一派が参加していた。関係ないけど、彼女はヘヴィ・スモーカーだったんだな。映画に出て来る昔の写真、みんなタバコを持っている。
○「ちょうどいい ほん」という絵本をだしましたが、それは最近描いたものなんですか。
「(2009年)10月に描いたのかな。父さんとはよく一緒に絵を描いたんだ。ゲームみたいなことをしたよね。父さんが滅茶苦茶に描いたのを、ぼくがそのあと引き受けて仕上げたり。と思えば、ぼくが最初に描いた絵を父が仕上げたり。そういうゲームを朝から晩までやっていた」
○父との関わりで、一番印象に残っているのは?
「記憶とは不思議なもので、断片的に覚えているんだ。音とか匂い……父さんが着ていた浴衣の匂いとか、タバコ臭とか。そういうものが、フラッシュバックするように僕のなかにはあります。声のトーンだとか、そのときに感じた気持ちとかが、断片的にしっかり残っているんだ」
○音楽で何かを変えたいとか、思いますか。あなたの両親がそうであったように。
「いや、考えていない。両親の音楽のことを考えた場合……、「ギヴ・ピース・ア・チャンス」はどういう観点で素晴らしかったかと言えば、確かに政治的な部分においてだった。でも、作曲という観点で見て素晴らしかったのは、別の曲だよね。僕はアートというのは政治的な要素を含まなければならないとは思わない。でも、両親は音楽というパワーを使って、政治的にもすばらしくポジティブな活動をしたのは賞讃に値する。政治的なパワーと音楽的な芸術性が最高の合致を見せた例はそうはない。(父親の)「ハッピー・クリスマス」やボブ・ディランの「マスターズ・オブ・ウォー」や「時代は変わる」とかは、それに到達した。でも、ぼくが目指しているのは、素晴らしいアーティストでありたいということで、政治的なアーティストであろうということではない。物事には正しいタイミングというのがあると思う。ジョンとヨーコが音楽を使って政治的なメッセージを送ったというのは、その時に世界が2人に凄い注目していたからだ。それを敏感に感じて、そのタイミングを2人は上手に用いて、政治的メッセージの表出を巧みに行った。たとえば、僕がすごい世界的なヒットを出して、世界的に注目されるとして、そのときに世界に広く発したいメッセージがあれば、ぼくもそれをするかもしれない。ただ、自分はそういう時期にいないと思う。僕は今、アーティストとして自分を確立したいし、素晴らしいアートを作りたい。ファンに答えられるものを作るのが、今ぼくがやるべきことだ」
出だしの、ドロウイングっぽい線を用いた映像が格好良く、いい流れ。なるほど、その処理はミレニアム後に出てきた映像作品なのだと思わせるか。既発と思われるかつて撮られたジョン絡みの写真や映像、発言音声、発表楽曲などに加え、エレファンツ・メモリーのメンバーやアール・スリックやアンディ・ニューマークら彼のレコーディングに関わったミュージシャン、仲良しだったカメラマンのボブ・グルーエン、遺作『ダブル・ファンタジー』をプロデュースしたジャック・ダグラス、ジョンとヨーコの復縁のきっかけを与えたエルトン・ジョン(彼がいなかったら、ショーンは生まれていなかった?)、市民権獲得のため尽力した弁護士、当時共闘した社会活動家、家政婦/愛人だったメイ・パンなどに新たに行なった取材映像、そしてもちろんオノ・ヨーコによる現在の回想話を実に巧みに噛み合わせて、死後30年を経ての“ジョン・レノンの終盤1/4の人生”〜それは取りも直さず、人間的でドラマティックな時期であった〜の総括を行なう。120分の作品で、途中で冗長とふと感じなくもないが、崇高さと駄目男の部分を併せ持つ不世出のロッカーの像をうまく描いていると思った。そして、この時代のジョンを扱うことで、70年代のNY/米国の状況を切りとっている部分もあるんじゃないか。
オノ・ヨーコが協力しているというが、それは使用マテリアルに触れると痛感させられる。レコーディング・スタジオ内でのやりとりを収めた音声(ジョンという人が何気に伝わる)やアウトテイク/デモ風のジョン曲がとても効果的につかわれているもの。後者は発表済みなのかもしれないが、前者は今回出されたようだ。なるほど、だよなあ。ぼくは大好きなジョン・レノンの射殺を卒論の大きなテーマに据えた人間(一応、社会学マスコミュニケーションが専攻でした)だが、改めて提出される話に触れて、そうかと頷くところも多々。ジョンは『ダブル・ファンタジー』録音のとき、コンソール内の左右のモニター・スピーカーの間に幼いショーン(75年生まれ。誕生日は父親と同じ)の写真をはってから作業を始めたとのことで、感じていた以上に息子のことを溺愛していたのには驚いた。
それから、やっぱり彼の音楽は味わい深すぎる。その音楽を知ることができたことに、深く感謝。……試写の間、そう痛感し続けていた私であったが、一方ではココロに嵐が舞いまくり。試写中約40分にわたり、鬼のような轟音いびきを垂れ流す糞オヤジがいて辟易。なんなんだア、ありゃあ。
<今日の付録>
以下は、ショーン・レノン(2010年1月21日)にしたインタヴューのなか、両親に関わる部分を抜粋したものだ。もともとは毎日新聞の記事用にとったものだが、使っていない部分もおおいので、ここにだしておく。彼はジョンのことを、「ダッド」と言っていた。
○お父さんの大ファンですので、お会いできて本当に光栄です。そう言う人は多いと思うけど、それってぶっちゃけどう感じるんでしょう?
「よく言われるんだけど、それについては、毎回ちがったことを言うんだ。言ってる人の感じによって返事を変えるんだよね。違う反応をして、楽しんでいる」
○お母さんとは今も仲がいいですよね。
「僕はやはりラッキーだと思う。2人とも音楽やアートをやっている。そういうところで繋がることが出来るから。音楽やアートというコネクションがなかったら、やっぱり仲良くなれないと思うよ」
○そういう両親だからこそ、生まれたときから何にでも触れることはできたし、いろんな人とも知り合うことができましたよね。
「もし父親がずっと生きていたら、おそらくそういう環境になったかもしれない。でも、お母さんとの2人の環境においては、彼女は一匹狼的なので、ザ・ビートルズの人たちが来て、ジャムをやる環境ではなかったよ。だから、僕は音楽を独学したと思っている。まあ、アンディ・ウォーホルとかデイヴィッド・ボウイなんかはよく知っていたけど」
○ぼくたちが特別視するほどの環境ではなかった、と。
「さあ、普通だったかどうかというのは分らないけど、皆が考えるようなことは想像のものなんじゃないかな?」
○子供のころから、音楽が一番の存在だったんですか。
「いろんなものに興味があった。ただ、音楽と絵に関しては一番才能があったんじゃないか。ただ、虫も好きだったし、化学も好きだったし、天体も好きだったし、本を読むのも好きだった。ただ、唯一、歴史には興味が持てなかった。でも、今は歴史に興味がある。それを知る事によって、いろんなことが学べるし、小説よりもおもしろい。歴史についての本を書きたいけど、できるかどうかは分らない」
○子供のころ、どんな音楽が好きでした?
「うーん、クラシックとロック」
○最初に作った曲は覚えています?
「覚えているよ。いい曲じゃなかった。僕は取っておくのが得意じゃないので、残っていないけどね。母さんは整理が得意なんだけど、それは母から学びたい」
○日本は小さいころから何度もやってきていますよね。日本はどういう存在と言えます?
「僕は半分、日本人……そのことは、強く意識している。自分の心もそうだし、お腹もそう。自分が子供のときは玄米とお味噌汁みたいな感じで、ご飯の記憶は日本食ばかりなんだ。だから、日本に来るのは、特別な国にきたという気持ちを持つ。子供のころ、ホテルオークラに暫く住んでいた事もあるし、軽井沢にも滞在したこともあったし。そのときのことは、いい思い出として残っている」
○お母さんを(ギタリストとして)サポートをする際、あなたの演奏は自分のときよりもファンキーな感じになりますよね。
「母に引っぱられてそうなるというよりは、そこには僕の意思が込められている。自分の夢としては、プラスティック・オノ・バンドをマイルス・デイヴィスの『オン・ザ・コーナー』や『ライヴ・イヴィル』の方向にもっていけたらと思っているんだ」
注;そういえば、70年発表の『ヨーコ・オノ/プラスティック・オノ・バンド』(アップル。ジャケットは『ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド;邦題は、ジョンの魂』と対。そして、それを聞き較べれば、ときに聞く者の困惑も誘うヨーコの翔びっぷりが分る)にはオーネット・コールマン、デイヴィッド・アイゼンゾン、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェルといったコールマン系フリー・ジャズ一派が参加していた。関係ないけど、彼女はヘヴィ・スモーカーだったんだな。映画に出て来る昔の写真、みんなタバコを持っている。
○「ちょうどいい ほん」という絵本をだしましたが、それは最近描いたものなんですか。
「(2009年)10月に描いたのかな。父さんとはよく一緒に絵を描いたんだ。ゲームみたいなことをしたよね。父さんが滅茶苦茶に描いたのを、ぼくがそのあと引き受けて仕上げたり。と思えば、ぼくが最初に描いた絵を父が仕上げたり。そういうゲームを朝から晩までやっていた」
○父との関わりで、一番印象に残っているのは?
「記憶とは不思議なもので、断片的に覚えているんだ。音とか匂い……父さんが着ていた浴衣の匂いとか、タバコ臭とか。そういうものが、フラッシュバックするように僕のなかにはあります。声のトーンだとか、そのときに感じた気持ちとかが、断片的にしっかり残っているんだ」
○音楽で何かを変えたいとか、思いますか。あなたの両親がそうであったように。
「いや、考えていない。両親の音楽のことを考えた場合……、「ギヴ・ピース・ア・チャンス」はどういう観点で素晴らしかったかと言えば、確かに政治的な部分においてだった。でも、作曲という観点で見て素晴らしかったのは、別の曲だよね。僕はアートというのは政治的な要素を含まなければならないとは思わない。でも、両親は音楽というパワーを使って、政治的にもすばらしくポジティブな活動をしたのは賞讃に値する。政治的なパワーと音楽的な芸術性が最高の合致を見せた例はそうはない。(父親の)「ハッピー・クリスマス」やボブ・ディランの「マスターズ・オブ・ウォー」や「時代は変わる」とかは、それに到達した。でも、ぼくが目指しているのは、素晴らしいアーティストでありたいということで、政治的なアーティストであろうということではない。物事には正しいタイミングというのがあると思う。ジョンとヨーコが音楽を使って政治的なメッセージを送ったというのは、その時に世界が2人に凄い注目していたからだ。それを敏感に感じて、そのタイミングを2人は上手に用いて、政治的メッセージの表出を巧みに行った。たとえば、僕がすごい世界的なヒットを出して、世界的に注目されるとして、そのときに世界に広く発したいメッセージがあれば、ぼくもそれをするかもしれない。ただ、自分はそういう時期にいないと思う。僕は今、アーティストとして自分を確立したいし、素晴らしいアートを作りたい。ファンに答えられるものを作るのが、今ぼくがやるべきことだ」
COMBOPIANO、LITTLE CREATURES
2011年5月22日 音楽 渋谷・www。まず、LITTLE CREATURESが演奏。メンバーの鈴木正人(2011年3月2日、他)がウッド・ベースで関わるジャズ関連ライヴにはよく触れているが、LITTLE CREATURESに触れるのは初かも。時期により音楽性が変化しているんだろうけど、今はこんなことやっているのか。もともと洋楽と同じところで音楽を作っている連中という印象は持っていたが、徹底的に洋楽ノリ。歌詞は英語だし、MCはしない(大賛成!)し、そして音楽性が何よりそう。それは、ブライアン・フェリー(2010年7月31日)が淡々と歌心を開く場合のものや、プログ(レッシヴ)・ロックの素直な歌志向曲を思わせると、それらの曲傾向は書けそうか。現代感覚にも満ちるその行き方に沿い、鈴木は多くの場合キーボード(鍵盤ベースも往々にして、左手で弾く)を演奏。へーえ。もう、ぼくにとっては新鮮で新鮮で、引き込まれました。
そして、かつては鈴木もベーシストとして関与していたこともある、渡辺琢磨(2011年4月6日)のCOMBOPIANO(2003年12月4日、2005年10月21日、2006年4月18日)のギグ。ギター/装置の内橋和久(2010年9月11日、他。彼の物販アイテムが何気に充実。i-フォンのカヴァーも複数種類売っていた)とドラムの千住宗臣(2010年9月11日、他)からなるベースレスのピアノ・トリオで、ここ3年ぐらいはこの単位になっているんだっけか。渡辺はときに奇声を重ねたりもする(2曲目で、マイクを口にくわえたりもしたな)が、基本は激情のインスト。丁々発止もするが、一応ベイシックにある骨組みはちゃんとしていて、1曲1曲は意外なほど短目だ。総じては、ハードコア・プログ・ロックなんても、言いたくなる? 楽器間のリズム感覚の差異が螺旋状に絡まるような感じの曲があって、それにはうっとり。昂る音楽ゴコロの器用なんだか不器用なんだかよく判らぬ発露の数々、不思議なピュアさも感じたか。
<今日の目覚め>
すげえ、悪い。それは、夢のせい。シチュエーションはたぶん学生で、サッカーの試合をしている。ぼくはアタッカーをしていたのかな。おそらくスコアは0-0、ぼくの入っているチームにPKが与えられた。で、なぜか、それほど得意ではないという認識があったくせに、自分がPKを蹴ることを表明。ゴールに向かい合うと、ゴールの幅がけっこう狭いのに、高さは逆にある。おお、これだとサイドを狙いきっちりボールを流すよりは、強く蹴ってキーパーの上部を狙ったほうが確実だと判断。レフリーが笛を吹き、ぼくはボールを蹴ろうとするが、ボールの前まで来たら足が動かない。ぼくは気合いを入れようと、声を発する。とほほ。やっと蹴ったと思ったら、やたら蹴りそこねで、ボールはすごいゆっくりあさってのほうに転がっていく。と、こいうところで、目が覚めた。うわー、情けない夢。ええん。いじけながら朝刊を読み始めた、私でした。22ケ月に一度くらい、ミュージシャンとしてステージに立って喝采を受ける夢を見たりもする私であります。
そして、かつては鈴木もベーシストとして関与していたこともある、渡辺琢磨(2011年4月6日)のCOMBOPIANO(2003年12月4日、2005年10月21日、2006年4月18日)のギグ。ギター/装置の内橋和久(2010年9月11日、他。彼の物販アイテムが何気に充実。i-フォンのカヴァーも複数種類売っていた)とドラムの千住宗臣(2010年9月11日、他)からなるベースレスのピアノ・トリオで、ここ3年ぐらいはこの単位になっているんだっけか。渡辺はときに奇声を重ねたりもする(2曲目で、マイクを口にくわえたりもしたな)が、基本は激情のインスト。丁々発止もするが、一応ベイシックにある骨組みはちゃんとしていて、1曲1曲は意外なほど短目だ。総じては、ハードコア・プログ・ロックなんても、言いたくなる? 楽器間のリズム感覚の差異が螺旋状に絡まるような感じの曲があって、それにはうっとり。昂る音楽ゴコロの器用なんだか不器用なんだかよく判らぬ発露の数々、不思議なピュアさも感じたか。
<今日の目覚め>
すげえ、悪い。それは、夢のせい。シチュエーションはたぶん学生で、サッカーの試合をしている。ぼくはアタッカーをしていたのかな。おそらくスコアは0-0、ぼくの入っているチームにPKが与えられた。で、なぜか、それほど得意ではないという認識があったくせに、自分がPKを蹴ることを表明。ゴールに向かい合うと、ゴールの幅がけっこう狭いのに、高さは逆にある。おお、これだとサイドを狙いきっちりボールを流すよりは、強く蹴ってキーパーの上部を狙ったほうが確実だと判断。レフリーが笛を吹き、ぼくはボールを蹴ろうとするが、ボールの前まで来たら足が動かない。ぼくは気合いを入れようと、声を発する。とほほ。やっと蹴ったと思ったら、やたら蹴りそこねで、ボールはすごいゆっくりあさってのほうに転がっていく。と、こいうところで、目が覚めた。うわー、情けない夢。ええん。いじけながら朝刊を読み始めた、私でした。22ケ月に一度くらい、ミュージシャンとしてステージに立って喝采を受ける夢を見たりもする私であります。
グリーンルーム・フェスティヴァル
2011年5月21日 音楽 皐月恒例、ヨコハマの海の側で行われる音楽フェス、天気が良くてとても気持ちよかった。今回、このフェスは震災/放射能漏れの影響をもろに受けていて、海外アーティストが次々に出演をキャンセル。通常フェスは出演者が変更になってもチケット払い戻ししないが、今回はそれに応じたようだ。ぼくは、ウォー(2009年8月9日)を見たかったなー。それにより、どのぐらいの人がキャンセルしたかは知らないが、過剰に混んでいない、いい感じの客密度ではなかったか。
そんなわけなので、日本人アーティスト比率が高く、これまで触れる機会がなかったアクトにも触れる。PONTIACS (最初、女性が歌っているのかと思った)、坂本美雨(キーボードとのデュオ。そんなに今様に洋楽ぽくはないのだな。逆に、個性はあるのかもしれないが)、キマグレン(赤レンガ倉庫の3階テラスでビールを飲みながら、流れてくる音を聞く。サイモン&ガーファンクルの「セシリア」をやっているのね)、suzumoku(リズム隊を伴い、線の太いフォーク表現を送っていたか)。エミ・マイヤー(2010年5月31 日、他)やエゴ・ラッピン(2010年8月3日、他)は何度も見ているが、それぞれに感興あり。ハナレグミ(2008年11月14日)はおおはた雄一(2011年4月24日、他)やSOILのみどりん(2011年1月30 日、他)ら特別編成のバンドでパフォーマンス。けっこう、人が集まっていた。そして、トリはヘイリー・セイルズ(2009年1月14、15日)。20時すぎだと海風がかなり涼しい。浜辺の格好をしキャピっとしたのりで、オーガニックなシンガー・ソングライター表現を彼女は披露。バックはギター、ベース、ドラム。うち、ジェリー・ガルシアのような立派な髭を蓄えたギタリストはMCでも触れていたが、彼女のお父さん。ときにウクレレなんかも手にしていた彼女には、可愛いという声がけっこう飛んでいました。
<今日の旧友>
大学時代のゼミ仲間2人と一緒にちんたらと見て、旧交を温める。実は、ゼミの担当教授が退職して、3.12に同期ゼミ員の11分の7が集まってねぎらいの会を開く予定だったが、飛んだままになっている。一人は社長業をしながらサーフィンもばりばりやっているとのこと。彼、それをしに行く関係で茨城県北部から福島県南相馬市にかけての状況も良く知っていて驚く。もう一人は、この近所にマンションを買っている地元民、その彼女からは、三者三様で音楽の考え方等が違っていて興味深かったとのメール。普段はそれぞれいる世界が違うもんなあ。ところで、先日知人が東京と横浜とでは節電の様が違っていて驚くと言っていたが、確かに東京のほうが暗いような。それから、東横線って、普通の鉄道路線より直線区が多いように感じているが、それは気のせいか。渋谷の付け根には凄いR区間があるものの。
そんなわけなので、日本人アーティスト比率が高く、これまで触れる機会がなかったアクトにも触れる。PONTIACS (最初、女性が歌っているのかと思った)、坂本美雨(キーボードとのデュオ。そんなに今様に洋楽ぽくはないのだな。逆に、個性はあるのかもしれないが)、キマグレン(赤レンガ倉庫の3階テラスでビールを飲みながら、流れてくる音を聞く。サイモン&ガーファンクルの「セシリア」をやっているのね)、suzumoku(リズム隊を伴い、線の太いフォーク表現を送っていたか)。エミ・マイヤー(2010年5月31 日、他)やエゴ・ラッピン(2010年8月3日、他)は何度も見ているが、それぞれに感興あり。ハナレグミ(2008年11月14日)はおおはた雄一(2011年4月24日、他)やSOILのみどりん(2011年1月30 日、他)ら特別編成のバンドでパフォーマンス。けっこう、人が集まっていた。そして、トリはヘイリー・セイルズ(2009年1月14、15日)。20時すぎだと海風がかなり涼しい。浜辺の格好をしキャピっとしたのりで、オーガニックなシンガー・ソングライター表現を彼女は披露。バックはギター、ベース、ドラム。うち、ジェリー・ガルシアのような立派な髭を蓄えたギタリストはMCでも触れていたが、彼女のお父さん。ときにウクレレなんかも手にしていた彼女には、可愛いという声がけっこう飛んでいました。
<今日の旧友>
大学時代のゼミ仲間2人と一緒にちんたらと見て、旧交を温める。実は、ゼミの担当教授が退職して、3.12に同期ゼミ員の11分の7が集まってねぎらいの会を開く予定だったが、飛んだままになっている。一人は社長業をしながらサーフィンもばりばりやっているとのこと。彼、それをしに行く関係で茨城県北部から福島県南相馬市にかけての状況も良く知っていて驚く。もう一人は、この近所にマンションを買っている地元民、その彼女からは、三者三様で音楽の考え方等が違っていて興味深かったとのメール。普段はそれぞれいる世界が違うもんなあ。ところで、先日知人が東京と横浜とでは節電の様が違っていて驚くと言っていたが、確かに東京のほうが暗いような。それから、東横線って、普通の鉄道路線より直線区が多いように感じているが、それは気のせいか。渋谷の付け根には凄いR区間があるものの。
佐藤タイジ、Leyona、多和田えみ
2011年5月18日 音楽 代官山・晴れたら空に豆まいて。同じビルの上階に、“山羊に、聞く?”という同系列のカフェができ(ちょい覗いたら、けっこう広い)、そちらではワークショップやアコースティックなライヴをやったりするようだ。歌声がデカそうな歌い手が3人揃う出し物で、多和田、Leyona、佐藤の順で登場。
多和田(2008年11月25日)はキーボードと生ギター奏者を従えて、まっすぐに、いまだ初々しく歌う。なかには、サウダージなフォーキー調曲も披露。ながら、ソウル愛好を下敷きにする、凛とした歌声は無理なく映える。いい歌い手だなと、思った。MCは素朴にして、心がこもる。伴奏陣は上手に寄り添っていたが、彼らは普段から一緒にやっている人たちなんだろうか。
Leyona(2000年1月25日)はギターを手に登場し、ソロでパフォーマンス。へえ、ギター弾き語りをする人でもあるのか。まあ、ギターのほうの腕前はキツいときもあった。ハッピーエンドの「風をあつめて」も歌った(彼女のヴァージョンがTV-CFに使われたことがあったっけ?)が、<極上にいい曲&きっちり訴求する歌唱>と<不足なギター演奏>の重なりは大げさに書けば、天国と地獄を行き来するという感じ。それを聞いていての聴感は、それまで感じたことのないものだったかも。ある意味、すごい。MCで何度か、私はバンド人間とか、私はバンドで歌うのが大好きとか、表明したりもする彼女でした。歌やギターのちょっとした感じは、やはりG・ラヴ(2011年2月11日、他)つながりを感じさせる場合も。かつてはレゲエ・バンドにいたこともあったそうで、ボブ・マーリー曲も歌った。
そして、シアターブルック(2003年6月22日、他)のフロント・マンの佐藤も一人でステージにあがる。サンパウロ(2010年5月23日、他)や沼澤尚(2010年1月12日、他)がらみのセッション(2005年2月15日、他)、近くではマイア・バルー(2010年2月25日)のサポートなど、彼のことはいろいろ見ているが、ソロ・パフォーマンスに接するのは初めて。3年前ぐらいにラフな一人録音リーダー作を出したことがあったが、そのモノクロのジャケット写真と同様にキック・ドラムを前に置き、サンプラーも用いつつ、椅子に座ってギターを弾きなが歌う。まあ、ボブ・ログⅢ(1999年10月17日)とかアッシュ・グランワルド(2008年5月26日)と似た様式と言えなくもないが、やっぱすっこーんと抜けた自分/味をもっているので、他の例なんかはどうでもいいという気持ちにもなるな。
シアターブルック曲で始まって終わり、途中はいろんなMC(桑原茂一主導の、スネークマン・ショウの再現も少しやった。好きだったみたいだ。ああ、アルファ・レコード……)も含め、臨機応変に。ながら、その背骨を貫いていたのは、反原発姿勢のロッカーとしての表出であったか。MCによれば、ユーチューブの反原発替え歌で話題を呼んだ斉藤和義ともかなり仲がいいようだ。彼はニール・ヤングの「ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド」を日本語歌詞で歌い、そこでも率直な懸念を表出したりも。「オレ、(音楽活動で)電気使ってばかりいる」という、しょげた発言は少しチャーミング。ともあれ、そこには自分の声とメロディと気持ちと流儀を持つ、ぶっとい音楽家がいた。
その後、アンコールには先に出た多和田とLeyonaとともに登場。3人でしっとりと、シャーデーの「キス・オブ・ライフ」をやった。
<今日のご意見番>
佐藤タイジはビン・ラディン殺害に対する疑問も発言。悪人であっても裁判は開かれてしかるべきではないのか、と。その件については、マルーン5公演のときに知り合いと同様の話をした。結構、英国のミュージシャンからは疑問の声がツイッター等であがっているという。佐藤は“インディ発電”というアイデアを披露したりも。また、下ネタと放射能ネタが絡んだ曲がいっぱいできちゃう、そうな。
終演後に知人と話していたら、つかつかと寄ってきたのは、同業先輩の高橋健太郎さん。あれれ。自らスタジオを持ち、エンジニアリングやプロデューシングもしている彼だが(ミュージシャン業も少し)、この日のライヴを配信前提で録っていたそう。いろんなことをできるのはいいナ。そして、原発事故通である彼としばしその話をかわす。関係者の間では、健太郎さんがいるかぎり東京は大丈夫という話があったりするよなー。
多和田(2008年11月25日)はキーボードと生ギター奏者を従えて、まっすぐに、いまだ初々しく歌う。なかには、サウダージなフォーキー調曲も披露。ながら、ソウル愛好を下敷きにする、凛とした歌声は無理なく映える。いい歌い手だなと、思った。MCは素朴にして、心がこもる。伴奏陣は上手に寄り添っていたが、彼らは普段から一緒にやっている人たちなんだろうか。
Leyona(2000年1月25日)はギターを手に登場し、ソロでパフォーマンス。へえ、ギター弾き語りをする人でもあるのか。まあ、ギターのほうの腕前はキツいときもあった。ハッピーエンドの「風をあつめて」も歌った(彼女のヴァージョンがTV-CFに使われたことがあったっけ?)が、<極上にいい曲&きっちり訴求する歌唱>と<不足なギター演奏>の重なりは大げさに書けば、天国と地獄を行き来するという感じ。それを聞いていての聴感は、それまで感じたことのないものだったかも。ある意味、すごい。MCで何度か、私はバンド人間とか、私はバンドで歌うのが大好きとか、表明したりもする彼女でした。歌やギターのちょっとした感じは、やはりG・ラヴ(2011年2月11日、他)つながりを感じさせる場合も。かつてはレゲエ・バンドにいたこともあったそうで、ボブ・マーリー曲も歌った。
そして、シアターブルック(2003年6月22日、他)のフロント・マンの佐藤も一人でステージにあがる。サンパウロ(2010年5月23日、他)や沼澤尚(2010年1月12日、他)がらみのセッション(2005年2月15日、他)、近くではマイア・バルー(2010年2月25日)のサポートなど、彼のことはいろいろ見ているが、ソロ・パフォーマンスに接するのは初めて。3年前ぐらいにラフな一人録音リーダー作を出したことがあったが、そのモノクロのジャケット写真と同様にキック・ドラムを前に置き、サンプラーも用いつつ、椅子に座ってギターを弾きなが歌う。まあ、ボブ・ログⅢ(1999年10月17日)とかアッシュ・グランワルド(2008年5月26日)と似た様式と言えなくもないが、やっぱすっこーんと抜けた自分/味をもっているので、他の例なんかはどうでもいいという気持ちにもなるな。
シアターブルック曲で始まって終わり、途中はいろんなMC(桑原茂一主導の、スネークマン・ショウの再現も少しやった。好きだったみたいだ。ああ、アルファ・レコード……)も含め、臨機応変に。ながら、その背骨を貫いていたのは、反原発姿勢のロッカーとしての表出であったか。MCによれば、ユーチューブの反原発替え歌で話題を呼んだ斉藤和義ともかなり仲がいいようだ。彼はニール・ヤングの「ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド」を日本語歌詞で歌い、そこでも率直な懸念を表出したりも。「オレ、(音楽活動で)電気使ってばかりいる」という、しょげた発言は少しチャーミング。ともあれ、そこには自分の声とメロディと気持ちと流儀を持つ、ぶっとい音楽家がいた。
その後、アンコールには先に出た多和田とLeyonaとともに登場。3人でしっとりと、シャーデーの「キス・オブ・ライフ」をやった。
<今日のご意見番>
佐藤タイジはビン・ラディン殺害に対する疑問も発言。悪人であっても裁判は開かれてしかるべきではないのか、と。その件については、マルーン5公演のときに知り合いと同様の話をした。結構、英国のミュージシャンからは疑問の声がツイッター等であがっているという。佐藤は“インディ発電”というアイデアを披露したりも。また、下ネタと放射能ネタが絡んだ曲がいっぱいできちゃう、そうな。
終演後に知人と話していたら、つかつかと寄ってきたのは、同業先輩の高橋健太郎さん。あれれ。自らスタジオを持ち、エンジニアリングやプロデューシングもしている彼だが(ミュージシャン業も少し)、この日のライヴを配信前提で録っていたそう。いろんなことをできるのはいいナ。そして、原発事故通である彼としばしその話をかわす。関係者の間では、健太郎さんがいるかぎり東京は大丈夫という話があったりするよなー。
ジョー・サンプル&ザ・クリオール・ジョー・バンド
2011年5月17日 音楽 “クリオール”とはニューオーリンズもあるルイジアナ州界隈(おおきく他の州とは風習やノリがことなる。それは、日本における沖縄のそれを思い浮かべると分りやすいかとも思う)の、アフリカ系とフランス系やスペイン系などの混血の人たちを指す言葉。そんな人たちによるアコーディオンやウォッシュボードを用いる伝統的な猥雑ダンス・ミュージックをザディコと呼ぶのだが、ここ10年ほど南部/土着回帰の意思を見せているフュージョン・ピアノの有名人(2009年11月5日、他)の新プロジェクトはそのザディコを下敷きにしようとするものという触れこみなり。
アコーディオンやキーボードを弾くサンプル(今回、アコースティック・ピアノは置いていない)によって集められたミュージシャンは8人。ザディコの第一人者だったクリフトン・シェニエ(1925〜1987年。彼の「バナナ・マン」という曲は最高!)の息子であるC.J.シェニエ(歌、アコーディオン)がいたり、ウォッシュボード奏者がいたり、ニューオーリンズ在住の山岸潤史(2010年8月4日、他)や女性歌手がいたり。そこに、ザ・クルセイダーズ(2005年3月8日)組のレイ・パーカーJr,(ギター、歌)やニック・サンプル(電気ベース)も入るし、白人のキーボード奏者やドラマーもいる。ドラマーのダグ・ペローテはジョージ・ポーターJr.(2008年8月12日、他)やジョン・オーツ(2011年2月28日、他)やフィッシュ(2000年6月11日)のマイク・ゴードンのソロ・アルバムに名前を見せている人ですね。純正ザディコの担い手が来日するのはクリス・アルドワン(2003年7月22日)いらい?
開演前、楽屋から出てきたメンバーたちが会場後方ではしゃいで、奇声を出し合っている。ほんと出演者たちは仲がよく、楽しんでいるという感じは、ショウが始まってからもよく伝わりました。演目は全曲、くだけたヴォーカル曲。やはり、ザディコ系曲が多かったのかな? C.J.シェニエはヤクザな風体がナイスと思わせるが、もう温かい人光線が溢れる。ウォッシュボードの見てくれ/音は訴求力大、ステージ後方で演奏していた同奏者のジェラルド・シェミエがときに前に出てステージを降りたりすると、てきめんに観客はわく。ま、メンバー紹介で一番拍手が大きかったのは山岸でしたが。
歌う人が3人で、鍵盤系楽器が3人で、ギターも2人。そんなに人数が必用なことをやっているとも思えないが、無駄なところもふくめて、人間が和気あいあいと重なり合って生な音楽をやっているというのが出ていてうれしくなる。ザディコというとぼくは、アコーディオンがデカい顔して疾走する塩辛いものを想起するが、ここで出された音はいろんなバックグラウンドを持つ担い手が集まっていることもありもう少しメロウ、曖昧な書き方になるが俯瞰する感覚も持つ。なんにせよ、ルイジアナ混血文化を茶目っ気たぶりに愛でようとしていたのは間違いない。
女性シンガーのシャロン・マーティンはオマーラ・ポルトゥオンド(2001年2月9日)を少し若くしたような感じの人で、彼女が全面的に歌った山岸をフィーチャーしたスロウ目のブルース曲は良かった。彼女はショウの途中で無茶ぶりして客を立たせたが、イヤな感じはなし。それは、彼女に澄んだミュージシャンシップがあったからネ。それから、「ゴースト・バスターズ」で知られる元フュージョン名士のレイ・パーカーJr.だが、歌といいギターといい何気にいい感じの味を出していて、ぼくは見直した。そういえば、彼も山岸も、ピックを用いずギターを弾いていたのもうれしいやねえ。
本編でたっぷり90分。アンコールをもとめる拍手は場内BGMが流れてもやまず、9人は一緒に出てきて、ステージで横一線に並び一礼。ながら、演奏はせず。おそらく、アンコールに応えなかったのは用意していたレパートリーが尽きていたからではないか? 南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。
<今日のレコーディング話>
山岸潤史のメイン・バンドであるパパ・グロウズ・ファンク(2009年7月27日、他)はただいま新作レコーディングの途中にある。ベイシック・トラックを録ったところ、とか。なんと、プロデューサーはアラン・トゥーサン(2011年1月10日、他)! もう一度スタジオに入り、夏ぐらいには終えたいとのことだが。彼の話によれば、今年のニューオーリンズのジャズ・フェスは人が多かったそう。出演者はロック系が増えてなと、少し顔をしかめる。でも、来年はロックをやってたりしてと返すと、「オレはロックはできへん」。え、ジミ・ヘンドリックスはと問うと、「彼は、オルタナティヴや」。
話は飛ぶが、コーネル・デュプリー(2010年8月11日、他)がこの5月8日にデキサス州フォートワース(2004年9月16日、参照)で亡くなった。実は、日本人の出資で、彼はオースティンでブルース・アルバムのレコーディングをしていた。やたらわがままでレコーディングを反故にしたくもなるが、仕上がるものは良い、と関与する人は言っていたっけ。それ、3月アタマの話。もし、商品化されるとしたら、本当に暫くぶりのリーダー作になるとともに、遺作になる。あ、そういえば、60年代中ごろ、ジ・アイズレー・ブラザーズにいたヘンドリックスとキング・カーティスのザ・キング・ピンズにいたデュプリーは親しかった。一緒に(NYの)アパートをシェアしたことがあってギターを弾き合ったと、昔デュプリーは言っていたと記憶するが。
アコーディオンやキーボードを弾くサンプル(今回、アコースティック・ピアノは置いていない)によって集められたミュージシャンは8人。ザディコの第一人者だったクリフトン・シェニエ(1925〜1987年。彼の「バナナ・マン」という曲は最高!)の息子であるC.J.シェニエ(歌、アコーディオン)がいたり、ウォッシュボード奏者がいたり、ニューオーリンズ在住の山岸潤史(2010年8月4日、他)や女性歌手がいたり。そこに、ザ・クルセイダーズ(2005年3月8日)組のレイ・パーカーJr,(ギター、歌)やニック・サンプル(電気ベース)も入るし、白人のキーボード奏者やドラマーもいる。ドラマーのダグ・ペローテはジョージ・ポーターJr.(2008年8月12日、他)やジョン・オーツ(2011年2月28日、他)やフィッシュ(2000年6月11日)のマイク・ゴードンのソロ・アルバムに名前を見せている人ですね。純正ザディコの担い手が来日するのはクリス・アルドワン(2003年7月22日)いらい?
開演前、楽屋から出てきたメンバーたちが会場後方ではしゃいで、奇声を出し合っている。ほんと出演者たちは仲がよく、楽しんでいるという感じは、ショウが始まってからもよく伝わりました。演目は全曲、くだけたヴォーカル曲。やはり、ザディコ系曲が多かったのかな? C.J.シェニエはヤクザな風体がナイスと思わせるが、もう温かい人光線が溢れる。ウォッシュボードの見てくれ/音は訴求力大、ステージ後方で演奏していた同奏者のジェラルド・シェミエがときに前に出てステージを降りたりすると、てきめんに観客はわく。ま、メンバー紹介で一番拍手が大きかったのは山岸でしたが。
歌う人が3人で、鍵盤系楽器が3人で、ギターも2人。そんなに人数が必用なことをやっているとも思えないが、無駄なところもふくめて、人間が和気あいあいと重なり合って生な音楽をやっているというのが出ていてうれしくなる。ザディコというとぼくは、アコーディオンがデカい顔して疾走する塩辛いものを想起するが、ここで出された音はいろんなバックグラウンドを持つ担い手が集まっていることもありもう少しメロウ、曖昧な書き方になるが俯瞰する感覚も持つ。なんにせよ、ルイジアナ混血文化を茶目っ気たぶりに愛でようとしていたのは間違いない。
女性シンガーのシャロン・マーティンはオマーラ・ポルトゥオンド(2001年2月9日)を少し若くしたような感じの人で、彼女が全面的に歌った山岸をフィーチャーしたスロウ目のブルース曲は良かった。彼女はショウの途中で無茶ぶりして客を立たせたが、イヤな感じはなし。それは、彼女に澄んだミュージシャンシップがあったからネ。それから、「ゴースト・バスターズ」で知られる元フュージョン名士のレイ・パーカーJr.だが、歌といいギターといい何気にいい感じの味を出していて、ぼくは見直した。そういえば、彼も山岸も、ピックを用いずギターを弾いていたのもうれしいやねえ。
本編でたっぷり90分。アンコールをもとめる拍手は場内BGMが流れてもやまず、9人は一緒に出てきて、ステージで横一線に並び一礼。ながら、演奏はせず。おそらく、アンコールに応えなかったのは用意していたレパートリーが尽きていたからではないか? 南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。
<今日のレコーディング話>
山岸潤史のメイン・バンドであるパパ・グロウズ・ファンク(2009年7月27日、他)はただいま新作レコーディングの途中にある。ベイシック・トラックを録ったところ、とか。なんと、プロデューサーはアラン・トゥーサン(2011年1月10日、他)! もう一度スタジオに入り、夏ぐらいには終えたいとのことだが。彼の話によれば、今年のニューオーリンズのジャズ・フェスは人が多かったそう。出演者はロック系が増えてなと、少し顔をしかめる。でも、来年はロックをやってたりしてと返すと、「オレはロックはできへん」。え、ジミ・ヘンドリックスはと問うと、「彼は、オルタナティヴや」。
話は飛ぶが、コーネル・デュプリー(2010年8月11日、他)がこの5月8日にデキサス州フォートワース(2004年9月16日、参照)で亡くなった。実は、日本人の出資で、彼はオースティンでブルース・アルバムのレコーディングをしていた。やたらわがままでレコーディングを反故にしたくもなるが、仕上がるものは良い、と関与する人は言っていたっけ。それ、3月アタマの話。もし、商品化されるとしたら、本当に暫くぶりのリーダー作になるとともに、遺作になる。あ、そういえば、60年代中ごろ、ジ・アイズレー・ブラザーズにいたヘンドリックスとキング・カーティスのザ・キング・ピンズにいたデュプリーは親しかった。一緒に(NYの)アパートをシェアしたことがあってギターを弾き合ったと、昔デュプリーは言っていたと記憶するが。
LAベースの人気ロック・バンド、九段下・日本武道館での公演。彼ら、ぼくのなかではちょっと不思議で、とっても分りやすいバンドと言う事ができるか。
不思議と思うのは、前身バンドを含めればそこそこのキャリアを持つとはいえ、デビュー作を出したとたん、あっという間に多大な人気を得たこと。それは日本でも同様で、その人気は非洋楽需要層まで広がっているはず。だからこそ、武道館で複数の公演をできてしまうわけだ。いっぽう、分りやすいのは音楽性。R&Bの影響も強い好メロディをちゃんと持つ曲を作ることができ、それをいい声(高めで、ファルセットも巧みに用いる)でばっちり歌える……。それは、多大な人気を得て当然と思わせられる。あ、結局、わかりやすいバンドとなるのか。
で、その美点が前面にアピールされた内容。演曲は既発3作品からまんべんなく。オハイオ・プレイヤーズ(2010年6月4日)を思い出させるジャケット・カヴァーを持つ新作『ハンズ・オール・オーヴァー』からの比率が過剰に高くなかったのは意外だが、新曲もやったな。ときにコドモっぽい見せ方をするところもあったが、ちゃんとした実演能力を下敷きにする、観客をしっかり見据えた実演を1時間半ほど披露する。客は手拍子や手振りをする人が多かった。
書き遅れたが、歌/ギター、ギター、ベース、キーボード、ドラムという5人に、ウォー(2009年8月9日)のオリジナル・ベーシストのD.D.ディッカーソンとボビー・マクファーリン(2004年2月3日)を合わせたような顔をしたアフリカ系のキーボード奏者がサポートでくわわる。けっこうコーラスもうけおっていた彼は何気に効いていたが、彼のことをサポート扱いではなく、メンバーと同等に紹介していたのには愛を感じました。
<今日のブドーカン>
久しぶりに、日本武道館に行ったような。たしか、これが出来たのは東京オリンピックの年(1964年)なはず。というと、けっこう古いが、おそらく基本はそのままなんだよな? 右翼のどんなもんだい的な建造物というイメージを持つが、天井にたらされた日の丸はたまに洗ったりしているんだろうか。大変だろうな。
でも、中学生のころは純真無知で、日の丸や武道館と右がぼくのなかでは結びつくことはなかった。当時から、ロックは革新であり左というイメージをぼんやり抱き、それに憧れていたはずなのに。当時のぼくにとって、武道館はビッグな外タレが公演する“日本のロックの殿堂”みたいな場所。で、その武道館には日の丸がたらされているときいて、ロックに少しでも近づきたいぼくは自分の部屋の天井に日の丸を張ったことがあった。わあああ、あ。
不思議と思うのは、前身バンドを含めればそこそこのキャリアを持つとはいえ、デビュー作を出したとたん、あっという間に多大な人気を得たこと。それは日本でも同様で、その人気は非洋楽需要層まで広がっているはず。だからこそ、武道館で複数の公演をできてしまうわけだ。いっぽう、分りやすいのは音楽性。R&Bの影響も強い好メロディをちゃんと持つ曲を作ることができ、それをいい声(高めで、ファルセットも巧みに用いる)でばっちり歌える……。それは、多大な人気を得て当然と思わせられる。あ、結局、わかりやすいバンドとなるのか。
で、その美点が前面にアピールされた内容。演曲は既発3作品からまんべんなく。オハイオ・プレイヤーズ(2010年6月4日)を思い出させるジャケット・カヴァーを持つ新作『ハンズ・オール・オーヴァー』からの比率が過剰に高くなかったのは意外だが、新曲もやったな。ときにコドモっぽい見せ方をするところもあったが、ちゃんとした実演能力を下敷きにする、観客をしっかり見据えた実演を1時間半ほど披露する。客は手拍子や手振りをする人が多かった。
書き遅れたが、歌/ギター、ギター、ベース、キーボード、ドラムという5人に、ウォー(2009年8月9日)のオリジナル・ベーシストのD.D.ディッカーソンとボビー・マクファーリン(2004年2月3日)を合わせたような顔をしたアフリカ系のキーボード奏者がサポートでくわわる。けっこうコーラスもうけおっていた彼は何気に効いていたが、彼のことをサポート扱いではなく、メンバーと同等に紹介していたのには愛を感じました。
<今日のブドーカン>
久しぶりに、日本武道館に行ったような。たしか、これが出来たのは東京オリンピックの年(1964年)なはず。というと、けっこう古いが、おそらく基本はそのままなんだよな? 右翼のどんなもんだい的な建造物というイメージを持つが、天井にたらされた日の丸はたまに洗ったりしているんだろうか。大変だろうな。
でも、中学生のころは純真無知で、日の丸や武道館と右がぼくのなかでは結びつくことはなかった。当時から、ロックは革新であり左というイメージをぼんやり抱き、それに憧れていたはずなのに。当時のぼくにとって、武道館はビッグな外タレが公演する“日本のロックの殿堂”みたいな場所。で、その武道館には日の丸がたらされているときいて、ロックに少しでも近づきたいぼくは自分の部屋の天井に日の丸を張ったことがあった。わあああ、あ。
ブライアン・ブレイド &ザ・フェロウシップ・バンド
2011年5月12日 音楽 ジャズからアダルト系ロックまで自在のセッション活動を見せる敏腕ドラマー(2004年2月9日、他)のリーダー公演で、会場は丸の内・コットンクラブ(セカンド・ショウ)。近年はその自己活動もジャズ/ポップ両刀で行っていて、今回は前見たときに<ジャズは時代とともに生きている>とぼくをどきどきさせたリーダー・バンドであるフェロウシップ(2008年9月4日)によるもの。アルト(ベース・クラリネットも)、テナー、ピアノ、コントラバス奏者を率いてのもので、顔触れは前回と同じなのかな?
メロディアスかつストーリー度数の強い部分(それは、構成された部分と言うことができるか)とリアルなインプロヴィゼーションが自在に噛み合う演奏を1時間半強。フォーキーな歌入り表現を追求したアルバムのリリース(『ママ・ローザ』)と、それをフォロウするツアー(2009年7月20日)をやった後だけに、そちらで出した感触がより持ち込まれた内容であったとは言えるはず。とくに、わりとしっとり目の曲をやった前半部はそう思わせるものであったな。
ベース・クラリネット独奏からオルガン(パイプ・オルガンの代用と言える用い方で、ステージに置かれていたのはハーモニウムか)がさあっと入って行くものもあったし、最後の曲は曲調やモードがいろいろ変わる大作だった。縁の下の力持ち的演奏をしていたベーシストはその曲のソロ・パートでは肉声やスラッピングを用いて、個性を存分にアピール。他の奏者もそうだが、ブレイドは優秀な弾き手を本当に抱えていると思う。そういえば、最後の曲で2人のサックス奏者が一緒にフリー・ブロウイングする箇所に接して、70年代前半のエルヴィン・ジョーンズ表現(デイヴ・リーブマンとスティーヴ・グロスマンの2人のサックス奏者を抱えた)に対するオマージュがあるかもと、ふと思った。
ブレイドのドラミングはよく歌う。定石を知りつつ、それを超えたところで、リズムのキープとサウンドの味付けとサウンド変化の促進を悠々と行なう。そのドラム音はもう少し柔らかいほうがぼくの好みだが、本当にドラマーとして、リーダーとして、図抜けた才を見せる人……。ぼくは死ぬまであと何回彼の演奏に触れ、何度頭を垂れることになるのだろう?
<今日の雨>
ここ3日ほど、かなり雨が降っている。もともと雨の日に外出するのは好きではないが、こういう状況ゆえ、余計にいや。本日は、1号機がメルトダウンしていたことが報じられた。傘をさしていて歩いていると、ときどき口に雨が入る(正確には、唇に降って、濡れる)のはなぜ? 別に、乱暴な傘のさし方をしているつもりはないのだけど。あんた、それじゃ小学生だよと言われた。
メロディアスかつストーリー度数の強い部分(それは、構成された部分と言うことができるか)とリアルなインプロヴィゼーションが自在に噛み合う演奏を1時間半強。フォーキーな歌入り表現を追求したアルバムのリリース(『ママ・ローザ』)と、それをフォロウするツアー(2009年7月20日)をやった後だけに、そちらで出した感触がより持ち込まれた内容であったとは言えるはず。とくに、わりとしっとり目の曲をやった前半部はそう思わせるものであったな。
ベース・クラリネット独奏からオルガン(パイプ・オルガンの代用と言える用い方で、ステージに置かれていたのはハーモニウムか)がさあっと入って行くものもあったし、最後の曲は曲調やモードがいろいろ変わる大作だった。縁の下の力持ち的演奏をしていたベーシストはその曲のソロ・パートでは肉声やスラッピングを用いて、個性を存分にアピール。他の奏者もそうだが、ブレイドは優秀な弾き手を本当に抱えていると思う。そういえば、最後の曲で2人のサックス奏者が一緒にフリー・ブロウイングする箇所に接して、70年代前半のエルヴィン・ジョーンズ表現(デイヴ・リーブマンとスティーヴ・グロスマンの2人のサックス奏者を抱えた)に対するオマージュがあるかもと、ふと思った。
ブレイドのドラミングはよく歌う。定石を知りつつ、それを超えたところで、リズムのキープとサウンドの味付けとサウンド変化の促進を悠々と行なう。そのドラム音はもう少し柔らかいほうがぼくの好みだが、本当にドラマーとして、リーダーとして、図抜けた才を見せる人……。ぼくは死ぬまであと何回彼の演奏に触れ、何度頭を垂れることになるのだろう?
<今日の雨>
ここ3日ほど、かなり雨が降っている。もともと雨の日に外出するのは好きではないが、こういう状況ゆえ、余計にいや。本日は、1号機がメルトダウンしていたことが報じられた。傘をさしていて歩いていると、ときどき口に雨が入る(正確には、唇に降って、濡れる)のはなぜ? 別に、乱暴な傘のさし方をしているつもりはないのだけど。あんた、それじゃ小学生だよと言われた。
カンタス村田とサンバマシーンズ
2011年5月8日 音楽 ブラジル音楽に対する愛をきっちり下敷きにしつつ、自由に四方八方にポップに弾ける男女混合大所帯バンドの、アルバム発売記念ライヴ。南青山・月見ル君想フ。過去に見た2回のパフォーマンス(2010年12月27日、2011年2月11日)はイヴェント出演なためもありなあなあな感じで見させていただいたが、今回は真正面からじっくり見ちゃう。いろいろ、発見があったな。
単独公演ということで、構成をちゃんと定めて、2部制にて。皆、1部と2部では衣装をかえる。セルフ・タイトルのデビュー作に収められている9曲を全部やったほか、同数の新曲やアルバム未収録曲もやる。それら、別に質が下がると感じさせることはなく、すぐにでも新作つくれるぢゃん。
すべての曲を作り歌う(ときにギターを持つ場合も)カンタス村田を中央に、3人の打楽器、鍵盤、ギター、電気ベース、ドラム、4人の管楽器素者(トロンボーン、トランペット、アルト、テナー)という編成でパフォーマンス。ステージ後方に映し出されるプロジェクター映像を使いつつ、ショウはすすめられる。曲が始まる前にちゃんと曲名が映し出されたり(それ、フォークローレ系の公演に散見される様式と言えるな)、一人ひとりのメンバー紹介の際に用いたり。
ちゃんと見て了解できたのは、バンドの中心線がしっかりしているな、ということ。ベース、パーカッション、ドラム奏者がまっとうで、何をやろうと変なことにはならないだろうと思わせられたもの。とくに、やたらうれしそうに叩くドラマーは強力。トロンボーン奏者がアレンジしているというブラス・セクション音もまっとうだし、アルト奏者は何気に確かなソロを取ったりする。女性打楽器素者が一部でコーラスをつけていたが、烏合の衆ぽく皆でもっともっとガヤガヤ肉声を出す曲があればもっと楽しいのに、な。
あと、感じたのは、カンタス村田が、自分の歌い方を確立しているじゃん。まずバンド統率者として姿に目が向くが、じつは肝心の歌でも彼だけの味がちゃんとある。それを実感したのは、たとえば彼らの代表曲(かな?)の「route134」に改めて触れたさい。これ、考えてみると、最初のヴァースはスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「イフ・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ステイ」(レッド・ホット・チリ・ペッパーズもカヴァーしていますね)に似ている。が、直接的にスライを想起する人はいないんじゃないか。というのも、その後の巧みな曲展開やブラジル音楽の機微を介したアレンジがモノを言うとともに、中央にあるカンタスの屈託のない歌い口がスライ的世界から闊達な日本人青年が持つ現環境にワープさせる力をちゃんと持っている! わあ。だから、カンタス村田とサンバマシーンズの楽曲として無理なく楽しめちゃう。
繰り返しになるが、ブラジル愛好を根に置く、ブラジル系躍動や楽器音の配置が随所で効く。それもまた、楽曲を彼らならではのものにする。そうしたスキル/美点はDJ感覚にもつながると言えるのかもしれないが、そんな彼らの洒脱な折衷技量はクレイジー・ケン・バンドに繋がる部分があるかもと、ぼくはショウに触れながら思った。まだ大学を卒業したばかりのくせに、カンタスはなかなかサバけててわきまえたタレント性ももつし、やはり今後の展開をいろいろ期待したくなりました。
サンバな露出を持つ女性ダンサーももちろん登場。今のところ一人だが(それ以上はこのクラスのハコだと大人数バンドゆえ、ステージ上に乗せるのはキツいか)、どんどん人気が出て女性ダンサーが沢山出て来るショウをやる日をちょい夢想……。
<今日の露払い>
カンタス村田とサンバマシーンは大学のブラジル音楽愛好サークルから生まれたバンドというが、この日は、そのサークルの後輩たちよるサンバ隊が最初に20分ほど大勢でパフォーマンス。緊張しつつ一生懸命叩いたり歌ったりしている様に、めちゃ青春してるなとベタな感想を得る。で、ありゃりゃと持ったのは、みんな初々しいというか、子供っぽいこと。高校生が中心なんですよと言われたら、信じちゃう? 内面はどうか知らないが、見た目は全然スレておらず、イキがりもゼロ。うわあ、オレが大学のころを振り返り唖然。まあ、ぼくがいた音楽サークルは生理的に汚れていて、回りから浮いていたのは確かだが。彼(女)らが放つ素朴さに触れながら、それは彼らが特にそうなのか、それともこういう感じの大学生が今はおおいのかとか、約39秒考えちゃいました。
ゴールデンウィークもおしまい。さあ、心機一転……。
単独公演ということで、構成をちゃんと定めて、2部制にて。皆、1部と2部では衣装をかえる。セルフ・タイトルのデビュー作に収められている9曲を全部やったほか、同数の新曲やアルバム未収録曲もやる。それら、別に質が下がると感じさせることはなく、すぐにでも新作つくれるぢゃん。
すべての曲を作り歌う(ときにギターを持つ場合も)カンタス村田を中央に、3人の打楽器、鍵盤、ギター、電気ベース、ドラム、4人の管楽器素者(トロンボーン、トランペット、アルト、テナー)という編成でパフォーマンス。ステージ後方に映し出されるプロジェクター映像を使いつつ、ショウはすすめられる。曲が始まる前にちゃんと曲名が映し出されたり(それ、フォークローレ系の公演に散見される様式と言えるな)、一人ひとりのメンバー紹介の際に用いたり。
ちゃんと見て了解できたのは、バンドの中心線がしっかりしているな、ということ。ベース、パーカッション、ドラム奏者がまっとうで、何をやろうと変なことにはならないだろうと思わせられたもの。とくに、やたらうれしそうに叩くドラマーは強力。トロンボーン奏者がアレンジしているというブラス・セクション音もまっとうだし、アルト奏者は何気に確かなソロを取ったりする。女性打楽器素者が一部でコーラスをつけていたが、烏合の衆ぽく皆でもっともっとガヤガヤ肉声を出す曲があればもっと楽しいのに、な。
あと、感じたのは、カンタス村田が、自分の歌い方を確立しているじゃん。まずバンド統率者として姿に目が向くが、じつは肝心の歌でも彼だけの味がちゃんとある。それを実感したのは、たとえば彼らの代表曲(かな?)の「route134」に改めて触れたさい。これ、考えてみると、最初のヴァースはスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「イフ・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ステイ」(レッド・ホット・チリ・ペッパーズもカヴァーしていますね)に似ている。が、直接的にスライを想起する人はいないんじゃないか。というのも、その後の巧みな曲展開やブラジル音楽の機微を介したアレンジがモノを言うとともに、中央にあるカンタスの屈託のない歌い口がスライ的世界から闊達な日本人青年が持つ現環境にワープさせる力をちゃんと持っている! わあ。だから、カンタス村田とサンバマシーンズの楽曲として無理なく楽しめちゃう。
繰り返しになるが、ブラジル愛好を根に置く、ブラジル系躍動や楽器音の配置が随所で効く。それもまた、楽曲を彼らならではのものにする。そうしたスキル/美点はDJ感覚にもつながると言えるのかもしれないが、そんな彼らの洒脱な折衷技量はクレイジー・ケン・バンドに繋がる部分があるかもと、ぼくはショウに触れながら思った。まだ大学を卒業したばかりのくせに、カンタスはなかなかサバけててわきまえたタレント性ももつし、やはり今後の展開をいろいろ期待したくなりました。
サンバな露出を持つ女性ダンサーももちろん登場。今のところ一人だが(それ以上はこのクラスのハコだと大人数バンドゆえ、ステージ上に乗せるのはキツいか)、どんどん人気が出て女性ダンサーが沢山出て来るショウをやる日をちょい夢想……。
<今日の露払い>
カンタス村田とサンバマシーンは大学のブラジル音楽愛好サークルから生まれたバンドというが、この日は、そのサークルの後輩たちよるサンバ隊が最初に20分ほど大勢でパフォーマンス。緊張しつつ一生懸命叩いたり歌ったりしている様に、めちゃ青春してるなとベタな感想を得る。で、ありゃりゃと持ったのは、みんな初々しいというか、子供っぽいこと。高校生が中心なんですよと言われたら、信じちゃう? 内面はどうか知らないが、見た目は全然スレておらず、イキがりもゼロ。うわあ、オレが大学のころを振り返り唖然。まあ、ぼくがいた音楽サークルは生理的に汚れていて、回りから浮いていたのは確かだが。彼(女)らが放つ素朴さに触れながら、それは彼らが特にそうなのか、それともこういう感じの大学生が今はおおいのかとか、約39秒考えちゃいました。
ゴールデンウィークもおしまい。さあ、心機一転……。
菊地成孔ダブ・セクステット。カサンドラ・ウィルソン
2011年5月5日 音楽 菊地成孔(2011年4月22日、他)の主要プロジェクトの一つである、二管を擁するクインテット+電気的音響効果担当者という編成を持つバンドの公演。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。わあ。電気処理担当のパードン木村(2004年8月12日)がステージ中央後方に位置し、その場で生音演奏にエフェクトをかけているのだが、その関与度がこれほどまでに高いとは。サウンド総体に効果をかけるとともに、菊地のテナー・サックスと類家心平のトランペットの音にも7割ぐらいは電気エフェクトがかまされていたもの。ぼくは変なところピュアな感じ手で管楽器音にエフェクターをかけるのを好ましく感じない者、ゆえにここでも電気処理がなされ過ぎと感じた。が、その妙の先にあるものを求めゆとしているわけで……とか、思っていたら、彼らのセカンド作が出た際に文章を書いたことを思い出した。→後出。坪口昌恭(2006年10月19日)の演奏、何気に効いていた。
アンコール時に菊地は珍しく、ソプラノ・サックスを手に登場する。で、演奏したのは、レディ・ガガ曲のカヴァー。なんでも、彼は類家のソロ作をプロデュース中で、そこに入れようとした際、類家の意向でボツになってしまったアレンジ曲を披露したもののよう。それを聞けるこの日の客は幸運、みたいなことも、彼は言っていた。
そして、六本木ミッドタウンに移動し、カサンドラ・ウィルソン(2010年6月13日、他)の1年弱ぶりの来日ショウを見る。今回のギグ設定の肝は、ブランドン・ロス(2004年9月7日、2005年6月8日、2005年6月9日、2006年9月2日)とマーヴィン・スーウェル(1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2008年8月11日、2010年6月13日)というカサンドラ表現のミュージッカル・ディレクターを担った&担う異端ギタリストが二人そろいぶみしていること。それ、少なくても、日本では初めてのことだ。なお、カサンドラにリーダー作をプロデュースしてもらったことがある、今回も同行のロニー・プラキシコ(電気アップライト・ベース。1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2004年9月7日、2008年8月11日、2010年6月13日)も来日公演におけるミュージカル・ディレクターをつとめたことが過去あったはず。
ウィルソン変革期たる『ブルー・ライト』(93年)と『ニュー・ムーン・ドーター』(95年)でオルタナティヴな編曲に多大に貢献したロスだったが、ウィルソンはスーウェルと出会うと、あっさりとスーウェルの方を重用するようになり、今回もミュージカル・ディレクターはスーウェルと紹介されていた。実際、出だしなどの合図等をふくめスーウェルがバンド音を掌握、ロスはあまり彼である必然性を持たないセカンド・ギター奏者演奏に終始、けっこう端から見ているぶんにはかわいそうと思えたか。
ギター奏者が2人いるゆえ、今回はピアノレス編成にて(まあ、昔はそれが売りであったこともあったが)。上で触れた以外のサポート素者はハーモニカのグレゴア・マレ(2004年9月7日、2006年9月3日、2007年12月13日、2009年3月18日)、ドラムのジョナサン・ブレイク(2009年9月3日)、打楽器のレカン・ババロラ(2010年6月13日)で、計6人の編成でショウを行なう。ライヴ録音をソースとするアルバム(最新作の『シルヴァー・ポニー』)を出した前回編成バンドから見ると、しっとり目。一番はねていたのは、新作にも入っていたアンコールの「セイント・ジェイムズ・インファーマリー」か。そんなわけだから、ババロアの演奏が目立つ場面はあまりなし。あ、『ニュー・ムーン・ドーター』に入っていた「ラスト・トレイン・トゥ・クラークスヴィル」(ザ・モンキーズの66年全米1位曲)もやりました。新旧のレパートリーをこの顔触れで肩肘張らずやってみましたという感じのショウであったか。次のアルバムの内容につながるものは提示されていなっかたと思うが、ウィルソンの“フツー”は普通の担い手の数倍の質をも持つのは間違いない。
なお、ウィルソンはステージで裸足になることでも知られるが、今回ぼくが見たショウでは裸足にならなかった。素足にペニャペニャの靴を履いていたものの。そんな彼女、8曲ぐらいで、1時間半ぐらいやったか。その前に見た菊地のショウもそのぐらいやったな。そういえば、ブランドン・ロスと菊地のグループはライヴをリキッドルームでシェアした(2005年6月9日)ことがありました。
<今日の、付録原稿>
以下の原稿は2008年7月リリースの『ダブ・オービッツ』リリースの際に、発売元のイーストワークスからの依頼されて書いたものだ。すぐに忘れちゃっていたが、その後の掲載報告などは一切なく、一体この原稿はどうなったのかしら。依頼してきた人物はとうに退社しているし、いまや幻の原稿?
菊地成孔、きくちなるよし。10年前だったら、コアな音楽ファンしか読めなかっただろう、その名前を今はすらりと読めちゃう人が少なくないはず。だって、ここ数年の彼の活動は華々しく、本当に話題を呼ぶ男になっているもの。雑で品のない言い方をするなら、先端カルチャーにおけるイケてる文化人みたいな感じも菊地にはあるかもしれない。
テナー・サックス奏者であり作詞/作曲家/プロデューサー、多筆で広い領域を持つ分筆家(いっぱい書籍を出してます)、冴えた音楽教育者などいろんな顔を持つ彼だが、ことミュージシャンということに限っても、彼は鋭敏に時代と繋がった様々な活動単位をこれまで持ってきた。……ジャズ的越境感を備えたダンス・グルーヴ表現を求めたデートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデン。刹那的歌ものポップ・ユニットであるスパンク・ハッピー。ストロングな現代ジャズ表現を求めたクインテット・ライヴ・ダブ(04年夏期のツアーにはUAが全面的に絡み、それは両者連名の06年作『cure jazz』に繋がった)。洒脱なストリングス音やラテン・ビートの揺れを通した官能的音像を求めるペペ・トルメント・アスカラール、などなど。そして、もちろん、一言で語るのが難しい美学を投影しまくりのソロ名義作も出しているし、映画音楽も複数担当していたりする。
そんないろんなことをやっている彼が今もっとも力を注いでいるのが、昨年の師走から活動している菊地成孔ダブ・セクステットというスーツ姿の似合うバンドだ。先に触れたクインテット・ライヴ・ダブの次の形という言い方も言えるかもしれないが(菊地を含め、メンバー3人が留任)、とにかく格好いいジャズ・マンでありたいという意欲が漲りまくったバンドとそれは言える。ちなみに、バンド名にある“セクステット”は6人組を指す言葉で、そのメンバーは菊地(テナー・サックス)、類家心平(トランペット。アーブ)、坪口昌恭(ピアノ。東京ザヴィヌル・バッハ)、鈴木正人(ウッド・ベース。リトル・クリーチャーズ)、本田珠也(ドラム。ケイ赤城トリオ)、パードン木村(効果音)というもの。また、“ダブ”とはレゲエから発生したエコー効果他を用いる破壊〜再生の意思を持つポスト・プロダクション手法(ダンス・ミュージックのリミックスもダブから来たと言われる)で、ダブ的音響処理のスペシャリストのパードン木村が重要メンバーとなっていることでも、そのバンド名は容易に納得が行くだろう。
基本、菊地成孔ダブ・セクステットはマイルス・デイヴィスやオーネット・コールマン(ファースト作『The Revolution Not To Be Computerized』)のジャケットは、オーネットの61年作『ディス・イズ・アワ・ミュージック』のそれをパロディ引用したものだ)やエリック・ドルフィーといったリアルきわまりない楽器ソロがとれ、且つそれを効果的に泳がせることが出来る機微いっぱいのサウンドも提出できた大ジャズ偉人の黄金アコースティック表現に愛を持ちつつ、その真価を菊地ならではの創造性を介して今に持ってこようとする意図を持つ。言い換えれば、テナー・サックスとトランペットの二管をフロントに置く編成(それは、まさにジャズ編成の王道と言える)による生気と飛躍力たっぷりのリアル・ジャズ表現に現代的な音響処理を大胆に掛け合わせ、数奇なストーリーに満ちた先端ジャズ表現を送りだそうというのが、菊地成孔ダブ・セクステットの求めるところなのである。
それにしても、なんと性急な。もともとワーカホリックというに相応しい精力的な活動を維持している菊地だが、ダブ・セクステットの新作『ダブ・オービッツ』は前作から7か月しか間をおかずにリリースされる。が、バンドは生き物、新作で彼らより現代的な技術や発想を通るようになっている。なかには、各人のソロを別々に録り後からつないでみたり、せえので録ったものでも大胆な編集/差し替えを施したり跳んだ効果音を噛ましてみたり。実は秀でた技量と感性を持つプレイヤーの集合体である彼らはただ演奏しても(ライヴの場であっさりと示されるように)、優れたジャズ表現が浮上するのは疑いがない。だが、それはマイルスたちがあの時代に出したものを超えるものではない。ならば、彼ら巨匠たちと横並びになれる我々のジャズ表現とは……。そう考えたときに、酔狂とも言える菊地成孔ダブ・セクステットの行き方が出てきたのだと思う。
オーネット・コールマンは66年に自分の表現に自由な風〜ハプニングをもたらすために10歳の素人ドラマー(息子のデナード・コールマン)を自分のバンドに涼しい顔して加入させた。一方、マイルス・デイヴィスの60年代後期から70年代中期にかけての電化表現はスタジオで延々と録ったテープを制作者のテオ・マセロが自由にハサミを入れる事で濃い表現にヴァージョン・アップし、アルバムとして世に出された。かように秀でたジャズはいつだって変てこで、我が道を行く?印のこだわりを経たものだったのだ。そして、菊地成孔ダブ・セクステットにおける“デナード・コールマンの天衣無縫なドラム”がテクノロジーや電気音なのであり、マイルス表現のテオ・マセロ役をしているのが菊地と木村なのである。
そう言えば、エリック・ドルフィーの64年の最終作『ラスト・デイト』には「音楽を聞いても、終われば宙に消えてしまう。それを二度と捕まえることはできない」という彼のモノローグが収録されている。閃きと即興に根ざした表現を求め早くして亡くなってしまった天才ドルフィーならではの、それは名言だ。でも、菊地成孔ダブ・セクステットのポスト・プロダクション込みのジャズ表現を聞いていると、「今なら捕まえることでより鮮烈にジャズを宙に放つ事ができるんです」と菊地たちがドルフィーに返答しているように、ぼくには思えたりもする。と、話は飛んでしまったが、そうした正しいジャズのつっぱった哲学や美意識の発露を、今の時代を生きる人間として今の環境にワープさせようとするのが菊地成孔ダブ・セクステットの流儀なのだ。
そして、新作ではさらに編集が凝ったり、タイトなビートが採用されたりもし、よりモダン・ミュージック色の濃いアプローチを持つ曲も散見される。たとえば、「Monkey Mush Down」という曲はYMO、マイルス、N.E.R.D、ロイヤル・ティーンズ(オールディーズのグループ)の曲がマッシュ・アップされていると菊地本人が解説するように、やんちゃに弾けた仕上がりになっており、今後はそういう方向性を強めていくのかもしれない。なんにせよ、得体の知れない、だからこそ素敵きわまりないジャズのもやもやを核に置きつつ、菊地成孔ダブ・セクステットはアメーバーのように動いていくのは間違いないことと思われる。
さて、そんな<私の考える現代ジャズ>作をリリースする菊地は、7月16、17日と渋谷・デュオでアルバム発表ライヴをやったあと、フジ・ロック・フェスティヴァル(7月27日)とライジング・サン・フェスティヴァル(8月15日)に出演。また、8月10日に日比谷野外音楽堂で行われる<野蛮人たちの夜会>には、東京スカパラダイスオーケストラとともに新版ペペ・トルメント・アスカラールで出演する。なんでも、新しいペペ・トルメント・アスカラールは女性メンバーが増えて、より淫媚な感じで迫るようである。
アンコール時に菊地は珍しく、ソプラノ・サックスを手に登場する。で、演奏したのは、レディ・ガガ曲のカヴァー。なんでも、彼は類家のソロ作をプロデュース中で、そこに入れようとした際、類家の意向でボツになってしまったアレンジ曲を披露したもののよう。それを聞けるこの日の客は幸運、みたいなことも、彼は言っていた。
そして、六本木ミッドタウンに移動し、カサンドラ・ウィルソン(2010年6月13日、他)の1年弱ぶりの来日ショウを見る。今回のギグ設定の肝は、ブランドン・ロス(2004年9月7日、2005年6月8日、2005年6月9日、2006年9月2日)とマーヴィン・スーウェル(1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2008年8月11日、2010年6月13日)というカサンドラ表現のミュージッカル・ディレクターを担った&担う異端ギタリストが二人そろいぶみしていること。それ、少なくても、日本では初めてのことだ。なお、カサンドラにリーダー作をプロデュースしてもらったことがある、今回も同行のロニー・プラキシコ(電気アップライト・ベース。1999年8月27日、1999年9月2日、2001年2月12日、2004年9月7日、2008年8月11日、2010年6月13日)も来日公演におけるミュージカル・ディレクターをつとめたことが過去あったはず。
ウィルソン変革期たる『ブルー・ライト』(93年)と『ニュー・ムーン・ドーター』(95年)でオルタナティヴな編曲に多大に貢献したロスだったが、ウィルソンはスーウェルと出会うと、あっさりとスーウェルの方を重用するようになり、今回もミュージカル・ディレクターはスーウェルと紹介されていた。実際、出だしなどの合図等をふくめスーウェルがバンド音を掌握、ロスはあまり彼である必然性を持たないセカンド・ギター奏者演奏に終始、けっこう端から見ているぶんにはかわいそうと思えたか。
ギター奏者が2人いるゆえ、今回はピアノレス編成にて(まあ、昔はそれが売りであったこともあったが)。上で触れた以外のサポート素者はハーモニカのグレゴア・マレ(2004年9月7日、2006年9月3日、2007年12月13日、2009年3月18日)、ドラムのジョナサン・ブレイク(2009年9月3日)、打楽器のレカン・ババロラ(2010年6月13日)で、計6人の編成でショウを行なう。ライヴ録音をソースとするアルバム(最新作の『シルヴァー・ポニー』)を出した前回編成バンドから見ると、しっとり目。一番はねていたのは、新作にも入っていたアンコールの「セイント・ジェイムズ・インファーマリー」か。そんなわけだから、ババロアの演奏が目立つ場面はあまりなし。あ、『ニュー・ムーン・ドーター』に入っていた「ラスト・トレイン・トゥ・クラークスヴィル」(ザ・モンキーズの66年全米1位曲)もやりました。新旧のレパートリーをこの顔触れで肩肘張らずやってみましたという感じのショウであったか。次のアルバムの内容につながるものは提示されていなっかたと思うが、ウィルソンの“フツー”は普通の担い手の数倍の質をも持つのは間違いない。
なお、ウィルソンはステージで裸足になることでも知られるが、今回ぼくが見たショウでは裸足にならなかった。素足にペニャペニャの靴を履いていたものの。そんな彼女、8曲ぐらいで、1時間半ぐらいやったか。その前に見た菊地のショウもそのぐらいやったな。そういえば、ブランドン・ロスと菊地のグループはライヴをリキッドルームでシェアした(2005年6月9日)ことがありました。
<今日の、付録原稿>
以下の原稿は2008年7月リリースの『ダブ・オービッツ』リリースの際に、発売元のイーストワークスからの依頼されて書いたものだ。すぐに忘れちゃっていたが、その後の掲載報告などは一切なく、一体この原稿はどうなったのかしら。依頼してきた人物はとうに退社しているし、いまや幻の原稿?
菊地成孔、きくちなるよし。10年前だったら、コアな音楽ファンしか読めなかっただろう、その名前を今はすらりと読めちゃう人が少なくないはず。だって、ここ数年の彼の活動は華々しく、本当に話題を呼ぶ男になっているもの。雑で品のない言い方をするなら、先端カルチャーにおけるイケてる文化人みたいな感じも菊地にはあるかもしれない。
テナー・サックス奏者であり作詞/作曲家/プロデューサー、多筆で広い領域を持つ分筆家(いっぱい書籍を出してます)、冴えた音楽教育者などいろんな顔を持つ彼だが、ことミュージシャンということに限っても、彼は鋭敏に時代と繋がった様々な活動単位をこれまで持ってきた。……ジャズ的越境感を備えたダンス・グルーヴ表現を求めたデートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデン。刹那的歌ものポップ・ユニットであるスパンク・ハッピー。ストロングな現代ジャズ表現を求めたクインテット・ライヴ・ダブ(04年夏期のツアーにはUAが全面的に絡み、それは両者連名の06年作『cure jazz』に繋がった)。洒脱なストリングス音やラテン・ビートの揺れを通した官能的音像を求めるペペ・トルメント・アスカラール、などなど。そして、もちろん、一言で語るのが難しい美学を投影しまくりのソロ名義作も出しているし、映画音楽も複数担当していたりする。
そんないろんなことをやっている彼が今もっとも力を注いでいるのが、昨年の師走から活動している菊地成孔ダブ・セクステットというスーツ姿の似合うバンドだ。先に触れたクインテット・ライヴ・ダブの次の形という言い方も言えるかもしれないが(菊地を含め、メンバー3人が留任)、とにかく格好いいジャズ・マンでありたいという意欲が漲りまくったバンドとそれは言える。ちなみに、バンド名にある“セクステット”は6人組を指す言葉で、そのメンバーは菊地(テナー・サックス)、類家心平(トランペット。アーブ)、坪口昌恭(ピアノ。東京ザヴィヌル・バッハ)、鈴木正人(ウッド・ベース。リトル・クリーチャーズ)、本田珠也(ドラム。ケイ赤城トリオ)、パードン木村(効果音)というもの。また、“ダブ”とはレゲエから発生したエコー効果他を用いる破壊〜再生の意思を持つポスト・プロダクション手法(ダンス・ミュージックのリミックスもダブから来たと言われる)で、ダブ的音響処理のスペシャリストのパードン木村が重要メンバーとなっていることでも、そのバンド名は容易に納得が行くだろう。
基本、菊地成孔ダブ・セクステットはマイルス・デイヴィスやオーネット・コールマン(ファースト作『The Revolution Not To Be Computerized』)のジャケットは、オーネットの61年作『ディス・イズ・アワ・ミュージック』のそれをパロディ引用したものだ)やエリック・ドルフィーといったリアルきわまりない楽器ソロがとれ、且つそれを効果的に泳がせることが出来る機微いっぱいのサウンドも提出できた大ジャズ偉人の黄金アコースティック表現に愛を持ちつつ、その真価を菊地ならではの創造性を介して今に持ってこようとする意図を持つ。言い換えれば、テナー・サックスとトランペットの二管をフロントに置く編成(それは、まさにジャズ編成の王道と言える)による生気と飛躍力たっぷりのリアル・ジャズ表現に現代的な音響処理を大胆に掛け合わせ、数奇なストーリーに満ちた先端ジャズ表現を送りだそうというのが、菊地成孔ダブ・セクステットの求めるところなのである。
それにしても、なんと性急な。もともとワーカホリックというに相応しい精力的な活動を維持している菊地だが、ダブ・セクステットの新作『ダブ・オービッツ』は前作から7か月しか間をおかずにリリースされる。が、バンドは生き物、新作で彼らより現代的な技術や発想を通るようになっている。なかには、各人のソロを別々に録り後からつないでみたり、せえので録ったものでも大胆な編集/差し替えを施したり跳んだ効果音を噛ましてみたり。実は秀でた技量と感性を持つプレイヤーの集合体である彼らはただ演奏しても(ライヴの場であっさりと示されるように)、優れたジャズ表現が浮上するのは疑いがない。だが、それはマイルスたちがあの時代に出したものを超えるものではない。ならば、彼ら巨匠たちと横並びになれる我々のジャズ表現とは……。そう考えたときに、酔狂とも言える菊地成孔ダブ・セクステットの行き方が出てきたのだと思う。
オーネット・コールマンは66年に自分の表現に自由な風〜ハプニングをもたらすために10歳の素人ドラマー(息子のデナード・コールマン)を自分のバンドに涼しい顔して加入させた。一方、マイルス・デイヴィスの60年代後期から70年代中期にかけての電化表現はスタジオで延々と録ったテープを制作者のテオ・マセロが自由にハサミを入れる事で濃い表現にヴァージョン・アップし、アルバムとして世に出された。かように秀でたジャズはいつだって変てこで、我が道を行く?印のこだわりを経たものだったのだ。そして、菊地成孔ダブ・セクステットにおける“デナード・コールマンの天衣無縫なドラム”がテクノロジーや電気音なのであり、マイルス表現のテオ・マセロ役をしているのが菊地と木村なのである。
そう言えば、エリック・ドルフィーの64年の最終作『ラスト・デイト』には「音楽を聞いても、終われば宙に消えてしまう。それを二度と捕まえることはできない」という彼のモノローグが収録されている。閃きと即興に根ざした表現を求め早くして亡くなってしまった天才ドルフィーならではの、それは名言だ。でも、菊地成孔ダブ・セクステットのポスト・プロダクション込みのジャズ表現を聞いていると、「今なら捕まえることでより鮮烈にジャズを宙に放つ事ができるんです」と菊地たちがドルフィーに返答しているように、ぼくには思えたりもする。と、話は飛んでしまったが、そうした正しいジャズのつっぱった哲学や美意識の発露を、今の時代を生きる人間として今の環境にワープさせようとするのが菊地成孔ダブ・セクステットの流儀なのだ。
そして、新作ではさらに編集が凝ったり、タイトなビートが採用されたりもし、よりモダン・ミュージック色の濃いアプローチを持つ曲も散見される。たとえば、「Monkey Mush Down」という曲はYMO、マイルス、N.E.R.D、ロイヤル・ティーンズ(オールディーズのグループ)の曲がマッシュ・アップされていると菊地本人が解説するように、やんちゃに弾けた仕上がりになっており、今後はそういう方向性を強めていくのかもしれない。なんにせよ、得体の知れない、だからこそ素敵きわまりないジャズのもやもやを核に置きつつ、菊地成孔ダブ・セクステットはアメーバーのように動いていくのは間違いないことと思われる。
さて、そんな<私の考える現代ジャズ>作をリリースする菊地は、7月16、17日と渋谷・デュオでアルバム発表ライヴをやったあと、フジ・ロック・フェスティヴァル(7月27日)とライジング・サン・フェスティヴァル(8月15日)に出演。また、8月10日に日比谷野外音楽堂で行われる<野蛮人たちの夜会>には、東京スカパラダイスオーケストラとともに新版ペペ・トルメント・アスカラールで出演する。なんでも、新しいペペ・トルメント・アスカラールは女性メンバーが増えて、より淫媚な感じで迫るようである。
ザップ。ウォッチング・ザ・スカイ・ヴォリューム3
2011年4月24日 音楽 まず、六本木・ビルボードライブ(ファースト・ショウ)で、ザップを見る。久しぶりに来日した昨年公演(2010年2月11日)を見て、2010年の来日ライヴの白眉じゃあとぼくを驚嘆させたファンク集団ですね。で、今回もただただ素晴らしかった。基本的な構成/ノリは前回と同じだが、用意された衣服は変わっていたし、ちゃんと練り込まれていたし、なによりやっていることが、尊すぎる。よくもまあ次から次へと、いろんな事をやるものだ。今回も女傑シャーリー・マードックは頭2曲で面々の演奏で歌い、皆で一度は引っ込み、1曲流した後に、再び男性陣が出てきて山あり谷ありのショウを延々と繰り広げた。そこには、ゴスペル(マードック)と世俗娯楽表現(ザップ)の間にはちゃんと線を引きたいという、彼らの気持ちが投影されているのだろうか。
故ロジャー・トラウトマン(1999年5月6日、参照)が率いていたときよりいいかも、という、前回公演のぼくの記載を見て、それはないんではないのと言う、知り合いのロジャー・ファンのもいた。確かに、ロジャーは不世出の凄くクールなファンカー/ショウ・マンである。91年作『ブリッジング・ザ・ギャップ』(ワーナー・ブラザーズ)を出す際には取材もできたが、その秀でた受け答えと愛嬌ある笑顔には本当にポっとなった。とうぜん、彼の真価は判っているつもりだ。だから、こう言い換えよう。以前はロジャー(50ポイント)とバック・バンド(各30ポイント)の総合体だったのに対し、今はかつての指揮官/主役の穴を埋めようと張り切るミュージシャン(各41ポイント)の有機的集合体である、と。そして、皆が主役だと頑張る現在のザップのほうが、ポイント総計は高いとぼくは思うのだが。
ともあれ、今回もぼくは楽しみ、ヤラレまくった。今、ファンク〜黒人芸能感覚/流儀の積み重ねを受けようとするなら、何をおいてもザップが一番。もしかして。プリンス(2002年11月19日)はそれ以上かもしれないが、彼の場合はチケット入手も困難だし、何よりこんな近くでは見るのは叶わないだろう。とか、いろいろ考慮すると、ぼくはザップを推したくなる?
そして、上野へ。上野公演の水上音楽堂(今は場所が変わったが、かつてはステージが不忍池の上にあり;2002年1月20 日の項参照、名称は引き継がれている)で、アコースティック系パフォーマンスのフェス。終盤のほうだけを見る。立派な半透明の屋根が、会場上部に新たについていた。
オーヴァー・ザ・ラインから見る。90年代はIRSやヴァージン/ナラダからアルバムを出していたこともあった、男女フォーキィ・ユニット。かつては、バンドでやっていたはずだが、今は簡素な構成になっているのね。その新作『ザ・ロング・サレンダー』はジョー・ヘンリー(2010年4月2日、4月4日)のプロデュースで、その話題があって、今回の来日につながったのかな。
先のザップはオハイオ州のデイトン拠点で、こちらはオハイオ州のシンシナティ。オハイオ州はいろんなファンク・バンドを輩出するファンク・ステイトとしても知られ、JBで知られるキング・レコードもシンシナティにあった。でも……、シンシナティには89年にザ・ローリング・ストーンズ(2003年3月15日)の公演を見に行ったことがあったんだけど、少なくても中心部は白人しかいない整備された感じのある街だったので、オーヴァー・ザ・ラインのような担い手を輩出しているのもよく判る。
基本、男性はキーボードを弾き、女性は生ギターを弾きながら歌う。思慮のある楽曲に、適度なひんやり感を持つ清楚な歌声。もう少し伴奏音が多いほうが魅力的になるとは思うが、アメリカの大人の歌やなあ、と感ずる。
その後、先にそれぞれパフォーマンスしたはずのアン・サリーとおおはた雄一(2009年11月一日、他)がデュオで3曲、パフォーマンスした。
<今日も転々>
とても天気のいい日。投票所に行った後に、芝公園、六本木、上野と移動し、最後は知人の手引きにより、アメ横の側にある肉屋さんがやっている食堂/飲み屋へ。一部の人には、有名らしい。ウォッチング・ザ・スカイは本来、大ヴェテランのフォーク・シンガーのランブリン・ジャック・エリオット(彼も、ジョー・ヘンリーが関与して、話題を呼んだ)が出演するはずだったが、それはキャンセルに。主催者はかなりねばったようだが、かなわなかった。それにともない、新聞原稿用にとるはずだった彼への電話インタヴューもとんだ。そういえば、先日ぐうぜん飲み屋で一緒になった招聘業務に携わる人は訪日に難色を示す相手に、エンペラーもちゃんと東京にいるんだから大丈夫と説得する、と言っていたな。
故ロジャー・トラウトマン(1999年5月6日、参照)が率いていたときよりいいかも、という、前回公演のぼくの記載を見て、それはないんではないのと言う、知り合いのロジャー・ファンのもいた。確かに、ロジャーは不世出の凄くクールなファンカー/ショウ・マンである。91年作『ブリッジング・ザ・ギャップ』(ワーナー・ブラザーズ)を出す際には取材もできたが、その秀でた受け答えと愛嬌ある笑顔には本当にポっとなった。とうぜん、彼の真価は判っているつもりだ。だから、こう言い換えよう。以前はロジャー(50ポイント)とバック・バンド(各30ポイント)の総合体だったのに対し、今はかつての指揮官/主役の穴を埋めようと張り切るミュージシャン(各41ポイント)の有機的集合体である、と。そして、皆が主役だと頑張る現在のザップのほうが、ポイント総計は高いとぼくは思うのだが。
ともあれ、今回もぼくは楽しみ、ヤラレまくった。今、ファンク〜黒人芸能感覚/流儀の積み重ねを受けようとするなら、何をおいてもザップが一番。もしかして。プリンス(2002年11月19日)はそれ以上かもしれないが、彼の場合はチケット入手も困難だし、何よりこんな近くでは見るのは叶わないだろう。とか、いろいろ考慮すると、ぼくはザップを推したくなる?
そして、上野へ。上野公演の水上音楽堂(今は場所が変わったが、かつてはステージが不忍池の上にあり;2002年1月20 日の項参照、名称は引き継がれている)で、アコースティック系パフォーマンスのフェス。終盤のほうだけを見る。立派な半透明の屋根が、会場上部に新たについていた。
オーヴァー・ザ・ラインから見る。90年代はIRSやヴァージン/ナラダからアルバムを出していたこともあった、男女フォーキィ・ユニット。かつては、バンドでやっていたはずだが、今は簡素な構成になっているのね。その新作『ザ・ロング・サレンダー』はジョー・ヘンリー(2010年4月2日、4月4日)のプロデュースで、その話題があって、今回の来日につながったのかな。
先のザップはオハイオ州のデイトン拠点で、こちらはオハイオ州のシンシナティ。オハイオ州はいろんなファンク・バンドを輩出するファンク・ステイトとしても知られ、JBで知られるキング・レコードもシンシナティにあった。でも……、シンシナティには89年にザ・ローリング・ストーンズ(2003年3月15日)の公演を見に行ったことがあったんだけど、少なくても中心部は白人しかいない整備された感じのある街だったので、オーヴァー・ザ・ラインのような担い手を輩出しているのもよく判る。
基本、男性はキーボードを弾き、女性は生ギターを弾きながら歌う。思慮のある楽曲に、適度なひんやり感を持つ清楚な歌声。もう少し伴奏音が多いほうが魅力的になるとは思うが、アメリカの大人の歌やなあ、と感ずる。
その後、先にそれぞれパフォーマンスしたはずのアン・サリーとおおはた雄一(2009年11月一日、他)がデュオで3曲、パフォーマンスした。
<今日も転々>
とても天気のいい日。投票所に行った後に、芝公園、六本木、上野と移動し、最後は知人の手引きにより、アメ横の側にある肉屋さんがやっている食堂/飲み屋へ。一部の人には、有名らしい。ウォッチング・ザ・スカイは本来、大ヴェテランのフォーク・シンガーのランブリン・ジャック・エリオット(彼も、ジョー・ヘンリーが関与して、話題を呼んだ)が出演するはずだったが、それはキャンセルに。主催者はかなりねばったようだが、かなわなかった。それにともない、新聞原稿用にとるはずだった彼への電話インタヴューもとんだ。そういえば、先日ぐうぜん飲み屋で一緒になった招聘業務に携わる人は訪日に難色を示す相手に、エンペラーもちゃんと東京にいるんだから大丈夫と説得する、と言っていたな。
ラ・ラ・ライオット。quasimode
2011年4月22日 音楽 ダーティ・プロジェクターズ(2010年3月16日)やヴァンパイア・ウィークエンドなど、“ブルックリン派”と呼ばれる創意ある新進ロックの一派とも繋がりを持つ、NYの男女混合バンドの公演。昨年は日本のアジアン・カンフー・ジェネレイションの招きでやってきて、今回が2度目の来日であるそう。代官山・ユニット。キーボードを弾くときもあるヴォーカル、ギター、ベース、ドラムという男性4人のバンド単位に、チェロとヴァオリンを担当する女性2人が入る編成を彼らは取る。
瀟酒な弦音を巧みに使うロック表現のことをチェンバー・ロックなんて言ったりもするが、彼らの見据える地平は別のものであるのを、悠々と示したパフォーマンスであったな。その我が道を行く感覚は、アルバムで出していたものを超える。リード・ヴォーカル君はかなり高めの声質(そこに、巧みにファルセットを混ぜる)でそれだけで洒脱なひねり表現にむいていると言えるし、楽曲もワザありのコード進行/構成を持つ(ゆえに、一緒にはなかなか口ずさみにくい。で、それがいい)。もちろん、弦音も優美かつ非日常的な誘いを有する。そして、そこにかなり押し出しの強い&参照する表現が広いリズム・セクション音が付けられ、その総体は鮮やかに疾走したり、弾ける感覚をおおいに抱える。とともに、それは、自分たちだけの前を見た表現を我々はやりたいのだという意欲やつっぱりを望外に表出してもいたか。うぬ、存在感&存在意義、あり。
大学の同級生同士で組まれたバンドというが、そんな和気あいあいなノリは横溢。また、見た目が初々しい。なんか、みんな独身ぽい感じで、それがいい感じとも思えたかな。余分な澱がついていないというか、余計な責任やしがらみを抱えておらず、スカっと自分たちの表現に向かっている感じがあって、それが良い。いろんな面で、新風を感じました。
実は、海外アーティスト公演のキャンセルはいまだ相次いでいる。まあ、東電の原発がぜんぜん落ち着いていない&漏れ続けているのだから、それもしょうがない。もちろん、そうしたなか、思いを持って来日し公演をやってくれる音楽家には生理的な親近感を持つが、キャンセルしたミュージュシャンを根性なしと責めようようとは、ぼくは毛頭思わない。で、今回の場合、彼らが来日をちゃんと果たしたことには少し驚いた。だって、ロック、アーバン(ブラック)、ジャズと大まかに分けて見た場合、一番キャンセル率が高いのはロック系であるから。それなのに、ラ・ラ・ライオットの面々は来日し、涼しい顔をして心のこもったショウを遂行。なるほど、それはインディ(ペンデント)感覚が売りの彼らが大きなマネージメント会社に所属していない証左になるような気がしたし(実際はどうか知らないが。なお、やはり、カチっとしたマネイジメントのほうが訪日を取りやめようとするだろう)、もし彼らが配偶者や子供のいない独身だったとしたなら日本行きを止める身内の数も少ないよなあ、などと思った次第……。
そして、渋谷に移動し、wwwという、昨年11月にできたハコへ。手頃な大きさ、だが人が沢山入っていて(けっこう黄色い声も飛ぶ)、会場の感じがつかみにくい。上下の高低差をけっこう持つ会場で、後ろからだとかなりステージを見下ろす感じになる。こちらの出演者は、クラブ・ミュージック系視点の差し込みをいろいろ持つ日本人ジャズ・コンボのquasimode。メンバーの4人(打楽器+ピアノ・トリオ。打楽器の音はもうすこし低めでもいいと思った)に、基本4管(トロンボーン、2トランペット、テナー・サックス)が加わり、部分的にソロ・パートも与えられたりもする。また時に、ソイル&ピンプ・セッションズのトランペット奏者のタブゾンビ(2011年1月30日、他)、テナー・サックスの菊地成孔(2010年3月26日、他)、歌手のHanaH、ヒューマン・ビートボックスのAFRAらその新作にゲスト入りしていた人たちが加わりもする。豪華仕立て、ね。ゲスト陣はそれぞれ1曲づつの関与。タブゾンビの際は、ストーンズ(2003年3月15日)の「悪を戯むる歌」のカヴァー。その曲のカヴァーだと、ぼくはエル・ネグロ&ロビー(2004年4月5日、他)のヴァージョンを思い出すが、それとはまた別の感じでヒップにアダプトしていたな。AFRAはさすが。それから、ドラマーのばしばし決まる叩き口になぜかプージー・ベル(2007年12月13日、他)を思い出した。
<今日の困惑>
半年前ぐらいに調子が悪くなって修理に出したのに、また、携帯電話が壊れる。画面ディスプレイの光が落ちてしまい、アドレス帳は見れないし、とうぜんメールも読めない。通話は可能だが、着信しても誰だか声をきくまでわからない。電池を差し込み直すと復活するが、また操作をすると画面が真っ暗に。あーあ。たかだか(と、ぼくは言いたい)携帯の故障で、他者とのコミュニケーション手段が大幅に狭まされちゃうのが、ものすごく悲しい。文明の機器に頼りっぱなし(でも、面倒くさがりで機械に強くないから、普通の人から較べたら依存度は低いはずだけど)であることを否が応でも痛感させられちゃう。ドコモショップに飛び込み、出費が安く済む、新品交換を選ぶ。使用期間が3年を超えると、修理代が割高になるって、一体? NTTのバカっ。でも、考えてみれば、一機種をこんなに長く使っているのは初めてかも。
瀟酒な弦音を巧みに使うロック表現のことをチェンバー・ロックなんて言ったりもするが、彼らの見据える地平は別のものであるのを、悠々と示したパフォーマンスであったな。その我が道を行く感覚は、アルバムで出していたものを超える。リード・ヴォーカル君はかなり高めの声質(そこに、巧みにファルセットを混ぜる)でそれだけで洒脱なひねり表現にむいていると言えるし、楽曲もワザありのコード進行/構成を持つ(ゆえに、一緒にはなかなか口ずさみにくい。で、それがいい)。もちろん、弦音も優美かつ非日常的な誘いを有する。そして、そこにかなり押し出しの強い&参照する表現が広いリズム・セクション音が付けられ、その総体は鮮やかに疾走したり、弾ける感覚をおおいに抱える。とともに、それは、自分たちだけの前を見た表現を我々はやりたいのだという意欲やつっぱりを望外に表出してもいたか。うぬ、存在感&存在意義、あり。
大学の同級生同士で組まれたバンドというが、そんな和気あいあいなノリは横溢。また、見た目が初々しい。なんか、みんな独身ぽい感じで、それがいい感じとも思えたかな。余分な澱がついていないというか、余計な責任やしがらみを抱えておらず、スカっと自分たちの表現に向かっている感じがあって、それが良い。いろんな面で、新風を感じました。
実は、海外アーティスト公演のキャンセルはいまだ相次いでいる。まあ、東電の原発がぜんぜん落ち着いていない&漏れ続けているのだから、それもしょうがない。もちろん、そうしたなか、思いを持って来日し公演をやってくれる音楽家には生理的な親近感を持つが、キャンセルしたミュージュシャンを根性なしと責めようようとは、ぼくは毛頭思わない。で、今回の場合、彼らが来日をちゃんと果たしたことには少し驚いた。だって、ロック、アーバン(ブラック)、ジャズと大まかに分けて見た場合、一番キャンセル率が高いのはロック系であるから。それなのに、ラ・ラ・ライオットの面々は来日し、涼しい顔をして心のこもったショウを遂行。なるほど、それはインディ(ペンデント)感覚が売りの彼らが大きなマネージメント会社に所属していない証左になるような気がしたし(実際はどうか知らないが。なお、やはり、カチっとしたマネイジメントのほうが訪日を取りやめようとするだろう)、もし彼らが配偶者や子供のいない独身だったとしたなら日本行きを止める身内の数も少ないよなあ、などと思った次第……。
そして、渋谷に移動し、wwwという、昨年11月にできたハコへ。手頃な大きさ、だが人が沢山入っていて(けっこう黄色い声も飛ぶ)、会場の感じがつかみにくい。上下の高低差をけっこう持つ会場で、後ろからだとかなりステージを見下ろす感じになる。こちらの出演者は、クラブ・ミュージック系視点の差し込みをいろいろ持つ日本人ジャズ・コンボのquasimode。メンバーの4人(打楽器+ピアノ・トリオ。打楽器の音はもうすこし低めでもいいと思った)に、基本4管(トロンボーン、2トランペット、テナー・サックス)が加わり、部分的にソロ・パートも与えられたりもする。また時に、ソイル&ピンプ・セッションズのトランペット奏者のタブゾンビ(2011年1月30日、他)、テナー・サックスの菊地成孔(2010年3月26日、他)、歌手のHanaH、ヒューマン・ビートボックスのAFRAらその新作にゲスト入りしていた人たちが加わりもする。豪華仕立て、ね。ゲスト陣はそれぞれ1曲づつの関与。タブゾンビの際は、ストーンズ(2003年3月15日)の「悪を戯むる歌」のカヴァー。その曲のカヴァーだと、ぼくはエル・ネグロ&ロビー(2004年4月5日、他)のヴァージョンを思い出すが、それとはまた別の感じでヒップにアダプトしていたな。AFRAはさすが。それから、ドラマーのばしばし決まる叩き口になぜかプージー・ベル(2007年12月13日、他)を思い出した。
<今日の困惑>
半年前ぐらいに調子が悪くなって修理に出したのに、また、携帯電話が壊れる。画面ディスプレイの光が落ちてしまい、アドレス帳は見れないし、とうぜんメールも読めない。通話は可能だが、着信しても誰だか声をきくまでわからない。電池を差し込み直すと復活するが、また操作をすると画面が真っ暗に。あーあ。たかだか(と、ぼくは言いたい)携帯の故障で、他者とのコミュニケーション手段が大幅に狭まされちゃうのが、ものすごく悲しい。文明の機器に頼りっぱなし(でも、面倒くさがりで機械に強くないから、普通の人から較べたら依存度は低いはずだけど)であることを否が応でも痛感させられちゃう。ドコモショップに飛び込み、出費が安く済む、新品交換を選ぶ。使用期間が3年を超えると、修理代が割高になるって、一体? NTTのバカっ。でも、考えてみれば、一機種をこんなに長く使っているのは初めてかも。
マンハッタン・ジャズ・オーケストラ
2011年4月21日 音楽 60年代後期にジェイムズ・ブラウン/JBズ関連アレンジャーに抜擢され、一手にそれを担ったという、燦然と輝くキャリアを持つ、42年ニューヨーク州生まれのアレンジャーであるデイヴィッド・マシューズ率いるビッグ・バンドの公演。さすがにこの時期、来日を拒否った構成員もいたようで、全17人中4人は日本で加えたミュージシャンだ。うち、中川英二郎とエリック宮城の二人は、この3月28日の同所公演に出演していた奏者。ドラマーの波多江健は普段エグザイルやリップ・スライムといった系統で叩いている人らしい。で、ぼくの目当てはフレンチ・ホルン奏者のヴィンセント・チャンシー。この楽団のなかでは唯一のアフリカ系で、彼はサン・ラー・アーケストラ(2000年8月14日、2002年9月7日)やレスター・ボウイ・ブラス・ファンタジーやカーラ・ブレイ(1999年4月13日、2000年3月25日)・バンドといった曲者集団に関与してきている人物。ソロをぶいぶい吹くリーダー作も出しているが、ここではセクション音をならすだけで、残念ながらその持ち味を感じることはできなかった。ながら、その紳士然としたルックスや物腰はなかなかカッコ良く、ほのかに満足感を覚える。
南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。有名曲を自らの明解なアレンジをほどこして、娯楽性に富んだビッグ・バンド表現として送り出す。なるほど、基本アレンジャーだけあってマシューズはピアノはあまり弾かず、指揮/進行役に徹する。NYのベルリッツで日本語を習っているそうで、けっこう達者な日本語MCをして、客をなごませたりも。そういえば、2週間前に作ったという「プレイ(祈り、のほう)・フォー・ジャパン」という、静謐なアンサンブルからどんどん発展を見せるオリジナル曲も披露した。
<今日の付録>
以下はデイヴィッド・マシューズが語る、ジェイムズ・ブラウンとの絡みの抜粋である。09年にとったものだ。
——ターニング・ポイントは?
「まずは、1969年にジェイムズ・ブラウンのアレンジャーに抜擢されたこと。これで、人生が変わったよね。ジェイムズ・ブラウンとの5年間の実績があったから、その後すんなりCTIのアレンジャーにもなれたしねえ。ほんと、ジェイムズ・ブラウンの名声はすごくて、僕は営業をする必用がなかった(笑い)」
――どういう感じで、JBと知り合ったの?
「27歳の時だった。大学を出たあと、2~3年は欧州に住んでいて、その後に米国に戻って(JBが本拠にしていた)シンシナティで地味にジャズ活動をしていたんだ。そしたら、声をかけられたんだ」
——どうして、欧州に住んだりしたんですか。
「60年代、米国の若者は欧州に憧れたものさ。63年かな、まだ学生のおり、オランダの客船に学生バンドの職を見つけて乗って、それでロッテルダムに行ったのが最初。それから、テントを抱えながらバスに乗っていろいろ旅をした。それで、一度は帰国したんだけど、改めて将校クラブで演奏する職を見つけて、また渡った」
――ところで、JBのアレンジはすらすらできたのでしょうか?
「実は、それまでファンクは知らなかった。だから、最初のほうは大変だったよね。でも、勉強して、モノにしていったわけさ。どうしたら、音楽がファンキーになるかをね。まあ、ジャズ・ファンだったから、それまでもジミー・スミス(2001年1月31日)とかの、ファンキー・ジャズは好きだった。また、ブルージィなフィーリングも分かっていたわけだけど、ジェイムズ・ブラウンのもとで、ベース、ギター、ドラムが噛み合う決定的フィーリングは叩き込まれた。そういえば、ニュージャージーでの仕事がはいったことがあったんだけど、その際はいつもとは違うバンドとやることになってね。それで、ジェイムズ・ブラウンから、新しいバンドのために全部譜面に書けと言われたことがあった。それで、そのときクライド・スタブルフィール(2006年7月26日、2007年4月18日)のドラム演奏を吟味分析し、フル・スコアを書いたという経験はとても勉強になった。そのころ、バンドには3人もドラマーがいて、同時に叩いたりしてたよね」
−−あなたは白人です。そのため、ジェイムズ・ブラウンやJBズと行動をともにしていて、逆に差別のようなものを受けたことはないでしょうか。当然、そのころあなたは若造だったわけですし。
「それは、ないね(きっぱりと)。あ、でも、アポロ・シアターのとき、ちょいあったかな(笑い)」
なお、彼が一番うまくアレンジできたと自画自賛できるのは、ビリー・ジョエルの83年全米1位曲「テル・ハー・アバウト・イット」だそう。
南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。有名曲を自らの明解なアレンジをほどこして、娯楽性に富んだビッグ・バンド表現として送り出す。なるほど、基本アレンジャーだけあってマシューズはピアノはあまり弾かず、指揮/進行役に徹する。NYのベルリッツで日本語を習っているそうで、けっこう達者な日本語MCをして、客をなごませたりも。そういえば、2週間前に作ったという「プレイ(祈り、のほう)・フォー・ジャパン」という、静謐なアンサンブルからどんどん発展を見せるオリジナル曲も披露した。
<今日の付録>
以下はデイヴィッド・マシューズが語る、ジェイムズ・ブラウンとの絡みの抜粋である。09年にとったものだ。
——ターニング・ポイントは?
「まずは、1969年にジェイムズ・ブラウンのアレンジャーに抜擢されたこと。これで、人生が変わったよね。ジェイムズ・ブラウンとの5年間の実績があったから、その後すんなりCTIのアレンジャーにもなれたしねえ。ほんと、ジェイムズ・ブラウンの名声はすごくて、僕は営業をする必用がなかった(笑い)」
――どういう感じで、JBと知り合ったの?
「27歳の時だった。大学を出たあと、2~3年は欧州に住んでいて、その後に米国に戻って(JBが本拠にしていた)シンシナティで地味にジャズ活動をしていたんだ。そしたら、声をかけられたんだ」
——どうして、欧州に住んだりしたんですか。
「60年代、米国の若者は欧州に憧れたものさ。63年かな、まだ学生のおり、オランダの客船に学生バンドの職を見つけて乗って、それでロッテルダムに行ったのが最初。それから、テントを抱えながらバスに乗っていろいろ旅をした。それで、一度は帰国したんだけど、改めて将校クラブで演奏する職を見つけて、また渡った」
――ところで、JBのアレンジはすらすらできたのでしょうか?
「実は、それまでファンクは知らなかった。だから、最初のほうは大変だったよね。でも、勉強して、モノにしていったわけさ。どうしたら、音楽がファンキーになるかをね。まあ、ジャズ・ファンだったから、それまでもジミー・スミス(2001年1月31日)とかの、ファンキー・ジャズは好きだった。また、ブルージィなフィーリングも分かっていたわけだけど、ジェイムズ・ブラウンのもとで、ベース、ギター、ドラムが噛み合う決定的フィーリングは叩き込まれた。そういえば、ニュージャージーでの仕事がはいったことがあったんだけど、その際はいつもとは違うバンドとやることになってね。それで、ジェイムズ・ブラウンから、新しいバンドのために全部譜面に書けと言われたことがあった。それで、そのときクライド・スタブルフィール(2006年7月26日、2007年4月18日)のドラム演奏を吟味分析し、フル・スコアを書いたという経験はとても勉強になった。そのころ、バンドには3人もドラマーがいて、同時に叩いたりしてたよね」
−−あなたは白人です。そのため、ジェイムズ・ブラウンやJBズと行動をともにしていて、逆に差別のようなものを受けたことはないでしょうか。当然、そのころあなたは若造だったわけですし。
「それは、ないね(きっぱりと)。あ、でも、アポロ・シアターのとき、ちょいあったかな(笑い)」
なお、彼が一番うまくアレンジできたと自画自賛できるのは、ビリー・ジョエルの83年全米1位曲「テル・ハー・アバウト・イット」だそう。
ナイル・ロジャース&シック
2011年4月18日 音楽 お、シックではなく、今はナイル・ロジャース&シックと名乗っているのか。そのヒット・メイカー/敏腕プロデューサー率いるNYのダンサブルなバンド(2010年4月30日、他)は毎年のようにやってきているが、いつも4月に来ているとうのは、今回はじめて知った。でも、唯一メンバーとしてサヴァイヴしているナイル・ロジャースの心持ちを知ると、納得だな。なんでも、相棒のバーナード・エドワーズ(ベース、プロデュース)の命日(4/18)の前後には東京にいて、心の同士を弔いたい……。そう、96年にシックはスティーヴ・ウィンウッド(2003年7月27日)やガンズ&ローセズのスラッシュやディラン・ディランのサイモン・ル・ボンらをゲストに迎えて日本武道館で公演をやったのだが、エドワーズはショウ遂行後に急死してしまったのだ。あの晩、公演が終わったあとにヴェルファーレのVIPルームでアフター・パーティがあったが、そこにもエドワーズは姿を見せていた。だけど、ソファーにぐたあとなっていて、とても声をかけるような感じでなかったことはよく覚えている。
しかし、今年もちゃんとやってくるとは……。というのも、原発事故後なだけでなく、この1年の間に当のロジャースは癌をわずらい、闘病生活を送ってきたから。だが、彼は、4月の来日は当然のことと言わんかのように、馴染みのメンバーたちと胸をはって南青山・ブルーノート東京のステージに立った。
最終日の最終セット。曲目や進め方はここ数年のそれを踏襲するもの。だが、エドワーズに対する思いとともに、被災を受けた日本人に対する思い、そして自らの生を噛みしめる思いなどが幾つも重なり、ここのところ一番と言いたくなる質を持つ、訴求する力の強いパフォーマンスになっていたのではないか。ちゃんとロジャースの姿を確認できればいいと思って行ったのだが、彼は本当に気持ちの入った振る舞いに終始し(見ただけだと、癌を煩ったとは思わないだろう。やっかいな後遺症はあるらしいが)、その総体はなんとも感動的なものになっていた。見ることができて良かったと、ぼくは心底思わずにはいられなかった。
非の打ち所なし。ロバート・ワイアットのカヴァーでも知られるスロウ名曲「アット・ラスト・アイム・フリー」をやらなかった以外は(かつては、やっていたんだけどなあ)。途中MCで、ドラマーの誕生日が5月29日で、その日はまたブルーノート東京でそれを祝うショウをやると言っていたが、なんと本当に1日だけやるようだ。
<今日の場内>
ナイル・ロジャースたちが出て来ると、最初から多くのお客は立ち上がる。そして、終始、マジに熱い気持ちの交歓がつづく。一見さんがその様に接すると、こんなに心温かい、熱い音楽クラブがあったのかと、大感激してしまうのではないか。なんて、思ってしまったな。
それから、面々は始まりと終わりの楽屋とステージの間を、管楽器音と鳴りもの音を出しながらルンルンと練り歩く。それには、初めて接しました。
しかし、今年もちゃんとやってくるとは……。というのも、原発事故後なだけでなく、この1年の間に当のロジャースは癌をわずらい、闘病生活を送ってきたから。だが、彼は、4月の来日は当然のことと言わんかのように、馴染みのメンバーたちと胸をはって南青山・ブルーノート東京のステージに立った。
最終日の最終セット。曲目や進め方はここ数年のそれを踏襲するもの。だが、エドワーズに対する思いとともに、被災を受けた日本人に対する思い、そして自らの生を噛みしめる思いなどが幾つも重なり、ここのところ一番と言いたくなる質を持つ、訴求する力の強いパフォーマンスになっていたのではないか。ちゃんとロジャースの姿を確認できればいいと思って行ったのだが、彼は本当に気持ちの入った振る舞いに終始し(見ただけだと、癌を煩ったとは思わないだろう。やっかいな後遺症はあるらしいが)、その総体はなんとも感動的なものになっていた。見ることができて良かったと、ぼくは心底思わずにはいられなかった。
非の打ち所なし。ロバート・ワイアットのカヴァーでも知られるスロウ名曲「アット・ラスト・アイム・フリー」をやらなかった以外は(かつては、やっていたんだけどなあ)。途中MCで、ドラマーの誕生日が5月29日で、その日はまたブルーノート東京でそれを祝うショウをやると言っていたが、なんと本当に1日だけやるようだ。
<今日の場内>
ナイル・ロジャースたちが出て来ると、最初から多くのお客は立ち上がる。そして、終始、マジに熱い気持ちの交歓がつづく。一見さんがその様に接すると、こんなに心温かい、熱い音楽クラブがあったのかと、大感激してしまうのではないか。なんて、思ってしまったな。
それから、面々は始まりと終わりの楽屋とステージの間を、管楽器音と鳴りもの音を出しながらルンルンと練り歩く。それには、初めて接しました。
フェルナンド・カブサッキ×七尾旅人
2011年4月16日 音楽 アルゼンチンの変幻自在ギタリスト(2002年9月7日、2002年9月15日、2006年7月7日)と、自分だけの小宇宙を持つ個性派シンガー・ソングライター(2011年1月8日)。今日はじめて会ったという、そんな二人が完全四つに組んでのパフォーマンス。結論として、実のあるやりとりを楽しめた。この手の即興協調モノのなかではかなり上にあるものだったのではないのか。代官山・晴れたら空に豆まいて。
七尾の漂うギター弾き語り表現に、カブサッキが干渉音や発展のきっかけをいれて、どんどん積み木を重ねて行くようなものもあれば(それで、30分強やった塊も)、カブサッキの思いつきギター演奏に合わせて、七尾が思いつきで肉声を乗せていく場合もあり。お互いの出方で、進み方はごんごん変わって行く。七尾の歌は即興で日本語の言葉を乗せる場合もあれば、スキャット/擬音で進むときもある。カブサッキのギター音はキーボードからベルまで本当にいろんな音を出すし、ときには暴力的な音色をかましたりも。両者は自分のギター音に(七尾は歌声にも)機を見て敏にエフェクターをかけたり、サンプリングしたりもするが、その発想回路が似ているような気も。ジャズ的言語を直接的な根としない(かつて、インタヴューした際、ジャズは嫌いだとカブサッキは言っていたよな)、閃き/飛躍の感覚が重なるところがあったんだと思う。びっくりするぐらい、上手くはまったパフォーマンスという感想をぼくはもった。実際、七尾のカブサッキへの賞讃は即興の歌の言葉(結婚してもいいだか抱かれてもいいだか、そういうことも歌っていた)やMCを聞いてもよく判るし、カブサッキもうれしそうだった。七尾は歌詞に福島とか福島県という言葉もまぜる。今、多くの人の思いは同じだよなあ。。。。
単身やってきたカブサッキの、初日となる公演。彼はこの後、日本各所で12回公演が予定され、場所ごとに異なる人たちと絡むようだ。
<今日の電話>
24日は、区議会議員選挙日。昼下がり、立候補者の事務所から、投票依頼の電話がある。やーな、感じ。第一、電話がかかってきたから、入れることにしようなんていう人がいるのか。よく知らないが、そういう所作は選挙違反にはならないのかあ。電話番号の出所を聞いたら、町内会の名簿を見て、かけているという。そんなのあるのか、マンションの居住者名簿が流れているのだろうか。なんにせよ、町内会名簿があるとして、それを選挙運動に我が者顔で流用するって?? 電話をかけてきたおばさんに抗議する。責任者はと問うと、立候補者自身の名前を挙げた。
七尾の漂うギター弾き語り表現に、カブサッキが干渉音や発展のきっかけをいれて、どんどん積み木を重ねて行くようなものもあれば(それで、30分強やった塊も)、カブサッキの思いつきギター演奏に合わせて、七尾が思いつきで肉声を乗せていく場合もあり。お互いの出方で、進み方はごんごん変わって行く。七尾の歌は即興で日本語の言葉を乗せる場合もあれば、スキャット/擬音で進むときもある。カブサッキのギター音はキーボードからベルまで本当にいろんな音を出すし、ときには暴力的な音色をかましたりも。両者は自分のギター音に(七尾は歌声にも)機を見て敏にエフェクターをかけたり、サンプリングしたりもするが、その発想回路が似ているような気も。ジャズ的言語を直接的な根としない(かつて、インタヴューした際、ジャズは嫌いだとカブサッキは言っていたよな)、閃き/飛躍の感覚が重なるところがあったんだと思う。びっくりするぐらい、上手くはまったパフォーマンスという感想をぼくはもった。実際、七尾のカブサッキへの賞讃は即興の歌の言葉(結婚してもいいだか抱かれてもいいだか、そういうことも歌っていた)やMCを聞いてもよく判るし、カブサッキもうれしそうだった。七尾は歌詞に福島とか福島県という言葉もまぜる。今、多くの人の思いは同じだよなあ。。。。
単身やってきたカブサッキの、初日となる公演。彼はこの後、日本各所で12回公演が予定され、場所ごとに異なる人たちと絡むようだ。
<今日の電話>
24日は、区議会議員選挙日。昼下がり、立候補者の事務所から、投票依頼の電話がある。やーな、感じ。第一、電話がかかってきたから、入れることにしようなんていう人がいるのか。よく知らないが、そういう所作は選挙違反にはならないのかあ。電話番号の出所を聞いたら、町内会の名簿を見て、かけているという。そんなのあるのか、マンションの居住者名簿が流れているのだろうか。なんにせよ、町内会名簿があるとして、それを選挙運動に我が者顔で流用するって?? 電話をかけてきたおばさんに抗議する。責任者はと問うと、立候補者自身の名前を挙げた。
ジョニー・ウィンター
2011年4月13日 音楽 青海・ゼップ東京。3日間連続でやる初日、満員。こりゃ、素晴らしい動員。これまで来日していなかった大御所とはいえ、すげえな。もちろん、客の年齢層は高めだが、ブルース・ファンはどれぐらいいたのだろうか。
ギター、ベース(サム・ピッキング主体で弾く)、ドラムからなる非アフリカ系の人たちによるバック・バンドに、当人。44年生まれの彼は猫背&よちよち歩き気味でステージ中央にやってきて、椅子に座って演奏。でも、演奏は確か、バンド音がとてもデカいせいもあり、けっこう疾走感があり、足腰が衰えているわりには望外に元気という印象を受けた。彼はアルピノ(弟のエドガー・ウィンターも同様)で長生きできないので演奏が鬼気迫るものになる、なんて言われ方も大昔はされていたので、何よりだ。まあ、ガチンコなぶん、繊細さやコクはなかったが、ぼくは疑問を持たずに見れた。驚いたのは、ピックを用いず、フィンガー・ピンキングでギターを弾いていた(ようにしか、遠目には見えませんでした)こと。彼、昔はピック弾きだったよな? けっこう、ソロのパートは長かった。歌も良く聞こえたが、アンプリファイドし過ぎで、うまいのかヘタなのか、よく分らず。バンドはずっとやっている人たちか、関係は危なげなく。
フレディ・キングの「ハイダウェイ」から始まったショウはアンコールを含めて15曲ほどで、90分ぐらいだったかな。多くは素直なブルース・コード進行曲(「ストーミー・マンデイ」型のブルースや、あたまで“あがる”ブルース曲もなし。分らない人には全然??な記述だろうが、分る人には分るはず)、それをいろんなヴァリエーションのもとがしっと開いて行く。あ、でもチャック・ベリーのロックンロール曲「ジョニー・B・グッド」もやったし、本編最後はストーンズやロッド・スチュワートらのカヴァーで良く知られるボビー・ウォマック曲「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」。それ、ハードなパブ・ロックみたいだった。それから、ザ・フーのカヴァーで何より知られるエディ・コクランの「サマータイム・ブルース」の原形曲なんても言われるらしい(隣に座っていた増淵英紀さんが教えてくれた)ラリー・ウィリアムズが書いた「ボニー・マロニー」(ジョン・レノンも『ロックンロール』で取り上げている)もそういう感じ。というか、やはり、彼が鳴りもの入りでCBSコロムビアからデビューした60年代後半は(当時のキャッチは、「100万ドルのギタリスト」)、ブルース〜ブルージィ高濃度表現はロックの重要ヴァリエーションだったのだ。
アンコールはオープン・チューニング(と思われる)のギターをもってスライド・バーを手にしつつ、エルモア・ジェイムズの「ダスト・マイ・ブルーム」とボブ・ディランの「追憶のハイウェイ61」を披露。
<今日の飲み話>
会場であった方々と、例によって流れる。そこで、ちょっといい話を耳にしたので、書き留めておく。
3月27日に、新百合ケ丘の川崎市アートセンターというパブリックの場所で<東北関東大震災チャリティーJAZZライヴ>という催しがあったのだという。同地に住むサックス奏者の岡淳の呼びかけで急遽実現し、3月最後の日曜日の午後になされた。出演者は、竹内直、江藤良人、中村健吾、大阪昌彦、多田誠司、古野光明、近藤和彦、TOKU(3月16日、他)をはじめ、そうそうたる面々。ブルーノート東京で行なわれた同様の公演(3月28日)は大々的に報じられたが、こんな催しもあったのですね。不明を恥じる。でも、気持ちを持つ音楽家たちが集う公演は草の根的にあちこちでなされているんだろう。
40人近くのミュージシャンが集まり、入れ替わりやったとか。ヴェテラン歌手の酒井俊はソウル・フラワー・ユニオン(2011年3月26日、他)の関西淡路大震災を引き金とする「満月の夕」を歌い(持ち歌としているよう)、それは聞き手の涙を誘っていたという。そして、この催しは110万円もの義援金を集めたんだとか。素晴らしい。
ギター、ベース(サム・ピッキング主体で弾く)、ドラムからなる非アフリカ系の人たちによるバック・バンドに、当人。44年生まれの彼は猫背&よちよち歩き気味でステージ中央にやってきて、椅子に座って演奏。でも、演奏は確か、バンド音がとてもデカいせいもあり、けっこう疾走感があり、足腰が衰えているわりには望外に元気という印象を受けた。彼はアルピノ(弟のエドガー・ウィンターも同様)で長生きできないので演奏が鬼気迫るものになる、なんて言われ方も大昔はされていたので、何よりだ。まあ、ガチンコなぶん、繊細さやコクはなかったが、ぼくは疑問を持たずに見れた。驚いたのは、ピックを用いず、フィンガー・ピンキングでギターを弾いていた(ようにしか、遠目には見えませんでした)こと。彼、昔はピック弾きだったよな? けっこう、ソロのパートは長かった。歌も良く聞こえたが、アンプリファイドし過ぎで、うまいのかヘタなのか、よく分らず。バンドはずっとやっている人たちか、関係は危なげなく。
フレディ・キングの「ハイダウェイ」から始まったショウはアンコールを含めて15曲ほどで、90分ぐらいだったかな。多くは素直なブルース・コード進行曲(「ストーミー・マンデイ」型のブルースや、あたまで“あがる”ブルース曲もなし。分らない人には全然??な記述だろうが、分る人には分るはず)、それをいろんなヴァリエーションのもとがしっと開いて行く。あ、でもチャック・ベリーのロックンロール曲「ジョニー・B・グッド」もやったし、本編最後はストーンズやロッド・スチュワートらのカヴァーで良く知られるボビー・ウォマック曲「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」。それ、ハードなパブ・ロックみたいだった。それから、ザ・フーのカヴァーで何より知られるエディ・コクランの「サマータイム・ブルース」の原形曲なんても言われるらしい(隣に座っていた増淵英紀さんが教えてくれた)ラリー・ウィリアムズが書いた「ボニー・マロニー」(ジョン・レノンも『ロックンロール』で取り上げている)もそういう感じ。というか、やはり、彼が鳴りもの入りでCBSコロムビアからデビューした60年代後半は(当時のキャッチは、「100万ドルのギタリスト」)、ブルース〜ブルージィ高濃度表現はロックの重要ヴァリエーションだったのだ。
アンコールはオープン・チューニング(と思われる)のギターをもってスライド・バーを手にしつつ、エルモア・ジェイムズの「ダスト・マイ・ブルーム」とボブ・ディランの「追憶のハイウェイ61」を披露。
<今日の飲み話>
会場であった方々と、例によって流れる。そこで、ちょっといい話を耳にしたので、書き留めておく。
3月27日に、新百合ケ丘の川崎市アートセンターというパブリックの場所で<東北関東大震災チャリティーJAZZライヴ>という催しがあったのだという。同地に住むサックス奏者の岡淳の呼びかけで急遽実現し、3月最後の日曜日の午後になされた。出演者は、竹内直、江藤良人、中村健吾、大阪昌彦、多田誠司、古野光明、近藤和彦、TOKU(3月16日、他)をはじめ、そうそうたる面々。ブルーノート東京で行なわれた同様の公演(3月28日)は大々的に報じられたが、こんな催しもあったのですね。不明を恥じる。でも、気持ちを持つ音楽家たちが集う公演は草の根的にあちこちでなされているんだろう。
40人近くのミュージシャンが集まり、入れ替わりやったとか。ヴェテラン歌手の酒井俊はソウル・フラワー・ユニオン(2011年3月26日、他)の関西淡路大震災を引き金とする「満月の夕」を歌い(持ち歌としているよう)、それは聞き手の涙を誘っていたという。そして、この催しは110万円もの義援金を集めたんだとか。素晴らしい。
プレイズ“ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア”という副題がつき、フィリー・ソウル曲に望むという出し物。ぼくは未聴だが、10年に同名のアルバムを出している。ギターを弾く本人(2007年9月19日、2009年10月6日)に加え、トロンボーン、テナー・サックス、キーボード2、ベース、ドラムという編成にてパフォーマンスする。多くの奏者たちはリフレインで少しコーラスを取ったりも。2曲では70年代後期にはワーナー・ブラザーズと契約していたAOR系自作派歌手のビル・ラバウンティ(2009年10月6日)がキーボードを弾きながらリード・ヴォーカル(そんなに上手ではない)を取る。彼はカールトンの10年作にも入っていたよう。彼は終盤、自作ヒット曲「ディス・ナイト・ウォント・ラスト・フォーエヴァー」も歌った。
「アイル・ビー・アラウンド」他、10曲ほど演奏されたフィリー・ソウル・ナンバー群には素直に誘われる。過剰な色気や仕掛けを排して、素直に<西海岸><白人>という属性であっさり紐解き直していた、という説明ができるか。カールトンの演奏は、オクターヴ奏法によるテーマ部を演奏する曲がマル。“みんな、フィリー・ソウルが好きだった”……、そう言える出しものであったのかな。
最後に、自身の代表曲「ルーム335」を短めに演奏。78年のメジャー・デビュー作のオープナー(あ、ラバウンティとは同じ時期、ワーナー・ブラザーズのレーベル・メイトであったのか)。ふと大学のころを思い出す。ぼくが入っていたのはどロック系のバンド・サークルだったが、1年先輩のフュージョン大好きギタリストがやっていたので、この曲はよく知っている。改めて聞いて、伸びやかで外にひろがる力を持つワザあり曲だと感心。とともに、そのころが彼の創造性のピークであったのか、てな残酷な事実も思い浮かべてしまった。ギター演奏はカールトンが好きだけど、曲やサウンドはリトナー(2009年9月5日、他)のほうが好き、と件の先輩は言っていたっけ。そんな彼に、ジャイムズ・ブラッド・ウルマーを聞かんかいっ、とは一度も言ったことはなかったなあ。あまりにも趣味が違いすぎて。
<今日の財布>
落として、8日目。午前中に、届いてますと、警察から電話がある。一つ隣の駅で発見されたという。入っていたお札はすべて抜かれているが(どうせなら、硬貨もとってほしかった。そのほうがすっきりするのに)、カードのたぐいは残されていた。でも、どれも新しいものに換える手続きをすませちゃっている。ほえほえ〜。
「アイル・ビー・アラウンド」他、10曲ほど演奏されたフィリー・ソウル・ナンバー群には素直に誘われる。過剰な色気や仕掛けを排して、素直に<西海岸><白人>という属性であっさり紐解き直していた、という説明ができるか。カールトンの演奏は、オクターヴ奏法によるテーマ部を演奏する曲がマル。“みんな、フィリー・ソウルが好きだった”……、そう言える出しものであったのかな。
最後に、自身の代表曲「ルーム335」を短めに演奏。78年のメジャー・デビュー作のオープナー(あ、ラバウンティとは同じ時期、ワーナー・ブラザーズのレーベル・メイトであったのか)。ふと大学のころを思い出す。ぼくが入っていたのはどロック系のバンド・サークルだったが、1年先輩のフュージョン大好きギタリストがやっていたので、この曲はよく知っている。改めて聞いて、伸びやかで外にひろがる力を持つワザあり曲だと感心。とともに、そのころが彼の創造性のピークであったのか、てな残酷な事実も思い浮かべてしまった。ギター演奏はカールトンが好きだけど、曲やサウンドはリトナー(2009年9月5日、他)のほうが好き、と件の先輩は言っていたっけ。そんな彼に、ジャイムズ・ブラッド・ウルマーを聞かんかいっ、とは一度も言ったことはなかったなあ。あまりにも趣味が違いすぎて。
<今日の財布>
落として、8日目。午前中に、届いてますと、警察から電話がある。一つ隣の駅で発見されたという。入っていたお札はすべて抜かれているが(どうせなら、硬貨もとってほしかった。そのほうがすっきりするのに)、カードのたぐいは残されていた。でも、どれも新しいものに換える手続きをすませちゃっている。ほえほえ〜。
ハクエイ・キム“トライソニーク”
2011年4月10日 音楽 イケメンのジャズ・ピアニスト(2011年2月19日)のワーキング・バンド(2010年11月26日)のCDリリースをフォロウする公演。というわけで、90分を超えるパフォーマンスは全部、セルフ・タイトルのグループ・デビュー作からだったのかな。やっぱり、三者の綺麗な絡みっともに、ほつれた領域に何気に入って行く様が美しい。決して、ジャズ・ビギナーに優しい表現ではない。オーネット・コールマンのカヴァーもあり。うーぬ、ライヴ・リポートはどのように書くと、その演奏の核心に踏み込んだものとなるか。すこし、思案しよう。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。
<今日は>
午前中から、車でいろいろ動く。やはり、交通量は少なめだな。昼過ぎ、高円寺で知人らとお昼ご飯を食べる。飲み屋だらけ、すんごく久しぶりに行ったが、ある意味ファンキーな街ね。やはり、話題は原発関連となる。19年東京に住んでいるフランス人は本国に戻ろうとも思わなかったそう。人、それぞれ。フランスの原発事情について、知識を得る。で、一緒に反原発デモの集合場所となっている公園に行く。わー、人がいっぱい。なんか、フジ・ロックのフィールド・オブ・ヘヴンがちょい入った、お祭りみたいだと思った。福島県を気遣うカードを持った人も散見される。福島県人としてありがたい。が、その喧噪を少し味わっただけで、六本木へ。その後は、花見会に合流。日が落ちると、少し肌寒い。東京は、今日までが見頃か。けっきょく、今年の花見は2度ほど。来年は5回ぐらいはしたいけど。
<今日は>
午前中から、車でいろいろ動く。やはり、交通量は少なめだな。昼過ぎ、高円寺で知人らとお昼ご飯を食べる。飲み屋だらけ、すんごく久しぶりに行ったが、ある意味ファンキーな街ね。やはり、話題は原発関連となる。19年東京に住んでいるフランス人は本国に戻ろうとも思わなかったそう。人、それぞれ。フランスの原発事情について、知識を得る。で、一緒に反原発デモの集合場所となっている公園に行く。わー、人がいっぱい。なんか、フジ・ロックのフィールド・オブ・ヘヴンがちょい入った、お祭りみたいだと思った。福島県を気遣うカードを持った人も散見される。福島県人としてありがたい。が、その喧噪を少し味わっただけで、六本木へ。その後は、花見会に合流。日が落ちると、少し肌寒い。東京は、今日までが見頃か。けっきょく、今年の花見は2度ほど。来年は5回ぐらいはしたいけど。